2023年7月30日日曜日

礼拝メッセージ 20230730

暑い日が続きますね。そんな中ニュースを見てびっくり。「地球温暖化の時代は終わりました」と国連事務総長が声明を出しています。え?っと思ったら、さらに悪化しているという事。気候変動だけではなく、社会の事件や不正、戦争もむつかしくなるばかり。自分の人生も社会も生きにくくなった。そんな風に感じませんか?神の国はどんなもの?どうしたら実現するの?聖書には答えが書かれているんですよ。一緒に聞きましょう。明日は復活教会で礼拝を担当し、YoutubeとFacebookでも中継を見ることができます。礼拝でお会いしましょう。そして、平和にいっしょに生きていきましょう。お待ちしています。

聖書の言葉

マタイ 13:31~33&44~52 (新25)

13: 31イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、 32どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」33また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」

44「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。45また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。 46高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。47また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。 48網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。 49世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、 50燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」51「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。 52そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」




説教 「小さくても大切なもの」徳弘浩隆牧師

1,種蒔きの話のつぎは、からしの種の話

種まきの話、そして芽が出た後の話が続きましたが、今日は、種そのものの話です。そしてその種とは、一番小さな種ということで、イエス様の話の中に、「からしの種」が登場します。

今日のたとえ話は、テーマは明確で「天の国」についてです。天の国とは、どのようなところかという事が、いくつかのたとえを通して、わかりやすく語られます。一緒に聞いていきましょう。

2,聖書 

 「天の国」とはどんなところか、お話に沿って、分類して確認しましょう。

1)今日のイエス様のたとえでは、からし種をまず持ち出します。どんなに小さくても、成長するとどの野菜よりも大きくなり、木になると。そして枝に野の鳥が来て巣を作るほどの大きなものになるといいます。

 そこには、人間の努力や修行というようなものは出てこず、小さいけれど大きくなるという事が、からし種はパン種を用いて語られます。

2)そして、それを見つけたら、今までの自分のすべてを捨ててでも欲しくなる大切なものなのだと。

3)最後に、湖に網が投げおろされ、網がいっぱいになるが、良いものを悪いものがえり分けられるといわれます。

4)今日は弟子たちが、たとえの意味を説明してくださいとは聞きません。代わりに、イエス様の方から最後に、「あなたがたは、これらのことがみな分ったか?」と聞かれ、弟子たちは「分かりました」と返事をします。それに対して、イエス様は、念を押されています。

さて、どうでしょうか。この話で「天国」について、明確にわかったでしょうか?もう一つしっくりきません。なぜでしょうか。それは、「天の国」について誤解をして聞いているからです。私たちはこの話を聞くときに確認しなければなりません。誤解が多いからです。日本語の言葉尻から「死後の世界の『天国』」というイメージと直結して理解されることが多いのですが、イエス様はそのことよりも、「神様が支配されるところ」という意味で使われています。死後の世界の天国ではなく、あるいはそれだけでなく、今生きているこの世界で、神様のご支配があり、皆が平和に生きる生き方のことを説いているのです。

 3,振り返り 

では、この世界を見てみましょう。今私たちが生きている世界は、「天国のような素晴らしい天の国」でしょうか?どうも違うようです。いろいろな犯罪や不正があり、戦争もあります。環境問題も私たちの人生も思い通りに行かず、生きにくい難しい問題が山積しています。

では、神の国は、神様がご支配される理想的な世界は、どのようにしたら作ることができるのでしょうか。

それは、「天の国」という言葉自体が答えを持っています。もともとのギリシャ語の聖書では「神の国」の「国」は「支配」という言葉です。つまり、天の神様がご支配されるようになれば、そこに生まれるはずです。私たちの人生を、家庭を、社会を、世界を、神様の御手に戻し、ご支配していただけるなら、それは実現するのです。逆に言うと、そうなっていないのが、問題だという事です。

 どうしたら、神のご支配の人生や世界が始まるのでしょうか? それは、今日選ばれている旧約聖書の言葉が大きなヒントになるでしょう。こうでした。

 ダビデの子で次の王になったソロモンへの神様の言葉とそれへの彼の応えです。神様は「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と聞かれました。それに対してソロモンはこう答えたのです。「わたしの父ダビデは忠実に、憐れみ深く正しい心をもって御前を歩んだので、あなたは父に豊かな慈しみをお示しになりました。」「しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。 /略/ あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。」

 このソロモンの祈りを聞いて神様は喜ばれます。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。」と。これをもって、神はソロモンに正しい知恵を与え、神様がご支配される国が繁栄していきました。

神の支配は、ダビデは「愛と正しい心」で歩んだので神がその国を祝福し、ソロモンには善悪を聞き分ける知恵をもって彼と国を祝福・繁栄させたのです。

 これを聞いて私たちは思い出すでしょう。人類の罪の始まりを、その根源を。創世記にかかれていた物語では、神の言葉を捨てて禁じられていた善悪を知る木の実を食べ、つまりそれぞれが自分の基準で善悪を決め生きるようになったのです。神に聞くことをやめ、それぞれの自分の都合で、つまりエゴイズムの心で物事を決めて生きるようになったので、人々は疑い、競争し、ねたみ、争うようになり、愛と平和の社会は崩れていきました。

 それに対して、「愛と正しい心」で生きたダビデや、「善悪を聞き分ける知恵」を自分の野心や考えではなくて神に尋ね求めたソロモンは、祝福され、その人生や国は繫栄しました。そのありようが、「天の国」「神の国」として、神様が愛と正しさをもって守りご支配される人生と世界だったのです。そこに答えがありました。

 しかし、ダビデもソロモンもやはり「罪びと」です。不信仰の過ちも犯し、ダビデは神殿を作ることを許されず、ソロモンの繁栄は陰り、国は分裂し他国の支配を受けます。その苦難で、悔い改め、神に立ち返る信仰が再度その子孫たちに芽生えるまで。それが聖書の歴史でした。

4,勧め 

 私たちも、それぞれ、そのような人生を送っています。時に信仰的で正しさと愛に生き恵まれ、しかし、過ちを犯し苦難の中で悔い改めを迫られる。それが私たちの毎日であり、社会や世界の苦難の歴史です。

 しかし、希望があります。どんなに小さくても、大切なものを私たちは聖書から教えられているからです。それを知ったなら、今までのすべてを捨てて売り払ってでも手に入れるほど価値があるもの。それが神に立ち返る「信仰」であり、それを確かなものにするために洗礼を受けたからです。神の国は、行いや自分の努力ではなくて、小さな信仰から始まり、後は自動的に膨らみ大きくなります。それが神様の愛によるご支配の人生と社会、世界です。

でも、イエス様は警告もされます。網を上げたらたくさん魚が取れるが、良いものと悪いものをえり分けることになると。つまり、いつも、神様とともに生きていかなければ、それは続きません。

 天の国の事を学んだなら、自分の持ち物全てを倉庫から出してくるようなもの。日常生活のすべてが変えられ、神の力が生活を具体的に変えてくださる生き方に招かれているのです。自分の人生を振り返り、思い切って神様に祈り、お任せしてみませんか?神様は大きな祝福をもって、待っておられます。教会で一緒に学び、生きるそんな輪に、あなたも入りませんか?

 

牧師コラム「地球温暖化の時代は終わった!」

そう、国連事務総長が先週の演説で言いました。「なに、終わったのか?」と安心できるかと思いきや、そうではありません。温暖化ではなく、「地球沸騰の時代に入ったのです」と極端に悪化したと警告の声明を出しました。いろいろな理由があるかもしれませんが、人類が競争をし、環境を破壊してでも自国の富や成長を、そして他国より優位に立とうという環境破壊が大きな原因の一つと考えられています。神様は自然環境を大切にし、分け合い、平和に過ごすことを願われています。人間同士の関係だけでなく、自然にも愛と正義をもって生きることが、神の国の実現でしょう。神を愛し、人を愛し、自然も愛しましょう。できることから始めましょう。


2023年7月23日日曜日

礼拝メッセージ 20230723

ようやくできたゴーヤカーテン。ゴーヤも収穫し、日陰もできてありがたいものです。エアコンの稼働率も減り、環境保護や電気代節約にもなるでしょう。しかし、足元には雑草と、ゴーヤに絡まるツタ。一気にキレイにしようと、電気の草刈り機で刈り払いをしていると、大切なゴーヤのツルも切ってしまいました。麦と毒麦のたとえを思い出します。毒麦を抜こうと思って麦まで抜いてはいけないからといわれるキリスト。でも、神様ならそんな間違いはしないでしょうに、どうして?今日の礼拝は、高蔵寺教会で担当します。Youtubeで中継しFacebookでも案内します。お待ちしています。


聖書の言葉

マタイ 13:24~30&36~43 (新25)

13: 24イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。 25人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。 26芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。 27僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』 28主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、 29主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。 30刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

36それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。 37イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、 38畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。 39毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。 40だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。 41人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、 42燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。 43そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」


説教 「芽が出て ひと安心?」徳弘浩隆牧師

1,種蒔きの話が続きます

先週は種をまく人のたとえでした。どんな地に蒔かれるかによって、種が芽を出し豊かに成長するかどうか運命が変わるということでした。どんな地なのかということは、神の言葉を受ける私たちの心が、どんな状態であるかということを問われました。

そして、蒔く側の人の忍耐や、場所を問わず蒔き続けることの大切さも学びました。神の言葉を聞いて人に伝え奉仕する側に立てば、すべてすぐに良い結果が出るということでもないので、忍耐と継続的な努力が大切ということも教えられました。

さて、そこで何とか良い芽が出て、無事に成長すれば安心と思ったら、今日のキリストのたとえ話は、そこにとどまりません。その後の芽が出た畑の運命について話が続いていきます。

無事に芽が出て一安心というのではないということです。気が抜けませんね。神様は今日私たちに何を語られるのでしょうか?一緒に聞きましょう。

2,聖書

 今日のキリストのたとえ話も、その説明が付け加えられています。群衆をあとに残して家にお入りになったら、弟子たちがそばに寄ってきて、「畑の毒麦のたとえを説明してください」といったので、説明されたのです。

 良い種を蒔く者は人の子、つまりここではキリストです。良い種は御国の子たち。毒麦を蒔いた敵は悪魔、毒麦は悪いものの子たち。そして刈り入れは世の終わりだという説明です。そして世の終わりには、つまずきと不法を行う者たちを集めて、燃え盛る炉の中に投げ込まれるのだと、説明されます。

 ここでは、キリストや弟子たちが神の国の福音を宣べ伝えている姿と、従来のユダヤ教や社会の指導者たちの姿の対比が念頭に置かれているととらえてよいでしょう。そちらがつまずきや不法を行うものかということです。ユダヤ教の指導者たちや、それに影響される人々は、キリストとその弟子たちの集団がそうだと思っていました。そんな無理解と、迫害に対する心構えを弟子たちに説いています。

 神は今すぐ一方を反映させ、他方を裁き勢力をなくさせるのではなくて、世の終わりの裁きの日までそのままにしておかれるというのです。それは、毒麦を抜き去ろうとすると、麦まで抜いてしまうかもしれないというのです。

3,振り返り 

どうして神様は、その場その場で、白黒をはっきりとつけて、毒麦を抜かないのでしょうか?毒麦をに来とるときに間違えて麦まで抜いてしまうというような誤りは、神様には起こらないはずでしょう。そう思いませんか?私などはそう思ってしまいます。

わたしたちなら、間違えてしまうことは確かにあります。先週聖書研究会の後、Zoomである研修会に出て勉強をしましたが、そのあと一息ついて、草だらけの牧師館の周りの草刈りをしました。そして確かに、私は失敗をしました。足元が雑草だらけで、ツタが絡まっているゴーヤの畑の雑草を取ろうとして、大切なゴーヤの茎も抜いたり切ってしまったのです。ちゃんと見たら間違えないでしょうが、急いで取り合えずきれいにしようと思って雑にやっていると、大切な方も一緒に切り、抜いてしまいました。

しかし、神様なら、心の奥底まで見られる方。そんな間違いはないはずです。そして、苦難の中にある時、こう思うでしょう。

自分がこれだけ頑張っているのに、自分は正しい生き方をしているのに、どうしてこんなに苦労をしないといけないのか、どうしてわかってもらえないのかと。神様は、早く敵を滅ぼして、自分を救い出してほしいと。なぜ、神様は、今すぐそうされないのでしょうか。

しかし、その時、そう思う自分は、どちらの立場にいるかということを考えねばなりません。

自分は百パーセント正しくて、自分を迫害する人たちが百パーセント間違っていると、思い込んでいる自分がいるのです。百パーセント、そして、いつも、自分は正しく生きているでしょうか?

世の終わりの裁きの日まで、間違えて毒麦と一緒に麦を抜いてはいけないからと、待っておられる神様は、裁きの神であり、同時に救いの神でもあるのです。

今すぐ手をかけないのは、いつも私が正しいかというとそうではない自分もいるから。百パーセント正しいかというとそうではない自分がいるからです。

自分が正しくて相手が間違っていると思い込んで、またはそのように調子が良いときだけに、神様を味方につけて敵を滅ぼしてほしいと願う自分はなんと傲慢なのかと、思い知らされます。私たちは時折、そして信仰を深めたと思えばこそ、そのような傲慢な誤りに陥ってしまいます。

自分も時々、毒麦の側かもしれない。あるいは何もわからずにいたあの頃は、毒麦そのものだった過去がある。そんな自分もまた、迷いさまよって毒麦に戻り、心を入れ替えて麦の側に来て、という行ったり来たりの人生を、信仰生活を送っているかもしれないのです。

神様が今すぐ動いて敵を裁いてくれないのは、この罪深い自分をも、待ち続け、赦して、期待してくれていた、忍耐と愛の神でもあるからです。

4,勧め 

 先週、あるキリスト教系の大学に頼まれて、チャペルの説教をしてきました。前期最後の礼拝で、平和について考えるという日でした。若い学生たちが大きなチャペルに集まり、話を聞いてくれました。その大学に春から転任になった牧師は、この2月に広島の特伝に呼ばれたとき、広島教会で子ども食堂も手伝ったのですが、そこで学生たちとともにボランティアに来てくれていた広島のミッションスクールの先生をしていた牧師でした。名古屋に転任になったということで、懐かしく再会しました。一度知り合い一緒にボランティアをした仲間になっていた彼からは、私の働きややり方を見ていて、若者たちにわかりやすい聖書の話をと依頼されていたのでした。

 戦争をしていても、両方とも「平和」を望んでいるのだと話しました。ではなぜ、平和は実現しないのか。それは、両方こう思っているから。つまり、相手が負けるか滅びるかしたら、「自分の思う平和」が実現するのに、と。互いにそう思っているなら、互いに「平和」を願っていても実現しません。神を愛し、人を愛するという聖書の教えでこそ実現すると、説明しました。そこには、自己を絶対化しないで、相手にあるけれども自分にもある罪や間違いを悔い改め、違いも互いに認め合いながら、見上げた神様のもとで、共存していくことが、平和の実現には不可欠だと、説明しました。

 自分が麦で相手が毒麦だと決めつける自分の心があるなら、平和は訪れません。そして、それぞれが悔い改めて、立ち返るのを待ってくれている神様を見上げましょう。つまずきながらでも、待ち、忍耐し、愛し、赦してくれている神様に従いましょう。私たちも、信仰による愛と忍耐をいただいて、人々と、世の中と接するなら、そこから平和も訪れるのです。



2023年7月22日土曜日

8月20日は 夏の講演会です! おいでください。

  8月20日は、ルーテル高蔵寺教会で夏の講演会を開きます。ご関心おありの方は、メイルでお問い合わせください。

こころに 新しい風を入れる

 ―様々な世代のこころに寄り添って-

    日時:2023年8月20日(日)13.30-15.30

    場所:ルーテル高蔵寺教会

 私たちは日常の中多くのストレスや悩みを抱えますが、その悩みの大半は、人間関係から来ることが多いのではないでしょうか?気持ちのすれ違いや、年齢や立場の違いから相手の気持ちがわからないことからくることもあるかもしれません。また、子育ての中、 成長過程で、 そして高齢化や家族の介護など、 いろんな悩みを抱えることも多いことと思います。

 今回、精神科診療所・こひつじ診療所の武井陽一院長をお招きして、日頃皆さんが抱えている こころの問題の解決のヒントをお話していただこうと思っています。 夏の暑い盛りではありますが、皆さんの心に気持ちのよい風が吹いてくださるとうれしく思います。 講演後、 コーヒーやアイスをいただきながらの質問交流会もあります。 ぜひ武井先生のお話をお聞きください。 お待ちしています。

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講師 武井陽一 / こひつじ診療所院長

プロフィール: 精神科医師。名古屋で4年研修後、 聖隷三方原病院で 20 年間、子どもからお年寄りまでの診療に携わり 、 2007 年 7 月よりデンマーク牧場福祉会に開設した「こひつじ診療所」に赴任して 16 年、医師として 40年が経った。特別養護老人ホーム「ディアコニア」、児童養護施設「まきばの家」、就労継続支援「いぶき」 と も 関わり ながら 、 看護師、 精神保健福祉士、臨床心理士、 ポルトガル語通訳者たち と共に診療にあたってきた。「豊かなる大地」 に心いやされ、酪農、農業、園芸などができる中で、 1歳台の幼児より学童・青年、 ストレスによ り 不安、 抑うつ状態になられた方、精神症状を抱える 方々 などと 幅広く 交わりがゆるされ、 最近はブラジル出身の方が多く受診される 。「ひきこもり」者の居場所「ひとむれ」 を開催してきた。

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2023年7月16日日曜日

説教・メッセージ 20230716

 先週は、介護や手続きのために週日は帰省していました。教会では先月種まきもしました。種まきや、草刈り、そんなことをしながら、聖書の話をもう一度、自分のこととして味わう事になりました。聖書は有名な種まきのたとえです。明日は、復活教会で礼拝担当をします。礼拝の中継もします。おまちしています。そして、どうぞ、良い日曜日をお過ごしください。

     

聖書の言葉

マタイ 13: 1~ 9&18~23 (新24)

13: 1その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。 2すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。 3イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。 4蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。 5ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。 6しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 7ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。 8ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。 9耳のある者は聞きなさい。」

18「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。 19だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。 20石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、 21自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。 22茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。 23良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」


説教 「西洋芝の種」徳弘浩隆牧師

1,舗装かコンクリートか芝生か

高蔵寺教会の旧園庭の駐車場が、雨の日は使いにくくて、迷惑をおかけしています。もう幼稚園としては使わなくなったので、駐車場として整備してくださっていましたが、雨の日はぬかるんでしまいます。停めた車が出た後は、タイヤの跡でアスファルトの道に線を描いてしまい、汚してしまいます。そして、車の方もずいぶん汚れてしまう事になりました。

教会の駐車場を舗装するか、コンクリートで整備するとよいのですが、予算的にすぐには手が付けられません。砂利を敷くともっと安くできますが、それも予算的にまだ無理があります。

そこで、駐車場なので最適ではありませんが、芝生にすると、雨水の吸収やぬかるんだ状態からは解決してくれ、大雨の時に雨水が流れるときに泥水を流すのも減る土留めのような役割にもなると、やってみることにしました。

これも、芝生を刈ってきて敷き詰めるとよいのですが、数千円でできるようにとまずは、西洋芝の種を買ってきて蒔いてみることにしました。

教会の大掃除の日に、ちょうど小雨が降っていた日に、土をレーキで整えて、タネをまいてみました。すると、鳥がやってきてついばんでいます。あんな小さな種をどうやって見分けるとのかと不思議ですが、スズメだけではなくてカラスまでやってきます。

これが聖書のたとえにある、種まきのたとえだと、目の前の出来事を見ながら、感心して聖書を読みなおしたのでした。

2,聖書

 そんな有名な聖書の話が、今日読まれました。これに触発されて描かれたという有名な絵もいくつもあります。

 とても分かりやすいたとえ話で、身の回りに起こる出来事でもあります。そして、興味深いことに、この個所はほかのところと違って、そのたとえ話の謎解きと、イエス様がたとえ話をされた理由まで丁寧に書かれています。これ以上何を説教でお話すればよいのかと思うくらいですね。

 かんたんにイエス様のお話を振り返ってみると、こうです。蒔かれた種は、道端、石だらけのところ、いばらの間、そして良い土地にと、4つのところに落ちたとあります。そして、最初の三つはうまくいかないけれど、最後の良い土地に蒔かれたものは、多くの実を結ぶのだと、その結果の違いが語られています。

 ちょうどこれは昨日の、教会学校のお話でもテーマになっていました。こどもたちに、聖書と、そして絵本が読まれ、牧師が説教でもっと身近なこととしてお話ししました。

 こどもたちへのメッセージは、良く耕された良い土地の大切さを語りました。私たちの心はどうでしょうか?と問いかけます。人が行き来する道路のような落ち着きがない心、石のように固い心、茨のようにトゲがある批判的な心、そして、手入れされた柔らかい素直な心という具合です。素直に、神様の言葉を聞いて、正しくてやさしい、そんな心を育ててもらいましょう、と、そんなお話でした。

3,振り返り 

子ども向けにはそれでよいところですが、もう少し突っ込んで神様の言葉を聞いていきましょう。

イエス様のお話は、宣教のために派遣する弟子たちへ向けたお話が続いてきました。ですから、聞く側の心の準備として聞くだけではなくて、語る側・伝える側への心構えとして、イエス様は何を語っておられるかを聞くことも大事です。

そう読みなおしてみると、大切なことに気づかされます。そしてこの後、種まきに関する収穫の話へと、イエス様のたとえ話は数週間発展して続いていくので、どんな展開になるのか楽しみでもあります。

それは、宣教する側、種をまく側として聞くと、聞こえてくる神のメッセージがあるのです。

一生懸命蒔いても、つまり、一生懸命伝えても、思い通りにいかないこともある。事実、キリストの宣教の働きも、期待した通りにすぐに発展しませんでした。しかし、無駄になる場合もあることがわかっていても、種をまく人が、どんな場所にも隔てなく蒔いていることが大切なのです。希望が持ちにくいところにも、神様のみのりがやがて大きく期待できることを信じて、たゆまず、種をまくものになることが大切だ、と。

つまり、み言葉を聞く側の心構えとともに、み言葉を伝える側への励ましと慰めでもある、キリストの言葉でもあったのです。

事実、昨日の教会学校は、熱が出たり、暑さの中の習い事で疲れ果てて残念ながらお休みというこどもたちもいて、参加者は少なかったのです。がっかりした気持ちも正直ありました。一生懸命準備をして、祈りながら待っていた教会学校の先生たちも、気を取り直して取り組んでくれました。絵本を楽しく読んでくれた先生、準備した工作を一生懸命作ってくれた先生、おやつにヒマワリの種を買ってきて準備してくれたアイデアたくさんの先生たちでした。

すぐに思うような結果が出ないこともあります。がっかりすることもあります。私たち一人一人の人生もそうです。順調に物事が解決して導かれていると思うときもあれば、何度も何度も問題が繰り返して、出口がない迷路で迷い、希望や信仰を失いようになるときすらあります。すぐに受け入れても根がないのでダメになったり、世の思いや誘惑で振り回されることもあります。しかし、どんな時でも、神様が蒔かせてくれる種に、いのちがあり、力があることを信じて、あきらめずに、希望を持って生きることを、身をもって教えられたように思います。

4,勧め 

 私は先週介護のために実家に帰省しましたが、手続きや面会以外の大きな仕事は、草刈りでもありました。ジャングルのように伸びたセイタカアワダチソウや雑草たち。近所迷惑でもあり、空き家ですよとアピールしているようでもあり、良くありません。ご近所の方とも挨拶をし、おしゃべりしながら、心配と、そして喜んでもおられました。

 それら雑草は、手をかけなくても伸びています。しかし、刈り込みをしたアジサイの根元はどんな雑草も生えていませんでした。種自身の持つ生命力と、茨ならぬアジサイの茂った日陰の足元では何も育たないことも再発見し、教えられます。

私たちの、不信仰や愛の無さが、あきらめとなって、神様のせっかくの解決や祝福の道をふさいでしまわないように、元気を出して生きていきましょう。神様は、祝福しておられるのです。

 

 

牧師コラム 

輝く夏の大三角を見上げながら

介護の帰省で行った島根の山間部の夜は久々の星降る夜でした。受験勉強をしながら、眠気覚ましに庭に出て、夜空を見上げたころを思い出します。福岡でもきれいに見えました。冬はオリオン、夏は「夏の大三角」や天の川。この夏の大三角は、七夕伝説のベガとアルタイル、つまり織姫とひこ星、それに白鳥座のデネブが明るく光り、夜空に三角形を描いています。自分たちが育てられた街で、夜空を見上げながら、両親の介護や手続きをしながら、感謝や今後のことを考えました。




2023年7月9日日曜日

礼拝メッセージ 20230709

  荷物置き場で、「荷物」を置くとき「お荷物」と言ってちょっと変でお互いに笑ったという経験があります。「僕がお荷物ということですか?」と冗談で返されたことがあります。「荷物」と「お荷物」でずいぶん意味が変わることがありますね。キリストが言われる「私の荷は軽い」とは、どんな意味でしょうか?一緒に聖書を読んでみましょう。今日は高蔵寺教会で礼拝担当します。外国メンバも来てくれる日です。YoutubeでFacebookでもお知らせする礼拝中継もあります。おまちしています。

聖書の言葉

マタイ 11:16~19 & 25~30

11:16今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。17『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。』

18ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、 19人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」

25そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。 26そうです、父よ、これは御心に適うことでした。 27すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。 28疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 29わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 30わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」



説教 「荷物とお荷物の違い」徳弘浩隆牧師

1,荷物置き場

今日の聖書は、「重荷を負うものは、私のところに来なさい」というキリストの言葉があります。聖書を読んで、先日のこんなことを思い出しました。

5月に全国総会がありましたが、東京教会での最終日。それぞれ、最終日はホテルでチェックアウトをして、荷物を持って集まりました。大き目のカバンをみんな2階にもって上がろうとすると、「荷物は1階の集会室においてください」との案内放送。重たい荷物を持ちあがらないでよいようにと、荷物置き場を作ってくれたのでしょう。もう一度荷物を持って下に降りて、出会う人たちと、「荷物置き場はここですねぇ」と声を掛け合いながら、入りました。

わたしは「お荷物置き場はここですね?」と後輩置牧師に聞くと、「はい、そうですよ。僕も、教会のお荷物かもしれませんね」と笑いながら答えてくれました。私のとっさの日本語が変で、「お荷物」と言ってしまったので、ユーモアで答えてくれ、みんな笑って楽しい時でした。さて、「荷物」と「お荷物」の違いは何でしょう?キリストの言われる、重荷とは、何のことでしょう?一緒に聖書の話を聞きましょう。

2,聖書

 今日の聖書の直前は、洗礼者ヨハネがイエスのところに使いをやって質問をした話の次です。洗礼者ヨハネは、キリストが来るのを人々に伝え、その準備のために、洗礼を受けさせていました。罪を悔い改めるためです。イエスにも会い、願われるままに洗礼も授けました。しかし、この人は自分より尊い方だと、そう感じ、そんな話もしました。しかし、その彼が、迷っていたのです。そんなことに、そして、各地で宣教をして回った後で、イエスは今日の言葉を語りました。

 そこには、人々の不信仰と、心の鈍さを嘆くキリストの心がにじみ出ています。

 当時の子供たちの遊びの中の歌だと考えられていますが、「(結婚式のお祝いで)笛を吹いたのに踊ってくれない。葬式ごっこをしたのに悲しんでくれない」という状況と同じだ、と嘆いているのです。

 そして、ヨハネや自分に対する人々の気持ちも、嘆きます。「ヨハネが断食をすると悪霊につかれているといい、イエスが人々と食事を共にするのを大切にすると大食漢で大酒飲みだと批判する」というのです。

 どんなことを語り、行い、人々に寄り添っても、人々は良い方には取らず、神様の本当の言葉や、自分たちが待っていたキリストは誰かとわからずに、自分の知識だけで判断していると、嘆いておられるのです。

 だから、「知恵あるものや賢いもの」には逆にわからず、知恵や力がなくて親にすべて頼っている幼子のようなものの方が、神様の御心を知り従ってくるのだと、いわれます。

 だから、沢山の重荷を持って生きている人々、大人や能力のあるもの、律法を知り沢山の知識や信仰があると思っている人に、それを下ろしなさい、と告げているのです。

3,振り返り 

私たちは、どんな生き方をしているでしょうか? 

なまじっかある自分の知識や、経験。そして、信仰と思っている、聖書に知識やそこにある様々な掟。それを守るよう勧める律法学者やそのように生きていると自信たっぷりのファリサイ派。彼らには苦しめられていやだけれど、自分の知識や好き嫌いで神の人を判断し、イエスの本当の価値もわからずに右往左往する姿、それが当時の人々でした。

それをみて、「重荷を持っているものは、私のところに来たらいい。休ませてあげるのに。」と招くのがイエスでした。

さて、私たちは、何を持っているでしょうか?自分の知識や経験、そして聖書の知識や信仰、確かにそれぞれそれなりに持っています。でもそれが逆に、見えなくしている、苦しくしていることがあるかもしれません。私が持っている重荷は「お荷物」だからです。それは、大切なものと思い必死に抱えているけれど、実は邪魔なものかもしれません。キリストのもとにきて、安心して休ませていただきましょう。その時本当に「父を知ることができる」、つまり神様に出会うことができるのです。

では、キリストに出会うと、まったく何も持たなくてよい、身軽な自由奔放な人生になるのでしょうか?そうではありません。「私のくびきは負いやすく、私の荷は軽い」とキリストは言います。牛が荷車を引くときに肩に背負うのがくびきです。それは多きすぐもなく小さすぎもなく、ちょうどその人に合っているから負いやすい。そして、荷車の荷は軽いのです。全くないのではないけれども、神様がその人なら背負える、その人が成長するためにその時々に合った、背負える荷物なのでしょう。それは、不要な「お荷物」ではなくて、大切な本当の宝である「荷物」。それが、「お荷物」と「荷物」の違いだと、考えさせられています。

4,勧め 

 人生の、信仰の「お荷物整理」が大切なようです。そして、本当に神様からいただいた、大切な「荷物」を選んで生きていきましょう。

それは重たいだけで苦しめる「お荷物」ではなく自分を成長もさせ、自分のためだけではなくて、同じ苦しみを負う人々に出会ったときに、役にも立つものです。今週も、キリストは招いておられます。自分のお荷物を確認しながら、キリストのもとに行きましょう。いちど、先入観や自分の判断を捨ててみて、キリストの言葉を聞いてみましょう。そして、大切な荷物をいただいて、生きていきましょう。皆様に神様からの祝福がありますように。


2023年7月2日日曜日

礼拝・説教メッセージ 20230702

 今日は、夏休みのこどもたちのサマー・デイキャンプの打ち合わせをしました。東海教区の他の教会にも呼び掛けた教区の行事にもなるので、Zoomで準備会をしました。去年も聖書を学んだり、ゲームや工作をしたり、スイカ割りをしたり、楽しかったのを思い出します。今年も、たくさん来てくれたらいいなと思います。もうすっかり、頭は8月末ですが、考えてみたらまだ7月になったばかり(笑)暑さや大雨もありますが、祈りながら、元気に安全に生きていきましょうね。礼拝は復活教会で担当し、Youtubeで中継し、Facebookでも10.30直前にご案内します。Youtubeのチャンネル登録をしていただくと、メッセージが来るようになるようです。では、おげんきで。礼拝でお会いしましょう。


聖書の言葉 マタイ 10:40~42 

10:40「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。 41預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。 42はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」


説教 「水とお冷の違い」徳弘浩隆牧師

1, 会計とお愛想、水とお冷…

お店で食事をした後、「おあいそ!」というと会計をしてもらう事ですが、実は、お店の人は言ってもいいけれど、お客さんの方が言うと本当は失礼な言い方だそうですね。これは、「愛想が尽きた」という言葉から来ていて、「食事していただいて、たくさん食べていただいて、もう、お飽きになりましたでしょぅ」という店主の側の感謝とヘリ下りの気持ちがあらわされているからだそうです。

お冷とお水には、調べてもそんな区別はないらしいですが、お水というと一般的な言い方で、お冷というと、やはり、何か気持ちの違いを感じます。それは、お店の側からお客さんに対しての、「冷たい水を一杯準備しました。さあ、どうぞ」という気持ちがあるのかもしれません。

今日の聖書には、「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」というイエス様の言葉があります。そこに込められた気持ちや、神様と私たちの関係は、どんなものでしょうか?聖書を読んでいきましょう。

2,聖書

 聖書は、収穫のためにと祈り、弟子たちを送り出されたイエス様でしたが、派遣するにあたってのお話が、数週間続きました。そして、今日の部分がその終わりの部分に当たります。

 今日私たちは、たいそうな「伝道旅行」に派遣されるわけではありませんが、礼拝でみ言葉を聞き、それぞれの生活の場に、職場や地域社会に帰っていきますが、神様から見たら、「派遣」されています。

 どんな心構えで戻っていくのか、どういう風にこの世の現実を生きていくことが大切なのか、そんな気持ちで、今日のイエス様の気持ちを聞いていきましょう。

 「あなたがたを受け入れる人は、私を受け入れたのだ」とありますが、これは、逆に言うと、なかなか受け入れられないという事がわかります。

 先週の言葉も思い出しましょう。イエス様はこうも言われました。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。 わたしは敵対させるために来たからである」と。

 これは、この矛盾や問題だらけの罪深い世の中で正しく生きるという事は、表面的な差しさわりの無い生き方が良いのではないという事です。神の言葉は、罪深い人間の心を見せつけさせ、心に鋭く突き刺さり、分裂さえも起こさせます。まずは自分の、いい加減に生きていた心の中に分裂と、2つの気持ちの対立が起こります。良いことだと思うけれどついていけないとか、悪いことだと知っているけど続ける自分とか、そういう葛藤を生みます。そして、神の正しい言葉に従うなら、今までの善悪をないまぜにして皆に合わせて生きてきた社会では浮いてしまいます。そして、対立も起こるかもしれません。そうでなくても、人それぞれ自分が良いと思う事を自分で決め、つまりエゴイズムで競争や奪い合いをして生きている社会では、対立もあったわけですが、「一人いい子になる」対立を新たに生んでしまうのです。

 そんな自分がいるとして、そんな自分に、「冷たい水を一杯でも飲ませてくれる人は、報いを受ける」と言われます。安心して、神様の言葉の通りに生きてゆくことが良いと、考えてよいでしょう。しかし、冷たい水をくれる人の気持ちも大切です。水いっぱいをくれる理由が大切なのです。「食べ物をあげるのはもったいないから、水一杯でも飲んでおけ」という気持ちではだめでしょう。聖書にこう書いてあるからです。「私の弟子だという理由で」と。

 神の言葉を受け入れ、そのように生き、その生き方をお勧めする人を見て、その方が神様からの方だと、イエス様の弟子だからと、そう理解し尊重したなかで、「冷たい水一杯でも飲ませてくれる」なら、神様もその人をめぐみ祝福すると、続いています。

3,振り返り 

さあ、私たちは、どんな生き方をするべきでしょうか? そういえば、神の言葉をよく勉強し、その通りに生きようとした人たちを知っています。イエス様の当時ではファリサイ派の人たちを思い出すでしょう。彼らのように生きることが良いのでしょうか?もちろん、それは違うと私たちは思うでしょう。たびたび、イエス様が批判されているからです。

では、何が違うのでしょうか?彼らも一生懸命に神を愛し、その言葉通りに生きていました。彼らは、そのファリサイ派という言葉のように、「分離していた」のです。神の言葉を聞かず、知らず、理解せず、そのように生きない人たちを、卑下さえし、自分たちは立派だと、一般民衆とは「離れた生き方」をしていました。それに対して、イエス様は「派遣」されたのです。

今日の聖書の言葉で、イエス様はそのような生き方を私たちに求めているのではありません。自分の中の罪、悪とは分離し、生き方を改めるかもしれませんが、人々から分離して、自分たちだけ救われたという、傲慢な生き方を求めているのではありません。

ファリサイ派のようにではなく、イエス様の生き方を見つめていきましょう。イエス様は、「飼い主のいない羊」のように疲れ果てている群衆を見て、憐れまれました。「町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」のです。弟子たちにも、そのようにといわれたのが、「派遣」です。そして、私たちにも、そのように生きるのだ、と言われているのが、今日のお勧めです。

4,勧め 

 私の言葉や、生き方を見て、「神様の、正しい者」として受け入れられるように、願われています。そして、相手が、一緒に神様を見上げて、イエス様の弟子だという理由で、水の一杯でも飲ませてくれる人になれるなら、どんなに幸いでしょう。

 失敗をしたり、時々ぶつかったり、まだまだ不完全なものですが、神様の愛、イエス様の生き方が、私たちから感じていただけるような生き方ができればと、祈らされています。そう、それもご存じで、イエス様は私たちを「派遣」されているのです。同じ失敗をしても、誤りがあれば素直に認め、謝罪と和解をしようと生きるなら、それは尊大に生きて人々を卑下している生き方とは違い、近寄りやすく、良いお手本になるでしょう。私たちも、完璧な生き方を一生懸命努力するより、また「装う」よりも、そんな生き方をするときに、「キリストの弟子」と思われるのかもしれません。その時、先週の聖書にあったように、「キリストの友」とキリストに呼ばれるものにされていくのでしょう。安心して一緒に、生きていきましょう。

 

牧師コラム 

文化の違い、知り、認め合い、豊かにされる…

先週は、私が日本語をお教えしたり日本での生活を支援している「ぺらぺらクラブ」の外国メンバーのお二人が結婚したので、カトリック教会のミサに出かけてきました。私たちの教会の草刈りやバザーなども手伝ってくれ、教区の青年会・外国メンバーのクリスマス会などにも参加してくれたメンバーたちの二人です。彼らはベトナム人の技能実習生です。正確に言うと、先に来た男性は3年過ぎて試験にもパスして特定技能ビザを取得し、後から来た女性の方が技能実習生。7月には日本語能力試験も待っています。一緒に勉強したり交流しているのは、ブラジル人、インドネシア人、中国人、そして帰国子女といわれるひと、そして中国帰国者たちです。最近はネパールの方もZoomで一緒に勉強しています。

ベトナム人のミサは、若者が5-60人、いやもっと、いたでしょうか。日本で働いている若者達です。驚いたのは、ミサの間、そして聖体拝領(聖餐式の配餐)の列で、みんなが「腕を組んでいる」ことです。新郎新婦も一番前の席で神父さんの話を聞くときに「腕組み」をしています。なにか、不遜な感じ。表情次第では不満を表しているようにも見えるかもしれません。聞くと、それは相手への尊敬の姿勢でもあるそうです。Zoomの日本語講座でそんな話になりました。そういえば、挨拶ではタイでは日本人が拝む姿勢のように「顔の前で手を合わせ」、中国では「グーをした左手を右手でかぶせて顔の前で合わせる」そうです。ネパールの人に聞くと、インドの人と同様、「ハイ」の時に「首を回すように振る」人も多いとのこと。首を横に振る、縦に振るのはできても、「回すように振る」というのは、日本の人は、慣れないとできない人も多いようですね。私は、インド出張の時に、練習してできるようになりました。いろんな言葉や文化の人が日本で一緒に生きています。神様のもと、平和に楽しく生きていきたいですね。


説教メッセージ 20240512

 聖書の言葉  ルカ 24:44~53 と 使徒言行録 1: 1~11 (新213) 1:1-2テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。...