2023年11月26日日曜日

 

聖書の言葉 マタイ 25:31~46 (新50)

31「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。 32そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、 33羊を右に、山羊を左に置く。 34そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。 35お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 36裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』 37すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。 38いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。 39いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』 40そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

41それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。 42お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、 43旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』 44すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』 45そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』 46こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」




説教「あの時の あの人は…」徳弘浩隆牧師

1、毎日、いろんな人と「会いますね」

今日は、教会のカレンダーでは一年の最後の日ですね。そして、聖書は、最後の審判・終わりの日に神様から裁かれる日のことが書かれているところです。

裁かれるというと、罰を受ける日のようですが、罰を受けずに褒められることもあります。試験だと、合格するか、失敗するかという分かれ目の日でもあるということです。

試験ならやり直しもできますし、仕事だって途中で変わることもできます。失敗しても、やり直していくことができますから、安心していいと思います。でも、人生は?聖書はどう教えているのでしょうか?

2,聖書 

今週の聖書は、今まで読んできた話の続きです。「10人のおとめ」の話があり、主人のお金を任されたしもべたちのタラントンの話がありました。それはある意味、女性向けにわかりやすい話、そのあと男性向けにわかりやすい話ともいえるでしょう。その続きが今日の話で、全ての人に当てはまるまとめの話と言えるかもしれません。

この後、聖書が告げるイエスキリストのご生涯は、十字架に向かっていかれますから、その前のまとめと覚悟とそれに立った勧めのお話と聞くことができるでしょう。

すべての人は、終わりの日に、神のみ前で裁かれるのだという具合です。その合否判定の基準、秤は何でしょうか?

それは、「神を愛し、隣人を自分のように愛せよ」という、旧約からの神様の一貫した教えに基づいていた生き方をしていたかどうかということです。「天地創造の時から約束されている国を受け継ぐ」という言い方で、それがあらわされています。

神を愛し、隣人を愛するのは、心の中だけではありません。心が伴わない行いだけでもありません。それは、相手が神様なら愛するけれど、嫌いなこの人は愛さない、とかいう人の目の判断ができない状況をイエスキリストは今日のたとえで出されているからです。

「こんな人は、放っておこう」「自業自得だから」とか、「知らない人だし」とかいう理由は成り立ちません。「こんな小さな人、誰からも相手にされないような、見向きもされないような人にしたことは、私にしてくれたのと同じなのだ」と言われるからです。

「神を愛し、隣人を愛する」なら、誰に対してでも寄り添い、愛の行いをするはずだというのです。

そして実は、イエスキリストの地上でのご生涯は、この後、「敵をも愛する」「神に見捨てられるような状況でも神を愛する」という十字架に進んでいきます。そこまでして初めて、罪深い私たちは、本当の神の愛と自分の罪深さを思い知らされたのです。その十字架と復活に従う生き方を通して、ゆるし救われる新しい命をいただくことになりました。それがキリストによる救い、新しい命、天の国を受け継いだものの生き方ということになります。

3,振り返り 

今日の聖書を読むと、「あ、だったら、あのときのあの人は…」と思いますね。あの人に良くして上げたから、きっと神様は覚えてくれてるだろう。あの時に助けてあげたあの人は、キリストだったかもしれない。助けてあげておいて、よかった。と思うと安心しますね。

でも、それで終わりではありません。「ということは…」と思い出すこともあるからです。反対のケースですね。「ということは、あの時、いじわるしたあの人は。あの時赦してあげなかったあの人は…。あの人がキリストだったとしたら、どうしよう!?」という具合です。そうなると、「いや、あれには訳があったんです。」「ちょうど嫌なことがあった後で、機嫌が悪かったんです。お金もなかったし、人を助けたり赦したりする余裕は財布にも心にもありませんでした。赦してください」とキリストに言わねばならないかもしれません。

最後の審判の日には、今までの人生のすべてをご存じの方が、それらを吟味されるというのです。

何人と出会い、何人と仲良くなり、何人に好かれ、何人に嫌われただろうか。何人に良くして上げ、何人にひどいことをしただろうか?

今日は、召天者を覚えて祈る礼拝でもあります。そして、こども祝福礼拝でもあります。小さな子供の命とこれからの一生の祝福を祈り、すでに天国にお送りした人のことを思い出しながら途に礼拝をします。その中間にいるのが私たち大人の一人一人の、今の人生です。

4,勧め 

一年の終わりに際して、そんなことを振り返り、悔い改めと、新しい一年を見つめましょう。

人助けは大切ですが難しいことでもあります。目の前の一時的な助けをすることが逆にその人の自立や自由な生き方を妨げることもあるからです。心の開放や赦しや和解、そんな神様との人生の関係を回復しなければ本当の救いにはなりません。また、個人の限界もありますから、お助けをしながら、行政や福祉におつなぎして、生活再建や持続可能な人生に載せて差し上げることも大切でしょう。

失敗しても、生まれ変わることができます。それが、洗礼です。でも、そのあとも何度も失敗をし、罪深い生き方をしてきた。それでも大丈夫です。何度でも悔い改め、何度でも生まれ変わることができます。一年ごとの教会のカレンダーのサイクルがあるのは救いです。それが終わるごとに、一年を振り返り、やり直しが許されているからです。そして、毎週礼拝で、罪の告白をして赦していただき、聖書の言葉を聞き、祝福されて教会から出てゆきます。このサイクルも救いです。そして聖書の言葉によれば、私たちは「日々新たにされる」のです。

「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」コリントの信徒への手紙二の4章16節の言葉です。神様と一緒に生きていきましょう。

 


牧師コラム・ 今日の写真・平和を願う 


西教区の西中国地区の教会の集会に講師として呼ばれ、ブラジル伝道のことや、帰国後の外国人伝道や彼らとの教会の宣教の働きをお話ししてきました。帰りに広島教会によって、教会や幼稚園行事で奉仕する時間もいただきました。「日本に来たからにはぜひ一度広島に行かねばと思っていた」と、ブラジルとインドネシアのメンバーも自費で参加してくれました。彼らと平和公園で写真を撮り、18年前の写真を思い出しました。

同年で友人のパレスチナのベツレヘムのルーテル教会牧師を呼んでお連れした時の写真です。早速彼に、今回の写真と「今日は、こんな顔ぶれであの場所に行ったよ。パレスチナの本当の平和を祈ってるよ!」とインドネシアの歴史にも触れながらメッセージを送りました。

あの時の写真には原爆投下をした国・アメリカのルーテル教会牧師、紛争が続くパレスチナの牧師、そしてわたしたちです。今回の写真は、私と広島の牧師、それに遠い地に行った移民の子孫の日系ブラジル人、そしてインドネシアの姉妹。インドネシアは日本に原爆が落ちて終戦があり、それで独立したという歴史を持っていて、彼らにも大切な日・大切な場所です。でも、今私たちは互いに許し許され、教会の家族として生きています。同じキリストの体の一部分です。

ミトリ牧師からすぐに返事がきました。「Wow.大好きな二人の牧師!実は、来週日本の音楽家と平和キャンペーンのネット上のイベントをするんだ。ぜひ先生も来てくれ!」と。


2023年11月19日日曜日

礼拝メッセージ 説教 20231119

先週、外国メンバーが卵を畑に「植え」ました。「ちょっと植えてきます」と。私はびっくりしました。冷蔵庫にあった卵が少し古いかなと心配になり、もったいないけれど捨てることにしたのですが、ゴミ箱や流しに捨てるのではなくて、「畑に植えたらいい」と言いだして、行ってくれたのです。肥料の代わりになるからという事で。「畑から目が出てヒヨコが生まれたらどうしよう?」と、4か国の外国人メンバー楽しく大笑いしました。今日の聖書は、お金を土に埋めた人の話です。お金の木が育ってお金が生(な)ると思ったのでしょうか?どんなことでしょうか? 今日は復活教会で礼拝担当します。高蔵寺教会では代読してくださいます。Youtube配信も予定しています。お会いしましょう!

聖書の言葉

マタイ 25:14~30 (新49) 

14「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。 15それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、 16五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。 17同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。 18しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。 

19さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。 20まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』 21主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』 22次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』 23主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』 24ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、 25恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』 26主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。 27それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。 28さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。

 29だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。 30この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」



説教「使えば使うほど 増えるものってなに?」徳弘浩隆牧師

1、卵の芽が出る?

先週、外国メンバーが卵を畑に「植え」ました。「ちょっと植えてきます」と。私はびっくりしました。冷蔵庫にあった卵が少し古いかなと心配になり、もったいないけれど捨てることにしたのですが、ゴミ箱や流しに捨てるのではなくて、「畑に植えたらいい」と言いだして、行ってくれたのです。最初は意味が分からなかったのですが、畑に「いける」というか、埋めるという事でした。肥料の代わりになるからという事で。「なるほど、まだ自然がたくさんあるアジア国で育った若者は違うな」と思わされましたが、「畑から目が出てヒヨコが生まれたらどうしよう?」と、4か国の外国人メンバー楽しく大笑いしました。

今日の聖書は、お金を土に埋めた人の話です。お金の木が育ってお金が生(な)ると思ったのでしょうか?どんなことでしょうか?

2,聖書 

今週も先週に続いて、「天の国」のたとえです。そして、マタイの福音書終盤の25章に出てくるこの話は、教会のカレンダーが一年の最後に向かっている今日読まれるなかで、先週同様、一年の終わり、世の終わり、いつか来るこの世での自分の人生の終わりも見つめることになります。

先週は油が十分にある5人と切れた5人の女性の結婚式の時のたとえでした。ただ待つのではなくて、目を覚まして、そして予備の油も準備してという事でした。予備の油は、聖書とも、聖霊とも、信仰の友とも理解して良いかもしれないと、読みました。

今日は、それぞれ違った金額のお金を主人から預かった3人の僕たちのその後の行動とその結果が話されます。続きもののたとえ話の構成ですが、結婚式での女性たち、そして仕事を任された男性と思われる僕たちという、自分に置き換えてわかりやすい設定で話をされるイエス様のお話は、聞いているものを「はっ」とさせたことでしょう。

5タラントン、2タラントン、そして1タラントンの財産を預けられた3人でした。それぞれ、商売をして二倍に増やした最初の二人は褒められて、より多くのものを任されました。しかし、1タラントンあずかった人は穴を掘って土に埋めたのです。それは、隠すためでした。彼は、大切に保管していた1タラントンを見せ、「減らしていません。大切に保管していましたが」と言いますが、叱られてしまいます。そしてそれは取り上げられ、10タラントン持っているものに与えられたのです。そして、主人にはこう言われてしまいます。「怠け者の悪い僕だ」「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。」

3,振り返り 

このたとえ話はどんな意味でしょうか?私たちも、一生懸命働いて財産を増やせという事でしょうか?教会でもバザーをたくさんして、お金儲けをせよという事でしょうか?

そうではありません。「天の国のたとえ」だからです。神様がご支配される本当の世界は、こういうところだ、と。気を付けるべきことはこれらの事柄でしょう。

1) それぞれ、違う金額が預けられた

2) それは、「それぞれの力に応じて」です

3) 合計額や利益率で褒めたり罰したのではない

4) なにも活用しなかったことが問題だった

と読んでいくことが大切でしょう。

 そして、これを聞く私たちにはこう問いかけられています。「あなたは、何をいくら預かりましたか?」「それを活かしていますか?」と。または、「それを自分だけのものにして使ってしまっていませんか?」とも聞かれているかもしれません。

  私たちは、それぞれ生まれも生きてきた道のりも違います。しかし、それぞれに合わせて、神様から頂いた、「預けられた賜物」があります。そう、タラントンは、古代ギリシャの重さの単位ですが、通貨の単位ともされ、そこから、一人一人の「才能」という意味にも使われるようになりました。

 それは絶対的な秤で量を測るものではなくて、それぞれの違った才能、そしてそれぞれの人生に合わせて預かったものです。それそのものを比較しても仕方ありません。違ってもいいのですが、それぞれ、神様から頂いた「才能」「賜物」なのです。

 その量を比較したり、特質や、注目度を比較しても仕方ありません。大切なことは、それを自分だけのものにしていないかという事です。それを、かくして、または見つけられずに、じっとしたままでいるのではないか?という事です。

 神様はそれぞれに、その人にふさわしい賜物をお与えになった。それを活かしているでしょうか?人のためにも活用しているでしょうか?それが生かされ、生かしあい、与えあい、増えていくところ。それが、天の国、神様がご支配される天の国なのだ、という事です。

 教会のミニバザーやフェスタ、それぞれ得手不得手もありますし、国籍や言葉や文化さえ違う事もありますが、それらを持ち寄って、与えあい、分かち合うときに、それは大きくなってそれぞれの心や人生を豊かにします。そんなことも、復活教会や高蔵寺教会のミニバザーやフェスタで体験した大きな恵みです。神様から預かったそれは、使えば使うほど、学び合い、補い合い、相互作用で膨らみ、増えていくのだと、私は感じます。

4,勧め 

やがて来る終わりの日に、どんな人生だったかを振り返らざるを得ないときが一人一人に来ます。最後のその時に、人生に一度だけ来るその時に後悔しても遅すぎるでしょう。だから、一年の終わりのこの季節に、世の終わり、自分の人生の終わりを見つめることが大切です。まだ大丈夫。神様といっしょに生きましょう。

 


牧師コラム・ 「今日の写真」  

今週は難しいコラムから、ちょっと、いままでの写真コーナーに戻ります。

教区長をしていていろんな教会や街も訪ねます。空き時間にショッピングセンターでトイレも借りて、コーヒーも飲んで一休み。窓から外の景色を見て、そして立ち去ろうとしたときに見つけたのがこの写真にある、こども用のいすでした。

機能を重視したつくりだけではなくて、かわいらしいデザインで、思わず写真を撮りました。丸い顔と、四角い顔の違いもあって、それもいいですね。ある人に見せたら、「三角の顔はなかったですか?それは椅子として強度や使い勝手が悪いのでしょうかねえ」と。三角もあればもっとかわいくて良かったけど、串刺しにしたら「おでん」みたいでもありますね。

「みんな違って、みんないい」という言葉があります。画一化されて生きにくい社会じゃなくて、人種や文化や言葉も違っても互いに、尊重され、共存できる社会、それが今こそ、大切と思わされます。いろんな伝統や風習も変わり目だと、国内ニュースを見ていても考えさせられます。みんな生きやすい、平和な社会になりますように。私たちも、そんな役に立ちますように。


2023年11月12日日曜日

説教メッセージ 20231112

 わたしは、サンパウロで教会に帰るとき、もう少し行くと安いガソリンスタンドがあるからと思って車を走らせていた時に、大きな通りの橋の上で燃料がなくなって止まってしまって大変だったことがあります。急いでいるときに限って、油切れが起こるものです。今日の聖書も、灯の油を切らした5人とそうでない5人のたとえ話です。キリストの言葉の意味を一緒に学びましょう。今日は、るうてるフェスタ(バザー)が高蔵寺教会であるので、短縮礼拝です。中継は今日はお休みです。この原稿を読んでいただき、祈りの時をご一緒に持っていただければと思います。では、良い一週間を!

 聖書の言葉 マタイ 25: 1~13 (新49)

1「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。 2そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。 3愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。 4賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。 5ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。 6真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。 7そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。 8愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』 9賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』 10愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。 11その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。 12しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。 13だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」



説教「わたしはお前たちを知らない、        と言われたら」 徳弘浩隆牧師

1,油切れ

人生は、忙しいときに限って、トラブルが付きまとうと思うことが良くあります。

牧師をしていると、土曜日の夜忙しいときに限って、パソコンやプリンターの調子が悪くなると頭を抱えるときがあります。みなさんも出かけようとしたときに限って、スマホの充電が少ないということも、体験された方も多いかもしれません。予定に遅れそうなときに限って、自動車のガソリンが足りなくなりそうで、今入れるか、目的地まで走り切るか、ハラハラしながら急ぐ時もあるかもしれません。

わたしは、サンパウロで自宅の教会に帰るとき、もう少し行くと安いガソリンスタンドがあるからと思っていた時に、大きな通りの橋の上で燃料がなくなって止まってしまったことがあります。路上に止めて、やむなく、妻に車の歩道側に残ってもらって、頭を下げてもらいながら、私はできるだけ近くのガソリンスタントに走りました。ガソリンだと金属の少し高い携帯用ガソリンタンクを買って入れないといけませんが、そこはブラジルです。ほとんどすべての自動車はアルコールを入れても、どちらでも走るようになっています。サトウキビから作るバイオエタノールで環境配慮や資源節約の先進的な取り組みです。きれいなペットボトルにアルコールを入れてもらい、自動車まで走って帰り、それを入れて難を逃れたことがありました。

今日の聖書は、一番大切な時に、灯の油が切れてしまうという失敗をした女性たちのたとえ話が出てきました。一緒に神様の声を聴いていきましょう。  

2,聖書 

マタイによる福音書は28節までですが、今日は25節です。いよいよ、最後のところに差し掛かってきました。そして実は、このマタイを一緒に読んできましたが、キリスト教会のカレンダーでは、来週が一年の最後になるという季節を私たちは生きています。

年末の気分はまだしませんが、キリストの地上でのご生涯の最後のほうのところ、そして、世の終わりについてのお話が、今週と来週続きます。一年を振り返る季節に、世の終わりや自分の人生の終わりも見据えながら、大切に時を過ごすという一念の終わり方になります。

今日のたとえは、「天の国はこのようにたとえられる」とはじまります。今日も、結婚式のたとえです。10人のおとめたちが花婿を迎えに出ていくのですが、灯の油が十分準備していて無事に出迎えられた5人と、油がなくなってしまって大変困った5人の運命が分かれます。

当時の結婚式は、花婿が花嫁の家に迎えに行き、一緒に花婿の家まで戻り、そこで盛大な結婚式が催されるという形だったそうです。ですから、今日のお話は、結婚式が始まる前の、お迎えに行く花嫁の家で灯をもって出迎える花嫁の友人たちと考えられます。

そして、聖書のたとえの定番通り、花婿はキリスト、花嫁は教会と考えてよいでしょう。灯の油と、そして予備の油を準備していた賢いおとめたちは、花婿が来た時に問題がありませんでした。花婿の到来が遅れてしまっていたから予想外に脂が早くなくなってしまいました。しかし、予備の油を持っていなかったおとめたちは、分けてくれるよう他の5人に頼みますが、自分たちもぎりぎりだからと分けてもらえません。買いに行ったらどうですかといわれてしまいます。しかし、もう夜中ですからそれもかないません。花婿は家に入り、扉は閉められます。5人のおとめたちは開けて入れてくださいと頼みますが、花婿は、「私はお前たちを知らない」といわれてしまうのです。「だから目を覚ましていなさい。あなた方はその日その時を知らないからだ」とキリストはそのたとえ話を締めくくります。

3,振り返り 

わたしたちはどうでしょうか?いつも目を覚ましているでしょうか?もちろん、文字通り寝ないということではなくて、信仰的に眠ってしまわないことが大切だ、と私たちはキリストの声を聴きます。

しかし、おかしなことに気が付きます。今日の10人のおとめは、みな、一度眠ってしまっていたのです。5人の賢いおとめは、頑張って寝ずにいたので失敗しなかったということではありません。彼らの運命を分けたのは、予備の油を準備して持っていたということでした。今日のキリストのたとえ話を聞いて、「私たちも、いつも完璧な信仰を持っていることが大切だから、頑張りましょう」という結論を学んでいるとしたら、それは間違いであり、不十分でしょう。私たちは、完全の信仰者であり続けることよりも、いつも予備の油を携えていることに気を配りましょう。この予備の油は、なんでしょうか?

現代社会なら、スマホの予備のバッテリーで、どこにでも持っていけるモバイルバッテリーとでもいうことになるかもしれません。

聖書のこの個所は、いろいろな風に解釈が試みられます。聖書のみ言葉がいつもそばにあるかといえるかもしれません。「聖霊の油注ぎ」などという言い回しもありますから、聖霊の助けをいつも受けているか、と振り返ることもできるかもしれません。あるいは、困ったときに自分の分を犠牲にしてでも分け与えあえる信仰の兄弟姉妹と理解することもできるかもしれません。彼らはそれがなかったから、分けてもらえなかったのだと。

4,勧め 

ここで、聖書のほかの個所を思い出すかもしれません。家の中に入りドアを閉められ、たたいても開けてもらえなかったおとめたちでしたが、聖書には「叩け、そうすれば開けてもらえるであろう」という言葉もあるのにと、がっかりするかもしれません。しかし。これに対して、キリストはこう答えるかもしれません。ヨハネの黙示録の言葉を使って。「私は扉の外でたたいてる」と。「わたしは、あなたを知らない」と知らん顔をしているのは、キリストのほうではなくて、今までの生き方や今までの罪深い自分にこもってしまっている、自分自身なのかもしれません。

 素直な気持ちで、神様に向き合いましょう。そのとき、私が扉を開けるのを待っておられる、十字架の愛のキリストが立っておられるのに出会えるのです。

 

牧師コラム・ 「LineでのQ&A」 -4  

徳弘先生、いろんなYou Tube動画を見ております。その中で、「ダニエル書」は予言の書、と言っている方がおられ、最近の中東問題に重ね合わせて聖書の箇所を引用しておられますが信用してもよいですか??

A:ダニエル書は確かに預言書としてとらえられていますが、謎に満ちた預言の言葉を、今の戦争の出来事と重ね合わせて、「〇〇年に世が終わり、キリストが再臨される」とかいう引用と説明には、注意しなければなりません。むしろ、危険視するべきでしょう。

そもそも預言とは、「預言」であるからです。「これは神の言葉を『預』かって、人々に告げる」という意味であって、「いついつ何が起こるという、予言」ではないからです。神から預かった「預言」の中に、「予言」も含まれるでしょうが、すべてがそうではないからです。

迫害や命の危険にある中で、時の権力者の国名や名前もあげた明確な言葉ではなくて、メタファー(隠喩)として伝えたというケースもあるでしょう。ヨハネの黙示録もそのように捉えてよいでしょう。ローマ帝国の迫害を明らかにわかるような言葉で書き記せなかったからです。

戦争や天変地異があると、いつも、終末思想が再燃して、世の終わりとか、キリストの再臨とか、いう人が現れます。

しかし、「偽キリスト」も現れるから注意せよ。と言われたキリストの言葉も思い出さねばなりません。キリストご自身、「その時はいつかは知らない、天の父のみがご存じ」といわれています。しかし、今度の日曜日の聖書日課のように、「いつその時が来てもいいように、絶えず目を覚まして信仰の歩みをするべき」ことも、教えられます。

ルターも、「たとえ明日が世の終わりであったとしても、私はリンゴの木を植える」という言葉を残したといわれています。最近の研究では彼自身の言葉ではないようだが、彼の考えはよく表れている、と理解されています。

そのように、「終末やハルマゲドン、キリストの再臨はいつだ!」という言説には注意が必要です。

人の知恵ではわからないといわれている事柄を、「私は分かった」とか「私は神に示された」と言い始めるときに、カルトが生まれるのです。過去の歴史でも何度も現れては消えしましたし、私が生まれてニュースで見たものの中でも、いくつもありました。「そうかもしれないし、そうではないかもしれない」と、私は思っています。終末やキリストの再臨に備えて、慌てて何かをするという、脅迫のようなものではなくて、今、日々生きている中で、「神を愛し、人を愛する」ということを、自ら悔い改め、そのように祈り行い、手の届くところで広げていくということが大切と思います。そんな風に生きています。


2023年11月5日日曜日

説教メッセージ 20231105

 座る場所や順番を、「席次」とも言います。学生時代は、成績の順番も「席次」と言われ、廊下に席次表が貼り出されてドキドキしたなんて言う思い出がある方もおられるでしょう。今日の聖書のお話は、そんな「どこに座るか」という事をキリストは語られました。しきたりやマナーの勧めでしょうか?一緒に聴いてきましょう。 今日は復活教会で礼拝を担当します。召天者記念礼拝と、洗礼式も予定されています。肖像権配慮で、牧師中心の映像ですが、YouTube配信もします。お待ちしています!


聖書の言葉 マタイ 23: 1~12 (新45)

1それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。 2「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。 3だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。 4彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。 5そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。 6宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、 7また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。 8だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。 9また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。 10『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。 11あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。 12だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。



説教「天の国の席順」 徳弘浩隆牧師

1, どこに座るか?

一昨日の11月3日、東海教区伝道セミナーがあり、名古屋めぐみ教会に行ってきました。毎月、Zoomを使って教区の牧師たちが順に担当する公開聖書セミナーを続けましたが、その総集編としてこの機会を企画しました。テーマは「教会」でした。私も聖書セミナーの講義を担当しましたので、一昨日のパネルディスカッションにも登壇することになりました。

会場につくと教会の前にテーブルと椅子が準備され、数人座るようになっています。さて、「どこに座ろうか」と近づくと、司会の牧師先生から、「徳弘先生はどうぞ、やはり真ん中に座ってください」と勧められました。普段ならよく遠慮するのですが、今回は仕方ないと思い、正面真ん中に座りました。今は教区長をしていますので、権限はさほどありませんが色々な責任もあります。このセミナーも最初に講座を担当し、いろんな専門や関心の範囲から自説を発表してきた牧師たちの一見多少違う見解も、対立ではなくてバラエティーとして一緒に学び、何とかまとめる責任もあったからです。

おかげさまで、それぞれ対話やコメントもしあい、会場からも質問や意見も共有され、よくある偉い先生の話を一方的に聞くセミナーとは一味違って、良い学びと交流になったと感謝しています。

さて、今日の聖書のお話は、そんな「どこに座るか」という事をキリストは語られました。しきたりやマナーの勧めでしょうか?一緒に聴いてきましょう。 

2,聖書 

ここのところ数週間、無理な質問でイエス様を困らせてやろう、失墜させてやろうという、当時の「偉い」人たちからの質問とその問答が読まれてきました。しかし、どの企てもうまくいかず、彼らは黙り込んで、去るしかありませんでした。

それは、だれが一番知識を持っているかとか、表面上何を一生懸命にしているかとかいう競争ではなかったからです。イエス様は何度も、知識や権力や表面の行いだけの当時の宗教指導者をやり込めていかれました。イエス様は、その奥の、本当の神様のお気持ち、聖書に規定された物事の真意を説き、またどう答えても答えにくい無理な質問にも知恵をもって切り替えしていかれました。

今日はそれらの末に、ついに、「律法学者やファリサイ派の人々を、聖書をよく知り自分たちが聖書そのもののようにふるまい、人々に指示している」、と評価されました。しかし同時に、「言うだけで何も実行していないから、見習ってはいけない」と、残念な評価もされたのです。

そのうえで、彼らを、「外見で権威付けようとしたり、持ち上げられるのを好むのだ」と、その愚かさを指摘されます。だから、一番偉いものは仕えるものになりなさい」と群衆と弟子たちに教えました。それは、やがて向かうご自身の十字架への道をも見つめる言葉でした。権力ではなくて、驚くべき予想外の十字架の死という形で、神を愛し人を愛すること、それ以上に敵をも愛するという事を示されることになっていくのです。

3,振り返り 

わたしたちはどうでしょうか?座る場所や順番を、「席次」とも言います。学生時代は、成績の順番も「席次」と言われ、廊下に席次表が貼り出されてドキドキしたなんて言う思い出がある方もおられるでしょう。

「教会建築は、その教会の神学が現れる」と、一昨日のセミナーでもある牧師が力説していました。私たちの教会は、どういう具合になっているでしょうか?建物自身にどんなメッセージがあるでしょうか。私たちの教会の礼拝堂は、説教台が中央の正面にあるのではなくて、そこには聖卓と十字架があり、聖書朗読台も説教台もその脇にあるというのが大切なところです。もし中央の正面にあるなら、まるで牧師自身の個人の生き方やその知識や人生への指導そのものが中心になりすぎてしまい、下手をしたら牧師への個人崇拝も起こってしまうからです。

私たちが見上げる一番大切なものは、復活教会では正面の壁にある十字架のステンドグラス。そこから光が差し込み聖壇と十字架が、高蔵寺教会では正面の十字架と聖卓があります。この聖卓はキリストが最後の晩餐をされた食卓を記念するものです。そして、今日の復活教会は、そのキリストの十字架を通しての救いにあずかるための洗礼を受ける洗礼盤があります。そして、すでに天に送った人々を思い出す写真が。そして私たち一人一人という順になっています。それが、私たちの「席次」という事になるでしょう。

今日は、その救いの手の中に、この世を生きている者もすでに死んでいる者も、納めておられる神様を一緒に見上げています。また、その救いにあずかるために、この世を生きているさなかで、一度古い自分が死に、新しい自分がキリストとともに生まれる洗礼式を考えるという幸いな機会も与えられています。

4,勧め 

今日は一緒に、これまでの自分の人生を、そして先に天に送った方々の人生を振り返りましょう。

ブラジルでは、最近、ご高齢者の世代を「老後」と言わない言い方があり、驚き、考えさせられました。それは、Terceira Idade(テルセイラ・イダージ)とか、Melhor Idade(メリョール・イダージ)といいます。それぞれ、「第3の世代」「より良い年齢」という意味です。愛され楽しみ将来に向けて勉強したりするこどもの時期、大人になって社会生活や子育てもする時期、そしてそれらから解放されのんびりと自分を見つめながら楽しみもしながら生きる時期。その3番目で、より良い人生だ、というブラジルらしい肯定的な楽天的な言葉だと、思わされました。

皆さん、それぞれ、どんな時期を、どんな気持ちで生きていますか?洗礼を受けて、一度今までの人生とお別れして生まれ変わりましたか?そして、第4の人生ともいえるかもしれない、この世のいのちを終えた後の天国での永遠のいのちへと、しっかりと進んでいるでしょうか?

洗礼、そして永遠の命、天国、そんなものを一緒に見上げながら、神様と一緒に生きていきましょう。神様はいつも一緒にいて、それぞれの人生の時期に応じて、必要なことをされ、助け、守り、導いてくださいます。神様とともに、教会という新しい大きな家族とともに、生きていきませんか?神様の祝福をお祈りいたします。


 


牧師コラム・ 「LineでのQ&A」 -3  

イスラエルとパレスチナの間で戦争が始まり混迷を深めています。どうしてこの地の紛争が絶えないのか。今日も先週の続きで、Lineでの教会メンバーからの質問とお答えを掲載します。一緒に考えてみませんか?

A:先週の話の最後は、報道に偏りはないのかという話でしたが、続きで、4枚の写真を見てもらいましょう。





上の二枚は、私が2000年に「イスラエル」に行った時のもの。ユダヤ人の領域からベツレヘムなどパレスチナ自治区に入るときは、イスラエル支持の日本人ガイドさんがバスを降りるときに「ここから怖いところだから気を付けてください」と何度も注意をしてくれました。写真は、①聖書ゆかりの地を案内してもらう途中でバスが寄ったレストランの外で出会ったイスラエル兵に声をかけてみて談笑し握手、帽子をかぶせてもらって一緒に写真ととりました。頼もしく感じました。②嘆きの壁に行った時、上のイスラム教の黄金ドームから投石騒ぎの衝突があり、海外のマスコミが詰めかけ、イスラム教のパレスチナ人は怖いと思い、投石の中逃げ、怖い思いをしました。

下の二枚は2006年に「パレスチナ自治区」のベツレヘムに泊まり、そこからパレスチナ人の旅行ガイドさんに案内してもらい、ルーテル教会が支援している学校や病院のほか、前回と同じ聖書ゆかりの地も訪ねました。③ベツレヘムルーテル教会の牧師が、イスラエル側の砲撃で穴が開いたところはそのまま残していると、見せてくれた教会併設の教育センターのPC教室の床。④パレスチナ自治区からユダヤ人の地域に入るときには高い塀と厳しい検問所があり、親子でも引き離されるパレスチナ人を見、我々も厳しいパスポートチェックを順に受けました。この時はイスラエル兵や検問所の人はとても怖いと感じました。

このように、どちらの側でその国にいるかという事で、全く違う印象を受けたのです。視点とバランスが大切ですね。

(続)


説教メッセージ 20240512

 聖書の言葉  ルカ 24:44~53 と 使徒言行録 1: 1~11 (新213) 1:1-2テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。...