2022年12月31日土曜日

説教メッセージ 20230101

新年おめでとうございます。今年も、神様の祝福をいただいて、恵みと希望の年にしたいですね。さて今日はイエス様の命名がされた日。名前にはいろんな祈りや願いが込められていますね。イエスキリストとは、どんな意味?そもそも、どちらが姓でどちらが名?いや、それは大きな勘違い?一緒に聖書を読んでみましょう。そして、私たちの人生も考えます。コラムでは、ガブリエルとイエス様の両方の名前を持っているブラジル人サッカー選手の面白いお話し。明日は、復活教会かFacebook中継でお待ちしています。

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聖書の言葉 ルカ2:15~21 (新103)

天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。


説教 「イエス・キリストの名前の意味」 徳弘浩隆牧師

1,ゴッドファーザー…

今日の聖書が告げていることは、イエス様がお生まれになった後、名前が付けられた日の出来事です。

私はこの聖書を読んで、「ゴッド・ファーザー」という昔流行った映画を思い出しました。イタリアのマフィアの抗争を描いた少し怖い映画でした。マフィアのボスのことをゴッド・ファーザーと呼ぶことが多いからこの名前の映画になったようです。日本語では「親分」となるのかもしれませんが、ここにも、「親」という言葉が使われていて、マフィアのような集団は、肉親の家族のような、またはそれ以上の「疑似家族」として機能していることは、とても興味深いことです。

さて、私がこの映画を思い出したのは、このゴッド・ファーザーという言葉が多くの場合「名付け親」と訳されるからです。イエス様の名前が付けられたという聖書の記事から、名付け親という事を思い出したのです。

なんと関係のないところから無理やりと思われるかもしれません。しかしこの映画の「ゴッド・ファーザー」という言葉は本来、教会の用語でした。生まれてきたときの本当の父母ではなくて、教会で洗礼を受けるときに信仰的後見人のような意味で生涯面倒を見るという「第二の父母」として立てられる役割の人の呼び名です。「代父母(だいふぼ)」、「代父(だいふ)」「代母(だいぼ)」と訳されることが正しいとされています。しかし、幼児洗礼の時の代父母は、名付け親になることも多かったので「名付け親」の役割もあり、キリスト教の伝統が少ない日本の辞書では「名付け親」と訳されることが多くなったそうです。

ところで、英語のGod Fatherは、肉親の親ではなく、神様が立てた父という意味合いでしょうか。映画の舞台のイタリア語ではPadrino(ぱどりーの)といい、映画もGod FatherではなくてIl Padrino(いる・ぱどりーの)として公開されました。ブラジルではPadrinho(ぱどりーにょ)といい、それぞれPadre(ぱどれ)という「父親」という言葉から来ていて、少し小さなものや、愛情を込めて呼ぶときにつける接尾語の「no(の)」や「nho(にょ)」がついています。

生涯信仰的な成長に寄り添うので、学校の卒業式や成人式、そして結婚式などにも参加してお祝いをすることが多いそうです。私も、教会でお世話していたブラジル人の10代の女の子の洗礼式をしたときに頼まれてPadrinho(ぱどりーにょ)になり、妻がMadrinho(代母・まどりーにょ)になりましたので、「結婚式には必ずブラジルに来てね」と本人やお母さんからも何度も言われ、誕生日に贈り物をしたり、今でもよくメッセージで近況を聞いたりしています。

「でも、これは、カトリックの風習でしょ」と言われるかもしれませんが、ルーテルにもあります。今の私たちのルーテル教会では「教保」という呼びかたで、洗礼の立会人として立ててもよいとされています。

このような伝統で考えると、名前を付けるという事は、そして洗礼を受ける・授けるということは、その時の思い付きや願いだけではなくて、その人の生涯にわたって祈りつづけ、喜びや悲しみにも寄りそうという事を意味しています。

人にはみんな名前が付けられ、そこには、祈りや願いも込められています。イエス様のお名前には、どんな願いや祈りが込められていたのでしょうか?そしてそれは、願いや祈りだけではなくて、その方の特質や使命もあらわされていました。聖書から、聞いていきましょう。

2,聖書

 今日の聖書では、「幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である」とあります。これは、同じルカによる福音書の1章30-33節にある次の天使ガブリエルの言葉です。「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」

 そして、マタイが告げる記事ではマタイ1章20-21節において、ヨセフに対してこう告げられています。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」そしてマタイはこれが、旧約聖書のイザヤ書の預言の実現でもあったと、説明を続けます。

 このようにイエス様は、旧約聖書で予言されていた救い主としてお生まれになった方だと説明され、その名前の意味や、願い、その使命も明らかにされていくのです。

 イエスという名前の意味は、ヘブライ語で「ヤハウェ(יהוה)は救い(הוֹשִׁיעַ hoshía)」を意味する」言葉です。そして、天使はその使命として、ヨセフには「この子は自分の民を罪から救う」と、マリアには「偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」と告げたのです。また、マタイはイザヤ書の預言から「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」とも説明されています。

 イエスという名前は、父なる神様が名付け親、文字通り「ゴッド・ファーザー」で、天使によって伝えられた名前だったのですね。

3,振り返り

さてでは、イエス・キリストという名前の意味はどうなるでしょうか?

私は中学生のころ、図書館の委員をしていました。図書館とクラスの連絡係や図書館の掃除も役目でした。よく行きましたが、偉人伝のコーナーが好きでした。そこには、野口英世、シュバイツァー、ヘレン・ケラー、そしてイエス・キリストという題名のこども向けの本などが並んでいました。科学やキリスト教、そして世界に興味を持っていた私は、それらが好きでした。

しかし、後になって気が付いたのは、「イエス・キリスト」というのは、他の偉人伝の人たちと同じように、苗字と名前と思っている人が多いけれど、そうではない、という事でした。ちょっとした衝撃でした。キリストというのは私たちは知っている通り、救世主、メシアという意味で、苗字ではありません。もともと、あの時代のユダヤでは苗字はなくて、出身地とともに呼ばれることも多く、「ナザレのイエス」と言われたという具合です。ですから、イエス・キリストと呼ぶときには、「イエス様はキリスト・救世主なのです」という信仰告白のような意味合いが含まれているのです。

私達は今日、これらのことをきちんと整理して理解し、イエス様を通して私たち一人一人を赦し、癒し、救おうとされた父なる神様の祈りや願いを、かみしめねばなりません。

クリスマスは1月6日の当方の博士たちがイエス様を拝みに来たといわれる顕現節・エピファニーと呼ばれる時期までになります。まだ、教会の飾りはそれまで片付けなくてもよいことになっていますが、世の中は12月25日が終わるとさっさと片付けて、しめ縄や門松に変えられてしまいました。私たちも先日、明るく暖かい光として、この暗く冷たい世に送られたイエス様のことを、キャンドルを見ながらうれしくお祝いしたのですが、心の中から、さっさと片付けてはいないでしょうか?世界的なエネルギー危機や、戦争の地域では攻撃による停電で、もっと光や温かさが必要とされていますが、私たちの心や社会、そして世界に、もっともっと、温かさや明るさが必要なはずなのにです。

 4,勧め

今日は冒頭で、少し関係のないような、雑学のような、ゴッド・ファーザーの話から始まりました。しかしこれは、そんな私たちにも、大きな示唆を与えています。

マフィアや悪の勢力が、この世の血を分けた家族や親族よりももっと絆の深い大きな家族として、それぞれの国や社会で機能しているからです。

私たちの教会はどうでしょうか?一緒に今日学んできた「神様は救い」という名前をもらったイエス様、私たちに寄り添ってくれたイエス様を信じて、何でも遠慮なく言えて、時には意見が違っても互いを尊重して話し合い、誤りがあれば謝ったり赦したりし合える、大きな家族として機能しているでしょうか?そしてその大きな家族に、もっと多くの方を招いて一緒に生きていこうとしているでしょうか?

ことしも、よろしくお願いいたします。互いに祈り支え合い、生きていきましょう。そして、この社会や、地域、世界のことも一緒に祈り取り組みましょう。あなたも、この大きな家族に、入ってみませんか?祈ってお待ちしています。

 


牧師コラム 

ガブリエルとイエス様? 欲張りな名前の人、知っていますか?

ことしは、ワールドカップがありましたね。寝不足になりながら熱戦を応援した方も多いでしょう。日本代表が思わぬ?快進撃で驚いたり喜んだり、最後は残念だったりもしました。私は、もう一つ、驚いたことがありました。ブラジル戦を見ていて思い出した、ある選手の名前です。彼の名前は、なんと、「ガブリエル・ジェズース!」今日の聖書に出てくる、マリアに現れた天使ガブリエルと、その天使が名前を伝えたマリアから生まれたイエス様、その両方の名前を持っているのです。なんと贅沢な、なんと恐れ多い!私がいたサンパウロ市出身の25歳の選手。プロ入りしたときに与えられた背番号はなんと、33番! いろいろな意味で注目し応援したい選手ですね。


2022年12月25日日曜日

説教メッセージ 20221225 クリスマス

  聖書の言葉 ヨハネ 1: 114(163)

11初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 2この言は、初めに神と共にあった。 3万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 4言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 5光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

6神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。 7彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 8彼は光ではなく、光について証しをするために来た。 9その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 10言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 11言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 12しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 13この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

14言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。




 

説教 「暗闇の中の光」  徳弘浩隆牧師

1,「光」

クリスマスおめでとうございます。昨日はクリスマスイヴの礼拝、そして今日はいよいよクリスマス礼拝です。今年は、カレンダーの関係でちょうど1225日が日曜日になりました。

昨日の夜、ベトナム人の友人からメッセージをもらいました。高蔵寺教会のフェスタを手伝ってくれた二人連れで、教区の青年会にも来てくれた二人です。彼のメッセージは、「Merry Christmas」という言葉とともに、きれいに上がる花火のビデオでした。「どこにいるの?きれいだねぇ」と、日本語教室の仲間たちが聞きました。彼の答えは「名古屋港です。人がいっぱいです。だけどキレイ!」本当にきれいな打ち上げ花火でした。名古屋市に住んでいるのにそんなイベントは知りませんでした。守山に住んでいる彼らの方が詳しいなぁと思いましたが、仲間から聞いたのかもしれません。どちらにしてもクリスマスイヴは教会の礼拝があるので、行くことはできませんけれど。

クリスマスですから、光やロウソクの火についても一緒にいろいろ考えました。

考えてみれば、光そのものを見て役立つとか、楽しむというのは、花火や焚火や灯台くらいかもしれません。焚火も実は、それを囲んで語り合ったり踊ったり、暖を取ったりして、火そのものよりも、その温かさや明るさとその雰囲気を楽しむものかもしれません。

そう思うと、花火は火・または光そのものを見つめ、楽しむものです。考えてみたら、珍しいことかもしれないと思いました。それ以外は、明るさ、温かさ、あるいは熱さで調理をしたりします。明るさも、火も、その光そのものを見るのではなくて、火に照らされるから、人の顔や闇夜の道、夜で文字を読むことができる、反射するのを前提にしている用い方といえるかもしれません。

そういえば、昔、マンガの鉄腕アトムを見ていて、こども心に、「これはおかしいぞ」と思ったことがあり今でもよく覚えています。アトムが、暗闇で、ものを見るときに、その目から光を放ち、ものを照らしているのです。子ども心におかしいと思ったのは、「目がライトになっても意味がないじゃないか。ライトの反射で物の形や色を見ることができるので、それが目のはずだ。ライトが出るのは目じゃなくて、ほかのところにしないとおかしいぞ」と。

今日の聖書は、神様が私たちのために送ってくれた救い主、メシア、またはキリストのことを、この世に光として来られた方として紹介しているのです。

それは、私たちにどんな意味があるのでしょうか?一緒に聖書に聞いていきましょう。

 

2,聖書

今日の聖書はヨハネの福音書の冒頭です。これは明らかに、旧約聖書の最初の書物である創世記を意識して書いていると考えられています。天地創造をされた神様が、暗闇と混とんの中に、「光あれ」といわれて光があった、というところです。神の言葉によって生まれた光、そしてそれに続く世界の万物。それに対して、はじめに言葉があり、言葉は神とともにあり、その言葉によって万物ができたと続くからです。

そして、その言葉のうちに命があり、その命は人間を照らす光であった、というのです。ここで、神の言葉が光としてこの世に来て、人を照らすものとして私たちに送られたのが、イエス・キリストであるという流れになっています。

そして、その、神によって生まれて人のもとへ来た光は受け入れられなかったけれど、それを信じる者には神の異なる資格を与えたのである、と、イエスキリストのご生涯を短く整理しながらまず説明し、イエス様のおられた時代の出来事へと話を進めていくというのが、このヨハネの福音書のスタイルでした。今日の個所の最後は、神の言葉は肉となって、私たちの間に宿られ、その栄光を見た、とクリスマスの出来事までとなっています。

 

3,振り返り

問題や苦しさばかりある私たちの人生や社会ですが、それを解決するために、神様が送られた方、イエスキリストの意味付けと、立場を紹介します。そして、受け入れられなかったことも紹介しています。そんな中でも、この方の名を信じる者は、救われるというのです。

私たちはこれをどう読むべきでしょうか?

私たちの人生は、変わるのでしょうか。変わらないのでしょうか?

冒頭に考えたように、光の意味や働きを考えてみましょう。光は、道を照らします。光で物が見え、文字も読めます。人の顔も、その表情から気持ちも読むことができます。光そのものを見つめるとまぶしいのですが、その光が照らすものは、反射されて見えるものをよく見るという意味や役割があるのです。

キリストは人を照らすための光として来られました。ありがたいことです。暗闇でも道が見え、文字が読め、人の表情もわかるからですね。しかし、忘れてはいけないことがあります。その光は、闇の中に、そっとしておきたいものをも照らし、見えるようにするのです。見たくないものも見えるようになります。

それはちょうど、年末の大掃除できれいにしようとすればするほど、普段気にしていなかった汚れが気になるのと似ているかもしれません。汚れが気になって車を洗う時にこそ窓ガラスの汚れが気になるのと似ているかもしれません。

キリストによって、その光に照らされるとき、助けられもするけれど、まず、自分の心の醜さや愚かさに気づかされもします。それを認めたくない人、そこから逃げ出したい人は、あるいは、そういう時は、光を受け入れないのです。

 

 4,勧め

光そのものがありがたいのですが、光だけを見て何かが解決するのではありません。光に照らされたものをみえるようにしてくれるのが光です。

「キリストが来られた!そして、マジックですべての問題を解決してくれる」というのが、神様の救いの計画ではありません。光として来られた方を通して、神様を知り、そして自分を知ること。その自分の良さも悪さも、素晴らしさも醜さもです。

本来神様が創られた人間の素晴らしさがあるのに、人間の自己中心が人を悪い競争や憎しみに向かわせ、人間の心を、家庭を、社会を、滅ぼしています。神を愛し、人を愛するという聖書の一貫した神様の願いを捨てて、勝手に生きるようになったのが人間、罪びとです。そんな自分の醜さと、神様の素晴らしさ、その愛の大きさを知らされ、改心して立ち変えさせるために、来られた方がキリストなのです。

デイビット神学生が高蔵寺教会で最初のころ説教をしてくれた時、こんなことを言われました。「私たちがここにいるとき、イエスさまもおられます。だから、礼拝に出ている私たちの人数だけじゃなくて、もう一人、イエス様がおられることを忘れないようにしましょう」と。そして、あとでその日の礼拝出席簿を見てみると、誰かが、合計欄の数字に線を引いて消して、一人増やしてくれていました。そのわきに「イエス様」と書いてくれていて、とっても温かい心になりました。説教をよく聞いて、よく理解されて、少しいたずら心で数字を書き換えてくれたんだなと。

でも、少し意地悪な私は後でこんなことを言いました。「僕ならねぇ。それも線を引いて消して、もう一人数字を足すよ。その横に、『悪魔』って書いてね」と。聖書研究会の時に話してみんなで一緒に笑いました。

私たちは、神様に創られましたが、神様を離れて罪の心も持っています。その悪い心を動かすものを、あるいはその動きを昔から、悪魔とかサタンとか考えていたともいえるでしょう。もちろんそういう存在や、悪霊の働きもあるでしょうが、そういう自分の中にいる罪の心、自分を動かしてしまう働きを、悪魔と考えてもいいかもしれません。

放っておけば私たちはいつも、そちらに引っ張られます。そこに、光として来られ、すべてを明るみに出し、道を示してくれる方が、イエス・キリストなのです。

私たちには、光が必要です。そんな方を、この読みお迎えしたのがクリスマスなのです。信仰を持った私たちも、たびたび、闇に引き戻されてしまいます。もう一度、キリストを心に迎えて、この光をいつも携えて生きていきましょう。そして、まだ闇の中にうずくまっている人に、あるいは時々あるそんなときの自分に、光を手渡しする役割も願われています。そんな場に、そんなコミュニティの場に、教会がもっとなりますように。

2022年12月24日土曜日

説教メッセージ 20221224 クリスマスイブ

 聖書の言葉 ルカ 2:120)(103)

21そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。 2これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。 3人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。 4ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。 5身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。 6ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、 7初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。)

28その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。 9すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。 10天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 12あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」 13すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。

14「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」

15天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。 16そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。 17その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。 18聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。 19しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。 20羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。




 

説教 「『もう』、怖がらなくてもいいよ」

 徳弘浩隆牧師

1,「恐れるな」…

クリスマスおめでとうございます。今日はいよいよクリスマス・イブですね。教会で、ご家庭で、それぞれ、大切な時間を過ごしておられると思います。

でもどうでしょう?今日は、朝から大雪。そして新型コロナもまた流行しています。今日は大雪の影響で、新型コロナの影響で、来られなくなった方もおられます。とても残念で寂しいことです。わたしも、ブラジルに青年信徒宣教師ボランティアで来てくれていた熊本の教会メンバーが来る予定でした。サンパウロで家族のようにしていましたから、私たちのことをブラジルの両親と呼んで、今回も「里帰り」と称して泊りがけで来る予定でした。しかし、飛行機が欠航になり、あきらめたと朝メッセージがありました。久しぶりの再会がだめになって、残念でした。なんだかぽっかりと寂しくもあります。

「神様クリスマスくらい、クリスマスだから、何とかお願いしますよ」と言いたいけれど現実は難しいことだらけ。家族や知り合いとの再会や、教会での温かいクリスマスが持てないこともあります。戦争もあって大混乱の世の中です。クリスマスなのに、かみさまがなんとかしてくれないのでしょうか?この現実は、どうしてでしょうか?


2,聖書

今日の聖書はルカの福音書のイエス様がお生まれになった出来事が読まれました。毎年聞いている話です。こどもたちや、先日驚いたのは高蔵寺教会のこひつじ幼稚園の卒園生ママさんたちも、ページェントの歌や役柄をまだ覚えて歌い、演じ、助けてくれたことでした。

でも、このクリスマスの出来事は、今の問題だらけの社会や世界に対して、いったい何だったのでしょうか?もう一度考えてみましょう。

大切なことは、1)まず、泊まるところが無くて、いわゆる馬小屋で生まれたという事。2)そして、天使たちは野宿をしていた羊飼いたちに知らせに行ったこと。3)そしてその後の彼らの行動。これらが今日の神様のメッセージです。

1)       泊まるところがない、居場所のなさです。私たちも、時折感じることがありませんか?気の弱い私は、パーティーに呼ばれたりすると、一人で居心地が悪くなることがあります。そもそも、学校や、家庭や、職場で、居場所が見つけにくいことがあります。誰にもあるでしょう。逆に、居場所はあるのに、だれも来てくれない、いてくれない寂しさです。クリスマスにお客さんが来ると楽しみにして、忙しく準備をしたのに、大雪で飛行機が欠航。来られなくなった部屋を見るのは寂しくつらいこと。私たちの人生にも、そんなときがあります。キリストは、そんなところから、人としての生涯を始められたのです。この方なら、私の寂しさや、つらさをわかってくれるのです。

2)       天使たちは、羊飼いに知らせに行きました。行き先を間違えたのでしょうか?エルサレムの神殿や偉い人にではなくて、人々からさげすまれていた羊飼いたちでした。居場所のない人たちに、神は使いを送り、最初にキリストに会いに行かせたのでした。私たちも、居場所のなさ、つらさや、自分の人生や仕事に意味を見出しにくくなる時、神様は使者を送り、何かを伝えようとしています。

3)       そして、羊飼いたちはキリストに会いました。それは、そのメッセージを、他人事として聞いたのではなく、「さあ、ベツレヘムに行こうではないか」と行動したのです。たくさんの羊はどうしたのか、それほどたくさんいなかったのはは語られていませんからわかりませんが、尋常ではなかったことかもしれません。船や網を置いてキリストに従った最初の出来たちの話はよく聞きますが、この羊飼いたちもすぐそばではなくて、「ベツレヘムに行こう!」といったくらいですから、それなりの距離があったのかもしれません。


3,振り返り

私達はどうでしょうか?

居場所のなさや、だれもそばに訪ねてきてくれない寂しさを感じるとき、キリストなら私の気持ちを知ってくれると、キリストを見上げましょう。

仕事や今の立場に不満や不安を感じるときに、そんな自分に使者を送りメッセージをしてkる得る神様の声に耳を澄ませましょう。

そして、「ああ、そうですか」と他人事としてではなく、勇気を出して、何かを始めてみましょう。

その時、お生まれになったキリストに会うように、私たちに心にも、キリストがお生まれになってくださるのです。


 4,勧め

「恐れるな。私は、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」という言葉を聖書から聞きました。しかし、私たちの人生は、依然として、恐れや、怒りや、心配でいっぱいです。あの「恐れるな」という言葉は、あの日のあの羊飼いたちへの言葉であったのと同時に、その後のべ手の人へのメッセージでもあったのに、です。私はどもの頃、の天使の役を劇でしました。母が父の反対で教会に行けなくなっていたころ、近所の家庭集会には週日に行っていました。そこで、手作りの聖誕劇をしようという事になったのです。私は小学校2-3年だったと思います。白いシーツを着せられ、頭に星かわっかをつけて、兄と二人でこのセリフを覚えさせられました。

ブラジルへ行くとき、ブラジル人がわかりやすくて覚えやすい名前も塚たらいいよと、先生に言われてつけた自分の名前は、迷わず、「ガブリエル」でした。

神様は、問題だらけの社会や世界に、使者を送って、悪い奴をやっつけてしまえばいいのに、どうしてそれをしなかったのでしょうか?天使の行き先は、マリア、ヨセフ、そして羊飼いたちでした。

それは、地上の王様のように力やお金で人々を支配するのではなくて、一番弱くて、つらい、居場所のない人の側にキリストを送り、その愛によって社会の常識をひっくり返し、愛によって収めるためでした。

ではなぜそれが実現していないのでしょうか?

それは、それを聞いて、出会っている私たちが、「ストーリー」としてクリスマスを楽しみ経験しているだけだからです。

「怖がらなくてもいいよ」と言われたのは、「もうこれから先、ずーっと、怖がらなくてもいいよ」というはずだったのに、私たちは他人事として聞き置いているから、何も変わらないのです。

今日の式次第の表紙の絵を見ましょう。その言葉は、「私はクリスマスに祈ります、毎日、幼子のキリストがあなたの心に生まれてくださるように」

クリスマスに、キャンドルをともしています。しかし、数日前に衝撃的な言葉を聞きました。「もうすぐクリスマスです。クリスマスにはキャンドルをともすでしょう。私たちもそうします。しかしそれは、先生の聖で、停電しているからです。」と訴えたのは戦時下のウクライナの大統領でした。

私たちの愛と平和はどこに行ったのでしょうか?キリストがもう一度私の心に生まれてくださるよう、すぐ忘れてしまうから、毎日生まれてくださるように、そう祈りましょう。神様の愛と平和が私に、そして私を通して多くの人に広まりますように。アーメン

2022年12月18日日曜日

礼拝案内 20221218

 今日は、David Nelson神学生の説教で、高蔵寺教会では信徒が代読をして礼拝を持ちます。私とDavid神学生は名古屋の復活教会で礼拝担当をします。Facebookで私が中継します。よろしければ是非、ご覧ください。

説教題:「導かれた者として」 デイビット・ネルソン神学生

聖書の言葉 マタイ 1:18~25(新1)

1:18イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。 19夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。 20このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 21マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 22このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。23「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。 24ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、 25男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。



2022年12月11日日曜日

説教メッセージ20221211

 マタイ 11: 2~11(新19)

11:2ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、 3尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」 4イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。 5目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。 6わたしにつまずかない人は幸いである。」

 7ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。 8では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。 9では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。

10『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』

と書いてあるのは、この人のことだ。 11はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。


説教 「福音(Good News)を告げ知らせる」

 徳弘浩隆牧師

1,評判と現実の違い…

昨日は、教区の青年会と外国人メンバーの方々のクリスマス会が開かれました。場所は高蔵寺教会。いろいろな方と一緒に、礼拝をして、食事をして、交流ができて、とても楽しい回でした。高蔵寺教会の皆さんからも、差し入れやお手伝い、参加もあり、ありがとうございました。

その会が終わって、一人の外国人メンバーに段ボールの箱をふたつ渡しました。それは、彼女がネット通販で買うものを私が代わりに買ってあげたものです。箱を開けて、一つずつ、ちゃんと来ているかどうか、確認しました。間違えていたり、足りなかったりしたらいけないからです。なぜなら、彼女は日本で3年働いて、ようやく一時帰国をするので、あれやこれや、お土産を買っていたのです。国の家族やお友達にと、いろいろ買っていましたが、最後に、通販で探して買ったのです。

もし届いていないものがあったり、間違っているものがあったら、急いで催促したり交換しなければなりません。なぜなら、もう今週の水曜日に飛行機に乗るからです。荷物を見ていて、二つのことに驚きました。ひとつは、頼んでいた日本の掛け軸が思ったより小さすぎたことです。そしてもう一つは、トートバッグが頼んだ数より一つ多かったことでした。

インターネットの買い物で気を付けないといけないことは、写真を見ても大きさがきちんとわからないこと。もちろん、寸法は書かれていますが、そこまできちんと確認せず、自分の先入観で注文して、現実とのギャップに驚くことです。

そこで、人の評判が大切です。とてもよかったとか、少しここに問題があったとか、そんなコメントを書く欄があります。それをよく見て、自分の判断に役立てることも大切です。

これは、ネット通販だけではなくて、私たちの人生にもよくあることです。自分の期待や思い込みと現実が違うこと。人の評判に頼ってみて、物事を決めることがあるでしょう。それで、うまくいくときと、失敗することもあります。今日の聖書は、そんな人生の出来事、しかもその中での一番大切なことを、教えています。

2,聖書

今日はアドベント第3主日。クリスマスを待って準備する3回目の日曜日です。聖書の物語は、まだ、クリスマスの物語ではありません。どんな気持ちで準備をしたらいいかということを考える期間なので、それに気づかせるような出来事が選ばれています。

洗礼者ヨハネが、イエス様のところに弟子をよこして質問させています。その内容はずばり、「あなたがみんなが長い間待っていたメシア・キリストでしょうか?それともほかの方を待つべきでしょうか?」と単刀直入な質問でした。

洗礼者ヨハネは、「時が近づいた。もうすぐ、ようやく、待っていたメシア・キリストが来られるから、悔い改めで準備をしなさい」と説教をしていました。たくさんの群衆が集まり、悔い改めて、罪の悔い改めの洗礼を受けていました。しかし、イエス様が登場してこられ、いろいろなことをし、語られた後、「この人だろうか、それとも違うんだろうか?」と迷い、悩んだのです。

イエス様は答えました。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。 わたしにつまずかない人は幸いである。」と。

そしてその使いにではなく、群衆にこうも言いました。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。」と。荒れ野は、洗礼者ヨハネが悔い改めを迫る説教をし、洗礼者ヨハネに、そしてイエスさまにも出会った場所だったのです。

3,振り返り

これは、今日の私たちにも、問いかけられています。「あなた方は、何を見に、そこに行ったのか?」と。何を見に、教会に来たのか? 何を求めて、聖書を読んでみたのか?とも聞こえます。

クリスマスで、街はにぎやかになり、教会も忙しく、また楽しくもなります。家庭ではクリスマスの支度をし、楽しい日々がもう始まっています。

そんな私たちに、「何を見に、そこに来たのか?」とイエス様は問いかけておられます。

クリスマスを迎える準備をしていますが、私たちは、間違えなく、準備ができているでしょうか?

それは、今のクリスマスの時期だけの話ではありません。神様を、キリストを、きちんと理解し、間違えなく受け入れているだろうか?これは一生の問題です。私たちの人生の旅路で、迷いや、失敗や、挫折もあるからです。もちろん、うれしいことや成功もあるでしょう。しかし、本当の神様を、そのご計画を知ることがなければ、ただその時々の出来事に振り回され、人生はただの、迷い道になってしまいます。

何を見ればよいのでしょうか?それへのイエス様のお答えはこうでした。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」

誰を信じるべきか、誰についていくべきか、迷っていた先生者ヨハネに対して、「見たり、聞いたりしたことをもう一度よく考えてみなさい」ということでした。

旧約聖書で予言もされていましたが、その通りのたくさんの奇蹟をイエス様はなさり、人々は見ました。そして、貧しいものや苦しむものに寄り添っておられました。また、イエス様が語られたたくさんの言葉や説教を聞き、人々は驚かされ、反省させられ、慰められてもいたのです。「それが、判断の根拠だ」とイエス様は言われます。

 4,勧め

私たちは、何を聞いたでしょうか。何を見たでしょうか?聖書の言葉、それを解説する説教や聖書研究会。教会の仲間の声。そして、人々の評判。そのなかに、福音を聞いたでしょうか?福音はエヴェンゲリオンとギリシャ語で聖書には書かれています。日本語にしてもむつかしい言葉ですが、英語でGood Newsと訳されると、わかりやすくなるかもしれません。イエス様が語られた、神様の救いの言葉、出来事も含めて、それらを、「Good News、良い知らせ」といいます。私の耳には、心には、それが届いているでしょうか? 反省、ゆるし、救い、慰め、助け、促し、これらのことを、神様から聞いているでしょうか?それが大切だと、イエス様は言われます。

ネット通販をするときに、思い込みや、勝手な期待で、届いた箱を開けたときにがっかりすることがありますが、自分の期待を勝手に神様に押し付けてもいけません。人々の評判を参考にすることも大切ですが、自分で、よく見て考えて判断することも大切です。

楽しいクリスマスの準備とともに、ちゃんと、キリストと、神様と、出会う準備も致しましょう。自分の思い込みや期待の押しつけではなくて、神様の言葉を素直に聞いてみましょう。良いクリスマスになりますように。


2022年12月8日木曜日

12月9日夜は、Zoomで会いませんか?

「外国にルーツを持つ人々と共に」というコンセプトの集会と、音楽ライブの集会に、ゲストとして招かれ、少しだけおしゃべりします。教会メンバーのインドネシアから来ているLelianaさんもおしゃべりしたり、歌ったりもします。
どうぞ、聞いてみませんか? お待ちしています。

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ミーティングID: 873 1336 3265
パスコード: 819835
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今年もやります!ルターナイツ♪オンラインvol.13
【日時】
2022年12月9日(金)20:00〜
※zoom入室は19:45〜OK
【テーマ】
からふるな仲間たち
〜外国にルーツを持つ人々とともに〜
日本では外国にルーツを持つ様々な人々が生活しています。
彼らはどのような生活を送っているでしょうか?
日本で生活する難しさ、問題点はなんでしょうか?
私たちはどのような支援ができるでしょうか?
トークと音楽を楽しみながら社会貢献!!
一緒にからふるな時間を過ごしましょう!
たくさんのご参加を待っています!!!
【トーク】
李 明生(日本福音ルーテル田園調布教会牧師)
下川 正人(JELA 難民支援担当なんみんフォーラム副代表理事)
【ゲスト】
徳弘 浩隆(日本福音ルーテル高蔵寺教会・復活教会)
その他、からふるなスペシャルゲストがジョイン!?
【音楽】
The Beagles/ノコギリソウ
【参加方法】
昨年同様、zoomミーティングを利用します。
下記 URL ↴ ↴ ↴ からご参加下さい。
https://us02web.zoom.us/j/87313363265...
ミーティングID: 873 1336 3265
パスコード: 819835
※スマートフォン・タブレットでご参加の方は
Zoom アプリをインストールの上、ご参加下さい。
※アプリを最新版に更新してからご参加いただくと
より快適にご視聴頂けます。
【社会貢献プログラム】
●JELA
難⺠⽀援活動のための寄付にご協⼒ください。
寄付の際に「難⺠⽀援活動」と記載してください。
(クレジットカードの場合は“□難民支援活動”をチェック)
https://www.jela.or.jp/donate/donate-online/
●EIWAN 福島(福島移住女性支援ネットワーク)
外国人住民(特に移住女性)支援活動のためにご協力ください。
郵便振替口座:00920-0-144820
口座名称:福島移住女性支援ネットワーク

 

2022年12月3日土曜日

説教メッセージ 20221204

 今日は、用事があって中部国際空港・セントレアに行ってきました。近々帰国する外国人メンバーがいるのでそのお見送りの下見と、3年ぶりに開催のクリスマス・マーケットで買い物に。コロナからの久しぶりの再会でまだ以前の本格的なものではありませんが、街はもうすっかり、クリスマスモード。クリスマスを迎える準備はOKですか? でも、それは、だれのための準備でしょうか?一緒に礼拝で考えてみましょう。明日は、復活教会で説教をします。Facebook中継はしますので、教会か、ネット上でお会いしましょう。


聖書の言葉 マタイ 3: 1~12(新3)

3:1そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、 2「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。 3これは預言者イザヤによってこう言われている人である。

「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」

4ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。 5そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、 6罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

7ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。 8悔い改めにふさわしい実を結べ。 9『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。 10斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。 11わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 12そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

説教 「さあ準備!誰のため?」 徳弘浩隆牧師

1,ようやく年末調整…

先日教会事務局から、催促のメイルが来ました。「年末調整のデータが、締め切り日までに手続きされていません。お急ぎ宜しくお願いします。」という内容でした。

「ああ、また年末のあれだ。忙しいのに面倒だなぁ」とつぶやきながら、パソコンに向かいました。今は昔と違って、書類に書き込んでいくのではなくて、パソコンでパスワードをもらったところに記入していくと出来上がりという便利なやり方になってはいますが、やはり面倒です。一年に一度のことですし、むつかしい専門用語?やカテゴリ、保険の払い込み賞などを探すこと、記入することは、つい後回しになります。

そもそも、この年末調整とはなんでしょうか。お詳しい方もおられると思いますが、早く言うと、所得税の払い過ぎや、少なすぎた具合を、年末に調整するという事ですね。自分で加入している生命保険料や住宅ローンなどは所得税計算の際に控除対象になるので、証明書とともに再計算するという具合です。牧師は住宅ローンなどありませんから、少しの生命保険くらいが対象でしょう。

さて、教会の暦で、一年が終わり、新しい年を迎えたわけですが、私たちの人生も、一年の区切りです。

税金の関係で、年末調整をするように、私たちの一年、特に、信仰生活の年末調整も必要です。

たくさん払いすぎたか、払い方が少なすぎたかという事は、神様との関係で見たらこうなるでしょう。

頑張ったけれど、期待したほどの「恵み」や「守り」をいただけただろうか、と考えるかもしれません。それとも、たいしたことはしていないのに神様から多すぎるほどの恵みをいただいたと感じるかもしれません。

一年を終える前に、信仰の年末調整をし、新しい年の準備をしましょう。どんな準備でしょうか?聖書はどう教えているでしょうか?

2,聖書

今日の福音書はタイの3章からです。今私たちはクリスマスの準備をしていますが、今日の聖書個所ではすでにイエス様はお生まれになっていて30歳ほど。そして、そのころ活躍していた洗礼者ヨハネがキリストを迎える準備を人々に訴えていました。その時引用した聖書(つまり私たちが今持っている旧約聖書)の言葉は、イザヤ書の40章3節でした。

彼はこういいました。「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。 これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」

それを今日私たちも聴きました。当時、「キリストを迎える準備をせよ」と洗礼者ヨハネが語った言葉は、今、今年、クリスマスの準備をする私たち、つまり、キリストをもう一度心に迎える準備をしている私たちに、呼びかけているのです。「道を整え、まっすぐにせよ」と。

これを聞いて、私たちは思います。自分の今までの曲がりくねった、生きて来た道を。思い通りにいかず迷い遠回りし、また、何かから逃げて遠回りもした道を。

「それを悔い改めて、まっすぐに生きよう」と思うかもしれません。「心を入れ替えて、今からは正直に、愛がある人生を、まっすぐに生きよう」と。

しかし、それはある意味では間違っています。

「今までの曲がりくねった遠回りもした道をやめて、まっすぐに生きたらいい。その道を、一生懸命に歩いていけば神様に到達するんだ」と思うなら、間違いという事です。

どうしてでしょうか。それは、もともとのイザヤ書の方を読んでみるとよくわかります。こうあるからです。「主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」

このまっすぐにすべき道は、自分が頑張って神様に到達する近道を作るのではなくて、神様が私を救うために飛んできてくれる道を準備するのでした。私のための道ではなくて、神様が来られるための道でした。

それはもちろん、悔い改めです。正しい生き方です。そして、神に帰ることです。

3,振り返り イザヤ書をちょっと勉強

旧約聖書のイザヤ書は面白い書物です。全部で66章。少し大胆にその特徴を言うと、前半の39章までは罪の糾弾と裁き、滅ぼしの預言が多く、それでも神が王を送るから救いはあるとも説きます。そして40章から急に調子が変わって、救いと新しい希望が語られます。そして実は神が送る王は苦しみを受けると不思議な予言があり、それ故に人々は救われると続くのです。

これはちょうど、39巻からなる旧約聖書と、27巻からなる新約聖書、合わせて66巻からなる聖書全体の様子とも似ているとよく指摘されます。神様のなさること、残された聖書は不思議な予言と約束になっていると思わされもします。その、調子が切り替わるところ、40章の最初を洗礼者ヨハネは引用して人々に悔い改めとキリストを迎える準備をするように迫りました。その言葉を今日私たちは聞いたという訳です。そしてこの少し前でこう語ります。「慰めなさい、もう苦役の時は過ぎたという事、犯した罪に倍する報いをすでに受けたから」と。いままで、自分の罪のために苦労したけれど、もういい、十分苦しんだから、助けようという神の声です。

 4,勧め

私たちの人生はどうでしょうか?私の今年一年はどうでしたでしょうか?年末調整の話から始まりましたが、神様との関係はどうでしょうか?まだ、調整しないといけないなら、致しましょう。よく祈り、自分の罪を正直に見つめ、神様にお任せすることです。洗礼を受けた方はもう一度それを思い出し、まだの方は、しっかりと見つめてみましょう。

「十分頑張った。十分苦しみも味わった。もういいよ、助けに行こう。」と神様が言われているのですから、私たちがすることは、その方が来てくれるよう、道をしっかりと準備することですね。それを怠ると、また裁きと苦しみが続くとも洗礼者ヨハネは教えています。

神様が、そして神様が送られたキリストが、私のもとに本当に来てくれるよう、道を開けて、お待ちしましょう。準備は、自分のためではなく神様のため。しかしそれは、すべて、私たちのためでもあるからです。教会につながり、共に生きていきましょう。


説教メッセージ 20240512

 聖書の言葉  ルカ 24:44~53 と 使徒言行録 1: 1~11 (新213) 1:1-2テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。...