2022年8月28日日曜日

説教メッセージ 教会だより20220828

 イエス様のマナー講座?いえ、そうではありません。今日の聖書の話、食事に招かれたらどこに座るべきか。もっと深い意味がありそうですよ。一緒に考えましょう。今日は名古屋市東区の復活教会で説教をします。高蔵寺教会では私の説教を代読して礼拝をしていただきます。Facebookでの礼拝中継もします。Youtubeは先週中継時にネット事情で止まっていたようです。スマホ用のマイクを交換したので音もよくなるはずです。お待ちしています。

 聖書の言葉 ルカ14: 1,7~14 (新136)

14: 1安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。

7イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。 8「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、 9あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。 10招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。 11だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」 

12また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。 13宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。 14そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」。


説教「へりくだりのこころで」徳弘浩隆牧師

1.オンラインのZoomの会議でもどこに座るか?

今日の聖書の話は、食事に招かれたときにどの席に座るかというお話ですね。社会では、いろいろと、ルールがあり、それを守ったり、それ以上に気を使ったりと、大変なこともあります。

テーブルに奥と手前がはっきりとわかれば、「偉い」人が奥で、自分が手前側に座ればいいだろうと、わかりやすいのですが、むつかしいときもあります。

元警察官だった先輩牧師が面白いことを話してくれたことがあります。「車に乗るときは見晴らしがよいからといって前にお客さんを乗せるときがあるけれど、そこな助手席だから駄目で後ろに乗せます。警察の上官をお乗せするときは、後ろの一番奥が上席だと思ったら間違えで、真ん中に座ってもらいます。つまり、後ろの3人掛けの真ん中です。狭くて補助席のような扱いと思う人が多いですが、両脇からの事故や攻撃に備えまもるためなのです」という話でした。なるほど、と思わされます。

最近では会議をパソコンを使ってオンラインでするときもあります。6人くらいの会議で、自分や上司がどこに映るか気にする人も多いそうです。上司よりも上の偉そうなところに映ってしまうといけないと気にするし、上司も自分が下の方に映ると機嫌がよくないという事もあるとか。パソコンで会議画面に入った順番とか、その時しゃべっている人が上に大きく映るとか、そういう設定以外に、責任者を上に固定して映すような機能も後から追加したそうです。

今日のイエス様の教えは、どういう具合でしょうか? 

2.聖書

今日の聖書は、その安息日の食事の席です。そこから見えてくることをいくつか一緒に学びましょう。

先週から学んでいる通り、安息日には労働をしてはならないというのが決まりです。復習になりますが、彼らのカレンダーでは金曜日の日が暮れたら曜日が変わる、つまり安息日に変わります。夕暮れまでに食事の準備をして、明かりもともして、食事を始めます。安息日は、天地創造の教えや出エジプトの出来事も思い起こさせる厳粛な、そして家族や知り合いと食事をする楽しいときでもあったでしょう。

面白いことに、ユダヤ人は安息日にしばしばお客さんを招待したそうです。それは、安息日を一緒に祝いたいという気持ちももちろんでしょうが、もう一つ理由がありました。「今日は安息日なので、ごちそうが十分足りないかもしれませんが、新しく作ることができませんからゆるしてくださいね」とばかりに、弁解をしやすかったからだそうです。安息日でなければ、聖書のほかのところに出てくる祝宴のように、新しく子羊を屠って追加の料理もできるかもしれませんが、そうはいかないという訳です。

今日の聖書では、ファリサイ派のある議員の家に入られたイエス様です。招待を受けたお客さんたちが上席を選ぶ様子に気づかれて、たとえ話を話したというのが今日のお話の内容でした。

イエス様は、「上席についてはならない」といわれました。あとからもっと身分の高い人が来て、席の変更を皆の前で言われてしまったら面目をつぶすことになるから、という事でした。むしろ、末席に座っていて、より良い席がありますからどうぞあちらにと席の変更を言われたほうが面目を施すことになる、というのです。

そして「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と締めくくられました。これは聖書に昔から戒められていたことで、「驕る者は低くされ、心の低い人は誉れを受ける」(箴言29:23)という教えに通じます。

3.振り返り

今日学ぶことは何でしょうか?私たちも自分を振り返りましょう。

ある人はためらいもせず、自分こそ偉いとばかりに、上席を選ぼうとしたでしょう。あるいは互いの身なりや年齢、宗教的、社会的立場を観察して、自分の序列を頭の中で忙しく計算しながら上席のほうを選ぼうとしたかもしれません。

国によっては、年齢によってどちらが年長かという事で、相手の呼びかたや動詞の変化も変えなければならない言葉もあるそうですね。日本も、年齢や上司や部下という事をまず考え、話し方を変えるということが一般的かもしれません。反対に年齢は関係なくて基本的に皆友達のようにフレンドリーに話すというのが一般的な国や言葉もあります。ラテンの国はお客さんとお店の人も冗談を言い合って友達のようにおしゃべりをし、日本に帰ると堅苦しくていやだなと感じることもあります。それが、日本の人はフレンドリーじゃなくて冷たいと最初思った、という外国人の驚きや最初なじめなかったという経験にもなります。どちらが良いという事ではなくて、そんな違いや文化を互いに尊重し仲良くするのが一番と思います。

さて、イエス様の教の教えは、そんな私たちに対する普遍的なマナーを教えるマナー講座や道徳の授業だったのでしょうか?へりくだった心で生活しなさいと? そうではありません。それは、その続きを読み飛ばさないで、またより深く考えることで聞こえてきます。

イエス様は、その食事の場にいない人のことを話題にされたからです。「友人も兄弟も親族も、近くの金持ちも呼んではならない。むしろ、貧しい人や困っている人を招きなさい」といわれたのです。

これをこのままのマナー講座や道徳の授業と聞くなら、親戚での食事会ができなくなります。イエス様が言われたかったのは、食事の席でどの席を選ぼうかと気をもむ私たちに、二つのことを告げるように聞こえます。

1)ひとつは、食事の主催者は神様であること。神様に招かれたのだという事を知るべしと教えます。食事の席は、神様に赦され救われた救いの祝宴を意味するからです。

罪深い、資格がない自分が呼ばれたという事をおもい、自分の努力や財力で救いを得るのではないという事を思わねばなりません。

2)そして、その場にいたらどの席を選ぶかと迷うだろうと今日の話を聞いて考えている私たちに、次のことを告げます。あなたはそこに呼ばれていない側の人間かもしれないと。つまり、正しい神様の目から見たり、もっととる価値のないような、罪深い人だったのかもしれない、という事を。困っている人を食事に招きなさいというのは、文字通り施しの勧めでもあるでしょうが、それ以上の意味があったのです。

4.勧め

さてどうしましょう。どうしたら、救われるのでしょうか?自分は救いから漏れて、その場に呼ばれないかもしれないと、恐れ悩むかもしれません。または、そんな人生を今まで私たちは生きてきたかもしれません。しかし、悩む必要はありません。

なぜなら、イエス様がそんな人たちを招きなさいと言われ、ご自分が命を差し出すことによって、その十字架の犠牲によって、そんな私をその食事の席に招いてくださったのだという、イエス様の生きざまを知っているからです。イエス様は、ルカの夜福音書では、十字架への道を覚悟し、その時を知り、今弟子たちを連れてエルサレムに向かっている旅の途上です。そんな中で語られたお話をしっかりと、心にきざみ、私たちも信仰の旅を続けましょう。

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おなじ「平和」を願って 

 戦争が始まって半年、また、ウクライナの旧ソ連からの独立記念日という事で、先週は「ひまわり」という映画を見ました。 ロシアの軍事侵攻開始直後から話題になっていましたので、気になっていましたが、ようやく見る機会を得ました。

 往年の有名なスターたちや有名な音楽家の曲、なにもかも不思議な「なつかしさ」を感じました。そしてイタリア合作映画なのでイタリア人女性の奔放な姿やアメリカ映画にない哀愁も感じます。スペイン語やポルトガル語に似ているのでイタリア語で時々意味が分かると個人的にはうれしくもなり、親しみも倍増でした。そういえば、私が18歳で大阪の外国語大学に行きスペイン語をかじっていたとき、同じアパートの同期の学生はイタリア語専攻でよく話しました。いろんなことも思い出しました。

 この映画については、何度もメディアで取り上げられていた通り、旧ソ連の発表ではロケ地がウクライナではなくてモスクワ近郊だったとか、たくさんのイタリア人を含む戦死者の眠っていることを隠そうとしたとか、いろいろなことも言われます。

 ひまわりはウクライナの国花、青い空と黄色の花の咲き誇った大地が国旗のデザインにもなっているとも。しかしなんと、そのひまわりは、ロシアの国花の一つでもあるそうです。同じ花を見て、美しいと感じ、それの咲き広がる大地を、平和を願う心は同じはずです。本当の愛と平和が来ますように。平和を願い、私たちにできることをしましょう。


2022年8月20日土曜日

説教メッセージ20210821

暑い日が続きますね。お元気にお過ごしですか?私は目の調子を悪くして、ようやく見つけた時間帯に病院の予約をとろうとしたのですが、お盆休み。一つ空いているところを教えていただきましたが、「あいにく今日は夜はやっていません」とのつれない返事。安息日に病気を癒していただいた聖書の女性をうらやむばかりでした。人助けと休みを取ること、両方大切ですよね。一緒に考えてみませんか?礼拝でお待ちしています。

聖書の言葉 ルカ13:10~17 (新134)

13: 10安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。 11そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。 12イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、 13その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。 14ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」 15しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。 16この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」 17こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。



説教「休む権利と、休む義務」徳弘浩隆牧師

1.イスラエルで驚いた「安息日エレベーター」…

この写真はもう22年前の写真になりますが、イスラエルを初めて訪ねた時の「私にとっての衝撃の写真」の中の一つです。ホテルのエレベーターなのですが、左の二つのエレベーターの脇には何やら表示が書かれています。幸い英語でも書かれてあるので見てみるとなんと、「Shabbat Elevator」の表示です。好奇心旺盛な私はすぐに現地の旅行ガイドさんに聞きますと、「これは厳格なユダヤ教徒が安息日を守るべしとの律法を破らずに乗ることができるエレベーターなのです」と言う事でした。逆に言うと、これを利用しなければ、安息日に律法を破ることになります。どうしてでしょうか?

それは、安息日に労働をしてはならないという規定がありますが、詳しく言うと「火を起こしてはいけない」という規定があります。ですから、安息日の夕食は、日が暮れる前にロウソクに火をつけておかなければなりません。ややこしい話ですが、ユダヤ教では日が暮れると日が変わるというカレンダーですから、金曜日の夕刻に日が暮れると土曜日になり、つまり、安息日になるという事になります。ですから、私たちの曜日感覚で言う金曜日の夜の食事は、日が暮れる前にロウソクに明かりをともして食卓の準備をしていなければなりません。

さて、エレベーターに話を戻しますと、電気スイッチを押すときに、火花が散ることがあるので、このスパークが「火を起こした」つまり「労働をした」という事になってしまうから、避けたほうが良いという事になるのだそうです。

このエレベーターはこういう悩みを解決するために考案され、一定数のユダヤ教当局の承認を得て製造設置されているそうです。どのように動くかというと、各フロアでドアが開いて、一定の時間でブザーが鳴ってドアが閉まり、各階停車で上昇し、下降するという動きを繰り返します。ホテルでの朝食の時など、土曜日の朝食では、厳格なユダヤ教の人たちはこれに乗って、時間をかけて食堂のフロアに到達するという光景を見ました。

我々からすると笑い話のようにも見えますが、彼らにとってはとても大切な神様との約束です。あるいは、律法を守らないという事は、私たち日本で育った人たちが食事中に箸で何かを受け渡しすると縁起が悪いと感じる、それにも似た、避けたい出来事というくらいの人もいるかもしれません。

Shabbat Elevatorについては、まだ日本語はありませんが、英語ではインターネット上でWikipediaという公共百科事典に掲載されているので、調べてみてみると興味深いでしょう。ちなみに、ホテルの客室にはShabbat Clockというのがベッドサイドにあって、安息日に朝、照明をつけたり消したりしなくていいように、照明やTVやエアコンなどをタイマー予約できるようにもなっていました。聖書だけを一生懸命読んでいても分からない、今の世の中のユダヤ教徒の人たちの生き方や工夫があるものですね。 

2.聖書

さて、今日の聖書は、その安息日の出来事です。これほど厳格に「仕事をしてはいけない」と定められている安息日に、ある女性の病気を治してあげたイエス様への批判と、それに対するお答えです。イエス様だったら、細かなことは気にせずに律法を破っても良いというのでしょうか? その真意を一緒に見ていきましょう。

イエス様は安息日に会堂で教えておられました。私たちに置き換えて言えば、教会で説教をしていたとも取れることで、ユダヤ教のなかで、一定の尊敬を集め地方の指導者の一人として認められてもいたことがうかがえます。

そこに一人の女性がいました。「十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった」とルカは説明しています。

その女性の願いや訴えを聞いてという事ではなく、イエス様が一方的に呼び寄せられ、すぐさま手をおき、癒しをされました。すると会堂長が腹を立てみんなに言ったのです。「安息日はいけない」と。イエス様の癒しの働きを否定したりケチをつけたりはしませんでした。ただ、「働くべき日は6日あるので、その間に来て治してもらえばいいのに」とこの女性を批判する形をとりました。それに対してイエス様は厳しく反論します。安息日でも大切な家畜には水を飲ませるだろう、と。反対者は恥じ入り、群衆は喜びました。

3.振り返り

今日学ぶことは何でしょうか?より大切なことがあれば、規則やこの世の決まりなど破ってもいいという事でしょうか?私も目の調子が悪くて病院の受診を進められましたが、先週はまだできませんでした。唯一時間が取れた日は、「あいにく今日は夜の診察はしていないんですよ」と断れました。「そこを何とか」とお願いしても、「何を言ってるんだ、こっちは深刻なんだ」と怒ってみても仕方ありません。より大事なことがあれば規則をぶち破ってもいいという教えではありません。

今日のイエス様の出来事は、今日の祈りの言葉を思い出してみると見えてくることがあります。共に祈った祈りを思い出しましょう。「大きな災わいに囲まれると、自分の力らでまっすぐ立つことのできない脆(もろ)い私たちを、あなたはご存知です。」と祈りました。

婦人は腰が曲がってまっすぐに歩けないでいました。それは、神の祝福を受けたはずのユダヤ人の姿でもあったのです。祝福を受けたアブラハムの子孫でした。また、モーセとともにエジプトを脱出してきた救われた民の人でしたが、自由にその祝福と救いを生きていませんでした。苦しみの中で、良かれと思って神様から頂いた救いの約束であるはずの律法を、文字通り守ることに終始し、がんじがらめだったのです。それを解放し自由にすることがキリストのなさったことだったのです

4.勧め

今日のイザヤ書は「安息日に自分のしたいことをやめ、歩き回るのをやめ、主の聖日を喜ぶなら、父祖ヤコブの嗣業を得ることができる」(大意)とあります。「無理やり規則を守ることを大切にするのではなくて、神様を喜ぶなら、約束された祝福を得ることができるのに」と言っています。

牧師が月曜日に「今日はお休みをいただいていてすみません」というと、「先生、休みは権利じゃなくて、義務なんですよ。先生もきちんと休んでくださいね」といわれたことがあります。配慮なるありがたい言葉でした。休みは権利ではなくて義務。しかし、義務と思いすぎて「休まねばならず他に何もしてはならぬ」と思いだすなら、それはまた誤りでもあるでしょう。

十戒や旧約の律法、掟は、神様との厳格な取り決めというよりも、神様が人を愛し大切にする救いの約束であり、祝福だという事が大事なところです。実はそれを、今週のこどものDayCampでもう一度学ぼうと思っています。

わたしたちも、がんじがらめで生きていて背中や腰が曲がっていたら、キリストに解放してもらいましょう。この世の苦しみや軋轢から、または、思い込みの信仰という軋轢もあるかもしれません。本当の救いと自由をいただきましょう。

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 「よい週末を」って、いつ? 

 TVを見ていると、ニュース番組などで金曜日に「それでは、よい週末を」といわれることがあります。おそらく「土曜日と日曜日」を指しているのでしょうが、牧師としては少ししっくりきません。「日曜日は週の初めの日」だからです。

 天地創造で神様は6日間でそれを終えました。そして7日目にお休みになりました。「安息」されたのです。だから、私たちも7日目は「安息日」として守るよう規定されました。それは、土曜日です。日曜日ではありません。その証拠に、「安息日」はヘブライ語で「シャバト」、日本に最初にキリスト教を伝えた宣教師の国、スペイン語やポルトガル語では土曜日はSabado(サバド)といいます。安息日も聖書ではSabadoと書かれていて、彼らには同じ言葉なのです。

 じゃ、どうして日曜日に礼拝するの?それは、キリストが週の初めの日に復活されたからです。金曜日に十字架にかけられ埋葬され、三日目の朝早く復活されました。主の復活の日を「主の日」と呼ぶようになり、キリスト教では、ユダヤ教の時代の安息日を土曜日ではなく日曜日に守るようになりました。「主の日」はスペイン語やポルトガル語ではDomingo、日曜日のことですが、彼らは今でもDomingo,つまり「主日」と呼びならわしてるのです。そう意識しているかどうかは別ですが。

 興味深いことにポルトガル語では月曜日、火曜日・・は2日目、3日目(2a-feira, 3a-feira)ともとれる呼び方で呼びます。1日目、2日目ではありません。1日目は日曜日だからですね。また、植民地時代のポルトガルの影響でインドネシア語でも日曜日はMinggu,土曜日はSabtuというそうです。DomingoとSabadoの現地語化ですね。ちなみに中国語では月曜日が第一日目で星期一と呼び、二,三と続きます。文化と宗教、言葉の成り立ちや考え方、それぞれのつながりや影響は面白いですね。

2022年8月10日水曜日

説教メッセージ 20220814

聖書の言葉 ルカ12:49~56 

49「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。 50しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。 51あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。 52今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。53父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。」54イエスはまた群衆にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。 55また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。 56偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」


説教「その火が既に燃えていたなら」徳弘浩隆牧師

https://youtu.be/FMssATwzFwI


1.「平和主日」のすぐあとなのに…


暑い日が続きますが、原爆の日や終戦(敗戦)の日を過ごすなか、平和を祈っています。今年は「数十年前の戦争」を思い平和を願う祈りの言葉ではありません。連日実況中継のように見せられる戦禍で理不尽に失われる「いのち」を見せられ、身の回りでも燃料や穀物製品など諸物価も上がり、教会の改修工事をしていますがオイルショックならぬウッドショックともいわれる材木不足に戦争と経済制裁が拍車をかけ、工期や経費に影響も出ています。今年は、過去の戦争でも、遠い国のいざこざでもなく、自分のこととして戦争を考え平和を祈らされています。


さてそんな中、今日の聖書はちょっと困ったことになっています。なぜかというと、イエス・キリストがこう言われているからです。「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」 火消しに躍起になっているのに、「既に燃えていたなら」なんて!いったい、今日の聖書はどう読んでいけばよいのでしょうか? 


2.聖書


まず、今日のイエス様の言葉は、どんな状況で話されたかを知らなければなりません。


先週も少し話しましたが、今私たちの教会では、ルカによる福音書と使徒言行録を続きものとして、全体を眺めようという聖書研究会をしています。細部の勉強というより、どんな構成で、どういう流れでキリストのご生涯と教会の誕生が起こったかという事をVideoなども使って駆け足で学んでいます。ずいぶんと頭が整理され、神様のメッセージと救いの計画が見えてきていると思います。


伝統的な読み方では、ルカはイエス様のお働きを三つのパートに分けて記しています。1)導入とイエス様の働き(ガリラヤ)、2)エルサレムへの旅、3)エルサレムでの最後の週、となります。1)と2)の転換点はペトロの信仰告白です。それで時が来たと、最後の使命のためにエルサレムへ旅を始めます。今日のお話は、ご自分の受難と、弟子たちに対する迫害の予告の後、この世の富よりも命を与える神を見上げ、多くのことで思い煩わずただ神の国を求めなさいと、諭される後に出てきます。


そこで、「平和ではなく分裂をもたらすために来たのだ」といわれたのです。単なる分裂や戦争をけしかけるものではなく、十字架へ向かい、弟子達に教え訓練している旅の途上のイエス様の心の内を見なければなりません。


「地上に火を投じるために来た」という言葉の「火」というのは、「神の言葉」と「神の霊」と理解して良いでしょう。実際今日の旧約の日課のエレミヤ書では「私の言葉は火に似ていないか」と神は語られます。罪や汚れを焼き尽くすものです。それと同時に、モーセに燃える火のように現れた神様ご自身や、キリストの十字架と復活の後に弟子たちに天から降りとどまったとされる炎のような神の霊・聖霊でもあると、思い出して理解すると良いのです。


預言者を通して神の言葉は何度も告げ伝えられてきたけれど、それが聞き守られていないこと、神の霊の働きが多くの人にあり神の国が実現していくという現実が到底ないことを、イエス様は嘆いておられます。


当時の権力者や宗教指導者と激しく対立もし、神の言葉を伝えていたイエス様は、この火のような神の言葉と神の霊の働きを地上に投じるために来たと宣言されたのです。それは、心地よいいい加減な言葉ではなく、神の義と裁きの言葉でもあるので、かつての預言者もそうだったように受け入れられず迫害もされ、受け入れてついてくる人とそうでない人の間には、対立も起こると、それは必然的なことだと、いう意味なのです。


3.振り返り


では、「聖書を読むから、教会に行くから、そうでない人との間に分裂と対立があっても仕方がないことで、むしろそのようにしよう」という事でしょうか?ちょうど今日本ではお盆の時期ですからいろいろな行事が家族や親戚でもあるでしょう。そこで、キリスト教式ではないとのことで、親戚や家族との対立をしようという事でしょうか?


実は、その対立の様子としてイエス様が言われる嫁と姑の話は、旧約聖書のミカ書7章からの引用です。「民の腐敗」と小見出しがついていますが、神の慈しみと正しさを持って生きるものがいなくなり、役人も裁判官も報酬を目当てとし、名士も私欲を持って語るようになったので、神の裁きの日が来るというのです。そこで大混乱が起きるので隣人や親しい者も信じてはならないといわれます。「息子は父を侮り、娘は母に、嫁はしゅうとめに立ち向かう。人の敵はその家の者だ」と続きます。その言葉を引用したイエス様は、その続きの言葉を思い起こさせるのです。つまり、「しかし、わたしは主を仰ぎ わが救いの神を待つ。わが神は、わたしの願いを聞かれる。」という言葉です。


対立を正当化し助長しているのではなくて、神に聞き従わないこの世は、何もかも腐敗しているから、家族でさえ混乱や対立もあるが、「私は主を仰ぎ、わが救いの神を待つ」とつなげて考えると、腑に落ちると思います。


4.勧め


さてここで、神の声に聴き従うとは、どういうことかと思わされます。いちいち声は聞こえないし、何をどう選んだらいいか、聖書はたくさんのことが書かれているけどどこのどの言葉に従えばよいかと、漠然として悩みませんか?


今聖書の流れを駆け足で学んでいるといいましたが、そこで見えてきた旧約聖書からの一貫した流れでの神様の「ことば」があります。歴史や人々の生き方や神様への応答の仕方に応じて、それぞれの時代でいろいろなことを言われましたが、一貫していることに気づかされます。


それは、「誤ったものを心の支えや判断基準にせず、本当の神様を大切にすること」、そして「人を愛し大切にすること」です。それを中心にして判断すると、おのずと私たちの生き方が見えてきます。時には、社会や家族でも、意見の違いを感じることもあるでしょう。今までの自分との、対立もあるでしょう。しかし、それは、本当の愛のある生き方をするうえで、みんながそれに目覚めるまでは、過渡的に起こる仕方ないこととして、信念とともに大きな愛を持って、生きていきたいですね。私たちの心と世界で平和が実現するよう、神様の導きをお祈りします。


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Q&A再掲・お盆にどうしたらいい? 

お盆の季節ですね。家族や親せきで集まったり、地域の行事もあるでしょう。クリスチャンとしてどうしたらいいかと、悩み迷う事も多いという質問もよく受けます。私が担当した機関紙「るうてる」のコラムのQ&Aを引用して再掲します。2007年9月号からです。


~信仰で譲らず、愛で譲る~


 町内会でのお葬式、困ったわね。信仰とご近所づきあい、私も悩んだことがあるわ。神社の寄付の回覧板が来るたびに神様を裏切っているような気がして…。 うちの母はね、クリスチャンだから仏式のお葬式は絶対に行かない、そんな人だったの。ずいぶん父と喧嘩してたわ。ご近所とも難しくって。 私はね、牧師先生に恐る恐る相談したら、「信仰で譲らず、愛で譲る」っていう言葉をもらったの。とっても納得できて、心が軽くなったわ。手を合わせても、亡くなった方を拝むんじゃなくて、「神さま、どうぞこの魂を天国にお迎えください」って心の中で祈るの。聞かれたら隠さないで、「私はクリスチャンだけど、亡くなった方の宗教や気持を尊重してますから」って説明もしてね。 そしたら、とっても喜んでもらえて、「キリスト教じゃこういう時どうするの?」って色々聞かれて、かえって仲良くなれたの。そういうのもいいんじゃないかしら。 あなたのこと、祈ってるわ。

2022年8月7日日曜日

礼拝説教 20220807

 今日の礼拝説教のVideoです。マイクが少々入りが悪かったのですみません。よろしくお願いします。




切り出しコラム・平和を作ろう

もう17年前の出来事、あれから、平和は広がったでしょうか? 本当の平和を作り出すには、私たちの心が変わらねばなりません。

平和をいのる「爆弾には愛を」 

彼は私の友人、イスラエルのパレスチナ自治区に住むルーテル教会の牧師、ミトリ・ラヘブといいます。ベツレヘムのルーテル・クリスマス教会の牧師を長年務め、今では教会が設立した大学の学長をしています。

彼の教会を訪ねたとき見せられたのは、イスラエルの軍事侵攻で砲撃を受け穴が開いたままにしてある教会の壁。多くのクリスチャンはイスラエルに信仰的憧れを持ち、訪問したりもします。しかし、聖書時代のイスラエルと今の国としてのイスラエルは同じではありません。聖書時代にも神に従った時もそうでなかった時もありました。パレスチナ人たちは土地や自由を奪われています。皆イスラム教徒、ましてやテロリストという事ではなくて、昔からクリスチャンもいて、ミトリ牧師の家系もそうでした。彼は「私はパレスチナ人クリスチャン」他たくさんの書物を世に出し、世界各地で講演をする神学者でもあります。去年は東海教区の教会でZoomで交流会をし、彼に「会い」、話も聞きましたね。

2005年に彼を日本に呼び、各地で講演会をしてもらいました。瓦礫のガラス瓶から作った天使の飾りも紹介し、「爆弾には愛を」と、報復ではなくて、瓦礫の中に天使を見出し、平和を作るものになるよう訴え、新聞にも取り上げられました。8月6日は広島の平和式典に一緒に参加し、言葉を失っていました。全国から集まった中高生や青年とともに広島教会で礼拝や交流もしました。

今年も原爆の日が来ました。ウクライナでは戦争が続きます。アジアも不穏です。互いにいがみ合い、壊されたものを見て悲しみと恨みを持つか、平和を作る足掛かりを作るか。現実は同じで見るものは同じでも、作るものは違います。

私たちに今何ができるでしょうか。平和を祈り、平和を作り出しましょう。牧師:徳弘浩隆


説教メッセージ・教会だより

 暑さや大雨、そして新型コロナの再燃。お元気にお過ごしですか?私たちの教会では、感染対策として、消毒・マスク・換気に加えて、しばらくは式文をうたわず、讃美歌は減らして、聖餐式もお休みにすることにしました。熱発やご心配な方は、お休みいただいて、家で礼拝を守れるように、Facebookのライブ礼拝と、夜にYoutubeにもあげることにします。どうぞ、一緒に元気に過ごしましょう。そして、心の平和と世界の平和を作りましょう。お待ちしています。


聖書の言葉 

創世記15: 1~ 6 (旧19)

5主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」6アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。


ルカ12:32~40 (新132)

12: 32小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。 33自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。 34あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」

35「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。 36主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。 37主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。 38主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。 39このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。 40あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」


説教「小さな群れよ、恐れるな。」徳弘牧師

1.「大丈夫よ」と言われても

今日は、教会のカレンダーでは二つの意味がある日です。一つは「聖霊降臨後第9主日」という、今までの通常の流れでルカによる福音書からイエス・キリストの言葉を聞く日。そしてもう一つは、「平和主日」といわれる、戦争の罪を悔い改め、平和を祈る日です。それぞれの主日のためには、別々の聖書朗読のセットが選ばれています。

各教会では通常、どちらか一つを選んで礼拝をすることになりますが、それぞれの聖書個所を読んでみて、それら両方の意味深さを思いながら、心に響く神様の声を聴いてみました。共通して、一貫して、私たちの今の心に響く神様のメッセージを聞いたように思うからです。聖霊降臨後第9主日の聖書日課を主にしながら、平和についても考え祈っていきたいと思います。

それは、多くの難しさの中を生きている私たちの今の生活に呼びかけます。

感染症のただなかにいて、目に見えないものに振り回され、しかしそれは確実に私たちの生命や日常生活を難しくしています。そして、平和も、今までのような「戦後何十年を振り返り平和を祈る」という祈りではなくて、今の現実に、あれよあれよという間に戦争がはじまり、祈り支援しているのに終結せずに長期化、私たちの生活にも影響が出ているからです。

明るい日が差してきて、希望を感じるのではなくて、いつまで続くかわからない暗闇の迷いと絶望の中にいる、それを私たち人類は世界で一緒に経験しているところです。無力感を感じ続けているといってもいいでしょう。そんな私たちに聖書はどう語るのでしょうか?

 2.聖書

「小さな群れよ、恐れるな。あなた方の父は喜んで神の国をくださる」と呼びかける聖書の言葉は、この言葉が好きだという方も多いところです。「小さな群れよ」というのも、多勢に無勢のような状況でもがくときに、こんなに小さくて何もない自分には到底太刀打ちできない、と思うときに、ピッタリの言葉です。教会を考えても、大教会ではなくて日本の小さな教会で一生懸命信仰生活を続ける私たちには、神様からの名指しの呼びかけのようにも聞こえます。

実際、今日のイエス様の話は、弟子たちに対しての言葉でした。どんな流れで言われたのでしょうか?ルカによる福音書の全体の流れを振り返りましょう。

1)イエス様の聖誕と子どもの頃の話。急に飛んで洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後荒野での試みに打ち勝ち、宣教活動を始めて群衆が集まり弟子たちが選ばれる。ペトロがイエス様を神が送ったキリストと信じその信仰を告白する。イエス様は十字架の苦しみを予告される。

2)ペテロの信仰告白を機に、時が来たと、最後の使命のためにエルサレムへ旅を始める。その途上でいろいろな説教をし、奇蹟をし、人々と出会われる。一方、ユダヤ教の律法学者やファリサイ派の人たちからも議論で挑戦され嫌われ、今後の迫害も予告される。

3)そしてエルサレムへ入城してそこでの最後の出来事。十字架と復活と昇天を通じて、神様の予想外の方法で、人々を悔い改めさせ、新しいいのちを始める道を開く。「神の国」つまり、「神様の本当の愛の支配」が弟子たちの心から始まる。

という流れになっていますが、今日は2)の途上で、迫害もされる小さな群れである弟子たちに、「何も恐れるな」と語られます。先週の聖書日課では「財産よりも命を左右される神様を大切にすること」を教え、その続きの話で、「ただ神の国を求めなさい、そうすればこれらのものは添えて与えられる」と、語られた、今こういうところにいます。

3.振り返り

しかし、「恐れるな。大丈夫だから」といわれても、物足りないときもあります。「どうして?」と思ってしまうからです。

人の相談を聞いて、「大丈夫ですよ」と言うだけや、「わかるわかる」と言ってみても、言われたほうからすると何の助けにもなってないと怒られ、安易にそう言ってはいけないと反省することもあります。神様は、どうでしょうか?

イエス様には、今エルサレムに一緒に向かい、目的地で果たされる十字架の出来事が答えでしょう。それによって、すべてが変わる神の救いの業が達成される。信じる者は今までを赦され、罪を悔い改めた心にはキリストがそうされたように私たちも他者を愛する大きな愛が宿り始める、新しい生き方が始まるからです。それが、「神の愛による支配がある生き方:神の国」だからです。

一人一人がそれを受け入れ、変えられていくときに、憎しみはゆるしに、無関心は同情に、争いは助け合いに変えられていくはずなのです。そこに、神の愛の支配される社会、平和が実現するはずなのです。

そんな神の愛に、キリストの愛にとどまり続けることを、平和主日の聖書の言葉も、私たちに告げています。

4.勧め

最後にもう一人、「そんな事どうして?大丈夫と言われてもどうして信じられるでしょうか?」といった人を思い出しましょう。それは、今日の聖書日課で読まれた旧約のアブラハムです。ユダヤ人の信仰の父とあがめられる彼も絶望の中にいました。しかし、「神は祝福し子孫が繁栄する」との神の使いの声を聴き、信じられませんでした。そんな彼を外に連れ出し、満天の夜空に輝く星を見せました。子孫はあのように増え広がり、輝く存在になる、祝福される、それが約束のしるしだ、と。

暗闇で立ち止まり、うつむき、現実だけを見る私たちに、視点を変え、天を仰ぎ、暗闇にも輝く無数の星があることを教え、明るさの中に呼び出し、将来を約束されたのが神様でした。そして、それを信じたのがアブラハムでした。

私たちも、むつかしい現実だけを見て暗闇に閉じこもるのではなくて、天を仰ぎ、神様の約束を思い出しましょう。信仰を受け継ぎ、イエス様に新しくされた私たちは、同じ約束を神様から頂いているのですから。

私達の心の中に、そして世界に、平和をお祈りします。


平和をいのる「爆弾には愛を」 

彼は私の友人、イスラエルのパレスチナ自治区に住むルーテル教会の牧師、ミトリ・ラヘブといいます。ベツレヘムのルーテル・クリスマス教会の牧師を長年務め、今では教会が設立した大学の学長をしています。

彼の教会を訪ねたとき見せられたのは、イスラエルの軍事侵攻で砲撃を受け穴が開いたままにしてある教会の壁。多くのクリスチャンはイスラエルに信仰的憧れを持ち、訪問したりもします。しかし、聖書時代のイスラエルと今の国としてのイスラエルは同じではありません。聖書時代にも神に従った時もそうでなかった時もありました。パレスチナ人たちは土地や自由を奪われています。皆イスラム教徒、ましてやテロリストという事ではなくて、昔からクリスチャンもいて、ミトリ牧師の家系もそうでした。彼は「私はパレスチナ人クリスチャン」他たくさんの書物を世に出し、世界各地で講演をする神学者でもあります。去年は東海教区の教会でZoomで交流会をし、彼に「会い」、話も聞きましたね。

2005年に彼を日本に呼び、各地で講演会をしてもらいました。瓦礫のガラス瓶から作った天使の飾りも紹介し、「爆弾には愛を」と、報復ではなくて、瓦礫の中に天使を見出し、平和を作るものになるよう訴え、新聞にも取り上げられました。8月6日は広島の平和式典に一緒に参加し、言葉を失っていました。全国から集まった中高生や青年とともに広島教会で礼拝や交流もしました。

今年も原爆の日が来ました。ウクライナでは戦争が続きます。アジアも不穏です。互いにいがみ合い、壊されたものを見て悲しみと恨みを持つか、平和を作る足掛かりを作るか。現実は同じで見るものは同じでも、作るものは違います。

私たちに今何ができるでしょうか。平和を祈り、平和を作り出しましょう。牧師:徳弘浩隆


2022年8月2日火曜日

8/6(土)タラントショップ 中止のお知らせ

 新型コロナ感染症の急拡大を受けて、今回予定していたタラントショップは中止となりました。お互いの安心と安全のためのことです。残念ですが、ご了承ください。

また次の機会においでいただけるよう、ご案内いたします!

よろしくお願いいたします。



説教メッセージ 20240512

 聖書の言葉  ルカ 24:44~53 と 使徒言行録 1: 1~11 (新213) 1:1-2テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。...