2023年9月24日日曜日

説教メッセージ 20230924

先週、日本語をお教えしてお世話している外国人の方の面接の練習を手伝いました。「転職するので面接があるけれど、日本語に自信がないから」と頼まれたので、夜Zoomで急にやりました。言い方の間違えや、国特有の発音を修正してあげ、面接官の役の私が「最後に質問はありますか?」と聞きました。すると、「サラリーは毎年アップがありますか?」と急に現実的な質問。一緒に参加していたほかの国の仲間の女性は、「それ、始めに聞かないほうが、いいです」とアドバイス。3人で一緒に笑いました。大切なことだから聞いたほうがいいけれど、急に聞くとビックリされるかもしれません。今日の聖書も給料の話。天の国のたとえだそうです。どんな意味があるのでしょうか?一緒に聞いてみましょう。今日は復活教会の礼拝を担当して中継もします。お待ちしています。(今日は、ネットが止まりませんように!)

聖書の言葉 マタイ 20: 1~16 (新38)

1「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。 2主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。 3また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、 4『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。 5それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。 6五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、 7彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。 8夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。 9そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。 10最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。 11それで、受け取ると、主人に不平を言った。 12『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』 13主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。 14自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。 15自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』 16このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

説教 「彼に1デナリオン、私にも1デナリオン」  徳弘浩隆牧師

1,「 聞きにくいコトですが…」

ここ二週間くらいに二度、面接の練習をしてあげました。急に頼まれて、夜9時過ぎに1時間半ほど、インターネットを使っての練習でした。頼んできたのは、日本語を教え教会にも時々来てくれているベトナム人の若い女性です。一緒に日本語を勉強しているインドネシア人の女性も、一緒に出てくれました。彼女の方が長く日本にいるので少し上手で、一緒に学びながら、時々助けてくれました。

面接というのは、日本で技能実習生で働いてきたけれど3年経って特定技能労働者の試験に合格し、新しい会社で働きたいからという理由です。今までの仕事、変わりたい理由、この業種での経験などを日本語で聞いて、答えるために日本語の間違えや発音を直してあげました。私は面接官になり切って、「最後にあなたの方から、何か質問はありませんか?」と聞くと、普段は控えめな彼女はこう聞きました。「毎年サラリーのアップやボーナスはありますか?」と。その仲良しのインドネシアの女性は笑いながら、「それ、すぐ聞かないほうがいいです」とアドバイスしてくれました。面接の練習をしている女性もはずかしそうに大笑いしました。私も笑いながら、「大事なことだから聞いてもいいと思うよ。でも、先に残業があるかとかを聞いて、その後に、『聞きにくいコトですが』と前置きをしてサラリーのアップのことを聞いたほうが印象がいいかもしれませんね」とアドバイスしました。でも、厳しい環境で仕事をし、半ばだまされたりもすることがあるという、まだ問題だらけの日本の外国人労働者の制度ですから、サラリーのことはきちんと聞いたほうが良いでしょう。そのために、私も支援しているつもりです。

さて、今日の聖書でも、給料のことが話題になっていますね。いったい、神様と私たちの間でどんな関係があるのでしょうか。一緒に学んでいきましょう。

2,聖書 

聖書を簡単に復習しましょう。夜明け前に雇われた人、9時ごろ何もしないで広場にいるところを雇われた人、12時ごろ、また3時ごろ同じように雇われた人。そして、最後は5時ごろ広場に立っている人たちに声をかけると、だれも雇ってくれないから」、と働いていないことに嘆き不満を言う人も雇われました。そして、夕刻給料をもらうときに、最後に来た人から順に1デナリオンずつもらう列の後ろにいて、「自分は朝から働いたからさぞかしもっと弾んでもらえるに違いない」と期待したのに自分にも一デナリオンだった、という状況です。

そこで、「天の国はこういうものだ」と言われると、「なんと不公平な、働き者がバカを見る所だ」と思うかもしれません。そのように私たちの心に疑問がわくという事がキリストの話のポイントです。それに対する答えをどう聞き取るべきでしょうか。

「当然不平を言ってもよい状況だけれど、あなたには見えていないこと、気付いていないことがありはしないか?」と私たちに問いかけます。

色々な解釈が試みられますが、本質はひとつ。神様の大きな愛、そして人間のおごり高ぶりです。人が赦され救われるのは、その人がどれだけ努力したかではなく、神様の側の一方的な大きな愛だという事。そこには、理屈や計算はなく、ただ、神様に招かれたら従う事だ、という事です。

悔い改めて、神様に従っていくことは、長さでも、努力の激しさでもなく、素直に従っていくことが大切です。また、働いた成果としていただく給与は、一デナリオン・つまり当時の一日分の賃金という事ですから、頑張って働いたら残りの日々はのんびり何をしてもよいという事ではなく、毎日の神様との関係が大切という事も教えられます。「きょうも、日ごとのパンを与えたまえ」といのる主の祈りもの言葉も思い出します。

3,振り返り 

きょうの聖書のキリストのたとえは、社会的な労働条件や労使交渉の話ではありません。「天の国は次のようにたとえられる」とはじまっているからです。そして「天の国」とは、「死後の天国」の事ではなくて、「神様の支配のあるところ」という意味で、神様と一緒に生きる人生や社会のことだと、何度も確認してきました。

神様と一緒に生きていない、天の国ではないと言える生き方は、どうでしょうか。私たちの心の奥を見ると、わかります。例えばこうです。

「自分が恵まれるとうれしい、ひとも恵まれると恨めしい、自分のうれしさが減る感じがする。」

「彼は1万円、私にも一万円、でも彼は1時間、私は8時間も働いたのに。雇い主も、彼もゆるせない。」

「今まで自分はこれだけ頑張ってきたのに、彼は今頃やってきてズルい!良いとこ取りはダメだ。」

でも、立場が逆だとどうでしょうか。

「あの人は1万円、私にも1万円、なんと心が広い方だろう。自分にはそんな価値はないのに。ありがたいことだ。」

実は、その気持ちが、私たちキリスト者の気持ちのはずです。「自分は、自己中心的で、先ほど考えたように、ひとの喜びを一緒に喜んであげられない狭い心、罪深い心の持ち主だ。思い通りに行かないと腹が立つ。だけれど、自分の努力ではなく、神様の大きな愛で、あの人も、この私も赦されたのだ。ありがたいことだ。」

仕事の関係では、時間給や能力給という事もあるでしょう。不当な扱いを受けたり、賃金格差が多くあったり、だまされたりするのを認めてゆるすことをキリストは説いているのではありません。そんなことがあれば、私たちは社会正義のために、その人を助け、一緒に交渉したり、社会の不正義を正す声を上げることもします。日本語がわからないだろうからと、うやむやにされ騙されたりしないように、面接できちんと聞いたほうがいいことですよと、アドバイスもします。

しかし、神様から罪深い自分が赦され、生かされるというのは、時間給でも能力給でもありません。それは、神の愛。それも軽々しい愛ではなく、大きな犠牲を払っての出来事。それが、キリストの十字架でした。

4,勧め 

そして、神様との関係は、報酬だけではなく、働きに出ること自体が喜びという事も忘れずにいたいものです。毎日、神様と一緒に生きせてもらい、神様の愛と平和の働きに参与させていただく。毎日恵みをいただく。時には罪を犯し、人を傷つけることもあるけれど、そのたびに懺悔し赦していただき、また人間どおしでも赦し赦され、助け合う関係を持って生きていくこと、それが私たちの神様との生活、つまり信仰生活です。これからも、聖書を学んで、一緒に神の愛を知って、その中を、生きていきましょう。

 

牧師コラム・今日の写真 人の目には偶然・神の目では必然!?

 今日の写真は、先週の偶然の出会いの写真です。

 一つは、こうです。先週礼拝後名古屋の今池のルーテル教会であった会議、高蔵寺教会の山下さんといっしょに行き、会議後、電車で帰る山下さんからLineがはいりました。高蔵寺のメンバーのご主人とアデム君のキッチントラックに出会ったというのです。私は復活教会の牧師館に帰り、そのままもう一度今池に行きました。きれいなケバブのキッチントラック。ケバブもおいしくいただきました。翌日日本の外国人宣教の懇談があり名古屋に来ていた元ペルーとメベトナムから一時帰国中の宣教者も連れていき食事を楽しみました。このケバブは11月12日の高蔵寺教会のるうてるフェスタの目玉の一つでもあります。

 もう一つは金曜日、健康診断が終わり少し街歩きをし、聖公会の聖マルコ教会前で写真を撮り立ち去ろうとすると後ろから呼び止める声。その教会の耐震工事の設計を担当している復活教会の山田さんでした。貴重な工事中の会堂の中も見せていただきました。カトリック、ルーテル、聖公会の三つの教会巡りの写真を撮ってみようと思い、偶然出会ったのです。神様は見ておられ、出合わせてくださいます。神様からすれば、それは偶然ではなく必然の意味のある出会いのはず。感謝ですね。


2023年9月17日日曜日

礼拝メッセージ 20230917

親に口答えをするときの定番、「もう、何度も聞いたよ。うるさいなぁ。」という言葉、言ったり聞いたりしたこと、皆さんおありかもしれません。わたしは、ありきたりのことを言っても面白くないので、「はいはい、その話は、もう百回聞いたよ」と言っていました。効果的でした。われながら、「なかなか上手いことを言ったもんだ。今日も上手くいったぞ」と、満足したのを覚えています。今日の聖書は、「7回どころか7の70倍までも赦しなさい」と言われたイエス様の言葉が伝えられています。人を赦すことの大切さを、ユーモアも交えて、わかりやすく言ったのでしょうか。なにせ、人を赦すことは、何よりもむつかしいことだと、誰もが知っているからです。イエス様の真意を、一緒に学んでいきましょう。今日は、高蔵寺教会で礼拝担当で中継もします。お待ちしています。

聖書の言葉 マタイ 18:21~35 (新35)

21そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」 22イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。 

23そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。 24決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。 25しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。 26家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。 27その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。 28ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。 29仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。 30しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。 31仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。 32そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。 33わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』 34そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。 35あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」



説教 「 神の愛とゆるし≧7×70」  徳弘浩隆牧師

1,「もうその話は、百回聞いたよ!」

子どもが親に反論をするとき、いや、いわゆる口答えをすることは、誰にも経験があるでしょう。「もう、何度も聞いたよ。うるさいなぁ。わかってるよ!」という言葉も、言ったり聞いたりした記憶も皆さんおありかもしれません。

わたしは、ありきたりのことを言っても面白くないので、こういっていたころがあります。「はいはい、その話は、もう百回聞いたよ」と。または、「NHKみたいに再放送ばかりしないでよ!」とも。

再放送はともかく、百回聞いたというのは、文字通り数えてみて100回だったわけではありません。ちょっと、からかいながら、少し笑いも誘い、「あら、そんなに言ったかねぇ。そうよね。もう分ってるよね」と母親が「口撃」を緩めてくれるのには、効果的でした。われながら、「なかなか上手いことを言ったもんだ。今日も上手くいったぞ」と、満足したのを覚えています。

さて今日の聖書は、「7回どころか7の70倍までも赦しなさい」と言われたイエス様の言葉が伝えられています。人を赦すことの大切さを、ユーモアも交えて、わかりやすく言ったのでしょうか。なにせ、人を赦すことは、何よりもむつかしいことだと、誰もが知っているからです。イエス様の真意を、一緒に学んでいきましょう。

2,聖書 

「そのとき」という言葉で始まっている今日の個所は、先週の続きです。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」という具合に話し始めたイエス様がそんな時どうすればよいか、というテーマで話されました。「直接話しても、2人か3人で諭してもだめなら、教会に申し出なさい…」という対処の仕方が説明され、「教会」での信仰生活の大切さと教会の機能が説かれていました。

そして、それに続いて、ペトロが質問をしました。「兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか?」という質問へのイエス様の答えと、それを説明するたとえ話になっています。

先週が罪への対応を説かれ、今週は何回まで赦すべきかと、How toからHow Manyに話は進みます。それのイエス様のお答えが、「7の70倍までも赦しなさい」でした。一説によると、当時のユダヤ教では3回までという答えがあったそうですが、ペトロは「7回まででしょうか?」と思い切って寛大な姿勢を示してみたのかもしれません。しかし、イエス様のお答えは、それどころか、「7の70倍以上」でした。このお返事を聞いたペトロは、「なんと、そんなにですか!」と思ったに違いありません。口答えをする子供が「もう百回聞いたよ!」と親に言うように、それはもう、数えきれないくらい沢山という風に聞いて、「まいった」と思ったに違いないのです。7は聖書では「完全数」と言われているから、その70倍は、際限がない回数と理解できるからです。

そこで今日の説教題の数式、「神の愛とゆるし≧7×70」というわけになるのです。

3,振り返り 

さて私たちは、どうでしょうか。いやなことがあったらメモを付けて、7×70回まで数えて、「あと何回だ。そこまでは赦そう」と生きていいでしょうか?それを越したらどうしましょうか?「いや、そうじゃない。際限なく赦せと言われているのだ。どんなことがあっても、何回でも何百回でも赦さなきゃいけないんだ」と理解してよいでしょうか?

じっさい、そこまで何回も人を赦すことは、むつかしいことです。または何をやっても赦される社会なら、悪ははびこり、正直者が損をするのに、天の国はそんな無秩序な国なのでしょうか?

イエス様のお答えの真意はそこにあったのでしょうか。「何度までも」というHow Manyではありません。その説明のために、次に「天の国のたとえ」のお話をされました。主人の前で、預かったお金の決済をする家来たちと、大金を散財して返済できないひとりの家来です。かれは、しきりに願ったので、王様は憐れに思って赦したのですが、その家来は自分がお金を貸している人に出会うと容赦なく取り立て、返さないと牢屋に入れてしまった、ということになります。それを聞いて王様はその家来を呼びつけて牢役人に引き渡したのです。

これは、「人を赦したら自分も赦される」というゆるしの条件を説いた話ではありません。数えながら人を何度でも赦すのは、自分が何をやっても赦されるポイントを稼ぐようなものです。

ではイエス様箱のたとえで私たちの心をどこに向けさせようとされたのでしょうか。

王様が1万タラントンの借金をししきりに赦しを願う家来を見て憐れに思って赦したのは、簡単なことだったかということを考えねばなりません。1万タラントンと100デナリオンについて考えましょう。「1タラントン=6000デナリ、1デナリ=労働者一日の平均賃金」という換算式からいうと、1万タラントンは今の価値では6千億円、100デナリオンは100万円といってもいいでしょう。わたしたちにとって100万円も高額ですが、王様にとって、いや、一国にとって6000億円ははるかに大きな額で、国の規模によっては一国の予算を左右するほどかもしれません。王様といえども大変な損害で、それを被る覚悟が必要です。

これは、神様と言えども簡単に人を赦すということではないんだ、ということでもあります。事実、この罪びとたち人類を救うために、神様ご自身が大きな覚悟と犠牲を払われました。それが、この話をしておられるイエス・キリストですし、やがてこの方がその道を行く犠牲の出来事が十字架であったということを考えねばなりません。天の国は、神の愛は、自己犠牲の痛みを伴いながら人を愛する、そんな国であり、そんな愛なのです。

4,勧め 

 人を赦すとき、自分には損害や痛みを伴います。それも引き受けていくことが、本当の愛です。それによって許され、新し生き方に招かれたのが自分なのだと、そのことを受け止めましょう。そのとき、すこしずつ、ときには、人を赦せるようにされるのです。頑張ってもできるものではありません。自分の罪深さを知ることが大切です。

 イエス様の神の赦しと愛のお話は、How to(どんなふうに?)から、How many times(何回?)へ、そしてその奥底あるHow much(どれほどまでに)ということに目を向けさせられました。神のゆるしと愛と恵み、この話は来週も続いて新しく展開していきます。おたのしみに。聖書を学んで、一緒に神の愛を知って、その中をそのように、生きていきましょう。

 


牧師コラム・今日の写真    





今日の写真はポーランドのクラクフという市からの写真です。LWFの世界中の責任者が集まる総会が、今開かれています。JELCからは元議長の大柴牧師が代表として出席しています。

クラクフは、前の前のローマ教皇のヨハネス・パウロ二世の出身地。そして、そこから遠くないところにアウシュビッツ収容所跡があります。そこの見学ツアーもあったそうです。私もドイツの仕事の帰りに当時のJELC責任者と一緒に訪ねたことがあります。この、キリスト教会も黙認してしまった大虐殺を覚えて、共に悔い改めさせられます。世界に広がり、いろんな文化や言語を持つ人たちの中にある、ルーテル教会です。この世界のルーテル教会の責任者たちと、若者たちもつどい、これからの教会の在り方や協力の在り方を、祈り、話し合う総会に、祝福がありますように。


2023年9月9日土曜日

礼拝メッセージ 20230910

昔のパソコンやソフトを買った時には、分厚いマニュアルが何冊もありましたよね。今は、あまり、ありません。それは、マニュアルがないくらい使いやすく簡単になったから?そうではありませんね。ネット上にあって、いつでも参照できるようになったからでしょう。車のマニュアルもネットで見る時代です。人生のマニュアル、教会生活のマニュアルはどうでしょう?何にもなくてもいいくらい簡単?そうですが色々ややこしいこともありますよね。聖書を見てみましょう。今日は復活教会で礼拝担当しますから、高蔵寺教会は代読。でもYoutubeで配信もして、Facebookでも10.20くらいに案内が出ます。お待ちしています!

聖書の言葉マタイ 18:15~20 (新35)

15「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。 16聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。 17それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。18はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。 

19また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。 

20二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」



説教 「 2 + 3 = 6 ?」 徳弘浩隆牧師

1, 教会員マニュアル?

今日の聖書は、「こういう時は、まずこうしなさい。それがだめなら次は、こうしなさい」という具合に、なんだか、マニュアルのように見えますね。

先日、幼稚園の教師研修会の聖書の学びを依頼されて行ってきました。その後は、実務的な研修もありました。こどもがケガをした時の対応で、私も参考になるのでそのまま参加させていただきました。

子どもがケガをした時には、各部屋の壁に下げてある緊急対応マニュアル・シートを取り、それを見ながら、教師を数人大声で呼んで、こどもの状態の確認をし、マニュアルに沿って、AEDを取りに行く人、救急車を呼ぶ人、保護者に電話をする人、救急車の到着に合わせて誘導する人など、書かれてあって、良くできているマニュアルでした。実際にロールプレイをしてみようということで、私も参加しました。しかし、実際に人形相手にやってみると、段取りが難しかったり、分かりにくいところもあり、意見を出し合ってより良いものにしようということになりました。

マニュアルはやるべきことが順番に書いてあり、実はカードになっていてそれをはぎ取って担当者に渡して、それを見ながら行動するのでとても良いのですが、はいだ後にも同じことが書いてあって、どれをやったのかやっていないのかがわかりにくい状態でした。そこで、カードをはがしたところには、別の色で同じ項目があると、実施済みと未実施が誰もがすぐわかるという改善案を私も出しました。

今日の聖書の「マニュアル」に見えるところは、何か改善案があるでしょうか?神様はなぜまた、こんなことを聖書に書かれているのでしょうか?一緒に学んでいきましょう。

2,聖書 

聖書は、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」という設定で、どのようにしたらよいかが、順に書かれています。まず入って二人だけのところで忠告すること。受け入れられなければ、ほかに1-2人連れていくこと。それでも聞き入れられなければ、教会に申し出なさいとあります。それでもダメな場合は、教会としてそれなりの対応をするべきことも示されています。具体的に言うと、「異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」と、つまり、教会員の輪から一時的に距離を置いた付き合いにして、悔い改めが必要な人として対応しなさいということかと思います。

ペテロにイエス様が言われた言葉と同じように、「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と複数形で、つまり、ここでは「教会に対して」、言われています。

イエス様や神様との直接の一対一の関係ではなくて、神様がたてられた教会の機能と、その大切さが示されています。マタイの福音書では特に強調されてるといってもいいかもしれません。

しかし、その教会の秩序と機能は、罪を犯しても悔い改めないものへ誠意を尽くしてもダメだった場合の残念ながら厳しい処置ということだけではありません。「あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」と続くからです。「2+3」は「5」ではなくて、キリストもともにおられる「6」なのです。

3,振り返り 

 先日会議で東京へ行くとき、新幹線でしたから自宅本棚から目についた新約聖書分析の本を手に取ってカバンに入れ、出かけたので、それを読んでみました。学術的にいろいろな説明がされている興味深い書物でしたが、「キリスト教信仰の矛盾」として、指摘しているところがありました。学者として明快で整理され大変参考になるのですが、信仰的には納得できないという面がある方の書物でしょう。「あなた方の罪は許された、というのに、罪を悔い改めよ、という」「ペテロをほめた後サタン呼ばわりする」と指摘し、続いて「事実、キリスト教会は、罪が許された善人たちの集まりに見えないことや、歴史もある」とやんわりとですが厳しく指摘しています。どう考えたらよいでしょうか?ある面、今日の聖書のイエス様の言葉は、それを見越したような、それへのマニュアルのようなお話とみることができるかもしれません。

 キリストを受け入れ、罪を告白し、洗礼も受け・あるいはそれも考えながら学び、神の国へ招かれているのが私たちです。聖書が言う「神の国」は、神様の直接のご支配があるところということで、死後の天国だけのことではないと、何度も確認してきました。

 私たちは、そこに招かれ、そこで生きています。しかし、私たちはまだ、救いの途上でもあり、神様に訓練され、育てられている途上です。終わりの日に、救いが完成すると、キリストの再臨や新天新地が予言もされているのです。

 そこで、この世の命の道のりを歩み続ける際に、「教会」を通して、ゆるしと教えを受け、絶えず悔い改めながら、絶えず新しくされ、生きていく信仰生活を送ることになっています。通信教育や、一人で自宅で済ませるというわけにはいきません。「教会」とは、今日の聖書でもイエス様は「エクレジア」、つまり「集会」「集められたもの」という言葉を使っておられます。集められた人々の中にいることで、「ゆるしと教えを受け、絶えず悔い改めながら、絶えず新しくされ、生きていく」のです。

 そこで、神に対してではなく、「あなたに対して罪を犯したなら」ということも時には起こるのだと、イエス様はあらかじめ言われます。ゆるされているけれども同時に罪びとでもある私たちです。ここで「罪を犯したら」という「罪」は「的を外す」という言葉が語源になっているというその言葉が使われています。

 一生懸命にしていても、良かれと思って一緒にしていても、的を外してしまい、あるいは、それぞれ違う方向に向かって一生懸命にやっていては、ぶつかることや、傷つき傷つけることもあるでしょう。

 方向を修正すること、そのために、正直に話し、また話を聞くことで、悔い改めと和解が起こります。罪を犯しぶつかることも、正直に指摘し悔い改めと和解が起こることも、自分の罪を自覚し、祈り、ゆるし、ゆるされて、信仰的に成長させられることも、「集められた者たち」つまり、「教会」での出来事の中でしか起こらないのです。それが、「教会」の信徒の交流の大切さだと、私は考えさせられます。そして、時にぶつかり、議論し、ゆるし、ゆるされながら、教会で何度も何度も、罪の自覚やゆるしの自覚、愛の足りなさや、すこしは愛せるようになったり、という体験をさせてもらっていると思います。

4,勧め 

 そんな教会に、私たちは招かれています。

 こどもの怪我の時の対応マニュアルでもう一つ大切なことに気づき、私も気づきとして共有しました。最初に見つけて、マニュアルを見ながら対応・指示する人は、年が若かったり、経験がみじかい先生の場合もあるけれど、その人が責任をもって、少し大声を出して、遠慮しないで先輩にも指示を出さないと、混乱したり、時を失ったりしてケガへの対応が遅れることもあるので、その人は遠慮せずにやり、他の人はその時はその人に従いましょう」といいました。何度かのロールプレイの時に、遠慮気味で声が小さく、スムーズでないときがあったからです。

 キリストに従い、教会という新しい家族の中で、一緒に、信仰生活をすることの大切さと、恵みを今日学びました。あなたも招かれています!

 


牧師コラム・今日の写真      



先日、春日井市の国際交流センターから電話があり、通訳を頼まれました。ブラジル宣教師の経験を生かして、通訳ボランティアに登録しているので、その依頼でした。せっかく勉強させてもらったポルトガル語で人の役に立てたら、教会に招けたらとも。ところが、今回は「いいですよ」と快諾した後に分かったのですが、スペイン語で南米の方でした。困っている人がいたらと、少し無理をしてスペイン語と英語でも登録していたのです。だいぶ頭は整理できたつもりですが、スペイン語で話し出すと自然にポルトガル語が混ざったり悪戦苦闘しました。しかし、お役に立てたようで喜ばれました。書類にサインをしてもらい、私もサインして、市の国際交流センターに提出と報告に行きました。「ささえ愛センター」という名前の建物です。何か自分のできることで、「ささえ愛」ができたらいいですね。


2023年9月3日日曜日

礼拝メッセージ 20230903

 「とんでもない」という言葉が今日の聖書に出てきます。びっくりする言葉ですね。でも、「とんでもない」の意味や語源、知っていましたか? わたしたちは、とんでもない間違えを、人生でしていたかもしれません。一緒に礼拝で考えましょう。今日は高蔵寺教会で礼拝担当します。Youtubeで中継し、Facebookでもご案内します。では、お待ちしています!

聖書の言葉

マタイ 16:21~28 (新32)

21このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。 22すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」 23イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」 24それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 25自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。 26人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 27人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。 28はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」


説教 「とんでもないこと、神のこと、人間のこと」 徳弘浩隆牧師

1, とんでもない…

今日の一つのキーワードは、「とんでもないこと」というペトロの言葉です。ペトロが言った「とんでもないこと」とは、その流れの中で、どう「とんでもないことだったのか、それを知ることが今日のメッセージのポイントに近づいていくことになるからです。

さて、この「とんでもない」という日本語も大抵の日本人が誤解している言葉です。その意味は、辞書によるとこうです。

※とんでもないとは、思いがけない。意外である。冗談ではない。けしからん。滅相もない。

意味は間違えていなかった、という方が多いと思いますが、その語源が問題です。

「とんでもない」を「飛んでもない」という具合に、「飛ぶ」という感じで考えると、大きな間違えだったということです。私も以前そう思っていました。でも、もとは、「途でもない」という漢字を使う言葉だったからです。辞書の続きにはこうあります。

※とんでもないは、「途でもない(とでもない)」が変化した語。「途」は「道」「道程」の意味から、「手段」や「物事の道理」も意味するようになった語で、同じ用法の和製漢語には「途轍」「途方」がある。その「途」に否定の「無い」をつけ、「道理から外れてひどい」「思ってもみない」などの意味で「途でもない」となり、「とんでもない」となった。

なんと、びっくりしました。文字通り、「とんでもない勘違い」をしていた、ということになります。

さて、今日の聖書では、ペトロがイエス様に対してこの言葉を使います。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」とイエス様に進言するのですが、イエス様は振り向いてペトロに言われました。「サタン、引き下がれ。」と。

何が一体とんでもないことだったのでしょうか。そして、実はそのペトロの言葉そのものがイエスさまからしたら「とんでもない」ことだったようです。「サタン呼ばわり」されているからです。

わたしたちが生きていくときに、そして教会の信仰生活で、こんな過ちを犯してはいないでしょうか?良かれと思っても、神様から見たら、「とんでもないこと、道理から外れたひどいこと」を考え、しているかもしれないからです。聖書からこの顛末を聞いていきましょう。


2,聖書 

今日の聖書は、「この時から」という書き出しで始まっています。いつもそうですが、こういう場合は、今日の聖書の言葉を聞く前に、それは、「どんな時だったのか」をもう一度見てみると、今日の言葉の大切さや意味をより深く聞くことができます。聖書の一部分だけを「切り取って」自分なりに、または、自分に都合の良いように理解していたなら、意味をはき違えてしまうこともあるでしょう。または、そこに込められた大きな神様の意図を取り違うこともあるからです。

先週の聖書箇所を思い出すとこうでした。イエス様の評判が広がってゆき、人々は、「洗礼者ヨハネ」や昔の預言者「エリア」や「エレミヤ」の再来だと驚き、敬うようになってきました。しかし、「おしい」ということになります。洗礼者ヨハネは同じ時代の人で、メシアが来る前に悔い改めを人々に迫り、準備をする人として注目を集めました。エリアは旧約の時代の預言者の代表者で、マラキ書によるとメシアが来る前に現れると予言されていました。そしてエレミヤも大預言者の一人で、捕囚の際に「契約の箱」を隠して、メシアが来るときに再び現れてそれを取り出すと信じられていたそうです(マカバイ書2.4)。つまりそれらの人々のイエス様に対する評判は、期待されていた偉大な人ですが、メシアそのものではなくて、メシアの準備をする人だということになります。神が送る人というよりも、神が送る人を迎えるための人間の側の一番偉大な人といえるかもしれません。

しかし、イエスさまから問われたペトロは、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたのです。そして、これに続いて、「このときから」始まった出来事の最初が今日の問答です。

イエス様は、ご自分が十字架にかけられ殺されることになるという、十字架の預言を始められます。それに対して、「とんでもないことです」とペトロは驚いてイエス様に食って掛かったのでした。

「イエス様がメシアだ」という信仰告白をして褒められた直後ですが、今度はイエス様に「サタン」呼ばわりされてしまいます。それは、イエス様に言わせると、これこそが逆に「とんでもないこと」だったに違いありません。その理由は、「神のことを思わず、人間のことを思っている」からだと、説明されます。そして、「わたしが十字架の道へと進むけれど、あなたたちも自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」とキリスト者の生き方として勧められるのでした。


3,振り返り 

 イエス様の明確なものの見方がはっきりとしました。「神のことを思うか、人のことを思うか」です。それが、「道理」であり、それから外れるとき、「とんでもない」ことになるのです。

 私たちはどんな生き方をしていますか?しっかりとした信仰告白をした直後でも、神のことではなく人のことを思うなら、失敗してしまいます。キリストの言葉に従い水の上さえ歩いたペトロでしたが、人のことを思い足元を見たときに水に沈みおぼれかけたのもペトロでした。

 礼拝の後半で私たちも「信仰告白」をします。「今日もよい礼拝に参加できてうれしかった」と思い、神様にも「褒められる」出来事の直後でも、同じ過ちを犯してしまうものかもしれません。 


4,勧め 

 いつも、人のことではなくて、神のことを思い、生きていきましょう。「でも、自分のことも大切だけど?」と思うかもしれません。神様のことだけを考えて生きていたら、生きていけるんだろうか。自分も十字架を背負えと言われても、苦しいばかりじゃないか」と思うかもしれません。

 しかし、神様は、私たち一人一人のことを見て、しっかりと準備し、導き、守ってくださいます。背負っている十字架にも、つまり、人生の中のうまくいかないことにも、意味があり、神様の目から見たら私のためだったのだということばかりだと気づくと、安心してお任せして、生きていくことができます。

 今日のイラストを見てみましょう。十字架が重すぎるので、少し切り取って軽くしますよ」と祈り、「ああ軽くなった、神様ありがとう」と繰り返す人は、のちにやってくる大きな試練の時に越えることができません。その十字架を使い、それを橋のようにすれば、大きな地割れを渡っていくことができるのに、彼だけ、渡ることができなくて取り残されてしまいます。

 彼の過ちは何でしょうか? 「とんでもないこと」をしてしまっていたからですね。

 私たちも、神様のご計画やご配慮を信じて、不平不満を言わず、自分で勝手に割り引いたりせずに、歩んでいきましょう。神様が、もっと大きなご計画で、私たちを導いてくださっています。

 キリストは道でもあります。この道に従うなら、「途でもない」つまり「とんでもない」生き方ではなくなります。この方に従い、一緒に信仰をもって歩いていきましょう。



説教メッセージ 20240512

 聖書の言葉  ルカ 24:44~53 と 使徒言行録 1: 1~11 (新213) 1:1-2テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。...