2024年5月12日日曜日

説教メッセージ 20240512

 聖書の言葉 

ルカ 24:44~53 と 使徒言行録 1: 1~11 (新213)

1:1-2テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。

3イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。 4そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。 5ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」

6さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。 7イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。 8あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

 9こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。 10イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、 11言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」


説教「なぜ天を見上げて立っているのか」徳弘浩隆牧師

1、どこかで聞いたセリフ

今日の使徒言行録の言葉、説教題にも選びましたが、この言葉はどこかで聞き覚えがあるかもしれません。「なぜ○○○○を見ているのか?」という天使の弟子たちへの問いかけです。

これは、そのまま、教会に通っている私たちにも、神の使いが問いかけている言葉にも聞こえてくるから、大切な言葉だと思います。

おぼえておられますか?そう、ルカによる福音書にもありました、キリストが復活されたとき、墓穴の中を見つめているマグダラのマリアたちに、天使が呼びかけました。そして、その言葉に視線を変えるように促されたのです。あの時と同じように、弟子たちは天使たちに問いかけられました。大切なところではなくて、自分たちの心配や思い込みで、別のところを見つめたままの弟子たちに、正しい方向を見るように促したのです。

私たちも、毎日の生活の中で、間違ったところだけを見つめて、あくせくしているかもしれません。どこに視点を転じたらよいのでしょうか?一緒に学んでいきましょう。


2,聖書 

今日の聖書は、ルカによる福音書の最後と、使徒言行録の最初から選ばれています。今日は主に、使徒言行録の方を見ながら、神様の声を聴いていきたいと思います。

説教は福音書の言葉から神の声を聴くべきではないかと、そう思われることがあるかもしれません。ある面もっともなことです。福音書こそ、キリストのご生涯と教えがまとめられて伝えられているからです。しかし、今日の福音書と使徒言行録は特別です。使徒言行録の冒頭に、テオフィロという人に宛てた言葉が書かれています。その中で、「先に第一巻を書いた」と言及されているのが、ルカによる福音書と考えられています。

つまり、これらは実は続きものだと考えられているのです。ですから、ここ2年程、教会の聖書研究会ではルカによる福音書を駆け足で学び、その次は使徒言行録を学びました。そこでは一貫した流れを学ぶことができました。キリストの出来事から最初のキリスト教会と宣教の歴史、そして、ユダヤ人たちへの教えではなくて異邦人にキリストが伝えられたいきさつです。そして次にはエフェソ書を学びましたが、エフェソという異邦人の町の教会にあてた手紙を読みながら、日本という別の文化や宗教で生きる私たちが「異国の宗教」であるキリスト教を信じるにあたっての間違いや問題とそれへの教えを参考にしたいと思っての事でした。

さて、今日は昇天主日です。これは、今日のルカによる福音書と、その続きの使徒言行録が伝えているキリストが天に昇って行かれるという出来事です。

興味深いことに、5節では使徒たちは、つまり主要な弟子たちはまだ的外れな質問をしています。キリストは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを数多くの証拠を持って示し、40日間にわたって彼らに現れて、神の国について話されたとルカは振り返りながら説明し、続くキリストの言葉を伝えます。それは「エルサレムにい続けなさい。約束されたものを待ちなさい。聖霊による洗礼を授けられるからだ」と。それに対して使徒たちは、「イスラエルのために国を再建されるのはこの時ですか?」と尋ねたのです。

まだ、彼らの思い込みと期待による、イスラエルという地上の国の再建をしてくれる王様としてのメシアを期待していました。それがいよいよかと、問うたのでした。それに対してキリストは、「そのときは父が決めることである。聖霊が降ると力を受ける。そしてエルサレムばかりではなく、地の果てに至るまで、私の証人となる。」と「つまり、私の言葉と出来事を伝えていくのだよ」と言われました。そしてキリストは祝福をしながら天にあげられたのです。


3,振り返り 

さて、大切なのは、それに対する使徒たちの姿です。あっけにとられて天を見上げました。そして、そのままだったのです。天を見上げていたまま。

そこに冒頭に考えた天使の言葉です。「どうして天を見上げたまま立っているのか?」それは今の私たちにも問いかけられていると考えてきたとおりです。

最後まで神様の御心を理解できず、いよいよその時が来たのか?と自分の願いだけを考えて的外れな期待をします。キリストに教えられ諭されても、まだ、いなくなったキリストの方を見ているだけなのです。

自分の願い事だけを祈り、それがかなうのはいつか、今かと、神様に問い続け、神様のもっと大きな恵みや、自分の使命に気が付かないのでした。そして、私たちも、自分のことや目の前のことだけに心を奪われ、迷ったり、立ち止まったり、衝突したり、です。キリストは何も解決せずに、天に帰って行かれたよ、と見上げていただけだったのかもしれません。

天使は、そんな彼らに、そして、そんな私たちに呼びかけています。またおいでになる、と。神の霊が注がれ、その力に満たされ、自分自身が変えられてゆくことを思い出さされるのでした。


4,勧め 

祈りは大切です。しかし、自分の願いをかなえてもらうためだけではいけません。そして、すべてがうまくゆくような解決を待つだけでもいけないのでしょう。神の霊に満たされて、変えられてゆく自分が、神様の計画を実現しお助けする側になること、それによって願うだけではなくて、それを実現するものにされてゆくことを考えてゆくことも大切です。

今日のキリストのまとめの言葉と、天使の呼びかけの言葉は、そのように私の心に届きました。

見上げて立っているだけではなくて、足元を見て、神の願いを自ら生きるものになりましょう。 

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 牧師コラム・ 今日の写真 I Love YOU!

  先日公園に行きました。春には、桜がきれいで沢山の人たちが桜を楽しんでいました。そのときは、車を停めるにも長い行列でなかなか駐車場に入れませんでした。入ると、多くの人が、そして沢山の外国人の人たちもあちらこちらに座って、桜を楽しんでいました。

 先日行ったときは、とてもきれいなバラが咲き乱れていました。バラ園がきれいに整備され、沢山の品種の桜が裂き比べているようでした。

 いろんな名前のバラがあるんだなぁ、と思いながら少しだけ回りました。そこで見つけたのがこのバラ。その名は「ティアーモ」とカタカナで書かれています。横にはアルファベットでも書かれていますがこんな具合です。




「Tiamo」。ブラジルにいた私はすぐにピンときました。その写真を撮って、ブラジルにいたときにお世話をしていたこども達数人に送りました。すると、翌日数人から返事がきました。「Ti amo!」と。

 このバラは、ドイツの品種ですが名前はイタリア語。意味は「I Love YOU!」で、ポルトガル語でも同じように言います。もう5年もあっていないけれど、何度もメッセージや写真をやり取りしているブラジルの子どもたちに送ったメッセージはその意味が分かって、同じ言葉で返事を送ってくれたのでした。バラのきれいな花と一緒に、とっても嬉しくなりました。

 さてこのバラの名前と、その意味、その赤い花びら、続きのお話は来週のペンテコステの説教でお話ししましょう。

お楽しみに。


2024年5月9日木曜日

説教メッセージ 20240505

 聖書の言葉 ヨハネ 15: 9~17 (新198)

15:9父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。 10わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

11これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。 12わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。 13友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 14わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 15もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 16あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。 17互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」


説教「友のためになにができるか?」  徳弘浩隆牧師

1、クリスチャンという言葉

私たちは自分たちのことを、「クリスチャン」と呼ぶことがありますが、そもそもどういう意味でしょうか?

いくつかの説がありますが、一般的に考えられていることはこうです。聖書の中では使徒言行録11章の25-26節に「それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。」と初めて登場します。ユダヤ人中心のエルサレム教会に対して、北部のアンティオキアは非ユダヤ人非ユダヤ教出身のいわゆる異邦人の教会でした。そこで、「キリスト者と呼ばれるようになった」と訳されているのは、ギリシャ語聖書では「Χριστιανούς(クリスティアノス)」、ラテン語聖書では「christiani(クリスチアーニ)」となっていて、英語のクリスチャンになっていきました。そのもともとの意味は、「キリストの奴隷」「キリスト党員」「小さなキリスト」などの意味があり、やや揶揄された呼び方だったという説もあります。ちなみに16世紀の日本ではクリスチャンは「耶蘇(やそ)」、神父さんは「バテレン」と呼ばれますが、これはポルトガルやスペインの宣教師が紹介した「イエス」が「耶蘇」と書かれ、神父を意味する「Padre(パードレ)が伴天連(バテレン)と漢字で書かれたのがもとで、人々からやはり揶揄されるように呼ばれました。

聖書の中ではこのように、「キリストの奴隷」ともいえる呼び方ですし、パウロも自分のことを「奴隷」という言葉を使って書いているところもありますが、一般的に「キリストのしもべ」と訳されています。

さてしかし、今日の聖書はキリストは私たちのことを、奴隷でも、僕(しもべ)でもない、「友」と呼んでくれています。私たちとキリストとの関係を聖書から学んでいきましょう。

2,聖書 

今日の聖書日課は、先週と同じで、ヨハネの福音書の中の13章から16章までの、いわゆる「決別説教」「告別説教」と言われる長いお話の中からです。最後の晩餐があり、弟子の足を洗い、新しい掟の話をし、羊やブドウのたとえ話があり、今日は「友」という言葉が一つのキーワードでしょう。

神がキリストを愛されたように、キリストも弟子たちを愛してきた、と言われます。そして、その愛にとどまっていなさいと。それは、キリストが言われる掟を守るなら、愛にとどまっていることになるのだと、続けられました。

そして、その大切な掟、命令は、「キリストが弟子たちを愛したように、弟子たちも互いに愛し合いなさい」という事でした。そして、僕は主人が何をしているかわからないでいるが、弟子たちはもうわかっているので、僕ではなくて、「友と呼ぶ」という話になっていきました。

奴隷は主人の所有物であり、言われるままの仕事や生き方をしなければなりません。奴隷は主人の考えを知る由もなく、ただ従うという事でした。しかし、いまや、キリストと弟子たちは、「主人と奴隷」ではなく、その考えがすべてわかり、それを行う事になるので、「友と友」という関係になるのだというのです。

その「友である」ということのカギが、「互いに愛し合うべき」という事でした。

3,振り返り 

キリストは弟子たちのことを、「友」と呼ばれました。私たちクリスチャンも、クリスチャンという言葉はもともと「キリストの奴隷」ともいう意味でしたが「友」とされています。でも、その「友」である根拠は、キリストの愛にとどまっていること、そして、互いに愛し合う事、それが必須でした。

私たちにできているでしょうか?讃美歌でも、「慈しみ深き、友なるイェスは」という歌もあります。やさしくしてくださるイエス様のことを思い、この讃美歌が好きだという方も多いでしょう。

イエス様は私たちのことを「友」と呼んでくれたけれど、罪深い自分にその価値があるのかと、それほどの愛で他者を愛しているかと問われると、私はまだキリストの友とはなれていない自分を見つけざるを得ません。

どうしたらよいでしょうか?矛盾や不安や不満がたくさんある社会です。人がゆるせない、自分も赦せない。人を愛せない、自分も愛せない。そんなときもあるかもしれません。間違いや不正をそのまま許すこと、是認することを聖書は求めていません。罪を認め、悔い改めてキリストを信じる者の罪をゆるすと、礼拝でも罪の告白とゆるしの宣言でも説明しています。しかし、それでも自分は他者を許せない愛せないことがあるかもしれません。どうしたらよいのでしょうか?

4,勧め 

それは今日のキリストの言葉に答えがあります。努力して努力して、やっと、キリストの友とされるところに到達するのではありません。キリストが神の知恵・み言葉を教えてくれ、友と呼んでくれ、その友のために命さえを投げ出してくれたこと、それほどの大きな愛が神の愛だと、教えてくれたのです。「友のために命を捨てること、それほど大きな愛はない」とキリストがこれから向かう十字架の道を見据えながら、本当の神の愛の在り方を教えられたのでした。

その出来事を、感謝して受け入れることです。そして、自分も少しずつ、そのような愛で生きることを促されています。キリストの奴隷ともいえるクリスチャンであるわけですが、それはすべてこの方に従って生きていくという、信仰告白的な意味では「奴隷」でもよいでしょう。しかし、いつまでも「奴隷」ではなくて、キリストによる神の知恵とみ言葉を知り、そうされたように自分も人を赦し愛する生き方をするときに、本当の「友」と呼ばれるにふさわしくなります。それを、キリストは願い、自分を投げ出し、招いておられるのです。自分も傷つきながら、痛みを覚えながら、他者を赦し、そのために生きる、それが、キリスト者の生き方です。そんな生き方を格闘しながらでも、したいと思わされます。安心して、一緒に生きていきましょう。教会の仲間は、そんな生き方を、失敗もしながら生きている仲間、兄弟姉妹、家族なのです。

 

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牧師コラム・  久々の出会い、新しい出会い

  4月29日は「わいわいワーク」に行ってきました。天候も適度な「くもりに恵まれ」、暑すぎず、雨でもなく、話題の「パンダ羊」にも会えました。

  私は草刈り機持参で草刈りをしましたが、格闘の相手は地面の雑草ではなくて、フェンスに絡まる蔦でした。こういう時いつも思い出す歌は、「蔦の~絡まるチャペルで、祈りをさ~さげた日~♪」という歌。素敵な情景を思い出す歌ですが、私は穏やかな気持ちではありません。教会の草刈りや掃除をするときにいつも思うのはこうです。「蔦の絡まるチャペルは教会の素敵なイメージで良いけど、牧師や教会員は大変なんだよぉ」と。今回もそう思いながら、一緒に作業をする他教会の方とおしゃべり。「すごいですねぇ。ここまでフェンスに絡まって、しっかりとしがみ付いますねぇ」。しかし、「そういえば、昨日の聖書も、ブドウの木につながっていなさいというブドウの枝の話でしたねぇ」と、聖書に話が弾み、考えさせられました。一生懸命にしがみ付く努力そのものはキリストは求めておられないかもしれないけれど、このくらいガッシリと(フェンスにではなく)キリストにつながっていたいものだと思わされたのです。

  私の担当教会の愛知県二教会から牧師夫妻を入れて10名、そして浜名教会からは福祉会職員の方も参加しておられたし、他教会の多くの方々と交流もできました。私と一緒に参加した方々には、ブラジルで開拓伝道もし、ご高齢者の健康体操普及プロジェクトを30年前に始めて大きな組織に育て上げた聖公会の女性執事(終身補助司祭のような方)とベトナム、ブラジル、スリランカの外国メンバーも一緒でした。スリランカ・メンバーは今年教会に来始めてくれた新人さんですが、だいぶ日本語も上手になり、打ち解けて、一緒に頑張り、喜んでくれていました。帰りにはこひつじ診療所の通訳さんのブラジル野菜農園も訪ね、マンジョッカ(タロイモ)の話や各国での呼び方や食べ方の違いでも盛り上がりました。言葉や国籍を超えてみんなで笑い、天国を垣間見た気がしました。 早朝から夜の帰宅まで、体力は使いましたが、教会も言葉も、教派も超えたメンバーの出会いと再会で、うれしく楽しい日でした。キリストから託された大切な私たちの働きとこの輪を、一緒に広げてゆきたいと思います。

 5/25には、「グリーンズ・フェア」もあります!




2024年4月28日日曜日

説教メッセージ 20240428

久しぶりの方と再会しました。ブラジルという「異国」で共に働き、いろいろなことを共有した同労者、ブラジル聖公会の執事の姉妹です。バスに乗って遠い街に行き、教会で子どもたちにお話をし、教会員の方と交流し、弓場農場を一緒に訪ね、超教派の研修会をしたりもしました。懐かしいことをいろいろ話し、あっという間に時間が経ちました。大笑いしながら、反省させられたり、驚いたり、新しいアイデアも色々頂きました。そして、神様を中心にしてつながっているということの大切さも痛感しました。今日の聖書も、「つながっていなさい」というのがキリストの言葉です。一緒に私たちの生き方を、考えてみましょう。私は今日の礼拝は高蔵寺教会の担当です。YouTubeで浜名教会の方々にも中継を通して一緒に礼拝をします。お待ちしています!

聖書の言葉 ヨハネ 15: 1~ 8 (新198)

15:1「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。 2わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。 3わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。

 4わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。 5わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。 6わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。 7あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。 8あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。



説教「キリストにつながる フォロウとシエアとリンクの違い」」

徳弘浩隆牧師

1、インターネットの時代、つながるとは?

便利な世の中で、手のひらで調べ物をしたり、友人と連絡をとったりできるようになりました。近況報告は年賀状という時代もありましたが、今では、年に一度の力作に頼らなくても、日常から、近すぎず、遠すぎず、互いの近況を知ることができます。

教会でもそうです。1995年ころそれを感じました。パソコンも高価なMacを買わなくてもWindowsが使いやすくなり、パソコン通信からインターネットへ移行する時期でした。日曜日に会って挨拶する言葉は、「おはようございます。一週間お元気でしたか?」という言葉ではなくり、「おはようございます。先日は大変そうでしたねぇ。あれからどうなりましたか?」に変わったのです。主に若い世代で、教会で会う日曜日以外でもネット上で互いの状況を知ることができるようになった頃でした。そんな挨拶をしながら、自分でも驚いたのを覚えています。

しかしそれも今は昔の話。世代を超えてこれはもう、当たり前になってきました。私たちは以前にも増して、お互いに「つながっている」ということが普通で、簡単になってきました。

今日の聖書で、キリストは「私につながっていなさい」と言われます。人間同士、そして神様との関係では、どんな具合でしょうか?神様は、私たちにどんな生き方を願っておられるでしょうか?一緒に学んで神様の声を聴きましょう。

2,聖書 

聖書の中には、神様と人との関係をたとえているいろいろなモチーフがあると先週考えたばかりですが、先週の「羊」のたとえと同じように何度も出てくる「ブドウの木」のたとえの中の一つです。キリストの復活後に読まれるのですが、十字架にかかられるもっと前の話です。なぜ復活後にこの箇所が伝統的に読まれるかというと、ヨハネの福音書の中の13章から16章までの、いわゆる「決別説教」の中の話で、最後の晩餐の折に弟子たちに語られたお別れの大切な話の中にあるからです。もう一度、キリストの告別の大切な話を復活節に思い出して生きていこうという流れになるからです。

さて、ブドウは旧約聖書からたびたび、神と人との関係を伝える譬えに使われています。まことのブドウの木につながっていながら実を結ばない枝は、農夫である父なる神が取り除かれると、裁きを伝えます。旧約聖書のエゼキエル書15章にも、「役に立たぬブドウの木」と小見出しが付けられている箇所は辛辣です。「森の木々の中で何の役にも立たない。役に立つものを作る木材にもならず、器物をかける釘にもならない」と、神につながっていない人の命の無意味さを皮肉と嘆きを持って語るのです。

そんなブドウの木のたとえをさらに進めて、「私こそ、まことのブドウの木なのだ」とキリストは言われました。この方につながっているなら、そのみ言葉によってきよめられ、実を結ぶことになる、と。

3,振り返り 

私たちがここで注意して、努力するべき点はどこでしょうか。それは、「私たちは枝である」ということです。枝は自分の努力で水分や養分を土から吸収したり、太陽の光で栄養を作り出すことはできません。それは、根の役割であり、葉の役割です。枝はただきちんとつながっているということが大切です。枝や茎には導管と師管という動脈と静脈のような二種類の管があってそれらを循環させていると、中学のころ教わったのを思い出します。

私たちは、枝として、キリストという本当のぶどうの木につながっているだけで、自分の行いによらず、豊かな実を結ぶことができるのです。ブドウの木が、枝に養分や水分を注ぎ込んでくれます。私たちも、必死にしがみついてつながっていて、それら養分や水分を必死に吸い採る努力をすることが求められているのではありません。大切なのは、つながり、とどまっていることです。そうすれば、キリストの真理と愛と命が注ぎ込まれるのです。簡単と思うかもしれません。しかしそれが危ぶまれる状況でした。最後の晩餐の席で、キリストが文字通り、「命がけで」弟子たちに最後に伝えたかった言葉だったからです。このことが再現される聖餐式でも、このキリストの言葉を味わい、とどまり、キリストの体と血をいただきながら、つながり生かされ続けることを、確認していきたいと思います。

4,勧め 

さて、今日の謝意所は、「つながること」が以前にもまして簡単になった世の中のことを考えました。

今では普通になり、役所の提出物広報もSNSが使われています。いろんなニュースや出来事も共有されます。私たちも、活用し、楽しみ、便利に生きてもいるでしょう。友人知人に限らず、いつも面白いこと、ためになることを発信する人を見つけたら、「フォロウ」ボタンを押して逃さずに見ようとします。納得したら「いいね」ボタンを押して参道の意思表示もします。そして「これは自分の知り合いにも伝えなきゃ」と思ったら「シェア」ボタンを押したりもします。今はそんな生き方が普通になってきました。

では、私たちの神様との関係はどうでしょうか?「私に従え」と言われたキリストに従うのは、文字通り「フォロウ」でしょう。聖書を読んで説教を聞き、祈りを共にするときに「本当にそうだなぁ!」と思いいう言葉は「いいね」ではなくて教会では「アーメン、その通りです」となります。こんないいお話は、人にも伝えないともったいないと思って「シェア」するのは「伝道」や「宣教」ということになるでしょう。

でも大切なのは、スマホのボタンを押すだけのような生き方ではいけないということです。私たちの生き様やいのちがかかっている出来事は、 キリストにしっかりとつながってそのように生きることです。それは、ただ「フォロウ」や「いいね」や「シェア」を座りながら押すことではありません。私たちの生き方が問われています。キリストと本当につながり、そのように生きること、そのボタンを押せばキリストが見え、キリストにつながっていくこと、それは「リンク」のボタンではないかとも思います。

今日はブラジルという異国で一緒に生きて、宣教をした姉妹が礼拝に出てくれています。キリストのもとで私たちも同労者、家族のようにつながっていました。数年ぶりに日本で再会し、遠慮なくいろんなことを話しあい、昨夜も時間があっという間に過ぎました。失敗や、恵みや、笑い話を互いにしながら、しかし、すべてを計画し導いておられる神様を一緒に見上げることができました。

そんな同労者、キリストにある家族のような群れを、私たちも作り上げ、広げてゆくこと、キリストに動かされて自分も変えられていくこと、それが豊かに実を結んでいくことなのだと、実感させられました。一緒に生きていきましょう。神様と。

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牧師コラム・ 今日の写真 こんなところに! 


 教会の階段、急いで駆け上がろうとしたらなんと、花が咲いています。こんなところに!

むかし、アスファルトで舗装された道にたくましく育った大根が有名になりました。「ど根性大根」と。調べると2005年、兵庫県の相生市でした。相生市のマスコットのゆるキャラとしても、「ど根性大根 大ちゃん」として健在だそうです。

この教会の階段に自生した花は、ど根性というより、りりしく、きれいに花を咲かせ、教会に来る人を歓迎している優しさやHospitalityを感じます。私たち一人一人も、教会に来る人を笑顔で迎え、ほっとさせてあげられる、そんな一人一人になりたいですね。それぞれの教会でも、せっせと、草刈りや雑草抜き、お花の世話をしてくださる方々に感謝しています。そんなお一人お一人も、こんな花のような存在です。ありがとうございます。


2024年3月23日土曜日

説教メッセージ 20240323

Semana Santa(セマナ・サンタ)、受難週(聖週間)が始まりますね。サンタというと、サンタクロースを思い出しますね。クリスマスの楽しい出来事。頂いたり、交換し合ったりするプレゼント。でも、この季節のサンタは悲しく苦しい出来事を思い出させます。同じサンタ(聖なる)ものでも、神様から頂くものと、取り上げられて苦しい思いをするという正反対の出来事。その原因は人間の罪の心です。自己中心で他者を排除したり、何かに固執したり。愛せなかったりゆるせなかったり。そんなことがキリストを十字架に追いやっていきます。今日も一緒に聖書を学び祈りましょう。お待ちしています。

聖書の言葉 ヨハネ12:12~16 (新192)

12その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、 13なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。

「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」

14イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。

15「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って。」

16弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。


説教「群衆の声、私の声」 徳弘浩隆牧師

1、みんな持ってるから、私も欲しい!

こどものころ、欲しいものがあるときに、親を説得する殺し文句ともいえる言葉はこうだったかもしれません。私は気が弱かったので、あまり言ったことがありませんけれど。それは、「みんな持ってるんだよ!自分だけ違う。だからほしい!」。

そういわれると、親にもスイッチが入って、「負けてはおられない」とか、「うちの子だけ持っていないとかわいそうだし、いじめられてもいけないから」と、ついつい買ってあげてしまうかもしれません。

でも、冷静になってよく聞いてみると、そこでいう「みんな」は「みんな」ではなかった、ということは良くある話です。その「みんな」は、学校のみんなでもないし、クラス40人みんなでもないし、友達グループのみんなでもないこともあります。「仲良しの誰かと誰か」、くらいのことかもしれません。それが、その子のその時の、心の中の「みんな」なのです。

きょうの聖書の話では、「群衆の声」が出てきます。「『みんな』の声」です。その中の一人である、「私の声」はどうでしょうか?神様と自分の関係の中で、みんなの声と、自分の声は、同じでしょうか?違うでしょうか?どうあるべきでしょうか?一緒に考えていきましょう。

2,聖書 

今日の聖書は、ヨハネによる福音書の12章12節からですから、実は先週読んだ場所の一つ前の話になります。過ぎ越しの祭りのころでたくさんの人がエルサレムに来ているときに、イエス様の一行もエルサレムに来られた時のお話です。その直後に、神殿で商売をしている人たちを追い出されたという出来事がありましたが、そこは順序を逆にして先週読んだということになります。

今日読まれたところは、エルサレムに入ってこられるところですが、その日からの一週間でいろんな出来事があり、最後の晩餐、キリストの逮捕、十字架へという出来事が起こっていくという一週間になるので、その週の初めはここを読むのがしきたりになっています。

その日、ユダヤ教の大切なお祭り・過ぎ越し祭を祝うためにエルサレムにいた群衆は、イエスが入ってこられるのを見ました。各地で権威ある教えを話し、いろいろな奇蹟のうわさも聞き、有名なユダヤ教の指導者として関心は高かったのでしょう。それ以上に、聖書が預言している救世主・メシアではないかといううわさもあり、期待して歓迎した人たちが多かったのでしょう。

人々は、ナツメヤシの枝を持って迎えたのです。これは、王様を迎える時のしぐさだったともいわれています。いまでも、挿絵の写真のように、カトリックの国々では「おみこし」のようなものを担いで棕櫚の葉を振ってお迎えするというお祭りが、各地で催されます。

群衆は、このイエスという男を歓迎しました。もろ手を挙げ、棕櫚の葉を振って、聖書の言葉を引用して叫び続けたのです。

しかし、私たちは知っています。その後の出来事を。王様を迎えるように歓迎した群衆の声は、「その男を十字架につけろ」に代わりました。それを振って歓迎した棕櫚の葉は、鞭を打つ縄に代わったのを、です。ユダに裏切られ、他の弟子たちも逃げ隠れしていきます。そして、キリストは一人、十字架にかけられ、群衆や神からさえ見捨てられたような形になっていきます。その最初の出来事を読にながら、自分の生き方を考えましょう。

3,振り返り 

わたしたちの生き方はどうでしょうか?

既にこの話の続きを知っています。十字架に行かれたイエス様の出来事を。しかし、その後絶望の先にイエス様が復活され、弟子たちと再会することも。「だからハッピーエンド、私はそのキリスト教会に通っているから大丈夫!」ということでしょうか?

今日の聖書は、群衆の声の中で、揺れる私の声を考えさせます。「群衆がYesといえば私もYes. 群衆がNoと言い出せば私もNo」でしょうか?

良い状況の中で群衆とともにYesを言うのは簡単です。しかし、状況が変わり、危うくなったとき、希望が消えかけるとき、私の心の中の声はどうでしょうか?

教会に通っていても、信仰が薄くなる時があります。人を愛したり赦したりするのがむつかしくなる時もあります。愛と赦しで間違ったことも是認するのではありません。謝罪して和解するべきですが、それが出来ない時もあります。群衆の期待や裏切る声に振り回されるのではなくて、「私の声」が「群衆の声」ではなくて、「神の声」をきちんと聴いているかどうかが、大切なところです。

「みんながそうだから」ではなくて、「『みんながそうでも』私はこう思い信じている、希望を持って歩いて行ける。人を赦し、また謝罪もできる」。そんな、迷った末の答えでも、そんな生き方をすることが、信仰生活ということになるのでしょう。

4,勧め 

今日は、枝の主日、または棕櫚主日とも呼ばれる日曜日です。棕櫚の葉はPalmと言います。ですから、Palm Sundayとも言います。このPalmは興味深いことに「手のひら」の意味でもあります。形が似ているからだということです。しかし、私たちは、この手を使って、祈り、握手をし、歓迎し、支え、助けることもできますが、反対のこともできます。拒否し、殴り、放り出し、排除し、殺すこともできるのです。「手のひらを反す」という言葉の通り、反対のこともできます。

お寺の掲示板の言葉にこんなものがありました。「墓参り、合掌した手で、蚊を殺す」です。私たちのそんな生き方を気づかせてくれる、皮肉を込めた一句に苦笑いさせられます。殺生を禁じた仏教ならではの蚊を殺すという言葉と、墓参りや掃除に行くころ飛び回って厄介な蚊に悩まされ、祈るために合わせた手で、たたいてしまう行動から、人の心を風刺しています。

群衆の声に合わせるように、私たちも会衆の声に合わせて共に歌い、祈ることは大切です。しかし、その群衆、会衆が神の声を聞いて神の心につながっているかどうかがもっと大切です。今日も賛美歌を歌い、祈りを共に捧げる時間もありますが、そのことを大切に取り組んでみましょう。そして、毎日の生活で、人に、あるいは自分の中にいる自己中心な罪の心に振り回されずに、神様を見上げてゆきましょう。特にこの一週間、群衆の声と、自分の声、神様の声を聞き分けて生きていきましょう。神様がともにいてくださいますように。

 

牧師コラム・ おしえてAI: 聖週間について説明して  

聖週間、またはスペイン語でセマナ・サンタとも称されるのは、キリスト教において最も重要な期間の一つで、イエス・キリストの受難、死、そして復活を記念します。この期間は、主にカトリック教会、東方正教会、プロテスタントの一部で観察され、復活祭の前の最後の一週間にあたります。聖週間は日曜日から始まり、次の日曜日の復活祭で終わります。以下に、各日に行われる主な行事や出来事を説明します。

主日(枝の主日)

・枝の主日(Palm Sunday): 聖週間の始まりを告げる日。イエス・キリストがエルサレムに入城したことを記念して、信者たちはパーム(棕櫚)の枝やオリーブの枝を持って行列を行います。この日のミサでは、イエスのエルサレム入城を再現するため、教会の外で祝福された枝を持つ信者たちが教会内に入っていく儀式が行われます。

聖週間の平日 (牧師注:出来事は他の組み合わせもあります)

・聖月曜日(Holy Monday): イエスがエルサレムの神殿を浄化したとされる出来事を記念します。(牧師注:宮きよめ)

・聖火曜日(Holy Tuesday): イエスが最後の審判について語ったとされる日です。

・聖水曜日(Holy Wednesday): イスカリオテのユダがイエスを裏切るために高僧たちと密約を交わした日とされています。

三日間(聖木曜日から聖土曜日)

・聖木曜日(Maundy Thursday): 最後の晩餐を記念します。イエスが自らの死を前にして最後の晩餐で弟子たちと共に過ごした夜。足を洗う儀式が行われることもあります。この日の夜から、祭壇の飾りが取り払われ、静寂が保たれます。

・聖金曜日(Good Friday): イエス・キリストの受難と死を悼む日。この日は断食と瞑想の日とされ、多くの教会でイエスの受難に関する読み物や瞑想が行われます。十字架の道行き(Via Crucis)という行事も行われることがあります。

・聖土曜日(Holy Saturday): イエスが墓に置かれていた日。この日は沈黙と待機の日とされます。しかし、夜にはイースター・ヴィジル(復活祭の前夜祭)が始まり、キリストの復活を待ち望む儀式が行われます。

・復活祭(Easter Sunday)

復活祭: イエス・キリストの復活を祝う日。この日はキリスト教において最も喜ばしい日とされ、教会は華やかに飾られ、讃美歌が歌われます。復活の喜びを分かち合うため、多くの教会で特別な礼拝が行われます。


2024年3月16日土曜日

こどもの礼拝

今日も子供の礼拝が、はじまりましたよ。
聖書はマタイ16章15節から19節
牧師先生のお話:「てんごくのカギ!あいかぎはありませんか?」

讃美歌をうたって、聖書を読んで、絵本を読んでもらって、牧師先生のお話でした。
卒園生や、教会メンバーの家族だけじゃなくて、誰でも来ていいんだよ。
一度来てみませんか?





 

2024年3月10日日曜日

説教メッセージ 20240310

 聖書の言葉 ヨハネ3:14~21 (新167)

14そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 15それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 18御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。 19光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。 20悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。 21しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」




説教「聖書に込めた神の思い」徳弘浩隆牧師

1、ところで、結論は何なの?

言いたいことがたくさんあると、つい、話が長くなってしまいます。短くしようとしても、いろいろと話したいことが頭に浮かびます。時間を節約しようと思えば、結局、早口になってしまうのです。それが私の悪いところだと思います。

しかし、そんな自分の欠点を棚に上げて、話の長い人の話を聞いていると、だんだん、こう言いたくなってしまいます。「ところで、結論は何なの?」と。

先日、自動車運転免許の更新に行ったときに、そんなことを思わされました。ずっとゴールド免許でしたが、帰国後にまだ日本の車社会に慣れなくて(?)、数回スピード違反などをしてしまって、講習を受けることになりました。講師は丁寧に話してくれました。罰則のような講習に不満を持っている人も多いからでしょう。そのうえ、法律用語もあり正確に話さねばなりません。必然的に話は難しく、長くなります。やはり、早口になって、聞きにくいなぁと、思いました。その時に、自分の欠点を思い出さされたのです。「ああ、自分も気を付けないといけないな」と。

受講者の中には外国人も数人おられる様子で、ブラジル人の方もおられました。多くの日本人は黙って座っていますが、私は彼らと目が合うと、お互いに会釈をしたり、つい、声をかけたり。休憩時間に髭で体格のいいブラジル人の方と話しました。聞けば、サンパウロの人で、私のいた街や通りもよく知っている人でした。「今日の話、むつかしいでしょ?わかる?」と聞くと、「むつかしいねぇ。60%くらいわかるかなぁ?何の話をしているかというのは、わかるけどね。ハハハ」と苦笑い。「ごめんね。日本の人は外国の人と話すときには、簡単に話せばいいけど、慣れてないんだ」と答えました。

大切なことだから、順序正しく、丁寧に、誤りなく話せば、長く長くなります。こんなことを言うと怒られるかもしれませんが、聖書にも、同じことが言えるかもしれません。「ところで、結論は何なの?」と言いたくなるかもしれません。今日のイエス様のお話は、そんな聖書を一言で、まとめたような話とよく言われるところです。それは、どんなポイントだったのでしょうか?一緒に聞いていきましょう。

2,聖書 

話の相手は、ユダヤ教のファリサイ派に属し、ユダヤ人の議員でもあったニコデモという人です。ファリサイ派は聖書を学び、詳しく、その通り厳格に実践し、そうでは無い人たちを指導、そして軽蔑さえしていました。議員というのはローマ帝国の支配下にあったユダヤで、宗教・政治の自治組織の議員です。彼らは体制派で、イエスという新しい人気の指導者が目障りで批判し、上げ足をとろうと議論を挑んだりもしました。しかしこの人は、人目を忍んで夜にイエス様に会いに来たのです。イエス様に敬意を示し、対話をしにか、教えを請いに来たのでした。

その会話はイエス様に「ラビ」と呼びかけて始まります。有名な、「ひとは、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」「年を取ったものがどうして生まれることができましょう?」という問答がありました。丁寧に謙虚に質問を続けるニコデモに、「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことがわからないのか」と言った後、今日の話につながってゆきます。

「神のもとから来られた方」とイエス様に教えを請いながらその奥義がわからないニコデモに、「人間には天に昇って神の奥義を知ることはできないが、私は天から降ってきたものだから、それを知っている」という具合に説明し、「再び天にあげられる」とも説明を続けます。これには二つ、いやそれ以上の意味がありました。やがて天に帰るという意味であげられるというだけでなく、十字架に上げられるという事でした。そしてやがて来る復活も「あげられる」という言葉で実現していきます。

3,振り返り 

「ところで、結論は何なの?」と言いたいところです。今日のポイントは何でしょうか?

これら説明が続いた話のポイントは、「そこまでなさる神様の愛」という事になります。聖書をよく知っているニコデモに、モーセの時の出来事を持ち出して説明しました。罪を犯した人々が苦しみましたが、木の上にかけた蛇を見上げれば救われるという不思議な出来事がモーセの時にありました。ちょうどそのように、キリストである自分も、「上げられる」のだというのです。それは、人の罪、その原因となった蛇、その蛇を木に上げるように人々の罪の身代わりとして十字架という木にかけられていくキリストの運命を説明されたのでした。創世記の初めの罪の出来事や、モーセの時の人々の罪とその救いを思い起こしながら、キリストの十字架へとつながっていく神様のご計画が、わかるようになっています。そして、これは、神が大きな愛の方で、信じる全ての人を赦し救うための出来事なのだ、という事でした。

4,勧め 

分厚い聖書のポイントはどこなのか。イエス様の難しいと思えるお話のポイントは何なのかと、聞きたくなることがあるかもしれません。しかし、その明確な答えが今日の聖書の言葉でした。

ヨハネによる福音書の3章16節は、多くの人が引用する有名な言葉です。聖書全体を一つの文章に要約するとこの文章になるという意味で、「ミニバイブル」という人たちもいます。マルチン・ルターも「これは、聖書の縮図であり、また小さな福音書です」と言ったとされています。

私たちは、そこに、自分の罪深さとともに、神の愛を見上げていきましょう。謙虚さと他者をも愛する心は、そこから生まれてきます。そう生きることこそ、個人も、家庭も、社会も、世界も平和で安心して生きてけるカギなのです。それが、今日の長い話の結論でした。一緒に、そして神様と一緒に生きていきましょう。

 


牧師コラム・ AIとともに聖書研究会!?  

先週の聖書研究会は、緊急告知した通り、「イスラム教とラマダン」でしたが、話が長くなり(すみません)、後半は次回のお楽しみです。AIも使って下調べをさせて、一緒に学び、検証し、自分の生き方を考えるという聖研です。という事で、そのまとめのコラムは次回にして、今日は、ヨハネ3章16節についてAIに聞いてみました。


User TOKUHIRO:ヨハネによる福音書3章16節に対する、有名人の引用やコメントを列挙して説明せよ

答えChatGPT:ヨハネによる福音書3章16節は、キリスト教の教えの核心を表す聖句として、世界中の多くの有名人、神学者、牧師、思想家から引用され、その意味についてコメントされています。ここでは、いくつかの著名な引用やコメントを紹介しますが、実際にこれらの人物が直接述べた言葉や出版物からの正確な引用ではなく、ヨハネ3:16に関する彼らの考え方を一般的に反映したものと理解してください。

1,ビリー・グラハム - 20世紀を代表するアメリカの伝道師。彼はヨハネ3:16を「最も偉大な愛の物語」と呼び、この聖句が神の愛と人類への救済の計画を最も明確に表していると信じていました。

2,C.S. ルイス - 「ナルニア国物語」の著者であり、キリスト教の擁護者としても知られています。ルイスはヨハネ3:16を通じて、神の無条件の愛と、罪からの救済への道を提供する神の計画の重要性を強調しました。

3,マーティン・ルーサー - 宗教改革の指導者であり、彼の神学的な洞察はプロテスタント教会の形成に大きな影響を与えました。ルーサーは、ヨハネ3:16が信仰による義認の原則を象徴していると考え、この聖句を「信仰だけによって」救われるという彼の教えの中心として使用しました。

4,マザー・テレサ - カルカッタの貧しい人々に仕えたことで知られるカトリック教会の修道女。彼女はヨハネ3:16を愛と奉仕の行為を通じて実践することの重要性を説く際に引用し、この聖句が示す無償の愛を日々の生活に反映させることの大切さを語りました。

5,ティモシー・ケラー - 現代の神学者であり、ニューヨークのリディーマー長老教会の創設牧師。ケラーはヨハネ3:16を、神の愛と救済のメッセージがいかに個人にとって深い意味を持つかを説くために引用しました。彼は、この聖句が示す神の愛を理解することが、信仰生活において根本的な変化をもたらすと強調しています。

6,チャールズ・スポルジョン - 19世紀のイギリスのバプテスト派の牧師であり、彼の説教は今日でも多くのキリスト教徒に読まれています。スポルジョンはヨハネ3:16を「福音の核心」と呼び、神の愛と人間の救済についての深い洞察をこの聖句を通して提供しました。

これらの引用やコメントは、ヨハネ3:16が異なる時代や背景を持つ人々によってどのように受け止められ、解釈されてきたかを示しています。この聖句は、キリスト教の教えの中で最も重要な部分の一つと見なされ、神の無条件の愛と、その愛に応答する人々への永遠の命の約束を象徴しています。


2024年3月7日木曜日

今日の聖書研究会!

 おはようございます☀今日の聖書研究は、緊急予告通り「イスラム教とラマダン」について学びます。試行錯誤中ですが「AIさんと共に学ぶコーナー」でChatGPTを活用して基本情報を収集し、学びの基礎材料にしましょう。気をつけることも必要ですが、意外と面白いですよ😀






2024年2月25日日曜日

説教メッセージ 20240225

先週は雨の中、教会の運営する総合福祉施設「デンマーク牧場」に仕事があって行ってきました。雨のなか山羊や羊、牛たちがいました。懐かしい白ヤギさんと黒ヤギさんの歌を思い出しました。手紙を書いたけど、届いた紙の手紙をヤギさんが食べてしまったという、こども向けの歌です。今は電子メイルの時代、こども向けの歌も変更しないと意味が通じなくなるかもしれません。そして、私たちも忙しい中、いろんな手紙をなくしたり忘れたり。神様からの大切な手紙、聖書は大切に読み続けたいですね。今日は、名古屋の復活教会で礼拝担当します。Youtubeでも中継します。4月からこの中継で一緒に礼拝をする教会も増えます。お待ちしています!

 聖書の言葉  マルコ 8:31~38 (新77)

31それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。 32しかも、そのことをはっきりとお話しになった。

すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。 33イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」 

34それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 35自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。 36人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。 37自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 38神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」

  

聖書の言葉  マルコ 8:31~38 (新77)

31それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。 32しかも、そのことをはっきりとお話しになった。

すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。 33イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」 

34それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 35自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。 36人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。 37自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 38神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」

説教「神を愛し、人を愛する事の大切さ」徳弘浩隆牧師

1、良かれと思って言ったのに…

人は誰でも、他者から認められたいものです。もっと言えば、他者から評価され、褒められたいものです。

こんなことを表した「承認欲求」という言葉を時々耳にもします。それが強すぎると、浮いてしまったり、自己中心的が過ぎて「面倒な人」に見えてしまったりもしますが、私たちに基本的な大切なことだと思います。だれでも、成長していく過程で親や周りの人から認められ、褒められ、大切にされることを通して、私たちは自分に対する自信や安心を得て、バランスの良い「自分」が出来上がっていくことにつながるのだと思います。

今日の聖書のストーリーは、ペトロにとってはとても大変な体験でした。褒められたかと思えば、激しく叱られてしまうという出来事だからです。

上手くいって評価され安心していたところから急転、突き落とされるような、息の止まるような出来事だったと思います。

挿絵は、いろいろ探してもちょうどよいものがないときは、AIに描いてもらっています。今日もなかなかなかったので、頼んでみました。最初出てきたのは、イエス様が「いや、そうじゃない。よく聞くんだ。いいかい?」というようなジェスチャーの絵でした。しかし、これではやさしすぎると思い、「もっと厳しく叱責している絵を描いて」と頼んで出てきた絵がこの絵です。温かいカラーの絵ではなくて、モノトーンで厳しさや怖さも表現されています。

褒められて、順調と思った直後に叱責され、突き落とされるような出来事、背筋が凍るような出来事、わたしたちにも時々、そんなことがあるかもしれませんね。何が間違えだったのでしょうか?全く問題外の間違えだったでしょうか?イエス様はどんな気持ちで、彼を叱責されたのでしょうか?

一緒に聖書から学んでいきましょう。

2,聖書 

今日の聖書個所の直前で、イエス様は旅の途上弟子たちに尋ねました。「人々は私のことを何者だといっているか?」と。それに対して弟子たちは色々伝えます。そこで、「それではあなたがたは私を何者だというのか?」と尋ねました。それに対して、ペトロははっきりと答えました。「あなたは、メシアです」と。模範回答でした。「よく言った!」という状況だったでしょう。ペトロもきっとうれしかったに違いありません。

しかし、そこから、イエス様の話題が変わっていきます。それを土台にして、よりむつかしい神様のご計画を話すときが来たからです。「多くの苦しみを受け、排斥され、殺される」というのです。「三日の後に復活することになっている」とも教えられ始めたのです。「しかも、そのことをはっきりとお話になった」というのです。

ペトロは「何という事でしょう!そんなことがあってはならない。」そう思ったのでしょう。それは、イエス様の身を案じての事であり、また、せっかくここまで順調に来てメシア・キリストとしての大きな働きが実現していくなら…。それは、もしかしたら自分たちを苦しめる征服者ローマ帝国からの独立や、それに伴って自分たちにも名誉なことが起こるかもしれないという、いろんなことが混じった期待、そんなこともあったかもしれません。しかし、イエス様をわきへ引き寄せて「いさめ始めた」ペトロに対して、きびしい言葉を浴びせて叱責されたのがイエス様でした。

その言葉はこうでした。「サタンよ、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と。

まず何よりも、人間の事よりも、神様のことを思う事が大切だという事です。そしてその背景は、神様の隠されたご計画は、「メシアが栄光を受けていくのではなくて、苦しみを背負い十字架で死んでいくこと、その後復活する事。それによって、その不思議な出来事によってこそ、人の心は変わり、神のご支配が始まっていくのだ」ということでした。

3,振り返り 

誰でも、称賛と名誉を期待します。それも大切なことだと考えました。しかし、それに反してこそ実現する神様の出来事もあるのです。

あれだけ信じ期待していたイエス様が、捨てられ殺されていくことを通して、そう仕向けてしまう人間の心の闇を見つめざるを得ないことで、人を悔い改めに導くのが神様のご計画でした。その裏切りや、妬みや、自己保身の心が、その闇が、自分の中にもあると、気付かされるためでした。

ユダヤ教はもともと、人の罪の代わりに動物を燔祭にして神様に捧げる儀式が大切でした。イエス様の時代も神殿で、それぞれお参りに来た人たちは、自分の懐具合に応じて、ハトや羊や牛などを買って捧げていました。「これくらいで赦してもらおう」そんな気持ちもあったかもしれません。

しかし、神様のご計画は、神の独り子イエス・キリストを人々の罪の身代わりとして捧げるという事でした。「小さな動物ではないよ。本当はあなたが死ぬくらい悔い改めなければならないんだよ。だけどそれに気づかないから、あなたの代わりに神の子が死んで供え物になるのだよ」という事でした。

それに気づいたときにはじめて、ペトロも人の罪深さ、自分の罪深さに愕然とさせられ、新しい生き方へと変えられていくのです。

その結果、なりふり構わず、自分の事ではなく、人々のために生きるという生き方に変えられていきます。それが今日の聖書の後半の「自分を捨て、自分の十字架を背負って生きていく」という事でした。「良かれと思って」イエス様に言った言葉を跳ね返されたペトロは、やがてその意味を悟っていきます。

4,勧め 

自分を愛すること、人にも認められ評価され、自分を大切にすることは大事です。そのうえで、人を愛し、支え合って生きることが神の願いでした。そしてみんなで神様を見上げて、平和に生きること、それが旧約聖書からの神様の願いであり、掟でした。

それもできないことがあります。自分を愛せないとき。人を愛さないとき。神様を愛し、信じてついていけないとき。それを変えるのは、自分の罪深さを知り、同じ罪深い他者をゆるし愛し、神様のもとで一緒に生きていくこと。それが私たちに備えられている、やり直しの道のりです。

今年も、キリストが十字架へ進んでいかれることをなぞりながら生きていく日々が始まっています。その十字架の向こう側にこそ、きれいな花が咲く新しい生き方、神の愛のご支配と平和があることを見つけていきましょう。 


牧師コラム・ AIとともにお絵描き!? 

「マルコによる福音書8章33節に基づいて、イエスキリストがペテロを叱っている状況の絵を描いて。」というお願いをAI(Chat-GPT)に対して私がした後の最初の絵がこれ(右図)です。今日のメッセージでも紹介しました。

しかし、聖書を読むと、こんな生易しい表情ではなかっただろうと思いました。それで、こう付け加えてもう一度描いてもらいました。「もう少しイエスキリストが厳しく叱咤している様子にして。」その結果がこの挿絵です。背筋が凍るような、緊迫した空気も感じる絵になりました。

この挿絵の雰囲気は、とても怖いとも感じますね。

しかし、今日のメッセージのように、その奥底には、愛と希望があってのことです。それが大切です。

十字架という苦しみもありますが、その向こうに見える花のあるきれいな風景。そんなものが私たちにもある苦しみの出口です。

きれいな花が見える十字架。それも見ていきたいですね。教会で学び、一緒に生きていきましょう。


2024年2月18日日曜日

説教メッセージ 20240218

自動的に出てきたパソコン画面によると、今日はイタリア人の科学者のボルタという人の生まれた日だそうです。1.5ボルトとかの電圧を表す単位のVoltというのは、この人の名前だったのです。ちなみに、レントゲンやラジオなどの周波数のヘルツという単位もありますがこれも人の名前からだと知って驚いたことがあります。このように、自分とは関係ないと思っていることでも、自分の人生や今の社会には切っても切り離せないことがあるものです。今日から、四旬節、レントとも言いますが、これはどんな意味があるでしょうか?今日は高蔵寺教会で礼拝担当をし、YouTubeチャンネルでも中継します。お会いしましょう!

 聖書の言葉 マルコ 1: 9~15 (新61)

9そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。 10水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。 11すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

12それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。 13イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。

14ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、 15「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。



説教「今日から40日間の意味」 徳弘浩隆牧師

1、今日は何の日?

パソコンを開いて仕事をしようとすると、下の検索窓の横に、毎日いろんなイラストが出てきます。「今日は何の日か」ということを、毎日自動的に表示してくれています。今日は、科学者らしき人と何やら実験道具のような絵が出てきたので、すこし見てみました。関心がないことや、自分に関係がないことも多く出てきますが、時々、気になることがあればリンク先を開いて読んでみます。それによると、今日はイタリア人の科学者のボルタという人の生まれた日だそうです。

さてこのボルタという人、イタリア人で1745年2月18日生まれで、物理学者でした。自分とは関係ないかと思いながらですが、その名前からもしやと思いました。そして知ったのは、この人がいわゆる電池の発明者となっているということでした。そう、1.5ボルトとかの電圧を表す単位のVoltというのは、この人の名前だったのです。ちなみに、エックス線写真を撮ることを、日本ではレントゲンを撮るとふつう言いますが、これも実は人の名前、ラジオなどの周波数のヘルツという単位もありますがこれも人の名前からだと知って驚いたことがあります。

レントゲン写真を撮りに行くときにこれを発明した人が昔の日本人だったとしたら、「レントゲン写真を撮ってください」と言う代わりに、「Sato写真を撮ってきてください」と世界中で言われていたかもしれないと思うと、不思議な気がするものです。ちなみに、Satoさんが日本では一番多い苗字だそうですね。

このように、自分とは関係ないと思っていることでも、自分の人生や今の社会には切っても切り離せないことがあるものです。今日から、四旬節、レントとも言いますが、これはどんな意味があるでしょうか?もちろん、語源だけではなくて、私の人生にどんな意味があるでしょうか?

そのことを今日の聖書から聞いていきましょう。

2,聖書 

マルコによる福音書は、簡単に今日の出来事を告げています。それは、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたこと、そのとき天から神の声が聞こえたということ。そして荒れ野に送り出され、サタンから誘惑を受けられたこと。その後、洗礼者ヨハネがとらえられた後、キリストとしての活動を始められたということでした。他の福音書のような詳しい描写ではなく、淡々とそれらの出来事を時系列に沿って伝えています。

今日の話の大切なポイントは次の三つでしょう。

1, 天から聞こえた声は、「あなたは私の愛する子、私の心に適うもの」

2, 荒れ野に送り出されてサタンの誘惑を受けられたのが、40日間だったということ。

3, そして、その後のイエス様の言葉は「時は道、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という言葉だった、ということです。

これに沿って、キリスト教会の暦では、先週の水曜日から、「40日間」が特別な期間とされています。そしてそれは、「悔い改める」ための期間だということです。

旧約聖書の朗読は、ノアの方舟の時の話でした。その時代に地には人の罪がはびこっていて、神様が人を造ったことを「悔いた」とあることを思い出します。そしてその罪の社会を水で押し流し滅ぼした時に選んだのがノアの家族で、そこから新しい世界の再出発の祝福をされたということでした。そのときの洪水が40日だったということです。

3,振り返り 

今日の聖書で私たちは、何を学び、どのように生きるように勧められているでしょうか?

聖書では、この40という数字はたびたび出てきます。これらは、悔い改めの期間、苦難の期間でそれを通して悔い改めさせられる期間でもあります。そして今始まった「四旬節」の意味は、文字通り40日間という意味。一か月の初旬・中旬・下旬というように、「旬」というのは10日間の意味だからです。

さて、西洋やブラジルでもカーニバルがありましたが、これらもキリスト教のカレンダーとは切っても切れない意味を持っています。40日間は悔い改めと節制の期間だから、飲酒や肉食を控えます。結婚式も控える期間になっています。この40日間の直前、肉の食べ収め、お酒の飲み納めのお祭りをしたということから来ているのです。

この四旬節の期間、ポルトガルやブラジルでは、お肉があまり売られなくなり、スーパーにはバカリャウという塩味の干しダラが積まれます。肉の代わりに魚を食べる期間が始まるからです。

こんな具合に、今日は何の日なのか、その意味はどういうところから始まっているのかを知り、再確認することは大切です。それは、その形式ではなく、その意味を味わい生きるためです。

4,勧め 

では、この40日間の悔い改めの季節に、いつ、私たちは悔い改めをしたらよいでしょうか。

お寺の掲示板の言葉で心に刺さる言葉を時々紹介していますが、今日はこの言葉に先週出会いましたので紹介します。こんな言葉でした。

「生まれ変わるなら 生きているうちに」です。

人はよく、生まれ変わったらこんなことをしたい。生まれ変われるなら、今度はこうしたい。といいます。「生まれ変わるなら」、とか、「死んだあとはどうなるか」などと考えます。

しかし、「生まれ変わるなら、生きているうちに」という言葉は、心に刺さります。

死んだ後の世界や、輪廻で生まれ変わりのことばかり言う仏教と思われがちですが、お寺にこの言葉が掲げてあるのは驚きで、また、新鮮でした。

生まれ変わるのは、死ぬということが前提です。しかし、それが起こる前に、生きているうちにというのは、論理的に矛盾があるので、更に「はっ」とさせられます。同時に、得心させられ、うならされます。

生まれ変わるなら、先延ばししないで、今が大切。今、悔い改めて、変わりましょう、と私たちも勧められています。

四旬節は、そんな期間なのです。悔い改めてもう一度神様と出会って、生きていきましょう。新しい人生を始めましょう。死んでしまう前に、です。

 


牧師コラム・ 四旬節と言えばバカリャウ! 

灰の水曜日から始まった四旬節。カトリックの国々では肉食や飲酒を控え、つつましく生きる風習もありました。ポルトガルやブラジルではこの季節の始まりを告げる国民食があります。それがメルカード(マーケット)の一角にあり、独特の塩漬けの匂いと、図り売りをするために山のように積抜あげられているバカリャウ(右写真)です。これを見ると、「心静かに過ごす季節が始まった」と気づかされるものです。



日系人の間でよく言われるジョークのなかには、「お店でバカリャウが欲しいけどこの単語を思い出せなくて、お店の人と何度もやり取りをした挙句、『もういい、バカヤロー』っていったら、『ああ、バカリャウならあっちにあるよ』と通じた」なんていう笑い話がありました。




ポルトガルの代表的な料理にも使われ、オリーブやゆで卵とともに登場します。じゃがいもと一緒にオーブンで焼いたのもよく食べられます。コシーニャというブラジル風コロッケの中にも入れるのが定番です。今度、手に入ったら、教会ランチで一緒に食べてみませんか?


2024年2月10日土曜日

説教メッセージ 20240211 変容主日

 まだまだ寒いですが、日も出ると気持ちのよさも感じます。街路樹ではハクモクレンのネコヤナギのようなつぼみも見つけました。明日は変容主日。キリストが真っ白に輝いたという日です。この日にちょうど雪が降って、朝教会は真っ白という時も何度かありましたが、愛知県は今年はそうならないかもしれません。明日は、名古屋の復活教会で礼拝担当をします。YouTube配信もしますので、どこかでお会いしましょう。

 

聖書の言葉 マルコ 9: 2~ 9 (新78)

六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。



説教「暗闇の中 頼りは輝く光」 徳弘浩隆牧師

1、タボル山と言えば…

今日は変容主日です。今年のカレンダーではイースターが少し早いので、受難節に入るのも早くなっています。教会の暦を少し整理してみましょう。

イースターは「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」となっています。ですから、クリスマスと違って毎年日にちが変わる移動祝日となのです。

キリストが復活されたイースターの来る前に、キリストが十字架に向かう出来事が始まりますが、その前の40日間が四旬節と言われ来週から始まります。

そしてその直前の日曜日、今日はキリストの姿が真っ白に輝いて変わったという日、主の変容主日ということになるのです。

ちなみに、今日は、ヨーロッパやブラジルではカーニバルの日曜日となります。それは、四旬節で飲酒や肉食を控えて静かに悔い改めて過ごす期間が始まりますが、その直前のお祭りが発端でカーニバルが始まったからです。私の友人たちも、ブラジルや日本でもカーニバルの予定や写真をネットに載せて楽しんでいます。

さて、主の変容があったとされるのが、タボル山といわれています。あのあたりでそれらしい山が旧約聖書にも出てくるこの山だろう、という理由だそうですが、その小高い山の頂上には変容教会という教会ものちに建てられています。その教会の聖壇の壁画が上の写真です。

ところで、タボル山というと日本人にはなじみがないように思っていましたが、数年前思わぬところでそれを見つけて驚いたことがあります。名古屋在住の皆さんも一度は行ったか見たことがあると思います。それは、アピタというスーパーによく入っているパン屋さんの名前が、「モンタボー」というのです。カタカナで書いてもわかりにくいのですが、アルファベットで書いてある(Mont-Thabor)のを見て「もしや?」と驚きました。フランスにもここにちなんだ地名もあるらしいですし、この店名はフランス語由来らしいですが、そのいわれは、こう書かれています。株式会社モンタボー:名前の由来→モンタボー(Mont-Thabor)は、イスラエルにある旧約聖書にも登場するタボー(Thabor)という山(Mont)の名前に由来している。

お店の人に聞いてもご存じないかもしれませんが、今度パンを買いに行って、看板を眺めながら聖書のことを思い出してみるのもいいかもしれません。

さて、意外と身近にあったこの山の上で起こった聖書の出来事は、どんな意味があったのでしょうか。一緒に見ていきましょう。

2,聖書 

クリスマスからマルコによる福音書に沿って駆け足で見てきたイエス様のご生涯ですが、話は、十字架へと向かう出来事になります。

4000人に奇蹟的に食事を分け与え、ベトサイダで盲人をいやした後、ペトロがイエス様の問いに答えて「あなたはメシアです」と信仰を告白したら、イエス様はこれから始まるご自分の死と復活を話されました。そしてその6日後に今日の出来事が起こります。

イエス様は、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて山に登りました。すると、イエス様の姿が彼らの目の前で変わり、真っ白に輝きました。そして見ると、そこにはエリヤとモーセが現れて、イエス様と語り合っていたというのです。

高蔵寺教会の先日の聖書研究会でも確認しましたが、旧約聖書は、律法、預言、その他の書物として諸所という三つからできています。そして最初の二つを代表して「律法と預言」と新約聖書でも言及されているところも何度もあります。この律法を神から授かったのがモーセ、そして預言者の中の代表格の一人がエリアなのです。もう一つ興味深いことはこの二人の死に方です。モーセは約束の地イスラエルに入ることができず、ネボ山という山で約束の地を見ながら亡くなったといわれています。そして、エリアは天から来た火の車に乗って天にあげられたと記され、これら二人は地上で普通の死に方をしていないのです。

この二人、つまり、旧約の律法と預言を象徴する二人と、天に近い山の上でイエス様がお会いになったというのは意味深いことです。それは、神様の人類の救いの計画が整ったということ、それを実現するイエスという方がメシア・キリストであるということ。そして、これを境に、イエス様のご生涯が十字架へと向かっていくのです。

3,振り返り 

わたしたちの生き方はどうでしょうか?

イエス様に出会い、その教えや出来事に関心を持ち、惹かれ、従うようになったわたしたちですが、「この方こそ救い主だ。この方についていこう」ということを篤信し、それを言い表すときに、準備が整うのです。それはペトロによって起こり、イエス様の生涯が変わったように、私の人生でも、その時に、洗礼があり、何かが大きく変わっていくのです。

4,勧め 

今週から始まる四旬節。向かう先は、キリストの十字架。何が始まっていくでしょうか。

洗礼を受けた人も、まだの人も、もう一度、今までの自分を捨て去って、新しい生き方に変えられていく道のりを始めましょう。

そのときの、生き方の指針は何でしょうか。それは今日の聖書で読まれた「これはわたしの愛する子。これに聞け。」という父なる天の神の声です。

そして今日の使徒書の第二コリントの手紙でもこう言及されます。「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。」

暗闇はキリストにより照らされました。そして、この方は真っ白に輝いていました。このキリストの光が、新しくされた私たちの心の中で輝いているはずです。この光が、暗闇のような世界を生きる時の唯一の頼りであり、希望なのです。今週水曜日から始まる四旬節、そんなことを考えながら静かに祈り、過ごしていきましょう。もう一度、キリストと出会いましょう。

 

牧師コラム・ タボル山考 

今日の聖書の出来事があったのだろうといわれる山が、イスラエルにあるタボル山です(写真)。旧約聖書でも登場するユダヤ教でも大切な山ですが、今は山頂に教会も建てられています。


20数年前「聖地旅行」で行ったとき訪ねましたが、山頂の教会は写真のようなものでした。聖書の言葉にちなんで、「三つの小屋」のようにも見える教会の塔が並んだデザインだそうです。




正面の絵は最初にあるイエス様とモーセ、エリア、そして弟子たちの絵。会堂脇にはモーセとエリアの絵もありました。

そして日本の?タボル山、モンタボーですが、このパン屋さんの写真はホームページではこんな感じです。

手作りのおいしい焼きたてパン・ベーカリー店の麻布十番モンタボー|公式 (mont-thabor.jp)

今度、行ってみませんか?(宣伝じゃありません・(笑))


2024年2月4日日曜日

説教メッセージ 20240204

寒かったり、少し緩んで暖かくなったり、そしてまた東京でも雪も心配される寒さだそうですね。名古屋も寒いです。体調を壊されていませんか?熱が出たらイエス様にすぐにいやしてもらえばいいと、今日の聖書を読んで考えないで、ちゃんと健康管理をしましょうね。今日は、高蔵寺教会で礼拝担当です。YouTube中継もします。マイクのセットを更新中で少し心配ですがお祈りください。では、お待ちしています。お近くの教会にも行ってみてくださいね!YouTubeのチャンネル登録もよろしく。中継しやすく、また受けやすくなりますからね。

聖書の言葉

マルコ1:2939 (62)

29すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。 30シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。 31イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。 32夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。 33町中の人が、戸口に集まった。 34イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。

 

35朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。 36シモンとその仲間はイエスの後を追い、 37見つけると、「みんなが捜しています」と言った。 38イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」 39そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。


 

説教「そのためにわたしは出て来た」

徳弘浩隆牧師

1、事始め 2

先週はキリストの仕事の事始めともいえる出来事を見てきました。そして今日は、その第二弾ともいえる出来事を見ることになります。

マルコによる福音書にはクリスマスの出来事、つまり、イエス様誕生の物語は記されていません。1章の最初は洗礼者ヨハネの活動から始まります。そこに現れたイエス様は洗礼を受けられます。続いて、誘惑を受け、洗礼者ヨハネがとらえられたあと、イエス様はガリラヤ伝道を始められます。そこで4人の両氏を弟子にしました。そして、カファルナウムに到着して安息日に会堂で教えられ、その場にいた汚れた霊に取りつかれた男をいやすということになります。それが、先週の聖書の物語でした。イエス様のキリストとしての仕事の事始めというわけです。

さて、今日はその続きです。イエス様はキリストとして、どんな仕事はじめの続きをされたのでしょうか?

それは、キリストと出会う私たちが、何を受け、何をするかということを考えさせてくれます。また、今日は、高蔵寺教会の年次総会ですが、今年の行事の事始めをするにあたって、今年私たちが何をすることが大切かという問いへの答えを、神様は語りかけてくれるはずです。

一緒に聖書を見ていきましょう。

2,聖書 

マルコの伝えることによると、今日の話はまだ安息日の続きの出来事です。安息日に会堂で教え、汚れた霊を追い出し人々から驚きと称賛を得ました。そして、「すぐに、一行は会堂を出て」とありますが、まだ安息日の出来事とわかります。シモンとアンデレの家に行ったのです。これは、4節でも説明されている、最初に弟子とされたシモンとアンデレは兄弟でした。シモンとはのちにペトロといわれる弟子です。そして、その場には「ヤコブとヨハネも一緒であった」とありますが、ガリラヤ湖畔でシモンとアンデレに続いて弟子とされたこの二人も一緒にペトロの家に行ったということがわかります。ちなみに、このシモンとアンデレも兄弟ですから、最初の4人の弟子は、二組の兄弟だったということもわかります。

さて、その家にはシモンのしゅうとめがいたのですが熱を出して寝ていたのですが、人々はイエスにそれを話しました。するとイエスはそばに行って、手を取って起こされると、熱は去ったというのが今日のふたつ目の奇蹟です。直前には会堂で汚れた霊に取りつかれていた男からその霊を叱って追い出した出来事がありました。シモンのしゅうとめは癒された後、一同をもてなした、つまり、食事のお世話などをして奉仕したということです。

3,振り返り 

この出来事から私たちは何を聞くでしょうか。シモンとアンデレはイエスの弟子になり、会堂で教えを聞き奇蹟も見ました。その直後に家にイエスをお連れし家族に紹介しました。網を置いて従っていったとも伝えられますが、家族を捨てて突然旅に出たのではないようです。神に出会った後も家族を大切にして、イエスを家に招いたのです。あるいは、イエスは弟子たちの家を訪問したのです。

運悪く熱を出して寝込んでいたシモンのしゅうとめですが、彼らはそれをイエスに話しました。それは、突然の来訪で食事の準備もなく何のお構いもできないという言い訳けではありません。イエスにしゅうとめの熱のことを話したのは、癒しを、つまり問題の解決を願い出たからです。するとすぐにイエスはその手を取り、癒されました。すると、しゅうとめはすぐに段取り良く準備をしてもてなし、イエスと人々に奉仕をしました。

これらのことに、教えること、伝道すること、そして奉仕することの、宣教の三つの出来事が開始されていることを見ることができます。そこに招かれ、願い出て、体験し、自らも宣教する人たちの姿でもあります。

わたしたちはどうでしょうか?一人一人、違ったきっかけや方法で、イエス様に出会いました。

その後、人を招きイエス様をお迎えするという伝道をしているでしょうか?その後、問題が解決したらそれで満足しているだけではなくて、今度は自らが率先してイエスさまや人に奉仕しているでしょうか?この奉仕という言葉はディアコニアという言葉でもあります。今の教会では、社会奉仕や福祉の働きとして受け継がれ取り組んでもいます。教えることは教育、伝道は教会の働き。今の社会では、キリストの働きは、教会の関係する、社会福祉法人や学校法人、そして教会という宗教法人という形をとってもいますが、それらの総体としての「教会」で私たちは取組んでいます。

そしてその小さな一つの組織としての教会が、私たちの集められたこの「教会」なのです。

今日の出来事の続きでは、「夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た」とあります。この日は安息日でしたから、日が沈んで人々はイエス様のもとに集まってきました。ユダヤの暦では日が沈むと次の日になりますから、安息日が終わって出歩き、安息日にはできないはずの癒しをお願いしに来たと読むことができます。イエスは引き続き、多くの人を癒しました。翌朝まだ暗いうちに人里離れた所で祈り、弟子たちに「みんなが探しています」と声をかけられたイエスはこういいます。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」と。イエス様は、そのために出てきたのでした。

4,勧め 

この言葉を聞いては、「じゃ、私は、なんのために出てきたのかな?」と考えさせられます。

最初のきっかけは、知的関心、病気の癒し、問題の解決、教会メンバーとの付き合いや出会い、などイエスさまとの出会いのきっかけは、それぞれ色々です。しかし、すぐさま起き上がってもてなし、奉仕したペトロのしゅうとめのように、起き上がって、何かを始めましょう。それが教会の使命であり、この世の社会にこの小さな群れが存在する大きな理由なのです。一緒に歩いていきましょう。


 


牧師コラム・ ペテロの家族構成は?


福音書を普通に読んでいても、弟子達の人となりは、あまりわかりません。注意深く読まれる方はそうではないかもしれませんが、私などは、ただ読み続けているだけだと気が付かないことが多くあります。

聖書の話を映像にしたドラマや映画はいくつもあります。以前の教会の聖書研究会で使徒言行録のドラマを見ていた時に、ペトロの娘が登場しました。「えっ?ペトロにこんなかわいい娘がいたの?いや、ペトロが結婚していたって、聖書に書いてたっけ?」と妻と話しになりました。聖書にはペトロのしゅうとめの話が出てきます。となると、結婚していたということはわかります。そのドラマに出てきたような、しっかり者の可愛い娘がいたかどうかは聖書には記載がないでしょう。しかし、数人のこどもがいたことはふつうあり得ることでしょうね。そのドラマは、そんなところから登場人物の設定を無理のない範囲でしていたとみることができます。

じゃ、聖画によくある「ペトロのしゅうとめの癒し」のなかに、ペトロの奥さんは出てくるでしょうか?シモン・ペトロの兄弟アンデレや、アンデレも結婚している年齢だったとしたら、その奥さんは出てくるかな? いくつも検索してもそれらしい絵はなかなか見つかりません。ようやく見つけたのがこの絵です。検索の秘訣は、スペイン語やポルトガル語のキーワードで検索すること。クリスチャン人口の圧倒的多さで負けないこれらの言葉で検索すると沢山の絵が出てきます。右上の女性がペトロの奥さん?左下はペトロに違いない。戸口の人とやこどもは?そんな想像をしながら見るのも楽しいですね。そういえば、私の義母も先週体調を崩して入院。兄弟でだれが飛んでいくか急遽相談しました。聖書の話がぐっと身近に感じられました。

2024年1月27日土曜日

礼拝メッセージ 20240128

気が付けば、数週間ブログ掲載が滞っていました。礼拝は担当していましたが、色々な用がありここに掲載する時間がとれていませんでした。年末年始も過ぎ、どんな一年を皆さん始められましたか? 今日は、「事始め」について聖書で考えさせられます。キリストの宣教事始めの出来事が語られるからです。一緒に、自分の人生、今年の生き方を考えてみませんか?今日は名古屋の復活教会で礼拝を担当します。YouTube中継もいつも通りです。お待ちしています!

聖書の言葉 



マルコ1:21~28(新62)

21一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。 22人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。 23そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。 24「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」 25イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、 26汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。 27人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」 28イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。

申命記18:15~20(旧309)

15あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。 16このことはすべて、あなたがホレブで、集会の日に、「二度とわたしの神、主の声を聞き、この大いなる火を見て、死ぬことのないようにしてください」とあなたの神、主に求めたことによっている。 17主はそのときわたしに言われた。「彼らの言うことはもっともである。 18わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。 19彼がわたしの名によってわたしの言葉を語るのに、聞き従わない者があるならば、わたしはその責任を追及する。 20ただし、その預言者がわたしの命じていないことを、勝手にわたしの名によって語り、あるいは、他の神々の名によって語るならば、その預言者は死なねばならない。」


説教「人の思いでなく神の言葉」  徳弘浩隆牧師

1、事始め…

新しい年になり、早いものでもう、ひと月が過ぎようとしています。どんな一年が始まりましたか?

世界ではまだ戦争が続き、日本ではお正月から大きな地震、その後大きな飛行機事故、政治でも問題や混乱が続いていますね。

私も、助けていただいて教会の総会の資料つくりや、教区内の他教会や他の教会施設の相談事やお世話に追われたひと月でした。個人としても年末に父の葬儀があり、その後も手続きや片付け、そして来月は姪っ子の結婚式もあり、人の一生のいろいろな出来事に立会いながら、色々なことを考えさせられますが、感慨に浸る余裕もなかなかありません。忙しくて、新年の仕事始めや、今年のことを考えて、心新たに取り組み始めるという感じではありませんでした。

「正月事始め」という言葉があります。お正月を迎える準備をする始まりは、たいてい12月8日か13日からだそうです。私たちは、「クリスマス事始め」ともいえるアドベントが12月3日に始まりました。そして迎えたクリスマス。

聖書では、マルコによる福音書の最初のところから、キリストを迎える準備、キリストの誕生、そして命名、洗礼、そしてガリラヤで伝道を始められ、弟子たちを集めるという流れを見ています。そして今日の聖書の個所は、いよいよ、キリストの活動が始まる、そんなところになっています。「キリスト事始め」ともいえる最初の出来事を、一緒に見ていきましょう。

2,聖書 

一行はカファルナウムにつきました。イエス様は安息日に会堂に入って教え始めました。会堂というのは、エルサレムの神殿だけではなく、各地に建てられたユダヤ教の集会所で、今でいえば本部の教会ではなくて各地の教会という形です。今でもカファルナウムには会堂跡(コラムに写真)があり、これはイエス様の時代の後のものだそうですが、ガリラヤ湖を見ながらそのころに思いをはせることができます。会堂では、巻物になった旧約の聖書、つまり預言や律法の書を取り出して読み、説教のような解説があったのでしょう。人々はイエス様の語る言葉に驚きました。「律法学者のようにではなく、権威あるものとしてお教えになったから」です。

そしてすぐ、会堂にいた汚れた霊に取りつかれていた男からその霊を追い出し、人々はまた驚きます。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ」と。そしてその評判がガリラヤ地方の隅々までに広まったのでした。

マルコが伝えるイエス様の「仕事始め」は、とても印象的で、人々を驚かせ、その評判が広まるものとなりました。このカファルナウムはイエス様のガリラヤ伝道の拠点ともいえる場所ですから、「まずは良いスタートを切った」と言えるかもしれません。

何が違い、何が良かったのか、何が人々を驚かせ、何が評判になったのでしょうか。

今日の旧約聖書は申命記でした。「モーセのような預言者を送る」「その口に私(神)の言葉を授ける」と救い主・キリストの到来が預言されていると考えてよいところです。それが、今日の福音書の出来事で実現したのです。そのように、イエス様は、「律法学者のようにではなく、権威あるものとしてお教えになった」のです。

申命記は、神からユダヤの民に与えたられた律法を、モーセが死を前にして「繰り返して」整理して語り聞かせるという内容になっています。この「繰り返し命じる」というのが漢語訳聖書経由で日本語にもなった「申命記」という言葉のもとになっています。律法は、神がユダヤの民に守るよう命じられた掟です。厳しい掟というより、これを守れば、人も共同体も国も神の願う調和と平和が実現する、という神の願いであり、約束でもありました。

しかし、それを大切にするあまり、一語一句にとらわれて、逆に人々の生活を縛るようになっていきます。これを専門的に学び、教えていたのが律法学者です。今日の出来事の後、イエス様は律法学者たちと衝突し、非難されるようになっていきますが、この律法学者たちは神の言葉を大切にするあまり、人々を圧迫し、自由を奪い、重荷を背負わせるようになっていくのです。

マルコでは詳しく書かれていませんが、イエス様はそんな律法の巻物を朗読し、説教をしたのでしょう。それに驚いた人々は、律法に人々を縛り重荷を背負わされるというのではなく、神のみ心や人を自由にし活かす言葉を聞いたのでしょう。イエス様の言葉は、人の思いではなく神の言葉だったのです。

そして、実際に汚れた霊に取りつかれていた人から霊を追い出したのです。これでますます人々は驚きます。イエス様の語る律法の真意を説明する言葉だけではなく、人から悪の支配を追い出す出来事を見たからです。

3,振り返り 

私たちはどうでしょうか?実は、聖書によると、人は一度、「追い出された」ことがあります。神様との約束を破り、悪と罪に陥り、楽園を追放されたのです。エデンの園の物語がそれを伝えています。

しかし、今日のイエス様は、人々の心に巣くう悪の思い、罪の思いを、「逆に追い出してくれた」のです。自分の考えが一番正しいという立派な自信は、自己中心の罪の心で、対話と他者の尊重を忘れるときに、人を苦しめ、追いやり、重荷を背負わせ、分裂と対立を生むことになります。それが今の私たちの人生や、社会や、世界の問題の大本です。

私の人生も、そんな罪の心から解放されましょう。キリストの言葉は、そんな心を私から追い出してくれます。楽園を追い出された私たちに巣くう罪の心を、キリストは私たちから追い出してくれるのです。

4,勧め 

どうしたらいいでしょうか? 答えは簡単。キリストの言葉を学び、従って生きていくことです。

今日はキリストの「仕事始め」でしたが、今後一年マルコによる福音書を読み進めながら、キリストの言葉となさったこと、そして十字架の出来事へと進んでいく中で、もっと明らかになっていきます。

教会は一年に一度の総会の時期になっています。今日は復活教会で、そして来週は高蔵寺教会で年次総会があります。どんな一年を始めますか?そしてあなたの今年の一年は、どんな風に始めましたか?キチンと神様と手をつないでいますか? そしてもう一方の手は、家族や社会や教会という共同体でも人と手をつなぎ、本当の神様の願いを生きていきていますか?イエス様の言葉と行いは、ただ人の罪を暴き責めるのではなく、たくさんの掟で人に重荷を負わせるのではなくて、その奥にある神様の正しさと愛で人を自由にすることでした。

一緒に神様の愛の中を生きていきましょう。

 


牧師コラム・ トリップアドバイザーで聖地旅行!?  

Tripadvaisorという旅行情報サイトがあります。私も登録して、いくつか写真を載せていたころもあります。ここでいろんな旅行会社や個人の載せた聖地旅行の写真や地図も見ることができます。カファルナウムも調べてみると、詳しい説明や写真も出てきます。地図で位置関係も確認できます。聖書を読むとき、ここで調べてみると、もっとリアルに理解することができます。私も昔行った場所の復習ができます。私の知っているブラジルの聖書学者の聖地旅行の記事、彼の写真もありました。

来週はペテロの姑が聖書で出てきますね。ペテロの家の跡とそこに建てられた教会もあります。楽しみですね。


トリップアドバイザー: ホテル、観光スポット、レストランの10億件を超える口コミや投稿 (tripadvisor.jp)


説教メッセージ 20240512

 聖書の言葉  ルカ 24:44~53 と 使徒言行録 1: 1~11 (新213) 1:1-2テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。...