2024年2月25日日曜日

説教メッセージ 20240225

先週は雨の中、教会の運営する総合福祉施設「デンマーク牧場」に仕事があって行ってきました。雨のなか山羊や羊、牛たちがいました。懐かしい白ヤギさんと黒ヤギさんの歌を思い出しました。手紙を書いたけど、届いた紙の手紙をヤギさんが食べてしまったという、こども向けの歌です。今は電子メイルの時代、こども向けの歌も変更しないと意味が通じなくなるかもしれません。そして、私たちも忙しい中、いろんな手紙をなくしたり忘れたり。神様からの大切な手紙、聖書は大切に読み続けたいですね。今日は、名古屋の復活教会で礼拝担当します。Youtubeでも中継します。4月からこの中継で一緒に礼拝をする教会も増えます。お待ちしています!

 聖書の言葉  マルコ 8:31~38 (新77)

31それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。 32しかも、そのことをはっきりとお話しになった。

すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。 33イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」 

34それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 35自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。 36人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。 37自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 38神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」

  

聖書の言葉  マルコ 8:31~38 (新77)

31それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。 32しかも、そのことをはっきりとお話しになった。

すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。 33イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」 

34それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 35自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。 36人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。 37自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 38神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」

説教「神を愛し、人を愛する事の大切さ」徳弘浩隆牧師

1、良かれと思って言ったのに…

人は誰でも、他者から認められたいものです。もっと言えば、他者から評価され、褒められたいものです。

こんなことを表した「承認欲求」という言葉を時々耳にもします。それが強すぎると、浮いてしまったり、自己中心的が過ぎて「面倒な人」に見えてしまったりもしますが、私たちに基本的な大切なことだと思います。だれでも、成長していく過程で親や周りの人から認められ、褒められ、大切にされることを通して、私たちは自分に対する自信や安心を得て、バランスの良い「自分」が出来上がっていくことにつながるのだと思います。

今日の聖書のストーリーは、ペトロにとってはとても大変な体験でした。褒められたかと思えば、激しく叱られてしまうという出来事だからです。

上手くいって評価され安心していたところから急転、突き落とされるような、息の止まるような出来事だったと思います。

挿絵は、いろいろ探してもちょうどよいものがないときは、AIに描いてもらっています。今日もなかなかなかったので、頼んでみました。最初出てきたのは、イエス様が「いや、そうじゃない。よく聞くんだ。いいかい?」というようなジェスチャーの絵でした。しかし、これではやさしすぎると思い、「もっと厳しく叱責している絵を描いて」と頼んで出てきた絵がこの絵です。温かいカラーの絵ではなくて、モノトーンで厳しさや怖さも表現されています。

褒められて、順調と思った直後に叱責され、突き落とされるような出来事、背筋が凍るような出来事、わたしたちにも時々、そんなことがあるかもしれませんね。何が間違えだったのでしょうか?全く問題外の間違えだったでしょうか?イエス様はどんな気持ちで、彼を叱責されたのでしょうか?

一緒に聖書から学んでいきましょう。

2,聖書 

今日の聖書個所の直前で、イエス様は旅の途上弟子たちに尋ねました。「人々は私のことを何者だといっているか?」と。それに対して弟子たちは色々伝えます。そこで、「それではあなたがたは私を何者だというのか?」と尋ねました。それに対して、ペトロははっきりと答えました。「あなたは、メシアです」と。模範回答でした。「よく言った!」という状況だったでしょう。ペトロもきっとうれしかったに違いありません。

しかし、そこから、イエス様の話題が変わっていきます。それを土台にして、よりむつかしい神様のご計画を話すときが来たからです。「多くの苦しみを受け、排斥され、殺される」というのです。「三日の後に復活することになっている」とも教えられ始めたのです。「しかも、そのことをはっきりとお話になった」というのです。

ペトロは「何という事でしょう!そんなことがあってはならない。」そう思ったのでしょう。それは、イエス様の身を案じての事であり、また、せっかくここまで順調に来てメシア・キリストとしての大きな働きが実現していくなら…。それは、もしかしたら自分たちを苦しめる征服者ローマ帝国からの独立や、それに伴って自分たちにも名誉なことが起こるかもしれないという、いろんなことが混じった期待、そんなこともあったかもしれません。しかし、イエス様をわきへ引き寄せて「いさめ始めた」ペトロに対して、きびしい言葉を浴びせて叱責されたのがイエス様でした。

その言葉はこうでした。「サタンよ、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と。

まず何よりも、人間の事よりも、神様のことを思う事が大切だという事です。そしてその背景は、神様の隠されたご計画は、「メシアが栄光を受けていくのではなくて、苦しみを背負い十字架で死んでいくこと、その後復活する事。それによって、その不思議な出来事によってこそ、人の心は変わり、神のご支配が始まっていくのだ」ということでした。

3,振り返り 

誰でも、称賛と名誉を期待します。それも大切なことだと考えました。しかし、それに反してこそ実現する神様の出来事もあるのです。

あれだけ信じ期待していたイエス様が、捨てられ殺されていくことを通して、そう仕向けてしまう人間の心の闇を見つめざるを得ないことで、人を悔い改めに導くのが神様のご計画でした。その裏切りや、妬みや、自己保身の心が、その闇が、自分の中にもあると、気付かされるためでした。

ユダヤ教はもともと、人の罪の代わりに動物を燔祭にして神様に捧げる儀式が大切でした。イエス様の時代も神殿で、それぞれお参りに来た人たちは、自分の懐具合に応じて、ハトや羊や牛などを買って捧げていました。「これくらいで赦してもらおう」そんな気持ちもあったかもしれません。

しかし、神様のご計画は、神の独り子イエス・キリストを人々の罪の身代わりとして捧げるという事でした。「小さな動物ではないよ。本当はあなたが死ぬくらい悔い改めなければならないんだよ。だけどそれに気づかないから、あなたの代わりに神の子が死んで供え物になるのだよ」という事でした。

それに気づいたときにはじめて、ペトロも人の罪深さ、自分の罪深さに愕然とさせられ、新しい生き方へと変えられていくのです。

その結果、なりふり構わず、自分の事ではなく、人々のために生きるという生き方に変えられていきます。それが今日の聖書の後半の「自分を捨て、自分の十字架を背負って生きていく」という事でした。「良かれと思って」イエス様に言った言葉を跳ね返されたペトロは、やがてその意味を悟っていきます。

4,勧め 

自分を愛すること、人にも認められ評価され、自分を大切にすることは大事です。そのうえで、人を愛し、支え合って生きることが神の願いでした。そしてみんなで神様を見上げて、平和に生きること、それが旧約聖書からの神様の願いであり、掟でした。

それもできないことがあります。自分を愛せないとき。人を愛さないとき。神様を愛し、信じてついていけないとき。それを変えるのは、自分の罪深さを知り、同じ罪深い他者をゆるし愛し、神様のもとで一緒に生きていくこと。それが私たちに備えられている、やり直しの道のりです。

今年も、キリストが十字架へ進んでいかれることをなぞりながら生きていく日々が始まっています。その十字架の向こう側にこそ、きれいな花が咲く新しい生き方、神の愛のご支配と平和があることを見つけていきましょう。 


牧師コラム・ AIとともにお絵描き!? 

「マルコによる福音書8章33節に基づいて、イエスキリストがペテロを叱っている状況の絵を描いて。」というお願いをAI(Chat-GPT)に対して私がした後の最初の絵がこれ(右図)です。今日のメッセージでも紹介しました。

しかし、聖書を読むと、こんな生易しい表情ではなかっただろうと思いました。それで、こう付け加えてもう一度描いてもらいました。「もう少しイエスキリストが厳しく叱咤している様子にして。」その結果がこの挿絵です。背筋が凍るような、緊迫した空気も感じる絵になりました。

この挿絵の雰囲気は、とても怖いとも感じますね。

しかし、今日のメッセージのように、その奥底には、愛と希望があってのことです。それが大切です。

十字架という苦しみもありますが、その向こうに見える花のあるきれいな風景。そんなものが私たちにもある苦しみの出口です。

きれいな花が見える十字架。それも見ていきたいですね。教会で学び、一緒に生きていきましょう。


2024年2月18日日曜日

説教メッセージ 20240218

自動的に出てきたパソコン画面によると、今日はイタリア人の科学者のボルタという人の生まれた日だそうです。1.5ボルトとかの電圧を表す単位のVoltというのは、この人の名前だったのです。ちなみに、レントゲンやラジオなどの周波数のヘルツという単位もありますがこれも人の名前からだと知って驚いたことがあります。このように、自分とは関係ないと思っていることでも、自分の人生や今の社会には切っても切り離せないことがあるものです。今日から、四旬節、レントとも言いますが、これはどんな意味があるでしょうか?今日は高蔵寺教会で礼拝担当をし、YouTubeチャンネルでも中継します。お会いしましょう!

 聖書の言葉 マルコ 1: 9~15 (新61)

9そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。 10水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。 11すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

12それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。 13イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。

14ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、 15「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。



説教「今日から40日間の意味」 徳弘浩隆牧師

1、今日は何の日?

パソコンを開いて仕事をしようとすると、下の検索窓の横に、毎日いろんなイラストが出てきます。「今日は何の日か」ということを、毎日自動的に表示してくれています。今日は、科学者らしき人と何やら実験道具のような絵が出てきたので、すこし見てみました。関心がないことや、自分に関係がないことも多く出てきますが、時々、気になることがあればリンク先を開いて読んでみます。それによると、今日はイタリア人の科学者のボルタという人の生まれた日だそうです。

さてこのボルタという人、イタリア人で1745年2月18日生まれで、物理学者でした。自分とは関係ないかと思いながらですが、その名前からもしやと思いました。そして知ったのは、この人がいわゆる電池の発明者となっているということでした。そう、1.5ボルトとかの電圧を表す単位のVoltというのは、この人の名前だったのです。ちなみに、エックス線写真を撮ることを、日本ではレントゲンを撮るとふつう言いますが、これも実は人の名前、ラジオなどの周波数のヘルツという単位もありますがこれも人の名前からだと知って驚いたことがあります。

レントゲン写真を撮りに行くときにこれを発明した人が昔の日本人だったとしたら、「レントゲン写真を撮ってください」と言う代わりに、「Sato写真を撮ってきてください」と世界中で言われていたかもしれないと思うと、不思議な気がするものです。ちなみに、Satoさんが日本では一番多い苗字だそうですね。

このように、自分とは関係ないと思っていることでも、自分の人生や今の社会には切っても切り離せないことがあるものです。今日から、四旬節、レントとも言いますが、これはどんな意味があるでしょうか?もちろん、語源だけではなくて、私の人生にどんな意味があるでしょうか?

そのことを今日の聖書から聞いていきましょう。

2,聖書 

マルコによる福音書は、簡単に今日の出来事を告げています。それは、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたこと、そのとき天から神の声が聞こえたということ。そして荒れ野に送り出され、サタンから誘惑を受けられたこと。その後、洗礼者ヨハネがとらえられた後、キリストとしての活動を始められたということでした。他の福音書のような詳しい描写ではなく、淡々とそれらの出来事を時系列に沿って伝えています。

今日の話の大切なポイントは次の三つでしょう。

1, 天から聞こえた声は、「あなたは私の愛する子、私の心に適うもの」

2, 荒れ野に送り出されてサタンの誘惑を受けられたのが、40日間だったということ。

3, そして、その後のイエス様の言葉は「時は道、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という言葉だった、ということです。

これに沿って、キリスト教会の暦では、先週の水曜日から、「40日間」が特別な期間とされています。そしてそれは、「悔い改める」ための期間だということです。

旧約聖書の朗読は、ノアの方舟の時の話でした。その時代に地には人の罪がはびこっていて、神様が人を造ったことを「悔いた」とあることを思い出します。そしてその罪の社会を水で押し流し滅ぼした時に選んだのがノアの家族で、そこから新しい世界の再出発の祝福をされたということでした。そのときの洪水が40日だったということです。

3,振り返り 

今日の聖書で私たちは、何を学び、どのように生きるように勧められているでしょうか?

聖書では、この40という数字はたびたび出てきます。これらは、悔い改めの期間、苦難の期間でそれを通して悔い改めさせられる期間でもあります。そして今始まった「四旬節」の意味は、文字通り40日間という意味。一か月の初旬・中旬・下旬というように、「旬」というのは10日間の意味だからです。

さて、西洋やブラジルでもカーニバルがありましたが、これらもキリスト教のカレンダーとは切っても切れない意味を持っています。40日間は悔い改めと節制の期間だから、飲酒や肉食を控えます。結婚式も控える期間になっています。この40日間の直前、肉の食べ収め、お酒の飲み納めのお祭りをしたということから来ているのです。

この四旬節の期間、ポルトガルやブラジルでは、お肉があまり売られなくなり、スーパーにはバカリャウという塩味の干しダラが積まれます。肉の代わりに魚を食べる期間が始まるからです。

こんな具合に、今日は何の日なのか、その意味はどういうところから始まっているのかを知り、再確認することは大切です。それは、その形式ではなく、その意味を味わい生きるためです。

4,勧め 

では、この40日間の悔い改めの季節に、いつ、私たちは悔い改めをしたらよいでしょうか。

お寺の掲示板の言葉で心に刺さる言葉を時々紹介していますが、今日はこの言葉に先週出会いましたので紹介します。こんな言葉でした。

「生まれ変わるなら 生きているうちに」です。

人はよく、生まれ変わったらこんなことをしたい。生まれ変われるなら、今度はこうしたい。といいます。「生まれ変わるなら」、とか、「死んだあとはどうなるか」などと考えます。

しかし、「生まれ変わるなら、生きているうちに」という言葉は、心に刺さります。

死んだ後の世界や、輪廻で生まれ変わりのことばかり言う仏教と思われがちですが、お寺にこの言葉が掲げてあるのは驚きで、また、新鮮でした。

生まれ変わるのは、死ぬということが前提です。しかし、それが起こる前に、生きているうちにというのは、論理的に矛盾があるので、更に「はっ」とさせられます。同時に、得心させられ、うならされます。

生まれ変わるなら、先延ばししないで、今が大切。今、悔い改めて、変わりましょう、と私たちも勧められています。

四旬節は、そんな期間なのです。悔い改めてもう一度神様と出会って、生きていきましょう。新しい人生を始めましょう。死んでしまう前に、です。

 


牧師コラム・ 四旬節と言えばバカリャウ! 

灰の水曜日から始まった四旬節。カトリックの国々では肉食や飲酒を控え、つつましく生きる風習もありました。ポルトガルやブラジルではこの季節の始まりを告げる国民食があります。それがメルカード(マーケット)の一角にあり、独特の塩漬けの匂いと、図り売りをするために山のように積抜あげられているバカリャウ(右写真)です。これを見ると、「心静かに過ごす季節が始まった」と気づかされるものです。



日系人の間でよく言われるジョークのなかには、「お店でバカリャウが欲しいけどこの単語を思い出せなくて、お店の人と何度もやり取りをした挙句、『もういい、バカヤロー』っていったら、『ああ、バカリャウならあっちにあるよ』と通じた」なんていう笑い話がありました。




ポルトガルの代表的な料理にも使われ、オリーブやゆで卵とともに登場します。じゃがいもと一緒にオーブンで焼いたのもよく食べられます。コシーニャというブラジル風コロッケの中にも入れるのが定番です。今度、手に入ったら、教会ランチで一緒に食べてみませんか?


2024年2月10日土曜日

説教メッセージ 20240211 変容主日

 まだまだ寒いですが、日も出ると気持ちのよさも感じます。街路樹ではハクモクレンのネコヤナギのようなつぼみも見つけました。明日は変容主日。キリストが真っ白に輝いたという日です。この日にちょうど雪が降って、朝教会は真っ白という時も何度かありましたが、愛知県は今年はそうならないかもしれません。明日は、名古屋の復活教会で礼拝担当をします。YouTube配信もしますので、どこかでお会いしましょう。

 

聖書の言葉 マルコ 9: 2~ 9 (新78)

六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。



説教「暗闇の中 頼りは輝く光」 徳弘浩隆牧師

1、タボル山と言えば…

今日は変容主日です。今年のカレンダーではイースターが少し早いので、受難節に入るのも早くなっています。教会の暦を少し整理してみましょう。

イースターは「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」となっています。ですから、クリスマスと違って毎年日にちが変わる移動祝日となのです。

キリストが復活されたイースターの来る前に、キリストが十字架に向かう出来事が始まりますが、その前の40日間が四旬節と言われ来週から始まります。

そしてその直前の日曜日、今日はキリストの姿が真っ白に輝いて変わったという日、主の変容主日ということになるのです。

ちなみに、今日は、ヨーロッパやブラジルではカーニバルの日曜日となります。それは、四旬節で飲酒や肉食を控えて静かに悔い改めて過ごす期間が始まりますが、その直前のお祭りが発端でカーニバルが始まったからです。私の友人たちも、ブラジルや日本でもカーニバルの予定や写真をネットに載せて楽しんでいます。

さて、主の変容があったとされるのが、タボル山といわれています。あのあたりでそれらしい山が旧約聖書にも出てくるこの山だろう、という理由だそうですが、その小高い山の頂上には変容教会という教会ものちに建てられています。その教会の聖壇の壁画が上の写真です。

ところで、タボル山というと日本人にはなじみがないように思っていましたが、数年前思わぬところでそれを見つけて驚いたことがあります。名古屋在住の皆さんも一度は行ったか見たことがあると思います。それは、アピタというスーパーによく入っているパン屋さんの名前が、「モンタボー」というのです。カタカナで書いてもわかりにくいのですが、アルファベットで書いてある(Mont-Thabor)のを見て「もしや?」と驚きました。フランスにもここにちなんだ地名もあるらしいですし、この店名はフランス語由来らしいですが、そのいわれは、こう書かれています。株式会社モンタボー:名前の由来→モンタボー(Mont-Thabor)は、イスラエルにある旧約聖書にも登場するタボー(Thabor)という山(Mont)の名前に由来している。

お店の人に聞いてもご存じないかもしれませんが、今度パンを買いに行って、看板を眺めながら聖書のことを思い出してみるのもいいかもしれません。

さて、意外と身近にあったこの山の上で起こった聖書の出来事は、どんな意味があったのでしょうか。一緒に見ていきましょう。

2,聖書 

クリスマスからマルコによる福音書に沿って駆け足で見てきたイエス様のご生涯ですが、話は、十字架へと向かう出来事になります。

4000人に奇蹟的に食事を分け与え、ベトサイダで盲人をいやした後、ペトロがイエス様の問いに答えて「あなたはメシアです」と信仰を告白したら、イエス様はこれから始まるご自分の死と復活を話されました。そしてその6日後に今日の出来事が起こります。

イエス様は、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて山に登りました。すると、イエス様の姿が彼らの目の前で変わり、真っ白に輝きました。そして見ると、そこにはエリヤとモーセが現れて、イエス様と語り合っていたというのです。

高蔵寺教会の先日の聖書研究会でも確認しましたが、旧約聖書は、律法、預言、その他の書物として諸所という三つからできています。そして最初の二つを代表して「律法と預言」と新約聖書でも言及されているところも何度もあります。この律法を神から授かったのがモーセ、そして預言者の中の代表格の一人がエリアなのです。もう一つ興味深いことはこの二人の死に方です。モーセは約束の地イスラエルに入ることができず、ネボ山という山で約束の地を見ながら亡くなったといわれています。そして、エリアは天から来た火の車に乗って天にあげられたと記され、これら二人は地上で普通の死に方をしていないのです。

この二人、つまり、旧約の律法と預言を象徴する二人と、天に近い山の上でイエス様がお会いになったというのは意味深いことです。それは、神様の人類の救いの計画が整ったということ、それを実現するイエスという方がメシア・キリストであるということ。そして、これを境に、イエス様のご生涯が十字架へと向かっていくのです。

3,振り返り 

わたしたちの生き方はどうでしょうか?

イエス様に出会い、その教えや出来事に関心を持ち、惹かれ、従うようになったわたしたちですが、「この方こそ救い主だ。この方についていこう」ということを篤信し、それを言い表すときに、準備が整うのです。それはペトロによって起こり、イエス様の生涯が変わったように、私の人生でも、その時に、洗礼があり、何かが大きく変わっていくのです。

4,勧め 

今週から始まる四旬節。向かう先は、キリストの十字架。何が始まっていくでしょうか。

洗礼を受けた人も、まだの人も、もう一度、今までの自分を捨て去って、新しい生き方に変えられていく道のりを始めましょう。

そのときの、生き方の指針は何でしょうか。それは今日の聖書で読まれた「これはわたしの愛する子。これに聞け。」という父なる天の神の声です。

そして今日の使徒書の第二コリントの手紙でもこう言及されます。「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。」

暗闇はキリストにより照らされました。そして、この方は真っ白に輝いていました。このキリストの光が、新しくされた私たちの心の中で輝いているはずです。この光が、暗闇のような世界を生きる時の唯一の頼りであり、希望なのです。今週水曜日から始まる四旬節、そんなことを考えながら静かに祈り、過ごしていきましょう。もう一度、キリストと出会いましょう。

 

牧師コラム・ タボル山考 

今日の聖書の出来事があったのだろうといわれる山が、イスラエルにあるタボル山です(写真)。旧約聖書でも登場するユダヤ教でも大切な山ですが、今は山頂に教会も建てられています。


20数年前「聖地旅行」で行ったとき訪ねましたが、山頂の教会は写真のようなものでした。聖書の言葉にちなんで、「三つの小屋」のようにも見える教会の塔が並んだデザインだそうです。




正面の絵は最初にあるイエス様とモーセ、エリア、そして弟子たちの絵。会堂脇にはモーセとエリアの絵もありました。

そして日本の?タボル山、モンタボーですが、このパン屋さんの写真はホームページではこんな感じです。

手作りのおいしい焼きたてパン・ベーカリー店の麻布十番モンタボー|公式 (mont-thabor.jp)

今度、行ってみませんか?(宣伝じゃありません・(笑))


2024年2月4日日曜日

説教メッセージ 20240204

寒かったり、少し緩んで暖かくなったり、そしてまた東京でも雪も心配される寒さだそうですね。名古屋も寒いです。体調を壊されていませんか?熱が出たらイエス様にすぐにいやしてもらえばいいと、今日の聖書を読んで考えないで、ちゃんと健康管理をしましょうね。今日は、高蔵寺教会で礼拝担当です。YouTube中継もします。マイクのセットを更新中で少し心配ですがお祈りください。では、お待ちしています。お近くの教会にも行ってみてくださいね!YouTubeのチャンネル登録もよろしく。中継しやすく、また受けやすくなりますからね。

聖書の言葉

マルコ1:2939 (62)

29すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。 30シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。 31イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。 32夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。 33町中の人が、戸口に集まった。 34イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。

 

35朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。 36シモンとその仲間はイエスの後を追い、 37見つけると、「みんなが捜しています」と言った。 38イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」 39そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。


 

説教「そのためにわたしは出て来た」

徳弘浩隆牧師

1、事始め 2

先週はキリストの仕事の事始めともいえる出来事を見てきました。そして今日は、その第二弾ともいえる出来事を見ることになります。

マルコによる福音書にはクリスマスの出来事、つまり、イエス様誕生の物語は記されていません。1章の最初は洗礼者ヨハネの活動から始まります。そこに現れたイエス様は洗礼を受けられます。続いて、誘惑を受け、洗礼者ヨハネがとらえられたあと、イエス様はガリラヤ伝道を始められます。そこで4人の両氏を弟子にしました。そして、カファルナウムに到着して安息日に会堂で教えられ、その場にいた汚れた霊に取りつかれた男をいやすということになります。それが、先週の聖書の物語でした。イエス様のキリストとしての仕事の事始めというわけです。

さて、今日はその続きです。イエス様はキリストとして、どんな仕事はじめの続きをされたのでしょうか?

それは、キリストと出会う私たちが、何を受け、何をするかということを考えさせてくれます。また、今日は、高蔵寺教会の年次総会ですが、今年の行事の事始めをするにあたって、今年私たちが何をすることが大切かという問いへの答えを、神様は語りかけてくれるはずです。

一緒に聖書を見ていきましょう。

2,聖書 

マルコの伝えることによると、今日の話はまだ安息日の続きの出来事です。安息日に会堂で教え、汚れた霊を追い出し人々から驚きと称賛を得ました。そして、「すぐに、一行は会堂を出て」とありますが、まだ安息日の出来事とわかります。シモンとアンデレの家に行ったのです。これは、4節でも説明されている、最初に弟子とされたシモンとアンデレは兄弟でした。シモンとはのちにペトロといわれる弟子です。そして、その場には「ヤコブとヨハネも一緒であった」とありますが、ガリラヤ湖畔でシモンとアンデレに続いて弟子とされたこの二人も一緒にペトロの家に行ったということがわかります。ちなみに、このシモンとアンデレも兄弟ですから、最初の4人の弟子は、二組の兄弟だったということもわかります。

さて、その家にはシモンのしゅうとめがいたのですが熱を出して寝ていたのですが、人々はイエスにそれを話しました。するとイエスはそばに行って、手を取って起こされると、熱は去ったというのが今日のふたつ目の奇蹟です。直前には会堂で汚れた霊に取りつかれていた男からその霊を叱って追い出した出来事がありました。シモンのしゅうとめは癒された後、一同をもてなした、つまり、食事のお世話などをして奉仕したということです。

3,振り返り 

この出来事から私たちは何を聞くでしょうか。シモンとアンデレはイエスの弟子になり、会堂で教えを聞き奇蹟も見ました。その直後に家にイエスをお連れし家族に紹介しました。網を置いて従っていったとも伝えられますが、家族を捨てて突然旅に出たのではないようです。神に出会った後も家族を大切にして、イエスを家に招いたのです。あるいは、イエスは弟子たちの家を訪問したのです。

運悪く熱を出して寝込んでいたシモンのしゅうとめですが、彼らはそれをイエスに話しました。それは、突然の来訪で食事の準備もなく何のお構いもできないという言い訳けではありません。イエスにしゅうとめの熱のことを話したのは、癒しを、つまり問題の解決を願い出たからです。するとすぐにイエスはその手を取り、癒されました。すると、しゅうとめはすぐに段取り良く準備をしてもてなし、イエスと人々に奉仕をしました。

これらのことに、教えること、伝道すること、そして奉仕することの、宣教の三つの出来事が開始されていることを見ることができます。そこに招かれ、願い出て、体験し、自らも宣教する人たちの姿でもあります。

わたしたちはどうでしょうか?一人一人、違ったきっかけや方法で、イエス様に出会いました。

その後、人を招きイエス様をお迎えするという伝道をしているでしょうか?その後、問題が解決したらそれで満足しているだけではなくて、今度は自らが率先してイエスさまや人に奉仕しているでしょうか?この奉仕という言葉はディアコニアという言葉でもあります。今の教会では、社会奉仕や福祉の働きとして受け継がれ取り組んでもいます。教えることは教育、伝道は教会の働き。今の社会では、キリストの働きは、教会の関係する、社会福祉法人や学校法人、そして教会という宗教法人という形をとってもいますが、それらの総体としての「教会」で私たちは取組んでいます。

そしてその小さな一つの組織としての教会が、私たちの集められたこの「教会」なのです。

今日の出来事の続きでは、「夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た」とあります。この日は安息日でしたから、日が沈んで人々はイエス様のもとに集まってきました。ユダヤの暦では日が沈むと次の日になりますから、安息日が終わって出歩き、安息日にはできないはずの癒しをお願いしに来たと読むことができます。イエスは引き続き、多くの人を癒しました。翌朝まだ暗いうちに人里離れた所で祈り、弟子たちに「みんなが探しています」と声をかけられたイエスはこういいます。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」と。イエス様は、そのために出てきたのでした。

4,勧め 

この言葉を聞いては、「じゃ、私は、なんのために出てきたのかな?」と考えさせられます。

最初のきっかけは、知的関心、病気の癒し、問題の解決、教会メンバーとの付き合いや出会い、などイエスさまとの出会いのきっかけは、それぞれ色々です。しかし、すぐさま起き上がってもてなし、奉仕したペトロのしゅうとめのように、起き上がって、何かを始めましょう。それが教会の使命であり、この世の社会にこの小さな群れが存在する大きな理由なのです。一緒に歩いていきましょう。


 


牧師コラム・ ペテロの家族構成は?


福音書を普通に読んでいても、弟子達の人となりは、あまりわかりません。注意深く読まれる方はそうではないかもしれませんが、私などは、ただ読み続けているだけだと気が付かないことが多くあります。

聖書の話を映像にしたドラマや映画はいくつもあります。以前の教会の聖書研究会で使徒言行録のドラマを見ていた時に、ペトロの娘が登場しました。「えっ?ペトロにこんなかわいい娘がいたの?いや、ペトロが結婚していたって、聖書に書いてたっけ?」と妻と話しになりました。聖書にはペトロのしゅうとめの話が出てきます。となると、結婚していたということはわかります。そのドラマに出てきたような、しっかり者の可愛い娘がいたかどうかは聖書には記載がないでしょう。しかし、数人のこどもがいたことはふつうあり得ることでしょうね。そのドラマは、そんなところから登場人物の設定を無理のない範囲でしていたとみることができます。

じゃ、聖画によくある「ペトロのしゅうとめの癒し」のなかに、ペトロの奥さんは出てくるでしょうか?シモン・ペトロの兄弟アンデレや、アンデレも結婚している年齢だったとしたら、その奥さんは出てくるかな? いくつも検索してもそれらしい絵はなかなか見つかりません。ようやく見つけたのがこの絵です。検索の秘訣は、スペイン語やポルトガル語のキーワードで検索すること。クリスチャン人口の圧倒的多さで負けないこれらの言葉で検索すると沢山の絵が出てきます。右上の女性がペトロの奥さん?左下はペトロに違いない。戸口の人とやこどもは?そんな想像をしながら見るのも楽しいですね。そういえば、私の義母も先週体調を崩して入院。兄弟でだれが飛んでいくか急遽相談しました。聖書の話がぐっと身近に感じられました。

説教メッセージ 20240512

 聖書の言葉  ルカ 24:44~53 と 使徒言行録 1: 1~11 (新213) 1:1-2テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。...