2024年3月23日土曜日

説教メッセージ 20240323

Semana Santa(セマナ・サンタ)、受難週(聖週間)が始まりますね。サンタというと、サンタクロースを思い出しますね。クリスマスの楽しい出来事。頂いたり、交換し合ったりするプレゼント。でも、この季節のサンタは悲しく苦しい出来事を思い出させます。同じサンタ(聖なる)ものでも、神様から頂くものと、取り上げられて苦しい思いをするという正反対の出来事。その原因は人間の罪の心です。自己中心で他者を排除したり、何かに固執したり。愛せなかったりゆるせなかったり。そんなことがキリストを十字架に追いやっていきます。今日も一緒に聖書を学び祈りましょう。お待ちしています。

聖書の言葉 ヨハネ12:12~16 (新192)

12その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、 13なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。

「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」

14イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。

15「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って。」

16弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。


説教「群衆の声、私の声」 徳弘浩隆牧師

1、みんな持ってるから、私も欲しい!

こどものころ、欲しいものがあるときに、親を説得する殺し文句ともいえる言葉はこうだったかもしれません。私は気が弱かったので、あまり言ったことがありませんけれど。それは、「みんな持ってるんだよ!自分だけ違う。だからほしい!」。

そういわれると、親にもスイッチが入って、「負けてはおられない」とか、「うちの子だけ持っていないとかわいそうだし、いじめられてもいけないから」と、ついつい買ってあげてしまうかもしれません。

でも、冷静になってよく聞いてみると、そこでいう「みんな」は「みんな」ではなかった、ということは良くある話です。その「みんな」は、学校のみんなでもないし、クラス40人みんなでもないし、友達グループのみんなでもないこともあります。「仲良しの誰かと誰か」、くらいのことかもしれません。それが、その子のその時の、心の中の「みんな」なのです。

きょうの聖書の話では、「群衆の声」が出てきます。「『みんな』の声」です。その中の一人である、「私の声」はどうでしょうか?神様と自分の関係の中で、みんなの声と、自分の声は、同じでしょうか?違うでしょうか?どうあるべきでしょうか?一緒に考えていきましょう。

2,聖書 

今日の聖書は、ヨハネによる福音書の12章12節からですから、実は先週読んだ場所の一つ前の話になります。過ぎ越しの祭りのころでたくさんの人がエルサレムに来ているときに、イエス様の一行もエルサレムに来られた時のお話です。その直後に、神殿で商売をしている人たちを追い出されたという出来事がありましたが、そこは順序を逆にして先週読んだということになります。

今日読まれたところは、エルサレムに入ってこられるところですが、その日からの一週間でいろんな出来事があり、最後の晩餐、キリストの逮捕、十字架へという出来事が起こっていくという一週間になるので、その週の初めはここを読むのがしきたりになっています。

その日、ユダヤ教の大切なお祭り・過ぎ越し祭を祝うためにエルサレムにいた群衆は、イエスが入ってこられるのを見ました。各地で権威ある教えを話し、いろいろな奇蹟のうわさも聞き、有名なユダヤ教の指導者として関心は高かったのでしょう。それ以上に、聖書が預言している救世主・メシアではないかといううわさもあり、期待して歓迎した人たちが多かったのでしょう。

人々は、ナツメヤシの枝を持って迎えたのです。これは、王様を迎える時のしぐさだったともいわれています。いまでも、挿絵の写真のように、カトリックの国々では「おみこし」のようなものを担いで棕櫚の葉を振ってお迎えするというお祭りが、各地で催されます。

群衆は、このイエスという男を歓迎しました。もろ手を挙げ、棕櫚の葉を振って、聖書の言葉を引用して叫び続けたのです。

しかし、私たちは知っています。その後の出来事を。王様を迎えるように歓迎した群衆の声は、「その男を十字架につけろ」に代わりました。それを振って歓迎した棕櫚の葉は、鞭を打つ縄に代わったのを、です。ユダに裏切られ、他の弟子たちも逃げ隠れしていきます。そして、キリストは一人、十字架にかけられ、群衆や神からさえ見捨てられたような形になっていきます。その最初の出来事を読にながら、自分の生き方を考えましょう。

3,振り返り 

わたしたちの生き方はどうでしょうか?

既にこの話の続きを知っています。十字架に行かれたイエス様の出来事を。しかし、その後絶望の先にイエス様が復活され、弟子たちと再会することも。「だからハッピーエンド、私はそのキリスト教会に通っているから大丈夫!」ということでしょうか?

今日の聖書は、群衆の声の中で、揺れる私の声を考えさせます。「群衆がYesといえば私もYes. 群衆がNoと言い出せば私もNo」でしょうか?

良い状況の中で群衆とともにYesを言うのは簡単です。しかし、状況が変わり、危うくなったとき、希望が消えかけるとき、私の心の中の声はどうでしょうか?

教会に通っていても、信仰が薄くなる時があります。人を愛したり赦したりするのがむつかしくなる時もあります。愛と赦しで間違ったことも是認するのではありません。謝罪して和解するべきですが、それが出来ない時もあります。群衆の期待や裏切る声に振り回されるのではなくて、「私の声」が「群衆の声」ではなくて、「神の声」をきちんと聴いているかどうかが、大切なところです。

「みんながそうだから」ではなくて、「『みんながそうでも』私はこう思い信じている、希望を持って歩いて行ける。人を赦し、また謝罪もできる」。そんな、迷った末の答えでも、そんな生き方をすることが、信仰生活ということになるのでしょう。

4,勧め 

今日は、枝の主日、または棕櫚主日とも呼ばれる日曜日です。棕櫚の葉はPalmと言います。ですから、Palm Sundayとも言います。このPalmは興味深いことに「手のひら」の意味でもあります。形が似ているからだということです。しかし、私たちは、この手を使って、祈り、握手をし、歓迎し、支え、助けることもできますが、反対のこともできます。拒否し、殴り、放り出し、排除し、殺すこともできるのです。「手のひらを反す」という言葉の通り、反対のこともできます。

お寺の掲示板の言葉にこんなものがありました。「墓参り、合掌した手で、蚊を殺す」です。私たちのそんな生き方を気づかせてくれる、皮肉を込めた一句に苦笑いさせられます。殺生を禁じた仏教ならではの蚊を殺すという言葉と、墓参りや掃除に行くころ飛び回って厄介な蚊に悩まされ、祈るために合わせた手で、たたいてしまう行動から、人の心を風刺しています。

群衆の声に合わせるように、私たちも会衆の声に合わせて共に歌い、祈ることは大切です。しかし、その群衆、会衆が神の声を聞いて神の心につながっているかどうかがもっと大切です。今日も賛美歌を歌い、祈りを共に捧げる時間もありますが、そのことを大切に取り組んでみましょう。そして、毎日の生活で、人に、あるいは自分の中にいる自己中心な罪の心に振り回されずに、神様を見上げてゆきましょう。特にこの一週間、群衆の声と、自分の声、神様の声を聞き分けて生きていきましょう。神様がともにいてくださいますように。

 

牧師コラム・ おしえてAI: 聖週間について説明して  

聖週間、またはスペイン語でセマナ・サンタとも称されるのは、キリスト教において最も重要な期間の一つで、イエス・キリストの受難、死、そして復活を記念します。この期間は、主にカトリック教会、東方正教会、プロテスタントの一部で観察され、復活祭の前の最後の一週間にあたります。聖週間は日曜日から始まり、次の日曜日の復活祭で終わります。以下に、各日に行われる主な行事や出来事を説明します。

主日(枝の主日)

・枝の主日(Palm Sunday): 聖週間の始まりを告げる日。イエス・キリストがエルサレムに入城したことを記念して、信者たちはパーム(棕櫚)の枝やオリーブの枝を持って行列を行います。この日のミサでは、イエスのエルサレム入城を再現するため、教会の外で祝福された枝を持つ信者たちが教会内に入っていく儀式が行われます。

聖週間の平日 (牧師注:出来事は他の組み合わせもあります)

・聖月曜日(Holy Monday): イエスがエルサレムの神殿を浄化したとされる出来事を記念します。(牧師注:宮きよめ)

・聖火曜日(Holy Tuesday): イエスが最後の審判について語ったとされる日です。

・聖水曜日(Holy Wednesday): イスカリオテのユダがイエスを裏切るために高僧たちと密約を交わした日とされています。

三日間(聖木曜日から聖土曜日)

・聖木曜日(Maundy Thursday): 最後の晩餐を記念します。イエスが自らの死を前にして最後の晩餐で弟子たちと共に過ごした夜。足を洗う儀式が行われることもあります。この日の夜から、祭壇の飾りが取り払われ、静寂が保たれます。

・聖金曜日(Good Friday): イエス・キリストの受難と死を悼む日。この日は断食と瞑想の日とされ、多くの教会でイエスの受難に関する読み物や瞑想が行われます。十字架の道行き(Via Crucis)という行事も行われることがあります。

・聖土曜日(Holy Saturday): イエスが墓に置かれていた日。この日は沈黙と待機の日とされます。しかし、夜にはイースター・ヴィジル(復活祭の前夜祭)が始まり、キリストの復活を待ち望む儀式が行われます。

・復活祭(Easter Sunday)

復活祭: イエス・キリストの復活を祝う日。この日はキリスト教において最も喜ばしい日とされ、教会は華やかに飾られ、讃美歌が歌われます。復活の喜びを分かち合うため、多くの教会で特別な礼拝が行われます。


2024年3月16日土曜日

こどもの礼拝

今日も子供の礼拝が、はじまりましたよ。
聖書はマタイ16章15節から19節
牧師先生のお話:「てんごくのカギ!あいかぎはありませんか?」

讃美歌をうたって、聖書を読んで、絵本を読んでもらって、牧師先生のお話でした。
卒園生や、教会メンバーの家族だけじゃなくて、誰でも来ていいんだよ。
一度来てみませんか?





 

2024年3月10日日曜日

説教メッセージ 20240310

 聖書の言葉 ヨハネ3:14~21 (新167)

14そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 15それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 18御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。 19光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。 20悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。 21しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」




説教「聖書に込めた神の思い」徳弘浩隆牧師

1、ところで、結論は何なの?

言いたいことがたくさんあると、つい、話が長くなってしまいます。短くしようとしても、いろいろと話したいことが頭に浮かびます。時間を節約しようと思えば、結局、早口になってしまうのです。それが私の悪いところだと思います。

しかし、そんな自分の欠点を棚に上げて、話の長い人の話を聞いていると、だんだん、こう言いたくなってしまいます。「ところで、結論は何なの?」と。

先日、自動車運転免許の更新に行ったときに、そんなことを思わされました。ずっとゴールド免許でしたが、帰国後にまだ日本の車社会に慣れなくて(?)、数回スピード違反などをしてしまって、講習を受けることになりました。講師は丁寧に話してくれました。罰則のような講習に不満を持っている人も多いからでしょう。そのうえ、法律用語もあり正確に話さねばなりません。必然的に話は難しく、長くなります。やはり、早口になって、聞きにくいなぁと、思いました。その時に、自分の欠点を思い出さされたのです。「ああ、自分も気を付けないといけないな」と。

受講者の中には外国人も数人おられる様子で、ブラジル人の方もおられました。多くの日本人は黙って座っていますが、私は彼らと目が合うと、お互いに会釈をしたり、つい、声をかけたり。休憩時間に髭で体格のいいブラジル人の方と話しました。聞けば、サンパウロの人で、私のいた街や通りもよく知っている人でした。「今日の話、むつかしいでしょ?わかる?」と聞くと、「むつかしいねぇ。60%くらいわかるかなぁ?何の話をしているかというのは、わかるけどね。ハハハ」と苦笑い。「ごめんね。日本の人は外国の人と話すときには、簡単に話せばいいけど、慣れてないんだ」と答えました。

大切なことだから、順序正しく、丁寧に、誤りなく話せば、長く長くなります。こんなことを言うと怒られるかもしれませんが、聖書にも、同じことが言えるかもしれません。「ところで、結論は何なの?」と言いたくなるかもしれません。今日のイエス様のお話は、そんな聖書を一言で、まとめたような話とよく言われるところです。それは、どんなポイントだったのでしょうか?一緒に聞いていきましょう。

2,聖書 

話の相手は、ユダヤ教のファリサイ派に属し、ユダヤ人の議員でもあったニコデモという人です。ファリサイ派は聖書を学び、詳しく、その通り厳格に実践し、そうでは無い人たちを指導、そして軽蔑さえしていました。議員というのはローマ帝国の支配下にあったユダヤで、宗教・政治の自治組織の議員です。彼らは体制派で、イエスという新しい人気の指導者が目障りで批判し、上げ足をとろうと議論を挑んだりもしました。しかしこの人は、人目を忍んで夜にイエス様に会いに来たのです。イエス様に敬意を示し、対話をしにか、教えを請いに来たのでした。

その会話はイエス様に「ラビ」と呼びかけて始まります。有名な、「ひとは、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」「年を取ったものがどうして生まれることができましょう?」という問答がありました。丁寧に謙虚に質問を続けるニコデモに、「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことがわからないのか」と言った後、今日の話につながってゆきます。

「神のもとから来られた方」とイエス様に教えを請いながらその奥義がわからないニコデモに、「人間には天に昇って神の奥義を知ることはできないが、私は天から降ってきたものだから、それを知っている」という具合に説明し、「再び天にあげられる」とも説明を続けます。これには二つ、いやそれ以上の意味がありました。やがて天に帰るという意味であげられるというだけでなく、十字架に上げられるという事でした。そしてやがて来る復活も「あげられる」という言葉で実現していきます。

3,振り返り 

「ところで、結論は何なの?」と言いたいところです。今日のポイントは何でしょうか?

これら説明が続いた話のポイントは、「そこまでなさる神様の愛」という事になります。聖書をよく知っているニコデモに、モーセの時の出来事を持ち出して説明しました。罪を犯した人々が苦しみましたが、木の上にかけた蛇を見上げれば救われるという不思議な出来事がモーセの時にありました。ちょうどそのように、キリストである自分も、「上げられる」のだというのです。それは、人の罪、その原因となった蛇、その蛇を木に上げるように人々の罪の身代わりとして十字架という木にかけられていくキリストの運命を説明されたのでした。創世記の初めの罪の出来事や、モーセの時の人々の罪とその救いを思い起こしながら、キリストの十字架へとつながっていく神様のご計画が、わかるようになっています。そして、これは、神が大きな愛の方で、信じる全ての人を赦し救うための出来事なのだ、という事でした。

4,勧め 

分厚い聖書のポイントはどこなのか。イエス様の難しいと思えるお話のポイントは何なのかと、聞きたくなることがあるかもしれません。しかし、その明確な答えが今日の聖書の言葉でした。

ヨハネによる福音書の3章16節は、多くの人が引用する有名な言葉です。聖書全体を一つの文章に要約するとこの文章になるという意味で、「ミニバイブル」という人たちもいます。マルチン・ルターも「これは、聖書の縮図であり、また小さな福音書です」と言ったとされています。

私たちは、そこに、自分の罪深さとともに、神の愛を見上げていきましょう。謙虚さと他者をも愛する心は、そこから生まれてきます。そう生きることこそ、個人も、家庭も、社会も、世界も平和で安心して生きてけるカギなのです。それが、今日の長い話の結論でした。一緒に、そして神様と一緒に生きていきましょう。

 


牧師コラム・ AIとともに聖書研究会!?  

先週の聖書研究会は、緊急告知した通り、「イスラム教とラマダン」でしたが、話が長くなり(すみません)、後半は次回のお楽しみです。AIも使って下調べをさせて、一緒に学び、検証し、自分の生き方を考えるという聖研です。という事で、そのまとめのコラムは次回にして、今日は、ヨハネ3章16節についてAIに聞いてみました。


User TOKUHIRO:ヨハネによる福音書3章16節に対する、有名人の引用やコメントを列挙して説明せよ

答えChatGPT:ヨハネによる福音書3章16節は、キリスト教の教えの核心を表す聖句として、世界中の多くの有名人、神学者、牧師、思想家から引用され、その意味についてコメントされています。ここでは、いくつかの著名な引用やコメントを紹介しますが、実際にこれらの人物が直接述べた言葉や出版物からの正確な引用ではなく、ヨハネ3:16に関する彼らの考え方を一般的に反映したものと理解してください。

1,ビリー・グラハム - 20世紀を代表するアメリカの伝道師。彼はヨハネ3:16を「最も偉大な愛の物語」と呼び、この聖句が神の愛と人類への救済の計画を最も明確に表していると信じていました。

2,C.S. ルイス - 「ナルニア国物語」の著者であり、キリスト教の擁護者としても知られています。ルイスはヨハネ3:16を通じて、神の無条件の愛と、罪からの救済への道を提供する神の計画の重要性を強調しました。

3,マーティン・ルーサー - 宗教改革の指導者であり、彼の神学的な洞察はプロテスタント教会の形成に大きな影響を与えました。ルーサーは、ヨハネ3:16が信仰による義認の原則を象徴していると考え、この聖句を「信仰だけによって」救われるという彼の教えの中心として使用しました。

4,マザー・テレサ - カルカッタの貧しい人々に仕えたことで知られるカトリック教会の修道女。彼女はヨハネ3:16を愛と奉仕の行為を通じて実践することの重要性を説く際に引用し、この聖句が示す無償の愛を日々の生活に反映させることの大切さを語りました。

5,ティモシー・ケラー - 現代の神学者であり、ニューヨークのリディーマー長老教会の創設牧師。ケラーはヨハネ3:16を、神の愛と救済のメッセージがいかに個人にとって深い意味を持つかを説くために引用しました。彼は、この聖句が示す神の愛を理解することが、信仰生活において根本的な変化をもたらすと強調しています。

6,チャールズ・スポルジョン - 19世紀のイギリスのバプテスト派の牧師であり、彼の説教は今日でも多くのキリスト教徒に読まれています。スポルジョンはヨハネ3:16を「福音の核心」と呼び、神の愛と人間の救済についての深い洞察をこの聖句を通して提供しました。

これらの引用やコメントは、ヨハネ3:16が異なる時代や背景を持つ人々によってどのように受け止められ、解釈されてきたかを示しています。この聖句は、キリスト教の教えの中で最も重要な部分の一つと見なされ、神の無条件の愛と、その愛に応答する人々への永遠の命の約束を象徴しています。


2024年3月7日木曜日

今日の聖書研究会!

 おはようございます☀今日の聖書研究は、緊急予告通り「イスラム教とラマダン」について学びます。試行錯誤中ですが「AIさんと共に学ぶコーナー」でChatGPTを活用して基本情報を収集し、学びの基礎材料にしましょう。気をつけることも必要ですが、意外と面白いですよ😀






説教メッセージ 20240512

 聖書の言葉  ルカ 24:44~53 と 使徒言行録 1: 1~11 (新213) 1:1-2テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。...