O calor extremo continua.Como você está se saindo?
ルーテル高蔵寺教会は、世界に広がる伝統的なプロテスタント・キリスト教会のひとつ日本福音ルーテル教会に属する教会です。地域や外国人も開かれた教会、誰でも来ていただくことができます。Pastor TOKUHIRO offers Japanese class or assistance for foreigners. Ask anything you need!
2025年7月5日土曜日
暑さで、礼拝に来ることがでないとき、家でも参加できます。
2025年3月29日土曜日
説教メッセージ 20250330
聖書の言葉 ルカ15: 1~ 3,11b~32 (新138)
15: 1徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 3そこで、イエスは次のたとえを話された。
11b 「ある人に息子が二人いた。 12弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。 13何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。 14何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。 15それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。 16彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。 17そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。 18ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 19もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』 20そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。 21息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』 22しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。 23それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。 24この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
25ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。 26そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。 27僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』 28兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。 29しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。 30ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』 31すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。 32だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」
説教「探し物₋Lost and Found」徳弘浩隆牧師
1、 通りすがりの良いひと…
先週は私の母の具合が悪くなり、福岡に行ってきました。幸い、入院先でだいぶん持ち直したようにあるので、手続きと見舞いだけで名古屋に帰ってきました。
途中こんなことがありました。電車に乗っていると、隣に座っていたおじさんが眠ってしまって小銭を落としてしまいました。居合わせた人数人が転がりもした小銭を拾ってあげて、渡しました。しばらくするともう一度。遠くに転がった小銭を若者が拾ってきて、渡そうとしますがまだ眠ってる様子で困惑していました。そこで私が「おじさん、また落としましたよ、はい」と言って肩を軽くたたいて渡すのを手伝いました。
二つ目はこんなことです。カーシェアの車を借りて、病院や施設を行き来しているとき、小さなお子さんを連れた若いママさんが、その子を抱っこして歩きだしたのですが、お子さんの帽子が落ちてしまいました。私は車の窓を開けて、手を振って大声で教えてあげました。「おかぁさん!落ちたよ。帽子が!」と。すると、「あー、すみませんー」と言いながら帽子を拾ってお子さんにかぶせてあげて、会釈をしながら歩いていきました。
「失ったものを見つけ出す」という今日の聖書の個所を読んでいた私は、「神様は、ちょうどこんな体験をさせてくれたんだな」と祈りました。通りすがりに、小さな人助けもできて、すがすがしい気持ちにもなりました。
しかし3つ目の出来事も待っていました。それは、帰りの飛行機で座席前のポケットにちょっと入れておいた老眼鏡を忘れて降りてしまいました。降りた後にスマホを見る時に気づきましたが、「時すでに遅し」でした。「あー、通りすがりの良い人は良かったけど、自分が落し物・忘れ物をしてしまった」ともう取り返せない忘れものにがっかりもしました。
今日の聖書の中の「無くしたものを見出す」というたとえ話で、イエス様は私たちに何を語っておられるでしょうか?聖書から一緒に聞いていきましょう。
2,聖書
「放蕩息子」と小見出しも付くところで、聖書の有名なたとえ話の一つです。あらすじはお分かりの通りです。
① ある人に2人の息子がいた
② 財産を分けてもらった弟は遠い国に出かけ、放蕩のあげくに惨めな豚飼いにまで落ちぶれた
③ しかし、改心して父のもとに帰り許しを乞うた
④ 父は彼を迎え入れ祝宴を開く
⑤ 忠実に父の言う仕事をしていた兄は怒った。
⑥ しかし父は、その兄を諫める
という具合ですね。この放蕩息子が父にもう一度受け入れられるのは、彼の気づきと改心の言葉が大切でした。「わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました」という告白です。そして父のもとに行くという行動も伴っていました。遠方からお金を無心するのではなくて、今までの意地やプライドも捨てて、父のもとに帰ったのです。
このたとえ話では、父は神様を、兄は神のそばにいてその言いつけを守っていたファリサイ派や律法学者、そして放蕩をした弟は神から遠く離れ罪深い生き方をしていた人々のことです。実際、「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄ってきた」というところから、今日の出来事が始まっているからです。
3,振り返り
私たちの生き方はどうでしょうか?誰も、それほど大きく神様を裏切ってはいないと思うかもしれません。それほど放蕩の限りを尽くしているとは思わないかもしれません。しかし、信頼すべき父なる神から遠く離れて、自分を頼りにして生きてきたかことはあるでしょう。または、自分の考えが一番だと自信を持つあまりに、他者を押しのけてしまうような生き方をしたこともあるでしょう。それが、大きくなっていけば、いさかいや戦争にもなるのです。
この四旬節の期間、自分を見つめて、罪びとであるという自覚をもつことが大切です。そのために、神は苦しいことを通過させられることもあるかもしれません。その時、私たちは、自分の無力さを思い知らされます。うまくやれていると思っていても、ひどい仕打ちを受けた時に、相手の、そして自分にもある「罪深さ」を思い知らされるのです。先週学んだ、50歩100歩という状況です。
その時、次の1歩は、今日の放蕩息子のように次ことがらです。1)罪への気づきと、改心の覚悟、2)そして、神のもとに帰る、具体的な行動、です。
4, 勧め
最初の話に戻ると、落し物を見つけて返してあげた、教えてあげたことを話しました。しかし、自分は落とし物をしたまま。そんな通りがかりの良い人を気取っていた自分は、父親のそばにいるけれども、本当の改心や新し生き方をしていない自分なのかもしれません。
空港や駅にある「遺失物窓口」は英語では「Lost And Found」といわれますが、聖書の今日の場所からとられているそうです。「彼は失われていたが見いだされた」という言葉からです。
またこの言葉は、無条件の神の愛によって救われる罪深い人間の救いを表すメタファーとなり、奴隷貿易の商人から転じて牧師となったジョン・ニュートン作詞の賛美歌アメイジング・グレイスにも使われています。I once was lost, but now I am foundというところです。こんな罪深い生活をして、見失われていた自分が神によって探し出された、そんな自分には不釣り合いな「驚くべき恵み」を感謝して歌う歌が、Amazing Graceです。 私たちもまず、失われていた本当の自分を見つめ、神のもとに帰って、他者をも見出してあげるお手伝いをいたしましょう。
牧師コラム Lost and FoundといえばAmazing Graceの讃美歌
Amazing grace! How sweet the sound!
That saved a wretch like me!
I once was lost, but now I am found;
Was blind, but now I see.
'Twas grace that taught my heart to fear,
And grace my fears relieved;
How precious did that grace appear!
The hour I first believed.
Through many dangers, toils, and snares,
I have already come;
'Tis grace hath brought me safe thus far,
And grace will lead me home.
Amazing grace! how sweet the sound
That saved a wretch like me
I once was lost, but now I am found
Was blind, but now I see.
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2025年3月24日月曜日
説教メッセージ 20250323
聖書の言葉 ルカ13: 1~ 9 (新134)
13: 1ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。 2イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。 3決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。 4また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。 5決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
6そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。 7そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』 8園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。 9そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
説教「50歩 100歩」徳弘浩隆牧師
1、 ドライアイとドライソケット…
実は私はこの二週間ほど、歯科医に通っています。右下の奥歯の痛みがありましたが、その原因はその隣の「親知らず」が斜めに生えていて、歯磨きをしても磨ききれずにいるということでした。やむなくその歯は治療をして、神経を抜いて痛みを治めましたが、この親知らずも抜いたほうがいいですよ、とのことでした。そこで、2月の出張から帰ったら抜こうと予約をしていて、抜いてもらいましたが、そのあとが予想外に痛みが続いて苦労しました。原因は、親知らずを抜いた後の場所から出血して、それが固まり蓋となり、そのあとに肉がついてくるとの説明だったのですが、それが進まず、歯の下の神経や血管が通っている骨が露出していて、乾いているからだと、説明がありました。これを、「ドライソケット」というそうです。医師によると、時々、そうなる人がいて、気の毒としか言いようがないといわれ、二週間ほど痛みをこらえながら、やわらかいモノだけを食べて、病院通いが続きました。
行くたびに、「長引きますねぇ、血が出てこないですねぇ」といわれます。
そういえば、眼科にも通っていますが、緑内障とドライアイで、目薬をささねばなりません。
ドライアイは涙が出ないからで、今回のドライソケットは血が出なくて歯茎が乾いたソケットのようだという説明です。「どうしてこんなに、苦労や災難が続くんだろう」と、私は痛みをこらえながら、考えていました。しかし、「これは何かのバチが当たったのか」と思うよりも、原因がはっきり理解できて、すっきりしました。「なんと自分は、血も涙もないのか」とがっかりして冗談を言いますと、「涙も血も枯れるくらい苦労してきたんでしょ」といってくれる人がいて、これも救われる気もしました。
私たちは何か悪いことやひどいことが起こると、「あの人は何かのバチが当たっているんだ」とか、「何かの償いをさせられているのよ」と考えることがあります。そしてその時、「自分はまだいい方だ」と、自分と災難にあった人を比較して思うこともあります。今日の聖書には、そんな会話が出てきます。イエス様はそれに対して、どんな説明をされたのでしょうか?聖書から一緒に聞いていきましょう。
2,聖書
この会話の二つの出来事は、具体的なことはわからないとされていますが、最初はこうです。
過ぎ越しの祭りの犠牲をささげる時と同じ時期に、何らかの理由でガリラヤ人がピラトの命令で殺されたのだろうと考えられているその出来事があったようです。それをイエス様に伝えました。
そして次は、それを聞いてイエス様がほかの悲劇の出来事を持ち出されます。エルサレムの神殿の地下の水道の出口にある池を守るのがシロアムの塔と考えられますが、それが倒れて18人の犠牲者が出たという、当時皆が話題にしていた惨事を引き合いに出して語られます。
そのうえで、その時のイエス様の結論はこうでした。皆が良く考えがちな直接的な因果関係うんぬんというよりも、これら二つの出来事に対して、「誰が誰よりも罪深いからこうなったんだというのではなくて、あなた方も悔い改めなければ、皆同じように滅びるのだよ」ということでした。
3,振り返り
最初に考えたように、私たちは苦労したり苦しみに会うと原因を知りたいものです。わかりやすいことなら解決策がありますが、どうにもならないこと、あまりにも理不尽なこと、または思いがけない病気や痛み、そんなものに出会うと、もっと苦しみます。たいてい、原因がわからないからです。
その時、原因探しをしても答えが見つからないと、比較が始まります。「あれよりいいだろう。あの人よりまだましだから」と何か安心したいのだろうと思います。
しかし、イエス様の今日の言葉は、私たちに厳しく迫ります。神様から見て、あの人の方が罪深いとか、自分の方がまだ罪深くないとか、そんなことは関係ないようです。「悔い改めなければ、みな滅びる」というのです。
そこで今日の説教題の「50歩 100歩」という言葉を思い出すのです。これは中国の故事で、自分の身が危なくなった時に100歩逃げた人を50歩逃げた人が笑ったということからきているそうです。「50歩逃げた人は100歩逃げた人を笑えないよ、あなたも逃げたのには変わりないじゃないか」というわけです。
私たちの、神を愛せない、人を愛せないという人間の心の根底にある、自己中心の罪の心は、いろいろな失敗をし、人を傷つけることがあります。そしてそれはもう、程度は問えない、誰もが同じ「罪びと」なのだという事です。
ではどうしたらいいのでしょうか?それは、「悔い改め」です。「悔い改めなければ、どんな人でも同じ、滅びるのだ」というのがイエス様の言葉ですが、逆に言うと、「悔い改めるならば、滅びなくて済む。救われるのだよ」ということになるからです。
この悔い改めのために勇気を出して踏み出す第1歩は、先ほどの50歩とも100歩とも違う、大きな意味を持っています。この「1歩」は誰にでも平等に与えられているやり直しのチャンスです。この「1」は「100」よりも「50」よりも大きいのです。
4, 勧め
でも、自分にそんな新しい生き方ができるだろうかと、私たちは不安になります。もう手遅れかもしれない。今まで何度もやり直そうとしてきたけど駄目だった、と思うこともあるかもしれません。
それは、一人ではできないものです。誰もがそこで立ち止まり、やめ、引き返し、同じ穴の狢に戻るのが、人間の罪の歴史です。いさかいや、争いは、戦争にいつも発展するのです。
これを変える唯一の方法は、「切り倒すのを思いとどまって、もう少し待ってあげてください。私が、手入れをしますから」と言ってくれた園丁がいましたが、これが、父なる神様に「とりなし」をしてくれるイエス様の姿です。そして、この方は、期間延長をお願いするだけではなく、とりなしをして手入れをしてくれるだけではなくて、滅びるべき罪びとの代わりに、十字架で死んでくれた方だということを、私たちは知っています。
だから、十字架を見上げるのです。自分の不完全さ、罪深さを思い出し、お詫びをし、新しい生き方に目覚めていく、そんな期間が、紫色の四旬節となっています。
教会に来るこどもたちにも説明をしました。紫色は、「かみさま、ごめんなさい。ゆるしてくれてありがとう」の色です。神様に対して、人間同士でも、これを言えれば、そして、自己中心の罪の心から解放されて互いを認め赦し愛することができれば、多くのいさかいは解決します。
私たちの心の中を静かに見つめましょう。そして、自分たちから変わっていきましょう。平和活動や反戦運動も大切ですけれど、まず、自分が悔い改め、変えられていくこと、そこから「神の国」は始まると、イエス様は活動の最初、開口一番言われていました。
100歩も逃げてしまったと自分をさげすむより、50歩で自分の方がまだいいと他者をさげすむより、変革の第1歩をキリスト共に歩み出しましょう。教会の仲間と一緒に、ともに歩んでいきましょう。
牧師コラム 四旬節は紫。じゃほかの色は?
教会の聖壇や牧師が着る祭服のストールの色は、「典礼色」と言って、基本的には4色です。
こどもの礼拝で、私は聖卓に牧師の使う4色のストールを並べてお話をしました。
「紫色は悔い改めの色」、「神様、ごめんなさい、そして赦してくれてありがとう」の意味。それに続くイースターは神様の栄光の「白」、それから聖霊が降ってくるペンテコステは「赤」、そのあとはぐんぐん伸びる草木のように成長の「緑」と、一年の中で変わっていく典礼色の説明をできるだけわかりやすくしました。
私たち大人も、これらどれが欠けても駄目で、悔い改め、神様の栄光、炎のような聖霊を受けて、成長していける信仰生活を送っていきたいものだと、教えられます。
2025年2月6日木曜日
礼拝メッセージ 20250202
聖書の言葉
ルカ4:21~30 (新108)
4:21そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。 22皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」 23イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」 24そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。 25確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、 26エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。 27また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」 28これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、 29総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。 30しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。
使徒言行録6章1節-7節
ステファノたち七人の選出
1そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。 2そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。 3それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。 4わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」 5一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、 6使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。
7こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。
説教「驚きと、疑い」徳弘浩隆牧師
1、 表裏一体
今日の聖書の言葉は大変興味深い言葉があります。ルカの4章22節-23節です。素晴らしいイエス様の教えの言葉ではなくて、人々の反応を伝えた言葉です。それはこうでした。「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか。』」というものです。
人々はイエス様の姿、教えに驚きました。その次が大切なところです。「だから、彼らはすべてを捨てて従った。みんな一つになって教会はますます成長していった」と続かないのです。もちろん、この段階では「教会」というのはありませんが、今の私たちの姿にも当てはめながら読み、考えると、そんな流れではなかった、ということが印象的です。
実際、「人々はイエス様の姿、教えに驚きました。」の続きはどうだったのでしょうか?その続きはこんな具合でした。「なんだ、この人はヨセフの子ではないか!どうしてこんなことが起こるんだ。話は立派で素晴らしいけれど、この人についていく気はしないねぇ。だって、昔から知っているヨセフの子だもん」という具合でした。その続きは、「すべてを捨ててこの人に従い、そのグループはますます成長し広がっていきました」という、即ハッピーエンドではなかったのです。
「問題発生→格闘や疑い→素晴らしい解決策→解決」という公式ではなくて、「問題発生→格闘や疑い→拒否→問題継続」ということでした。
毎回ハッピーエンドで解決する続き物の刑事ドラマとかヒーローものに慣れてきた私たちは、戸惑います。そういえば、私たちの人生も、いつもハッピーエンドの物語の続き物でもありません。ハッピーなこともいくつもありますが、なかなか解決しない事、厄介なこと、同じ考えの仲間でもなかなか理解しあえない事、むつかしいことも抱えながら生きています。
今日の聖書から、私たちは何を学び、聞き取ることが必要でしょうか?見ていきましょう。
2,聖書
実は先週の聖書日課と、今日の聖書日課は一部分が重なっています。それは4章21節。「そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』」です。
先週学んだように、イザヤの預言が実現し、いよいよ、救い主、メシア、キリストが世に送られるという、神の言葉が実現したのです。神様は、約束を果たされました。しかし、そのあとが大切です。それは、それを見た、聞いた、私たちの、反応や生き方が問題なのです。
今日の彼らは、「すべてを捨てて従い、人々は一つになって助け合い、その群れは大きくなっていた」ではないからです。人々は、キリスト到来を予感し喜びましたが、彼らの目はイエスという人に過ぎなかったのです。それは、神の言葉を聞いて喜び感心しながらも、人間の目で自分や人や現実問題を見続ける自分と同じかもしれません。その時、そこには、キリストの救いと解決の技は起こりません。
先週も学んだように、神の呼びかけを聞き、悔い改めで神に立ち戻り、自分の生き方を変えていくことが大切なのでした。今日の聖書は、イエス様の故郷では神の言葉や働きが受け入れられず、拒否迫害され、そこでは実が実りませんでした。そして早速他の地方、そして異邦人に広がっていくことになっていきました。
3,振り返り
さてこの言葉は、今日聖書を読んでいる私たちには、どんな意味を持って呼びかけているでしょうか?
特に今日は高蔵寺教会では今日会総会です。浜名教会は先々週、復活教会では先週でした。
神の言葉を聞き驚きをもって感心している私たちですが、その続きのストーリーはどうなっているでしょうか?それを確認し、感謝し、また悔い改めもして、軌道修正する、新しい計画を立てる、それが、教会の総会の役割でもあります。
今年の教会としての主題成句と主題は、使徒言行録6章から選ばれ提案され、二教会では承認されました。少しそこに、今日の答えのもう一つを探していきましょう。
初代教会は迫害にもめげず、人々はキリストに従い、共同生活さえしていました。そこでは素晴らしい共同体ができて、ますます神の言葉が広がっていきましたが、問題がくすぶり、表面化しました。そんな場所がこの使徒言行録6章です。
多くのユダヤ人が待っていたメシアとしてイエス様を受け入れ、従いました。しかし、ユダヤ人は各地に散らされていたので、この共同体には、ヘブライ語を話すユダヤ人だけでなくて、ギリシャ語を話すユダヤ人たちもいました。彼らは、それぞれ、待ち望んでいた人、ヘブライ語ではメシア、ギリシャ語ではキリストに出会い、喜んで文字通りすべてを捨てて従い、共同生活をしていたのです。
しかしそこで起こった問題は、いかにも現実的な生活の出来事でした。彼らは話す言葉が違い、多少生活様式や文化も違っていたでしょう。小さないざこざや、衝突もあったのです。そして、共同生活の中での食料などの配給が違うと、もめ始めてしまいます。そこで、使徒たちはそれら現実的な事柄に調整や事務仕事に時間を割くのはよくないとして、それにあたる人を選びました。「例と知恵に満ちた評判の良い人」を7人選んだのです。彼らに手を置いて祈り、この共同体は新しい在り方で物事にあたっていくことになりました。使徒たちは、神の言葉の働きに集中していきました。すると、問題は解決し、この時点でのハッピーエンドに近づいていきました。「そうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。」のです。
4,勧め
今日の福音書の出来事、そして数年後の使徒言行録の出来事は、今の私たちの教会の出来事でもあります。
素晴らしい神の言葉に驚きましたが従っていけなかった「人間の目」だけを持っていた故郷の人々。しかし、イエス様の働きと十字架と復活の後、不思議な形で本当に神の言葉が実現し、キリストは人々に受け入れられました。迫害の中でもすべてを捨てて従ったのです。しかしそこでも起きた問題。それを解決するために、使徒と執事、今でいえば、牧師と信徒役員の働きが整えられていく、つまり、教会が教会として整えられ、成長させられていく様を見ることになりました。
私たちの教会も、いろんな文化や考えの違いもある人間の集まりです。使徒言行録のように、言葉さえ違う外国人の方も一緒に教会に集まり、教会形成をする時代に日本もなっています。そこで、自分の意見や過去からの考えだけに固執し、他の考えを理解せず、対立分裂してはなりません。神の言葉にもう一度立ち返り、相互理解と、神様が示す解決と成長のための新しい道を、仕組みを、見つけ出し実行に移していくことが大切なのです。
今までの古い革袋にではなく、私たち自身が新しい革袋にされ、神の言葉に従い、人々に神の言葉を伝え、奉仕、伝道していく教会であり続けましょう。
それこそが、今の社会に、この地に必要な神様の働きなのです。一緒に歩いていきましょう。
2025年1月25日土曜日
説教メッセージ 20250126
少し早いですが、明日の礼拝のメッセージ投稿します。
明日は名古屋にあるルーテル復活教会で礼拝担当ですが、FacebookとYouTubeチャンネルででも中継します。お待ちしています。
https://youtube.com/@pastorhirotakagabrieltokuh983?feature=shared
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聖書の言葉
ルカ4:14~21 (新107)
4:14イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。 15イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。
16イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。 17預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
18「主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、
19主の恵みの年を告げるためである。」
20イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。 21そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
説教「神の言葉の実現」徳弘浩隆牧師
1、 開けばイザヤ書
実は、先週の聖餐式の時にこんなことがありました。いつも、聖卓の聖書を一度丁寧に脇において、聖餐式をして、そのあと開いてもう一度真ん中に戻すという所作をしているのですが、その日はイザヤ書が開きました。よく詩篇くらいが開くのですが、その日はイザヤ書だったので、今日の聖書の個所を思い出しながら、実は一人でニヤリとしてしまいました。
今日の聖書では、イエス様が安息日に会堂に行って、聖書朗読をしようとされると、渡された巻物がイザヤ書だったという話を読んでいたからです。
こんな具合だったのかな?と思って、礼拝を続けたのですが、当時との違いはこうです。
安息日、つまり土曜日の会堂は、私たちは今日曜日に教会で礼拝をしているという事が一つ。そして、今は旧約と新約がそろって聖書ですが、当時は旧約だけが聖書。そして、印刷した分厚い書物ではなくて、巻物だったという事ですね。
東京でも、サンパウロでも、ユダヤ教のシナゴーグに見学に行った時に見せてもらったことがあります。
今日の聖書の話では、何が起こったのでしょうか?
私たちの生き方への呼びかけを聞いていきましょう。
2,聖書
クリスマス以降学んできた聖書を、少し振り返るとこんな具合です。洗礼を受けられてキリストとしての「公生涯」が始まった。最初の「しるし」はカナの婚礼の出来事で、律法のきよめの石の水がめにイエス様の言われるとおりに水を入れるとワインに変わったということで、律法から福音そして十字架の血をも指し示す出来事でした。
全体の流れからすると、それに続いての出来事が今日の話になります。イエス様は悪魔の誘惑を退け、「”霊”の力に満ちて」ガリラヤに帰ります。次第に、イエス様の評判が周りの地方一帯に広がりました。諸会堂で教え皆から尊敬を受けるようになったようです。
その後、育った故郷のナザレにきました。安息日に、同じように会堂に入ります。聖書を朗読しようとお立ちになり、渡された巻物を開くと、それはイザヤ書で、開いたところにはイザヤによるキリストの預言が書かれてあったのです。それを聞き、人々はイエス様に注目していました。今評判のこの人が、そのイザヤの預言の通りの人なのかと思ったのでしょう。そこで、イエス様は言われます。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」と。人々のキリスト待望の期待と願いを、肯定した形に聞こえます。
3,振り返り
さてこの言葉は、今日聖書を読んでいる私たちには、どんな意味を持って呼びかけとなっているでしょうか?
ナザレの人々の驚きと期待、そしてそれに対する反応は様々で、実は来週の聖書日課で続いて読むことになっているので、来週に譲ることにして、今日はこの言葉の呼びかけが何を意味し、私たちはどうこたえるか?という事を考えましょう。
今日、その預言が実現したといわれた聖書の個所は、イザヤ書の61章1-2節です。人々の不信仰で国は分裂し、神の裁きとして北も南も他国に侵略支配され国は滅び、異国に連れ去られました。しかしその後、人々の懲らしめは終わり、神に立ち戻り、人々も自国に戻ることができて国を再建する日が来るという神の約束をイザヤが語っているところです。その時、油注がれた王/または救世主が現れ、神の支配が実現するので貧しいものや虐げられているもの、そして病気の物もその解決をるのだと、続きます。「そんな日が来た!」と、「そんな神の言葉が実現したのだ!」というのがちょうどイエス様が読まれた聖書の言葉であり、その時、実現したのです。
そのことを私たち一人ひとりの人生でも、確認することが大切です。「ただ、カレンダーが巡ってきて、クリスマスを迎え、キリストがお生まれになったのだな」、という事だけではなくて、不信仰と懲らしめと、悔い改めと、新しい意味のある人生の回復が、いま、自分にも起こっているのだ、という自分のこととしての理解と、生き方の変革が大切です。それが今日の神からの問いかけと、メッセージです。
さて、それとともに、この呼びかけの中で、「主の恵みの年」という言葉に注目せねばなりません。これは、旧約聖書の規定の中で決められている「ヨベルの年」という事だからです。
一週間では安息日は7日目ですべて休む時。そして、7年が7回過ぎたときには、49年経って翌年の50年目をヨベルの年とすると神は旧約聖書のレビ記で規定しています。この年は、借金が免除され、借金のために奴隷になったものは自由が与えられ、貧しいものが土地を取り戻す機会が与えられる、大恩赦ともいえる年なのです。これは、旧約聖書の時代において、貧富の格差を是正し、社会の公平を保つこととして定められ機能していました。
いまや、キリストが来られて、または、それを自分のこととして受け入れるならば、このヨベルの年のような神の恵みの時が到来したのだ、という事になります。
今の社会や世界は、憎しみの憎悪、貧富の格差の拡大と固定化、移民難民の排除、自分たちがまず大切という風潮が大国でもあり、心痛い日々を過ごしています。
そんな中で、私たちは、わたしは、何をしなければならないでしょうか?これが、今日の私たちへの神様の問いかけという事になります。
4,勧め
ところで、先週実は私は、教会の近くの年金事務所に行ってきました。急に関係のない話になったかと思われるかもしれません。しかし、「定年退職する」というのはスペイン語やブラジルのポルトガル語では「ヨベルの年を迎えた」という言い方をするので、今日の聖書を読みながら、私もしみじみと「ヨベルの年」を思い返しました。「引退=解放、喜びの節目」という意味合いが、「ヨベルの年という言葉とぴったりだったのかもしれません。
同じ言葉から派生した英語の「ジュビリー」という言葉は、今はただのお祭りとか50周年という事になっています。しかし、本来は「負債の帳消し、奴隷の解放、土地の返還、神の救済、社会の問題のリセット」という意味だという事を思い出しましょう。
そうなると、私たちと神様の関係には、引退はありません。むしろ、「神の救済、社会の問題のリセット」を実現するために、私たち一人ひとりが、この教会を通して神様の働きが始まり、広げられるようになりたいと思います。
今はちょうど教会の年次総会の時期ですが、そんな神の言葉が、社会に対しても実現するよう、教会の働きを整えていけるようになるよう祈りましょう。
牧師コラム ペテロとパウロの日
カトリックの教会の時代からの伝統では、1月18日がペトロの日、1月25日がパウロの(回心の)日となっています。ルーテル教会の教会手帳にも記入されています。 特に日付への根拠はないようですが、5-6世紀の頃定められていったそうです。
1月18日から25日は「キリスト教一致祈祷週間 (Week of Prayer for Christian Unity)」とされ、1月18日から1月25日までの間にエキュメニカル(教派間の一致を目指す)な祈りが各地域や団体間で行われることも多くあります。
東京の神学校でも、網のフェンス越しに隣接する東京神学大学がありますが、この週間は特にフェンスを行き来して、合同プログラムがあったのも思い出します。
そして、ブラジルにはサンパウロという都市がありますが、1月25日がサンパウロ市では休日になっています。昔、ポルトガルの宣教師たちが上陸し、その地に新しい都市を作るとミサをした日という事です。だからこのパウロの日にちなんで、サン・パウロ(聖パウロ)と名付けられました。今年で471年だそうです。
都市の名前と言えば、もう一方のペトロですね。これは有名どころでは、サンクト・ペテルブルグがありますね、ロシアに。これは、聖・ペテロの街という意味ですね。これはこの街を設立したのがピョートル大帝だったから、その守護聖人の名をとったからというのがいわれだそうです。「ピョートル/Пётр」は実は「ペトロ」のロシア語読みで、誕生日は関係ないけれど、聖ペテロを守護聖人として命名されたということのようですね。そんなことを考えさせられた一週間でした。
都市の名前と言えば、もう一方のペトロですね。これは有名どころでは、サンクト・ペテルブルグがありますね、ロシアに。これは、聖・ペテロの街という意味ですね。これはこの街を設立したのがピョートル大帝だったから、その守護聖人の名をとったからというのがいわれだそうです。「ピョートル/Пётр」は実は「ペトロ」のロシア語読みで、誕生日は関係ないけれど、聖ペテロを守護聖人として命名されたということのようですね。そんなことを考えさせられた一週間でした。
2025年1月12日日曜日
説教メッセージ 20250112
聖書の言葉
イザヤ43: 1~ 7 (旧1130)より
恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。 2水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず 炎はあなたに燃えつかない。// 4わたしの目にあなたは価高く、貴くわたしはあなたを愛し あなたの身代わりとして人を与え 国々をあなたの魂の代わりとする。
参考
イザヤ41:10 10恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助けわたしの救いの右の手であなたを支える。
イザヤ59:1-4 主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。2むしろお前たちの悪が神とお前たちとの間を隔てお前たちの罪が神の御顔を隠させお前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。
ルカ3:15~17,21~22 (新106)
3:15民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。 16そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 17そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
3:21民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、 22聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
説教「神の心に適うもの」徳弘浩隆牧師
1、 メシア始動 !? イエス様の「公生涯」の始まり
クリスマス以降、年末はイエス様の12歳の時の話、そして先週はクリスマスに戻って3人の博士の訪問の話でしたが、今日はイエス様が30歳になられたころのはなしにもどります。クリスマス関連の出来事はその日付から動かすことができないからということでご了解ください。
今日からイエス様のご生涯を、今年はルカの福音書を中心にして一年かけてたどりながら、一緒に私たちもそこに立ち会って信仰生活をしていくことになります。
その中でも特にペンテコステまではイエス様のご幼少からの出来事、そしてイースターからペンテコステのころはイエス様のご生涯の最後の部分を一緒に呼んでいきます。ペンテコステ以降はもう一度、今年はルカによる福音書から読み飛ばした大切な教えや出来事を拾いながら読んでいく年度の後半を過ごすという流れになっています。
さて、そんなことで、今日はイエス様が洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになり、神の声を聴き、メシア・キリストとしてのご生涯・「公生涯」が始まった日の出来事が読まれました。今日の聖書から、その出来事の意味と、私たちの生き方への呼びかけを聞いていきましょう。
2,聖書
洗礼者ヨハネは、人々に洗礼を授けていました。メシアに会うための準備をするためです。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。」と自分は準備であり、あとから来られるメシアは別の洗礼をお授けになると伝えました。人々はヨハネの厳しい罪の糾弾に対する説教を聞き、洗礼を受けるために集まりました。その行列の中にイエス様もおられました。ルカではヨハネとイエス様のやり取りではなくて、その時の出来事が記されています。イエス様も洗礼を受けて祈っておられると、点が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に下ってきた。「イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、 22聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」という具合です。
ここで、イエス様の「特別さ」が明らかになります。聖霊が下り、「神の愛する子、神の心に適うもの」という、いわばお墨付を一緒に聞いたからです。
3,振り返り
さてここで、私たちへの今日の聖書の呼びかけは、どうでしょうか。「この方、イエス様に安心してこの一年従って生きていきましょう」、という気持ちになります。
でもそこで、ただ漫然とイエス様の言葉を学んで生活していけばいいのかと、問いかけられてもいます。それは、ヨハネの罪の糾弾の厳しい言葉も聞いたからです。罪深く、イエス様についていく資格もないのかとも思わされます。これをどう聞いていけばよいでしょうか?
その答えは、今日選ばれているイザヤ書、そしてイザヤ書の別の個所から読み解いていくことができます。
イザヤは、紀元前8世紀の預言者と考えられています。イエス様が来られる700年ほど前です。栄華を極めたイスラエルの国が二つに分裂し、北のイスラエルは滅亡していきます。南のユダの国も危機的状況でした。イザヤはこのユダの国で神の言葉を王や人々に語り続けました。偶像礼拝や社会的不正をぎびしく批判し、他国からの侵略の脅威は、神が他国を用いて国を裁いているのだと説き、悔い改めを迫ったのです。「やがて徹底的に滅ぼされるけれど、神はメシアを送る」との約束を告げ、後半では「やがて全世界を神様は治め守り、人々はその民になる」と約束を語りました。そしてそれがクリスマスに実現し、今日の洗礼を受けられたときにメシアの働きが始動したと考えてよいでしょう。
4,勧め
さて、神様の今日の勧めの言葉は何でしょうか?
それは、今日のイザヤ書と共に、二か所を参考に引用したいと思います。
イザヤの43章では「恐れなくてもいい。あなたは私のもの。あなたの名を呼びあなたは私の目に貴いのだ」と。
そしてその少し前の41章では「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助けわたしの救いの右の手であなたを支える。」神は言われます。
しかし、「神様がいつも支え助けてくれるにしては、歴史は、そして私の人生は、支えられず不安定で、悩みや苦しみもあり、思うようにいかず、世界は争いや戦争が絶えない」と合点がいきません。
でも、59章を見ると答えが書かれています。「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。2むしろお前たちの悪が神とお前たちとの間を隔てお前たちの罪が神の御顔を隠させお前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。」というのです。
神はその手で私を支え助けたい、神の目には貴いはずの人類なのに、罪を犯し誤った生き方を続けているから、神との間に隔てができていて、その祈りが届かないのだ、ということでした。
ですから、今日の勧めは、ただイエス様の言葉を学んで一年生きていくのではなくて、イザヤが、ヨハネが訴えるように、「悔い改め」を勧められているのです。
悔い改めは、お詫びして祈ることではなくて、私たちの生き方を、その方向を変えていくことだと、何度も学びました。方向転換です。
「神の言葉を聞き大切にし、その言葉のように人を愛して生きていくこと」この二つが旧約聖書の一番大切なポイントだと、イエス様ものちに言われます。
神を大切にすること、そして、それぞれ違った多様性がある私たちが互いを尊重し、時に赦し赦され、賜物を分かち合い生かしあい、一緒に笑い一緒に泣く、そんな生き方が、悔い改めをした私たちキリスト者の生き方です。さあ、一緒にそんな生き方をしましょう。
牧師コラム 「クリスマスプレゼントは1月6日⁉」
先週1月5日はクリスマスの三人の博士たちがイエス様のところに供え物をもってやってきた顕現主日、その翌日月曜日が1月6日の顕現の日でしたね。
月曜日の夕刻買い物に出かけました。妻と一緒に車で聞くラジオはたいてい頭の体操と懐かしさで、スペインやブラジルのFMラジオ局です。インターネット経由で車に流すことができるので、外国にいるような気持ちで運転も飽きません。この日聞いていたのはスペインMalagaのラジオ。こどもが電話で出てきてインタビューする番組が始まりました。女性のアナウンサーは上手に話しかけて、どの町から電話してきたか、何歳なのかなどを聞き出しながら、楽しいかわいい会話が続きます。そして必ず、「3人の博士の日おめでとう!(Feliz dia de Reyes!)」とあいさつを交わします。ぼんやり聞いていた私たちは「そうだ、今日は顕現日だ!」と再認識させられます。インタビューの続きは、「ねえ、きみは博士たちに何をもらったの?」。すると、「プレゼントはパパとママももらってたよ。パパはねぇ、新しい自転車だった。私はお人形さん」みたいな会話が続きます。スペインの有名な百貨店でも挿絵のような具合に、「もう博士は来た?君には何を持ってきたかな?」と宣伝します。
サンタクロースがクリスマスプレゼントを持ってくるというのは別の伝統ですが、昔からのカトリック国のスペインは1月6日がプレゼントをもらう日でした。良い子にしていたらプレゼント、悪い子だったら箱を開けたら炭の燃えカスだった、という話もあって、クリスマスマーケットでは「黒い炭のデザインの置物」も売られていました。同じキリスト教でも違う文化、違う風習があるのは興味深いことですね。
自分の信仰や今までの教会の姿だけを絶対視しないで、もっと開かれた目で、人々と一緒に集まり、礼拝し、広がりができる教会になれたらいいなと思わされました。
2025年1月5日日曜日
礼拝メッセージ 20250105
聖書の言葉
イザヤ 60: 1~ 6 (旧1159)
2見よ、闇は地を覆い暗黒が国々を包んでいる。
しかし、あなたの上には主が輝き出で 主の栄光があなたの上に現れる。3国々はあなたを照らす光に向かい
王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。4目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る。息子たちは遠くから娘たちは抱かれて、進んで来る。5そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き おののきつつも心は晴れやかになる。海からの宝があなたに送られ国々の富はあなたのもとに集まる。6らくだの大群 ミディアンとエファの若いらくだが あなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。
マタイ 2: 1~12 (新2)
2:1イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、 2言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」 3これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。 4王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。 5彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
6『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
7そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。 8そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。 9彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。 10学者たちはその星を見て喜びにあふれた。 11家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。 12ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
説教「東の国から西の国へ」 徳弘浩隆牧師
1、 今日までクリスマス…
新しい年を迎えました。今年もよろしくお願いします。
さて街ではクリスマスが終わるとお正月に様変わりして、クリスマスの飾りもとっくに片付けられていますが、教会のカレンダーでは今日までがクリスマスといえます。
キリスト教がヨーロッパに定着した後、冬至のお祭りに合わせてクリスマスが祝われるようになり、12月25日となりました。また、これらの関連で、東方の3人の博士が来たというのは1月6日となっていています。
そういうわけで今日はその、東方の3博士がイエス様を拝みに来たと聖書に残されている出来事を読む日曜日になっています。
クリスマスの劇では、天使とマリアにヨセフ、羊飼いとイエス様のお誕生、そして3人の博士が次々に登場しますが、教会のカレンダーで言うと少し間が空き、3人の博士の登場をもってクリスマスシーズンが一区切りするということになっています。
さて、この3人の博士の出来事は今日の私たちに何を呼びかけているでしょうか?一緒に聞いていきましょう。
2,聖書
博士と言われますが、聖書では占星術の学者たちと訳されています。これはギリシャ語の聖書では「マゴイ」と書かれていて、占星術やゾロアスター教という東の国の宗教の偉い人たちを呼んでいた言葉でもあります。それら異国の宗教家や占星術師と理解され翻訳されています。マゴイは、マジックの語源にもなっています。旧約聖書から預言され待たれていたユダヤの王、メシアの誕生を、不思議なしるしを見つけて異国の宗教家たちも礼拝に来たということになります。
今日のイザヤ書でも預言されていたことが成就したと、マタイは記しているのです。3人の博士とよく言われますが、その人数についてはマタイは触れていないのですが、黄金、没薬、乳香という贈り物を持ってきたということから3人と言われるようになりました。そしてミディアン、エファ、シェバという地名も出ましたが、これらはアラビア半島の北西部からシナイ半島、アラビア半島北部、アラビア半島南部を指し、ラクダに乗ったキャラバンと言われる商業活動をする人々が盛んに行き来していましたし、シェバは昔ソロモン王を訪ねて多くの贈り物をささげたというシェバの女王を思い出させます。乳香や没薬の産地でもありました。
さてこれらの預言とその成就から、キリストはユダヤ教で待たれていた救い主であるということとともに、それを超えて、他宗教や他文化の人々も礼拝に来るような全世界の救い主であるということが今日の大きなメッセージです。ですから、エピファニー・公現祭と言われています。不思議なことに彼らが持ってきた贈り物はそれぞれ、黄金は王様の象徴、乳香は神としての象徴、没薬は人間としての苦しみと死をあらわす象徴というものでもあり、イエスキリストの存在とその地上での生涯をあらわす物でもありました。
3,振り返り
そんな嬉しく、不思議で、深い意味を持ち合わせた出来事でしたが、当のユダヤの人々はどうだったかということも考え、自分の生き方を振り返らねばなりません。
ヘロデ王は不安を抱き、エルサレムの人々も同様だったとあるからです。神様の出来事を喜び、救い主の誕生を一緒に拝みに行くのではなくて、厄介者扱いをし、排除しようとしたのです。
これは、私たちの心にある、善と悪のせめぎあい、神様や他者のことを思う愛と自分の自尊心や思いやり益を思うエゴイズムのせめぎあいでもあるのです。
クリスマスを一緒に祝い、そこに立ち会った私たちですが、これから始まる一年がどうであるかを問いかけています。
「それはそれ、これはこれ」の日常がまた始まるのか、「神様を大切にし、人を愛し共に生きていく」新し生き方が始まるのかです。
東の国からはるばるやってきた3人の博士に対して、当事者の自分はどう生きるかを問いかけています。
4,勧め
さて昨夜は突然インドネシアの牧師から電話があり一時間くらい話しをしました。彼女はインドネシアのドイツ系のルーテル教会の牧師でディアコニアの責任者をしていた方です。要件は、日本にいるインドネシア人のケアや伝道をする可能性を探しているということと、私の周りに外国メンバーがいてその中にインドネシア人の熱心なメンバーもいると聞いたから今後の可能性を話し合いたいということでした。
私も人づてに彼女のことを知り、メールを送ったりしていましたが、なかなか返事が来ませんでした。そこで、彼女の携帯に外国人が良く使うアプリを使ってメッセージを送ると、昨日ようやく返事が来て、電話が来たのでした。残念ながらその姉妹は今月インドネシア日本帰国することになったけれど、たくさんのアジア人が日本で勉強したり働いたりしてくれているので、国籍や言葉を超えて教会はお世話をし、また伝道もしたいと、意気投合しました。イエス様を拝みに来た人たちには、2000年前のクリスマスの当日から、東の国も西の国も違いはないのです。
今日私たちはちょうど、その姉妹・レリアナさんの送別会も予定しています。5年前に出会って、教会で日本語教室を続け、仲間も増え、一緒に信仰生活や教会での奉仕もしてきました。別れは寂しくて残念なことですが、日本の西の国から来てくれて出会ったこの姉妹を、今度は東の国から西の国に送り出す気持ちで、派遣する気持ちで、お送りしたいと思います。神様が新しい計画を持ち、何かを始めようとされているのかもしれません。
私たち一人一人も、神様の不思議な計画で、西や東、北や南、いろんなところでいろんな人と出会い、神様の愛を伝えていきましょう。外国に行くことだけではありません。地域の昔からの人々との出会い、あるいは外国から自分たちのそばに来てくれている人たちとの出会いもあるかもしれません。
そんな教会の働きに今年も一緒に参加しましょう。新しい人と出会わせてくれて、神を愛し、人を愛し、安心と平和の生活を広めていきましょう。
2024年12月15日日曜日
説教メッセージ 20241215
今週の聖書の言葉
フィリピ4: 4~ 7 (新366)
4: 4主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。 5あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。 6どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。 7そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
ルカ3: 7~18 (新105)
3: 7そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。 8悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。 9斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」 10そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。 11ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。 12徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。 13ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。 14兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。
15民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。 16そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 17そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」 18ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。
説教「キリスト誕生を待つ、希望を待つ」
徳弘浩隆牧師
1、 カイロスの延期…
アドベントの第3主日になりました。待ちに待ったクリスマスも近づいてきます。
そんな折、昨日のニュースを聞いてニヤリとさせられた出来事がありました。皆さんもご存じだと思います。待ちに待っていた、ロケットの打ち上げが延期になったというニュースです。朝早くから打ち上げ場に行って、楽しみに待っていた人たちからは、「あー、残念」と、ため息が聞かれました。記者会見を開いて開発しているスペースワンという会社の役員は「楽しみにして頂いていた沢山の人々に対して申し訳ない」と謝罪しました。
「だけど牧師はそんなニュースをなぜ今日の聖書と関係があるというのか?」と思われるでしょう。それは、このロケットの名前にあるのです。このロケットの名前は「カイロス」。会社によると二つの意味が込められています。一つは、Kii(キイ)-(-)based(ベースド) Advanced(アドバンスド) &(アンド) Instant(インスタント) Rocket(ロケット) System(システム)の略でKAIROS(カイロス)ということ。つまり、「和歌山県の紀伊半島を指していて、紀伊に拠点を持つ会社の、先進的で迅速な打ち上げが可能な固体燃料ロケットのシステム」の英語の略号がKAIROSとなったという事。紀伊半島というのは意外でした。
さて、もう一つこの言葉に込めた意味というのが、私に言わせれば聖書とも関係があるのです。新約聖書のギリシャ語では、「時」というのを表す言葉が二つあり、それらは「クロノス」と「カイロス」です。
クロノスはクロノグラフという言葉のもとでもあり、それはストップウォッチのことでもあります。このように、「クロノス」は線的な時間や、連続的な時間を表します。過去から現在、そして未来へと流れる測定可能な時間を指します。しかし、「カイロス」は質的な時間を指し、何か重要な出来事が起きる「瞬間」や「好機」を意味します。これは、時間の「量」ではなく「質」を表す言葉です。例えば、適切なタイミング、人生を変えるような瞬間を意味しています。
ロケット打ち上げはクロノスの予定時間だったけど、「好機・良いタイミング」としてのカイロスではなかったといえるでしょう。その所で、ニヤリとさせられたのです。
そして、先日から聖書で学んでいるように、オートマチックでクリスマスはカレンダー通りやってくるけれども、本当にキリストをもう一度心にお迎えする「クロノス」、つまり重要な出来事が起こる瞬間やチャンスは、人それぞれ違うのだということにつながるからです。
ロケットは天候を見て、また今日打ち上げをして礼拝のころ成功しているかもしれません。しかし、私たちが、本当の意味でキリストをお迎えするには、どうしたらよいのでしょうか?今日の聖書から見ていきましょう。
2,聖書
ルカの福音書は先週読んだところのすぐあと、続きです。預言者が言っていたように、荒れ野で叫ぶ声がして、それは、洗礼者ヨハネでした。彼は、「もういくつ寝るとお正月」のように、時が来れば自動的にキリストが来るということを言っているのではありませんでした。集まる群衆に「悔い改めにふさわしい実を結べ」と厳しく迫ったのです。キリストの登場を待ち望んでいた人々は、このヨハネがそうかと期待しましたが、ヨハネはあっさりと否定します。そして「私の後から来る方がそれで、私にはその方の履物のひもを解く値打ちもない」といいます。
そして今日は、第二の朗読で読まれた、フィリピの信徒への手紙からも聞きましょう。これは、使徒パウロがとらえられているときに獄中から自分が伝道して設立した異邦人たちの教会に充てて書いた手紙です。ギリシャのフィリピの町の教会でした。何がポイントかというと二つ。一つは、「主においていつも喜び、思い煩わず、感謝の祈りと共に神に打ち明けなさい。キリストは近いのだ」ということ。身の回りに困難があっても、キリストの再臨が近いと、その来臨を待っていたからです。そしてもう一つは、その困難の理由が大切です。異邦人社会での異邦人のキリスト教会はたくさんの迫害もあったでしょうが、この手紙の直前でパウロが問題にしているのは、「教会内の対立や不和」なのです。それぞれ一生懸命助け支えてくれた有力な信徒が、仲たがいをしていると聞き、心を痛め、指導をするためにも、パウロはこの手紙を書きました。
洗礼者ヨハネは、キリストを迎える条件として、ただ時がたてばその日が来るのではなく、「悔い改め」と「それにふさわしい実を結べ」、つまりその行いや生き方を求めています。
時がたってパウロは再臨のキリストの近いことを強調しながらかつて自分がお世話をした教会員に勧めているのは、「キリスト教会の中でも、意見や立場の違いを乗り越えて、和解をして祈りと力を合わせていくこと」だったのです。
3,振り返り
私は、そして、私たちの教会は、そして今の社会・世界は、どのように生きているでしょうか?
クリスマスシーズンというクロノスとしての「時」はもう目の前です。しかし、「悔い改め」とそれにふさわしい「行いや生活」は十分でしょうか?一生懸命教会生活をし、教会を支えもするけれども、立場や意見の違いを乗り越えて和解とキリストにある平和が実現しているでしょうか?これらが実現して、本当の意味でキリストを迎えることができる「時」が、クロノスではなくてカイロスなのです。
Aiに聞くと、こんな説明もあります。
キリスト教では、「クロノス」と「カイロス」の違いを以下のように考えることができます。「クロノス」は、私たちが生きる日常的で測定可能な時間です。「カイロス」は、神が特別な働きをされる「恵みの時」や「救いの時」であり、私たちがそのタイミングを捉えるように求められます。
実生活への適用としては、キリスト教徒は、日々の「クロノス」の中で「カイロス」を見つけるように呼びかけられます。つまり、単なる時間の流れに流されるのではなく、神が与える意味のある瞬間や機会をしっかりと捉え、応答することが求められるのです。
4,勧め
指折り数えてクリスマスを待つのをやめて、その手の指を組んで祈り、悔い改めと感謝、そして生き方を変える時に、本当の意味でキリストを迎えることができそうですね。
神様は、私たち一人一人に、そして教会や社会にも、苦しい難しい問題を与えられますが、それを通して悔い改め、生まれ変われるように、準備をしてくださっているともいえるでしょう。そんな時、迫害や困難があっても「絶えず喜んで」いることができる、そんなパウロのこの時に心境を味わい、生きることができるでしょう。そういう意味では、安心して困難や迫害も受け、神様を見上げましょう。良いクリスマスが迎えられますように。
2024年11月17日日曜日
礼拝メッセージ 20241117
季節の変わり目、最近分かりにくくなりましたね。心も体も準備も追いつかず、風邪をひいてしまいました。ようやく治りかけと思いましたがぶり返し?のようにもなり、これは2周目?という状態です。時代の変わり目、そして世の終わり?そんなものを見極めるには、どうしたらいいでしょうか?聖書は「世の終わり」についてキリストが語るところです。興味本位に間違えないように、神の呼びかけを聞き取りましょう。今日は、名古屋の復活教会で礼拝担当します。高蔵寺教会では信徒の方が代読して下さり、皆で礼拝をいたします。Youtubeでも礼拝中継をいたします。お待ちしています!
聖書の言葉 1マルコ13: 1~ 8 (新88)
13:1イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」 2イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」
3イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。 4「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」 5イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。 6わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。 7戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。 8民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。
説教「終わりは 何かの始まり」徳弘浩隆牧師
1、 猛烈残暑も終わり…
「暑い暑いといっていたけれど、ずいぶん肌寒くなりましたねぇ」という季節の挨拶が普通でしたけれど、ここ数年はそういう訳でもありません。猛烈な残暑が続いていましたが、急に寒くなり、そしてまた夏日という具合で、心も体も準備ができていない気温の変化が、ある意味普通になってきました。忙しい毎日で衣替えも間に合わず、何を着ようかと迷う事もあります。そして、私は風邪をひいてしまいました。
こんな季節感が怪しくなってきた、地球温暖化と激しい気候変動の時代と同様、世の中の移り変わりも激しく、何がいつ起こるか予測しにくくなっているといえるかもしれません。「もう、世の終わりだ」と従来の地球環境の終わりや、いわゆる「終末」の話を持ち出して、本当に世の中の終わりを主張する人や宗教も多くなります。
そんな中、今日の聖書の言葉も、「世の終わり」という言葉が出てきます。世の混乱や偽キリスト、戦争の噂、そして地震や飢饉についてもキリストは話されました。
これは、なにか隠れた意味のある恐ろしい「予言」なのでしょうか? 一緒に聖書から聞いていきましょう。
2,聖書
聖書は先週の続きです。少し復習のつもりで振り返りましょう。11章でイエス様一行が意を決してエルサレムに入って行かれます。大歓迎を受けます。その後、神殿で商人を追い出します。神の家を商売の家にしてはならないというのです。その大騒ぎの後、キリストは、エルサレムのいろいろな権力者たちと対峙することになります。祭司長、律法学者、長老たち、そしてサドカイ派やファリサイ派という宗教的にも、政治的にも権威がある人たちから、問答を持ち掛けられます。その流れの中で、先週の聖書の個所、やもめの献金になっていきました。大勢のお金持ちがたくさんの献金をするのと対照的に、貧しくつつましく生きている一人の女性が、神殿の賽銭箱に、周りの目も気にせず、「はした金」とも言える一番小さな硬貨を入れている姿でした。キリストは、「彼女は誰よりもたくさん入れたのだ」と称賛しました。神様にすべてをゆだねている生き方をほめたのでした。
そんなことの後、「神殿の境内を出て行かれる時」に今日の聖書の出来事が起こりました。
立派な建物を見て弟子の一人が言いました。「とってもきれいな石の建物ですねぇ!」と。しかしイエス様の応えは驚くような言葉でした。「これらの大きな建物か。これらは全て崩れてしまうだろう」と。そっけない、そして不吉な言葉でした。
それに続いて、いったん神殿から出たのでしょう。今度はエルサレムの城壁の外のオリーブ山から神殿の方を向いて座っているときに、4人の弟子たちは心配になったのでしょう、イエス様に思い切ってひそかに尋ねます。「そんなことはいつ起こるんですか?その時にはどんな兆しがあるんですか?」と。それに対して「偽キリストがたくさん現れ惑わし、戦争の噂を聞くがまだ終わりではない。戦争や地震、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりなのだ」と言われます。いわゆる、終末の預言と言われているいくつかの話の始まりです。
その後、イエス様は捕えられて十字架にかけられていきますが、一年の最後の週が近づく今、その言葉を毎年読むという事になっています。
3,振り返り
さて、私たちは、この聖書を読んで何を学ぶべきでしょうか?今の世の中の動きを見て、「今こそ、その時が来るぞ!」と判断をして人々に呼びかけることでしょうか?ある面そうです。しかし、間違えてはいけないとも言えます。
このイエス様のお話の後、神殿は実際に崩されました。紀元70年の事でした。ユダヤ戦争でローマ帝国軍と同盟軍であったユダヤの王が立てこもるユダヤ人たちを虐殺し、この素晴らしい神殿は破壊されました。その時、「世の終わり」が来たのかというと、そうではありませんでした。
その後もこの神殿の再建はならず、今の姿です。この神殿の後には、黄金の屋根の岩のドームと呼ばれるイスラム教のモスクが建てられ、ユダヤ教でもキリスト教でもない、イスラム教の人たちの場所になりました。私も西暦2000年の9月にここに行きましたが、ちょうどその日にイスラム教とユダヤ教の小競り合いと投石騒ぎからしばらく紛争が続きました。
でも、まだ、いわゆる「世の終わり」は来ていません。今のパレスチナの戦争をみて、いよいよ世の終わりが来たという人もいるでしょう。そんな世の終わりが本当に来るかもしれませんが、それだけを心配して、聖書の暗号のような預言を読み解いて計算して、「いつ世の終わりが来る」と言い出すのは偽キリストともいえる、世を騒がす危険な宗教運動という事になるでしょう。
では、何をここから聞き取ることが必要でしょうか。それは、そこから始まる「産みの苦しみ」という事です。苦しくて、不安で、大変なことになっても、それは、「産みの苦しみだ」とキリストは言います。その苦しみを通して、その向こうに、うれしい新しいいのちが生まれる出来事があるのと同様のことがあるという事です。
それは、こういう事でしょう。私たちの人生にも、苦しみや不安、どうしようもないことが起こって、「もうこれでおしまいだ」とつぶやくときがあっても、それは、今までのものが崩れ去って、新しい自分が生まれ変わるチャンスなのだと。
私たちは、今まで、本当の神を知らずに生きてきました。自分の力や自信、または人の目やお金、権力などを頼りにして生きてきました。自信過剰で人を追いやり、自分の立場を誇示するのが世の人のすることです。しかし、やもめが生活費全てを賽銭箱に入れたように、自分が頼れるものが何もなくなった中で、神様だけに信頼する生き方になること。その財布の中身全部を賽銭箱に入れるという事は、ある意味、自分の頼ってきたものをすべて手放して、神様にすがる生き方になった瞬間でもあるのです。
その時、今まで何かにとりつかれていたように生きていた自分がいったん死んで、背負っていたすべての荷物を肩から降ろして、楽に自由にされたのです。その時が神様の出番。本当に謙虚で、愛のある生き方に変えられます。神を愛し、人を愛し、助け合い支え合う、聖書が一番大切と教える生き方です。
「豪華に作った神殿のきれいな石の建物が何になるんだ。それを誇るよりも、貧しくとも、自分の心に神様と神の愛を宿す、あなたこそが神の神殿なのだよ」、というキリストの言葉を聞き取りましょう。「天変地異が起こる世の終わり」をカウントダウンする事ではなくて、頼るべきものではないものに頼り誇ってきた生き方を終わらせて、本当の神に立ち返って、神を愛し人を愛する生き方が生まれる、そんな「終わりの日と、始まりの日」を見つめることが大切なのです。
4,勧め
人々は、建物や目に見えるものに心を奪われます。私は、「昔ソロモンが建てたというエルサレムの神殿を同じ大きさで再現したというキリスト教会」に行ってみたことがあります。ブラジルのサンパウロの熱狂的なグループの教会が建てて有名になったので、教会メンバーや他の牧師と一緒に夜の礼拝に行ってみました。人々は自信たっぷりで誇らしげに迎え、集まる人も圧倒されています。それもいいことかもしれませんが、私たちは、古い自分が終わって、新しい自分が生まれることに目を向けることが大切です。
エルサレムに残るといわれる、キリストの頃の城壁や石垣、石の階段、があります。しかし、そこに、多くの人が触ってみて祈る石の壁があります。それは、キリストが十字架を背負って歩かされるときに倒れて、手をついたと、伝説で言われる石の壁の一部分です。みんなが触って祈るので、そこだけ黒くなっています。私もそこに立ち、それを触りながら、祈らされました。罪深い自分のために、十字架を背負わされ、代わりに死んでくれた方を思い出して、間違いを悔い改めて、神の愛を知り、人を愛し、正しく生きていける、そんな人に少しずつ変えられる。そんなことを思い起こさせてくれる、黒くなった石の壁の一部分。私たちも、自分の心に手を当てて、悔い改めと、新しい自分の生き方をはじめましょう。
教会のカレンダーでは、来週の日曜日が一年で最後になります。一年の終わりの前に、心の大掃除も致しましょう。
2024年9月29日日曜日
礼拝メッセージ 20240929
猛暑が続いたこの夏、9月の終わりでもまだ続いています。連日ニュースでは、「適切に冷房を使って、水を飲みましょう」と言われ続けました。「一杯の水」の大切さを連呼された形ですが、今日の聖書もそれを言っています。でも少し違った意味で。どんなこと?一緒に学んでいきましょう。今日は高蔵寺教会で礼拝担当をします。Youtubeでも中継します。お待ちしています。
聖書の言葉
民数記11: 4~6,10~16,24~29
26宿営に残っていた人が二人あった。一人はエルダド、もう一人はメダドといい、長老の中に加えられていたが、まだ幕屋には出かけていなかった。霊が彼らの上にもとどまり、彼らは宿営で預言状態になった。 27一人の若者がモーセのもとに走って行き、エルダドとメダドが宿営で預言状態になっていると告げた。 28若いころからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアは、「わが主モーセよ、やめさせてください」と言った。 29モーセは彼に言った。「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」
マルコ9:38~50 (新80)
9: 38ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」 39イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。 40わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。 41はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」
42「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。 43もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。 44† 45もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。 46† 47もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。 48地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。 49人は皆、火で塩味を付けられる。 50塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」
説教「小ささの 大きさ」徳弘浩隆牧師
1、 「一杯の水」…
一杯の水の話は聖書では有名です。そして、それは、「たとえわずかなことでも人に施しをする、優しい愛のある行いをすることの大切さを説いている」と、一般的に感じていると思います。「だから私たちも、小さなことでも、人にしてあげよう」と思わされますし、キリストの愛の教えと考えられます。
それはとても大切なことで、私たちに愛のある生き方を促してくれます。先月の朝の聖書の学びで、女性会連盟の聖書研究テキストでも学び、とても有意義な学びや振り返り、そして勧めを与えてくれました。もちろんそれは大切なことです。
しかし、今日の聖書は、全体を読んでいくと、そして、伝統的にセットで読まれる旧約聖書を読んでいくと、違ったポイントが聞こえてきます。ちょっと不審に思われるかもしれませんが、一緒に聞いていきましょう。
2,聖書
聖書のマルコによる福音書の9章41節が有名な言葉です。「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」
この言葉に既に、一杯の水を飲ませるということの理由について、限定的に説明されています。それは、「キリストの弟子だという理由で」ということです。ここには、「私があなたたちを愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」という「愛の勧め」はありません。
もう一つは、このことばを語られたいきさつが大切です。それは、弟子のヨハネが「イエス様の名前を使って悪霊を追い出しているものがいたので、やめさせようとした」ということ言うことを報告したことに対してのイエス様の言葉だということです。「やめさせてはならない」ということと、「逆らわないものは味方だ」と言いながら、「どんなものであれ、キリストの弟子だという理由で大切にしなさい」という流れになったのです。
3,振り返り
今日の聖書を読んで、私たちは自分の生き方をどのように振り返るべきでしょうか?私は、正直に言うと、今年は今までの愛の勧めという要素を強調しすぎていた受け取り方からすると、ずいぶん違う神の声を聞いた気がしました。
一般論としての愛の勧めではなくて、キリストに従うものを大切にすること、たとえそれがどんなまがい品のような出来事であっても、キリストの名によってされていることならば大切にしなさい、と明確に聞こえてくるからです。そこで、「その人に、その理由で、たった一杯の水でも飲ませるならば」という話につながったのでした。
これは、今日の聖書の旧約の聖書の言葉からも実は明確です。モーセの時代に、神はモーセに与えた霊を少しとってほかの者にも分け与えた、という興味深い話が出てきました。それは、不安や不満を持つ人々を教え支えるために、モーセ一人ではなくて他の70人にも預言をし指導をする力を与えたというのです。そのときちょうど神の天幕にいなかった二人の人にも神の霊が降ったのを見て、ヨシュアがモーセにやめさせるよう言いました。しかし、それをモーセはやめさせず、こういいました。「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」
これらのことを総合して読んでいくと、聞こえてくる神の声があります。ポイントはこの二つということになります。それは実は、今日の集いの祈りからも明確に聞こえてくるのです。今日は二つの祈りが決められています。
1)一つは、「あなたの霊を分け与え、御名を証しできるように」という祈りです。
2)もう一つは、今日祈らなかった文章を紹介しましょう。「愛(あい)なる神(かみ)さま。あなたは一(ひと)人(り)の滅(ほろ)びをもお望(のぞ)みではありません。私(わたし)たちが、互(たが)いに支(ささ)え合(あ)い、ゆるし合(あ)いながら、御(み)心(こころ)にかなう群(む)れでありますように助(たす)けてください。」とあります。つまり、ねたみや嫉みや、競争や分裂ではなく、互いに愛し合い、ゆるしあいながら、御心に適う群れになることを、祈ることになっています。
これはまさに、私たちの教会の在り方への使信、私たちのクリスチャンとしての生き方への勧めでもあります。
4,勧め
一般的な勧めとして、神にある愛の行いの勧めとして聞いてもいいでしょう。困った人がいたら、一杯の水でも差しだす、そんな愛の勇気をいただき、生きていきましょう。
そして、本来的には、神の名によって、神のために働くクリスチャン同士、どんな小さな人でも、大切にして、一つの群れとして、教会が大きく成長していく、そんな生き方をしていきましょう。
個人の生き方、そして、今の社会を生きる中で格闘もしながら将来を考えていくべき、教会の在り方、そこでも私たち一人一人の生き方も、教えられているのでした。さあ、いっしょに神様の道を生きていきましょう。教会の中の誰も、おろそかにされてはなりません。そして、教会の外の誰も、おろそかにされてはなりません。
そんなキリストにある小さな人を大切にすることの意味の大きさを、いっしょに生きていきましょう。教会内にある愛の一致と、教会の外に向けての愛の奉仕と伝道、そこに私たちは招かれ、押し出されて行きましょう。
牧師コラム 「一杯の水」の映画!
今日の聖書を読んで一週間、祈り考えながら過ごしました。今日の説教を書き上げる結論に導かれる中で、思い出した映画のシーンがありました。
見ず知らずの人から一杯の水をもらって、死にそうだった自分が、命をつないでいった出来事。そしてやがて、自分が不遇な生活から脱出した時に出会った死にそうになっている人に一杯の水を差しだしたときに、その人はなんと、かつて自分に一杯の水を差しだしてくれた人だったと気づかされるのです。そしてその人は、十字架にかかりに行く、鞭うたれ転びながら歩いているキリストだと気づいていくのでした。
そう、1959年の「ベン・ハー」という有名な映画ですね。もちろん聖書の物語ではなくて、あの時代の出来事と重ねながら壮大なスケールで描いたフィクションです。しかし、とても大切な気づきを与えてくれる映画です。
こどものころ、母に勧められて兄と3人でTVで見たこの映画を思い出しました。もう一度見てみたいですね。どうですか?教会で一緒に見ましょうか?
2024年9月1日日曜日
礼拝メッセージ 20240901
台風の行き先を見つめ、その迷走ぶりに振り回され、多くの方の被害もあり心も痛め、心配の一週間でしたね。皆様はご無事にお過ごしですか?担当している3つの教会の役員の方々とそれぞれ連絡を取り合い、愛知県の構造時と復活の2教会は安全を確認して集まる礼拝をすることにし、静岡の浜名教会は集まる形の礼拝はお休みにしました。まだ警報が出ているからです。でもまだまだ、心配ですね。祈り、必要があれば助け合うなど対応をしましょう。そう、今日は防災の日でもありますね。今日も聖書を一緒に読んで、神様の声を聴きましょう。高蔵寺教会で礼拝担当をして、YouTubeでの中継も致します。今日も安全に元気に過ごしましょう。
聖書の言葉 マルコ7: 1~8, 14~15, 21~23 (新74)
7: 1ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。 2そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。 3――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、 4また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。―― 5そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」 6イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。
『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。7人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』 8あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
14それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。 15外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」 21中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、 22姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、 23これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」」
説教「口は心の門、出口か入口か?」徳弘浩隆牧師
1、 出口と入口…
今から12年ほど前でしょうか、ブラジルに行って3年たった時に初めて一時帰国しました。その時、サンパウロの教会を助け支えてくれていた一人の日系二世の方も一緒に来られました。私より一回り年上の彼女は日本語はだいぶ上手になりましたが、漢字の読み書きは大変苦手でした。妻と3人で各地の教会にも呼んでいただき、報告会や交流会もしていただきました。北海道から九州までいろんなところを一緒に旅をし、教会も訪ね、少しの観光もしました。そんな彼女がある日こう言いました。「出口さんっていう人、結構多いんですね」。「えっ?」と不思議に思い、一緒に見たお店にある表札には「出口」と書かれているのを見て、慌てて説明し、3人で大笑いしたことがあります。彼女はブラジルの日系人の友達で、「出口さん」という人がいて、漢字も覚えていたのですが、日本の街を歩くときにいくつもそれを見たというのでした。
もうみなさんお分かりの通り、彼女が見た「出口」という「表札」のほとんどは、「表札」ではなくて、「入口」「出口」のように表示しているものだったのです。もちろん、本当の表札もあったと思います。「出口」さんという名前は結構おられるそうですしね。調べると、伊勢神宮の関係のお仕事の人に与えられた苗字が多いそうです。
今日の聖書は、「手を洗う」かどうかということが論争になり、そこから「口」から入るものと出るもの、というキリストの言葉が語られています。口の入り口としての働きか、出口としての働きか、なにが神様や人との間で大切かという話になっていきます。 聖書から今日の言葉を、聞いていきましょう。
2,聖書
聖書はしばらく「生ける神のパンとしてのキリスト」にかかわる話が続き、ひと段落したと思いますが、きょうも食べ物の話でもあります。
ファリサイ派の人々はイエス様の話やなさることに感心していて、エルサレムからわざわざ様子を見に来ていました。しかし、その弟子たちの生きざまにつまずき、批判的になり、イエス様に尋ねました。「あなたの弟子たちは食事の前に手を洗っていないのはなぜですか?」と。それに対してイエス様は、「確かにその通りだ。もっと衛生管理や行儀のよさを教えることにしよう」と素直にお答えになりませんでした。むしろ、旧約聖書の言葉を引いてきて、反論しました。イザヤ書の29章13節にこうあると。「口先では神を敬うが、心は離れている。」という趣旨で、ファリサイ派や律法学者に対して、神の掟を捨てて人間の言い伝えを固く守っていると、批判されたのです。
そして、こう結論付けます。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」と。
3,振り返り
この聖書の話をどう私たちは読むべきでしょうか?下手をすると、弟子や子供のぶしつけを批判されて、逆切れしている人に見えなくもありません。イエス様は、なぜそんな風に反論され、相手を批判したのでしょうか?そこが大切なところです。
手を洗わないで食事をするというのは、食前に手を洗うという今の私たちの衛生上の問題を指しているのではありません。ユダヤ教でいう、「神が汚れていないから食べてよい」と許された食物を、神が定める方法で祈り手を清めていただく、という宗教的な掟に沿っていたかどうかということでした。
私が岐阜にいるときに、買い物の行き来の途中で気になっている建物があり、思い切って妻と一緒に訪ねたことがあります。そのあと、皆さんも知っているインドネシアの姉妹もつれて建物の前まで行って、一緒に挨拶もしました。それは、岐阜大学のそばに建てられた綺麗なイスラム教のモスクでした。「誰でも見学できますからお声掛けください」という日本語の掲示もあったので、声かけをして、歓迎して入れてもらい、中を案内していただきました。入口は男性と女性に分かれていて、入ったらすぐに廊下わきに部屋がありました。そこには私たちの見慣れた銭湯の椅子と蛇口のようなものが並んでいました。牧師のような立場のイマームは説明してくれました。「ここで、みんな規定に沿って左右の腕を肘まで、そして手を、それから口や鼻を注ぎます。そのあと、礼拝堂に入っていくんですよ」と。そのときの手や腕の回し方の作法も見せて教えてくれました。お祈りの時間や、メッカの方向、そして教えを簡単に説明してくれ、本もいくつかくださり、感謝してお別れしました。とても良い勉強と交流でしたもちろん、「教会の牧師ですが、入ってもいいものでしょうか?」と最初に挨拶をして、歓迎してもらいました。
さて、ユダヤ教にもこのような掟があり、歴史の中でそれがさらに細かく規定されていたというのが、今日のイエス様の論争のもとにあったということが大切です。
ファリサイ派や律法学者は、本名人たちでした。この神の掟に、歴史の中でくわえられた細かな規定を知り尽くした律法学者、そしてそれを厳格に守っていて守らない人を小ばかにしていたファリサイ派の人たちだったのです。それに対して、口先で神を敬って人々に重荷を押し付けるよりも、神様の本当の気持ちを説明し、人々を自由にしたのがイエス様だったのです。
厳格すぎる掟や作法や、汚れた食べ物とそうでないものという規定で縛られて、口から入るものを気遣うよりも、口から出るもの、つまり言葉を大切にしなさい、ということです。言葉は人を助けもしますが苦しめもします。愛しもしますが、裁きもします。元気づけ生き返らせもしますが、つき放ち命さえ奪います。
私たちはどんな生き方をしているでしょうか?
4,勧め
決まりごとはなにもかも放棄して思うように生きたらよいということではありません。決まりごとに縛られ、人を裁き、他者を排除し、対話や交流をせず、自分の考えが何よりも絶対的に正しいと、頑張りすぎるときに、対立や戦争も起こります。何よりも大切なのは、神様の愛と、人の不完全さを認め、神を愛し人を愛する、平和な生き方、それを神様も求め願っておられるということです。
出口と入り口は、別々ではなくて、同じ口の反対方向のものです。私たちの用い方で、生き方は変わります。口は食物の入り口でもありますが、口は心の門でもあります。対話と、愛で、多くの人々ともに平和に生きていく社会を作っていきましょう。
2024年8月25日日曜日
説教メッセージ 20240825
金曜日はお手伝いしている幼稚園の「夏のゆうすずみかい」には120人ほどのこどもたちが来てくれて教職員の方に大感謝。土曜日は高蔵寺教会のCS(子どもの礼拝)の一日キャンプで「武器を捨てて平和を作る」ことを一緒に学び、ゲームやスイカ割りで楽しみました。スタッフの皆さんに助けられながら忙しい充実した日々を過ごせて感謝です。さて日曜日は名古屋の復活教会で礼拝担当、高蔵寺教会では私より祈りと熱のこもった信徒の方が私の説教原稿を代読して礼拝を持ってくれます。YouTubeの中継もします。どうぞ、教会へおいでください。
今週の聖書の言葉
ヨハネ6:56~69 (新176)
6: 56わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。 57生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。 58これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」 59これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。
60ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」 61イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。 62それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。 63命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。 64しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。 65そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
66このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。 67そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。 68シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。 69あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
説教「QUO VADIS? 主よどこへ?」 徳弘浩隆牧師
1、 パンの話も今日で一区切り…
暫くパンの話が続きました。来週からマルコの福音書に戻るので、今日で一区切りと言えるかもしれません。
先週は、旧約聖書の箴言の言葉も選ばれていましたから、そこで「知恵」とたとえられた神の言葉からの呼びかけを通して、イエス様のパンの話を聞きました。
つまり、「私のパンを食べなさい」というのは、旧約聖書の言葉を意識しながら、その続き、いや完成形としてのイエスキリストに従って生きていくことを呼びかけていました。そしてそれは、今の教会では、説教と聖礼典という二つの形として継承されているといえます。ルターは、聖礼典、特に洗礼と聖餐を「見える言葉」として説明し、聖書の朗読と説教を「見えない言葉」として説明しました。
このように「霊の糧」としての食べ物と、私たちが生物として生きていくうえで必要な食事を「肉の糧」と言ったりもします。イエス様は霊の食べ物を言われたのです。
これを食べるものは、かつての天から降ったマナや、普通に食べるパンとは違って、永遠に生きることができると説明されました。つまり神様との本来の関係の中に立ち戻り、とどまり続けることができると言われ、呼びかけられたのです。
今日はその続きで、これを聞いた弟子たちの中で不安と不信が生まれます。弟子たちはどうなっていったのでしょうか?聖書から今日の言葉を、聞いていきましょう。
2,聖書
今日の福音書とともに選ばれて私たちに告げられているのは、旧約聖書からはヨシュア記です。それと重ねて読むときに、今日の福音書のポイントが、そしてイエス様の呼びかけが本当の意味で聞こえてくることになります。
ヨシュアはモーセの後継者で、出エジプトをしたユダの人々を導いてモーセがなせなかったカナンへの帰還を果たします。それを目前にして全部族を集め、ユダの人々に問いかけています。「私たちを解放してエジプトの地から救い出してくれた主なる神に従いなさい。もしそれを願わないなら、一緒に渡ってきた川の向こう側や今滞在しているこの地の異教の神々に従うか、今日自分で選びなさい」と。
そして今日の福音書のイエス様と弟子たちの出来事は、それを思い出させる出来事が起こっているのです。イエス様が命のパンの話をしても理解できず、「実にひどい話だ。誰がこんな話を聞いていられようか」と弟子たちはつぶやきだしたのです。これは群衆ではなくて、弟子たちと書かれてありますから、ある程度覚悟を決めてイエス様にしたがっていた人々の事です。その結果、「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスとともに歩まなくなった」と言われる事態になりました。
そこで、イエス様は残った12人に尋ねます。「あなたがたも離れていきたいか」と。しかし、ペトロは力強く答えました。「主よ、私たちは誰のところへ行きましょうか」と。「あなたは永遠の命の言葉を持った神の聖者であると信じ、知っています」と信仰を告白するのでした。
3,振り返り
私たちも今日、神の問いかけを聞いています。
ヨシュアがユダの民に、「本当の神様に従って生きていくか、ほかの何かを頼りにして生きていくのか、今日、自分で、選びなさい」と。
そしてイエス様の時もそうでした。神様の言葉やご計画が理解できずに、大勢の人が離れ去った後、「あなたがたも離れていきたいか?」と。
私たちの信仰生活も、神様の計画や神様の「時」が理解できないこともあります。一生懸命祈って努力していても、願いがかなわないこともあります。問題や、病気や、人との関係、教会の中でさえさざ波が立って自分の信仰に自信が持てなくなる時もあるでしょう。
そんなとき、今日の言葉を思い出しましょう。「神と神でないものの、どちらにつくのですか?」「人々は去ったけれど、あなたも去りたいのか?」と。
そんなとき、ペトロのように立派な信仰を持ちたいものだと思わされます。しかし、それが結論ではありません。そののちのペトロのことも私達は知っているからです。彼は、イエス様が逮捕されていったとき、「私はあの人の仲間ではない」と言ってキリストの弟子であったことを三度も否定するのでした。
そして、どうしても思い出すのが今日の説教題です。これは、キリスト教会の中の伝説ともいえることで聖書には記されていませんが、「主よ、どこに行かれるのですか?」とペトロがイエス様に問いかける言葉です。この言葉のラテン語、「クオ・バディス」という映画も昔あったので、覚えておられる方もおられるでしょう。
ペトロがローマで宣教をしていた時、迫害が激しくなり、彼はローマから逃げ去ろうとします。しかしその道で何とイエス様に出会うのです。ペトロはとっさに問いかけたのです。すると、「あなたが逃げようとするから、私はもう一度十字架にかかるために、あのローマに行くのだ」と。その伝説の場所がローマのアッピア街道沿いにあり、今そこに小さな教会が建てられています。
4,勧め
悔い改めて神に立ち返り、信じても、心を決めても、続かないのが私たち罪びとです。人を赦し、和解し、愛しても、続かないのが私達です。しかし、そんな私たちのために、十字架にかかってくれたのがイエス様です。
「あなたも去るのか?」と聞かれ、「そんなことはありません」、と答えたペトロでしたが、自分が窮地に立つときに逃げ出し、出くわしたイエス様に「どこへ行かれるのですか?」と逆に問いかけることになってしまいました。
しかし、そんな弱い私たちをよく知っているのもイエス様です。決断を迫る神は厳しい方ですが、弱くて倒れ逃げ出すものをも赦し、何度でも、現れ、寄り添い、代わりに苦しみを背負ってくださり、守ってくださる方だという事を、今日学んでいきたいと思います。
神様に信頼して一緒に生きていきましょう。
2024年7月28日日曜日
説教メッセージ 20240728
昨日は暑い中、高蔵寺教会に集まって、みんなで素敵なハープの音色を聞きました。ひょんな出会いから、プロの先生をお呼びして、教会学校のこどもたちに、そして大人のみんなや知り合いにも声をおかけしての集会にしました。教会ではいろんな自主グループもできて、音楽クラブや、刺繍クラブやほかにもいろいろアイデアもあります。一緒にいろんなことを楽しみませんか?出会いや、新しいこと、好きなことに熱中することは、元気に楽しく生きるコツかもしれません。教会を利用してください。明日は名古屋の復活教会で説教担当です。YouTUbe中継もあります。お待ちしています!
聖書の言葉 ヨハネ 6: 1~21 (新174)
6: 1その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。 2大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。 3イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。 4ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。 5イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、 6こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。 7フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。 8弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。 9「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」 10イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。 11さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。 12人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。 13集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。 14そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。 15イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。/以下省略/
説教「パンの増える奇蹟の意味すること」徳弘浩隆牧師
1、食事が足りないと困るから…
お客さんを呼んで会食をするときに、気にするのはメニューですね。集まる人の好き嫌いを考えて、今はアレルギーもありますから気を使います。宗教の違いもあると、食べてはいけないとされる物があり尊重せねばなりません。さて、メニューが決まって次に気にするのは、量かもしれません。足りないと迷惑をかけるし格好も悪いし、でも余り過ぎてももったいないし今ではフードロスなんて言う事も気にしなければなりません。
文化や風習が違うと、出されたものをどの順に食べるか、全部食べたほうがいいか残した方がいいかなど、気を遣う事もあります。先日一緒に食事をしたシリア人の青年もイスラム教ですから「アルコールや豚肉はダメだよねぇ」と確認し、お土産をあげたら逆に「日本は今あけてもいいんだっけ?」と聞かれたりします。
ブラジルで気が楽になったのは、こういう文化の違いでもありました。プレゼントはすぐに開けて喜んだ方がいいし、あげた方も「つまらないものですが」とかいわずに、堂々と勧めて、喜ばれたら恐縮せずに一緒に喜ぶという事でした。食事も「足りなくて困るかもしれないけど」と心配はせず、予定外の人が来ても食事に誘います。「足りないと迷惑でしょ」というと、こんな返事をして一緒に笑って、遠慮を吹き飛ばします。「足りなかったら水を入れて増やすから心配ないよ!」と何度も言われました。カレーライスのようなフェジョアーダという豆を煮こんだ料理は確かに、水を入れて少し味の調整をしたら結構増やせるような感じでした。
今日の聖書は有名な「5000人の給食」とよく言われるところです。パン5つと魚2匹だけしかないのに、5000人が満腹したという奇跡です。イエス様は何をされたのでしょうか。水を入れて増やしたのでしょうか?この「奇蹟」は私たちの人生に何を意味するでしょうか。一緒に聖書を見ていきましょう。
2,聖書
今年はマルコの福音書を読んできましたが、ヨハネの福音書にしばらく変わります。そして、パンの話が続きます。今日はその一回目で、パンが増えたのです。
大勢の群衆がイエス様を追い、集まりました。イエス様の病人たちをいやした奇蹟を見たからだという事です。大勢の群衆が来るのを見て、弟子に聞きます。試みるためだったとありますが、弟子のフィリポの信仰を試そうとされたのでしょう。「どこでパンを買おうか」と。するとフィリポは「大金があっても到底足りないでしょう」と言います。アンデレはパン5つと魚2匹を持った少年のことを伝えました。でもそれは解決策ではなくて、「たったこれだけしかないので、到底役に立たないでしょう」というためでした。
しかし、イエス様は人々を座らせ、パンをとり、感謝の祈りを唱えてから、分け与えました。魚も同じようにしました。すると、5000人の群衆は満腹したのです。
3,振り返り
さて、今日の聖書から何を私たちは学びましょう。
どうしてパンが増えたのかと、不信仰で現実的なことを考える人は、私を含めて、色々な方法や理由を考えて信仰と現実を一致させようとします。
しかし今日の聖書が問いかけているのは、その問いではなくて、フィリポに問いかけたイエス様の問いです。「これだけの群衆がいるけれど、どこでパンを買おうか?」という試みの問いかけです。答えはこうでした。どこで買おうかという問いにではなく、そもそも、「足りないでしょう」という決めつけでした。そこに気を利かせたアンデレが口をはさみますが、「少しの食糧があるけれど到底足りないでしょう」といいう決めつけでした。
これらは極めて現実的で正しい判断でしょう。しかし、それを大きく上回っているのが、神様のご計画であり、神様の恵みや愛だという事を、見せつけられることになります。それが今日の福音のポイントです。
実はこれはイエス様の十字架をも指し示していると考えてもいいでしょう。最後の晩餐、つまりその後の聖餐式を思い出す言い回しになっているからです。「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから」弟子たちに分け与えたのです。また、「盃をも同じようにして」ではありませんが、「魚も同じように」されました。わざわざ今日の状況説明で言われていた「過ぎ越し祭が近づいていた」という言葉も、最後の晩餐、あるいはその後の聖餐式への流れを思い起こす出来事になっています。
イエス様が感謝して人々に分け与えるパン。そして命のパンとして来られた方のこの出来事。また、やがて、過ぎ越し祭に最後の晩餐をして十字架に向かわれるイエス様。その過ぎ越し祭は、ユダヤの民を救い出すために、子羊を犠牲にしてその血を戸口に塗った家だけを天使が過ぎ越していったあの出エジプトのことを上書きするかのような、キリストの十字架の出来事へと重なっていく神様の救いの計画でした。イエス様はそのために来られた、十字架を見上げさせられもする奇蹟・つまり「しるし」と呼んでいくことが大切です。
4,勧め
さて、納得して終わりたいところですが、一つ腑に落ちないことが私にはありました。何か違うのです。どう思われますか?
出エジプトをして、荒れ野をさまよう旅で、彼らも同じように不思議な方法で食事を得て飢えることはありませんでした。マナとウズラの出来事です。これを毎日降らせ、生じさせ、空腹は満たされました。しかし、今日のイエス様の出来事は、その時の、また、いつもの神様のやり方とは違うんじゃないか?と思わされます。それは、マナを欲張ってたくさん集めても翌日はダメになっていたという事です。残ったものをたくさん集めてもダメだったのに、今日はどうして12カゴもパンが余ったのか?というところが、「いつもと違うぞ」と思わされるところです。
私たちも、体験します。「困って困って神様に一生懸命祈ったら、神様は与えてくださいました。しかし、ちょうどいいくらいの量で、余るほどはありませんでした。でもそれが神様のなさることなんでしょうね」という体験をしたり、証を聞いたりします。その神様が、です。どうして今日は余っているのでしょうか?水加減を間違えたのでしょうか?
実はそれが、今日の私たちへの勧めです。12かご余ったそのかごは、イエス様を受け入れない12部族のユダヤ民族を表しています。そしてそれはやがて、全ての人のための救いの出来事に広がっていきます。今日ここにいない人のため。そのうち、ここに集められてくる人のため。そのために、今回は、たくさん余るという出来事になっているのでしょう。
わたしたちも、神様の恵みや、肩の荷を下ろして無理せず生きれるようになったこの安心を、まだここに集められていない人のために、有り余るほどいたただき、預かっているのです。独り占めしてはいけません。与えられたものも、安心や優しさや愛も、わかちあって、一緒に神様と生きていきましょう。
牧師コラム・ 肉ソバを頼んだのに
出張の帰り、やっと昼食をとりました。高速のサービスエリアで簡単にと肉そばを注文。しかし、出てきたのは「肉うどん」!さて、一瞬の間にいろいろ頭をめぐります。
みんなならどうするかなと、お店で食べながらFacebookに載せてみました。「肉そばを頼んだのに、肉うどんが来た 良い子のあなたはどうする?」
1、そのまま感謝して食べる
2、カウンターに行って交換してもらう
3、半分まで食べたて気づいたと言って交換してもらう
意外と結構まじめな答えも帰ってきました。「自分の注文を忘れてそのまま食べる」という私と同年代の同僚の高齢者?特有の返事も。あなたはどうですか?
「それで、先生はどうされたんですか?」とも聞かれました。はい、私はこんな悪いことも考えなら、こうでした。
私は、とっさに2、その後3に迷った末、1でした😅 間違えを指摘する律法主義→罪の思いのズルさ→最後は赦しと愛と感謝という形でしたよ。ははは😊。
2024年7月21日日曜日
説教メッセージ 20240721
全世界を襲った?パソコンのシステム障害。空港で群衆は立ち往生。疲れ、座り込み途方に暮れる姿は気の毒でした。今日の聖書でも、殺到する群衆、疲れ、座り込む姿が描かれています。私はこのニュースを見て、私たちの神様や人との関係を象徴もしていると、考えさせられました。一緒に聖書を見てみませんか?今日は高蔵寺教会で礼拝担当をし、Youtubeでも配信します。猛暑でやむなく教会をお休みする方にもお勧めしています。礼拝後は、青年会と外国人メンバーの夏のワークキャンプについても話し合います。お待ちしています。
聖書の言葉
マルコ 6:30~34,53~56 (新72)
6: 30さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。 31イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。 32そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。 33ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。 34イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。
6: 53こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。 54一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、 55その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。 56村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。
説教「飼い主のいない羊、羊のいない飼い主」徳弘浩隆牧師
1、疲れ果て、行列を作る人々
今日の週報やプロジェクターの表紙の画像は、多くの人が集まり、イエス様に会おうとしている挿絵です。イエス様に会おうと、連れてこられた病気の方もいて、こどもを抱えた母親たちの姿もありますが、人々は疲れ果て、座り込む人もいます。
私たちは先週、似た光景を目にしました。TVのニュースで、です。人々は殺到し、行列ができ、子どもたちと一緒に、荷物も抱え、途方に暮れている映像を見ました。それは、世界中で起こっていました。
違うのは、先週見た光景は世界各地の空港。イエス様に会おうという行列ではなくて、カウンターに並ぶ彼らが見つめるのは青い画面のコンピューターだったことです。Facebookでは、彼女が中学生のころから知っている教会のメンバーが、ちょうど旅先のアメリカの空港でこのトラブルに巻き込まれて、乗り換えができず、高いお金を払ってホテルに泊まらないといけないかという嘆きの声でした。お子さん連れの旅行で、気の毒なことでした。状況も時代も全く違いはしますが、何か似たものを感じながら、ニュースを見、また聖書を読む週末でした。一緒に聖書を見ていきましょう。
2,聖書
マルコの福音書の流れはこうです。イエス様がガリラヤ湖のほとりで説教をし、向こう岸にわたり、また戻ったところで会堂長ヤイロの娘を生き返らせる奇蹟がありました。その後、故郷・つまり、ナザレに行かれて宣教をされました。人々は驚いたけれど受け入れられなかったと伝えられています。それで近くの村を回り宣教をされ、つぎには弟子たちを二人ずつペアにして派遣しました。そして今日は、その弟子たちが帰ってきて、イエス様にすべての出来事を報告をしたというところから始まります。イエス様は「あなたたちだけで、人里離れたところで休むがよい」と成果を喜ばれ、休息をとるように勧めました。忙しすぎて食事をする暇もなかったからだということです。しかし、移動先にも群衆は駆け付け、先回りまでしていました。舟から上がったイエス様は、大勢の群衆を見て深く憐れまれ、いろいろと教えました。
その後、実は5000人に食事を与えられた奇蹟の話がありますが、今日はそれを飛ばして、また船で湖を渡って、ゲネサレトという土地に行きましたが、そこでも多くの人に追いかけられ、人々に教え癒されたという話までになっています。
今日の礼拝では飛ばすことになるパンの奇蹟は、この後来週からしばらく、パンの奇蹟の話が続くことになりますので、今日は飛ばして学ぶことになるのでしょう。
3,振り返り
さて、今日の聖書から何を私たちは振り返りましょう。
少し引きずられすぎかもしれませんが、私はどうしても、空港で待ちくたびれて、解決せず、行列を作り、座り込み、途方に暮れる、現代の空港にいる群衆のことを忘れることができません。忙しい仕事や楽しみにしていた旅行ができなくなった方々にはお気の毒ですし、買い物や病院でもトラブルとなって、手術や診察や薬が先延ばしになった方もおれら、これはもっと重大なことで気の毒なことでした。
しかし、この姿に、私たちの姿を見せつけられもしました。トラブルの原因は簡単に言うと、コンピューターのシステム障害ですが、それぞれのパソコンが立ち上がらなくなり青い画面とメッセージのみが出ることになり、データーを蓄積しやり取りをするサーバーともつながらなくなったということが原因で起きたことでした。
私たちの姿はどうでしょうか? 一人一人がうまく生きることが出来なくて、それぞれが機能しなくて、青い顔をして立ち止まり座り込むことがあります。互いの連携も取れなくなり、おおもとの大事な方との関係も途絶えているから、何もできない状態に陥ることがあります。それぞれは大きな価値がある一人一人ですがそれが発揮できず、連携した助け合いや、分かち合うこともできません。すべてを制御し多くの知恵や資源がある神様との関係も切れてしまっています。それで、立ち往生し、ぶつかり合い、戦争までするその姿は、史上最大のパソコンのシステムエラーではなくて、人類が神を離れ、人々の関係が切れ、それぞれの人間もその価値を発揮できずにいる姿そのものに見えて仕方ありません。
そこで立ちすくみ、座り込み、行列を作る姿は、「飼い主のいない羊」のようでもあります。そんな私たちに、帰ってくるようにと呼びかけ続けておられるのが旧約から新約まで一貫して待ち続けている神の姿です。私たちが「飼い主のいない羊」のように憐れだと思いますが、実は、神様の方も悲しみに暮れる「羊がいなくなったか羊飼い」でもあるのです。そこに来られたイエスさまと、イエス様が派遣した弟子たちは、休む暇もないほど忙しく働き、教え、癒してくださったということが今日の福音のポイントだと思わされます。
4,勧め
私も休む暇もないほど忙しい日を送ることもありますが、まだまだともいえるかもしれません。
先週は実は忙しい週でしたが、友人が訪ねてきてくれました。シリア人の青年でイスラム教徒のまじめな青年です。サンパウロの教会で出会い、教会のゲストルームにしばらく滞在し、教会での交流もし、今でもつながっていました。その後、彼はフランスで難民ビザを取って大学を終了し、短期交換留学で東京大学で勉強中でした。もうすぐフランスに帰国なのでと、名古屋まで会いに来てくれました。 7-8年ぶりに彼と会い、英語にポルトガル語と日本語を少し混ぜながらずいぶん久しぶりに話し込みました。キリスト教とイスラム教の違いはありますが、彼は温厚ですがまじめな信仰の持ち主で、意気投合します。
「神を大切にし、人々が愛し合う世界、それが神の願いなのに、それを人類は破ってしまった。だから神はその時々に応じて預言者を送った。神のもとに帰り、人と人が愛し合って平和に生きることができるようにと。イエスさまも偉大な預言者で、私たちも尊敬している。彼がメシアで最後の審判で再度来られるのも信じて待っている。」と力説します。もちろんイスラムの人ですから、こうも言います。「ムハンマドがそれ以降の最後の預言者だし、パウロがキリスト教を神学的に組織化して教会を形成していく中で、神の教えから少しそれたところがあるんじゃないかと自分は思っているんだけれど」と。
神学的な宗教論争はせずに、彼の神様と自分たちの関係の見方や生き方は、本当に尊敬し互いに理解しあえることが大きいと思わされます。イスラムのイマーンになって一緒に仕事をしないかと言ったくらいです。そういえば、サンパウロで彼からポルトガル語版の簡略版クルアーン(コーラン)ももらいました。
私たちはイエス様を通して教えられた神様の出来事をもっと学び、神様との正しい関係、人々の間の正しい関係に戻っていきたいと、思わされます。もっと一緒に聖書を学び、他宗教や歴史も学び、自分の中に正義と平和が訪れ、世界の人と平和に生きていけるように歩みましょう。
牧師コラム・ 急に訪ねてきた友と神様の話
Facebookのメッセンジャーでブラジルの教会員のご婦人からメッセージがありました。「先生、〇×〇×が先生に会いに行くと言っています。よろしくお願いします。」と。前後して、〇×〇×からも英語でメッセージがありました。「先生、来週名古屋に行きます。時間があったら会えたらとてもうれしいです。東京に来ていましたが、大学が忙しくてどこにも旅行できませんでした。」と。忙しいけれど懐かしい友人からの連絡だったので、すぐにOKしました。彼の勘違いで少し日程がずれて高蔵寺訪問は無理でしたが、無事会いました。夜行バスで名古屋まで来た彼と朝会い、徳川園と復活教会を案内。近所の喫茶店でモーニングを食べながらおしゃべり。昼食は和食をと、ちょっと奮発して、カニのおいしいお店でランチ。北海道もたぶん行けないというので。
そして、私が関わっている幼稚園の先生に相談して、夜は一泊保育の花火に飛び入り参加で招待しました。今月の幼稚園の聖書の言葉は「隣人を愛しなさい」ですから、子どもたちにも、先生の大切のお友達を紹介します」といって、「みんなは初めて会う人だけとコワくないよ、仲良くしてね」とお話ししました。何人も花火をしながら声をかけてくれ、日本語でおしゃべり。彼は留学中で日本語も少しわかります。片付けも手伝ってもらった彼に、「もう帰るの?またね!」とあいさつしてくれました。神様と人を愛する一歩でした。
2024年7月14日日曜日
説教メッセージ 20240714
九州から名古屋に戻った翌日に浜松、そして名古屋から浜名、その後名古屋に帰宅という忙しい週でした。でも、健康も何とか守られて感謝します。暑い日が続きますね。熱中症対策をして、休みながら、元気にすごしましょう。「暑い季節は怪談」というのが定番でしたが、最近はどうでしょう?死んだ人が出てきてコワい!という事ですが、なんだか似た話が今日の聖書に出てきます。一緒に読んでみませんか?礼拝は今日は名古屋の復活教会で担当します。高蔵寺教会では代読をしてくださり、浜名教会ではYouTube中継でメッセージを聞いて礼拝をしてくださいます。良い日曜日になりますように!
聖書の言葉 マルコ 6:14~29 (新71)
6: 14イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」 15そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。 16ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。 17実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。 18ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。 19そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。 20なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。 21ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、 22ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、 23更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。 24少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。 25早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。 26王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。 27そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、 28盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。 29ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。
説教「神様の言う平和とは」 徳弘浩隆牧師
1、夏は幽霊屋敷の季節?
毎日が、暑くなってきました。熱中症にも気を付けなければなりません。「暑いときは、外出を控えて、水分をとり、家でもエアコンを適切に使いましょう」とニュースでも何度も呼びかけられています。
しかし、エアコンが一般的ではなかったころは、暑いときは涼しくなるようにと、夏は幽霊の怖い話、つまり怪談が語られたりもしました。夏の映画やTV番組は会談が定番でした。背筋が凍る、ヒヤッとする話という事でした。そして、たいていその場合、死んだ人が生き返る?という話が出てきました。惜しまれた人が生き返ってうれしいというハッピーエンドではなくて、恨みや苦しみ、殺された人が、「化けて出る」というのが定番でした。
今日の聖書は、そんな話でもあるかもしれません。洗礼者ヨハネの物語が説明されています。その死と生き返ったかという噂は何を意味していたのでしょうか?そして、やがて彼らが目にするイエスキリストの死と復活と、どんな違いがあるのでしょうか?一緒に聖書を見ていきましょう。
2,聖書
マルコには「ヘロデ王」と書かれていますが、これは、ヘロデ大王ではなくてその子供の一人でその領地を分割統治することになるヘロデ・アンティパストいう領主のことだと考えられています。彼は、イエス様の活躍されたときのガリラヤやヨルダン川を挟んだ東側のペレアの領主でした。後にイエス様が十字架にかかる前に捕らえられた時に、ちょうどエルサレムに来ていたこのヘロデに尋問されることになると、出てきます。
このヘロデは、洗礼者ヨハネを捉えて処刑してしまいますが、後にイエス様が十字架にかけられる前に、このイエスという男の出身地ガリラヤの領主だという事でそこに送りつけられ、イエス様を尋問するということになり、ヨハネとイエス様両方の生死にかかわってしまう事になったのです。
今日の福音書は、イエス様が登場しません。その奇跡やみ言葉もありません。ここからどんな神の声を聴こうかと、悩み苦しむところですが、このヘロデの心の内を覗き込みながら、私たちの生き方への神様の声を聴いていきたいと思います。
ルカの福音書では、弟子たちを派遣した後で、彼らが帰ってくるまでの間に、この話が挿入されています。故郷では受け入れられなかったイエス様ですが、その地の領主ヘロデのもとにもそのうわさが聞こえ、彼が恐ろしくなったという事です。
どうしてヘロデはそれを恐れたのでしょうか?それは、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と思ったからです。まるで日本の怪談噺の定番のようです。殺してしまう前に彼はヨハネのことをこう思っていました。「ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた」のです。自分の罪を指摘され、身を守るためにヨハネを捉えていましたが、ヨハネの正しさに気づき、気にしていたのです。しかし、ヨハネを恨んでいた妻へロディアの策略で、後に引くことができなくなり、ヨハネを殺してしまいました。ヘロデの心は、ヨハネの正しさを理解し魅かれながらも、ヨハネの正しさゆえに責められる自分の罪や不正からくる恐れのはざまで苦しんでいたのでしょう。結果的にそのヨハネを亡き者にしてしまったので、恐れは無くなりました。「しかし」です。イエス様の活躍の話を聞き、あのヨハネが生き返ったのかと、もっと恐ろしくなったのでした。今日の聖書は、そのようにヘロデが思い、恐ろしくなった理由として、彼がヨハネを殺してしまった話が説明として語られています。ですから、その殺された出来事ではなくて、それを思い出して、さいなまれるヘロデの心を見つめることが大切かと思わされます。
3,振り返り
今日の聖書から何を私たちは振り返りましょう。このヘロデが、目の前の問題を解決して一度は心に平和を得たけれども、実はそれは本当の解決ではなかったということです。正しいことをいう人で惹かれてもいるけれども、その正しさは自分の罪深さをも指摘するので邪魔でもある。そこでその人を排除したけれども、本当の解決ではなくて、自分の罪深さをさらに際立たせ、イエス様の姿にヨハネの残像を見、今まで以上に恐ろしくなるという状態でした。
私たちの生き方はどうでしょうか?神の声を聴き、神を愛し人を愛すようにという正しい生き方を知りましたが、そうできていない自分もいます。神の正しい声をかき消してしまえば一時的な心の平和はありますが、それは長続きする本当の平和ではありません。
殺すべきは正しいことを言う預言者でも、イエスさまでも無くて、自分の心にある罪の心だという事を考えさせられます。しかし、わかっていてもそうできない罪人の私達です。そのために、イエス様は十字架に代わりにかかり死んでくださいました。
私たちも、この方の十字架とともに、今までの罪深い心を十字架にかけて滅ぼしてしまうのです。そして、よみがえれらたイエス様とともに、悔い改めと本当の生き方を知り、新しく生きることを始めさせていただくのが、洗礼を受けてキリスト者として生きていくという事になります。
4,勧め
洗礼者ヨハネを殺し、イエス様を尋問し追い返したヘロデは、私たちの姿かもしれません。正しさに気づき、魅かれながらも、そのように生ききれない自分の姿かもしれません。
今日の詩篇の言葉はこう告げます。詩編85編9節です。「わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます。御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に彼らが愚かなふるまいに戻らないように。」
愚かな振る舞いに戻らないように、神様の宣言される本当の平和の中を生きていきましょう。安心と、平安が待っています。そんな一緒に教会生活をしていきましょう。
牧師コラム・ 猛暑対策、スマホで自宅礼拝!
教会でも、猛暑対策で夏の聖書研究会を8月はお休みにしたりします。礼拝にも多くの方に集まっていただきたいところですが、無理をしてもいけません。
暑い中、電車やバスを乗り継いで教会に来るだけでももうぐったりという事も分かります。どうぞ、ご無理されませんように。では礼拝出席はどうしたらいいですか?
コロナ蔓延の時の対策をしていた頃は過ぎ去りましたが、教会に集まれないときのためにと、試行錯誤しました。そのころから、礼拝を中継して、各自家で礼拝を守れるようにもしました。それから、今では、ご事情があって教会に来られない方や、ご病気で来られない方も、この礼拝中継を見て「礼拝参加」してくださっている方もおられます。また、牧師が担当する教会が増えて、行き来できないときには、この礼拝中継を遠くの教会で活用するという事もしています。司式は現地の教会で信徒の方にしていただき、讃美歌や祈り、聖書朗読を皆でして、ちょうど時間を合わせて、時々少し調整して、牧師の説教のところをスクリーンに映して、メッセージを聞き、その後はまた信徒の方の司式で、献金や教会の祈りへと続けられ、礼拝にあずかることができています。これを猛暑対策でも、各自で、利用してみませんか?週報や教会だよりのQRコードをスマホで開いて、そこから礼拝の中継を自宅のスマホからでも見ていただけるようにしています。ご利用ください。不具合があれば、調整します。見てみてください。
(QRコードは徳弘牧師YouTubeチャンネルです)
2024年6月29日土曜日
説教メッセージ 20240630
季節の変わり目ですね。私は、多忙の睡眠不足もあってか、風邪をこじらせて一週間、人と会う仕事以外は寝たり起きたりとなっていました。忙しいときは「ずっと寝ていたい」と思いますが、病気で寝込むと「早く起きたい!」と身勝手なのが人間ですね。今日の聖書はイエス様が「起きなさい!」と言われている言葉を読みます。どんな意味があるのでしょうか?一緒に聖書を読みませんか?礼拝は明日は名古屋の復活教会で担当します。それをYouTubeで配信もします。お会いしましょう。YouTubeチャンネル登録はここから→Pastor Hirotaka Gabriel TOKUHIRO - YouTube
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聖書の言葉 マルコ5:21~43 (新70)
5:21イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。 22会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、 23しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」 24そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。
大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。 25さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。 26多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。 27イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。 28「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。 29すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。 30イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。 31そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」 32しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。 33女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。 34イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
35イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」 36イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。 37そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。 38一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、 39家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」 40人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。 41そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。 42少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。 43イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。
説教「あなたに言う。起きなさい」徳弘浩隆牧師
1、ゆっくり、寝ていたいのに…
「おきなさい!」という言葉は、だれでも聞き覚えがある言葉だと思います。特に思い出すのは、もっと寝ていたい時に親から言われる言葉です。「ちょっと、何時だと思ってるの?」「学校に遅れますよ」「オキナサイ!」と、だんだんとその口調が強くなるこの言葉、だれでも言われた事があるでしょう。または、言ったことがあるでしょう。
「ああ、もう、うるさいなぁ」「分かってるよ。もう少しだけ!」という自分の心の叫びも、だれでも覚えがあるでしょう。
今日の聖書は、イエス様と、二人の女性が出てきます。今日はこの二人目の方の女性の出来事に目を向けて、一緒に神様の呼びかけを聞いていきたいと思います。この女性は「起きなさい」と呼びかけられたからです。何が起こったのでしょうか?イエス様のその呼びかけは、それ以上にどんな意味を持っていたのでしょうか?一緒に見ていきましょう。
2,聖書
今日は先週の続きの、その次の出来事です。もう一度ガリラヤの側へ舟で戻られると、大勢の群衆がまた集まってきました。湖のほとりにおられると、ヤイロという会堂長の一人が来て、イエス様に願い出ました。「娘が重体なので来て祈ってほしい、きっと娘は助かり、生きるでしょう」と。
イエス様はそれに応じて一緒に出掛けました。しかし、そこに思わぬ出来事が起こります。別の女性の登場です。この女性も不思議な出来事とやり取りの末に癒されるのですが、そうしている間に、ヤイロの娘の死が知らされることになります。
何という事でしょう。ヤイロとしては、イエス様が向こう岸から帰ってこられ、お会いできて、お願いしてみたらイエス様が一緒に歩きだしてくれた。もう大丈夫だ、と彼は思ったでしょう。しかし、それが、思わぬ番狂わせで、その人には良かったけれども、自分の娘はそのせいで間に合わなかった、「亡くなりました」という知らせを受けたのです。「信仰深い」ヤイロの使いや、おそらくヤイロ自身も、これ以上イエス様を煩わせてはいけないと思いました。しかしそれは、「信仰深いことではありません」でした。そこが今日の大切なところだと心にとまります。
イエス様は「恐れることはない、ただ信じなさい」と言われたのです。もう、「手遅れの状況」なのにです。しかし、イエス様は家まで行かれ、「眠っているだけなのだ」と言われ、その娘の部屋へ行き、「起きなさい」と言われました。すると、その娘はすぐに起き上って歩き出したのです。
3,振り返り
今日は、「信仰深い」会堂長ヤイロやその使いのものが、死を受け入れてイエス様をこれ以上煩わせてはいけないと引き下がったことが信仰深いことではなかったという、皮肉な逆転がとても心に残ります。
「そのままを受け入れるのではなくて、まだ大丈夫、まだあなたと一緒に歩いていって、あなたの人生を解決してあげるのに」というイエス様のお気持ちを見ていなかったヤイロたちの謙虚さは、信仰深いではなくて不信仰だったという事から、神様の側の、人間の常識や思いを超えた計画を信じていくことへと促されています。
それが、「寝ているだけのヤイロの娘」に、そして、「信仰がまだ寝ているヤイロたちに」さえも、「さあ、起きなさい」と聞こえてくるのだと学ばされます。
それを学ぶために、今日の旧約聖書をもう一度見てみましょう。聖書の中の哀歌という珍しいところから選ばれています。哀歌の哀は、愛情の愛ではなくて、哀悼の哀です。これは、紀元前586年に起きたエルサレム陥落と神殿の破壊を嘆く歌で、バビロン捕囚の時代にかかれたと考えられ、預言者エレミヤの哀歌ともいわれています。
繁栄を極めたイスラエルという国も不信仰で、府には分裂し、その後、順にそれらの国が滅び、預言者の言葉通りにエルサレムの神殿も破壊され、人々はバビロンに強制連行されたというバビロン捕囚を経て、国を失い、流浪の民となったユダヤ民族の嘆きと哀しみを歌った歌です。
しかし、それは嘆きの言葉で終わってはいません。「主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く 懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても それが御心なのではない。」と今日のところも結ばれています。
ヤイロも、イエス様のお力を信じ、お願いしてきてもらっているのに、目の前の状況が悪くなるとあきらめてしまいました。自暴自棄になったり、神を呪ったりはしませんでしたが、「信仰深い」彼は、イエス様にこれ以上来ていただくことは申し訳ないと、自分の判断で神様の介入を断り、止めてしまっていたのです。
しかし、イエス様は、それ以降も、それ以上の道のりも、一緒に歩いてくれて、解決をしてくれました。
4,勧め
私たちの人生にも、そんなことがあるでしょう。自分の不信仰ならまだしも、信仰があると思うからこその決断や行いが、神様のお働きを妨げているかもしれません。
「さあ、起きなさい」という言葉を、もう一度一緒に、新しい気持ちで聞いていきましょう。私の人生に、新しいことが起こるはずです。一緒に教会生活をしていきましょう。
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牧師コラム・ ずーっと寝ていたい!
私は最近、いそがしくて忙しくて、こう思っていました。「あー、もっとゆっくり寝ていたい」「仕事が山を越えたら、飽きるくらい寝てやる!」と。
すると神様はそれをかなえて(?)くれました。なんと、風邪をこじらせてしまって、起きられなくなってしまったのです。急いで食べれるだけ食べて、薬を飲んで、横になるとすぐ眠れます。熱があって汗をびっしょりかいて、目が覚めたらまた何かを食べて、寝て…というのを何度も繰り返しました。人と会う仕事の時はシャワーを浴びて少し小奇麗にして、それが終わるとまた倒れこむという日々でした。
そのうちこう思いました。「あー!寝てるのはもうたくさんだ。早く起きて、あれもしたい、あそこにも行かなきゃ」と。最初はゆっくり寝れるのに嬉しくもありましたが、そのうちは寝るのも飽きてきて、体が痛くて眠れなくなり、今度は、それを恨むようになりました。
なんと、人間は自分勝手なのでしょう。いそがしいと、「ずっと寝ていたいものだ」と恨みを言い、病気で寝込み続けることになると、「もうそろそろ、起きなさい!」と言われたいものだと、神様に恨み言を言うのです。
今日のイエス様は、「さあ、起きなさい」といわれました。すなおに、「はい!」と言いたくなりました(笑)
季節の変わり目、皆さんも元気にすごしてくださいね。
2024年6月23日日曜日
説教メッセージ 20240623
聖書の言葉
マルコ4:35~41 (新68)
4:35その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。 36そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。 37激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。 38しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。 39イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。 40イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」 41弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。
説教「人生の荒波、心の荒波」 徳弘浩隆牧師
1、「あなたが言うから、こうしたのに…」
人生には、自分の思い通りにいかないことがあります。それも、自分の強い意志ではなくて、誰かに言われてそうした時、不安や不満はより一層大きなものになります。そんなとき、こういいたくなります。「あなたが言うからこうしたのに、どうしてくれるの?」と。「自分はもともと、反対していたんだ。でも、あなたがそういうからこうしたんだ。ほら、心配したとおりになった。」と。
こどものころから、今まで、それぞれ、そんなことがないでしょうか?今日の聖書のお話は、そんなことを考えさせてくれます。
「あなたが言うからこうしたのに、こんなことになってしまった。どうしてくれるんですか?どうしたらいいんですか?」
親や、家族に、職場の上司に、教会でも?そんな気持ちがわくことがあるかもしれません。そんなとき、どうしたらいいのでしょうか?聖書を読んでいきましょう。
2,聖書
今日の聖書は、こんな状況でした。
群衆が押し寄せて、話をする場所がない。だから、イエス様はガリラヤ湖の漁師の船を借りて、その上から岸辺の群衆に話をしました。大切なお話をされました。みんな喜びました。
さてそれで、日も暮れて、お開きにしたいところです。しかし、群衆はたくさんまだ岸辺にいます。岸に戻ってみんなを解散させて、自分たちも帰るにはまだ時間がかかりそうです。
イエス様は、向こう岸へ行こうといわれました。群衆を岸辺に残して、反対側の岸に行こうと言われるのです。
車を停める気に、こちら側に駐車場がないから、反対側にクルっと回って、反対側の駐車場に止めよう、というのとはわけが違います。反対側の岸はもっともっと遠いからです。もう一つ大きな問題がありました。それは、ガリラヤ湖の東側は、異邦人も多く住む街々があったからです。そんな方へ船をつける。そのために今からこの大きな湖を横断する。それは、結構大変なことでした。
でも、イエス様が言われるなら、と弟子たちは漕ぎ出したのです。そうしたら、激しい突風が起こって、波をかぶり、水浸しになるほどになりました。そういう状況でした。そんな時、イエス様は眠っておられたのでした。弟子たちはイエス様を起こしました。「ちょっとすみません。助けてください、お願いします」ではありませんでした。彼らは殺気立っています。「先生、私たちがおぼれても構わないのですか?」と言ってしまいました。
そこでイエス様は起き上がりました。そして風を叱って、湖に言われました。「黙れ、静まれ」と。
そうすると、すっかり凪になったということでした。それを見て、弟子たちは非常に恐れます。「いったいこの方はどなたなのだろう」と。今まで信じて従ってきたこの方は、自分たちが思っていたよりもそれ以上の方だと、身にしみてわかったのでした。
3,振り返り
今日はこれを聞いて、何を学ぶべきでしょうか?
今日の週報の表紙を見てお気づきの方も多かったかもしれません。今、ここに二つの絵がありますが、これらの、同じところと、違うところを考えなければなりません。
最初の左の絵は、聖書物語もある聖書の情景を描いたものです。私も子供のころ、買ってもらって、読み聞かせもしてもらった子ども向けの聖書の懐かしい挿絵と同じ作風です。
しかし、二つ目の右側の絵はどうでしょう。状況は同じように見えます。しかし違いがあります。それは、ワイシャツやスーツを着た人がいること。そして、アジア系の女性や、アフリカ系の男性の顔も見えます。
そう、この物語は、2000年前のイエス様の時の出来事であると同時に、今の私たちの姿、私たちの状況でもあるということです。
昔話の奇蹟物語ではなくて、今を生きている私の状況でもある。そして、乗り合わせた小舟には、いろんな国の人もいるということ。言葉や、文化も風習も違うかもしれません。しかし、私たちはたまたま呼び集められて、乗り合わせた仲間なのかもしれません。もっというと、これが大きな世界の縮図ともいえます。
私たちの船は大丈夫でしょうか?みな仲良く理解しあって、助け合って載っているでしょうか?湖は荒波ですが、私たちの間に波風はないでしょうか?そして、私の心の中に、波風はないでしょうか?
いや、時々それはある、というのが答えかもしれません。私の心に、私を取り巻く人間関係に、そして、この社会に、世界に。教会の中でも、ということかもしれません。
私たちはどうしたらよいでしょうか?
船に乗っているイエス様を「たたき起こし」て、「私たちがおぼれても構わないんですか?」と言いましょうか?もっと遠慮なく言うなら、「どうしてイエス様は寝ているんですか?」「どうしてあなたは何もしてくれないんですか?」「そう、そもそもの話をすると、イエス様、あなたが言うから私たちはここまで来たんですよ。どういうおつもりなんですか?」と。「そもそも、向こう岸に行くのは私は気が進まなかったんですよ。無事についたところで、あちらは異邦人の街。歓迎されないだろうし、苦労が待っていると思うんですよ」。などなどです。
ここまで遠慮なく言うと、今の自分が思っていること、つぶやいていること、そのままの言葉になっていることに気が付きます。どうしたらこれは解決するでしょうか?
それは、イエス様を「たたき起こし」て悪態をつくことではなくて、この方をもう一度信頼することです。
少し悪態をついて、思いのままに祈ってもいいでしょう。しかし、そこで気づかされるのは、人間の浅はかさです。
イエス様の力を目の当たりにして、自分たちの浅はかさに気づき、「いったいこの方はどういう方なんだろうか!」と、問題が解決した時に思い知らされるのです。今日読まれた旧約聖書のヨブ記は実は、そんな状況で神様がヨブを「叱り付けて」気づかせているところです。その言葉でヨブも目が覚まされました。
4,勧め
私たちが見失っていることは、「この方がいるから大丈夫」という信頼です。そのうえで、みんながバラバラではなく、また一緒になって文句を言うのでもなく、イエス様を信じ、この方に従っていく、ということを教えあい、励ましあい、助け合うことでした。
実は、「大丈夫」という言葉は、仏教用語がもとになっているそうです。こんなことを最近ちょうど学びました。
一般的には、きわめて丈夫であるさま。ひじょうにしっかりしているさま。非常に気強いさま。を指して使われる事の多い言葉です。元来は、身の丈(たけ)、学識人徳の備わった人や最勝者を、漢語で〈丈夫(じょうぶ)〉とほめ讃えました。後にシルクロードより仏教が伝来し、大の美称が付され〈大丈夫〉となり、仏の呼び方の1つとなりました。仏には一般的に10種類の呼び方が存在します。これを〈如来の十号(にょらいのじゅうごう)〉と言います。そのうちの1つに〈調御丈夫(じょうごじょうぶ)〉とあり、「人を導くのに巧みな人」という意味の異名があります。仏教語としての〈調御丈夫〉や〈大丈夫〉は、仏の尊称として用いられる言葉です。
なんと、私たちの考えで言えば、イエス様こそ、大丈夫な方だったのですね。
自分の力や、お金の力で「大丈夫」と安心したり、そうでない時に「大丈夫だろうか」とおろおろするのではなくて、「イエスさまと一緒だから大丈夫」と、そんな生活をいたしましょう。多くの人に、神の愛と安心をお伝えしましょう。
今週も、神様と一緒に生きていきましょう。
牧師コラム・ 今日の写真、そういえば習ったなぁ
久しぶりに出先で、中華系のファミリーレストランで食事をしました。最近あまり見かけないお店ですが、出先で夕食に困り、ちょうど見つけたこのレストラン。
食事を待つ間に、壁の額に目が留まりました。そこにあったのがこの言葉。昔、高校生のころの漢文でしたか?習った言葉でした。
こういう風に生きたいものだなと、今の自分を振り返いました。人の目を気にしたり、焦りや、むつかしさも感じることがあるからです。クリスチャンとしても、あれこれ言わずとも、人が何かを感じて、来てくれるような雰囲気を、私も教会も醸し出せたらと思わされました。
「桃李 もの言わざれども 下 自ら蹊(みち)を成す」
《「史記」李将軍伝賛から》桃やすももは何も言わないが、花や実を慕って人が多く集まるので、その下には自然に道ができる。徳望のある人のもとへは人が自然に集まることのたとえ。
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金曜日はお手伝いしている幼稚園の「夏のゆうすずみかい」には120人ほどのこどもたちが来てくれて教職員の方に大感謝。土曜日は高蔵寺教会のCS(子どもの礼拝)の一日キャンプで「武器を捨てて平和を作る」ことを一緒に学び、ゲームやスイカ割りで楽しみました。スタッフの皆さんに助けられなが...
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酷暑対策でお休みにしていた聖研、ようやく再開します!どなたでも、おいでください。 ここ数年、ルカによる福音書でキリストのご生涯、使徒言行録でその続きの教会誕生とその後、エフェソの信徒への手紙で異邦人(非ユダヤ人)の教会の混乱やそこへの勧め、コリントの信徒への手紙で教会内の分派や争...





