2022年10月30日日曜日

尾張岐阜地区・宗教改革記念集会

10月30日の午後、地区での集まりとして、宗教改革記念集会をいたしました。

地区の牧師たちと宣教研修生による新しい式文を使っての礼拝と、式文についての講義があり、良い学びの時となりました。

講義は少し冒頭部分が欠けていますが、以下から視聴していただくことができます。どうぞ、ご覧ください。

リンク

礼拝 https://youtu.be/STAzYQYbbls

講義 https://youtu.be/DrOCfV_5gJI

礼拝中継20221030 ルーテル高蔵寺教会

 



2022年10月29日土曜日

10月30日15.00-16.00は地区で宗教改革記念集会

 10月30日15.00-16.00は地区で宗教改革記念集会が開かれます。当日は、YouTubeで中継され、どなたでも申し込みなしでご自宅や各教会からも礼拝に「参加」できます。私たち牧師が皆で新しいし気分で礼拝を市、宗教改革と礼拝式文についての講義もあります。

でも、全部で1時間に短く圧縮しています。コロナ対策のためでもあります。

どうぞ、ご参加ください。

YouTubeはここから> https://youtu.be/STAzYQYbbls




説教メッセージ・教会だより20221030

 自由が欲しい!と思う事が良くあります。聖書では、イエス様の言葉にとどまるなら、あなたを自由にする、といいます。それは、「あなたの思うように生きていいよ!」という事でしょうか?自由って何だろう?考えてみませんか?

聖書の言葉 ヨハネ 8:31~36 (新182)

8:31イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。 32あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」 33すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」 34イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。 35奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。 36だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。


説教 「本当に自由になる」 徳弘浩隆牧師

1,宗教改革?

今日は、宗教改革記念日ですね。宗教改革というと何か革命のようないかめしい感じがします。宗教改革、ルーテル教会って何でしょうか? 

東京で大森教会の牧師と幼稚園園長をしていたころ、その知名度の低さに苦笑いしたことがよくありました。「ルーテル教って、どんな宗教ですか?」と聞かれたことが何度かあるからです。世界史で習ったマルティン・ルターの宗教改革というのを聞いたことがあるでしょ。あの伝統のキリスト教会なんですよ」とお答えすると大概の方は合点がいくといいます。そして、妻の話ですが、幼稚園事務をしていた妻が電話をとると、東京都や区役所の担当者から「おはようございます! テルテル幼稚園ですか?」と朝から元気な声で電話があり、笑いを我慢するのに苦労したそうです。幼稚園の教師たちにも話したらみんな大笑いだったとのこと。

宗教改革は1517年10月31日の出来事を発端にしています。私の車のナンバープレートは「1517」にしました。変わったときに覚えるのが大変だからです。今ようやく名古屋のナンバーに変更手続き中ですが、これも同じ番号で申請しました。

宗教改革、何が起こり、今の私にどんな関係があるのでしょうか?一緒に考えてみましょう。


2,聖書

今日のために選ばれているのは、ヨハネによる福音書の8章から、「あなたたちは自由になる」という言葉に焦点が当てられています。

イエス様の言葉ですが、ユダヤ人でイエス様を信じた人たちに向けて言われました。私の言葉にとどまるなら、本当に弟子であり、真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と。彼らは、自分たちはアブラハムの子孫で奴隷になったことはないですが」と、神様から選ばれ祝福された民であることを誇りに思い、どうしてですかと尋ねます。

それに対してイエス様は答えました。罪を犯すものは誰でも罪の奴隷なのだ、と。

いろいろな苦難の歴史もあったけれども、アブラハムの子孫で、祝福された民で、律法も知っているし、自由だといいますが、罪をゆるされた本当の自由な生き方ではないことをイエス様は指摘されたのです。そして、どんなことがこれから起こったとしても、イエス様の言葉にとどまり続けるなら、自由にされると、約束されました。


3,振り返り

私たちの人生はどうでしょうか?

本当に自由に生きているでしょうか?ここ数年はいかにも不自由な生活や、不安な生活を余儀なくさせられました。世界中を襲う感染症をコントロールできず家に閉じこもり、戦争も起こってしまい悲しく物価も上がり苦しい生活は拍車をかけます。もっと自由に人と会い、食事をしたり旅行をしたりが全くできません。ようやく少し改善してもたくさんの制限や、もう一度後戻りするかという不安もあります。

しかし、その不自由そのものが問題ではありません。これらの混乱や戦争の原因は、人間が罪を持っているから、その結果だという事を見つめねばなりません。

私たちのいのちをのものを脅かしているものが、人間の罪。それは、神を離れ、一番大切な教えを捨てたことから起こっています。だから、聖書は一貫して一番大切なことを伝え続けます。

金曜日に名古屋学院大学の瀬戸キャンパスのチャペルアワーに招かれて礼拝説教をしてきました。大きなきれいな礼拝堂の出口に、みんなが見えるように掲げられている大学の精神は「敬神愛人」でした。神を畏れ敬い聞き従い、人を愛すること。モーセの十戒の基本でもあり、イエス様も対話の中でその二つが大切なのだと教えられました。

しかし、人は神を神とも思わず、自分勝手に善と悪の判断をし、それが人それぞれバラバラな中で、それぞれは自己中心で自分を優先するから、いさかいや戦争は絶えません。自然の乱開発も環境破壊で気候変動や新しい感染症を生み出しています。

神の裁きではなくて、人類の罪が人類を苦しめているのでした。


4,勧め

 そんな不自由な奴隷のような命を救ってくれたのはイエス様でした。そして、それによって目覚めた人々はキリスト者の群れとして生き、社会を作りました。

しかし、そんな中でもやはりまた人々は同じ罪を繰り返します。教会の権力や金権もあり、人々のたましいの救いも売買の対象になり、それにまり陳ルターは講義を市議論を呼びかけたのが、1517年の10月31日でした。結果理解されずに破門され、ルター派の教会を組織せざるを得なくなったのでした。ルターの専売特許ではありません。イエス様の教え、そしてそれを整理して人々に伝えたパウロの言葉があったのに、それが埋もれていたのです。

自由をもらったはずなのに、なぜまた間違いを犯していったのでしょうか?

「自由」という字をよく見ると答えはそこにあります。外国の方に日本語を説明しながら深い意味を思い知らされます。自由という字は、自分の「自」と理由の「由」と書きます。自由は、誰からも支配制限されない、指図されない、自分を理由に、根拠にする生き方なのです。それは、抑圧されている人にとってはかけがえのない、素晴らしいものですが、自由を手にしたときに、自分を理由や根拠にしたままなら、また同じ混乱や人を支配し排除することになってしまうのです。

神様は聖書の最初に、それを防ぐようにと言われていました。善悪を自分で勝手に決めないで、神に聞き従う事を、です。それを守らず、勝手に神の守りの手の中から出てきたので、この有様です。

イエス様は、そんな罪人に、罪を自覚させ、回心させ、新しく生まれ変わらせるために、十字架への道を行かれたのです。

この方の言葉にとどまるなら、本当の自由を得ることができるためにでした。

生きにくいことや、混乱や対立の中にいるとき、イエス様の言葉を思い出しましょう。神を畏れ敬い従い、人を愛することです。それが人類の幸せのカギなのです。イエス様は、人を愛する、隣人を愛し同胞を愛するだけではなく、異国人も愛すること、そして敵をも愛するように言われました。そして、そのように生き、死んでいかれました。

さて、では、ルーテル教会は宗教改革の教会だから素晴らしくて間違いがないと、確認して喜び自慢するのが今日の礼拝の趣旨でしょうか?違います。そうとも言えません。絶えず、改革され、神様の言葉に生きるよう、自己中心や争いの心を滅ぼしてもらい、神様からの信仰と知恵と愛をいただけるよう、祈りながら一緒に生きていきましょう。

神様の国は、そんな心の中にすでに始まっています。それが罪の心にさいなまれ、押しつぶされないように、もっと広がるように生きていきましょう。やがて、本当の神の国が実現するでしょう。いつそれが来てもいいように、祈り、神様を見つめながら、生きていきましょう。

そんな世の終わりといわれる日、また、自分の地上でのいのちが終わりになる日も思いながら。先に旅立った人たちをも思いながら、一緒に礼拝をしました。行けるものも死せるものもその手の中で納め、守られる方の手のひらで生きていきましょう。

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牧師コラム・ちょっと宣伝

こんな集まりに声をかけられて、一部ゲスト参加します。ルーテル教会の東教区主催で、JELA協力の企画で、主に若者や未信者の方々にも開かれた音楽とトークイベントです。外国人の方々の支援を少しお話しし、技能実習生で日本に来ているインドネシアのルーテル教会メンバーのレリアナさんのインタビューや歌も披露されます。どなたでも参加可能とのこと。ご参加ください。



2022年10月23日日曜日

説教ビデオ 20221023

今日は復活教会の修復工事中でインターネットが調子悪かったので、後日収録で登録しました。一緒に聖書を学んでみませんか? テーマは、祈り方について。説教題は「過去の無い聖人はいない」です。


2022年10月22日土曜日

説教メッセージ 20221023

クリスマスや年末のグッズや宣伝を見るようになりました。教会の社会福祉法人でも、来年のカレンダーやクリスマスグッズの案内をしています。今までの生き方や、それを振り返り、神様に祈るとき、どんな風にお祈り、お願いしますか?そんな時にぴったりのお話をイエス様は今日しておられます。一緒に聞いていきませんか?明日は名古屋の復活教会での礼拝を担当します。Facebook中継もする予定ですが、教会の工事中でネットが調子悪ければ、夜に再収録で掲載します。お待ちしています!



聖書の言葉 ルカ18: 9~14 (新144)

18: 9自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。 10「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。 11ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。 12わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』 13ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 14言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」


説教 「過去のない聖人はいない」 徳弘浩隆牧師

1,年末の足音?

 先週は、静岡県袋井市にある教区が設立母体となった「デンマーク牧場福祉会」の委員会があったので、私も出席してきました。翌日は教会の方々との懇談会をしましたが、少し朝の時間を間違えて時間ができたので、袋井市にある二つの行きつけのお店に行きました。宣教研修生のDavid神学生も連れていきましたので、良い経験になればと、一つはブラジル人が運営しているブラジルのスーパーマーケットです。10年という短い間でしたがブラジルに住み、二つの文化の違いやそれぞれの良さを感じて変わってきた私と、日本で生まれ育ったアメリカ人のDavidさんとの旅はとても楽しいものでした。

そのスーパーでは彼も買い物をし、日本の中のブラジルという異文化体験をしたようです。私は、懐かしいブラジルのお菓子や食品を見て、ついいくつか買ってしまいました。そしてお店の人とポルトガル語で冗談を言いながらおしゃべりをして情報交換も大切な宣教の足掛かりと思っています。そんな中、売り場でパネトーネというパンのようなケーキが積まれているのを見つけました。それは、イタリア由来のお菓子ですがブラジルではクリスマスの定番です。年末になるとブラジルではスーパーに高くピラミッドのように積み上げられて、季節を感じながら、みんな買っていきます。あちらのクリスマスケーキといったところです。

それを見て、えっ?去年の売れ残りかな?ととっさに思いました。しかし落ち着いて考えると、もう11月になりそうですから、クリスマス、そして年の瀬というときなんだなと、驚いてしみじみしました。

教会のカレンダーも、もう、ひと月ほどでおわり。日曜日は5回で終わりとなります。教会は、1月1日が新しい年の始まりではなくて、11月最終日曜日くらいの待降節・つまりクリスマスを待つ準備をする日々からもう、新しい年になります。聖書日課も、ルカによる福音書を呼んできましたが、あと数回で終わり。来年はマタイによる福音書を読みながら、イエス様のご生涯をたどり学んでいくことになります。名残りを惜しみながら、あと数回ルカの福音書を呼んでいきましょう。

そんなわけで、選ばれる聖書の言葉も、イエス様の最後の言葉や、世の終わりという事に触れ始めます。

2,聖書

ルカの18章9節からが今日の日課ですが、実はここまでは、「終末についての警告」、そして「人の子が来るときには」という、世の終わりを見据えるお話でした。その続きで、今日のイエス様のたとえ話につながっていきます。そういう流れの中のお話だと、気をつけて読まねばなりません。

先週は一生懸命祈ることを教えられました。そして今日は、二人の人の祈りを比較しながら、祈りについて、信仰について教えられます。

登場人物は二人、聖書の掟をきちんと守るファリサイ派の人、もう一人は支配する異教の国ローマへの税金も二重に取り立てる嫌われ者で罪深いと思われていた徴税人です。場所は、神殿でした。

この二人の生きざまはとにかく、祈りの違いが問題になります。

生きざまは、ファリサイ派の人は自分で言っているように、「罪深くないもので、聖書の教えの通り、あるいはそれ以上に、週に二度断食をし、全収入の十分の一を献金」していました。模範的な非の打ちどころのない信仰者といえるかもしれません。

それに対して徴税人は先ほど言った通り、嫌われ、権力をかさにさえ着て取り立て、私服も肥やしていたといわれる生き方でした。罪びとの代表の一人ともいえるかもしれません。

さてこのたとえ話は、そこでイエス様のお話が終わって、生き方を見つめ、教えたのではありませんでした。ここからが大切なところです。

その生きざまはともかく、その中での祈りの言葉をイエス様は問題にしました。模範的な宗教生活をしていた人の祈りと、罪びとの代表のような生活をしていた人の祈りですが、それぞれの祈りを神様が聞かれて、義とされて帰ったのは、ファリサイ派の人ではなくて、徴税人だったという逆転があるのが、イエス様のお話の大切なところです。

3,振り返り

私たちはどんな祈りをしているでしょうか? 先週は熱心にあきらめないで祈り続けることを教えられました。そこで、どんな祈りをする一週間を過ごしましたか?思い出してみてください。

神様の願い事をするときに、私たちが自然に良くする姿勢はこうではないでしょうか?

「かみさま、私は○○をします。だから、私の願いを聞いてください」、「私は○○してきました。だから、聞いてください」、あるいは、「私はもう○○をしないことを約束します。だから、どうか、私の願いを聞いてください」と。見に覚えがありませんか? 私はあります。すぐ、つい、そんな神様と、取引をするようなお祈りになってしまうものです。それに対して、イエス様は全く違った答えを今日私たちに突き付けています。

「こんな罪深い私を憐れんでください」という罪深い人間の祈りのほうが神様に聞かれる、赦されるというのです。毎日の行いや、その積み重ねや、一生懸命な、時には自己犠牲の人への奉仕が救いの条件ではありません。何もできていなくてもいい、静かに座って、謙虚に神様にお詫びをして、祈る言葉、それが大切でした。

4,勧め

 ルターは、「私たちは、罪をゆるされた罪びと」だといいます。それは、とても私の心を打ち、安心させてくれたのを覚えています。「教会も、立派なクリスチャンの集まり」とばかりは言えず、むしろ「罪をゆるされたけれど罪びとのままの人の集まり」ともいえます。「義人にして同時に罪人」ともいわれます。一生懸命に努力して、正しく清く生きていることを誇り、ついにはそうしていない人を見下すような心は、神様が喜ぶことの逆の方向でした。罪深さをよくよく知って、それを隠さず神様に告白して、憐れみを願う、それが、イエス様のお勧めになる姿でした。

ルターだけではなくて、カトリック教会の今のローマ教皇がことわざとして紹介してくれた言葉も心にしみます。「過去のない聖人はいないし、未来のない罪人もいない」(教皇フランシスコ、2016年4月13日の一般謁見演説)

私たちの過去はどうでしょうか?現在はどうでしょうか?仮にそれが、神様の前で誇れるものではなかったとしても、それは関係ありません。罪を知り、神様にゆるしを願い生きるときに、どんな人にも未来があるのです。

頑張らないで、安心して、一緒に生きていきませんか。

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牧師コラム

少し気が早い気もしますが、クリスマスや新年のグッズの売り出しが始まりました。

先週は、静岡県袋井市のデンマーク牧場福祉会の委員会があり、教区長として出席してきました。

デンマーク牧場福祉会は、教区の「福祉村構想」というビジョンと祈りから出発して、来年で20年を迎えます。社会福祉法人として独り立ちを始めていますが、その開業資金は教区内の会員の募金と教区が借り入れをして賄いましたが、それもようやく再来年で返済が終わる予定になりました。

社会や教会の状況も変わり、初期の構想は見直しや取捨選択、新しい取り組みも必要になってきました。教区や教会組織の在り方も、今の時代や状況にあった、より良い形に整えねることが願われています。皆さんのお支えをよろしくお願いします。年末に、これらグッズをご利用ください。社会福祉法人の運営を助けることになります。


2022年10月17日月曜日

礼拝ビデオ20221016

 2022年10月16日の礼拝ビデオです。おいでになれなかった方、復習?をされる方、ご利用ください。



2022年10月16日日曜日

説教メッセージ 20221016

先週は介護帰省で失礼していましたが、今日は高蔵寺教会で礼拝を担当します。Facebookで礼拝中継も致します。教会かオンラインでお会いできるようお待ちしています。礼拝後のコーヒータイムはタコスとケーキを用意しています。タコスは11月13日のるうてるフェスタでお出しする世界のランチのメキシコメニューです。どうぞ、お待ちしています。

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聖書の言葉 ルカ18: 1~ 8 (新143)

18: 1イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。 

2「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。 3ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。 4裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。 5しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」

 6それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。 7まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。 8言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」


説教 「忍耐と執念は同じか?」徳弘浩隆牧師

1,耐えることと願う事の矛盾…

 少し休暇をいただいて、私たち夫婦の両親のお世話をしてきました。時間をいただき、ありがとうございました。私たちのそれぞれの両親は、この数年で急に大きな手術をしたり、施設に入所したり、自宅ででも支援が必要な状況に少しずつ変わってきました。しかしこれは、誰もが通る道で、お世話をするのは世代間の順番の出来事でもあり、いやなことではありません。むしろ、今まで何も知らな過ぎたと思い知らされながら、学びながら取り組み、教えられ、考えさせられています。

 しかし、何とかしないといけないという思いと、これは普通のことだからと受け入れながら、こちらが適応していかねばならない面も感じ、気持ちは行ったり来たりもします。

 専門家の人や相談員さんに聞いても、「現状の社会がそこまで対応できていない」という事にも行きつき、一緒に頭を抱えたり、「今後の社会の課題ですね」、ということで意見が一致したりもします。しかし、そんな中でも時間は待ってくれません。

さて、現実を受け入れて忍耐する面と、何とかしてほしいと執念をもって交渉したり取り組んだりする面の、二つの中でやはり、心は行き来します。

 介護や親のお世話だけではなくて、私たちの人生には、そんな両面を感じることはあるでしょう。

 神様は、苦労がたくさんあっても忍耐して現状のまま生きていくことを強いておられるのでしょうか?それとも、執念で「祈り倒した」なら、事態は願い通りに何でも解決していくと思ってもいいのでしょうか?

 今日の聖書に聞いていきましょう。

2,聖書

今日のテーマは、冒頭に明示されています。「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるため」でした。

神を畏れず人を人とも思わない裁判官、苦労を抱えている一人のやもめが今日の登場人物です。

この女性は何かの問題に巻き込まれ、解決を願っていたのでしょう。人を人とも思わない裁判官は、社会的な弱者の声はますます相手にしないでしょう。

それでもこの女性はあきらめませんでした。何度も何度もやってきてお願いしたようです。

この裁判官の対応は興味深いものです。あまりに可哀そうになって、話をよく聞いてあげて、そしてそれを解決してあげたのではありません。「ひっきりなしにやってきて、うるさいから」とでもいう具合で、取り合ってあげたという事です。

3,振り返り

さて今日はこの教えを聞いてどう私たちは心に収めるべきでしょうか?これを読んで、「だから私たちも、一生懸命祈り、願い続ければ、何でも聞いてくれるんだ」と、思うでしょう。確かにそれは一つの答えです。

しかしここで、「自分の願いを通すために、断食でも大きな献金でもして、それで頼み込んだら神様が聞かないわけにはいかないはずだから、重い腰を上げてくれる」と期待したなら、間違いです。挿絵にあるように、女性が裁判官を追いかけて何度も頼み込んだら逃げられなくなるように、神様を追い立てるように祈り続けると何とかなると、それだけを願うのは正しいでしょうか?

お世話をしている外国人メンバーと一緒に旅先で神社に寄りました。きれいな海の橋の先の小島にあるところでした。みんなクリスチャンでしたが、日本の文化も景色も見たり知ったりすることは大切と思い、彼らも見てみたいというので行き、色々解説もしました。上ったところに、お百度石がありました。これは何ですか?と聞かれるので、説明しました。「ここからあのお宮まで、はだしで百回往復して祈り続けるときかれるという言い伝えがあるんですよ」。時代劇が好きな妻も補足します。「でも、誰にもそれを見られてはいけないんですよ。誰かに見られたら、一からやり直しなのよ」と。みんなびっくりしました。

 4,勧め

 現状を受け入れて耐えること、それを受け入れずに自分の願いを神様にぶつけ続けること、その合間で揺れる心の答えは何でしょうか?

今日のたとえ話の後、イエス様はこう続けます。「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。」と。

 あの挿絵は一人のやもめが裁判官を追いかけ続けている絵ですが、実は、神様はすべてをご存じで、速やかに裁いてくださるのです。神様のほうが、私たちを見て、見続けて、追いかけておられるのに気づかなければなりません。そして、この方は私たちの良いことも悪いこともすべてご存じです。私たちの申し立ての通りに、相手だけを裁く方ではないかもしれません。私の罪も、悪い心も、すべて見ておられるからです。「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」とイエス様はこのお話を結んでおられます。

 私たちの本当の信仰は、自分を中心にして生きることではありません。善悪を、神様に尋ねず自分で決めるようにしたこと、それが自己中心の罪の始まりであり、創世記の善悪の実は、神を離れ人を愛せなくなった人間の姿を知恵をもって伝えてもいるようです。

 「自分が主体で、自分が中心」ではなくて、神様を主にして、自分が神様の対象になるとき、それを私たちの信仰の姿勢と呼ぶことができます。

 神様は、お金を入れてボタンを押したら自分の願いをいつでも聞いてくれる自動販売機ではありません。神様の御心を知り、それに従おうとするとき、既に神様は何かの解決を準備してそこにおられるはずの方なのです。それに気づくために、忍耐や執念の祈りは必要です。しかし、それで神様を便利に使ってはいけません。

願い続けるのは自分ではなく神様のほうであり、忍耐と愛の執念をもって追いかけておられるのは、神様の方だったという事に気づくときに新しい人生が始まります。

忍耐と執念は、私たちの中では矛盾するときもありますが、神様の側からすればその愛ゆえに一つなのです。私たちの身勝手ささえある「信仰」は、祈りと情熱は捨てるべきではありませんが、その結果を神様にお任せして、その方に従うときに、すべてが守られ、解決されていくということを学びました。そんな方と一緒に生きていきましょう。

 


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ウクライナ戦争、教会の支援は… 

ACT Alliance(アクトアライアンス)ってなに?

私たちの教会JELC(日本福音ルーテル教会)は、世界のルター派の教会の共同体である、LWF(ルーテル世界連盟)の一員です。LWFは、現在世界99か国の148の教会組織からなり7400万のメンバーを数え、もとは1947年に組織され、スイスのジュネーブに本部を置きます。

私たちの捧げたウクライナ支援献金はJELCに集められ、LWFの指定口座に送金されます。LWFは世界教会協議会(WCC)とともにACT Alliance(アクトアライアンス)のもともとの設立団体でもありますが、このACTを通して調整され、世界各地の加盟教会とともに、支援活動にあたっています。日本の大規模災害の際も支援を受け、また、国内の加盟教派はここを通じて得た支援も活用して地域の支援を行いました。同様に、今回のウクライナ戦争も現地の加盟諸教会、特に現地近隣ルーテル教会も主体的に支援活動を進め、国連などにも・また共にも政治的な渉外活動等もしています。

ACT Allianceは各地の災害支援や難民・人道支援などに当たってきましたが、1995年に組織化されたものがやがて、2010年、2015年に組織改革され、2019年に今のACT Alliance(アクトアライアンス)となりました。現在、世界120か国以上において活動する135のプロテスタント諸教会、正教会とFBO*によって構成されるエキュメニカル(超教派)な国際的同盟であり、人道支援・開発支援・政策提言を活動の柱としています。

ACTは、ACTION BY CHURCHES TOGETHERの略で、「教会が力を合わせて一緒に行動しよう」という意味を込めた言葉です。2010年WCC(The World Council of Churches: 世界教会協議会)とLWF(Lutheran World Federation: ルーテル世界連盟)の関係教会・団体によって設立され、ジュネーブに本部を置いています。

戦争の状況は予断を許さず、困難の中にいる人は多くいます。これからもよろしくお願いします。

*FBO(Faith-based Organisation):信仰にもとづく団体


2022年10月1日土曜日

礼拝メッセージ・教会だより 20221002

はやいもので、もう10月ですね。台風被害の地の教会に支援金を教区から振り込んでもらいました。水や必要物資の購入配布に充てられます。伝染病に戦争に台風、面倒なことは増える一方。もっとあればいいなと思う、安らぎや仲間やお金も?なかなか増えませんね。イエス様の姜の聖書の話を一緒に読んでみましょう。2日は高蔵寺教会で礼拝説教と聖餐式があります。どうぞ、おいでください。Facebookでも中継し、夜にはこのサイトにYouTubeで掲載します。元気に過ごしましょう。 


聖書の言葉 ルカ17: 5~10 (新142)

17: 5使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、 6主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。

7あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。 8むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。 9命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。 

10あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」



説教 「自分に信仰があると思う不信仰」  徳弘浩隆牧師

1,もっとたくさんあったなら…

「もっと、もっとたくさんあったら、どんなにいいだろうに」と思う事は誰にもあるでしょう。それは、お金でも、食べ物でも、ケーキでも…。どうしたらいいのでしょうか?とイエス様に尋ねると、「何をそんなことに気をもんでいるのか!」とぴしゃりと怒られてしまいそうです。「まず神の国と神の義を求めなさい。ほかのものは添えて与えられると、言ったじゃないか」と想定問答集が作れそうです。

でも今日の聖書のなかの問いかけは、そんな俗的なものではなくて、もっと素晴らしい問でした。「信仰」についての問答だったからです。

もっと食べたい、もっと有名になりたい、もっと楽がしたいという欲望ではなくて、もっと信仰があったらと願うのは、次元が違うほどの、素晴らしい願いであり、問いであると思います。

しかし、今日のイエス様のお答えは、「いいことを聞いてくるねぇ。」でも、「そんな素晴らしい願いを持っているのなら、特別の方法を教えてあげよう」ではありませんでした。その答えはどんなものだったのでしょうか?

いっしょに聖書し学んでいきましょう。

2,聖書

弟子たちの問いかけや願いは、「どうしたら信仰が増し加えられるのか。イエス様、どうぞ、私の信仰を増してください」と、そんなものでした。

それに対してのイエス様の答えは、一見冷たいものでした。有名なたとえ話です。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」でした。

「これは、からしだね程の小さな信仰でいいんだよ。それさえあれば、とんでもないことが起こるんだよ」とも聞こえますが、「からしだね程の小さな信仰でもあるなら、とんでもないことが起こるのに、あなたたちは、それさえもないんだよ」という風にも聞こえてきます。

私はその二つ目に聞こえてきます。なぜなら、「からしだね程の小さい信仰でもいいんだよ」という肯定と慰めの言葉だとすると、それを持つための方法が説明されていないし、続きのたとえ話を読むと、「当たり前のこと、やるべきことをやったら、それを自慢しないで、謙虚にしていなさい」という言葉が続くからです。

ではなぜ、弟子たちは、そんな質問をしたのでしょうか?それを考えると、深い意味を知ることができます。今日の5節からの前の1節から4節には、イエス様のこんな教えがあります。「つまずきは避けられない」「兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。」、「悔い改めたなら、赦してあげなさい」、そして「一日に7回そんなことがあっても、7回悔い改めるといってきたら赦してやりなさい」といわれました。

それを聞いて、「いや、自分にはそんな信仰はないなぁ」いったいどうしたら信仰が増えるのかなぁ」と思い、質問したと考えることができます。

しかしそれへのイエス様のお答えは、先ほど読んだ通りでした。

3,振り返り

 私たちは、どうでしょうか? たくさんの信仰を持っているでしょうか?大きな信仰を持っているでしょうか? 

仮に、イエス様にこう問われたらどう答えますか?

「100点満点で考えると、あなたの信仰は何点くらいですか?」と。相手がイエス様ならとっても遠慮して恐れ多いのでとなれば、牧師から聞かれたらという事でもいいかもしれません。どうこたえるか、少し考えてみませんか?

 「自分は70点くらいかなというのが謙虚かもしれないな」。とか、「いや、自分は半分くらいという事で50点くらいと言っておこうかな」と、もっと謙虚に考えるかもしれません。

それに対するイエス様のお答えは、今日の聖書の問答からすると、こういう風かなと私は思えてきます。「いや、あなたの信仰は、0点だよ。」と。「なぜなら、あんな小さなからしだねくらいの信仰があれば、驚くことが起こるのに、それもないじゃないか」と。

そもそも、「信仰を増すにはどうしたらいいでしょうか?」という問いがおこがましいと、怒られるかもしれません。「増す」というには、「もうすでにそこにそれを持っている」という事だからです。

そうすると、何かを成し遂げたときに、「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」といいなさいと言われる言葉と合点がいくからです。

4,勧め

 私は牧師になって最初の10年間くらいは、全国の中高生キャンプにかかわり、妻と一緒にいつも企画して実施し、中高生向けの新聞を作って送ったりもしていました。その後、TNG委員会という事で、幼児から、小学生、中高生、そして青年会までの企画を一緒にしました。高校生や青年は、アメリカやインドやカンボジアに行くワークキャンプも企画し、実施しました。そんな流れの中から、後輩の面倒見てスタッフに加わってくれたり、青年会から牧師候補生が生まれて神学校に行ったり、暫くいい流れができていました。あの頃のこどもたちや、青年が、神学生になって、牧師になったという人も何人もいます。

 そんな後輩牧師と懐かしい話をしていた時、ある人がこういいました。「先生、あの頃は私も大変な問題児だったと思います。いろいろ迷惑をかけました」。そこで私は答えました。「何言ってるの、そんなことないよ」。すると彼はほっとしたような明るい顔になりました。でも私は続けました。「あなたは問題児じゃなくて、問題外だったよ」と。

私たち一人一人の信仰者も、「問題児ではなくて、問題外」。「不信仰ならまだいいほうで、無信仰」というくらいの自己認識がなければならないと思います。

ルターに言葉にこういう言葉があるそうです。「信仰とはある人々が信仰だと考えているような、人間的な妄想や夢ではない。信仰は私たちのうちにおける神のわざである」。自分で多い少ないを考えたり、どうしたら増やせるかを考えるのは、まだそれがわかっていないという事でしょう。自分に信仰があると思うのは、実は不信仰な姿なのです。なんと逆説的ですね。

「自分には何もありません。だから、神様あなたにお任せします」という無条件降伏の姿勢。それが、信仰といえるかもしれません。そこには、自分の知恵や名誉や役職や経験や、財産や書物や知識も、すべて投げ捨てて、神様にお任せして生きていくという姿が残ります。もちろん病気や社会の問題に対して、分析したり解決の糸口を見つけるためにはそれらも大切です。しかし、人生の大きな問題では、それらを一度投げ捨てて、すべてを神様にお任せしたら、なんと今まで自分はいろいろなものにとらわれていたのか、という事を痛感します。それが、今日のイエス様のお答えのように、私には聞こえてきます。教会の群れの中で、それを一緒に生きていきましょう。

  


ウクライナ戦争、教会の支援の今 

献金やチャリティコンサートもありましたが、その後どうなっているのでしょう。LWFのニュースサイトからの現地の声を、何回かに分けてお知らせします。

LWFキャッシュセンターがウクライナ難民のポーランド定住を支援(LWI 2022/08/31) 

 昨年のこの時期、アナスタシアは黒海で休暇をとっていました。今年は毎日海を見ていますが、同じ海ではなく、観光客でもありません。 3 月初旬、彼女は 2 人の子供と母親と一緒にウクライナでの戦争から逃れました。アナスタシアは、ポーランドのグダニスクで一時的な家を見つけました。彼女の夫と父は国のために戦うために残りました。アナスタシアは、主に国連難民高等弁務官事務所 (UNHCR) から資金を得て、全国のルーテル世界連盟 (LWF) 多目的現金支援登録センターを通じて財政援助を受けている 60,000 人の 1 人です。バルト海に面したグダニスク市では、ウクライナからの難民が、夏休みにここを訪れる観光客と混ざり合っています。しかし、彼らの経験はまったく異なります。不安定な状況下での生活の整理、戦争のトラウマ、子供や年配の親の唯一の世話は、母親にとって特に困難です。アナスタシアと彼女の家族は、最初はポーランドの家族に引き取られ、とてもよく世話をしてくれました。家族はグダニスクの近くの小さな町に住んでいましたが、ポーランドの軍事基地の近くにもありました。アナスタシアはそのことを知りませんでした. 「最初、飛行機が通り過ぎる音を聞いたとき、私たちはすぐに逃げ出したいと思いました」と彼女は語ります。

私たちが望むものは、平時に人々が持っているものだけです。私たちは、自分自身と子供たちの安定と安全を望んでいるのです。


説教メッセージ 20240512

 聖書の言葉  ルカ 24:44~53 と 使徒言行録 1: 1~11 (新213) 1:1-2テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。...