2023年3月25日土曜日

説教メッセージ 20230326

今日は、出張で静岡県の教会で合同礼拝を担当しますので、残念ですが礼拝中継はお休みです。どうぞ、今メッセージを読んで、個人で礼拝を、祈りの時をお持ちください。宜しくお願いします。よい一週間を。


聖書の言葉 ヨハネ 11: 1~45

17さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。 18ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。 19マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。 20マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。 21マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。 22しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」 23イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、 24マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。 25イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 26生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 27マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

28マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。 29マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。 30イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。 31家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。 32マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。 33イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、 34言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。 35イエスは涙を流された。 36ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。 37しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。

38イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。 39イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。 40イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。 41人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。 42わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」 43こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。 44すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

45マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。

説教 「その石を取りのけなさい」徳弘浩隆牧師 

1, マリアとマルタ、そしてラザロ…

今日の聖書には、マリアとマルタが出てきます。イエス様の足元でみ言葉を聞いたマリアと、かいがいしく接待をしていたマルタ、そしてイエス様にマリアにも手伝うよう言ってくださいと苦情を言い、諭されたという有名なエピソードがありました。教会でも聖書の学びで、たびたび、話題になりました。簡単に復習しますと、この姉妹の違いは、伝統的には、マリアが「観想的生活」(vita contemplativa ビタ・コンプラティーバ)、マルタが「活動的生活」(vita activa ビタ・アクティーバ)と言われ、日本語で考えると、瞑想する人生と、アクティヴな人生ということになるでしょう。それぞれの良さや、時と場合の違いや、修道会では観想的生活が比較的良いものとされたり、マルタが苦情を言った段階で諭される原因を作ったなど、色々と解釈されてきました。

さて今日はここに、ラザロが登場します。イエス様はこの兄弟の家族と懇意にしていたと聖書は伝えますが、なんと、彼は死んでしまいました。

たびたび比較されるこのマリアとマルタは、この大きな悲劇の中で、イエス様とどんなやり取りをして、何を見つめていくのでしょうか。それは、私たちの生き方や信仰生活に、何を教えるのでしょうか?一緒に聞いていきましょう。

2,聖書

 今日もやはり、イエス様が来られたと聞いて、真っ先に迎えに出るのはマルタでした。マリアは家の中に座っていたのです。やはり、行動的・活動的なマルタと、静かに思いめぐらしているマリアの違いが見えるようにも思います。

 そこで、兄弟の死という危機的状況、そして、イエス様がすぐに飛んできてくれなかったという状況に対して、この二人のとらえ方はどのように違ったのでしょうか? イエス様の足元でみ言葉を聞いていたマリアの方が、せっせと食事やもてなしの準備をしていたマルタよりも優れていて、イエス様に褒められたでしょうか?

 そう期待したいところですが、どうもそうではないようです。最初に迎えに出たマルタは、こういいました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と。そして、イエス様に呼ばれて急いで出てきたマリアも実は、同じことを言います。イエスの足元にひれ伏していたというのはマルタと違い、み言葉を聞いていた時と同じ様子ですが、こういいます。「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と。

 かつてイエス様の足元に座りみ言葉を聞いていて褒められたようにも見えたマリアも、あわただしく食事の準備をしていて手伝わないマリアのことでイエス様に言いつけをしたマルタも、ここでは同じでした。 彼らはともに、イエス様を、主とあがめ、信じ従っていたようですが、またマルタは口では「メシアであることは信じています」と言いますが、イエス様の言わんとすることは理解していませんでした。

 そんなこの姉妹や、泣いているユダヤ人たちを見てイエス様は憤られたといいます。そしてこういわれます、「その石を取りのけなさい」。洞窟の墓の入口の蓋になっていた石を取りのけるよう言われたのです。それを拒もうとするマルタに、イエス様は言いました。「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と。そして、祈りをささげ、呼びかけるイエス様の声に従って、ラザロは生き返って墓から出てきたのです。

3,振り返り 

 彼らは、イエス様をそれぞれのやり方で信じ従っていましたが、それぞれ、イエス様の言葉を本当に理解はしていなかったのです。

 問題が解決しない状況は私たちにもあります。しかし、大切なことは、イエス様が来てくれたら、一緒にいてくれたら、解決してくださる、または受け止めて生きていける、と信じることです。イエス様があの時いてくれていたなら、こんなことにならずに済んだのにと、イエス様を信じてはいても、今の目の前の現実をみると「遅すぎた」「もうだめだ」と希望も信仰も失っています。私たちもそんな人生を生きていないでしょうか?何が邪魔をしているのでしょうか?

 イエス様は言われました。「その石を取りのけなさい」と。死んだ人と葬る洞窟の墓の穴をふさぐ石。私たちの心にも大きな石の蓋がされていないでしょうか?今までの経験とか、常識とかが、信仰や、希望や、勇気に蓋をしていないでしょうか。

4,勧め

 私たちも、「その石」を取りのけましょう。自信過剰や、自信の無さ、過去の失敗や、苦しい思い出。傲慢も謙虚すぎる姿も、不信仰です。イエス様に出会って、大きな人生の変化が始まったと思ったら、この方に従っていこうかと思ったら、「その石」を取りのけて、この方と一緒に生きていきましょう。

 この方も人々の罪で殺され葬られても、墓石を取りのけながら、復活して出てこられたのです。絶望と、不安と、真っ暗な闇の死の世界から、希望と安心と、明るい本当のいのちに、私たちも引き出されましょう。

 それがこれから向かっていく、イエス様の十字架の出来事と、復活の出来事です。それに、私たちも従い、もう一度、生まれ変わりましょう。

 


牧師コラム 奇蹟で死人が生き返れば、全て解決?

ラザロの話を聞いて、素晴らしいと喜んでいると、ふと思います。悲しみを瞬間に奇跡で回復してくれたらどんなにいいか。大切な人が死んでしまったら、イエス様にお願いして、生き返ったらどんなにいいか。でも、みんながそれをしたら、大変。どうするんだ?と。そんなひねくれた自分がいます。イエス様はどうしてこの奇跡をされたのでしょうか? みんなのお願いを無理やりでも聞いてくれるのでしょうか? 

ヨハネの福音書は奇蹟のことを「しるし」と言います。それは、これは「便利屋さんのマジック」ではなくて、目的があったからです。どんな目的?それは、ヨハネの福音書のここを読むと書かれています。「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。 31これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(20:30-31) 。奇跡に驚き、それを願うだけではなくて、大切なものを知り、見えるようになりましょう。


2023年3月19日日曜日

説教メッセージ 20230319

三寒四温と言いますが、また寒くなりましたね。今から、高蔵寺教会の牧師館へ行って、今日はあちらにとまる日です。実は、お昼も行きました。午後のこどもの礼拝があったからです。その後、買い出しと、名古屋の方の教会の準備をして、今から再度高蔵寺教会行きです。冬の間、毎週数日泊まりに行くときは、誰もいなかった牧師館は、冷え冷えです。家も家庭も、社会も、温かくなるといいですね。

明日は、高蔵寺教会の礼拝。中継もします。お待ちしています。


 聖書の言葉 ヨハネ 9:1~41

1さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。 2弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」 3イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。 4わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。 5わたしは、世にいる間、世の光である。」 6こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。 7そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。 //中略//

35イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。 36彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」 37イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」


説教 「見えない者は見えるように、

        見える者は見えないように」徳弘牧師

1. 見えていると思っていて見えていないこと…

今日の聖書を読んで、生まれつき目の見えない方が見えるようになったという話で、「可哀そうに」とか、「良かったねぇ」とだれもが思うでしょう。

見えなかったことで「可哀そうにねぇ」と思いますし、でもそれが見えるようになったという事で、「ああ、よかったですねぇ。これで私と同じように不便なく生活できますね」、と喜ぶという事です。

しかし、話はそう単純ではないようです。これは誰のせいなのか?という問いから始まり、見えるようになったことと、今まで見えていた人が実は何もわかっていなかった・大切なことが見えていなかったという逆説にも導かれるお話だからです。

私も実は眼科に通うようになりました。緑内障ので検査を何度もしています。視野検査では、医師とともに検査結果の画像をパソコン画面で見ると見えていない領域が数か所あったことを告げられ、自分でもあっけにとられてしまいました。

今日は聖書の言葉から、何を学ぶことができるでしょうか? 一緒に神様の声を聴いていきましょう。

2,聖書

 今日の聖書のお話は長かったですが、その流れを簡単に、一緒に確認していきましょう。

1)一言で言うとこうです。まず今日の話は、人間の不幸の原因は何かという問答から始まります。先祖の祟りや本人のした悪いことなどという因果応報という考えが広くありますが、そうではないという事がまず示されます。かといって答えが出たとも言いにくいところかもしれません。しかし、結果的にこの人の問題解決は、神の栄光を表すことになりました。

 2)流れを追っていくとこうなります。イエス様が通りすがりに生まれつき目の見えない人を見かけ、弟子の質問からそんな問答になったわけですが、その人に唾でこねた土を目に塗り、白阿武野池に言って洗泣いなさいと言われ、そのようにした彼は目が見えるようになり帰ってきました。

 3)皆はおどろき、別人ではないかと疑います。人々はイエス様を探しますがどこに行ったか知りませんという事になりました。

 4)すると、ファリサイ派の人のところに連れていかれ、問いただされます。彼らは癒されたことを不思議に思いますが、安息日に癒しをするとは律法違反だとケチをつけるのです。そして癒された人にその人に詰問します。「あの人のことをどう思うか」と。するとこの人は、自分を癒してくれた人・イエスという人を「預言者」と思うようになり、そう言い表します。

5)しかしそれでもこれを信じないユダヤ人たちは、両親を呼び出して尋問するのです。両親は、あの子は生まれつき目が見えなかったのに今は見えるらしいという事と、もう大人だから本人に聞いてくださいという返事をします。この両親は、悪意のある尋問に対してそのように答えたのでした。

6)するとファリサイ派の人たちはもう一度癒された人を呼び出して、魔術か神様からの人ではない奇蹟だと決めつけようとします。しかし、癒された人は言います。「難しいことはわからない。しかし、見えなかった自分が今は見えるという事はわかる。そして、神様から来た人でなければ、何もおできにならなかったはず」とファリサイ派の人たちをやり込めます。

7)さてその後、この日とは外に追い出されてしまいますが、イエス様にもう一度そこでああって、対話をし、本当にこの方がメシア・キリストであると、本当の意味で「目が開かれた」のでした。

 「メシア・キリスト」と言い現わさず「預言者」といった彼の言葉は、その時点ではまだ十分に理解していなかったとみることもできますが、実は後期ユダヤ教の時代にはゼカリヤ書を根拠に、メシアの時に至るまで預言の時代は過ぎたと考えられていたので、預言者を名乗ることが禁じられていたそうです。となると、彼がイエス様を「預言者」と呼んだのは、メシアに違いないと、そんな風に言ったのだと読み取ることもできます。少なくとも、ひとを「預言者だと思う」と証言する人に対して、「それはメシアだという事か?」と、ファリサイ派の人たちは、認めたくなかったという事になるかもしれません。

3,振り返り 

 先週の聖書の話も、イエス様との対話から考えが高められ、イエス様をメシアと信じた女の話でした。

今日も同様とも言えますが、違いはこうです。先週は、井戸端にいた女はイエス様を信じるようになり、人々に伝えるとやってきて、イエス様にとどまってもらいました。一緒に話を聞いた彼らも信じたのですが、女のいう事を聞いて信じたのではありませんでした。自分たちで話を聞いて信じたのだ、とあります。

さて今日の話での人々は、癒された男の話を聞いても関心を持ちましたが、信じませんでした。親を呼び出し、本人をもう一度呼び出し、厳しく悪意を持って尋問したのです。そしてその結果、それを信じず、男を追い出したのです。

彼らは何を見ていたのでしょうか?見えているのに、何も見えていませんでした。見たくなかったのでしょう。自分たちの知識と経験にたより、自分たちの対面や権威を守りたくて、素直に目の前のものを見ていなかったのかもしれません。

それに引き換え、この生まれつき目の見えなかった男は、見えるようになりました。そして、ただ見えるだけではなくて、出会ったこの人が、神から送られた方、そしてメシアだと、しっかりと見ることができたのです。

私達は、どちらの生き方でしょうか?

4,勧め

 見えているつもりで見えていないこと。それは緑内障になって視野が狭くなって、見えているつもりでも見えていなかった部分があって、うっかり車を角にぶつけてしまったりすることとは大きく違います。一番大切なことを、見たくない。認めたくないという人間の心が、その人を神様に対して、人の道に対して、「盲目」にしてしまうのです。

 学問や知識や経験や権威が無くても、素直にイエス様に出会うときに、この方の本当の価値を見ることができるのです。この方に従って生きていくときに、今まで見えなかったものが見えます。人の冷たさも、しかし人の暖かさも。自分の罪深さと、赦された姿も。そうして、一緒に、神様の愛の中を生きていきましょう。

 

牧師コラム AI(人工知能)はイースターを知っているか?


最近何かと話題の人工知能。「○○の△△な絵を描いて」と入力すると、実際の人間が描いたような絵が描かれて驚いたり、勘違いと思われる絵が出てきて笑ったり。会話や検索のAIとの会話で、ひどい返事が返ってきて慌てたり。感情はないにしても、世界中のネット上の情報を「学習」してスムーズに結果を出す社会に近づいているそうです。

パソコンの画面に新しいボタンが出たのに気づいて、この新しい体験を申し込もうと「順番待ちボタン」を押すと、あっさりサービスを受けられるようになったので、試してみました。「教会メンバーにイースター案内を送る」といれると、しっかりした文章が出ました。「真面目」な案内だけでなく、「面白い」のも出してみると、画面のような楽しいJokeも入りました。今年のイースターが4月16日になっているのは、このAIが学習した文章がロシア正教などの文章をたくさん学習したからかもしれませんね。私たちのイースターは4月9日です。


2023年3月12日日曜日

説教・礼拝メッセージ 20230312

 今日は、名古屋の復活教会で礼拝担当をします。Facebook中継もあります。よろしくお願いいたします。


 ヨハネ 4: 5~42

7サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。 8弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。 9すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。 10イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」 11女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。 12あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」 13イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。 14しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」 15女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」  /中略/ 39さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。 40そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。 41そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。 42彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」

説教 「焼け石にも負けない大水」徳弘牧師

1. 水なしでは生きられないが…

3月11日を今年も迎え、過ごしました。2021年3月11日は私はブラジルに行って2年がたったころ。遠く故国の災害を映像で見て、津波の恐ろしさと失われた命を見て涙が止まらなかったのを思い出します。すぐに日系人キリスト教会連盟で集まり、募金を集め始めました。そして、教会でゲストハウスをしていましたが、宿泊者以外にもインターネットを無料で開放して、メイルや通話で故郷との連絡に使えるように提供しました。

そしてもう一度心にとめるのは、今年のトルコ・シリアでの大きな震災のことです。瓦礫の中に埋もれていたのに数日後でも救出されたのは奇跡と驚かれましたが、適度な空間と寒さを遮る瓦礫、そして何とか手に入れた水がカギだったそうです。

私達は水がなければ生きていけません。しかし、水が多すぎても、いのちを落としてしまう矛盾も考えさせられます。水は大きなめぐみであると同時に、呼吸をして生きている私達は水の中では生きられない脅威でもあります。しかし、紀元前2-3000年に栄えたといわれる世界の4大文明は、大きな川の畔のものばかりでした。黄河、インダス川、チグリス・ユーフラテス川、ナイル川などがそうでした。川の恵みによる水が豊富なこと、川が時折氾濫して肥沃な土地ができ作物が安定して取れること、そして、川の氾濫を見極め対策を講じるのに成功した人たちからより高度な文明社会ができたといわれています。人を活かし、育て、しかし殺しもする水と言えるでしょう。

今日の聖書は、「水を飲ませてください」というイエス様の語り掛けから始まるお話です。そこから今日は何を学ぶことが大切でしょうか? 一緒に見ていきましょう。

2,聖書

 今日の舞台はサマリアです。何度か学びましたが、サマリアは「良いサマリア人」などのたとえ話もありますが、信仰的に素晴らしい人たちという代表ではないという事でした。サマリア人はユダヤ教の本流から離れ、他民族との雑婚も進み、宗教も乱れ、本当の神に従っていない人たちと見做されていました。そんな彼らの愛のある行いや信仰的な出来事が聖書にしるされています。それは、自分たちは信仰深くて正しい生き方をしていると傲慢になっているユダヤ人たちには驚きと悔い改めの材料にもなりました。教会に通っている私たちも、この逆転の出来事を見るために、心を備えて謙虚に読むことがまず、大切です。

このサマリアという「訳あり」の場所でイエス様が出会い、水を求めた相手も「訳あり」な人でした。ふつうの女性は朝早くに水を汲みに来るものなのに、この人はそうではなかったからです。あとの会話からも明らかになるように、彼女はまっとうな結婚や生活をしている人ではないようであります。他の女性たちと顔を合わせることをはばかっていたのだろうと、考えられます。

しかしそんな女性にイエス様は声をかけ、問答を通して、より高次元な話へと視野を高め、あの預言されていた救い主ではないかと、思うようになるのでした。

それは、「サマリア人の私に水をくれとユダヤ人のあなたが頼むのですか?」という問いに「誰が頼んでいるのか分かったなら、あなたの方から頼むだろう。」「この水は飲んでも誰でもまた渇くが、私が与える水は決して渇かず、その人の中で泉となり、永遠の命に至るわき水が出る」と禅問答のような語り掛けをされたのです。それにより、ただの物質としての水ではなく、もっと意味深い譬えだと気付かされ、「主よ、その水をください」とイエス様を見上げ、救いを願う者へと変えられました。

3,振り返り 

 私たちはどうでしょうか?いくつかのことを振り返り、反省しなければなりません。

1) 聖書の話を毎週聞いていますが、より高次元な神様と自分の関係、永遠の命に私たちの心が導きあげられているでしょうか?ただの教訓や道徳的な勧めではありません。

2) 問答の中で、イエス様のことを、自分の過去や苦しみをもお見通しの方だと認め、「主よ」と、この方を受け入れ従う者へと変えられたのです。

3) この女性の行動も大切です。高次元なことに知識も心も挙げられたら、まだそれを知らない人に、伝えたくて仕方がなくなるのです。そうして、町の多くの他のサマリア人を呼び、紹介します。

4) それを通して、彼らも信じます。しかし、人の紹介でそう信じたのではなくて、自らイエス様の言葉を聞き、救い主だとわかり信じたのでした。

4,勧め

 さていのちの水について最後に考えましょう。命を与える、私たちになくてはならない、貴重な恵みの水は、大水になれば私たちを殺しもします。

 しかしこの水で滅ぼされ殺されなければならないのも、いのちの水の役割です。それは、今までの罪深い生き方をしてきた罪びとの自分が、滅ぼされるという事です。たくさんの過ちや後悔や苦しみの自分を、そんな罪人の自分を一度殺してしまう事、ノアの洪水の時のように、私たちは一度、今までの自分に死ななければなりません。

多少の水で潤されても、この厄介な罪びとは変わりません。焼け石に水ともいえるほどです。しかし、イエス様の言葉や愛、そして見上げるところにある十字架は、私の罪の身代わりに裏切る私をゆるしながら死んでくださった確かな印なのです。この命の水は、焼け石に水というほどの役に立たないものではなく、圧倒的な量と激しさで、私たちを襲い、罪深さを殺し、イエスキリストの十字架からの復活とともに、新しい者として生き返らせてくれるのです。それが「洗礼」というものだと、再認識しましょう。そして生まれ変わった時には、この女性のように、人に伝えるという行動にも押し出されるのです。

 地震や津波のことも思い出しましたが、阪神淡路の大震災や、スマトラ沖地震のこと、そして台湾のことも思い出します。私はちょうどそういう役割が当時ありましたから、京都教会で救援本部を立ち上げ支援しましたし、スマトラ地震の一か月後にタイとインドにいきました。台湾地震の後も若者たちを連れて訪問しました。現地教会を訪ね、献金をお渡しし、慰問し、ボランティア派遣の計画を立て、送りもしました。それは、恵まれ、生かされている恵みに感謝し、困った人たちに寄り添い助けるための行動にルーテル教会として押し出されたのでした。

しかし、助けるつもりが、たくさんのやさしさや命に出会い、反対に支えられ、一緒に泣いたり、笑ったりもして、元気もいただいたのを思い出します。昨日も世界祈祷日の集会をして、台湾で出会ったご高齢者と日本語で話し合ったこと、日本が支配していた時代のことを身をもって学んだことも思い出さされました。私たちの罪を超えて、全てを洗い流し、新しくされる神様のいのちの水にもう一度生かされていきたいと祈らされました。私たちも、そんな神様とともに、生きていきましょう。 

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牧師コラム 今年の世界祈祷日は、台湾についてでした

毎年、いろんな国について学び、恵みや課題を知り、祈るのが世界祈祷日です。基本的に同じ日の同じころの時間帯に祈りますから、地球が一周する間、それぞれの国で学びと祈りの会が続けられ、一日中、いろんな言語で祈りは止まることなく、地球を、世界を一周します。今年は「台湾」についてでした。現地台湾の教会グループが作ったデモビデオを礼拝前に見ました。台湾は中華系だけでなくて、もともとのオーストロネシア系諸民族の方が多い多文化の「国」だと実感させられます。もともとの部族の方々は実はインドネシアの方々と近いのだと知りました。中国王朝やポルトガルやオランダ、そして日本の支配の時代もありそれらの影響も戦争責任も考えさせられます。いつまでたっても勉強の日々ですね。


2023年3月7日火曜日

世界祈祷日2023 資料集 




A
写真集 台湾2023

 

B

世界祈祷日 2023 台湾 式次第

https://1drv.ms/b/s!AiBbhZedIrv7muk-E6Z5OliI1ldaQg?e=t51q5O


C

音楽 讃美歌

Materiais DMO 2023 (comunidades.net)

8) Cantos - Clique AQUI

    8a) Give Praise to the Lord -1)たたえよう、主を  Clique AQUI

 2)讃美歌21 394 信仰うけつぎ Clique AQUI

    8b) Love Overflows -3)愛はあふれ  Clique AQUI

 4)讃美歌21-32 キリエ・エレイソン Clique AQUI

 5)讃美歌21-497 このよのつとめ Clique AQUI

    8c) Jehova's Blessings Abound - Clique AQUI

    8d) Lord, have mercy on us - Clique AQUI

    8e) Lord, Hear Our Prayer - Clique AQUI

    8f) I have heard about your faith - Clique AQUI

    8g) Offering to You -6)愛とめぐみうけ  Clique AQUI

    8h) Christ, Our Lord, It's Your Youke We Will - Clique AQUI

 7)マリ マリ ティ イエスさま


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4) LIVRETO DO DMO 2023

    4a) LIVRETO DO DMO 2023 - PDF - Clique AQUI

    4b) LIVRETO DO DMO 2023 PARA IMPRESSÃO - Clique AQUI

5) Informações sobre o país

    5a) Informações sobre a Taiwan
          - texto em portugues Clique AQUI

    5b) Apresentação em powerpoint - inglês - Clique AQUI

    5c) Apresentação em formato pdf - inglês - Clique AQUI

6) ESTUDO BÍBLICO

    6a) Estudo Bíblico 1 - PDF - Clique AQUI

    6b) Estudo Bíblico para Crianças - PDF - Clique AQUI

    6c) Estudo Bíblico para Jovens - PDF - Clique AQUI

7) Liturgia do Culto

    7a) Apresentação em powerpoint português - Clique AQUI

    7b) Apresentação em PDF - Orientações - português - Clique AQUI

    7c) Circular das Mulheres deTaiwan
          - 
informações de permissão - Clique AQUI

2023年3月4日土曜日

説教・礼拝メッセージ

 3月ですね!昨日はなごやは大騒ぎ。ヘリコプターが教会上空を飛び、何事かと思えば、教会そばのバンテリンドームでWBC日本代表の強化試合。たくさんの人だかりだったそうです。しかし、強豪選手チームは名古屋の地元チームに負けてしまいました。能力や賜物ぞろいでも「助けい連携できるチーム」になっていかないと、勝てないという事かもしれません。教会もそうかもしれません。教会メンバーの助けいや連携で、互いに助けられ、支えられ、大きな働きもできます。高蔵寺教会は礼拝後に、信徒懇談会をして、今後の教会の在り方を一緒に祈り、話し合います。礼拝は、FacebookとYoutubeで中継し、礼拝堂ではスクリーンを使ったわかりやすい礼拝進行も試行します。その式次第は、ネットでも読みながら参加もできます。お待ちしています!
https://officepastorgabriel.blogspot.com/2023/03/20230305.html

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聖書の言葉 ヨハネ3:1~17

1さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。 2ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」 

3イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 4ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」 5イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。 6肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。 7『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。 8風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」 9するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。 10イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。 11はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。 12わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。 13天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。 14そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 15それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。


説教 「もし 生まれ変わることが できたなら…」 徳弘浩隆牧師

1. 生まれ変わるなら?…

だれにでも多かれ少なかれ、「生まれ変わり願望」というのはあるでしょう。「もし、生まれ変わることができたら…」という気持ちが一度も心にわいてきたことがない人は、いないのではないでしょうか?

それは、今の自分の状況を味わいながら、「あの時こうしておけば」という選択の失敗や、後悔というものを感じることがあるからでしょう。

生まれ変わったらどの動物になりたい?というちょっと変わったアンケートが朝日新聞で10年位前にあったそうです。自分の人生のやり直しではなくて、動物なら?という面白い切り口です。結果は、1位から順に…ネコ、イルカ、イヌ、ワシ、ツバメ、パンダ、ライオン、クジラ、トラ、シャチ、コアラ、チーター、ハクチョウ、ナマケモノ、ウサギ、フクロウ、ウマ、ゾウ、カメ、ペンギンという結果だったそうです。そしてその分析は、動物科学の専門家によると、「それは、『自由になりたい』『かわいがられたい』『君臨したい』の3パターンに分類できる」と言います。ナマケモノに少し心動きますが、あまりかわいくなくてかわいがられなさそうですから、私は断然ネコです。自分勝手に生きていて、しかしかわいがられるからです。

今日の聖書は、人は新しく生まれないと、神の国を見ることができない」という言葉が告げられています。ニコデモという人とイエス様の問答ですが、私たちの人生や、神様との関係、永遠の命を考えるうえでとても大切な話題です。一緒に見ていきましょう。

2,聖書

 ファリサイ派に属する議員でもあるニコデモという人が登場しますが、彼はこの後にも二度ほど登場する興味深い人です。

今回、夜に人目をはばかるようにしてイエス様に会いに来て今回の問答があったわけですが、その後も登場します。

二回目はヨハネ7章50節です。イエス様を逮捕しようとしたのに、手ぶらで帰った下役たちを祭司長達やファリサイ派の指導者の人々が「議員やファリサイ派の人々の中にあの男を信じたものがいるだろうか」と批判した時に、このニコデモがイエス様を擁護するような発言をしています。

そして、三回目はヨハネ19章39節です。イエス様が十字架にかけられた後、アリマタヤのヨセフと一緒に遺体を引き取り、「没薬とアロエを混ぜた物」を持って行ったとあります。

 このニコデモが、今日のイエス様との問答で、あるいはその後の出来事で、キリストとして信じ従ったという話もありますが、聖書ではなくて伝説でしかありません。しかし、今日の聖書の問答はとても意味深いものです。

 ニコデモはイエス様のなさるしるしを見て、神様からの方に違いないと確信していました。しかし、「新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」とイエス様に言われ、混乱します。「年をとった者がもう一度母の胎に入って生まれることができるか?」と聞くのです。

 それへのイエス様の答えは、「水と霊とによって生まれる」ことでした。つまり、洗礼です。一度洪水で滅ぼされた罪びとのように、過去を捨て一度死に、生まれ変わること。その時、天から霊が降り「これは私の愛する子」と言われたイエス様にあずかり、共に生まれ変わることです。

 その奥義を理解できないニコデモにイエス様は続けます。天に昇って神様の知識を得ることは人間にはできない。天から降ってきたものが神の御心を知っていると。そして、降っただけではなく、やがて「上げられる」といわれ、モーセの時に気にあげられたヘビを見上げた者が病から救われたように、十字架という木にあげられることと、そしてやがて、昇天の時に天にあげられることをも、一気に説明されたのです。

3,振り返り 

 今日のイエス様のお話はどうでしょうか?盛沢山すぎて、理解するのにおいつかなくて、頭がいっぱいになるかもしれません。しかし、風に吹かれていろいろなものが動かされるように、私たちも神の霊に動かされて、自分の知識や力ではなく、神様の不思議なできごとにより、生かされ救われてゆくことも、イエス様は説明されています。

 私たちの生まれ変わり願望から見える、人々の願望は、三つあると分析されていました。「自由になりたい』『かわいがられたい』『君臨したい』の3パターン」でした。

 不自由に生きている自分が、自由に生きたい。そして人から愛されたい。それから、支配されるのではなく、むしろ自分が支配者になって自由に生きたい、という私たちの現実の苦しさから見た、願望と言えるでしょう。

 自由に生き、愛され、支配されない生き方は、実は、聖書の中に答えがあるとも言えます。

 神様に従い、過去の自分と決別して新しい生き方を始めること。それが、洗礼です。特にこの四旬節の間、これを考えましょう。既に洗礼を受けた方は、そのことを思い出しもう一度心新たにすること。まだ洗礼を受けていない方には、無理やりではありませんが、心からそれをお勧めします。いっしょに、神様の教えられる道を歩んでいきましょう。

4,勧め

 そして、今日の聖書個所の最後も見落とさずに読まねばなりません。

3章16節には、「小福音書」ともよく言われる福音書のエキスともいわれる言葉が続くからです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」と。

この方に従って生きていくときに、生まれ変わることができます。安心と本当の心の平和があるのです。さぁ、一緒に歩んでいきましょう。 

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牧師コラム 生まれかわれるなら?

私は最近、いろんな体験や失敗もしたうえで、ようやくわかってきたことも多くあり、「若いころに、もっとこの分野の勉強に取り組んでいたらもっといろいろ分っていただろうに」と思う事があります。外国語や文化や世界の歴史、そして聖書についてですし、生き方そのものもです。今までの断片的な知識がようやくつながり、聖書の深さや、キリスト教や諸宗教の歴史、言語の相互の影響、そして今の私たちの文化や生活というものが少し見えてきたからです。もっと若いころに極めていたら、もっと有能な役に立つ人間になれていたのにと思う事があります。そうしたら遠回りや失敗も少なかったかもしれないと。でも、全てあとの祭り。人生はいつでも、新しい経験と学びで、楽しく生きていくことが大切だと、自分に言い聞かせています。

しかし、その「やり直し」はできます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」とあるからです。福音書を全部読まなくても(読んだ方がいいけど)、この一文に全てがまとめられているといわれています。聖書を一緒に学んで、新しい人生を、ご一緒にどうぞ!


礼拝の時、礼拝堂スクリーン設置し活用を試行してみます

 



私は各地の教会で実施していましたが、高蔵寺教会でも、ようやく礼拝式文等をスクリーンに映しての礼拝を試行します。
手元の式文や聖書・讃美歌ではなくて、まえを見て、一緒に心も合わせて礼拝ができればと思います。まだ、讃美歌等はマスクのままですが、「前向きに」礼拝しましょう。ご自宅からの礼拝参加でも、FacebookやYoutubeとともに、タブレット等でこの式次第を見ながらともに礼拝に参加できます!いろいろ、やってみましょう。

問題は、私が準備を毎回続けられるかという事(笑)ですね。応援団募集中です。

説教メッセージ 20240512

 聖書の言葉  ルカ 24:44~53 と 使徒言行録 1: 1~11 (新213) 1:1-2テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。...