2023年6月25日日曜日

説教メッセージ 20230622

 本日の 説教要約


キリストの仲間

1.         導入

(ア)  先日、ノンクリスチャンばかりの方々と聖書研究会。

(イ)  聞いたことがある讃美歌をと、「いつくしみ深き」を賛美

(ウ)  そこで思い出したこと。昔、知り合いの牧師に頼まれて、ホテルでの結婚式を数回、代わりに手伝ったことがある。

(エ)  いつくしみ深きをうたうが、3節は謳わないとのホテル側の意向。

(オ)  その理由は、「よのともわれらを みすてるときも」が縁起が悪い。時間の問題もあるだろうが。

(カ)  今日の聖書は「キリストの仲間」という題。この讃美歌も、「友であるイエス様」。考えていきましょう。

2.         聖書

(ア)  先週は収穫が多いが働き人が少ない。主に祈り、弟子たちを派遣する、という話。

(イ)  そして今日は、続きで、弟子たちに、「人々を恐れるな」というイエス様の言葉。

(ウ)  体を滅ぼしても、魂を滅ぼせないものを恐れるな。

(エ)  二羽の雀が1アサリオンで売られているが、それも神のゆるしがないと地に落ちない。1アサリオン=1デナリの16分の1(ローマ通貨の単位) 約630円

(オ)  だから、理解されなくても、迫害があっても、人々の前で、キリストの仲間だと告白するなら、キリストも神の前でこのものは私の仲間ですと保証する。と。

(カ)  イエス様に従って、宣教を進めていくときには、見せかけの平和ではなく、家族でさえ反対し、分裂が起こることもありうる。

(キ)  そんな中でも、キリストに従うものは、本当の命を平和を得るのだ。

3.         振り返り

(ア)  家族や社会と分裂して、トラブルを起こしながらでも信仰を持てというのではないでしょう。新興宗教や宗教2世の問題も心を痛めます。

(イ)  どんな時にでも、神様に信頼することの大切さ。

(ウ)  神に従うか、人に従うか。心を神に従うが、この世で人に従い合わせるような表面だけの新校舎ではいけない。

(エ)  しかし、社会での調和や人々の安心のためにも、知恵と愛を使うことが必要。

4.         勧め

(ア)  いつくしみ深きの讃美歌

(イ)  原曲作詞者は、アイルランドの教師ジョセフ・スクライヴェン(Joseph M. Scriven)。コンヴァース作曲。

(ウ)  スクライヴェンは、自らの婚約者を事故と病気で2度とも失った。愛する者を失い深い悲しみに暮れていた彼だったが、闘病生活をしていた母親を慰めるため、どんな絶望の中でもイエスを信頼する気持ちを詩に込めた。

(エ)  どんなときにも、イエス様に信頼すること。

(オ)  いやしかし、世の友がすべて敵対し、自分を捨て去るときにも、自分のそばにいて祈りにこたえて慰めてくださる方、それがイエス様。だということ。

(カ)  イエス様がそうしてくれたから、自分もそうする、というのがこの讃美歌。

(キ)  自分の無理な信仰が最初に求められているのではなくて、命を懸けてゆるし救ってくれたイエス様の姿を見て、それにこたえ、信頼しようという歌。

(ク)  結婚式に、縁起が悪いと、割愛するのではなくて、この3節こそ、大切な愛と信頼の歌なのだ。

  今日は実は、私たちの仲間のベトナム人カップルの結婚式でもある。

(ケ)  一緒に神様に信頼して、生きていきましょう。

(コ)  信頼し、助け合う仲間は、イエスさまだけではなくて、教会にも家族という仲間がいる。世界にもいる。自己中心に神様を見上げるのではなくて、同じ神様を見上げた私たちは、助け合い、平和に生きることができるのです。

2023年6月18日日曜日

説教メッセージ 20230618

 こどもの礼拝で、良いサマリヤ人の話をし、劇をしました。困った人を助けないで、言い訳をしながら通り過ぎる祭司の役に抜擢されました(笑) でも先週は、神様はいろんなことに出合わせてくれました。夜中に教会の前の交差点で電柱に車をぶつけられた方、近所のスーパーの前の道で暑い中倒れている方、そして、東海エリアで外国人宣教や礼拝をしておられる超教派の7-8か国の方々。自分の生き方を、見つめさせられ、反省もさせられます。もっとこう生きようと、思わされもしました。さて、今日は復活教会で礼拝担当です。10:28くらいからYoutubeで礼拝中継をし、Facebookでも案内が出るはずです。よろしくお願いいたします。


聖書の言葉 マタイ 9:35~10: 8 (新17)

9: 35イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。 36また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。 37そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。 38だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

10: 1イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。 2十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、 3フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、 4熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。

5イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。 6むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。 7行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。 8病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。

説教 「ビワの木と西洋芝の種」徳弘浩隆牧師

1, 収穫は多いが、働き手が少ない…

「収穫は多いが」という言葉を聞いて、思い出すのは、高蔵寺教会の牧師館の菜園のゴーヤの実と、実が鈴なりになって放置されているビワの木とです。真夏の日差しを避けるために、また、電気代を節約し環境配慮をするために、ゴーヤカーテンを作っていますが、最初はうれしいのに、途中から飽きてしまうのが、次から次になるゴーヤの実でした。収穫も多いし、働き手もいるんだけれど、食べる人が少ないというぜいたくな悩みでした。今年も、順調にカーテンができ始めています。

今年はそれに加えて思い出すのが、高蔵寺教会の道を挟んだ土手のビワの実でした。教会員の方が教えてくれて、少しいっしょにいただいたりもしましたが、鈴なりで、もったいないなぁと思うのでした。

今日の聖書の話は、もちろん農業の収穫のことを言っているのではありません。どんな神様の話でしょうか?一緒に聞いていきましょう。

2,聖書

 まず、イエス様の働きが今日の冒頭で書かれています。「教え、福音を宣べ伝え、癒された」という三つの働きは、キリスト教会の宣教の三つの分野として理解され、今では「教育と、伝道と、社会福祉」という形で私たちも取り組んでいます。「大きな意味での教会の働き」は、宗教法人と学校法人、そして社会福祉法人という事になり、ルーテル教会もそれらを持っています。世界ではLWFはいわゆる伝道だけではなくて、地域の開発援助や教育、災害や難民支援にもつながっています。町や村を残らず回ってこれらに取り組まれてキリストの働きを、その手足となり、継続していることになります。

 そして聖書では、「収穫は多いが、働き手が少ない」と続き、働き手を送ってくださるよう、主に願いなさいと言われます。そのうえで、12人の弟子たちを呼びよせ、派遣するという事になっていきます。

  ここで、二つの疑問がわきます。

1) 収穫が多いとはどういうことか

2) 働き手を送ってもらうよう祈れと言いながら、どこかから送られるのではなく、弟子たちにそれを託したのはどういうことか, という事です。

 それは、「立派な実がたくさん実って、すぐに収穫できる状態」という事ではなく、「収穫すべき時」だという事かもしれません。「収穫」というのは、先週の旧約聖書の朗読でもあったホセア書では、神がこの世に介入して「刈り入れるとき」、つまり、裁きの時であり、救いの時でもある、と理解できるでしょう。「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果てて打ちひしがれているのをご覧になって」と言われてイエス様の言葉ですから、つじつまが合います。そして、「『天の国は近づいた』と宣べ伝えよ」と派遣する弟子たちに命じられた言葉につながっていくのです。

 また先週のホセア書の6章15節も思い出しましょう。「わたしは立ち去り、自分の場所に戻っていよう。

彼らが罪を認めて、わたしを尋ね求め 苦しみの中で、わたしを捜し求めるまで。」と神様は独り言を言われます。人が、苦しみの中で人間の限界や罪を見つめて、神様に立ち返るまで、口出しをしないでしばらく待っていることにしよう、と見ておられるのです。そして、十分苦しみ、悔い改めの準備ができた、神に立ち返る準備ができたときに、神は介入し、悔い改める人々を招き迎え入れるという事になるのです。

3,振り返り 

人生全て準備万端。たくさんの収穫が期待される、実がたくさん鈴なりになっていて、だれか早く収穫しなければという訳ではありません。

病人を招くために来られた主は、自分が病人でもうどうしようもないと気付いた人たちを放ってはおかないで、招かれました。自分は病人ではないと思う人には、その限界を知らせ、時には責め、罪深さを思い知らされることもされました。順調に実がなったから褒められるのが収穫とは限りません。自分の力ではもう、どうにもならず、助けを求めるとき、それが、神様から見たら、収穫の時でもあります。

高蔵寺教会の旧園庭の駐車場も思い出します。土のままでしたから、大雨の跡はぬかるみになって車だけではなくて、その車が走った近所の道路も汚してしまいます。予算は急にはないので、西洋芝の種をまいて、多少の土留めになればとやってみました。だいぶん芽を出し伸びてきました。しかし、まだまばらで、足りないようです。「じっと待っていてもうまくいかない。このままではだめだ」と気付くとき、ただ待つのではなくて、介入しなければと思わされます。種をもう少し買って蒔いて、上から砂場の砂も蒔いて、もう少し整った芝になるよう整えようと思っています。

私たちの人生でも、実がたくさんできて喜ぶ収穫の時だけではなくて、このままじゃダメみたいだからここで何かしようと思うとき、それも神様の介入される刈り入れの時なのです。

4,勧め 

 あなたはいま、どんな生き方をしていますか?順調ですか?それとも、「いや、これは少し、軌道修正したり、やり直しをしてみるタイミングかな?」と思わされる時ですか? だったら、良かった!その時こそ、神様ともう一度で会うときかもしれません。

 そして、もう一つ大切なこと。働き手を祈り求めながら、送り出されるのは誰かほかの人ではなくて、この自分でもあるという事。それも忘れずに心に留めましょう。あなたがまず気付き、そしてあなたが出会う誰か、助けることができる誰かが、そこにいるのに気づいていないかもしれません。遠慮して手が出せていないのかもしれません。

私は先週、夜中に教会の前の角で自動車をぶつけた人、暑い夕刻スーパーの前で倒れて寝込んでいる人に会いました。誰かほかの人ではなくて、自分で駆け寄って、声をかけ、話を聞き、助けてあげました。救急車が来るまで、道に座って話し込んであげました。義務感でもなく、逆に恥ずかしいと躊躇するのでもなく、自然と、そうさせられました。神様が押し出したのだと思います。必要な人が、目の前に急に現れるかもしれませんね。神様に、たずねながら、神様と、教会の家族と、一緒に生きていきましょう。

 

牧師コラム ルーテル教会の三つの働き… 

宗教・教育・福祉 https://lutherans.jp/






2023年6月11日日曜日

説教メッセージ 20230611

昨日は静岡県袋井市にある、デンマーク牧場福祉会の設立20周年感謝会に行ってきました。開会礼拝で説教をしながら、人間の罪深さと、対照的な神の愛を知らされ、説いてきました。今日の聖書でも同様に、その対象的な姿を見せられます。でも、救いがあります。信じてついていくだけ。そんなことを一緒に聖書から聞きましょう。 今日は高蔵寺教会で礼拝説教をします。ライブ中継でもお会いできます。よろしくお願いします!


聖書の言葉 マタイ9:9-13,18-26 

9イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。 10イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。 11ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。 12イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。 13『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

18イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」 19そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。 20すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。 21「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。/中略/ 26このうわさはその地方一帯に広まった。




説教 「神が喜ぶのは犠牲ではなく愛」徳弘浩隆牧師

1, デンマーク牧場福祉会20周年…

昨日は、デンマーク牧場福祉会の設立20周年記念の感謝会に行ってきました。開会礼拝で説教を担当しました。その後、市長さんをはじめ来賓のあいさつ、そして福祉施設の各部署の働きや将来ビジョンについての説明を聞きました。

苦労もあり、紆余曲折もあった60年の歴史と、20年の歴史を振り返りました。最初にデンマーク人の宣教師が伝道と酪農学園設立をしてからの60年。紆余曲折しながら、こどもの家から福祉村構想をもっての社会福祉法人設立をしてからの20年の歴史を振り返り感謝しました。

わたしは、マタイによる福音書18章の「迷い出た羊」の個所を与えられ、牧場に建てられたこの施設は、一匹の迷い出た羊のために命を懸けて探しだす牧者の愛の姿を、設立の精神として説明しました。しかしそれは、草原で羊を抱きしめる牧者のステンドグラスだけを見る、田園風景ののどかな姿だけではないことも説明しました。マタイの18章のこのたとえには、イエス様の話の流れから、前段があるからです。

それは、18章の1節に弟子たちが、「天の国でだれが一番偉いか」という質問をイエス様にしたことから始まっていることを見逃してはいけないからです。イエス様に従う弟子たちの関心ごとは、神の言葉でもなく、集まる群衆を不憫に思うことでもなく、自分たちでだれが一番偉いかという、いかにも人間臭い、あきれるほど罪深いものだったのです。弟子たちの傲慢さや虚栄心・競争心、それをたしなめ罪に陥らないようにと教え、しかし、そんなものでも、無条件に愛するのが神様なのだという、3段目の話が、このステンドグラスに描かれた、羊を抱きしめる牧者・つまりイエス様の姿なのです。

神の愛を教えた教えですが、それは、驚くほどの積み深い人間の浅ましさ、不完全さに全く逆行する、大きな神の愛でした。そんな、人間の不完全さも知りながら、神の愛に動かされて、人を愛し奉仕するのが、デンマーク牧場の愛の精神なのだと、説明しました。

2,聖書

 今日の聖書も、イエス様の愛の姿を、「真空の状態の中」で説明したものではありません。人間の罪深さがうごめく中で、際立ったイエス様の姿を伝えています。それを見逃してはなりません。どんな風にイエス様は罪びとに出会い、接されたのでしょうか。聖書を学んでいきましょう。

 マタイという徴税人のところへやってきたイエスさまでした。徴税人は、ユダヤの民を支配するローマ帝国の手先にもなり、自分たちの宗教や文化を抑圧する人の側で、税金を取り立てる「悪の手先」でもありました。イエス様は、そんな人のところへやってきて、何をされたのでしょうか。その罪状を暴き、人々の前で見せしめにするかのように叱り付け、罰を与えるのではなくて、ただこう言われたのです。「私に従いなさい」と。すると彼はなんと、立ち上がってイエス様に従っていったのでした。そこまでは良いとしても、次には、彼の家で食事を一緒にしていたというのです。

これは、ファリサイ派の人たちには理解できず、我慢できないことでした。それで、弟子たちを攻め立てたのでした。それに対するイエス様の言葉が、有名なこの言葉でした。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

ファリサイ派の人は、聖書の掟を学び、厳格に守る人たちでした。それができないいい加減な一般人を軽蔑すらして、彼らと交流しないのが宗教的なプライドですらありました。みんなと離れ、分離しているから、「ファリサイ派」と呼ばれたといわれています。「離れたもの、分離したもの」という意味合いがあったそうです。

それに対して、聖書の言葉を守れない、いい加減な一般人の中に入り込み、彼らの声をかけ、従うものの家で一緒に食事をされたイエス様の姿は、いかにもファリサイ派の生き方と対照的でした。

この話は、ファリサイ派のような生き方をしていないけれども、素朴な信仰をもつものが、癒され死から生き返るという奇蹟的な方法で神の恵みを受ける奇蹟物語に続いていくのでした。

3,振り返り 

 私たちの生き方を振り返らねばなりません。どんな生き方をしているでしょうか。

 なんの良いところもないのに、キリストに声をかけられた、そんな一人かもしれません。「私に従いなさい」と。努力をして修行をしてきたわけでも、聖書の通り一生懸命生きていたのでもありません。そんな私たちをどのように、神様は見つけ、声をかけられるのでしょうか。

 それは、罪の社会の中で生き、苦しみ、救いを求め、自分の限界に気が付いていたからかもしれません。そんなときには、神様の呼びかけが心に響きます。「医者を必要とするのは病人」だからです。自分が健康で医者は必要ないと思う病人こそ、厄介なものです。ファリサイ派はそんな人たちだったのかもしれません。

 4,勧め 

 私も先週久しぶりに眼科の病院に行きました。「少し時間が空きましたね。目薬は足りていましたか?」と聞かれました。「はい、忙しくて来られませんでした。目薬はなんとか足りました。時々さし忘れたりもしましたし」というと、「そうですか。正直なのは素晴らしいけれど、ちゃんと目薬を差してくださいね」と笑いながら言われてしまいました。 私が病院へ行かねばと、ようやく言ったのは、健康だったからではなくて、そろそろ薬がなくなるという限界と、調子がまた悪いという限界からでした。

 今日の旧約聖書を読んで、苦笑いをしてしまいました。神様は、人間が自分の罪の生き方で、限界になるまで、身を隠して、自分に立ち返るようになるのを待っていると、ホセア書にある言葉です。「わたしは立ち去り、自分の場所に戻っていよう。彼らが罪を認めて、わたしを尋ね求め苦しみの中で、わたしを捜し求めるまで」と。

そして、人が悔い改めて、つまり「立ち返ること」を願い、待っておられるのです。そこで、今日イエス様が引用された言葉に続きます。「神が求めるのは、犠牲ではなくて愛なのだ」と。犠牲ばかりを強いるファリサイ派のようにではなく、自分の限界・罪に気づき、神に立ち返ること、そのために、試練もお与えになる神様の愛を、見上げることができますように。そして、罪びとを裁くだけではなく、温かい愛のまなざしで、接してくださるキリストの愛で、私たちは招かれているのだと、確認していきましょう。

 そして、その招きに信頼してついていけるようになりましょう。それが、「信仰」なのです。それで、私たちは、癒され、問題も解決されるでしょう。

 一緒に信仰を持って生きていきましょう。

 

牧師コラム 

デンマーク牧場福祉会20周年… 

デンマーク牧場福祉会の20周年感謝会。礼拝で説教を担当しました。

袋井市・市長さんや県の担当者、近隣大学の先生たちもお祝いに駆けつけてくれました。そして、キリスト教精神にのっとった、働きの紹介を聞きました。

8月に高蔵寺教会の講演会にお呼びする武井ドクターの報告もありました。ありがとう。またお会いしましょう。


2023年6月4日日曜日

説教メッセージ 20230604

今日は三位一体主日。ニュースでも聞いたことがあるけどよくわからない言葉。一緒に考えてみましょう。今日は、復活教会で礼拝担当します。中継はYoutubeですがFacebookでも案内します。プライバシーのこともあるので、カメラのアングルを牧師中心にしますから、途中、誰も見えない場面もあるかと思いますが、ご了承ください。では、今日もよろしくお願いします。


聖書の言葉 

マタイ 28:16~20 (新60)

16さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。 17そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。 18イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」。



説教 「だから、あなた方は行って…」 徳弘浩隆牧師

1,三位一体…

三位一体という言葉は、ニュースや新聞でも時々聞く言葉です。

試しに、「中学生新聞 三位一体」というキーワードでインターネットで検索すると、「ニュースの言葉―日本と世界のいまがわかる (岩波ジュニア新書) 新書」という本が出てきます。そして、なんと、歌でも「三位一体」という題の曲やアルバムタイトルがいくつも出てきてびっくりしました。

ニュースではこうです。一つは、5月26日付のニュース記事で、「政府は5月16日、第18回新しい資本主義実現会議(議長・岸田文雄首相)を開催し、三位一体労働市場改革の指針(案)について議論した。」という書き出しで出てきます。

どれもこれも、キリスト教が言うところの、オリジナルの「三位一体」の意味やニュアンスを伝えるものはありません。唯一救い(?)だったのは、5月16日付のこんなニュースでした。「ロシア正教会モスクワ総主教庁は15日、15世紀に描かれたイコンの傑作『聖三位一体』が、所蔵しているモスクワの国立トレチャコフ美術館から同正教会に返還されることが決まったと発表した」。こんな説明で終わっています。「タス通信によると、ロシア革命後の1929年に大修道院から同美術館に移された。」つまり、1917年の革命から後に社会主義国家が作られ、ソ連で宗教が否定されていくなかで宗教的なものではなくて美術品として扱っていたのが、今回人々の声によって教会に返還されるということです。

ちなみにこの絵画は、旧約聖書のアブラハムを訪ねた3人の旅人、つまり天使を描いています。この出来事は、「旧約における至聖三者(しせいさんじゃ)の顕現(けんげん)の一つ」、つまり新約聖書の三位一体を象徴する一つの出来事でいにしえからの神様の人類へのかかわりの出来事と後に理解されてきました。

さて、このように日本でも多くの人が知っているけれどもその「いわれ」や本当の意味を知らない「三位一体」という言葉ですが、今日どのように理解し、神様の声を聴いていけばよいのでしょうか。

2,聖書

 今日の聖書はこうです。

1) 旧約聖書では、最初の最初、天地創造の物語が選ばれています。少し長いので中間部分を割愛して読んでいただきました。天地創造の「父なる神」を一緒に思い出したことになります。

2) 続く使徒書は、第2コリントの手紙で、パウロが最後にこう結ぶ言葉がある箇所が読まれました。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」つまり、父と子と聖霊という、三位一体の神がみんなとともにあるように、という祈りの言葉です。

3) ここまでは、三位一体の説明や根拠、前触れのようなことでしたが、福音書では神様は何を語っておられるでしょうか。

マタイによる福音書の最後の部分です。「弟子たちを派遣する」という小見出しですが、「大伝道命令」とも呼ばれる場所です。「行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」とあるからです。

 さて、難しい三位一体の教義ですが、神様はこんな方です。こんな風に理解してよいでしょう。

1) 天地を造り人を造り、背く人類を救うためにかかわってこられた父なる神

2) そして地上に人として来られた子なる神。この方イエス・キリストの降誕とご生涯、十字架と復活ののち、約束を残して昇天されました

3) 約束の通り、豊かに降り注いだ聖霊なる神。この聖霊の降臨された出来事までを先週読みました。

父・子・聖霊という三つの形で私たちにかかわられる神様の三位一体が理解されますし、それがそろったともいえるのが先週の聖霊降臨祭でした。

では、この方は私に何を望んでおられるのでしょうか?それが、イエス様の最後の「命令」の言葉で、今日読まれたのでした。それは、「救われて、良かったね」というだけではなくて、その次には、「すべての人を救い弟子にし、キリストの命じておいたすべてのことを守るように教えること」なのです。

3,振り返り 

 私たちはどうでしょうか。「自分が救われた。本当に感謝です。」それは、一番大切です。しかし、そのあとの、「だから、あなた方は行って…」という言葉を読み飛ばしてはいけません。

伝道をし、洗礼を授け、キリストが新しい掟として残された、「神を愛し、人を愛すること。私があなた方を愛したように、あなた方も愛し合いなさい」と言われた言葉を心にとどめて生きていかねばなりません。そうすれば、いさかいや争いはない、自分の人生も迷いゆくばかりではい、となるはずなのです。

 この言葉を聞いて、「私たちは救われた、選ばれたクリスチャンで、人々を説得して、分からなければ力で従えてでもクリスチャンにして、それでもわからない人は裁かれる人だから…」と考えることはないでしょうか? それも、諍いや戦争、キリスト教帝国主義が世界を征服していった功罪の罪科のほうもあることを悔い改めねばなりません。

 今日の旧約聖書は、「神の形に人を造られた、男と女に」とあります。そしてすべての人は神によって作られたのです。男女の差別も、民族の差別も本当はないはずです。そして、イエス様は自分の民族だけにではなくて、「すべての民を」と言われています。特別の民族だけではなくて、世界の人すべてを愛し、そのために十字架に死なれた方は、すべての人が同じように救われるのを待ち、私たちに託されたのです。

4,勧め 

 ニュース記事での「三位一体の改革」は、政府補助を減らし、財源を地方に移譲し、地方が主体になるという3つが一緒に行われなければ改革はできないと、行財政改革を目指した言葉で使われ始めました。

 私たちの信仰的な生き方、神様と一緒に生きる生き方は、どうでしょうか?父なる神に造られたけれど罪びとの私、子なる神が十字架で死んでくださったことによって赦され救われた私、聖霊なる神の豊かな風を心で受けて、悔い改めと愛のある生き方で、新しい人として生まれ変わることが、いわば、「神様による私の三位一体の改革」かもしれません。

 世の中で独り歩きしているこの言葉を、私の、言葉と思いと行いに、取り戻しましょう。その時に、本当に自分の人生が祝福され、うごかされ、愛と平和、つまり安心の生き方が始まります。

そんなことをもっと多くの人にも知ってもらいたい、味わってもらいたいと、この教会という家族に加わってもらいたいと、祈りながら生きています。あなたも一緒に、祈り歩いてくださいませんか? 


牧師コラム 

本の紹介… 

これは、先日の全国総会で教会に一冊ずつ配られた本です。堅苦しい題名で、とっつきにくいけれど、帰りの新幹線の時間を有効利用しようと読み始めました。すると、最初から共感することが多く、読んでいますし、おすすめしています。「西洋経由」のキリスト教の教義を、アジアの人々の視点で読んで考え直してみようという、真摯な試みであると思います。著者は私も会議や出張でお会いしたこともある、アジア諸国の牧師神学者たちです。

実は、キリスト教はもともと「アジア由来の宗教」です。ユダヤ教から、あるいはそれを神様が準備として用いられた末に生まれた約束されていたキリストに従うキリスト教。それがユダヤ民族を超えて地中海一帯に広まり、その西側のローマで成長し骨組みも神学的理解も後付けされながら確立されたのです。それが16世紀の大航海時代に世界へ広がり、半ばその観点や思想が「押し付け」られました。立ち止まって、アジアの視点で読み直してみて、多様な文化や他宗教への敬意や共存、それが宣教にもつながると、そう思います。「良い人たちだけれど、他宗教を軽蔑したり排除して競うような姿勢が強い」とみられる少数派であるクリスチャンの生き方に、私は疑問を持っていました、この本を読んで、もう一度、肩の荷を下ろします。でも、「どの宗教でもいいよ」という相対主義ではありません。こういう視点を持ったうえでの、「聖書のみ、キリストのみ」の生き方で生きていきたいと思われています。教会で借りるか、注文して手に取って、読んでみませんか?


説教メッセージ 20240512

 聖書の言葉  ルカ 24:44~53 と 使徒言行録 1: 1~11 (新213) 1:1-2テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。...