2023年4月30日日曜日

説教メッセージ 20230430

 今日の聖書の話は、イエス様が「羊の門」というお話。ちょうど昨日は、デンマーク牧場の羊たちにもあってきました。イエスキリストという正しい「羊の門」を通ると救われるといわれました。それはどんな門? その門を入るとどこに入れるの?どんな出口や入り口? イエス様のたとえはどんな意味でしょうか?一緒に聖書の言葉を学びましょう。今日は高蔵寺教会で、礼拝を担当します。おいでいただくか、礼拝中継もあります。あなたのお越しをお待ちしています。

デンマーク牧場の羊の門?

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ヨハネ10: 1~10

1「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。 2門から入る者が羊飼いである。 3門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。 4自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。 5しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」 6イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。

7イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。 8わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。 9わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。 10盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。

説教 「どの門を入りますか?」 徳弘牧師 

1,オルガンの修理のとき…

先日、オルガンの修理をしていただきました。まずは、見積もりを兼ねて、出来る範囲の応急修理をしていただきました。

礼拝堂のオルガンは、タンスを横に置いたような形に、横にされ、掃除機で埃を吸い取り、少し部品が外され、掃除と応急の修理をしていただきました。見ている私たちに、どこがどう壊れているのか、詳しく説明してくださり、音が出る仕組みも説明してくださいました。大きな不調の原因は、リードと呼ばれる真ちゅうでできた薄い板が風の力で振動して、それが増えのように音が出る仕組みになっていますが、そこに埃が付いたり、錆が付いたりして、うまくいっていないというのが良くある原因とのことでした。リードは英語ではReedとかいて、もとは葦の意味があるようです。

さて、その時驚いたことがありました。足踏みオルガンやパイプオルガンのふいごのように、空気をためる袋があり、そこから出る風で笛やパイプを服用にならすのですが、このリードオルガンは、風を吹いて音を出すのではなくて、風を吸う形で音が出るというのです。この空気袋が少し破れていて、そこから風が漏れるのでうまく音が出ないし、風が足りずに一生懸命踏まないといけないので、ギコギコバタバタと音もしてしまうし、演奏者は大変だということでした。空気袋を見せながら、音を出しながら、説明してくださって、よく理解できたのです。

そして私が驚いたのは、風を送り笛を吹くように音が出ていると思い込んでいたのですが、このタイプのオルガンは、風を吸う勢いで音が出ているということでした。

思わず質問しました。「ということはこれは、呼吸の呼気ではなくて、吸気で音を出しているということですか?」と。すると先生は、「その通りなんですよ!」と答えてくださり、なんと驚きながら納得したのでした。考えてみたら、ハーモニカでも吹くときとすう時で同じ穴からでも出る音が違いますが、その、吸う時のような穴がたくさんあるのが、このタイプのオルガンで、パイプオルガンなど噴き出す勢いで音を鳴らすのとは違うということでした。

なんと、見た感じは似ていても、楽器の世界も色々あるんだなと、思わされた次第です。

どうして今日こんな話から始まるかというと、何事にも、入り口と出口があると、一週間考えさせられていたからです。今日の聖書は、イエス様がご自分のことを「門」とたとえられ、この門から入るものは救われるといわれたのです。どんな意味があるお話なのでしょうか?聖書を見ていきましょう。

2,聖書

 「はっきり言っておく」という飯田市で始まる話が二つ今日は続いています。この言葉は、お祈りの最後に私たちも唱える、「アーメン」という言葉と同じ言葉からできています。もっともだ、その通りだともいうニュアンスで、大切なことを言われるときに、イエス様はこの言葉で始められます。

 どんな大切な話だったのでしょうか?

 それは、いろいろな宗教指導者がいるが、誰に従っていくべきかということです。いろいろなことを言う人がいるが、羊の声を聞き分けて、羊のためにいる羊飼いではなくて、羊を食い物にする者もいるから気を付けるようにと、ファリサイ派の人たちのことを警告されました。

 それに続いて二つ目の話は、「私は羊の門である」と続きます。そして、「この門を通って入るものは救われる」、また、「門を出入りして牧草を見つけ」、「殺されるためではなくて、羊が命を受け、しかも、豊かに受けるため」であると、説明されました。

 これは、よい羊飼いが羊のために命を惜しまず捧げ、屠られ、犠牲となってくださり、羊たちは殺されず命を豊かに受けると、ご自分の十字架と復活による人々の救いについて説明をされているのでした。

3,振り返り 

 昨日はちょうど、東海教区の「わいわいワーク」があって、袋井市のデンマーク牧場に行ってきました。北欧のルーテル教会の宣教師が土地を買い、伝道や、酪農学校を始めたところですが、形が変わって、教会と社会福祉施設になっています。

 大きな牧場を生かした、老人施設や児童のための福祉施設、作業所、そして診療所もあります。私たちは高蔵寺教会から11名で出かけ、草刈りの奉仕をしました。ちょうど、こひつじ診療所の担当になり、武井先生ご夫妻とも親しく一緒に作業をし、昼食や交流もさせていただきました。

 食後は、お寺のような作りの教会を訪ね、そして牧場でヒツジやヤギ、馬や牛を見て、餌をあげたり、ソフトクリームをいただいたりもしました。そこにも、羊の門がありました。写真にあるような具合です。この門を使って出入りしたり、餌をあげたりもする様子でした。聖書の話を思い出しながら、その門をさすり、いろいろと考えました。

 「私は羊の門である」といわれたその門は、どんなもんなのか。ずっと、それを考えました。「この門から入れ」といわれたのです。ほかにもいろいろ門があるのか。それらはどんなもんなのか。

 確かに、いろいろな宗教や考え方があります。見てくれはとても良くて、入りやすいもんも、そうでない門もあるでしょう。たとえてみれば、もし看板があるなら、「病気が治る門」とか、「商売が繁盛する門」、「目の前の問題が解決する門」というのもあるかもしれません。そして、入場料を取る料金表があるかもしれません。

 私たちが見る、イエスさまというもんは、どんなもんでしょうか?そもそも、私たちはそれを通って、どこに入るのでしょうか?

 それは、何事にも、出口と入り口があるという最初の話とつながってきます。私たちは、一度、どこから出てきて、さまよい苦しみ生きてきました。しかし、本来いるべきところに戻って入っていく入り口、その門がイエス様なのではないかと、考えさせられたのです。かつて人類がいて、そこから追い出された門。そんなものがあるでしょうか?

 それは、旧約聖書の最初に出てくる、エデンの園の「門」かもしれません。神様が楽園を作り人を住まわせましたが、人は神様の言う約束を守らず、自分で善悪を決め、勝手に生きるようになりました。そこに互いの利害や欲がコントロールできない無法地帯になり、悪がはびこったのです。アダムとエバが約束を守らず、楽園を追放される物語は、そんな神秘的な人間の罪について、物語っていると理解してもよいでしょう。 神は、楽園から彼らを追い出し、「エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた」と、創世記の3章に伝えられていることです。

4,勧め

 何事にも出口と入り口があります。私たち人類は、神様が用意してくれた楽園を「出た」のです。その時の神を捨てて、人を愛し助け合うことができない生き方を選んだのが、私たちの罪の始まり。そして今まで綿々と続いている罪の歴史です。人の心の中にも、家庭や、国と国の間にもある、不公平やいさかい、紛争や戦争の歴史です。それを解決し、取り返すために、キリストは来られました。人々を教えるふりをして、「食い物」にするのではなく、自らの命を投げ出して身代わりの犠牲になり、そして、罪びとの心を震え上がらせ、改心に導く十字架にかかられました。それが終わりではなく、復活して弟子たちに現れ、彼らを許し、解放し、生まれ変わった心で生きる道を作ってくれたのです。

 それが、十字架と復活、それを自分のものにする洗礼ということになります。

だから、私たちは、この方を、この門を選び、これを通ってこそ、本来の人類の意味のある生き方、社会に戻っていくことができるのです。

 その楽園は、どこか西の国にあるのではありません。死んだ後の世界でもありません。いま、私の生き方の中から、それが始まり、広がっていくのです。それがキリストが言われた、神のご支配、神の国なのです。この門を選んで、いっしょに入っていきましょう。


2023年4月23日日曜日

説教メッセージ 20230423

 よく間違える曲がり角。妻が目印の看板を教えてくれましたが、今度はそれを忘れて右往左往。そんな一週間でした。思い込みで青い看板を探していましたが、目印はピンク色のお菓子の看板でした。人生でもそんなことがありませんか?イエス様にあってもその方と気付かなかった弟子たちは、自分たちの思い込みと期待を押し付けていたのかもしれませんね。神様のご計画を知ると、見えるようになることがあります。一緒に考えましょう。明日は復活教会から礼拝と中継も致します。お待ちしています。

聖書の言葉 ルカ 24:1335


24:13
ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、 14この一切の出来事について話し合っていた。 15話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた 16しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。 17イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。 18その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」 19イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。 20それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。 21わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります 22ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、 23遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。 24仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」 25そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、 26メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 27そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

28一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。 29二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。 30一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。 31すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。 32二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。 33そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、 34本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。 35二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した


説教 「すると目が開いて…」 徳弘牧師 


1,探し物が見つからない

先週は何度も高蔵寺教会と復活教会を往復しましたが、復活教会に帰るときに道を間違える所があります。「勝川駅」のところで右に曲がると、県道に出れるので遠回りせず帰れるのですが、曲がるところを間違えて逆に遠回りになってしまいます。妻が言います。「このピンク色のお菓子の看板(桃ラング)で曲がるって覚えておくといいんじゃない?」と。そうだそうだ、と思いますが、昨日も忘れていました。「どの看板だったかなぁ?」いくら考えても思い出しません。「青い看板の不動産屋さんかな?」自信がありません。ゆっくり車を走らせながら、「ああ、このピンク色の看板だった!」とやっと気づきました。

一生懸命探しているのに、それがなかなか見つからないとき、それは、「青い袋に入れていたと思っていたのに、なんだ!ピンクの袋だった!」というようなものです。見つけた嬉しさとともに、なんと、自分が思い込みで間違えていたと、気付かされるのです。

今日の聖書は、イエス様に会っていながら、話し込んでもいながら、イエス様だと気付かなかったという出来事です。何が起こったのでしょうか?聖書を見ていきましょう。


2,聖書

 有名なエマオでの出来事で、復活祭の後よく読まれるところです。エルサレムから60スタディオン程離れたエマオという村に向かっていた二人の弟子です。ブラジルで使っていた一番新しい翻訳では、「約10キロほど離れたエマオという村」とわかりやすくなっています。10-12キロだといわれます。復活教会からなら北ならIiasuというショッピングセンターのあたり。高蔵寺教会から名古屋の方に来ると、ちょうど勝川駅のあたりになります。論じ合いながら歩いている二人にイエス様が近づいてきて、話に割って入ります。当のイエス様だと気付かない二人は、あんな一大事があったのにあなたは知らないのか?と驚いて説明します。イエス様が出来事の意味を聖書を引き合いに出しながら説明をされても、二人はこの方がイエス様だとまだ気づきません。

 日が傾いてきたので一緒に泊まってくださるように促し、夕食の席でお客さんの側のその人が急にパンを割いて分けられると、始めて、その方がイエス様で、確かに復活されたのだと、気付くのでした。しかし、そのとき、彼らにはその方がもう見えなくなっていました。そして彼らはエルサレムに急いで戻って11人の弟子たちに会って報告したのです。


3,振り返り 

 不思議に思うのは、どうして彼らはイエス様に会い、聖書から説明されても気づかなかったのでしょうか?という事です。聖書によると、「目は遮られていた」けれど、「目が開けひらけ、イエスだとわかった」という事です。

 何が彼らの目を遮っていたのでしょうか。それが大切だと思います。なぜなら、今の私たちも似たことがあるからです。無くしたものや曲がり角の目印の探し物の事ではなくて、人生の探し物があるからです。

 思い通りに生きることができず、がっかりしたり、座り込んだり、無理をして体を壊したりすることがあります。それの意味を、その先を、または出口を、一番良い解決策を、いつも私たちは探しているといってもいいでしょう。何が彼らの目を遮っていたのかはとても大切なことです。それがわかると、私たちの目も開けてひらけて、それを見つけることができるからです。

 二人の弟子はこう言いました。「この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者だった。でも祭司長や議員は十字架につけてしまった。あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていたのに」と。

 彼らユダヤ人は、過ぎ越しの祭りでモーセとともにエジプトの奴隷の地から脱出した日を、過ぎ越しの食事をしながら毎年祝っていました。今日の二人の弟子の言葉からわかることは、モーセのような指導者が、イスラエルを解放してくれると期待していたのです。彼らは、イエス様にモーセのようなそういう奇跡的な解放、脱出を願っていたのです。しかし、その人は十字架で死刑になってしまい、失望していたのです。

 その人間の側の勝手な期待、思い込みが、探し物を見つけられなかった理由、つまり、目が遮られていた理由だという事でしょう。

だから、イエス様はなんと物分かりが悪いのかと、嘆きながら言われたのです。「メシアは苦しみを受けて、栄光に入るはずだった。」と。十字架と復活のことです。そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明されたのです。

 イエス様は過ぎ越しの食事を弟子たちと共にされました。それが最後の晩餐です。しかし、この方は、モーセのように悪から解放し、悪から脱出するための方ではなく、悪を打ち滅ぼして新しいいのちに導く方だったのです。ローマを打倒してその支配から独立しても、依然人々は罪の奴隷のままです。モーセの時も、脱出して自由になりカナンの地に入りましたが、モーセ自身も罪を犯しカナンに入れず、その後ダビデ王が、そしてソロモン王は神のみ心に従いきれず、民も罪にまみれ、国は分裂し、他国に支配されていきます。ただ単なる政治的な独立や、敵を駆逐することは意味がありません。

十字架の上でも神の愛を貫き、敵をゆるし、悪と罪を滅ぼし、人々を新しく生まれ変わらせることが、イエス様の使命だったのです。

 探し物が見つからず失望したのは、違ったものを探して期待していたからでした。神様のご計画は、そんな簡単なものではなくて、苦難や絶望をも超えて、その先の大きなものだったのです。私たちの人生で、自分の勝手な期待で、その通りに思い通りならないこともあります。嘆き、神様に文句を言うときもありますよね、と教会で互いに語り合う事もあります。でも、その苦難や絶望も、後から思えば、新しい自分を生み出すために必要なものだったと、思えるものもあるものです。神様のご計画は、私たちにはわかりません。


4,勧め

 私たちは、大丈夫でしょうか?どうしたら、それを本当の意味で心にとめて、理解できるのでしょうか。二人の弟子たちはこうでした。

二人で議論しても分からず、イエス様から聖書の説明をされてもまだわかりませんでした。パンを割くという食事の時に、ようやくわかったのです。

これが、自分たちで話し合ってもダメで、説教を聞いただけでもまだわからず、聖餐式でそこにおられる復活のキリストに奇跡的に出会うという、私たちの礼拝の出来事の意味を見ることになります。ただの知的な学びではなく、思い込みの信仰でもなく、願い事だけの祈りでもなく、キリストご自身が主催し現れてくださる、礼拝の出来事を静かに、大切にしていきましょう。すると目が開けるひらけるかもしれません。

 神様の祝福が今週も豊かにありますように。

2023年4月16日日曜日

説教・メッセージ 20230416

 昨日はうれしい子供の礼拝があり、保護者スタッフも入れて総勢39名で、うれしく忙しい土曜日でした。イースターエッグも昨日作り、探し、そしていただきました。今日は、イースターシーズンの二週目。キリストの復活と弟子たちの再会の様子を聖書から読みます。鍵をかけていても侵入?されたキリスト。最近私は老夫婦の実家に防犯カメラを設置したり、設置の相談を受けますが、イエスさまには無力ですね。鍵をっけた自分の心に入ってきて、気が付いたら一緒にいてくれる方を見つめましょう。今日も、教会か、ネット中継でお待ちしています。


聖書の言葉 ヨハネの福音書(Jn.)20: 19~31

 19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。 25そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。 29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

30このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。 31これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。


説教 「知らぬ間に、そばにいてくれる方」 徳弘牧師 

1,戸締りはきちんと…

最近は、物騒な事件や犯罪も多く、戸締りをきちんとしなければなりません。防犯カメラの需要も伸びているそうですし、名古屋市は市の助成金もあると聞きます。それで、防犯カメラの選び方や設置方法について、相談を受けたりもします。私は、ブラジルにいるころから必要と思い、防犯カメラを教会につけていたからです。「教会で防犯カメラ?」とあまり好ましく思われない方も多いかもしれませんが、ブラジルでは集会中に強盗が入ってお金やけが人が出るという被害があり、閉鎖になった日系人の教会もありますし、教会メンバーでも強盗や泥棒にあった経験がある方が多くおられました。

今日の聖書でも、弟子たちは家の戸に鍵をかけていました。どんな理由でしょうか。そして、何が起こったのでしょうか?聖書を見ていきましょう。

2,聖書

 「その日」という言葉から始まりますが、どんな日だったのでしょうか?それは、先週聖書で読んだ出来事が起こった「その日」です。

 週の初めの日、朝早くマグダラのマリアがイエス様が葬られた墓に行き、空っぽなのを見つけ、その知らせを聞いたペトロとヨハネが走って墓に行った日です。彼らは空虚な墓を見て驚き、マリアの言葉を信じて家に帰りました。一人残っていたマリアが、復活したキリストに会ったのでした。キリストはマリアに言いました。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マリアは弟子たちのところに行って、それを伝えたというのが、先週読んだ話でした。今日はその続きです。

 マリアの報告を聞いた弟子たちは、夕刻、家に鍵をかけていました。そこに、気が付いたらイエス様が現れ、弟子たちの真ん中に立っておられたというのです。

 「あなた方に平和があるように」とキリストが言われ、手とわき腹をお見せになりました。そして、再度「平和があるように」と言われ、弟子たちの派遣を告げます。弟子たちの反応は、「主を見て喜んだ」とあるだけで、詳しいことは書かれていません。

 そしてその日その場所にいなかったトマスはそれを信じようとしなかったのですが、8日後にもう一度弟子たちが家の中に鍵をかけていたときに、イエス様が現れ、トマスは会うことができました。イエス様はトマスが疑っていたことを知っておられて、自ら十字架の傷跡を見せて、信じるものになりなさいと、諭すのです。

3,振り返り 

弟子たちはどうして家に鍵をかけていたのでしょうか? それは、聖書によるとユダヤ人を恐れていたということです。確かに、ユダヤ教の中の新しい一派で、人気があったけれども最後はその指導者が逮捕され、群衆の訴えで十字架という死刑にされてしまった集団です。次は自分たちがとらえられると恐れたのでしょう。外を歩くのをやめ、家の中にこもって、鍵をしっかりとかけていたのです。

でも、復活したイエス様にあったというマグダラのマリアの話を聞いていたので、もしや自分たちのところに会いに来てくれるかもしれないとは思わなかったのでしょうか。いや、そう思ったかもしれませんが、それよりも、ユダヤ人の追手が迫ることの方が恐ろしかったのかもしれません。

私たちの生き方はどうでしょうか?家には戸締りが必要ですが、この心に、固くカギをかけていては、恐ろしいものの侵入を防ぐことはできますが、うれしい知らせや助けも拒否してしまうことになりはしないでしょうか?

そして、自分の中に閉じこもり、その考えは堂々巡りになり、他者の意見や自分と違った考え方に触れることがなくなり、ますます、自分の考えや感情に固執してしまいます。自分という、出口のない部屋に閉じこもってしまいます。

しかし、イエス様は、鍵をかけた彼らの家の中にいました。どうして入ったのでしょう。防犯カメラをしてカギをかけていても、この方には無力かもしれません。奇蹟的に、気が付いたら、入ってきて、そばにいてくれました。そして、平和のあいさつをし、彼らを責めることなく、ゆるし、諭したのです。

 私たちも、自分にいつまでも固執していないで、キリストを受け入れて、この方と一緒に生きていくことをえらびました。しかし、時折、まだまだ古い自分の殻の中に、閉じこもっていることがないでしょうか? 昨日は、子どもたちのイースターの礼拝をしました。子どもたちだけで24人、スタッフや保護者の方を入れると39名の、たくさんの方が来てくれて、本当にうれしい日でした。

 ゆで卵に絵をかいて、色を塗って、卵探しをして、手作りのBagにいれて持ち帰りました。私たちもひとつづついただいて、早速夕食の時にサラダに入れていただきました。

 いつものように、コツコツとテーブルの角に当てて、卵の殻を割りながら、思い出しました。家の中に鍵をかけてこもっていた弟子たち。今までの自分というからの中にこもっていた自分。知らない間に中に入ってくれていたイエス様。または、外からコツコツと割って、自分を押し出してくれた方がいるということを。死んだような、石でふたをされたキリストの葬られた墓場のようなところから、石のふたをけ破って復活された方を。この方に押し出されて、神と人を愛する新しい自分として、生まれ変わるのが、この復活祭です。

 4,勧め

 この復活の主とお会いできるのは、年に一度の復活祭だけでしょうか?そうではありません。毎週日曜日がその日です。この日を大切にしましょう。

 一度、弟子たちと一緒にいなかったので会いそこなってしまったトマスは、イエス様が十字架にかけられた8日の後、復活の主に会いました。それは同じ日曜日の出来事だったのです。

 こういうわけで、私たちも、週の初めの日、日曜日に教会に集まり、キリストにお会いするのです。用事があってこれない時があっても、トマスのように、次の日曜日にお会いできます。ご家庭の事情で年に数度しか来れない方も、私たちの教会にはおられますが、その方も、トマスのようにキリストにお会いできるのです。

復活の主の祝福がありますように。新しいいのちを共に生きましょう。

 


牧師コラム 曜日の呼び方とキリスト教の雑学 

日曜、月曜、火曜…と呼ぶ一週間、これはどういう意味でしょうか? これは、太陽、月、火星、という太陽系の星の名前からとられています。無意識に使っている曜日名ですが、言われてみると、なるほど、そうだな、と思うところです。学生のころ習った、水金地火木土…という順番とは違いますけれど。英語でも、SundayはSunの日、日曜日。MondayはMoonの日、月曜日となります。火曜日以降は神話の名前も混ざっているので火水木金は星の名前シリーズではなくなっています。

しかし、日本語は星の名前のまま。スペイン語では、月曜はLunes、火曜はMartesと、一週間星の名前のままですが、星の名前でなくなった日が二つあります。それは、土曜日と日曜日。土曜日はSabadoといいますが、ヘブライ語のシャバットから来た、安息日という言い方そのままです。そして、日曜日は、Domingo。「主の日」という意味です。金曜日に十字架にかかったイエス様、土曜日は安息日なので金曜の夕刻に葬られ、三日目の日曜日の朝早く墓に行ったのがマグダラのマリアでした。そしてその日の夕刻、弟子たちは、復活の主に再会し、翌週の同じ日にトマスもあったのです。こうして、日曜日は「主の日」になっていきます。


2023年4月8日土曜日

復活祭メッセージ 20230409

いよいよ、復活祭ですね。私のいる名古屋の復活教会は、修復工事もほぼ終わり久しぶりに礼拝堂で礼拝。文字通り復活教会の復活です。そして、高蔵寺教会には、先週来られたブラジル移民のご婦人の証集を読んで、考えさせられました。私たちが教会に何を見ているか、何に頼って生きているか、本当の新しいいのちはどうして生きていくことができるでしょうか。明日は、復活教会から礼拝中継です。FacebookとYoutubeですがどちらか調子が悪いと、もう一方でもご覧になれます。告知は、Facebookから、またはYoutubeチャンネル登録ください。では、お待ちしています!

聖書の言葉 ヨハネ 20: 1~18

20: 1週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。 2そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」 3そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。 4二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。 5身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。 6続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。 7イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。 8それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。 9イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。 10それから、この弟子たちは家に帰って行った。

11マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、 12イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。 13天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」 14こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。 15イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」 16イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。 17イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」 18マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

説教 「走って行って告げたもの、見たもの」 徳弘師 

1,復活祭…

今日は、いよいよ復活祭です。そして、復活教会では、久々に礼拝堂で礼拝ができるうれしい日になりました。文字通り「復活教会「が「復活」してゆく日です。復活教会の皆さんのお捧げものや祈り、関係者のご努力などに感謝し、色々ありましたがすべてを導いてきてくださった神様に感謝しましょう。

さて、そういいながらですが実は、教会は建物ではありません。建物でもあると同時に、本質的には、「教会」は私達「キリスト者の集まり」であり、「共同体」のことです。また、私たちの集まりは、それぞれが勝手に生きているのではなくて、「キリストを頭(かしら)にして、一つの体であり、それが教会である」とも聖書は言っています。今月から始まる東海教区聖書セミナーでも、色々な角度から「教会とは何か」を学びますから、是非ご参加いただきたいと思います。

ところで、復活教会は耐震補強工事もしましたが、それは基礎部分や柱や梁の部分の補強も含んでいました。では、建物ではない方の教会である「私たち」も、今日確認し点検せねばなりません。私たちの信仰、私たちの人生の改修工事は大丈夫でしょうか?何が大切なのでしょうか?そのことを、復活祭に、学んでいくことが大切です。聖書に聞いていきましょう。

2,聖書

 聖書は何度読んでも新しい発見があります。というと聞こえが良いかもしれませんが、じつは、まだまだよく読めていなかったのかもしれません。

 今日の聖書での再(?)発見は、墓を訪ねて驚いて走って帰ってきたマグダラのマリアの報告を聞いて、ペトロとヨハネが墓へ走って行ったという事。そして一緒に走っていったけれどペトロよりヨハネが足が速くてペトロは遅れて到着したことです。

 マリアが走る姿が、そしてペトロとヨハネが競争するかのように走り、その差が広がってゆく姿を想像して、クスっと笑いながら、しかし、生き生きとした情景が目に浮かんできたりもしました。

 彼らは、どうして走ったのでしょうか?それは、大変な一大事があったからです。それは、イエス様の墓の蓋がこじ開けられ、なかは空っぽだったからです。マリアは最初にそれを見つけ、驚き、途方に暮れ、ペトロ達に知らせに走りました。そこまでしたマリアには、一大事だったのです。

 そしてその知らせを聞いた二人の弟子も、ビックリして、我先にと走ったのでした。彼らにも驚くべき、一大事だったのです。

 墓についたヨハネはまだ墓穴には入れず、遅れて息を切りながら到着したペトロが先に入ります。続いてヨハネも入ります。彼らも目にしました。確かにイエス様の亡骸がないことを。それを告げたマリアの言葉を信じたのです。

 いろいろな解釈が試みられるところですが、彼らはまだ事の真相を理解していません。「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった」と続くからです。彼らは困惑と絶望のまま、帰ってゆきます。

事の真相を最初に理解したのは、墓に残って泣いていたマリアでした。遺体のあった方に二人の天使が見え、言葉をかけられ対話していると、もう一人の声を聴きます。言葉の方を振り返るとそこにイエス様がおられたのです。復活の主に最初に会い、それを理解したのはペトロでもヨハネでもなく、このマリアでした。

3,振り返り 

私たちは、教会に何をしに来て、何を見ているでしょうか?一番大切なものが見え、理解しているでしょうか?どうしたら、その一番大切なものを見ることができ、理解できるでしょうか?それは、マリアがどのようにして復活の主に会いそれを理解できたかという事が答えです。彼女は、イエス様の亡骸があったところを見ていました。しかし、復活した主の声はそこから聞こえたのではありませんでした。園丁と思った主に言ったのは「私が亡骸を引き取ります」でした。マリアは「振り向くと」とありますから、墓の外におられた人に気づき、声をかけられ対話する中で、その方が復活の主であるとようやく理解できたのです。

 私たちも、うまくいかないこと、頭の痛いことがあります。ようやくうまくいきかけて信頼し安心していたのにもう一度崩れ去るときがあります。走って、叫んで、必死に探し、それが無いと呆然とすることがあります。もう希望は失せても、せめてその思い出を手に入れて、その思い出を大切に生きていこうと、それにすがりつきたい時もあります。マリアはそうだったのです。

マグダラのマリアはこんな人生でした。7つの悪霊に取りつかれて絶望を生きていましたが、イエス様に悪霊を追い出してもらい、問題が解決して嬉しく生きていたけれど、尊敬し慕い従っていたイエス様が十字架でなくなるという二度目の絶望を味わいます。そしていまは、その亡骸さえなくなるという三度目の絶望でした。どこに希望があるのでしょうか?

 そんな彼女に、キリストはその反対側の出口、外から声をかけ、180度向きを変えさせます。そこに、新しい本当の希望があるのです。そこに墓の出口があり、今までとは違う、新しい本当の命の生き方を導く復活の主に従う生き方がそこにありました。初めて、キリストの教えと癒し、十字架と復活、それを信じて生きるものの、新しい生まれ変わりという福音を理解したのです。それが無ければ、ただのイエス様のファンで終わってしまいます。私たちの生き方も、その信仰も、そこに引き上げられなければなりません。

4,勧め

 先週、高蔵寺教会に5人の新しい方が来てくれました。頼まれてブラジル向けに日本語礼拝ビデオを時折お送りしていますが、それをご覧になった移民のクリスチャンの方が、一時帰国で日本に住むお子さん夫婦達を連れて泊りがけで来てくれました。礼拝と食事を共にし、皆と親しく交流しうれしい時間でした。日本語がまだ上手でないブラジル人の一人はさっそく私の日本語講座に参加してくれるようになりました。

 証集をいただき、その中の彼女の証を読み、感銘を受けました。終戦で生まれた今の北朝鮮から引き揚げてきたけれど、日本で安心できる居場所が見つからず、ブラジルへ移民しますが、たくさんの苦労をし、移民先のアマゾンの地で神様に出会います。彼女を動かした言葉は、こうだったそうです。「失望したければ、人を見なさい。絶望したければ、自分を見なさい。希望を持ちたければ、永遠なるお方を見なさい。」

人を見たら失望する、自分を見たら絶望するのです。希望は神様にある、と私たちも今日、背中越しに声をかけてくれる方の方を振り返りたいと思います。

復活の主の祝福がありますように。新しいいのちを共に生きましょう。

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牧師コラム 十字架の道行き 


カトリック教会では、「十字架の道行き」という12の像や絵を見ながら、黙想し祈る信心行があります。私たちにはそれは「行」ではありませんが、参考にと教会に飾り受苦日礼拝をしました。そして、その続きの復活の出来事も、額入りの絵を作っておいてみました。墓穴を覗くマリアと、空虚な墓に驚く弟子たち。しばし、黙想してみませんか?


2023年4月5日水曜日

聖金曜日礼拝20230407

 キリスト教会には、どうして十字架があるのでしょうか?

十字架のアクセサリをつける人も多いですね。

でもその十字架の本当の意味は?

一緒に考えてみませんか?

教会の礼拝は、だれが参加してもよい開かれたものです。

この機会に、思い切って、おいでになりませんか?



2023年4月7日 15:00-16:00

ルーテル高蔵寺教会・復活教会合同

(2023年度会場:高蔵寺教会)


2023年4月2日日曜日

説教メッセージ20230402 Palm Sunday

 忙しい一週間でした。でも今日からの一週間は、心静かに過ごしましょう。今日は枝の主日で、この一週間は聖週間・Semana Sandaです。人の心と、キリストの十字架を見つめます。枝の主日のPalmは、棕櫚の葉という意味と、手のひらという意味も持っています。もろ手を挙げて喜びながら、手のひらを返して裏切る、そんなことにぴったりの言葉かもしれません。聖書を学んで、生き方を見つめなおしましょう。今日も礼拝はライブ中継、高蔵寺教会からお届けします。今日はブラジル人のご家族も初めて来られる方もおられ、昼食はブラジル料理を妻が用意してくれました。それぞれの場所で、神様の祝福がありますように。


聖書の言葉 マタイ 21: 1~11

21:1一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、 2言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。 3もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」 4それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

5「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」

6弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、 7ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。 8大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。 9そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。

「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」

10イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。 11そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。

説教 「いざ、エルサレム!」徳弘浩隆牧師 

1,いざ、鎌倉…

今日の聖書は、イエス様がいよいよ、エルサレムに入っていくときのお話です。そして、今日は枝の主日。または、棕櫚主日といわれてきました。エルサレムに入っていくときに、群衆はそれを歓迎して、棕櫚の枝を振ったり道に敷いたりして、大歓迎したということからそう呼ばれてきました。

エルサレムに入ってきたのは初めてではありませんでしたが、以前とは違う、とても大切な日でした。そしてそれは、「いよいよその日が来た」という、切迫した日でした。

私は、「いざ、鎌倉」という言葉を思い出します。去年のNHKのドラマは鎌倉幕府の時代がテーマだったようですが、この「いざ鎌倉」というエピソードが描かれていたかどうか、私は見ていないのでよくわかりません。私は小学校課中学校の時に学校で習った言葉として頭に浮かびました。

普段は落ちぶれた武士だけれど、時の幕府に一大事があれば、すべてをかなぐり捨てて真っ先に鎌倉にはせ参じますという気持ちを表しています。それは、旅の僧に対してそう話した落ちぶれた武士が、実際そんな場面になって鎌倉に駆け付けた時に、そこに待っていたのはいつかあった旅の僧でした。そしてその人は鎌倉幕府の執権、北条時頼で、褒美をいただいたというのでした。当時の国の中心であった鎌倉、国の一大事、そんな緊迫した状況と、「いざ」と真っ先に駆け付けること、そんなことを表しています。

今日のイエス様のエルサレム入りも、何か似た状況を感じます。国の一大事、国の宗教的・政治的中心のエルサレムに入っていくとき、イエス様は、そして弟子たちは、そして群衆は、「いよいよ」という気持ちの緊迫した出来事でした。彼らはそれぞれ、どんな気持ちで、何が起こっていったのでしょうか?一緒に聞いていきましょう。

2,聖書

 時が来たことを悟ったイエス様は、エルサレムに入る準備をします。時は、過ぎ越し際に入るユダヤ人にとって一番大切な年中行事の時でした。多くの人がエルサレムに来て、祝い、またお参りに行く時でした。

 イエス様は、ロバを準備するように弟子たちに言い、ロバに乗ってエルサレムに入っていきます。今までのうわさを聞き、出来事を見、その言葉を聞いた人々は、イエス様のことを神の子、メシアとして群衆は期待して集まります。「何かが起こる。何かが始まる」と期待したのです。

 ユダヤ教でメシアといえば、「油を注がれたもの」という意味で、そもそも王様のことを表します。そして、アッシリアやバビロンなど近隣の大国に滅ぼされた経験のある彼らは、神様が送られる偉大な王様として、救世主という意味合いを持って期待し、待つことになりました。

 そんな人がいよいよ現れた、そして過ぎ越しの祭りの時をめがけて、エルサレムに入ってこられた。それは、今までの苦労が報われ、当時ローマ帝国の支配を受けていたイスラエルが、いよいよ解放されて政治的にも宗教的にも自由になる日が来たと、そんな期待もあったのです。

 そもそも、過ぎ越しの祭りは、その昔エジプトで奴隷生活を強いられていた時に、多くの奇蹟のなか、神様が送られたモーセに率いられてエジプトを脱出した時を忘れないために祝っている祭りでした。

 しかし、状況は少し違います。二つの方法で違い、また、違っていきます。どんな具合にでしょうか?

1)人の期待と違う神様のやり方は、違っていたのです。偉大な預言者モーセ、または偉大な王様ダビデやソロモンと重なるように人々に期待されたイエス様は、軍馬に乗っての入城ではなく、小さなロバだったのです。それは、軍隊の力によって人々を屈服させ支配する王様ではないことを示していました。

2)そしてそれを歓迎して受け入れた群衆は、それを理解できず、手のひらを反すように移ろっていきます。それは、目の前の苦しさから解放してくれ、属国であったイスラエルが力でローマ帝国を打ち破って独立することや、のし上がってゆくことを願っていたからです。

 そして、彼らは、弟子たちさえも、手のひらを返して、イエス様から離れ、裏切り、敵対してゆくことになる一週間が始まります。

 そう言う具合に、今日のエルサレム入城から、金曜日の十字架にかけられる日・受苦日へと続いていく一週間が始まるのです。この一週間を「聖週間」「セマナ・サンタ」といいます。キリスト教会では大切な一週間として、各地でいろいろな行事とともに過ごされてきました。私たちも、特にこの一週間は心静かに自分と向き合い、過ごす週となっていきます。

3,振り返り 

 今日は準備できませんでしたが、伝統的にキリスト教会ではこの日、教会に棕櫚の葉を飾り、棕櫚の葉で作った十字架を配ります。この棕櫚の葉は、イエスキリストを大歓迎してお迎えした印。しかし、それは、やがて裏切り、私のために死んで行ってくれたキリストの十字架を表す印にもなるのです。

 棕櫚主日、英語ではパーム・サンデイといいます。棕櫚の意味からです。しかし、この、パームというのは偶然にも、「手のひら」という意味も持っています。もろ手を挙げて大歓迎したのに、その手のひらを返して、キリストを受け入れず排除し、死へと追いやった人々の心をさえ表しているように思えるから不思議な取り合わせです。

 私たちの生き方はどうでしょうか?神様の一大事、自分の人生の一大事、「いざ鎌倉」という時がそれぞれにあるでしょう。その時に、何を期待し、何をしているでしょうか?神様のために、一目散にはせ参じるはずが、結局は自分のことを願いそれがかなわない時に神様を裏切ることがないでしょうか?

 その積み重ねの失敗とゆるしの歴史が、実は聖書の物語でもありました。

 私たちは、私は、同じ失敗を繰り返すでしょうか?はい。結局はそれを繰り返します。しかし、同じ失敗を繰り返しても、その人間の自己中心の罪の心からの解放は、力づくではなくて、十字架の犠牲の死であったと、意外な方法で過去から、自己中心の狭い心から解放される、それが、神様の計画でした。 

 4,勧め

 枝の主日、棕櫚主日に、「手のひら」をも見ながら、私の心を見つめましょう。

 人を愛し、ゆるし、神様についてゆく気持ちを持ちながらも、そうできない、移ろいやすい自分の心を見つめましょう。

そして、イエスキリストの十字架の死を見上げて、そんな自分を捨てて、神様とともに生きていく生まれ変わりをするのが、復活祭の出来事なのです。神様の守りと祝福がありますように。

 

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牧師コラム 今日の説教の関連項目

いざ鎌倉:謡曲「鉢の木」から。佐野源左衛門という落ちぶれた武士は、あるとき、旅の僧に「鎌倉に御大事あらば、〈略〉一番に馳せ参じ」るつもりだ、と語りました。その後、実際に幕府からの緊急召集を受けて、源左衛門は真っ先に鎌倉に駆けつけます。すると、そこに待っていたのは、あの旅の僧。彼は、実は幕府の執権、北条時頼で、源左衛門は褒美をいただいたのでした。

「palm」の意味(研究社 新英和中辞典)palm1:1手のひら; たなごころ、2a手のひら状のもの. b(手袋の)たなごころの部分.cオールの扁平部.

palm2:1シュロ; ヤシ 《熱帯性植物》.2シュロの葉[枝] 《★勝利または喜びの象徴》.[葉の形が PALM1 「手のひら」に似ていることから; 形容詞 palmy].


説教メッセージ 20240512

 聖書の言葉  ルカ 24:44~53 と 使徒言行録 1: 1~11 (新213) 1:1-2テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。...