2023年12月31日日曜日

説教メッセージ 20231231

先週は父の葬儀で礼拝メッセージは録画対応にしたため、掲載できませんでした。そのうちYoutube画像も掲載します。明日は、今年最後の礼拝。復活教会で礼拝担当しYouTubeでの中継も致します。いずれかでお会いしましょう!Youtube見てくださる方は、チャンネル登録していただけると配信しやすくなり、また、ご覧いただきやすくなります。よろしくお願いいたします。


聖書の言葉 

ルカ 2:22~40 (新103)

22さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。 23それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。 24また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。

25そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。 26そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。 27シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。 28シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。

29「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。30わたしはこの目であなたの救いを見たからです。31これは万民のために整えてくださった救いで、32異邦人を照らす啓示の光、

あなたの民イスラエルの誉れです。」

33父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。 34シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 35――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」

36また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、 37夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、 38そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。

39親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。 40幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。



説教「約束の実現を見るとき」徳弘浩隆牧師

1、私の目が黒いうちは…

「私の目が黒いうちは…」という言い回しがあります。目が白くなるというのは、死んでしまった時の状況ですから、「自分が生きている間は…」という事になりますね。

「私の生きている間は、決して○○をさせない。赦さない。」とか、逆に「○○をするから安心しなさい」とか、そういうときに使われるいい方ですね。

逆にこんな言い方もあります。「ああ、なんて幸せなんだ。もう、いつ死んでもいい!」と。

そんな生き方ができればいいなと思います。あるいは、そんな至福の時を迎えることができるなら、どんなにいいだろうと、毎日をあくせく生きているときに思う事があります。

今日の聖書は、そんな気持ちの言葉が残されています。どんな時のどんな気持ちだったのでしょうか?一緒に聖書を見ていきましょう。

2,聖書 

今日はルカによる福音書からです。クリスマスの直後の出来事。イエス様がベツレヘムでお生まれになって、名前が付けられました。そして、今日の聖書によると、聖書の律法の定めに従って、エルサレムに行き神殿に行ったのです。

律法の定めでは、生まれてから8日目に割礼を受けて名前を付けられます。男の子は産婦の清めの期間が過ぎた40日目に捧げ、聖別され、捧げものをすることになっていました。これらはレビ記12章や、出エジプト記13章2節、民数記18章15-16節に記され残されているので、今でも確認することができます。

その時に、神殿にいたシメオンという正しく信仰があつく聖霊がとどまっていたとされる人がいました。「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」とお告げを受けていたというのです。

そのシメオンが、神殿の境内で幼子イエス様を見つけて、腕に抱いて祈ったのです。シメオンの賛歌と言われています。

その時の言葉がまさに「ああ、もういつ死んでもいい」というか、メシアを見るまで死なないといわれていたので、「ああ、これでようやく安心して死ねる」ともいう言葉だったのです。

次に登場するのが女預言者アンナです。彼女も神殿にを離れずに昼も夜も神様に仕えていたのですが、その光景を見て、加わります。

3,振り返り 

さて、私たちの人生はどうでしょうか?

「ああ、もういつ死んでもいい。」という気持ちでしょうか?「いあ、あれもこれもやらないといけない。まだ、やり残したことがある」という事がたくさんあるでしょう。恨み言や、かなわない夢を心に抱いたまま、まだ安心できない日々を過ごすこともあります。

どうして今日の聖書に二人は、安心したのでしょうか?それは、神様の救いの約束を、確かにその目で見たからです。「だから、ほかの事はもうどうでもいい。やり残したことも神様にお任せできる。」「恨みや悲しみや苦しみや、実現していない自分の人生のいろいろな事もあるけれど、神様が救い主をお与えくださったから、もう、全て解決してくださる。「だから、もういい」という安心でした。私たちも実は、先週そんなクリスマスを迎えたはずです。

4,勧め 

さて、この二人がその時何をしたかも大切なことです。シメオンは、神を賛美し、彼らを祝福しました。それがシメオンの賛歌です。この「賛美」と「祝福」は実は同じ「祝福」という意味の言葉だと時折指摘されます。神様を祝福するのは「おこがましい」ので「賛美」となりますが、実は「祝福」しているのです。祝福とは「すばらしいねぇ!」「よかったねぇ!」そして「ずっとそれが続きますように」という気持ちかもしれません。私たちの賛美歌もそんな気持ちで歌うといいかもしれません。

そしてアンナも神を賛美して、救いを待ち望んでいる人々皆にこのことを話した、のです。つまり、神様を賛美しただけではなくて、人々に伝え知らしめたのが大切でしょう。高齢でも年齢は関係ないみたいですね。喜びや、安心を自分だけのものにして去って行ったのではありません。幼子のことを皆に伝えた、つまり、「伝道」をしたのです。

わたしたちも、一年を振り返り、「ああ、ようやくクリスマスを迎えた」ですが、そこでとどまっては残念です。「救い主にあったから、もう安心していい」「何もかも神様にお任せしよう!」という気持ちを確認してかみしめましょう。そして、その次は、「ねえ、イエス様のことを知ってみない?」「この方は、本当の愛とゆるしの神様のことを伝えてくれたよ。だから私も安心して、平和に生きていけているよ!」と伝える人になれたらいいなと思います。

宣教研修をしたDavid神学生も1月11-12日に牧師になる最後の試験があります。かれも、こんなことを経験しながら、伝道者になっていく道を選んだのでしょう。どうぞ、祈ってください。

そして、私たちもそれぞれ、立場や方法は違っても、神様の愛を伝え、もっとたくさんの人と教会に集えるように神様に用いられていきましょう。



牧師コラム・ ヌンク・ディミティス 

ヌンク・ディミティス(ラテン語: Nunc dimittis、「今こそ主よ、僕を去らせたまわん」)、またはシメオンの賛歌、シメオンのカンティクム(ラテン語: Canticum Simeonis)は、キリスト教聖歌のカンティクムの一つ。カトリック教会、聖公会をはじめとする西方教会において、聖務日課の「終課」や「夕の祈り」などの中で歌われる。正教会においては聖抱神者シメオンの祝文と呼ばれ、晩課において必ず詠まれるか歌われる。(Wikipediaより)


シメオンは幼子イエスを胸に抱き、神を讃美していわゆるシメオンの讃歌、ラテン語での初めの二語をとって「ヌンク・ディミティス」と呼ばれる歌を言った。「僕を安らかに去らせてくださいます」というのは、約束が果たされたので、安心してこの世を去ることができるというほどの意味である。幼子イエスの中に救いを見た。それはイスラエルのみでなく、万民のための救いの光である。中世においてこの歌は一日の最後の晩祷で歌われた。そして宗教改革の時に、多くの所で礼拝の最後に歌われるようになった。ルーテル教会の礼拝はその伝統を引き継いでいる。(ルーテル教会 神学校教授 故石居正巳牧師の説明より)


2023年12月16日土曜日

説教メッセージ 20231217

ブラジルにいたころは停電が時々ありましたから、慣れました。みんなも慣れたもので、誰も交通整理をしなくても、お互いに車の流れを見ながら交差点も問題なしでした。でも、 日本では最近あまりないので、信号が消えたりすると大変。電機や明かりのありがたさがわかります。今日の聖書は、「光」についてです。暗闇には光はありがたいもの。クリスマスと関係がある話です。今日は復活教会で礼拝担当をします。YouTube中継もします。お待ちしています!

聖書の言葉

ヨハネ 1: 6~ 8 & 19~28 (新163)

6神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。 7彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 8彼は光ではなく、光について証しをするために来た。  /中略/

19さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、 20彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。 21彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。 22そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」 23ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。

「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」

24遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。 25彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、 26ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。 27その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」 28これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。



説教「まことの光・太陽と月の違い」徳弘浩隆牧師

1、暗闇の体験と、それへの備え…

今の日本では停電はそれほど日常的なことではなくなりました。大きな地震や台風の時に停電が起こり、慌てます。私はブラジルに十年いましたから、あたりが急に真っ暗になるという停電にも慣れました。信号が付いていないなんて言うのもよくあることで、皆慣れています。ブラジルに行った年の11月にブラジルでも例を見ない大規模な停電があり、それも体験しました。9つの州が停電になりました。

私はブラジルでの教会の活動とともに、その生活をインターネット上にブログで紹介していましたから、電気が復旧した時に早速それもレポートしました。すると、日本のYahooのニュースにもCNNやAFPの下の方に「ブラジル・大規模停電! ブログ。ブラジル宣教師便り」と掲載されて、ブログのアクセスは一日で1,000件以上に増えたのを覚えています。


その時から、停電時の対策として、手回しで発電してライトがつき携帯電話に充電することもできる照明を買いました。それと、停電したら自動的に明かりがつくコンセントにさしておく常備灯も買い、住居や教会の避難経路にも設置しました。帰国しても、災害に備えて充電式の常備燈や実はプロパンガス発電機も買って備えています。パエリャを作るコンロの2つのボンベは繋ぎ変えると長持ちする発電機になるのです。教会が防災や復興の拠点になればと思ってのことです。それほど電気や光は大切ですね。

さて、今日の聖書の言葉は、この、私たちにとって大切な「光」について語られます。一緒に神様の声を聞いていきましょう。

2,聖書 

今年はマルコによる福音書を読む年が始まりましたが、今日はヨハネによる福音書です。話の内容は先週のマルコの最初とほぼ同じで、キリストを迎える準備をする洗礼者ヨハネの話です。

ではなぜわざわざ同じエピソードが読まれるのかということが大切です。「クリスマス前によく祈って、悔い改めて、もう一度心にキリストをお迎えしましょう」ということですが、その念押しなのか、いや、違うとしたら、先週のマルコにはなく今日のヨハネにある違いを見ることが大切でしょう。そんな読み方をしてもよいと思います。

そこで出てくるのが、「光」という言葉です。

ヨハネによる福音書はイエス様の誕生物語がありません。その代わりに、旧約聖書の創世記の天地創造を思い出させる書き出しで始まっています。「はじめに言(ことば)があった」というのです。言(ことば)によりすべてのものが創られ、そのうちに命があり、それは夜を照らす光だった、と続けられます。

イエス様がヨセフとマリアという人間の夫婦のもとに生まれたけれど奇跡的な誕生であったというマタイやルカと違って、ヨハネは天地創造にまでさかのぼります。神の言葉によって創られた天地万物、そしてそのことばは夜を照らす光であり、いま、肉となって私たちの間に宿られた、とイエス様の誕生を別の角度から説明しているのです。

そんな、イエスキリストを証しするために、準備するために、荒野で人々に悔い改めを迫っていたのが洗礼者ヨハネでした。その偉大な働きに人々は、このひとこそメシア・キリストかと思い、期待し、そして問いました。しかし彼はそれを否定します。「私はメシアではない、単なる荒野で人々の悔い改めを叫ぶ声なのだ」と。福音書記者ヨハネも、「彼は光ではなく光について証しをするために来た」ものだと、説明しています。

3,振り返り 

私たちは、荒野で、つまり日常の一見幸せな生き方から離れた苦労や苦しみの場所にもいます。命や本当の平和について考えさせられています。そこで、声を聞き取っているでしょうか?それは、「悔い改めよ」という声です。わかりやすく言うと、「今のままの生き方でよいですか?」という声です。「人と人はねたみ、裏切り、うそをつき、争い、戦争がはじまり、命は奪われ、苦しんでいる今のままでいいですか?」という声です。「何かを、やり直そうじゃないか」という声、それが「悔い改めを迫る声」です。毎日の難しい問題ばかり報じるニュースは、私には悔い改めを迫る声とも聞こえます。この声が指し示すのが、暗闇の中にある「光」です。光は、足元を照らし道を示し、人の顔を照らしその気持ちをわからせてくれ、自分の心の闇をも照らして自己中心の自分の罪の心を知らせてくれます。科学が進歩して暗闇が征服された夜も明るい世界でも、常備等や発電機を準備していても、心の中の闇を照らし明るく楽しい生き方を保証してくれることはありません。

神様の本当の光に照らされて、正しい生き方を見つめ、生きていくことを促されています。

荒野での苦しみの中で声を聴き分け、闇に現れた光を見出すこと、それがクリスマスです。

4,勧め 

私たちも、その光を受けて新しい生き方を始めましょう。その時、自分の周りから、本当の神の愛を教えてくれたキリストの愛が始まります。迷いや裏切りや苦しみから解き放たれて、安心と相互の信頼と自信と希望の生活が始まるのです。それが自分から、自分の人間関係から、社会や世界に広がるとき、平和は広がっていくのです。

私は光ではありません。光を証しするもの、せめて、光を反射して世を照らすものにはなれるかもしれません。太陽は自ら光を発しますが、夜道を照らす月はそれを反射しているだけです。ここにも大切な教訓があります。「自分が正しい。あの人は間違っている」と思う時、自分自身が光だと勘違いするとき、世界は、宗教ですら、争いを始めます。

まことの光、本当の命と愛の源である神の光、イエス・キリストについて行くときに、月のように光を反射して周りの人の役に立つ生き方が始められるのです。戦火の中にあるパレスチナのルーテル教会の友人の牧師ミトリ師は、先日のネット上で世界中から700人が参加した集会で、「こんな世に光をともしましょう」と、ろうそくに火をつけて会を始めました。


愛と和解と希望の火をもって、キリストの光を反射させながら生きる生き方を、私たちも始めましょう。

 


牧師コラム・ 今日の写真・クリスマスのイメージ 

昨今話題の人工知能・AIですが、可能性や危険性も知ったうえで共存するために時々試してみています。

しばらく新規ユーザー登録が止まっていましたが、設備の増強が済んだとのことで再開しました。早速別の有料アカウントを取って試してみています。有料プランの方が最新の情報まで学習しているし、絵も描いてくれるというので、いつでも解約できるのでやってみました。

長距離運転中の眠気覚ましのおしゃべり相手にはまだまだでした。調べ物や絵を描くのはだいぶ上手なようです。試しに描いてもらいました。

お題は、「日本人向けのクリスマスポスターを描いて」です。「えー?」という突っ込みどころ満載ですが、面白い絵を描いてくれます。ほかの国向けのもやってみましたが、まずは日本人向けのものは、こんな感じでした。AIも平和利用を願います。


2023年12月10日日曜日

説教メッセージ 20231210

 昨日は教区の青年と外国メンバーのクリスマス会が開かれました。日本の青年に加え、ブラジルと、インドネシア、ベトナム、ボリビア、ナイジェリアの出身や関係のメンバーが集まりました。3人は初めて来てくれた方々で、少ないながらもうれしい集会でした。来週は子供のクリスマス会、そしてその次は教会でみんなのクリスマスを24日に迎える予定です。さて、クリスマスの準備は飾りつけやイベントではありません。何が一番大切なのでしょうか?一緒に聖書の言葉を聞きましょう。今日は高蔵寺教会で礼拝担当をします。YouTubeでも中継します。お待ちしています!

 

聖書 マルコ 1: 1~ 8 (新61)

1神の子イエス・キリストの福音の初め。2預言者イザヤの書にこう書いてある。

「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。3荒れ野で叫ぶ者の声がする。

『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」

そのとおり、 4洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。 5ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。 6ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。 7彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。 8わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

説教「道を備えよ!年度末の道路工事?」徳弘浩隆牧師

1、道路工事の風景…

待降節も第二週になりました。アドベントクランツには2本目のロウソクに火がともり、クリスマスの訪れを告げています。

昨日は、いち早く教区の青年と外国メンバーのクリスマス会が開かれました。昔のように教区の他教会のメンバーはまだ集まるほどの勢いがなく、もう少し時間がかかるようです。しかし、私たちの2教会の関係で、スタッフやお手伝い、そして青年や外国メンバーが集まり、楽しい集会となりました。会場となった高蔵寺教会の皆さんに感謝します。日本の青年に加え、ブラジルと、インドネシア、ベトナム、ボリビア、ナイジェリアの出身や関係のメンバーが集まりました。3人は初めて来てくれた方々で、少ないながらもうれしい集会でした。来週は子供のクリスマス会、そしてその次は教会でみんなのクリスマスを24日に迎える予定です。

今日の聖書は、マルコによる福音書の最初から読まれました。キリストの到来を預言しているイザヤ書の預言と、その実現としての洗礼者ヨハネの活躍についてのところです。

「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」ということがば印象的です。

そこでいつも思い出すのが、年度末の道路工事です。最近はずいぶん減ったそうですが、会計年度の終わりに予算を消化しないと次年度予算が取れないとか、年度内に終了するはずの工事がうまくいかなくて3月ころはあちこちで慌てたように道路工事がある、というのも季節の風物詩とさえなっていました。



しかし、こんな写真もブラジルで有名になりました。陥没後たっての二日間で復旧した福岡の道路工事は世界で驚かれたのです。そして、それと並べて、自嘲的な写真がブラジルのSNSで話題にもなりました。「日本はああなのに、ブラジルのボクの地区はこうだ」という具合です。その写真は、福岡の道路陥没と二日後の復旧の写真、それとともに、1991年の写真と2015年のブラジルの道の写真です。25年ほどたつのに、道路の穴は修理されていないよ、という写真でした。


今どきは、写真の加工や合成もできますから、そのまま信用してはいけませんが、みんなどこかで納得し、苦笑いをする写真でした。その国の良くある課題を表していたからです。

さて、今日の聖書は、私たちに何を呼び掛け、問いかけているのでしょうか?クリスマスの準備、キリストを迎える準備はどのように、いつ、するべきでしょうか?一緒に神様の声を聞いていきましょう。

2,聖書 

今年はマルコによる福音書を読む都市が始まりましたから、今日はその最初の部分が読まれました。そしてそれは、「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉から始まり、まずその予言と、その実現として起こった出来事を伝えています。

教会の新しい一年が、キリストの誕生、つまりクリスマスから始まるわけですが、その日からではなくて、その準備から始まることを意味しています。そして、その預言のとおり「準備をする人」が登場します。それが、洗礼者ヨハネという人だったという具合です。

 預言は、等jの彼らの聖書、つまり旧約聖書のイザヤ書とマラキ書から引用されています。イザヤ書では訳された方が来る前に、「先に使者」がつかわされ、その使命は「道をまっすぐにする」ことでした。そして、その方はどんないでたちで来るかということではマラキ書の預言の通り、ヨハネは「の毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた」と説明します。

 「預言通り、約束されたいたキリストは来られる」ということと、その準備をすべきことを伝えています。さて、その準備とは何でしょうか?それは、ヨハネは何をしていたでしょうか?という問いとその答えで分かります。

 ヨハネは、「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」と書かれています。これが、クリスマス前の今の期間の私たちのすべき準備だということになります。

3,振り返り 

さて、私たちはどうでしょうか?クリスマスの準備をして教会も奇麗になりました。でも、神学校でお世話になった石井正巳先生はこういわれていました。「待降節は、降誕『日』を迎える備えをする時ではない。来臨する『お方」を迎える準備の期間である」と。

「罪の悔い改め」は十分にできているでしょうか?「悔い改める」とは、「ごめんなさい、ごめんなさい」と何度も謝ることではありません。「改める」ことも求められています。旧約聖書のヘブライ語では、「帰ってきなさい」という単純な言葉がそのように訳し分けられています。

わたしたちの現状を見てみましょう。毎日のニュースで知ることは、人間の罪深さです。もちろん、心温まるニュースもありますが、聞いているだけで気が滅入るような話が、次々に出てきます。

犯罪、虐待、争い、強盗、組織犯罪、そして戦争です。だれもが、「神がいるならどうしてこんなことが続くのか!?」と叫びたくなります。しかし神の答えはこうでしょう。「あなたがいるのに、どうしてこれが止められないのか。改められないのか」と。

神の言葉で一瞬にして解決して変えてもらうのではなくて、人は知恵と愛を持って生きるように想像されています。私たちは、それの使い方を間違えてきたのです。それが、人類の罪です。

そこから悔い改めて、新しい生き方をするために、神は奇蹟で一方的にそれを解決するのではなく、人がそれを知り自ら方向を変えることを願い、準備してこられたのです。そこに人間がロボットではない、自由と知恵と愛を持った存在として創造された理由があります。そのように、自分を見つめ、悔い改めるときを持ちましょう。毎日の戦争や犯罪の報道は、それをわたしたちの心に迫っているとも言えます。

4,勧め 

先週案内をした、ベツレヘムのルーテル教会の牧師のインターネット上の平和と連帯のイベントに参加しました。全世界から700人ほどの参加でした。このがれきや、人の苦しみの姿は、人類の罪深さを訴えます。そしてそれは、私の心の中にもある罪深さを思い起こさせます。

憎しみの連鎖ではなく、神を愛し、人を愛し、敵をも愛すことを教え、そのように生き、死なれた方は、本当のゆるしと神の愛を地上に示されました。

この方を思い起こしながら、私たちも、もう一度、悔い改めと、生まれ変わりを経験しなければ、何も変わりません。人類は世代を超えて、この罪と悔い改めの連続を繰り返し、同じ人類の罪と向き合っています。それは、いつかの世代で完全に解決して、その世代以降は問題がすべて解決した理想世界が来るのではなくて、いつもいつも、それを繰り返す必要があり、それが私たち一人一人の人生なのかもしれません。

しかし、神は知恵を愛をくださっていますから、七転八倒しながら、少しずつ社会は変革していく道を歩めるのかもしれません。

そのとき神様は私たちに尋ねるでしょう。「あなたがいるのに、どうしてこれが止められないのか。改められないのか」と。本当の愛とゆるしと和解の生活が、個人の生活で出来ていないなら、世界も変えられません。神様に責任転嫁してはいけません。私たちに、悔い改めと新し生き方を始めさせていただけるよう、祈りながらこの日々を過ごしましょう。 


牧師コラム・ 今日の写真・平和を願う 3 

先週案内した、ベツレヘムのルーテル教会の牧師、ミトリ・ラヘブ牧師の企画したイベントが開かれました。全編英語ですが、世界各地からの連帯のメッセージややり取り、音楽家の音楽が披露されました。日本からも私の知り合いも登場しました。ネットでご覧になれます。

以下のリンクから、YouTubeに誘導され、そのまま見ることができます。どうぞ。




2023年11月26日日曜日

 

聖書の言葉 マタイ 25:31~46 (新50)

31「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。 32そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、 33羊を右に、山羊を左に置く。 34そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。 35お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 36裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』 37すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。 38いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。 39いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』 40そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

41それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。 42お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、 43旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』 44すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』 45そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』 46こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」




説教「あの時の あの人は…」徳弘浩隆牧師

1、毎日、いろんな人と「会いますね」

今日は、教会のカレンダーでは一年の最後の日ですね。そして、聖書は、最後の審判・終わりの日に神様から裁かれる日のことが書かれているところです。

裁かれるというと、罰を受ける日のようですが、罰を受けずに褒められることもあります。試験だと、合格するか、失敗するかという分かれ目の日でもあるということです。

試験ならやり直しもできますし、仕事だって途中で変わることもできます。失敗しても、やり直していくことができますから、安心していいと思います。でも、人生は?聖書はどう教えているのでしょうか?

2,聖書 

今週の聖書は、今まで読んできた話の続きです。「10人のおとめ」の話があり、主人のお金を任されたしもべたちのタラントンの話がありました。それはある意味、女性向けにわかりやすい話、そのあと男性向けにわかりやすい話ともいえるでしょう。その続きが今日の話で、全ての人に当てはまるまとめの話と言えるかもしれません。

この後、聖書が告げるイエスキリストのご生涯は、十字架に向かっていかれますから、その前のまとめと覚悟とそれに立った勧めのお話と聞くことができるでしょう。

すべての人は、終わりの日に、神のみ前で裁かれるのだという具合です。その合否判定の基準、秤は何でしょうか?

それは、「神を愛し、隣人を自分のように愛せよ」という、旧約からの神様の一貫した教えに基づいていた生き方をしていたかどうかということです。「天地創造の時から約束されている国を受け継ぐ」という言い方で、それがあらわされています。

神を愛し、隣人を愛するのは、心の中だけではありません。心が伴わない行いだけでもありません。それは、相手が神様なら愛するけれど、嫌いなこの人は愛さない、とかいう人の目の判断ができない状況をイエスキリストは今日のたとえで出されているからです。

「こんな人は、放っておこう」「自業自得だから」とか、「知らない人だし」とかいう理由は成り立ちません。「こんな小さな人、誰からも相手にされないような、見向きもされないような人にしたことは、私にしてくれたのと同じなのだ」と言われるからです。

「神を愛し、隣人を愛する」なら、誰に対してでも寄り添い、愛の行いをするはずだというのです。

そして実は、イエスキリストの地上でのご生涯は、この後、「敵をも愛する」「神に見捨てられるような状況でも神を愛する」という十字架に進んでいきます。そこまでして初めて、罪深い私たちは、本当の神の愛と自分の罪深さを思い知らされたのです。その十字架と復活に従う生き方を通して、ゆるし救われる新しい命をいただくことになりました。それがキリストによる救い、新しい命、天の国を受け継いだものの生き方ということになります。

3,振り返り 

今日の聖書を読むと、「あ、だったら、あのときのあの人は…」と思いますね。あの人に良くして上げたから、きっと神様は覚えてくれてるだろう。あの時に助けてあげたあの人は、キリストだったかもしれない。助けてあげておいて、よかった。と思うと安心しますね。

でも、それで終わりではありません。「ということは…」と思い出すこともあるからです。反対のケースですね。「ということは、あの時、いじわるしたあの人は。あの時赦してあげなかったあの人は…。あの人がキリストだったとしたら、どうしよう!?」という具合です。そうなると、「いや、あれには訳があったんです。」「ちょうど嫌なことがあった後で、機嫌が悪かったんです。お金もなかったし、人を助けたり赦したりする余裕は財布にも心にもありませんでした。赦してください」とキリストに言わねばならないかもしれません。

最後の審判の日には、今までの人生のすべてをご存じの方が、それらを吟味されるというのです。

何人と出会い、何人と仲良くなり、何人に好かれ、何人に嫌われただろうか。何人に良くして上げ、何人にひどいことをしただろうか?

今日は、召天者を覚えて祈る礼拝でもあります。そして、こども祝福礼拝でもあります。小さな子供の命とこれからの一生の祝福を祈り、すでに天国にお送りした人のことを思い出しながら途に礼拝をします。その中間にいるのが私たち大人の一人一人の、今の人生です。

4,勧め 

一年の終わりに際して、そんなことを振り返り、悔い改めと、新しい一年を見つめましょう。

人助けは大切ですが難しいことでもあります。目の前の一時的な助けをすることが逆にその人の自立や自由な生き方を妨げることもあるからです。心の開放や赦しや和解、そんな神様との人生の関係を回復しなければ本当の救いにはなりません。また、個人の限界もありますから、お助けをしながら、行政や福祉におつなぎして、生活再建や持続可能な人生に載せて差し上げることも大切でしょう。

失敗しても、生まれ変わることができます。それが、洗礼です。でも、そのあとも何度も失敗をし、罪深い生き方をしてきた。それでも大丈夫です。何度でも悔い改め、何度でも生まれ変わることができます。一年ごとの教会のカレンダーのサイクルがあるのは救いです。それが終わるごとに、一年を振り返り、やり直しが許されているからです。そして、毎週礼拝で、罪の告白をして赦していただき、聖書の言葉を聞き、祝福されて教会から出てゆきます。このサイクルも救いです。そして聖書の言葉によれば、私たちは「日々新たにされる」のです。

「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」コリントの信徒への手紙二の4章16節の言葉です。神様と一緒に生きていきましょう。

 


牧師コラム・ 今日の写真・平和を願う 


西教区の西中国地区の教会の集会に講師として呼ばれ、ブラジル伝道のことや、帰国後の外国人伝道や彼らとの教会の宣教の働きをお話ししてきました。帰りに広島教会によって、教会や幼稚園行事で奉仕する時間もいただきました。「日本に来たからにはぜひ一度広島に行かねばと思っていた」と、ブラジルとインドネシアのメンバーも自費で参加してくれました。彼らと平和公園で写真を撮り、18年前の写真を思い出しました。

同年で友人のパレスチナのベツレヘムのルーテル教会牧師を呼んでお連れした時の写真です。早速彼に、今回の写真と「今日は、こんな顔ぶれであの場所に行ったよ。パレスチナの本当の平和を祈ってるよ!」とインドネシアの歴史にも触れながらメッセージを送りました。

あの時の写真には原爆投下をした国・アメリカのルーテル教会牧師、紛争が続くパレスチナの牧師、そしてわたしたちです。今回の写真は、私と広島の牧師、それに遠い地に行った移民の子孫の日系ブラジル人、そしてインドネシアの姉妹。インドネシアは日本に原爆が落ちて終戦があり、それで独立したという歴史を持っていて、彼らにも大切な日・大切な場所です。でも、今私たちは互いに許し許され、教会の家族として生きています。同じキリストの体の一部分です。

ミトリ牧師からすぐに返事がきました。「Wow.大好きな二人の牧師!実は、来週日本の音楽家と平和キャンペーンのネット上のイベントをするんだ。ぜひ先生も来てくれ!」と。


2023年11月19日日曜日

礼拝メッセージ 説教 20231119

先週、外国メンバーが卵を畑に「植え」ました。「ちょっと植えてきます」と。私はびっくりしました。冷蔵庫にあった卵が少し古いかなと心配になり、もったいないけれど捨てることにしたのですが、ゴミ箱や流しに捨てるのではなくて、「畑に植えたらいい」と言いだして、行ってくれたのです。肥料の代わりになるからという事で。「畑から目が出てヒヨコが生まれたらどうしよう?」と、4か国の外国人メンバー楽しく大笑いしました。今日の聖書は、お金を土に埋めた人の話です。お金の木が育ってお金が生(な)ると思ったのでしょうか?どんなことでしょうか? 今日は復活教会で礼拝担当します。高蔵寺教会では代読してくださいます。Youtube配信も予定しています。お会いしましょう!

聖書の言葉

マタイ 25:14~30 (新49) 

14「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。 15それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、 16五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。 17同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。 18しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。 

19さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。 20まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』 21主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』 22次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』 23主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』 24ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、 25恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』 26主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。 27それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。 28さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。

 29だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。 30この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」



説教「使えば使うほど 増えるものってなに?」徳弘浩隆牧師

1、卵の芽が出る?

先週、外国メンバーが卵を畑に「植え」ました。「ちょっと植えてきます」と。私はびっくりしました。冷蔵庫にあった卵が少し古いかなと心配になり、もったいないけれど捨てることにしたのですが、ゴミ箱や流しに捨てるのではなくて、「畑に植えたらいい」と言いだして、行ってくれたのです。最初は意味が分からなかったのですが、畑に「いける」というか、埋めるという事でした。肥料の代わりになるからという事で。「なるほど、まだ自然がたくさんあるアジア国で育った若者は違うな」と思わされましたが、「畑から目が出てヒヨコが生まれたらどうしよう?」と、4か国の外国人メンバー楽しく大笑いしました。

今日の聖書は、お金を土に埋めた人の話です。お金の木が育ってお金が生(な)ると思ったのでしょうか?どんなことでしょうか?

2,聖書 

今週も先週に続いて、「天の国」のたとえです。そして、マタイの福音書終盤の25章に出てくるこの話は、教会のカレンダーが一年の最後に向かっている今日読まれるなかで、先週同様、一年の終わり、世の終わり、いつか来るこの世での自分の人生の終わりも見つめることになります。

先週は油が十分にある5人と切れた5人の女性の結婚式の時のたとえでした。ただ待つのではなくて、目を覚まして、そして予備の油も準備してという事でした。予備の油は、聖書とも、聖霊とも、信仰の友とも理解して良いかもしれないと、読みました。

今日は、それぞれ違った金額のお金を主人から預かった3人の僕たちのその後の行動とその結果が話されます。続きもののたとえ話の構成ですが、結婚式での女性たち、そして仕事を任された男性と思われる僕たちという、自分に置き換えてわかりやすい設定で話をされるイエス様のお話は、聞いているものを「はっ」とさせたことでしょう。

5タラントン、2タラントン、そして1タラントンの財産を預けられた3人でした。それぞれ、商売をして二倍に増やした最初の二人は褒められて、より多くのものを任されました。しかし、1タラントンあずかった人は穴を掘って土に埋めたのです。それは、隠すためでした。彼は、大切に保管していた1タラントンを見せ、「減らしていません。大切に保管していましたが」と言いますが、叱られてしまいます。そしてそれは取り上げられ、10タラントン持っているものに与えられたのです。そして、主人にはこう言われてしまいます。「怠け者の悪い僕だ」「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。」

3,振り返り 

このたとえ話はどんな意味でしょうか?私たちも、一生懸命働いて財産を増やせという事でしょうか?教会でもバザーをたくさんして、お金儲けをせよという事でしょうか?

そうではありません。「天の国のたとえ」だからです。神様がご支配される本当の世界は、こういうところだ、と。気を付けるべきことはこれらの事柄でしょう。

1) それぞれ、違う金額が預けられた

2) それは、「それぞれの力に応じて」です

3) 合計額や利益率で褒めたり罰したのではない

4) なにも活用しなかったことが問題だった

と読んでいくことが大切でしょう。

 そして、これを聞く私たちにはこう問いかけられています。「あなたは、何をいくら預かりましたか?」「それを活かしていますか?」と。または、「それを自分だけのものにして使ってしまっていませんか?」とも聞かれているかもしれません。

  私たちは、それぞれ生まれも生きてきた道のりも違います。しかし、それぞれに合わせて、神様から頂いた、「預けられた賜物」があります。そう、タラントンは、古代ギリシャの重さの単位ですが、通貨の単位ともされ、そこから、一人一人の「才能」という意味にも使われるようになりました。

 それは絶対的な秤で量を測るものではなくて、それぞれの違った才能、そしてそれぞれの人生に合わせて預かったものです。それそのものを比較しても仕方ありません。違ってもいいのですが、それぞれ、神様から頂いた「才能」「賜物」なのです。

 その量を比較したり、特質や、注目度を比較しても仕方ありません。大切なことは、それを自分だけのものにしていないかという事です。それを、かくして、または見つけられずに、じっとしたままでいるのではないか?という事です。

 神様はそれぞれに、その人にふさわしい賜物をお与えになった。それを活かしているでしょうか?人のためにも活用しているでしょうか?それが生かされ、生かしあい、与えあい、増えていくところ。それが、天の国、神様がご支配される天の国なのだ、という事です。

 教会のミニバザーやフェスタ、それぞれ得手不得手もありますし、国籍や言葉や文化さえ違う事もありますが、それらを持ち寄って、与えあい、分かち合うときに、それは大きくなってそれぞれの心や人生を豊かにします。そんなことも、復活教会や高蔵寺教会のミニバザーやフェスタで体験した大きな恵みです。神様から預かったそれは、使えば使うほど、学び合い、補い合い、相互作用で膨らみ、増えていくのだと、私は感じます。

4,勧め 

やがて来る終わりの日に、どんな人生だったかを振り返らざるを得ないときが一人一人に来ます。最後のその時に、人生に一度だけ来るその時に後悔しても遅すぎるでしょう。だから、一年の終わりのこの季節に、世の終わり、自分の人生の終わりを見つめることが大切です。まだ大丈夫。神様といっしょに生きましょう。

 


牧師コラム・ 「今日の写真」  

今週は難しいコラムから、ちょっと、いままでの写真コーナーに戻ります。

教区長をしていていろんな教会や街も訪ねます。空き時間にショッピングセンターでトイレも借りて、コーヒーも飲んで一休み。窓から外の景色を見て、そして立ち去ろうとしたときに見つけたのがこの写真にある、こども用のいすでした。

機能を重視したつくりだけではなくて、かわいらしいデザインで、思わず写真を撮りました。丸い顔と、四角い顔の違いもあって、それもいいですね。ある人に見せたら、「三角の顔はなかったですか?それは椅子として強度や使い勝手が悪いのでしょうかねえ」と。三角もあればもっとかわいくて良かったけど、串刺しにしたら「おでん」みたいでもありますね。

「みんな違って、みんないい」という言葉があります。画一化されて生きにくい社会じゃなくて、人種や文化や言葉も違っても互いに、尊重され、共存できる社会、それが今こそ、大切と思わされます。いろんな伝統や風習も変わり目だと、国内ニュースを見ていても考えさせられます。みんな生きやすい、平和な社会になりますように。私たちも、そんな役に立ちますように。


2023年11月12日日曜日

説教メッセージ 20231112

 わたしは、サンパウロで教会に帰るとき、もう少し行くと安いガソリンスタンドがあるからと思って車を走らせていた時に、大きな通りの橋の上で燃料がなくなって止まってしまって大変だったことがあります。急いでいるときに限って、油切れが起こるものです。今日の聖書も、灯の油を切らした5人とそうでない5人のたとえ話です。キリストの言葉の意味を一緒に学びましょう。今日は、るうてるフェスタ(バザー)が高蔵寺教会であるので、短縮礼拝です。中継は今日はお休みです。この原稿を読んでいただき、祈りの時をご一緒に持っていただければと思います。では、良い一週間を!

 聖書の言葉 マタイ 25: 1~13 (新49)

1「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。 2そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。 3愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。 4賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。 5ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。 6真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。 7そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。 8愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』 9賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』 10愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。 11その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。 12しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。 13だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」



説教「わたしはお前たちを知らない、        と言われたら」 徳弘浩隆牧師

1,油切れ

人生は、忙しいときに限って、トラブルが付きまとうと思うことが良くあります。

牧師をしていると、土曜日の夜忙しいときに限って、パソコンやプリンターの調子が悪くなると頭を抱えるときがあります。みなさんも出かけようとしたときに限って、スマホの充電が少ないということも、体験された方も多いかもしれません。予定に遅れそうなときに限って、自動車のガソリンが足りなくなりそうで、今入れるか、目的地まで走り切るか、ハラハラしながら急ぐ時もあるかもしれません。

わたしは、サンパウロで自宅の教会に帰るとき、もう少し行くと安いガソリンスタンドがあるからと思っていた時に、大きな通りの橋の上で燃料がなくなって止まってしまったことがあります。路上に止めて、やむなく、妻に車の歩道側に残ってもらって、頭を下げてもらいながら、私はできるだけ近くのガソリンスタントに走りました。ガソリンだと金属の少し高い携帯用ガソリンタンクを買って入れないといけませんが、そこはブラジルです。ほとんどすべての自動車はアルコールを入れても、どちらでも走るようになっています。サトウキビから作るバイオエタノールで環境配慮や資源節約の先進的な取り組みです。きれいなペットボトルにアルコールを入れてもらい、自動車まで走って帰り、それを入れて難を逃れたことがありました。

今日の聖書は、一番大切な時に、灯の油が切れてしまうという失敗をした女性たちのたとえ話が出てきました。一緒に神様の声を聴いていきましょう。  

2,聖書 

マタイによる福音書は28節までですが、今日は25節です。いよいよ、最後のところに差し掛かってきました。そして実は、このマタイを一緒に読んできましたが、キリスト教会のカレンダーでは、来週が一年の最後になるという季節を私たちは生きています。

年末の気分はまだしませんが、キリストの地上でのご生涯の最後のほうのところ、そして、世の終わりについてのお話が、今週と来週続きます。一年を振り返る季節に、世の終わりや自分の人生の終わりも見据えながら、大切に時を過ごすという一念の終わり方になります。

今日のたとえは、「天の国はこのようにたとえられる」とはじまります。今日も、結婚式のたとえです。10人のおとめたちが花婿を迎えに出ていくのですが、灯の油が十分準備していて無事に出迎えられた5人と、油がなくなってしまって大変困った5人の運命が分かれます。

当時の結婚式は、花婿が花嫁の家に迎えに行き、一緒に花婿の家まで戻り、そこで盛大な結婚式が催されるという形だったそうです。ですから、今日のお話は、結婚式が始まる前の、お迎えに行く花嫁の家で灯をもって出迎える花嫁の友人たちと考えられます。

そして、聖書のたとえの定番通り、花婿はキリスト、花嫁は教会と考えてよいでしょう。灯の油と、そして予備の油を準備していた賢いおとめたちは、花婿が来た時に問題がありませんでした。花婿の到来が遅れてしまっていたから予想外に脂が早くなくなってしまいました。しかし、予備の油を持っていなかったおとめたちは、分けてくれるよう他の5人に頼みますが、自分たちもぎりぎりだからと分けてもらえません。買いに行ったらどうですかといわれてしまいます。しかし、もう夜中ですからそれもかないません。花婿は家に入り、扉は閉められます。5人のおとめたちは開けて入れてくださいと頼みますが、花婿は、「私はお前たちを知らない」といわれてしまうのです。「だから目を覚ましていなさい。あなた方はその日その時を知らないからだ」とキリストはそのたとえ話を締めくくります。

3,振り返り 

わたしたちはどうでしょうか?いつも目を覚ましているでしょうか?もちろん、文字通り寝ないということではなくて、信仰的に眠ってしまわないことが大切だ、と私たちはキリストの声を聴きます。

しかし、おかしなことに気が付きます。今日の10人のおとめは、みな、一度眠ってしまっていたのです。5人の賢いおとめは、頑張って寝ずにいたので失敗しなかったということではありません。彼らの運命を分けたのは、予備の油を準備して持っていたということでした。今日のキリストのたとえ話を聞いて、「私たちも、いつも完璧な信仰を持っていることが大切だから、頑張りましょう」という結論を学んでいるとしたら、それは間違いであり、不十分でしょう。私たちは、完全の信仰者であり続けることよりも、いつも予備の油を携えていることに気を配りましょう。この予備の油は、なんでしょうか?

現代社会なら、スマホの予備のバッテリーで、どこにでも持っていけるモバイルバッテリーとでもいうことになるかもしれません。

聖書のこの個所は、いろいろな風に解釈が試みられます。聖書のみ言葉がいつもそばにあるかといえるかもしれません。「聖霊の油注ぎ」などという言い回しもありますから、聖霊の助けをいつも受けているか、と振り返ることもできるかもしれません。あるいは、困ったときに自分の分を犠牲にしてでも分け与えあえる信仰の兄弟姉妹と理解することもできるかもしれません。彼らはそれがなかったから、分けてもらえなかったのだと。

4,勧め 

ここで、聖書のほかの個所を思い出すかもしれません。家の中に入りドアを閉められ、たたいても開けてもらえなかったおとめたちでしたが、聖書には「叩け、そうすれば開けてもらえるであろう」という言葉もあるのにと、がっかりするかもしれません。しかし。これに対して、キリストはこう答えるかもしれません。ヨハネの黙示録の言葉を使って。「私は扉の外でたたいてる」と。「わたしは、あなたを知らない」と知らん顔をしているのは、キリストのほうではなくて、今までの生き方や今までの罪深い自分にこもってしまっている、自分自身なのかもしれません。

 素直な気持ちで、神様に向き合いましょう。そのとき、私が扉を開けるのを待っておられる、十字架の愛のキリストが立っておられるのに出会えるのです。

 

牧師コラム・ 「LineでのQ&A」 -4  

徳弘先生、いろんなYou Tube動画を見ております。その中で、「ダニエル書」は予言の書、と言っている方がおられ、最近の中東問題に重ね合わせて聖書の箇所を引用しておられますが信用してもよいですか??

A:ダニエル書は確かに預言書としてとらえられていますが、謎に満ちた預言の言葉を、今の戦争の出来事と重ね合わせて、「〇〇年に世が終わり、キリストが再臨される」とかいう引用と説明には、注意しなければなりません。むしろ、危険視するべきでしょう。

そもそも預言とは、「預言」であるからです。「これは神の言葉を『預』かって、人々に告げる」という意味であって、「いついつ何が起こるという、予言」ではないからです。神から預かった「預言」の中に、「予言」も含まれるでしょうが、すべてがそうではないからです。

迫害や命の危険にある中で、時の権力者の国名や名前もあげた明確な言葉ではなくて、メタファー(隠喩)として伝えたというケースもあるでしょう。ヨハネの黙示録もそのように捉えてよいでしょう。ローマ帝国の迫害を明らかにわかるような言葉で書き記せなかったからです。

戦争や天変地異があると、いつも、終末思想が再燃して、世の終わりとか、キリストの再臨とか、いう人が現れます。

しかし、「偽キリスト」も現れるから注意せよ。と言われたキリストの言葉も思い出さねばなりません。キリストご自身、「その時はいつかは知らない、天の父のみがご存じ」といわれています。しかし、今度の日曜日の聖書日課のように、「いつその時が来てもいいように、絶えず目を覚まして信仰の歩みをするべき」ことも、教えられます。

ルターも、「たとえ明日が世の終わりであったとしても、私はリンゴの木を植える」という言葉を残したといわれています。最近の研究では彼自身の言葉ではないようだが、彼の考えはよく表れている、と理解されています。

そのように、「終末やハルマゲドン、キリストの再臨はいつだ!」という言説には注意が必要です。

人の知恵ではわからないといわれている事柄を、「私は分かった」とか「私は神に示された」と言い始めるときに、カルトが生まれるのです。過去の歴史でも何度も現れては消えしましたし、私が生まれてニュースで見たものの中でも、いくつもありました。「そうかもしれないし、そうではないかもしれない」と、私は思っています。終末やキリストの再臨に備えて、慌てて何かをするという、脅迫のようなものではなくて、今、日々生きている中で、「神を愛し、人を愛する」ということを、自ら悔い改め、そのように祈り行い、手の届くところで広げていくということが大切と思います。そんな風に生きています。


2023年11月5日日曜日

説教メッセージ 20231105

 座る場所や順番を、「席次」とも言います。学生時代は、成績の順番も「席次」と言われ、廊下に席次表が貼り出されてドキドキしたなんて言う思い出がある方もおられるでしょう。今日の聖書のお話は、そんな「どこに座るか」という事をキリストは語られました。しきたりやマナーの勧めでしょうか?一緒に聴いてきましょう。 今日は復活教会で礼拝を担当します。召天者記念礼拝と、洗礼式も予定されています。肖像権配慮で、牧師中心の映像ですが、YouTube配信もします。お待ちしています!


聖書の言葉 マタイ 23: 1~12 (新45)

1それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。 2「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。 3だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。 4彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。 5そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。 6宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、 7また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。 8だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。 9また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。 10『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。 11あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。 12だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。



説教「天の国の席順」 徳弘浩隆牧師

1, どこに座るか?

一昨日の11月3日、東海教区伝道セミナーがあり、名古屋めぐみ教会に行ってきました。毎月、Zoomを使って教区の牧師たちが順に担当する公開聖書セミナーを続けましたが、その総集編としてこの機会を企画しました。テーマは「教会」でした。私も聖書セミナーの講義を担当しましたので、一昨日のパネルディスカッションにも登壇することになりました。

会場につくと教会の前にテーブルと椅子が準備され、数人座るようになっています。さて、「どこに座ろうか」と近づくと、司会の牧師先生から、「徳弘先生はどうぞ、やはり真ん中に座ってください」と勧められました。普段ならよく遠慮するのですが、今回は仕方ないと思い、正面真ん中に座りました。今は教区長をしていますので、権限はさほどありませんが色々な責任もあります。このセミナーも最初に講座を担当し、いろんな専門や関心の範囲から自説を発表してきた牧師たちの一見多少違う見解も、対立ではなくてバラエティーとして一緒に学び、何とかまとめる責任もあったからです。

おかげさまで、それぞれ対話やコメントもしあい、会場からも質問や意見も共有され、よくある偉い先生の話を一方的に聞くセミナーとは一味違って、良い学びと交流になったと感謝しています。

さて、今日の聖書のお話は、そんな「どこに座るか」という事をキリストは語られました。しきたりやマナーの勧めでしょうか?一緒に聴いてきましょう。 

2,聖書 

ここのところ数週間、無理な質問でイエス様を困らせてやろう、失墜させてやろうという、当時の「偉い」人たちからの質問とその問答が読まれてきました。しかし、どの企てもうまくいかず、彼らは黙り込んで、去るしかありませんでした。

それは、だれが一番知識を持っているかとか、表面上何を一生懸命にしているかとかいう競争ではなかったからです。イエス様は何度も、知識や権力や表面の行いだけの当時の宗教指導者をやり込めていかれました。イエス様は、その奥の、本当の神様のお気持ち、聖書に規定された物事の真意を説き、またどう答えても答えにくい無理な質問にも知恵をもって切り替えしていかれました。

今日はそれらの末に、ついに、「律法学者やファリサイ派の人々を、聖書をよく知り自分たちが聖書そのもののようにふるまい、人々に指示している」、と評価されました。しかし同時に、「言うだけで何も実行していないから、見習ってはいけない」と、残念な評価もされたのです。

そのうえで、彼らを、「外見で権威付けようとしたり、持ち上げられるのを好むのだ」と、その愚かさを指摘されます。だから、一番偉いものは仕えるものになりなさい」と群衆と弟子たちに教えました。それは、やがて向かうご自身の十字架への道をも見つめる言葉でした。権力ではなくて、驚くべき予想外の十字架の死という形で、神を愛し人を愛すること、それ以上に敵をも愛するという事を示されることになっていくのです。

3,振り返り 

わたしたちはどうでしょうか?座る場所や順番を、「席次」とも言います。学生時代は、成績の順番も「席次」と言われ、廊下に席次表が貼り出されてドキドキしたなんて言う思い出がある方もおられるでしょう。

「教会建築は、その教会の神学が現れる」と、一昨日のセミナーでもある牧師が力説していました。私たちの教会は、どういう具合になっているでしょうか?建物自身にどんなメッセージがあるでしょうか。私たちの教会の礼拝堂は、説教台が中央の正面にあるのではなくて、そこには聖卓と十字架があり、聖書朗読台も説教台もその脇にあるというのが大切なところです。もし中央の正面にあるなら、まるで牧師自身の個人の生き方やその知識や人生への指導そのものが中心になりすぎてしまい、下手をしたら牧師への個人崇拝も起こってしまうからです。

私たちが見上げる一番大切なものは、復活教会では正面の壁にある十字架のステンドグラス。そこから光が差し込み聖壇と十字架が、高蔵寺教会では正面の十字架と聖卓があります。この聖卓はキリストが最後の晩餐をされた食卓を記念するものです。そして、今日の復活教会は、そのキリストの十字架を通しての救いにあずかるための洗礼を受ける洗礼盤があります。そして、すでに天に送った人々を思い出す写真が。そして私たち一人一人という順になっています。それが、私たちの「席次」という事になるでしょう。

今日は、その救いの手の中に、この世を生きている者もすでに死んでいる者も、納めておられる神様を一緒に見上げています。また、その救いにあずかるために、この世を生きているさなかで、一度古い自分が死に、新しい自分がキリストとともに生まれる洗礼式を考えるという幸いな機会も与えられています。

4,勧め 

今日は一緒に、これまでの自分の人生を、そして先に天に送った方々の人生を振り返りましょう。

ブラジルでは、最近、ご高齢者の世代を「老後」と言わない言い方があり、驚き、考えさせられました。それは、Terceira Idade(テルセイラ・イダージ)とか、Melhor Idade(メリョール・イダージ)といいます。それぞれ、「第3の世代」「より良い年齢」という意味です。愛され楽しみ将来に向けて勉強したりするこどもの時期、大人になって社会生活や子育てもする時期、そしてそれらから解放されのんびりと自分を見つめながら楽しみもしながら生きる時期。その3番目で、より良い人生だ、というブラジルらしい肯定的な楽天的な言葉だと、思わされました。

皆さん、それぞれ、どんな時期を、どんな気持ちで生きていますか?洗礼を受けて、一度今までの人生とお別れして生まれ変わりましたか?そして、第4の人生ともいえるかもしれない、この世のいのちを終えた後の天国での永遠のいのちへと、しっかりと進んでいるでしょうか?

洗礼、そして永遠の命、天国、そんなものを一緒に見上げながら、神様と一緒に生きていきましょう。神様はいつも一緒にいて、それぞれの人生の時期に応じて、必要なことをされ、助け、守り、導いてくださいます。神様とともに、教会という新しい大きな家族とともに、生きていきませんか?神様の祝福をお祈りいたします。


 


牧師コラム・ 「LineでのQ&A」 -3  

イスラエルとパレスチナの間で戦争が始まり混迷を深めています。どうしてこの地の紛争が絶えないのか。今日も先週の続きで、Lineでの教会メンバーからの質問とお答えを掲載します。一緒に考えてみませんか?

A:先週の話の最後は、報道に偏りはないのかという話でしたが、続きで、4枚の写真を見てもらいましょう。





上の二枚は、私が2000年に「イスラエル」に行った時のもの。ユダヤ人の領域からベツレヘムなどパレスチナ自治区に入るときは、イスラエル支持の日本人ガイドさんがバスを降りるときに「ここから怖いところだから気を付けてください」と何度も注意をしてくれました。写真は、①聖書ゆかりの地を案内してもらう途中でバスが寄ったレストランの外で出会ったイスラエル兵に声をかけてみて談笑し握手、帽子をかぶせてもらって一緒に写真ととりました。頼もしく感じました。②嘆きの壁に行った時、上のイスラム教の黄金ドームから投石騒ぎの衝突があり、海外のマスコミが詰めかけ、イスラム教のパレスチナ人は怖いと思い、投石の中逃げ、怖い思いをしました。

下の二枚は2006年に「パレスチナ自治区」のベツレヘムに泊まり、そこからパレスチナ人の旅行ガイドさんに案内してもらい、ルーテル教会が支援している学校や病院のほか、前回と同じ聖書ゆかりの地も訪ねました。③ベツレヘムルーテル教会の牧師が、イスラエル側の砲撃で穴が開いたところはそのまま残していると、見せてくれた教会併設の教育センターのPC教室の床。④パレスチナ自治区からユダヤ人の地域に入るときには高い塀と厳しい検問所があり、親子でも引き離されるパレスチナ人を見、我々も厳しいパスポートチェックを順に受けました。この時はイスラエル兵や検問所の人はとても怖いと感じました。

このように、どちらの側でその国にいるかという事で、全く違う印象を受けたのです。視点とバランスが大切ですね。

(続)


2023年10月29日日曜日

説教メッセージ 20231029

 「経済が一丁目一番地!」という総理大臣の所信表明演説と解説のニュースを何度も見ました。「これが一番大切!」と強調するときに、「一丁目一番地!」と言いますね。では、「聖書の教えの一丁目一番地は何ですか?」というのが、実は今日のイエスさまへの質問でした。さて、何でしょうか?一緒に学びましょう。今日の礼拝は高蔵寺教会で担当します。Youtubeでの配信もします。礼拝へおいでください。お待ちしています!


聖書の言葉 マタイ 22:34~46 (新44)

34ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。 35そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。 36「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」

 37イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 38これが最も重要な第一の掟である。 39第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 40律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

41ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった。 42「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」彼らが、「ダビデの子です」と言うと、 43イエスは言われた。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。

44『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、わたしがあなたの敵を あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』

45このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」 46これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった。


説教「1にも2にも大切なことは」徳弘牧師

1, 一丁目一番地…

先日のニュースで総理大臣の所信表明演説やその解説が流されていました。増税や物価高騰の中の国民の経済的な負担を減らそうという対策案の中で、家計の中の食費の占める割合を指す「エンゲル係数」という言葉とともに、「経済が一丁目一番地だ」という言葉が何度か出ました。

二つのことを思い出しました。一つは、子育てにかかる費用の割合を「エンジェル係数」という時があるし、高齢化して病院通いが増えると医療費の割合が増えるのでこれを「病んでる係数」というんだと友人から教えられ笑ったことです。

そしてもう一つは、ルーテル教会の東京の本部は市ヶ谷の一丁目一番地だったなぁということです。

それから今日の聖書です。「いろいろある聖書の掟の中で、何が一番大事なのか?」というやり取り。1丁目1番地、そして、1にも2にも大事なことは何でしょうか? 

2,聖書 

ファリサイ派とヘロデ派に続いて、サドカイ派の人たちもイエスに言い込められて、もう一度ファリサイ派の人たちが集まって、されなる無理難題の質問を持ってきました。先週読んだ聖書の個所に次には、「復活がない」と信じているユダヤ教の一派で、祭司層を中心にした裕福な上層階級のサドカイ派の人たちがやり込められた話があったのでした。

入れ替わり立ち代わり、イエス様をやり込めようという流れが続いています。

今日の質問は、律法の専門家です。当時のユダヤ教の聖典は「旧約聖書」とは言われていませんでしたが、今でいうそれに該当し、「律法、預言、諸書」の3つからなりますが、より大切なものを挙げた呼び方として「律法と預言」とも言われていました。

そのさらに一番大切なものは「律法」、つまり、神様からいただいた十戒を中心にして、沢山の規定が定められた掟でした。研究者によると、613もの掟や規定が書かれているといわれます。中には、一見矛盾しているような、時代感覚からするとどうかなというのもあったかもしれません。今私たちが読むと、そういう印象を受けるからです。そして、彼らは、その中から、どれが一番大切か?とイエス様の問うたのでした。

まさに、「聖典の中の、神の教えの中の、1丁目1番地は何か?」と問い詰めたのでした。

イエスの返答は明快でした。しかし、一つではありませんでした。1丁目1番地ではなくて、1にも2にも大切なもの二つと言えるでしょう。それは今の社会や世界を生きる私たちの心にも響く、大切なものだと、今日は確かに聞き取っていきたいと思います。

一つは、申命記6章5節を引用して、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 38これが最も重要な第一の掟である。

もう一つは、レビ記19章18節を引用して、「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」とまとめられたのです。

3,振り返り 

わたしたちの生活はどうでしょうか? 「愛する」という言葉が、日本語ではピンときにくいといわれます。聖書を最初に日本語にした宣教師たちは、「大切にする」という言葉を選んだそうです。そうなると、こう問われています。「私は、神を大切にし、人を大切にしているでしょうか?」と。

そして、それらは、一丁目一番地であり、1にも2にも大切なこと。これら二つは分けることができないというのが、旧約聖書の教え、そしてイエス様が一言で言った大切なことでした。

 こんなことはないでしょうか?

1)神を大切にするけれども、人を大切にしていない。

2)人を大切にするけれども、神を大切にしていない。

3)神を大切にせず、人も大切にしていない。大切なのは自分だけ。

考えてみれば、これが、自分の心の中から、家庭、職場、社会、世界でも、いさかいや衝突の原因です。それは、教会の中でも起こりますし、世界では戦争にもなります。自分の考えを絶対化し、それに神を後ろ盾にすらして正当化し、他者を排除するときに宗教的な戦争も起こります。その気持ちが、人間の罪なのです。善悪の基準や判断の基準を、それぞれの自分がではなく、より高次な神に求め、意見が違っても人とも尊重しあい、共存していくことができずにいるから、今の戦争も起こっています。

613もあるという律法を、つまり神の戒めをすべて守らなくても、すべて覚えていなくても、この二つを心に刻むと大丈夫なのです。

4,勧め 

 これは、去年の教会学校の夏のキャンプで作っていただいた、教材です。十戒の石板に見立てて、10の戒めを子どもたちと一緒に張り付けて、覚えました。そして、週報の表紙は、十戒の石板に見立てたものに、これら二つだけが書かれています。613なくても、10なくても、2つだけ。


 戦争を見て驚き、非難するだけでなく、自分の心をまず、見つめましょう。そこに、この二つの大切な戒めに反しているところがあれば、それぞれ、悔い改めましょう。そして、キリストがなさったことを見つめましょう。それは、「人を愛する」だけにとどまらず、「敵をも愛する」ということでした。

 そんな十字架を見つめながら、十戒を石板に刻むにとどまらず、十字架上の敵を愛する愛を心に刻み、生きていきましょう。そのとき、自分の心にも、自分の人間関係にも、そして世界でも、平和が実現するのです。神様の祝福をお祈りしましょう。


 


牧師コラム・ 「LineでのQ&A」 -2  

イスラエルとパレスチナの間で戦争が始まり混迷を深めています。どうしてこの地の紛争が絶えないのか。今日も先週の続きで、Lineでの教会メンバーからの質問とお答えを掲載します。一緒に考えてみませんか?


Q:平和の声をあげると、キング牧師やアウンサンスーチンさんとか、主イエスも、敵になるんですね。対話で、平和への解決は難しいことを、すごく感じました!

A:そうですねぇ。誰の心にもある自分を大切にする心が、方向を間違えたり、他者が見えなくなると排除しあいつぶしあいになりますね。向上心も含めて、生存のための本能で大切ですが、大切なものを見失うと、マトを外すと罪深い自分を見ることになりますね。

それを超えるのが、自己犠牲の愛だと思います。みんながそれをすると社会が無秩序で成り立たなくなりますが、それをした人に心打たれて改心したら、人を許したり愛したりできるように少しずつできるようにされることを体験します。それがキリスト教の生き方で、信仰とか宗教というのと違う、生き方だと思います。

そんな人が増えると「地の塩」として社会に少しでも良い影響をもたらすという、遅々たる歩みで小さな存在かもしれませんが、それが大切と思わされるのが我々の集まり・教会だと思います。勉強や知識や対話ではなくて、生き方であり、そんな一緒に泣いたり笑ったりして支え合って生きることが、大切で、自分もそこで生かされ、生きていていいんだと思わされます。


Q:最近、周りの人とイスラエルの話しをする事があり徳弘先生から頂いたお返事を参考にさせて頂いてます。過去の歴史にさかのぼると、いろんな出来事がすべて繋がっていて絡み合って根深い問題になってるなと思いました。やっぱり、謙虚になることは大切だし必要だなとあらためて、この問題を考えるようになって思いました。両者が、謙虚になれれば、争いなんて、なくなると思います。そぉ言う私も謙虚には、なかなかなれないですが(笑)

連日、イスラエルのニュースばかりですが、テレビ、新聞、ネットetc いろんな媒体がある中で私たちはおそらくテレビから知ることが1番多く、それを鵜呑みにしてしまうと思います。正しい事が報道されているのですか?

A:そうですね。良い視点だと思います。TVや新聞の報道も、その会社の立場や方針で各社伝え方が違います。また、そもそも、外信で入ってくるニュースにもすでに偏りやフィルターがあることも知っておくべきですね。

そんな報道やインターネットの情報を、正しく読み込んで、取捨選択する能力、Fake newsも検証して見極める力が各個人に必要です。これを、「読み書きの能力」という意味の「リテラシー」という言葉を使って、「インターネット・リテラシー」が必要だ、などと言われます。インターネットで見た記事や主張を鵜呑みにしないで、独自に検証する力という意味でしょう。

そのためには、これらが大切と思わされます。1,基礎知識:日本の義務教育ではある程度の広い基礎知識が付けられるでしょう。詰め込みという方法や、戦争や歴史観には避けていたり不十分なところもある、という課題もありますが。2、冷静な目と独自調査や検証する努力。裏付けを取ることや反証にも目を通すということ。人間関係でも、反対論者の意見も真っ向否定せず、謙虚に耳を傾ける。などが必要なこととして上げられるでしょう。

広い目と謙虚な探求心が大切ですね。(続)


2023年10月21日土曜日

説教メッセージ 20231022

 最近知り合いができたトルコの国や歴史に関心が大きくなり、調べ物とともに、Netflixでトルコのドラマを見始めました。その国のTV番組や歴史や暮らしぶりを、ドラマ越しですが看ることができます。他にも、米英とロシアや中東が絡むスパイドラマなど、週に一度の息抜きと異文化体験で見ています。国の歴史と紛争、そして民族と宗教の絡み合いがどこにもあり、考えさせられます。スパイドラマの中で各国の情報組織が面談して情報交換するときに、自己紹介と握手をしていました。「私はロシア担当」「私は中東担当です」というとアメリカの大使とともにいた補佐官は「私の担当は全世界です」と言って、みんなで笑いながら握手をするというシーンがありました。私は、聖書の言葉を思い出しながら一緒に笑いました。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」というキリストの言葉を読んで、「私は誰のものだろう?」「私の社会や世界へのかかわりは、どんなことだろう?」と思いめぐらしていただからです。キリストの今日の言葉と、その意味を一緒に聞きましょう。


聖書の言葉 マタイ 22:15~22 (新43)

15それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。 16そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。 17ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」 18イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。 19税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、 20イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。 21彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」 22彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。


説教「あなたは誰のもの?」徳弘牧師

1, 私の担当は…

最近知り合いができたトルコの国や歴史に関心が大きくなりました。何も知らない自分に気づいて、もっと知らねばと思ったのです。そこで、色々調べ物はしますが、Netflixでトルコのドラマを見始めました。音声は現地語で、字幕を日本語になどと選ぶことができるので、その国のTV番組や歴史や暮らしぶりを、ドラマ越しですが看ることができます。他にも、米英とロシアや中東が絡むスパイドラマなど、週に一度の息抜きと異文化体験で見ています。国の歴史と紛争、そして民族と宗教の絡み合いがどこにもあり、考えさせられます。

そのなかのスパイドラマの中で各国の情報組織が面談して情報交換するときに、自己紹介と握手をしていました。「私はロシア担当」「私は中東担当です」というとアメリカの大使とともにいた補佐官は「私の担当は全世界です」と言って、みんなで笑いながら握手をするというシーンがありました。

今日の聖書を読んで日曜日の準備をしていた私は、聖書の言葉を思い出しながら一緒に笑いました。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」というキリストの言葉を読んで、「私は誰のものだろう?」「私の社会や世界へのかかわりは、どんなことだろう?」と思いめぐらしていただからです。キリストの今日の言葉と、その意味を一緒に聞きましょう。

2,聖書 

今日のできごとは、イエスを罠にかけるために言葉尻をとらえようとしたファリサイ派の人々がヘロデ派の人々と共にやってきて質問したときの出来事です。ファリサイ派はユダヤ教の律法を厳格に守り、ヘロデ派はユダの国を占領支配するローマ帝国にすり寄る政治的なグループですから、この二つは本当は対立する関係です。しかし、イエスという共通の敵のために力を合わせたという、興味深い出来事です。それほど、イエスの教えやグループは影響が大きかったとも言えます。難しい質問をして、どのように答えても、ファリサイ派かヘロデ派のどちらかが怒る、という難しい質問で、イエスを陥れようとしたのです。

慇懃無礼(いんぎんぶれい)な呼びかけの後、彼らはイエスに問います。「ローマ皇帝に税金を納めるのはユダヤ教の律法に適っているか?」というのです。

Yesと答えればファリサイ派がイエスを罪に問える、Noと答えればヘロデ派が罪に問えるのです。

これに対してのキリストの答えは、いつもの通り見事でした。税金を納める通貨はローマのものですから、「その銀貨に誰の肖像と銘があるか?」と問い返したのです。それは皇帝の肖像でした。そこで、ならば、「皇帝に返しなさい」と言われました。

皇帝に捧げなさいとは言われなかったことは、律法に違反するかどうかを避けるお答えでもありました。そして、それでお返事は終わりません。「神のものは神に返しなさい」とも続けられたのです。これを聞いて彼らは驚き、立ち去るしかありませんでした。

3,振り返り 

これを読んで私たちは思うかもしれません。「この世のコト、つまり社会や世界のルールやあり方もそのまま肯定するしかないか」と。社会の支配者や政府をそのまま肯定し、私たちは、信仰を持っているから私たちだけで内向きの秘密結社のように教会の中だけで信仰を守り抜き、使い分けをしてもいいのか、ということです。それは、気を付けなければならない誤りだと思います。この世のことと、信仰のことを二つに分けるべきで、使い分けてもいいと、キリストは言っておられないのです。

キリストは誰の肖像があるか?とローマの銀貨について問われました。そこには、ローマ皇帝の像がありました。ローマ皇帝の姿にかたどられた肖像があったのです。ユダヤ人はその支配の中で、その銀貨を使っていました。しかし、ユダヤの神殿では異国の神ともされる皇帝の肖像をかたどった銀貨は使うことできません。ユダヤ教の律法がゆるさないのです。だから、神殿には「両替商」がいました。両替商は、献金をするときに、大きな金額の硬貨しかないから小さく両替してもらって少しだけ献金するための両替ではありません。ローマの銀貨をユダヤの硬貨に両替してから神殿に献金する必要があったのです。

4,勧め 

さて、最初の私の問いに戻りましょう。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返す」というキリストの言葉から「私は誰のものか?」という問でした。

この世の出来事は、キリストを知らない人が多く指導している政府や国です。しかし、それ以上に、そもそもの話として、私たちのいのちや、この世の国の秩序も含めてすべては、神によるもので、神様のもののはずです。神を知り、生き方を変えられたこの私も、神のものです。ですから、神を愛し人を愛する生き方を生かされています。

そこから見たときに、この世の在り方をそのまま肯定するのでもなく、分離した生活をするのでも無く、社会や国や世界にも、神を愛し人を愛する生き方をして、関わっていくことが大切です。

いさかいや差別、戦争や不平等の出来事を知り、心を痛めます。これは自己絶対化や自己中心の心、聖書が言う「罪」によるものです。私たちは、神に似せて、神にかたどられて造られたのに、いつの間にか、この世の神というローマ皇帝をかたどった銀貨に心を費やし、神以外のものにかたどられてしまっていました。そんな私たちを、キリストは十字架により本来の姿に創り替えてくれたのです。私は神様のもの、この世界もすべて、本当は神様のもの。その気持ちで生きていきましょう。過ちを悔い改め、それを正し、生き方を変えるのです。その時、心の平安と、和解、社会や世界の平和も訪れるはずなのです。

 


牧師コラム・ 今日の写真 「LineでのQ&A」    


 イスラエルとパレスチナの間で戦争が始まってしまいました。混迷を極めるニュースを見る中、どうしてこの地の紛争が絶えないのか。イスラエルとパレスチナ、ユダヤ教とイスラム教とキリスト教についての質問を受けることが多くあります。先日もLineで教会メンバーから質問があり、新幹線の中で取り急ぎお返事をしました。雑駁で不完全ですが、一緒に考えてみませんか?

Q:徳弘先生、突然ですが、イスラエルとガザの争いは、なぜ起きているのですか?イスラエルはキリストの聖地なのに、主イエスが残したものは何だったのですか? 何を争っているんですか?唐突にすみません。

A:イスラエル(主にユダヤ教)のエルサレムなどはキリスト教の聖地と考えられると共に、イスラム教やユダヤ教でも聖地です。パレスチナ人は主にイスラム教です。 

歴史的にはこうです。キリスト以後392年にキリスト教を国教化したローマ帝国ですが、その後東西分裂し、後に東はイスラムの国になります。西のキリスト教国は十字軍戦争で「聖地奪還」を試みましたが適わず、今のイスラエルの地はキリスト教でもユダヤ教でもないイスラムの国が続きます。戦争で教会も疲弊し権力や金に依存する教会になってしまい、16世紀にそれに疑問を提出したのがドイツの修道士・神学教授のマルチンルターですね。以後プロテスタントが次々に出来てキリスト教内の戦争も続きましたが、昨今はようやく共同し世界に尽くすと言う風潮が出来ました。しかし、東欧ではキリスト教の名も出して戦争が続いていることに心を痛めます。ユダヤ教やイスラム教の中にも排他的な原理主義者もおり、宗教も絡んだ紛争・戦争を起こしています。また、キリスト教内にも原理主義者グループやカルトがあることも忘れずに気をつけねばなりません。ハマスはパレスチナ全体の代表ではなくガザ地区を実効支配する原理主義者達の自治政権です。ヨルダン川西岸のパレスチナ政権はイスラエルとの共存も目指しています。

Q:ヒトラーがユダヤ人を迫害したのは、なぜですか?イスラエル建国は大戦後なんですよね?大戦前は、全部パレスチナだったんですか?

A:第一次大戦で敗戦し多額の賠償金を要求されたドイツは貧しくなりました。そんな中、人気を得たのがヒトラーでした。国が困難に陥ると国内の外国人やその子孫を排除することはどこでも起こる悲しい人間の罪深さですね。彼は国粋主義の風潮で首相になりました。標的は商売や金融で成功もしていたユダヤ人達で財産も没収しました。キリストを十字架にかけたという憎悪もありました。エジプトがやがて寄留者のユダヤ人を奴隷同様にしたのも、国内の他国出身者を差別する人間の罪深さですね。

イスラエル建国前のパレスチナは現トルコを中心とする広大なオスマン帝国の一部でした。この国は第一次大戦でドイツと共に戦い、敗戦します。その時、イギリスが3枚舌外交をし戦争を有利に進めました。戦勝時に味方国フランス・ロシアとの分割案と共にパレスチナ人にもユダヤ人にも戦後独立を支援すると。これが今のイスラエル建国とその後の中東戦争の発端の一つにもなります。イスラエルは第二次対戦後1948年にそれまでパレスチナ人が住んでいた場所に「帰国」して建国。これを助けたのは、大戦中のヨーロッパでのユダヤ人虐殺の「罪滅ぼし」の心情も強かった「キリスト教」諸国でした。当初共存していたユダヤ人はパレスチナ人を追い出し、紛争のたびに占領地を拡大して今の形になりました。追い込まれたパレスチナ人は「ヨルダン川西岸地区」と「ガザ」の二ヶ所に「イスラエルという国の中の自治区」となりましたが依然イスラエルの中の閉鎖された被差別地域の様相です。それはキリストの時代のローマ帝国とそれが占領支配するユダヤ人のイスラエル(ユダの国)のような状況です。帝国主義に抑圧された被害者の国民が、他民族や宗教を抑圧する新しい帝国主義になってしまっています。(続)


2023年10月15日日曜日

インスタ始めました❣️

 教会メンバーがいInstagramを始めてくれましたよ!

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よろしく〜👍❤️

るうてるフェスタ おいでください❤️

 


説教メッセージ 20231015

 先日用があり東京へ行きました。本籍地のある街の市役所にも生きました。車を停めて脇の入り口から入るとき、懐かしい思いに駆られました。数十年前に結婚式を終えた夜、妻と婚姻届けを出しに来た夜間窓口の脇だったからです。今日の聖書のたとえは、結婚式の出来事です。神の国はこういうものだ、とキリストは言われます。どういうもの?でしょうか。一緒に学びましょう。今日は高蔵寺教会で礼拝担当します。Youtubeでオンライン中継もします(時々日付などを間違えてごめんなさい)。お待ちしています!


マタイ 22: 1~14 (新42)

1イエスは、また、たとえを用いて語られた。 2「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。 3王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。 4そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』 5しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、 6また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。 7そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。 8そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。 9だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』 10そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。 11王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。 12王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、 13王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』 14招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」



説教「突然の招待状」徳弘牧師

1,結婚式のたとえ

先月東京を訪ねたときに懐かしい思いをしました。介護の手続きの関係で戸籍謄本が必要になり、本籍のある西東京市へ行ってきた時のことです。車を停めて市役所に入った入り口は33年前に結婚式当日の夜、婚姻届けを出しに行ったときに入った夜間窓口の脇で、その時のことを懐かしく思い出しました。そして、実は私の姪っ子が先月結婚をし、お祝いやお手紙を送り、昨日電話がかかり挨拶をしたところです。しかし、結婚式の招待状は届きませんでした。コロナ明けでもあるし、結婚式や披露宴はもう少し落ち着いてからということで、私も賛成していたのです。

今日の聖書は、今まで連続したブドウ園の話のたとえ話は終わり、結婚式のたとえになりました。招待された人、集まった人、そこには神様に招かれた私たちの姿を重ねて考える必要があります。一緒に聖書を見ていきましょう。

2,聖書 

今日のたとえも、「天の国は…に似ている」という始まり方で、これは、死後の天国ではなくて、神様との本当の関係がある私たちの生き方のありようをキリストは説明されています。

ブドウ園の出来事ではなく、今日は結婚式です。

王がその子・王子のために祝宴を催したのに、招いておいた人々は来ないのです。そこで、別の家来を送ってすっかり準備ができていますと言わせたのですが、無視して仕事に出かけ、ほかの人々は家来たちに乱暴をし、殺してさえしまったのです。

これは、神様の招きを拒否する人々をたとえています。あらかじめ招いておいた人たちは、ユダヤ教の指導者たちです。一度使者を送りだめだったのでもう一度別の使者を送るというたとえ話が良く出てきますが、これは、イスラエルの歴史の中でのバビロン捕囚の前と後の預言者の出来事を表す定番の言い方だそうです。不信仰で国が亡びると訴えた預言者と、その通りになってしまったバビロン捕囚。しかし時が過ぎて赦され自国に戻ってきてからの預言者の声を彼らが聞いてきたかどうかということを表しています。

今日のたとえでも、ユダヤ民族はそれを聞くことなく、不信仰を続けました。彼らは預言者を殺しさえしたことをキリストはたとえで説明しています。彼らは罰を受け滅ぼされました。

そして、神様の招きは、準備されていた人々ではなく、「街の大通りで見かけた人は誰でも」になり、善人も悪人も集められ、婚宴は人でいっぱいになったというのです。ユダヤ教の「立派な」指導者たちは、宗教的に準備されてきていましたが、キリストを受け入れることができず、多くの「罪びと」がキリストのもとに集まったことを表しているのです。

3,振り返り 

自分のことを振り返りましょう。わたしは、長い間信仰を持ち、正しい生活をしてキリストを待ち望んできたでしょうか?それとも、普通の生き方をしてきていて突然の招待状をもらったように、ふとしたきっかけで神様に出会ったでしょうか?

あるいは、長い間苦労をして生きてきて、自分の信念や自信がありすぎて、キリストの言葉を素直に受け入れられない、いわば婚宴への招待を拒否している人の姿があるかもしれません。拒否した人の中には、畑に行ったり、商売に行くために拒否した人もいます。それらも大切ですが、いざという時の神の呼びかけをないがしろにする姿がそこにあるかもしれません。

では、神の呼びかけに正しく、間違えなく、応えるのには何が必要でしょうか。信仰や努力や献金や人のための功績でしょうか?そうではありません。婚宴に招かれたのは、「街の大通りで見かけた人は誰でも」だからです。神様の呼びかけに、素直に答えることだけ、それが大切なようです。

努力したから救われるのでもなく、信仰が深いから神様に会えるのでもなく、突然の招きを素直に受けるとき、私たちは神様との新しい生き方に招かれているのです。行いによってではなく、素直な信仰によって神様との関係が回復される、それが救いです。

4,勧め 

 では、今までのままの自分でいつまでもいいということでしょうか?そこは少し違います。

救われるためには条件はなく、神様の招きとそれにこたえるだけです。しかし、それで今までの通りの生き方を続けていくのは、ふさわしくありません。

善人も悪人も呼ばれ、婚宴はいっぱいになりましたが、婚宴の服を着ていなかった人がつまみ出されるというのが教のたとえの最後の部分にあります。

これは、教会に招かれ、救われたキリスト者の新しい生き方を表していると考えられます。

今聖書研究会ではエフェソの信徒への手紙を読んでいます。ちょうど先日学んだ5章1-2節にこうありました。「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。」そして、そのときも一緒に考えたのは、「キリストを着る」という言葉です。「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。(ローマ13.14 口語訳)」、「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。(ガラテヤ3.27 新共同訳)」

招かれた後は、今までの生き方を捨てて「キリストを着なさい」と勧められ、洗礼を受けた後は「キリストに結ばれ、キリストを着ている」はずなのです。

それが、神様との本当の関係に立ち戻り、それによって人々も互いに愛し支えあう関係で生きる「天の国」の姿です。死後の世界ではなく、今の出来事です。

生きにくさや、沢山の問題、そして戦争も終えられない社会ですが、神様の招きに応えて安心の日々を着ましょう。そして、愛と平和の世界を広めていきましょう。それが、「神の国」なのです。

 牧師コラム・ 今日の写真 「また、戦争が…」 


   突然の砲撃とがれきの映像に私たちは、驚き、打ちのめされました。それも小競り合いではなく、双方大規模なものでした。パレスチナ自治区ガザを実効支配するハマスによるイスラエル領内への奇襲攻撃と反撃がありました。早速当事者国やいくつかのTVニュースを見てみました。私はヘブライ語、アラビア語中継は時々知っている単語を拾えるくらいで、ほぼ理解できませんが、双方現場レポートや有識者の解説が続きます。国会中継や戦場での戦車の準備映像も映ります。

宗教対立といわれ心が痛いところですが、よく理解しないとなりません。聖書の民、ユダヤ人とパレスチナ人はユダヤ教徒イスラム教がそれぞれ主ですが、宗教的対立というより、西欧諸国の植民地支配と撤退した後の二重外交も大きな要因で土地の奪い合いが火種を残しました。ルーテル教会が加盟するNCC(日本キリスト教協議会)も声明を出し、双方の自制を促しました。それぞれが大切にする旧約聖書の言葉によって。友人のベツレヘムのルーテル教会のパレスチナ人牧師も声明を出しました。ともに祈り、平和を作り出しましょう。

パレスチナとイスラエルの平和を願う声明文

//前半部分省略// 聖書における、イスラエルに、神によって約束されたカナンの地とは、寄留者アブラハムたち、そしてエジプトの地で奴隷という寄留生活を強いられたイスラエルの民に示されたものであることをわたしたちは想起します。同時に、そのような苦難を経た民イスラエルにカナンの地を約束された神は、「あなたは寄留者を虐げてはならない。あなたたちは寄留者の気持ちを知っている。あなたたちは、エジプトの国で寄留者であったからである。」(出エジプト記 23 章 9 節:新共同訳)とも命じているのです。イスラエルとパレスチナ自治政府のたどり着くべき平和への道は、歴史の中でどちらも寄留者としての苦難の道を歩んできた民が、この聖書の指し示す道に立ち帰る以外にはなく、この二つの民の苦難に歴史的に測り知れない責任を負う世界は、政治的利害をこえて、和解と平和への道につながる外交的対話の場を設けるために、国連の仲介を通して全力を尽くすべきです。

わたしたちキリスト者は、そのためにユダヤ教やイスラム教をはじめ、諸宗教の間でこの和解と平和の道の実現のために祈り、また対話を続けることを惜しんではならないのです。

神がノアとの間に立てられた「虹の契約」とはすべてのいのちとの和解と平和のしるしであり、「虹」(ケシェット)とは、戦いを止めた弓の形であることを思い起こしながら、わたしたちはパレスチナとイスラエルの平和を切に祈り続けましょう。 <2023 年 10 月 12 日 日本キリスト教協議会>


2023年10月8日日曜日

説教・メッセージ 20231008

聖書の言葉 

マタイ(Mt.)21: 33~46(新42) 

33「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。 34さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。 35だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。 36また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。 37そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。 38農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』 39そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。 

40さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」 41彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」 42イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』 43だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。 44この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」

45祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、 46イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。

説教「石で砕かれる命、石で砕かれる心」徳弘牧師

1,ブドウ園での惨劇…

先々週、先週に続いて、ブドウ園で話が続きます。ブドウ園は日本ではあまり各地でのなじみはなくピンときませんが、ユダヤの地方では旧約聖書の時代から何度も出てくる、なじみの風景であったようです。日本だと、田んぼでの稲刈りや、寒い地方での麦畑での麦踏という状況のたとえだったとしたら、もうすこしピンとくる風景かもしれません。

先々週はブドウ畑で働く人の給料の話。先週は、ブドウ畑で働くかどうかという二人の兄弟の話でした。そして今日は、とても「血なまぐさい話」で驚かされます。今日の説教題を考えるときに、最初は「葡萄園での惨劇」と書いてみましたが、ショッキングすぎる題名になるので思いとどまりました。これではまるで、TV番組のサスペンス劇場のようでもあります。

キリストは、どうしてそんな血なまぐさい話をされたのでしょうか?今日のイエス様のたとえ話は、どんなメッセージを持っているでしょうか。

2,聖書 

ブドウ園のたとえは、今日の旧約聖書のイザヤ書にも出てきます。「よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。」と、心を込めて準備したのに、期待外れの結果だったことを嘆き、問いかけます。「わたしがぶどう畑のためになすべきことで何か、しなかったことがまだあるというのか。」と。

神は「もういい!」と言わんばかりに、ブドウ園を荒れるままに任せ、雨も降るな!と言い捨てます。

このイザヤ書の神の言葉は、守り導いてきたにもかかわらず、また不信仰に陥り神を裏切っていったユダの民に対する叱責でした。そしてやがてイザヤが預言した通りに、ユダの国はバビロンに滅ぼされ、異国に捕囚として引かれていくことになります。

今日のキリストのたとえは、おそらくもちろんこんな旧約の預言と出来事を下敷きにしながら、わかりやすく人々に教えています。

「もう一つのたとえを聞きなさい」という言葉で始まる今日のお話は、先週読まれた二人の兄弟のたとえのすぐ後に置かれています。

もっとわかりやすいたとえで、主人である神様と、ブドウ園はイスラエルの民、農夫たちはその指導者たちで、そこに送られた僕たちは神様が送った預言者たちでしょう。一度目に送った預言者の言葉は聞かず逆に殺され、二度目に送った預言者の言葉も聞かずもっとひどい仕打ちを受けます。最後に、息子なら敬ってくれると送ったのですが、その息子さえ殺されてしまうのです。それが、神への不信仰と反逆の歴史を繰り返してきたイスラエルの姿と、今起こっていて、これから迎えることになる、キリストご自身の姿を現しています。祭司長やファリサイ派の人たちは、さすがに今回は自分たちのことを非難されているのだと気付きました。それは、ここまでに、「朝から働くように長いこと神様に仕えているのに、罪深い人たちが後からやってきて同じ救いにあずかるのを嫉妬した姿」であり、「はい、おっしゃる通りにします」と言いながら何もしないでいると、たとえで批判された姿そのものが、彼らだったのです。

3,振り返り 

ここで先週の高蔵寺教会の聖書研究会で読んだエフェソ書の解説を思い出します。その部分をさらに簡単にまとめると、こうなります。神様のご計画は聖書では大きく三つに分けて述べられている、とあります。

1) 創世記で、神様が世界を造り人間はその守り手として造られたのに、神の世界を自分のものにし、自分が神になろうとした。それが罪の起源。

2) その直後から旧約聖書の最後まで、神様がアブラハムという人から興した一つの民族・イスラエルを通して、約束を結び、回復していくことでしたが、何度も失敗をしていったこと。

3) 最終的にはイエス・キリストを通して、イスラエル民族・ユダヤ教以外の異邦人も含めて、「新しいイスラエル」が興されて、神との関係、人と人の関係、そして神が造られた世界との関係を回復することになっていく。(まだ途上で課題山積ですが)。という事でした。

今日のキリストのたとえは、こうして振り返る、イスラエルの失敗をブドウ畑のたとえで思い返しながら、目の前の祭司長や律法学者たちも同様に失敗に陥っていることを指摘し、批判したのでした。

しかし、その批判だけで今日のキリストの言葉は終わっていません。「神の独り子は、敬われず、死に追いやられる」というたとえで、キリストがこれから進む十字架の道を預言します。そして、その惨劇ともいえる出来事で、全く新しい、人々の予想外の事が起こり始めていくという事も、示されたのです。

それは、詩篇118編の言葉を引用して「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。」と言われた言葉の意味を知るときに、理解できます。

石で主人の一人息子を殺し、いよいよ、ブドウ園を自分のものにしようとする罪人の企ては、結局は、その石の上に落ちると打ち砕かれ、石が上に落ちれば押しつぶされるという事が起こるとキリストは続けます。

つまり、神の子を殺した罪人たちが、神の世界を自分のものにしようとしたとしても、撃ち殺したつもりの神の子こそ、生ける石で、その石は罪びとを上から押しつぶし、上に落ちれば罪人を砕く事になるのです。

これが、傲慢で、神を神ともしない自己中心で信仰がなく、人を人とも見ない愛のない、罪深い生き方をしていた罪人の姿です。神さえ無視し、殺したつもりでも、逆にそれによって、自分が罪ゆえの呵責と悔い改めに導かれることになり、結局は、消し去ろうとした神の元に立ち返ることになるのです。それが、人の目には不思議な、神に勝ったかと思っていた罪びとが、実は、自分が負けていたという事になるのでした。

4,勧め 

 私の姿はどうでしょうか?思い当たる節がないでしょうか?これを今日私たちは問われています。わたしは、あります。神を無視し、自分で傲慢に生き、または、それができずに自己嫌悪をで生きていた頃もあります。神様から逃げてみても、消し去ろうとしても、結局は、自分の罪深さ、傲慢さ、不完全さに打ちのめされて、神様の前に座り込むこともあります。しかし、その時こそが、救いのチャンスなのです。この頑な心が、打ち砕かれるように、思い切り失敗してもいいかもしれません。キリストはそれを承知で、十字架の道を行かれたのです。

いさかいや、競争を、または落ち込んだり、へこたれたりしているうちは、まだ本当に砕かれたキリスト者になれていないと、何度も打ち砕かれる道を神様は準備されるかもしれません。

素直になって、神様にお任せして、安心して生きていく道を、一緒に歩きましょう。神様とともに。

 


牧師コラム・ 言葉雑学考 「ミイラ取りがミイラに」

 「石で打ち砕いたはずの人が、実はその石で心を打ち砕かれた」というのが、今日の聖書の話でした。思い出すのは、「ミイラ取りがミイラになった」という言葉です。ミイラを取りに行った人が、迷い込んで出られず、自分がミイラになってしまうという、なんとも残念なこと。説得しに行ったのに、逆に説得されたりすることを例えていう言葉ですね。

実はミイラという言葉は、もともとは、「没薬」のコトでした。マタイの福音書ででてくる、イエス様がお生まれになったときに、東方の博士たちが捧げた贈り物の、「黄金、没薬、乳香」の「没薬」です。もとは、使者の体に詰めて、腐らないようにした特別の薬のことでした。死んでも、体は腐敗せず、まるで生きたような姿を保つ薬。そしてそれによって保存された遺体、つまり今でいうミイラのことも表すようになりました。

英語ではMummyでラテン語のmumiaに由来していますが、日本語の「ミイラ」は16-17世紀に渡来したポルトガル人から採り入れた言葉の一つで、ポルトガル語: mirra は元来「没薬」を意味していた、とあります。

ミイラ取りがミイラになったように、神を神とも思わない罪人の犯した大きな罪で、逆に自分が改心させられ、生まれ変わらされ、本当の意味で生きたものにされる。そんなミイラ取りになるのなら、いいのかもしれませんね。


2023年10月1日日曜日

説教メッセージ 20231001

前も似たお話をしましたが、今日の聖書は、私の高校生のころの「口ごたえ」の話を思い出します。「今勉強しないと、あとから後悔するよ。後悔先に立たずって言うでしょ。」と母親に言われると、私は決まって、こう返事をしました。

「後から悔いるから、後悔っていうんだよ。だから、先に立つわけないでしょ。」と。そうすると、「面白いことをいうねぇ。そうだわ」と笑われて、場が和やかになり、怒るほうも気が抜けるのでしょう。まあ、いいか、という具合になりました。

今日の聖書は、後悔してやり直す人の姿がたとえ話で出てきます。後悔することは絶対間違えで失敗というわけではなくて、とても大切なことでもあります。後悔もしないなら、私たちの人生は、いつまでも変わることができません。今日のイエス様のたとえ話は、どんなメッセージを持っているでしょうか。

聖書の言葉 

エゼキエル 18:25~32

聞け、イスラエルの家よ。わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。 26正
しい人がその正しさから離れて不正を行い、そのゆえに死ぬなら、それは彼が行った不正のゆえに死ぬのである。 27しかし、悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。 28彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない。 29それなのにイスラエルの家は、『主の道は正しくない』と言う。イスラエルの家よ、わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。

30それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。 31お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。 32わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。

マタイ 21:23~32 (新41)

 23イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」 24イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。 25ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。 26『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」 27そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」

 28「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。 29兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。 30弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。 31この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。 32なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」


説教 「後で考え直して」 徳弘浩隆牧師

1,後悔先に立たず…

以前も似たお話をしましたが、今日の聖書は、私の高校生のころの「口ごたえ」の話を思い出します。「今勉強しないと、あとから後悔するよ。後悔先に立たずって言うでしょ。」と母親に言われると、私は決まって、こう返事をしました。

「後から悔いるから、後悔っていうんだよ。だから、先に立つわけないでしょ。先に悔いるなら、先悔とでもいうんだよ」と。そうすると、「面白いことをいうねぇ。そうだわ」と笑われて、場が和やかになり、怒るほうも気が抜けるのでしょう。まあ、いいか、という具合になりました。以前にもお話ししましたが、普通の口答えじゃなくて、何か大人が唸るような、ひとひねりした口ごたええを考えるのが好きでした。わたしは、小説などの本を読むのは嫌いで長続きしませんでしたが、広辞苑や英和辞典は持ち歩いて線を引きながら、よく読んでいた変わった子だったと思います。

今日の聖書は、後悔してやり直す人の姿がたとえ話で出てきます。後悔することは絶対間違えで失敗というわけではなくて、とても大切なことでもあります。後悔もしないなら、私たちの人生は、いつまでも変わることができません。今日のイエス様のたとえ話は、どんなメッセージを持っているでしょうか。

2,聖書 

今日の福音書は、ふたつのパートに分けられています。祭司長や長老たちとの問答と、それを受けてのたとえ話です。問答は、イエス様が宮で教えておられるのを見て、何の権威によってそんなことをしているのかと聞いたら、逆にイエス様に問われて困ってしまう彼らでした。そして、たとえ話は、彼らの姿を指摘し批判するための、父の言うことを聞かないといったけれど後から考え直して聞いた兄と、聞くと言うだけで何もしない弟のたとえ話でした。

それは、神様から遠く、神様の言うことを聞かない罪びとたちだったけれど、思い直して聞いた姿が兄でしょう。それに対して、素直にハイという、神さまを知っていて神に近いと思われていたけれども実は神様の御心を知ることができずに、何も行動に移さない弟は祭司長や長老とみることができます。

3,振り返り 

さて私たちは、どうでしょうか。

ヨハネの言う悔い改めも洗礼も恐れ、神の言葉から遠く背いて生きていた罪びとたちでも、後から思い直して、神様に従ったので、赦され救われました。

しかし、神に近いと思っていた「えらい」人たちは、素直に神の言葉を聞くことができずに、口先だけで結局は神から遠い人にとどまってしまったのです。

一度は神に背き、その声掛けを退けても、後悔して、立ち返るなら、救われ赦されるのです。後悔するような大失敗をしていなくても、表面だけで神の言葉を読み知っているつもりで生きていては、結局は神様から遠いままなのです。

穏便に過ごすよりも、大失敗して後悔したほうが、心から改心して神に立ち返ることができるとも言えます。イエス様は、表面的な信仰者をずいぶん嫌われたようです。「後悔先に立たず」ですが、後悔するほど、失敗したり、泣いたり、眠れないほど祈ったり、心配したりする人の方が、幸いなのかもしれません。

4,勧め 

 悔い改めるというのをもう一度考えましょう。

 旧約聖書では、「悔い改めよ」という言葉は、「帰ってきなさい」とも訳される言葉。今日のエゼキエル書にも出てきました。「悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。 彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない」「悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ」と呼びかけます。ここでいう「悔い改めて」という語と「立ち帰れ」は、実はこの同じヘブライ語「 שׁוּב」(シューブ)がつかわれています。涙を流してごめんなさいというのではなくて、帰ることです。

そして、一生懸命それを呼び掛ける神は、ただの怖く、厳しい神ではありません。この続きを読めばこうあります。「どうしてお前たちは死んでよいだろうか。 わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と。人間の罪ゆえの苦労を喜ばないで、帰ってくることを呼びかける愛なる神様なのでした。

神様の愛を知って、その中を、生きていきましょう。「あとで考え直して」出かけるところ、やり直すこと、たぶん私たちみんなが持っていると思います。

神様の呼びかけに答えて、思いっきり後悔して、考え直してみませんか?神様のもとに、いっしょに帰っていきましょう。

そのときに、本当の安心と心の平和が訪れ、人生は神様によって、まっすぐに導かれるのです。 


牧師コラム・今日の写真 「中秋の名月」 Tết Trung Thu(テッ チュン トゥー )   

9月29日は、中秋の名月でした。金曜日は復活教会で聖書研究会が夜にある日ですから、名古屋市の東区で見ることができた満月でした。

写真をFacebookに載せると、いろんな人からメッセージをいただきました。日本やブラジルやフィンランド、そしてベトナムからも。ベトナムに一時帰国しているHop君はベトナム語と日本語でこんなメッセージをくれました。一部紹介させていただきます。

Ý nghĩa của Tết Trung Thu trong Tiếng Nhật:(筆者注:日本語の中秋節の意味): 今日は旧暦によって8月15日です。ベトナムではTết Trung Thu(テッ チュン トゥー )と言います。日本で言うところの「十五夜(満月の夜)」ということです。Tet Trung Thuは毎年各地方でに行われます。月見(つきみ)ともいいます。月を祭る節句です。家族で月見をしながらお菓子を食べたり、カップル👫がデートたり楽しく過ごする文化があります。元々古代において中秋節に月餅をお供え物としていたそうですが、時代が変わり中秋節に贈り物とされるようになったみたいです。親しい人、恋人やお世話になっている人にこれを贈ります。それから月餅🥮以外では、付き合ってるカップルには男性から女性にプレゼント🎁を渡す習慣もあります。皆さん 、楽しくお過ごしてくださいね🥰 

ちなみに、Tết Trung Thu(テッ チュン トゥー )は、ネットで調べると漢字で「節中秋」と書かれていました。なるほど、そう読めるなぁという漢字です。昔はベトナムも漢字文化圏だったので、発音はむつかしいですが、漢字で書かれると「なるほど」と思う言葉が多くあります。「こんにちは」の「シンチャオ」は漢字では「慎謝」と書かれていたし、「ハノイ」は「河内」だったそうです。面白いですね! 

ところで今日は、高蔵寺教会の昼食会は世界食堂。今日のシェフは、ベトナム人のHienさんです。メニューは、Nem rán(揚げ春巻き)とBun Cha(焼肉とビーフン)です。月餅は、Hop君に、お土産に買ってくるようにTV電話で頼んでいました(笑)


2023年9月24日日曜日

説教メッセージ 20230924

先週、日本語をお教えしてお世話している外国人の方の面接の練習を手伝いました。「転職するので面接があるけれど、日本語に自信がないから」と頼まれたので、夜Zoomで急にやりました。言い方の間違えや、国特有の発音を修正してあげ、面接官の役の私が「最後に質問はありますか?」と聞きました。すると、「サラリーは毎年アップがありますか?」と急に現実的な質問。一緒に参加していたほかの国の仲間の女性は、「それ、始めに聞かないほうが、いいです」とアドバイス。3人で一緒に笑いました。大切なことだから聞いたほうがいいけれど、急に聞くとビックリされるかもしれません。今日の聖書も給料の話。天の国のたとえだそうです。どんな意味があるのでしょうか?一緒に聞いてみましょう。今日は復活教会の礼拝を担当して中継もします。お待ちしています。(今日は、ネットが止まりませんように!)

聖書の言葉 マタイ 20: 1~16 (新38)

1「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。 2主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。 3また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、 4『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。 5それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。 6五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、 7彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。 8夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。 9そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。 10最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。 11それで、受け取ると、主人に不平を言った。 12『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』 13主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。 14自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。 15自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』 16このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

説教 「彼に1デナリオン、私にも1デナリオン」  徳弘浩隆牧師

1,「 聞きにくいコトですが…」

ここ二週間くらいに二度、面接の練習をしてあげました。急に頼まれて、夜9時過ぎに1時間半ほど、インターネットを使っての練習でした。頼んできたのは、日本語を教え教会にも時々来てくれているベトナム人の若い女性です。一緒に日本語を勉強しているインドネシア人の女性も、一緒に出てくれました。彼女の方が長く日本にいるので少し上手で、一緒に学びながら、時々助けてくれました。

面接というのは、日本で技能実習生で働いてきたけれど3年経って特定技能労働者の試験に合格し、新しい会社で働きたいからという理由です。今までの仕事、変わりたい理由、この業種での経験などを日本語で聞いて、答えるために日本語の間違えや発音を直してあげました。私は面接官になり切って、「最後にあなたの方から、何か質問はありませんか?」と聞くと、普段は控えめな彼女はこう聞きました。「毎年サラリーのアップやボーナスはありますか?」と。その仲良しのインドネシアの女性は笑いながら、「それ、すぐ聞かないほうがいいです」とアドバイスしてくれました。面接の練習をしている女性もはずかしそうに大笑いしました。私も笑いながら、「大事なことだから聞いてもいいと思うよ。でも、先に残業があるかとかを聞いて、その後に、『聞きにくいコトですが』と前置きをしてサラリーのアップのことを聞いたほうが印象がいいかもしれませんね」とアドバイスしました。でも、厳しい環境で仕事をし、半ばだまされたりもすることがあるという、まだ問題だらけの日本の外国人労働者の制度ですから、サラリーのことはきちんと聞いたほうが良いでしょう。そのために、私も支援しているつもりです。

さて、今日の聖書でも、給料のことが話題になっていますね。いったい、神様と私たちの間でどんな関係があるのでしょうか。一緒に学んでいきましょう。

2,聖書 

聖書を簡単に復習しましょう。夜明け前に雇われた人、9時ごろ何もしないで広場にいるところを雇われた人、12時ごろ、また3時ごろ同じように雇われた人。そして、最後は5時ごろ広場に立っている人たちに声をかけると、だれも雇ってくれないから」、と働いていないことに嘆き不満を言う人も雇われました。そして、夕刻給料をもらうときに、最後に来た人から順に1デナリオンずつもらう列の後ろにいて、「自分は朝から働いたからさぞかしもっと弾んでもらえるに違いない」と期待したのに自分にも一デナリオンだった、という状況です。

そこで、「天の国はこういうものだ」と言われると、「なんと不公平な、働き者がバカを見る所だ」と思うかもしれません。そのように私たちの心に疑問がわくという事がキリストの話のポイントです。それに対する答えをどう聞き取るべきでしょうか。

「当然不平を言ってもよい状況だけれど、あなたには見えていないこと、気付いていないことがありはしないか?」と私たちに問いかけます。

色々な解釈が試みられますが、本質はひとつ。神様の大きな愛、そして人間のおごり高ぶりです。人が赦され救われるのは、その人がどれだけ努力したかではなく、神様の側の一方的な大きな愛だという事。そこには、理屈や計算はなく、ただ、神様に招かれたら従う事だ、という事です。

悔い改めて、神様に従っていくことは、長さでも、努力の激しさでもなく、素直に従っていくことが大切です。また、働いた成果としていただく給与は、一デナリオン・つまり当時の一日分の賃金という事ですから、頑張って働いたら残りの日々はのんびり何をしてもよいという事ではなく、毎日の神様との関係が大切という事も教えられます。「きょうも、日ごとのパンを与えたまえ」といのる主の祈りもの言葉も思い出します。

3,振り返り 

きょうの聖書のキリストのたとえは、社会的な労働条件や労使交渉の話ではありません。「天の国は次のようにたとえられる」とはじまっているからです。そして「天の国」とは、「死後の天国」の事ではなくて、「神様の支配のあるところ」という意味で、神様と一緒に生きる人生や社会のことだと、何度も確認してきました。

神様と一緒に生きていない、天の国ではないと言える生き方は、どうでしょうか。私たちの心の奥を見ると、わかります。例えばこうです。

「自分が恵まれるとうれしい、ひとも恵まれると恨めしい、自分のうれしさが減る感じがする。」

「彼は1万円、私にも一万円、でも彼は1時間、私は8時間も働いたのに。雇い主も、彼もゆるせない。」

「今まで自分はこれだけ頑張ってきたのに、彼は今頃やってきてズルい!良いとこ取りはダメだ。」

でも、立場が逆だとどうでしょうか。

「あの人は1万円、私にも1万円、なんと心が広い方だろう。自分にはそんな価値はないのに。ありがたいことだ。」

実は、その気持ちが、私たちキリスト者の気持ちのはずです。「自分は、自己中心的で、先ほど考えたように、ひとの喜びを一緒に喜んであげられない狭い心、罪深い心の持ち主だ。思い通りに行かないと腹が立つ。だけれど、自分の努力ではなく、神様の大きな愛で、あの人も、この私も赦されたのだ。ありがたいことだ。」

仕事の関係では、時間給や能力給という事もあるでしょう。不当な扱いを受けたり、賃金格差が多くあったり、だまされたりするのを認めてゆるすことをキリストは説いているのではありません。そんなことがあれば、私たちは社会正義のために、その人を助け、一緒に交渉したり、社会の不正義を正す声を上げることもします。日本語がわからないだろうからと、うやむやにされ騙されたりしないように、面接できちんと聞いたほうがいいことですよと、アドバイスもします。

しかし、神様から罪深い自分が赦され、生かされるというのは、時間給でも能力給でもありません。それは、神の愛。それも軽々しい愛ではなく、大きな犠牲を払っての出来事。それが、キリストの十字架でした。

4,勧め 

そして、神様との関係は、報酬だけではなく、働きに出ること自体が喜びという事も忘れずにいたいものです。毎日、神様と一緒に生きせてもらい、神様の愛と平和の働きに参与させていただく。毎日恵みをいただく。時には罪を犯し、人を傷つけることもあるけれど、そのたびに懺悔し赦していただき、また人間どおしでも赦し赦され、助け合う関係を持って生きていくこと、それが私たちの神様との生活、つまり信仰生活です。これからも、聖書を学んで、一緒に神の愛を知って、その中を、生きていきましょう。

 

牧師コラム・今日の写真 人の目には偶然・神の目では必然!?

 今日の写真は、先週の偶然の出会いの写真です。

 一つは、こうです。先週礼拝後名古屋の今池のルーテル教会であった会議、高蔵寺教会の山下さんといっしょに行き、会議後、電車で帰る山下さんからLineがはいりました。高蔵寺のメンバーのご主人とアデム君のキッチントラックに出会ったというのです。私は復活教会の牧師館に帰り、そのままもう一度今池に行きました。きれいなケバブのキッチントラック。ケバブもおいしくいただきました。翌日日本の外国人宣教の懇談があり名古屋に来ていた元ペルーとメベトナムから一時帰国中の宣教者も連れていき食事を楽しみました。このケバブは11月12日の高蔵寺教会のるうてるフェスタの目玉の一つでもあります。

 もう一つは金曜日、健康診断が終わり少し街歩きをし、聖公会の聖マルコ教会前で写真を撮り立ち去ろうとすると後ろから呼び止める声。その教会の耐震工事の設計を担当している復活教会の山田さんでした。貴重な工事中の会堂の中も見せていただきました。カトリック、ルーテル、聖公会の三つの教会巡りの写真を撮ってみようと思い、偶然出会ったのです。神様は見ておられ、出合わせてくださいます。神様からすれば、それは偶然ではなく必然の意味のある出会いのはず。感謝ですね。


2023年9月17日日曜日

礼拝メッセージ 20230917

親に口答えをするときの定番、「もう、何度も聞いたよ。うるさいなぁ。」という言葉、言ったり聞いたりしたこと、皆さんおありかもしれません。わたしは、ありきたりのことを言っても面白くないので、「はいはい、その話は、もう百回聞いたよ」と言っていました。効果的でした。われながら、「なかなか上手いことを言ったもんだ。今日も上手くいったぞ」と、満足したのを覚えています。今日の聖書は、「7回どころか7の70倍までも赦しなさい」と言われたイエス様の言葉が伝えられています。人を赦すことの大切さを、ユーモアも交えて、わかりやすく言ったのでしょうか。なにせ、人を赦すことは、何よりもむつかしいことだと、誰もが知っているからです。イエス様の真意を、一緒に学んでいきましょう。今日は、高蔵寺教会で礼拝担当で中継もします。お待ちしています。

聖書の言葉 マタイ 18:21~35 (新35)

21そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」 22イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。 

23そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。 24決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。 25しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。 26家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。 27その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。 28ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。 29仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。 30しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。 31仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。 32そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。 33わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』 34そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。 35あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」



説教 「 神の愛とゆるし≧7×70」  徳弘浩隆牧師

1,「もうその話は、百回聞いたよ!」

子どもが親に反論をするとき、いや、いわゆる口答えをすることは、誰にも経験があるでしょう。「もう、何度も聞いたよ。うるさいなぁ。わかってるよ!」という言葉も、言ったり聞いたりした記憶も皆さんおありかもしれません。

わたしは、ありきたりのことを言っても面白くないので、こういっていたころがあります。「はいはい、その話は、もう百回聞いたよ」と。または、「NHKみたいに再放送ばかりしないでよ!」とも。

再放送はともかく、百回聞いたというのは、文字通り数えてみて100回だったわけではありません。ちょっと、からかいながら、少し笑いも誘い、「あら、そんなに言ったかねぇ。そうよね。もう分ってるよね」と母親が「口撃」を緩めてくれるのには、効果的でした。われながら、「なかなか上手いことを言ったもんだ。今日も上手くいったぞ」と、満足したのを覚えています。

さて今日の聖書は、「7回どころか7の70倍までも赦しなさい」と言われたイエス様の言葉が伝えられています。人を赦すことの大切さを、ユーモアも交えて、わかりやすく言ったのでしょうか。なにせ、人を赦すことは、何よりもむつかしいことだと、誰もが知っているからです。イエス様の真意を、一緒に学んでいきましょう。

2,聖書 

「そのとき」という言葉で始まっている今日の個所は、先週の続きです。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」という具合に話し始めたイエス様がそんな時どうすればよいか、というテーマで話されました。「直接話しても、2人か3人で諭してもだめなら、教会に申し出なさい…」という対処の仕方が説明され、「教会」での信仰生活の大切さと教会の機能が説かれていました。

そして、それに続いて、ペトロが質問をしました。「兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか?」という質問へのイエス様の答えと、それを説明するたとえ話になっています。

先週が罪への対応を説かれ、今週は何回まで赦すべきかと、How toからHow Manyに話は進みます。それのイエス様のお答えが、「7の70倍までも赦しなさい」でした。一説によると、当時のユダヤ教では3回までという答えがあったそうですが、ペトロは「7回まででしょうか?」と思い切って寛大な姿勢を示してみたのかもしれません。しかし、イエス様のお答えは、それどころか、「7の70倍以上」でした。このお返事を聞いたペトロは、「なんと、そんなにですか!」と思ったに違いありません。口答えをする子供が「もう百回聞いたよ!」と親に言うように、それはもう、数えきれないくらい沢山という風に聞いて、「まいった」と思ったに違いないのです。7は聖書では「完全数」と言われているから、その70倍は、際限がない回数と理解できるからです。

そこで今日の説教題の数式、「神の愛とゆるし≧7×70」というわけになるのです。

3,振り返り 

さて私たちは、どうでしょうか。いやなことがあったらメモを付けて、7×70回まで数えて、「あと何回だ。そこまでは赦そう」と生きていいでしょうか?それを越したらどうしましょうか?「いや、そうじゃない。際限なく赦せと言われているのだ。どんなことがあっても、何回でも何百回でも赦さなきゃいけないんだ」と理解してよいでしょうか?

じっさい、そこまで何回も人を赦すことは、むつかしいことです。または何をやっても赦される社会なら、悪ははびこり、正直者が損をするのに、天の国はそんな無秩序な国なのでしょうか?

イエス様のお答えの真意はそこにあったのでしょうか。「何度までも」というHow Manyではありません。その説明のために、次に「天の国のたとえ」のお話をされました。主人の前で、預かったお金の決済をする家来たちと、大金を散財して返済できないひとりの家来です。かれは、しきりに願ったので、王様は憐れに思って赦したのですが、その家来は自分がお金を貸している人に出会うと容赦なく取り立て、返さないと牢屋に入れてしまった、ということになります。それを聞いて王様はその家来を呼びつけて牢役人に引き渡したのです。

これは、「人を赦したら自分も赦される」というゆるしの条件を説いた話ではありません。数えながら人を何度でも赦すのは、自分が何をやっても赦されるポイントを稼ぐようなものです。

ではイエス様箱のたとえで私たちの心をどこに向けさせようとされたのでしょうか。

王様が1万タラントンの借金をししきりに赦しを願う家来を見て憐れに思って赦したのは、簡単なことだったかということを考えねばなりません。1万タラントンと100デナリオンについて考えましょう。「1タラントン=6000デナリ、1デナリ=労働者一日の平均賃金」という換算式からいうと、1万タラントンは今の価値では6千億円、100デナリオンは100万円といってもいいでしょう。わたしたちにとって100万円も高額ですが、王様にとって、いや、一国にとって6000億円ははるかに大きな額で、国の規模によっては一国の予算を左右するほどかもしれません。王様といえども大変な損害で、それを被る覚悟が必要です。

これは、神様と言えども簡単に人を赦すということではないんだ、ということでもあります。事実、この罪びとたち人類を救うために、神様ご自身が大きな覚悟と犠牲を払われました。それが、この話をしておられるイエス・キリストですし、やがてこの方がその道を行く犠牲の出来事が十字架であったということを考えねばなりません。天の国は、神の愛は、自己犠牲の痛みを伴いながら人を愛する、そんな国であり、そんな愛なのです。

4,勧め 

 人を赦すとき、自分には損害や痛みを伴います。それも引き受けていくことが、本当の愛です。それによって許され、新し生き方に招かれたのが自分なのだと、そのことを受け止めましょう。そのとき、すこしずつ、ときには、人を赦せるようにされるのです。頑張ってもできるものではありません。自分の罪深さを知ることが大切です。

 イエス様の神の赦しと愛のお話は、How to(どんなふうに?)から、How many times(何回?)へ、そしてその奥底あるHow much(どれほどまでに)ということに目を向けさせられました。神のゆるしと愛と恵み、この話は来週も続いて新しく展開していきます。おたのしみに。聖書を学んで、一緒に神の愛を知って、その中をそのように、生きていきましょう。

 


牧師コラム・今日の写真    





今日の写真はポーランドのクラクフという市からの写真です。LWFの世界中の責任者が集まる総会が、今開かれています。JELCからは元議長の大柴牧師が代表として出席しています。

クラクフは、前の前のローマ教皇のヨハネス・パウロ二世の出身地。そして、そこから遠くないところにアウシュビッツ収容所跡があります。そこの見学ツアーもあったそうです。私もドイツの仕事の帰りに当時のJELC責任者と一緒に訪ねたことがあります。この、キリスト教会も黙認してしまった大虐殺を覚えて、共に悔い改めさせられます。世界に広がり、いろんな文化や言語を持つ人たちの中にある、ルーテル教会です。この世界のルーテル教会の責任者たちと、若者たちもつどい、これからの教会の在り方や協力の在り方を、祈り、話し合う総会に、祝福がありますように。


2023年9月9日土曜日

礼拝メッセージ 20230910

昔のパソコンやソフトを買った時には、分厚いマニュアルが何冊もありましたよね。今は、あまり、ありません。それは、マニュアルがないくらい使いやすく簡単になったから?そうではありませんね。ネット上にあって、いつでも参照できるようになったからでしょう。車のマニュアルもネットで見る時代です。人生のマニュアル、教会生活のマニュアルはどうでしょう?何にもなくてもいいくらい簡単?そうですが色々ややこしいこともありますよね。聖書を見てみましょう。今日は復活教会で礼拝担当しますから、高蔵寺教会は代読。でもYoutubeで配信もして、Facebookでも10.20くらいに案内が出ます。お待ちしています!

聖書の言葉マタイ 18:15~20 (新35)

15「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。 16聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。 17それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。18はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。 

19また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。 

20二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」



説教 「 2 + 3 = 6 ?」 徳弘浩隆牧師

1, 教会員マニュアル?

今日の聖書は、「こういう時は、まずこうしなさい。それがだめなら次は、こうしなさい」という具合に、なんだか、マニュアルのように見えますね。

先日、幼稚園の教師研修会の聖書の学びを依頼されて行ってきました。その後は、実務的な研修もありました。こどもがケガをした時の対応で、私も参考になるのでそのまま参加させていただきました。

子どもがケガをした時には、各部屋の壁に下げてある緊急対応マニュアル・シートを取り、それを見ながら、教師を数人大声で呼んで、こどもの状態の確認をし、マニュアルに沿って、AEDを取りに行く人、救急車を呼ぶ人、保護者に電話をする人、救急車の到着に合わせて誘導する人など、書かれてあって、良くできているマニュアルでした。実際にロールプレイをしてみようということで、私も参加しました。しかし、実際に人形相手にやってみると、段取りが難しかったり、分かりにくいところもあり、意見を出し合ってより良いものにしようということになりました。

マニュアルはやるべきことが順番に書いてあり、実はカードになっていてそれをはぎ取って担当者に渡して、それを見ながら行動するのでとても良いのですが、はいだ後にも同じことが書いてあって、どれをやったのかやっていないのかがわかりにくい状態でした。そこで、カードをはがしたところには、別の色で同じ項目があると、実施済みと未実施が誰もがすぐわかるという改善案を私も出しました。

今日の聖書の「マニュアル」に見えるところは、何か改善案があるでしょうか?神様はなぜまた、こんなことを聖書に書かれているのでしょうか?一緒に学んでいきましょう。

2,聖書 

聖書は、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」という設定で、どのようにしたらよいかが、順に書かれています。まず入って二人だけのところで忠告すること。受け入れられなければ、ほかに1-2人連れていくこと。それでも聞き入れられなければ、教会に申し出なさいとあります。それでもダメな場合は、教会としてそれなりの対応をするべきことも示されています。具体的に言うと、「異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」と、つまり、教会員の輪から一時的に距離を置いた付き合いにして、悔い改めが必要な人として対応しなさいということかと思います。

ペテロにイエス様が言われた言葉と同じように、「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と複数形で、つまり、ここでは「教会に対して」、言われています。

イエス様や神様との直接の一対一の関係ではなくて、神様がたてられた教会の機能と、その大切さが示されています。マタイの福音書では特に強調されてるといってもいいかもしれません。

しかし、その教会の秩序と機能は、罪を犯しても悔い改めないものへ誠意を尽くしてもダメだった場合の残念ながら厳しい処置ということだけではありません。「あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」と続くからです。「2+3」は「5」ではなくて、キリストもともにおられる「6」なのです。

3,振り返り 

 先日会議で東京へ行くとき、新幹線でしたから自宅本棚から目についた新約聖書分析の本を手に取ってカバンに入れ、出かけたので、それを読んでみました。学術的にいろいろな説明がされている興味深い書物でしたが、「キリスト教信仰の矛盾」として、指摘しているところがありました。学者として明快で整理され大変参考になるのですが、信仰的には納得できないという面がある方の書物でしょう。「あなた方の罪は許された、というのに、罪を悔い改めよ、という」「ペテロをほめた後サタン呼ばわりする」と指摘し、続いて「事実、キリスト教会は、罪が許された善人たちの集まりに見えないことや、歴史もある」とやんわりとですが厳しく指摘しています。どう考えたらよいでしょうか?ある面、今日の聖書のイエス様の言葉は、それを見越したような、それへのマニュアルのようなお話とみることができるかもしれません。

 キリストを受け入れ、罪を告白し、洗礼も受け・あるいはそれも考えながら学び、神の国へ招かれているのが私たちです。聖書が言う「神の国」は、神様の直接のご支配があるところということで、死後の天国だけのことではないと、何度も確認してきました。

 私たちは、そこに招かれ、そこで生きています。しかし、私たちはまだ、救いの途上でもあり、神様に訓練され、育てられている途上です。終わりの日に、救いが完成すると、キリストの再臨や新天新地が予言もされているのです。

 そこで、この世の命の道のりを歩み続ける際に、「教会」を通して、ゆるしと教えを受け、絶えず悔い改めながら、絶えず新しくされ、生きていく信仰生活を送ることになっています。通信教育や、一人で自宅で済ませるというわけにはいきません。「教会」とは、今日の聖書でもイエス様は「エクレジア」、つまり「集会」「集められたもの」という言葉を使っておられます。集められた人々の中にいることで、「ゆるしと教えを受け、絶えず悔い改めながら、絶えず新しくされ、生きていく」のです。

 そこで、神に対してではなく、「あなたに対して罪を犯したなら」ということも時には起こるのだと、イエス様はあらかじめ言われます。ゆるされているけれども同時に罪びとでもある私たちです。ここで「罪を犯したら」という「罪」は「的を外す」という言葉が語源になっているというその言葉が使われています。

 一生懸命にしていても、良かれと思って一緒にしていても、的を外してしまい、あるいは、それぞれ違う方向に向かって一生懸命にやっていては、ぶつかることや、傷つき傷つけることもあるでしょう。

 方向を修正すること、そのために、正直に話し、また話を聞くことで、悔い改めと和解が起こります。罪を犯しぶつかることも、正直に指摘し悔い改めと和解が起こることも、自分の罪を自覚し、祈り、ゆるし、ゆるされて、信仰的に成長させられることも、「集められた者たち」つまり、「教会」での出来事の中でしか起こらないのです。それが、「教会」の信徒の交流の大切さだと、私は考えさせられます。そして、時にぶつかり、議論し、ゆるし、ゆるされながら、教会で何度も何度も、罪の自覚やゆるしの自覚、愛の足りなさや、すこしは愛せるようになったり、という体験をさせてもらっていると思います。

4,勧め 

 そんな教会に、私たちは招かれています。

 こどもの怪我の時の対応マニュアルでもう一つ大切なことに気づき、私も気づきとして共有しました。最初に見つけて、マニュアルを見ながら対応・指示する人は、年が若かったり、経験がみじかい先生の場合もあるけれど、その人が責任をもって、少し大声を出して、遠慮しないで先輩にも指示を出さないと、混乱したり、時を失ったりしてケガへの対応が遅れることもあるので、その人は遠慮せずにやり、他の人はその時はその人に従いましょう」といいました。何度かのロールプレイの時に、遠慮気味で声が小さく、スムーズでないときがあったからです。

 キリストに従い、教会という新しい家族の中で、一緒に、信仰生活をすることの大切さと、恵みを今日学びました。あなたも招かれています!

 


牧師コラム・今日の写真      



先日、春日井市の国際交流センターから電話があり、通訳を頼まれました。ブラジル宣教師の経験を生かして、通訳ボランティアに登録しているので、その依頼でした。せっかく勉強させてもらったポルトガル語で人の役に立てたら、教会に招けたらとも。ところが、今回は「いいですよ」と快諾した後に分かったのですが、スペイン語で南米の方でした。困っている人がいたらと、少し無理をしてスペイン語と英語でも登録していたのです。だいぶ頭は整理できたつもりですが、スペイン語で話し出すと自然にポルトガル語が混ざったり悪戦苦闘しました。しかし、お役に立てたようで喜ばれました。書類にサインをしてもらい、私もサインして、市の国際交流センターに提出と報告に行きました。「ささえ愛センター」という名前の建物です。何か自分のできることで、「ささえ愛」ができたらいいですね。


説教メッセージ 20240512

 聖書の言葉  ルカ 24:44~53 と 使徒言行録 1: 1~11 (新213) 1:1-2テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。...