2023年8月13日日曜日

礼拝メッセージ 20230913

 昨日は教区の青年と外国メンバーの修養会が、田原市のみのり教会田原集会所もお借りして行われました。礼拝には田原の教会メンバーも一部来てくださり、楽しいひと時でした。そのあと「自己紹介・神様紹介(神様との出会い)」を楽しくしましたが、聞くと、外国出身の方だけではなく、外国で仕事をしていた方などふくめて、なんと8か国に関係のある人たちで話も弾みました。前日準備も含めて、オプションで前泊した外国メンバーとは海にも行き久しぶりに泳ぎました。今日の聖書の話のように「沈みかけ」はしませんでしたが、急に深くなるところもあり、聖書今日の話も思い出させます。人生の危ういとき、どう生きていけばいいでしょうか。今日は復活教会で礼拝担当で、Youtube中継もし、Facebookでも案内します。お待ちしています!

聖書の言葉

マタイ 14:22~33 (新28)

14:22それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。 23群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。 

24ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。 25夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。 26弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。 27イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」 28すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」 29イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。

 30しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。 31イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。 32そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。 33舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。



説教 「足元を見ると」徳弘浩隆牧師

1, 「人の足元を見る…」

日本語では「足元を見られた」という表現があります。これは、「相手の弱点を見つけて漬け込む」という意味ですね。その語源は、こういうことだそうです。昔、街道や宿場で、駕籠かきや馬方がいました。今でいえば、タクシーの運転手という事でしょう。彼らは、お客さんの足元を見ました。それは、どのくらい長旅をしてきて、どれくらいつかれているかを知るためです。そして、本当に疲れ果てている人と見抜くと、普段よりも高い金額を提示します。疲れ果てているお客さんは、それがどんなに法外な値段であっても、ほかに頼る方法や人がいないから、仕方なく払ったという事から来ているそうです。

今日の聖書の話を読むときに、いつもこの言葉を思い出します。しかし大きな違いがあります。それについて、聖書から学び、神様のメッセージを聞いていきましょう。


2,聖書 

今日の聖書個所は、「それからすぐ」という書き出しで始まります。その後の出来事です。何があった直後だったのでしょうか?

それは、有名なイエス様の奇蹟、5000人の給食です。少しの食糧からでも、イエス様が祈り祝福し、皆で分け合うと、5000人が空腹を満たしても余りあるほどだったという出来事です。弟子たちは、「自分たちでこれほどの人々の問題を解決してあげる力はない」と、途方に暮れた中、イエス様の奇蹟を体験したのです。その続きの出来事という事が、ある意味大切な状況です。絶望と苦難、しかしイエス様によってそれが解決され、人々が満足していく姿を体験した直後、彼らは孤独になります。イエス様は無理やり彼らを舟に乗せ向こう岸に行かせたのです。その間に弟子たちをイエス様が解散させたようです。面白いシチュエーションですね。そしてイエス様は一人山に登って祈られたのです。

 そんな状況で、弟子たちは自分たちだけで小舟に乗り湖を渡ろうとします。ところが、逆風に悩まされます。そんな中、イエス様が湖の上を歩いて弟子たちに近づきます。幽霊だと思っておびえた弟子たちに「安心しなさい。私だ。恐れることはない」とイエス様は言われます。ペトロは「主よ、あなたでしたら、私に命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」というと、水の上を歩くことができました。しかし、強い風に恐怖に駆られ、おぼれそうになります。しかし、助けを求めるとイエス様は手を伸ばして捕まえてくれ、助けられました。そんな出来事でした。


3,振り返り 

 キリストが水の上を歩くとか、ペトロも願い出て水の上を少し歩いたとか、それが気になってしまうところです。そんな奇蹟があるのだろうか、と。「牧師になる試験では、少し水の上を歩かないといけないんだよ」とか、教会で子どもたちに言ってみて、ビックリされたり、笑われたりすることもあります。ガリラヤ湖に旅行に行ったら、水の浅いところで下の石を積んで、水の上を歩いているようにして写真を撮ったり、そんなことを若いころ牧師仲間としたこともあります。しかし、聖書の奇蹟が作り話でもなく、そんな奇蹟ができるようになることが神様を証明することでもありません。大切な意味が、その出来事にあることを私たちは聞き取ることができます。

 それはこうです。

1)5000人の給食の奇蹟を体験し、驚き、恵まれ、問題が解決した後すぐに、このことがあったという事。

2)奇跡的な給食の出来事や、指導者が山に登り人々は孤独になる、という事は、モーセの出来事を振り返ることになるという事。

3)そしてそれはやがて、イエス様によって上書きされるような出来事となり、神様との新しい契約が、つまり救いの出来事につながるという事。

4)イエス様がおられなくなり、自分たちだけという状況に取り残された弟子たちが、奇跡的に幽霊のように現れたイエス様に再会したことを思い出させます。今日のところは、十字架と復活の前の出来事ですが、やがて起こる疑うトマスとの出来事を思い出させる出来事でもありました。再会したときに「安心しなさい(平和があるように)」といわれたイエス様と、「十字架の傷跡を触るまで信じない」と違うトマスのように「主よ、あなたでしたら…」と奇跡的再確認を願うペトロの姿勢は重なります。

 これが示し、教えることは、こうです。

私たちは、神様の恵みと養いによって、自分の力を超えた恵みを体験することとがありそれによって生かされてきたという事。しかし、孤独になり、状況が厳しくなるとまたすぐに神を忘れ不安になってしまう不信仰ものだという事です。そんな私たちに再度、不思議な方法で現れ語り掛ける神様ですがそれでもまだ恐れと不信に取りつかれているのが私たちの姿です。神を試そうとさえするのです。しかし、危機の中で手を伸ばしてくれるのがキリストです。もう一度、安心して、「主よ、助けてください」と素直に祈ることが大切です。その時、周りの困難や、自分の足元を見るのではなく、キリストを見上げることが大切です。そして、大きな奇跡や助けられた出来事の直後なのに、手のひらを返したように不信仰になるのではなく、それを心にとどめ、一時的な危うさに飲み込まれないようにしましょう。そのために、大きな奇跡と、孤独と、困難という出来事で、私たちを育てるのが、神様の私たちを信仰的に育てる「いつものやり方」なのだと、気が付くことも大切です。

 

4,勧め 

 旅人の「足元を見て」弱みに付け込むのが私たち罪びとの姿かもしれません。しかし、疲れ果て汚れた足元になるほど苦しみながら生きてきた私たちの姿に気づき、弱みに付け込むのではなくて、足を洗い、食べさせ、背負ってくださる方がキリストです。神様との関係では、自分の足元を見て恥ずかしがったり、疲れと不満ばかりを言うのは私たち自身です。足元を見ないで、手を伸ばしてくれたキリストの手をいつも見上げて生きていきましょう。

 どんなことがあっても、今までの神様の助けと導きを思い出して、水の上のように危うい足元であっても、それを気にせず、キリストと手をつないでしっかりと歩いていきましょう。それが、私たちの信仰生活ですし、それによって私たちは、救われ、育てられます。それによって私たちは、安心できる人生を歩むことができるし、平和な家庭や世界を実現できるはずなのです。一緒に信仰をもって歩いていきましょう。

 

 

牧師コラム ガリラヤ湖の水の上を歩く?

そうそう、ありました、探したら。ガリラヤ湖を船で渡る私の写真、そして水の上を「歩く」私の姿の写真! これは2000年に若い中もな牧師たちと「聖地」ツアーをしたときの写真です。なんとも不謹慎で不信仰ものと怒られそうですが、聖書の出来事を体験して、キリストに近づきたかった若いころの牧師の姿と思って、お許しください。機会があれば、一緒に訪ねてみたいですね。コロナも終わり、世界も変わりましたが、旅行もしやすくなりました。二度目の訪問時は、ベツレヘムにはルーテル教会の知り合いの牧師がメンバーのガイドさんを紹介もしてくれました。


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