2022年9月25日日曜日

礼拝メッセージ 「驚く奇蹟より大切なもの」

「驚く奇蹟より大切なもの」徳弘浩隆牧師 

今日の礼拝説教は、別に収録したビデオです。一緒に聖書を学び、神様の声を聴いて、祈っていきましょう。




2022年9月24日土曜日

説教メッセージ20220925

 メイルでも詐欺メールがたくさん来る時代、迷惑メールに自動振り分けされて、あまりしっかり見ていないと大切なメイルを見落としてしまう事もあります。またはかかってくる電話に騙されていないかと心配になり、どうしたら本物だという確証が持てるかと、考え込むことも先日ありました。どうしたら、私たちは本物を見分け、信じることができるのでしょうか?まして、本当に意味のある生き方となると、ことは重大です。聖書の言葉から学んでいきましょう。今日は、高蔵寺教会は、信徒による代読で礼拝が持たれます。私のメッセージも録画してアップします。お待ちしています!

聖書の言葉 ルカ16:19~31 

16: 19「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。 20この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、 21その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。 22やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。 23そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。 

24そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』 25しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。 26そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』 27金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。 28わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』 29しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』 30金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』 31アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」


説教 「驚く奇蹟より大切なもの」徳弘浩隆牧師 

1,導入 どうしたら信じられるでしょうか

先日、運転中に見知らぬ番号からの電話がありました。後で残されたメッセージを確認すると、「支払いが確認できないので、お振込みください。詳しくはここにお電話をください」というパソコン音声の案内でした。しかし、最近使っていないカード会社だし、なかなか思い出せません。

メイルでも詐欺メイルがたくさん来る時代。一応私はこういう事には慣れているつもりで、いつも冷静に対処します。メイルなら文章を一部コピーしてネットで検索すると、同じメイルをもらった人の情報があり、偽物かどうか判定するのに役立ちます。今回は、発信者の電話番号を検索すると、実在の信販カードの会社と確認できました。案内された金額や振込先をメモして、冷静に数日考えようと、おいておきました。ところが数日後また電話がありました。パソコンのプログラムの電話なので、「あのー、いつのどれでしょうか?」と聞くこともできません。やむなく財布や引き出しの奥をもう一度探してみて、ようやく使っていないカードを発見しました。ネット上で履歴を見ようと登録し閲覧すると、確かに同じ金額の請求があり、引き落としができていないのを確認しました。それで、やっと安心して、振り込みを済ませました。つくづく思う事は、今は、便利だけれどむつかしい時代でもあるという事です。私たちは、何をどう見分けて、何を信じていいのか、迷う事ばかりです。すぐに信じても騙されるかもしれません。逆に疑い続けていても、支払いに応じずブラックリストに載るかもしれません。

今日の聖書のイエス様のたとえ話は、どうしたら大切なことを信じることがという事を、考えさせてくれます。


2,聖書

たとえ話の登場人物は、ぜいたく暮らしをしていた金持ちと、貧乏で病気もちで「不幸な」ラザロです。しかし、二人の死んだ後は運命が逆転しているように見えます。ラザロは天使に導かれて宴席のアブラハムのそばにいますが、金持ちは陰府で炎の中で苦しんでいます。アブラハムといえばユダヤ人の信仰の祖であり、彼の子孫であることを宗教的に皆誇りに思っていますから、そのそばで宴会に招かれているのは最上の幸せでしょう。

苦しむ金持ちは大声で、アブラハムに頼みました。炎の中で苦しんでいるからラザロにその指先の水で自分の舌を冷やさせてください、と。しかし拒否されました。そこで、自分の運命はもうあきらめたのでしょう、せめて自分の兄弟が自分のような苦しみに合わないために、ラザロを蘇らせて遣わしてくれたら悔い改めるでしょう、と。しかしそれも拒否されてしまいます。なんと冷たいと思うかもしれません。

しかし、その理由はこうでした。「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」 「モーセと予言者」とは何を意味しているのでしょうか?それは、ユダヤ人にとっての聖書そのものの事なのです。キリスト教からすれば旧約聖書ですが、彼らには神から頂いた大切な言葉すべてでした。モーセは神が人に与えた救いと守りの約束である律法を意味し、預言書はたくさんの預言者によってその時々に合わせて語られた神の警告や約束などの言葉でした。それを大切にし、よく読んで、そのように生きていない人は、どんな大きな奇跡が起こっても、何も信じないだろう、と信仰の祖であるアブラハムが語っているのです。


3,振り返り

 私たちは、何を信じているでしょうか。どう見分けているでしょうか。大きな奇跡や、有名な説教者や神学者が、センセーショナルに語ってくれたら、初めて理解し悔い改めるでしょうか? または、自分の祈りが聞かれ、奇跡が起こり、ご利益があるなら、信じるでしょうか?

 そんなことを期待してもだめだ、と、今日のたとえは言います。教えられ、信じ、悔い改め、正しい生き方をする方法や指針は、もう既に与えられているからです。旧約聖書の告げる神の言葉は、「神を愛しそれに従い、人を愛すること」、それに尽きるともいえます。そう生きれば、幸せに平和に生きることができるのです。しかし、この金持ちのラザロに対する生き方は、そうではなかったのです。想像を膨らませると、この金持ちはラザロに一杯の水を持って行ってあげたことがあったでしょうか?自分は炎で苦しんでいるから、指先の水滴でもラザロに運んでほしいと願うのは運命の皮肉です。キリストは、小さくされている人に一杯の水を差しだすのは私にしたことなのだ、と言われた言葉も思い出します。

 ヨハネ福音書の死から生き返ったラザロとは違い、今日の話はたとえ話ですが、この奇蹟も思い出します。しかし、その奇蹟そのものが大切ではありません。「人を愛し敵さえ愛せ」と言われたキリストはそのようにしたために十字架で死なれたのです。そしてやがて蘇られたキリストご自身の歩みも思い出すべきでしょう。


4,勧め

 私の最初の出来事に話を戻しますと、かかってきた電話に、「ちょっとすみません。どのカードの話でしょうか?」と直接聞くことができればすぐに解決ですが、そうはいきませんでした。「直接話ができない案内電話だけだはけしからん!」と怒っても仕方ありません。詐欺の電話かもしれないから何を信じたらいいのかわからないと、不安がっても、無視を続てもいけません。よく調べて確認する方法は、実は既に手元にあったのです。仕方なくもう一度、財布や引き出しの奥を探したら確認できたように、神様との関係も同じだと、反省させられました。

今までの人生で、既にたくさんの恵みを経験し、神様からの約束やメッセージは聞き、手元にあるのに何もせず、大きな奇跡やご利益だけを求める人間はなんと身勝手なのでしょうか。そんなどうしようもない不完全で自己中心な人間のために、いのちを差し出して、律法と預言を実現し、罪の自覚の悔い改めと、新しい生き方へと招かれたのがキリストです。

キリストに学び、従っていきましょう。驚く奇蹟よりも大切なことがそこにはあるのです。そしてそれを通して変わる人生こそ、奇跡なのです。神様の祝福の中を、一緒に生きていきましょう。


2022年9月21日水曜日

やさしい日本語講座「ぺらぺらクラブ」にも高蔵寺教会の方も参加

ルーテル教会・東海教区の外国人支援プロジェクト「ぺらぺらクラブ」。徳弘牧師が担当しています。

今日は日本で暮らす中国の方が新しく参加で10名。インドネシア、ブラジル、日本、アメリカ育ち、中国育ち、いろんなルーツや背景の方々で、楽しくやさしい日本語の勉強とおしゃべりをしました。夜勤になってこれないヴェトナムのメンバーもいました。

高蔵寺教会に出入りしてくれている外国人や、日本人の教会メンバーも出て助けてくれます。

私が漢字を間違えると中国の方が直してくれるし(さすが漢字の国!)、インドネシアの方の質問をアメリカ育ちの方が拾ってくれるし、日本人の年長の方が、正しくきれいに読んでくれるし、みんなで楽しくやっています。今日は、「四季の歌」のリスニング、ディクテーション、答え合わせと、四季のどれが好きかそれぞれ日本語で発表。今日はみんなクリスチャンでお祈りして終わりました。来週は何にしようかな?お困りの外国人や、もっと日本語が自由になりたい外国人の方がお知り合いにいたら、ご紹介ください。

ありがとう。またね。

2022年9月20日火曜日

エリザベス二世の葬儀を見て…

後学のためにもと、中継を見ました。ルーテル教会に次いで宗教改革をしてローマカトリックから分かれた教会と王室でもありますし。



教えていただいて、式文もダウンロードしました。日本語の中継は礼拝としての通訳や説明も詳しくなくて物足りず、ブラジルやスペインやアメリカの中継を切り替えながら。エリザベスはスペイン語ではイザベル。聖書朗読の次の讃美歌はスマホのマイクに聞かせて、Googleで「歌の検索」をするとすぐに出てきました。日本語では教団讃美歌第2編の41番(讃美歌21の120番)ですね。

早速今度のうちの教会の聖書研究会で歌って、英国国教会(聖公会)やイギリス王室の関係を少し整理して説明できたらと思います。説教の最後の「We will meet again」が女王のコロナ禍のメッセージの最後と同じで、良かったですね。(第二次大戦の時の歌の引用の引用としても)

2022年9月18日日曜日

礼拝中継 20220918

礼拝時のライブ中継は不調でしたので、Facebook動画をここに登録しました。ご覧いただけます。YouTubeはどうしても途中で止まってしまい、改善の研究が必要です。すみません。

初めの10分ほどは礼拝前で安定した配信のための準備部分です。少し飛ばしてご覧ください。

https://youtu.be/hZlnFeT0nDo


2022年9月17日土曜日

9月18日は、David神学生の説教です!

 8月から宣教研修で来ているデイビット・ネルソン神学生がいよいよ、説教です。8月から来ていて、少しずついろいろなことにかかわりスムーズなスタートでしたが、説教も担当するようになります。

FacebookとYoutubeで礼拝の中継もします。YouTubeはサーバーの都合なのか、日曜日午前中は止まることが多かったので、Facebookのみにしていましたが、今回はリモートで一緒に礼拝に参加される教会も予定されているので、両方中継します。万一の場合は、Facebookと二本立てですから、切り替えるなどしてください。

1)Facebookは ここから https://www.facebook.com/hirotaka.tokuhiro

2)YouTubeは 10時10分から中継開始で、その時に、このブログでアドレスをお知らせします。

日本福音ルーテル高蔵寺教会 (luther-kozoji.blogspot.com)

よろしくお願いします。

徳弘浩隆

2022年9月11日日曜日

説教オンライン動画 20220911

 復活教会で礼拝説教したときの礼拝の模様です。ご覧ください。

先週のはビデオと音声がYoutubeの都合で、少しずれていたようでしたが、今日は大丈夫と思います。ただ、最初が少し乱れ、画像は左右反転を変えられましたんでした。すみません。今週も一緒に元気に過ごしましょう。



2022年9月10日土曜日

説教メッセージ 教会だより 20220911

100匹の羊と迷い出た1匹、101匹わんちゃんのお話し、千夜一夜物語、ブラジルには1001の使い道があるというBomBrilという金ダワシの宣伝(これでもか、という感じですよね)がありました。数合わせや言葉遊びとは違う、それぞれの深い意味がありそうですね。聖書を一緒に呼んでみませんか?9/11は復活教会で礼拝説教を担当します。Facebookで中継し、Youtubeは高蔵寺教会のウエブサイトに夜には載せる予定です。一緒に私たちの生き方を考えてみましょう。お待ちしています。

聖書の言葉

出エジプト32: 7~14 (旧147) より

32: 7主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、 8早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」 9主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。 10今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」

 11モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。 

ルカ15: 1~10 (新138) より

15: 1徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。

 3そこで、イエスは次のたとえを話された。 4「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 5そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、 6家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。 7言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」


説教「神をなだめるモーセ」 徳弘浩隆牧師

1.101匹わんちゃんと100匹の羊…

今日の聖書を読んで思い出したのは、「101匹わんちゃん」の映画でした。有名なディズニーのTVシリーズで放送は1961年、なんと私が生まれた年でした。

映画を見たことがないのですが、ネタバレにならないようなネット上の映画紹介を見てみました。白い毛で黒い丸い模様がきれいなダルメシアンという種類の犬の毛皮でコートを作ろうとした人がいて次々に捕らえられるダルメシアン。一匹の犬がとらえられたので、仲間の犬が救出に行くと、そこにはすでに99匹の犬が捕らえられていたというのです。彼らの活躍で無事に脱出できるのが全部で101匹、というのがこの数字の意味とのこと。そして実は、99匹集めていた人は、あと一匹捕まえればみんな殺してしまってコートを作ることができたはず、という説明も載っていました。


2.聖書

今日のイエス様のお話は、有名な100匹の羊の話です。一緒に聞いていきましょう。

今日のルカの15章の二つのたとえ話と、実は16章のその続きの話は、同じ設定で一つのテーマで教えておられます。失った硬貨を見つけた人の喜び、放蕩息子の話と、それぞれ有名な話です。

これが語られた状況を見なければ、その深いメッセージは受け取れません。どんな状況だったでしょうか?

1)イエス様のところに、徴税人や罪人が皆、話を聞こうとして集まってきた。2)ファリサイ派や律法学者はそれを見て不平を言った。3)その訴えは「イエス様は罪びとたちを迎えて、食事まで一緒にしている」ということでした。それに対する返事としてのたとえ話です。

ファリサイ派は、「分離する」という言葉からファリサイといわれたという言葉通りに、汚れたものから離れ、神様の言うとおりに正しく生きていた人たちでした。律法学者も、生き方はとにかく、神様の掟を十分知っていて教え、人生を指導するような先生たちでした。彼らの考えには、聖書の規定を大切に守ることに心を向け、評価されるべき点はあったでしょうが、それを破ってでも人を助けるとか、愛するという姿勢はもちろんなかったのです。だから、イエス様にそんな批判をしたのでした。

それに対して、イエス様は、掟や細かな規定を守ることよりも、多少それを踏み越えてでも、苦しみ迷う人を探し出し、一緒に行き、そして救い出すという姿勢があったといってもいいでしょう。

100匹の羊の中から1匹が迷い出たら、99匹を残してでも探しに行き、見つかればどれほど喜ぶだろうか、という訳です。掟も細かな規定もいいけれど、それを超えた神の愛があるという事、そして失っていたものを見出した時は大きな喜びがあるという事を教えました。それほどの大きな愛の方が神様だというのです。


3.振り返り

では、ファリサイはや律法学者が完全に間違っていたのでしょうか?私たちはどう生きるべきでしょうか?イエス様のように、私たちも「自分で正しいと思うこと」のためなら、掟や規則を自由に破っていいのでしょうか?そうではありません。では、なぜイエス様はそう見えることをされたのでしょうか?

神は「義(ぎ)」なる方です。「義(ただ)しい方」ともいえます。悪を憎み、罪を見逃されません。しかし、同時に、神は「愛の方」でもあります。その二つの間には、葛藤ともいえるものがあります。罪を赦せない正しさと、それを超えてでも赦して救い出したい愛、その葛藤を神は持っているのです。

それに対する人間は、罪にまみれた罪びとたちと、神の声に従う事だけに一生懸命だったファリサイ派と律法学者がいました。そこに「義の神と愛の神の葛藤を超えるために、この世に来られたのがキリストです。


4.勧め

そんな神様の胸の内を思い知る物語もありました。今日の旧約聖書の話です。とても興味深いものです。神様が、モーセに「なだめられている」からです。エジプトから命からがら救い出してあげたイスラエルの民は、モーセの留守中に早速神様を裏切り、偶像を拝み始めました。それを見て「私を止めるな。私は怒っている。彼らを滅ぼす!」と神様は怒ります。それに対して「どうしてご自分の民に向かっていかるのですか。あなたが救い出した民ではありませんか。約束を思い出してください」とモーセは懇願します。というよりも諭されているところが、正しさと愛の間で揺れる親心のようなものを感じ、親しみやすくさえ感じます。

さて、最後に101匹と100匹の話です。101匹のほうの映画のストーリーは、犬を盗み出し捕まえて、目標達成のために他者を犠牲にしていくという悪から、2匹の犬が力を合わせて救い出すお話しでした。

それに対して、神の怒りを思いとどまらせたのがモーセで、解決するために矛盾と葛藤の中自分のいのちを犠牲にして、人々を取り返したのがキリストでした。危険を顧みず1匹の羊を探しに出たのは、キリストご自身の姿です。

私はどんな生き方をしているでしょうか?一人も失いたくない神様の愛で、探し出されたものであることを感謝しながら生きていきたいと思います。そして、正しく生きるプライドよりも、なりふり構わず人のために生きれるようになりたいですね。 

 

牧師コラム

エリザベス女王と英国国教会、宗教改革について 

 世界の多くの人の目が故・エリザベス女王にその死を悼む気持ちで注がれています。この機会に、王室と英国国教会、宗教改革について少し考えてみましょう。

 専門家ではありませんから多少の誤りがあるかもしれませんが、神学校やいろんな書籍で学んできたことをもとに簡単にまとめてみます。宗教改革の教会である私たちルーテル教会や、英国国教会、ローマカ・トリック教会のことも知っておくと、自分たちの信仰的立場がより明確になるからです。

 さて、エリザベス女王は、英国(正式名称はグレートブリテン及び北アイルランド連合王国)の女王でしたが、英国国教会の元首長でもありました。ちなみに結婚対手のフィリップは遠戚関係にあったギリシャ王子及びデンマーク王子の地位を形だけ持っていたのですが、結婚前にギリシャ正教会から英国国教会へ改宗し帰化しています。

 英国国教会は、1517年のルターの宗教改革に次いで、イギリス王ヘンリ8世がカトリック教会から宗教的に分離独立しローマ教皇ではなく自らを宗教的首長とした「宗教改革」で生まれた教会です。1534年に始まり、1559年にエリザベス1世の時に教会制度が確立しました。ヘンリ8世もルターと同じくカトリック教会から破門をされています。

英国国教会はアングリカンチャーチとも呼ばれ、同じ流れをくむ世界中の組織の共同体・アングリカンコミュニオンの一つです。アングリカン(Anglican)とはEnglishのラテン語読みと関連がある言葉です。アングリカン・コミュニオンは、私たちルーテル教会で言うLWF(ルーテル世界連盟)と同じような世界での組織とも言えます。

日本では「日本聖公会」と呼ばれ、この「聖公会」はニケア信条や使徒信条の「聖なる公同の教会」から来ています。ちなみにこの「聖なる公同の教会」のオリジナルの言葉はラテン語では「sanctam(聖なる) Ecclesiam(教会) catholicam(普遍的な)」で、ルーテル教会でも英語の使徒信条では「holy catholic Church/ 聖なるカトリック教会」と訳されています。面白いですね。カトリックとは「普遍的な」という意味ですから、教派としてカトリック教会のことをいうときには、「ローマカ・カトリック教会」と言う方が厳密です。

 さて、この英国国教会はプロテスタント諸教会から見れば、ローマ・カトリック教会の伝統やしきたりを多く残していますからカトリックのようにさえ見えますし、英国国教会自身もカトリックとプロテスタントの中間的な位置づけで、中道、または橋渡しの教会とも公言されています。

 英国の国王や女王は、英国の宗教改革の成り行きから、英国国教会の元首長ともなり、今では象徴的なものに制限されていますが重要な位置にあります。現実的な宗教的なトップはカンタベリー大司教であり、この大司教がカトリックで言えば教皇に比類される立場ともいます。また、立憲君主制ですから政治的にもその権限は制限されていますが、英国のみならず、旧英国連邦諸国にも影響力があります。王政と宗教のトップがそれぞれ象徴的で得るとはいえ王室であるというのは、良くも悪くも?興味深いところであると感じます。

 故人の魂の平安と世界の教会メンバーの平安、そして世界平和を祈りましょう。


2022年9月5日月曜日

今は日本在住のサンパウロ教会メンバーが会いに来てくれました

サンパウロ教会員でブラジルでご一緒だった日系人のご夫妻が、今はご夫妻で日本暮らしですが名古屋での手続きのついでに会いに来てくれました。妻と4人で食事をして、名古屋と春日井の教会を案内しました。

高蔵寺教会では、もと幼稚園の教室や遊具を見て可愛いと楽しんでおられました。日本で暮らすお子さんご家族のところにかわいいお孫さんもおられる、私と同世代の方です。そしてこの奥さんは、ブラジルの料理やスナックを作られる方でもあります。

サンパウロ教会では、私が行った年から10年間よくバザーも手伝ってくださり、楽しい思い出がたくさんです。今度は教会バザーでなにか一緒にやりたいと盛り上がりました。

渡したお土産は高蔵寺教会牧師館菜園のゴーヤ😅懐かしいおしゃべりで楽しかったです。

2022年9月4日日曜日

説教メッセージビデオ 20220904

 今週から、インターンのDavid Nelson神学生の司式も少しずつ始まりました。説教は徳弘牧師です。9月18日はDavid神学生の説教の予定です。よろしくお願いします。





2022年9月3日土曜日

説教メッセージ・教会だより20220904

 先週は出張で静岡県の会合や諸施設や教会を訪問しました。実は、私が住んでいる名古屋東区の教会は雨漏りや耐震工事で足場が組んであります。そして今回行った袋井市の教会は牧師館修理で足場が組んでありました。ここも実は責任者の牧師は私です。今回出張のついでに、老朽化で補修工事をしているので進捗状況を見に行ってきました。それぞれ順調ですし、教会メンバーが工事の管理をされたり、静岡では伐採除草をしてくださっていて感謝でした。今日の聖書は、塔を建てるときにその前に十分費用があるかどうか計算しないと皆嘲り笑うだろう、とイエス様の言葉。イエス様は建築計画の監査でしょうか?その奥の意味を一緒に聞いていきましょう。明日は高蔵寺教会で礼拝説教をします。Facebook中継もします。お待ちしています。

聖書の言葉 ルカ14:25~33 (新137)

14: 25大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。 26「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。 27自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。 

28あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。 29そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、 30『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。 

31また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。 32もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。 

33だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」


説教「キリストの十字架、私の十字架?」徳弘浩隆牧師

1.サグラダファミリア教会?

今日の聖書の話は、すいずん厳しい言葉ですね。そして、少々関連がわかりにくいと私はいつも思っていました。以下の事柄が続けて言われているからです。

I)親や家族や自分さえ憎まないと弟子ではない。十字架を背負ってきなさい。II)塔をたてようとするなら費用を計算してから。III)戦争をするときは兵力を比較して計算してからで、ダメだとわかれば和睦するだろう。IV)自分の持ち物を一切捨てなければ弟子ではない。

それぞれは有名な話で、それぞれ大切な教えと思えますが、この4つがどんな関係があるのかと不思議に思っていました。福音書を書いたルカが順番を間違えたか無理やりいろんな話をまとめたのかなと、ちょっと不謹慎なことさえ考えたころがあります。そして、塔を建てるときの話は、教会建築や改修工事をするときに、お祈りすることはもちろんですが十分な予算と資金計画が大切だと考えさせられ、思い出す例としてはスペインのバルセロナにあるサグラダ・ファミリア教会の建築が100年を過ぎても完成していないことです。

皆さんはいかがでしたか?どんなふうに読んでいけばよいのでしょうか?

2.聖書

その謎を解くカギは、最初の言葉「大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた」という事でしょう。A)大勢の群衆がついてきたのはなぜか?B)イエス様が振り向いて言われたと言ときにイエス様はどこを向いて歩いていたのか?を考えていけば、謎が解けていきます。

今年何度も学んでいるように、ルカによる福音書は3つのパートにイエス様のご生涯を整理して記録し伝えました。1)聖誕から最初の働きと弟子の信仰告白、2)それを受けて時が来たとエルサレムへの旅を始めその途上での出来事、3)エルサレムでの最後の一連の出来事です。

今日のところは9章途中から始まった2)の旅の途上です。19章から3)になりますから、その旅も後半といってもいいかもしれません。

A)の群衆がついてきた理由は、イエス様の評判が広がり、エルサレムに向かって旅をしているのでいよいよ何かが起こると期待した人々が思い思いの期待を寄せてついてきていたと考えられます。B)の答えは、イエス様はエルサレムに向かっていたという事です。先頭を切って歩いていたかどうかは別ですが、先頭の集団で身近な弟子たちとともに率先して歩き、その後を大勢の群衆がついてきていたのかもしれません。

そこで言われたのは冒頭のI)の厳しいお話です。それはこの有名なイエス様についていけば、いいことがあるかもしれないと、群衆は期待もしていたからです。ローマに支配されるユダの国を再興してくれると政治的に期待した人もいました。事実弟子の一人は熱心党出身のシモン。信仰熱心なグループではなくて政治活動グループの呼び名でした。病気を治してもらったりのご利益を期待した人も大勢いたでしょう。弟子たちの中にも、イエス様が王様に君臨されたら誰がその右と左に座れるだろうと、「我こそは」と願い、議論していた競争心もありました。

それらの誤った期待や、自分こそという思い上がりなどすべてを一掃するイエス様の言葉だったのです。親家族や自分自身すら憎み捨てなければというのです。

そしてII)の塔の建築とIII)の戦争に対するそれぞれの計算についてかたられます。それは、「ちゃんと準備をして、きちんと計算して準備すれば大丈夫だよ」という意味ではないようです。

「自分の力や財力や信仰や行いで神様に選ばれ、救ってもらい、良いものをもらえると思ったら大間違いだ」と聞こえてきます。大きな塔を建てようと思い計算したら到底自分には無理だと気付くのです。そしてその次の話でさらによくわかるように、戦争をしようとしても十分に計算して比較してみたら到底勝てないと観念したら、降参して和睦を願い出るのです。それは、私たちの姿です。神様に対する姿です。

赦され救われるには、自分の努力や善い行いや、目に見えない信仰や、献金や奉仕のすべてを足しても、到底足りないと、気付いてていないのが、愚かな傲慢な人間の姿でした。自分には資格があると思い、先を競ってイエス様についていけばよいことがあると思っていても、到底そんな資格がないと思わされるべきなのです。

IV)の自分の持ち物を一切捨てるという事は、財産を人に施し、人を愛することと思われがちですが、ここではむしろ、自分の力や信仰を過信しないで、すべて打ち捨てて、キリストに従っていく姿を願っておられるのです。

3.振り返り

私たちはどうでしょうか?「まだいける」と思っているときは、まだダメみたいです、「もうだめだ」と思うときに、神様の力と恵みが見えてきます。いわば、神様に対しての無条件降伏。それが、今日の戦争のたとえでしょう。そして、塔とたてるといえば、旧約聖書のバベルの塔を思い出しますが、天にまで届く塔を建てて名を上げようとしたのですが、その試みはもろくも崩されました。

わたしたちも、少し物事がうまくいくと、神様のおかげもありうまくったと思いますが、いつしか自分にはこんな才能と力があるからと、思いあがることがあります。皆さんはありませんか? 正直に言うと、実は私はよくあります。一応神様を持ち出し感謝はしていますが、いつしか傲慢な自分がおおきくなり、失敗したり、うまくいかない状況に出くわして初めて、「ああ、やっぱり自分は何をしてもだめだ」と思い知らされます。そこで、神を捨てるのではなくて、神様にもう一度謙虚にお任せすることになります。おそらく、生涯そんなことの繰り返しで、私たちは少しずつ罪から解放され、産みかえられ、少しは「ましな人間」にされていくのかもしれません。

4.勧め

先日、罪について、原罪について聖書研究会で話し合う事になりました。どうもわかりにくいという事でディスカッションしました。欲望がすべていけないのか?欲望がなければ、生きていけないし、進歩も発展もない、という議論です。しかし、欲望のせいで、人は苦しみ、人を苦しめ殺しさえしてもしているという意見もありました。ゆっくり時間をかけて整理して学ばねばならないことでしょうが、議論な中で一つの結論への出口を皆で発見しました。

欲望そのものは良くも悪くもないけれど、その動機がカギではないかと。動機が自己中心で、「他者を犠牲にしてでも」という事になると、それは罪で、そんな心を持ち合わせていることが原罪という事で考えると、スッキリする面があると皆で納得しました。善悪を見分けるのは、神に聞き従うこと。それはつまり聖書の一貫したメッセージの「神を愛し人を愛する」ということを心の中心に据えていたら、罪を犯さずに互いに愛し合い共存できる心と社会が始まるでしょう。それをさらに実現するために、「敵すら愛するように」と説き、そのように生き、死んでいかれた方の十字架を見上げるときに、新しい自分が始まります。

「なんと自分は自己中心で罪深い心を持っているのか」と自分の代わりに死なれた方の十字架を見上げる時に思い知らされます。そのとき神様に無条件降伏するのです。こんな自分の小さな努力では、いや大きな努力をしていると思っていてもその中心に自分がい続けるならば、一切は無意味だったと、気づき、神様に降伏して従っていくこと。それが今日のイエス様のお話しだったでしょう。

自分を捨てて、自分の持ち物というプライドや傲慢な心を捨てて、あの方に従いましょう。十字架の上から見つめ、呼び招いておられます。そして私にもそれぞれの使命という十字架があります。それを担い、人に出会い奉仕すること。そこから、救いと平和が始まるのですね。

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 いつまでたっても完成しない塔 

 今日の聖書の個所を読むと思いだすのがいつもこの教会です。スペインにあるサグラダ・ファミリア教会。ネット上の説明では「カタロニア・モダニズム建築の最も良く知られた作品例であり、カタルーニャの建築家アントニ・ガウディの未完作品である」とあるように、1882年着工ですがまだ完成していません。スペイン好きの私も友人の案内も含め2度訪ね工事現場も見学しました。

この教会の正式名称の日本語は、「聖家族贖罪教会」といい、Sagradaは英語で言えばSacredで、カトリック教会でいう聖家族はイエス様、マリア、ヨセフという事になります。それら聖家族を記念した教会で、聖誕と受難と栄光という3つのファサード(教会正面の壁などの意)をもち、すでにほぼ完成している聖誕のファサードにある奇妙な4つの塔など9本が有名です。 しかし、全部で18の塔が予定されているというのでまだまだです。

 どうしてこれほど延びているのでしょうか。資金計画がずさんだったからでしょうか? 実はこの教会は大きなパトロンや政治勢力で建てるのではなく、贖罪教会という事で、「信者の喜捨」で建てるという計画だったから資金難で時間がかかっているそうです。拝観料収入も入れることにして、観光ブームもあり資金は増大し、ガウディ没後100年の2026年完成を目指しましたが、新型コロナ感染でロックダウンもありまた延期だそうです。でも考えてみれば、人々が罪を悔い改めてする献金に頼っていれば、すぐにできれば逆に私たちの罪深さを痛感することにもなり、複雑ですね。


説教メッセージ 20240512

 聖書の言葉  ルカ 24:44~53 と 使徒言行録 1: 1~11 (新213) 1:1-2テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。...