2023年1月28日土曜日

説教メッセージ 20230129

  先週は広島教会へ説教と講演会で招かれて行ってきました。そして、火曜日はこども食堂のお手伝いをと言われ、妻の得意料理パエリャを作りにスペインから輸入した鍋や専用コンロを持って行ってきました。平和大通りにある教会で、平和について考えもしました。「平和を作り出すものは幸いである」という言葉を読んで、説教の準備をしていたからです。一緒に考えてみませんか?明日は名古屋の復活教会で礼拝を担当します。教会か、Facebookでお会いしましょう。

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聖書の言葉 マタイ 5: 1~12 (新6)

1イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 2そこで、イエスは口を開き、教えられた。

3「心の貧しい人々は、幸いである、

天の国はその人たちのものである。

4悲しむ人々は、幸いである、

その人たちは慰められる。

5柔和な人々は、幸いである、

その人たちは地を受け継ぐ。

6義に飢え渇く人々は、幸いである、

その人たちは満たされる。

7憐れみ深い人々は、幸いである、

その人たちは憐れみを受ける。

8心の清い人々は、幸いである、

その人たちは神を見る。

9平和を実現する人々は、幸いである、

その人たちは神の子と呼ばれる。

10義のために迫害される人々は、幸いである、

 天の国はその人たちのものである。

11わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 12喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

 

説教 「平和を実現する人」 徳弘浩隆牧師

1.       「平和」という地名…

 先週は、週報にもありますように、広島に行ってきました。特別集会に招かれて、ルーテル広島教会に行って説教や講演会をしてきました。そして、「火曜日はこども食堂があるから大きなパエリャ鍋でパエリャを作って、こどもたちを喜ばせてほしい」ともいわれて、鍋やコンロも車に積んで行って、お手伝いしてきました。

ところで、このルーテル広島教会は、「平和大通り」沿いにあります。

今日の聖書にも、「平和」という言葉が出てきます。そして、それは「○○な人は幸いだ」という8つのお話の中に出てきます。戦争やいさかい、詐欺や悲しい事件をたくさん聞く毎日ですが、この「平和」や「幸せ」とは程遠いような現実を見せられます。それらはどうしたら得ることができるのでしょうか。一緒に聖書から、イエス様のメッセージを聞いていきましょう。


2,聖書

 今日の聖書は、イエス様が「山上の説教」または「山上の垂訓」ともいわれる、5章から7章まで続く長い説教をされたお話の冒頭です。ガリラヤ伝道の初めの頃で、場所はカファルナウムという場所の背後にありガリラヤ湖を見下ろす小高い山だと言われています。

今ではそこに、フランチェスコ修道会の「山上の垂訓教会」という教会が建てられています。写真は私が昔訪ねて、嬉しそうにバルコニーに立っている教会の写真です。天井はドームになっていますが、その下の壁は八角形になっていて、それぞれのイエス様の「幸いなるかな」というギリシャ語の言いだしの言葉が書かれてあります。それが八つあるので、教会のつくりも八角形になっています。今日の聖書の部分は、「山上の垂訓」の中の「至福の教え」とか、「八福の教え」といわれるところです。



「○○の人は幸いだ・幸せだ」という事ですが、一見するとそうは思えない言葉から始まります。いろいろな解釈や説明、そしてそれによる翻訳がされていますが、「心の貧しい人、悲しむ人」などは、そのままで幸せとは思えないからです。

 これらは、山上の説教の最初に語り始められたイエス様のお話です。悲しみ、苦しみ、虐げられ、救いを求めていた人々に、「○○の人は幸いだ」と切り出しながら語り掛けました。ギリシャ語の聖書では、昔の日本語訳のように「幸いだ!○○の人は」と語られています。「良かったねぇ!悲しんでいる人は」という具合です。イエス様のうわさを聞いて集まってきた大勢の人々はこれを聞いて、驚いたでしょう。

「こうしたら救われる」ではなくて、今の苦しさや悲しさを、「良かったねぇ」というからです。

「なんだそれは!」と思うところですが、それがイエス様のお話の分かりやすいところ。その驚きの後に、「その人たちは、神様の祝福と慰めを受けるよ」と説明されるのです。なぜかというと、満ち足りて、喜んでいる人々は、神様に頼ることをしないからです。

「良かったねぇ」といった相手は、「自分こそ天の国に入るにふさわしい」という人ではありませんでした。そうではなくて、貧しい者、この世から見はなされているような人、嘆き悲しむ人、自分の無知や弱さに絶望するような謙虚な人、不正義に悩まされながら完全な正義が行われることを求める人、同情や憐れみの心をもつことのできる人、純粋な思いをもつ人、神との間に、また人との間に平和な関係を造ろうと努力をする人、そんな中にあっても迫害を受ける人、そんな人々に対してイエス様は「よかったねぇ!」と言われたのです。その理由は、そんな時に希望をかけるのはただ神でしかないという事に気づかされるからです。自分に頼って憎み合いながら生きるよりも、神様に立ち戻り、神と人を大切に生きることこそが、私たちが、幸せに生き、平和で安心して生き方法だからです。


3,振り返り 

私たちはどうでしょうか?広島教会のこども食堂を思い出します。この日は少なかったそうですが、150名くらい来てくれました。保育所のこどもや、夕方食堂にやってきた親子はみんな大きな鍋を見てびっくりして、喜んで食べていってくださいました。教会の礼拝にはまだ来られないような地域のいろいろな方々もボランティアで来てくださり、いろんな方と出会い、交流もできて、良い学びにもなりました。いろんなご家庭の事情のある方のことも少し聞きましたが、親子でやってきて、なかにはこどもだけの二人連れもいます。いろんな世代の方が、ボランティアでかかわり、挨拶やお片付けも指導します。いわゆる貧困対策だけではなくて、今失われている地域の交流や世代を超えてこども達を一緒にしつけをして育てる、そんな場でもありました。「こんばんは」や「ありがとう」の挨拶をしたり、食事を残した子には「大事な食事を残さないように、最初に食べれる量や好き嫌いもちゃんと言わなきゃだめよ」とちょっと怒られたりもして、頭を掻きながら謝って帰っていく子もいました。笑顔で食べて、手を振って帰っていくこどもたちと接して、私達もやさしい、平和な心になりました。

「うれしいこと、おいしいものは分け合う事でもっとおいしく幸せになるんだよ」と、そんな話も保育所の礼拝で大きな鍋を見せながらしたそうです。

しかし、そんなうれしい平和な場所は、何もかも整った平和な理想的なところにあるわけではありません。

日曜は全国駅伝もあったそうでホテルはどこもいっぱい。そしてこの日は大雪で大変でした。おまけに何者かの「市内の中学校に危害を加える」という予告があり、安全のために市内の学校は切り上げての下校となったそうです。そんな混雑と大雪と心配の中の広島教会の、平和で温かくうれしい経験でした。

そもそも、ここが「平和」と名付けられたのは、「歴史的にも世界の中でも一番平和な場所だからそう名付けられたのか?」とふと考えさせられます。もちろん答えは逆ですね。一番苦しく悲しく悲惨なところ、だから、平和を願う場所として名付けられたのでした。「平和な場所」ではなくて、「平和を願い祈る場所」なのです。平和を作り出す努力をし続ける場所なのです。


4,勧め

絶望や苦しみから、人間の罪深さや自分の限界を思いしらされ、本当の愛のある神様に出会い、この方に頼り、地道な生き方をしていくときに、幸せを感じるのだと思わされます。平和も与えられるものではなく、作り出す地道な努力をする中で、実現するものです。それらをする人が、「良かったねぇ。幸せでしょ」と言われるのでした。そんな生き方をみつめ、一緒に歩んでいきましょう。私から、私たちのコミュニティーから、平和が始まります。私の心にも、社会にもです。そんな教会に、お招きしています。一緒に生きていきましょう。一緒に幸せな人になり、平和も実現していきましょう。 

2023年1月22日日曜日

説教メッセージ 20230122

 今日は、広島教会に来ています。説教と午後の講演、そして火曜日の子ども食堂のお手伝いで呼ばれました。昨日愛知県から運転して、岐阜や滋賀県を通って車で広島まで来ました。「シガ」というと、スペイン語やポルトガル語では、「ついていく」という意味でもあります。英語では、Followともいえる言葉です。そんなことを考えながら、今日の聖書の話も思い出し、運転していました。イエス様についていくとはどんなことでしょうか?弟子たちが呼ばれたところが今日の聖書箇所です。一緒に考えてみましょう。広島教会からいつものキットでFacebook中継もします。それぞれの教会で、または、ネット上でお会いしましょう。


 聖書の言葉 マタイ  4:12~23


12イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。 13そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。 14それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。15「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、16暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」

17そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。

18イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。 19イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 20二人はすぐに網を捨てて従った。 21そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。 22この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。

23イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。


説教 「私についてきなさい」 徳弘浩隆牧師

1.知らない人について行ってはダメよ

 昨日は、いろいろな仕事が残っていて、出発が遅れてしまいました。愛知県から懐かしい岐阜、そして滋賀県を通って車で来ながら、「やっと滋賀県に入ったねぇ」と妻と話しました。私はそんな話をしながら、知り合いの志賀さんという方を思い出しました。ブラジルのサンパウロの教会で出会った方のことです。ある日本の会社の現地法人の社長さんをされている方ですが、ルーテル教会に来るようになって、礼拝に熱心に通い、気さくにいろいろなことを手伝ってくれ、教会を支えてもくれました。「志賀さんというのは、いい名前ですねぇ」と彼に言いました。「だって、『ついて来い』っていう意味だから、ちょうどいいですねぇ」というと、彼もポルトガル語の意味がよくわかる人で、「いや、ついて来いっているだけじゃ、なかなかうまくいかないことが多いですよ」と苦笑いしながら話したことを思い出します。いろいろな現地の責任者のむつかしさ、社会や文化の違いで苦労されてきたこともお聞きしました。

今年のクリスマス以降の聖書は、イエス様の洗礼、イエス様の命名、洗礼者ヨハネとの出会いと洗礼などが最近連続して出てきましたが、今日はそこから続いて、宣教の始め、そして弟子が選ばれていくことに続いてきました。

「私についてきなさい」と言われ、すべてを捨ててついて言った最初の弟子たちでした。

「『ついて来い』というだけではなかなかうまくいかないですよ」という友人の話を思い出します。そして、「死なない人について言ってはいけませんよ」というこどもたちに教える親のセリフも思い出します。今日は、このイエス様に従って言った最初の弟子たちについて、一緒に学びましょう。そして、そこから聞こえてくる、今の私たちへの神様の呼びかけを聞いていきましょう。

2,聖書

 今年はマタイによる福音書を読み進む年ですね。マタイは、ユダヤ教の伝統の中に生きるユダヤ人向けに、書かれたと考えられています。出来事のあとで、しつこいほどに、旧約聖書の引用や、「予言通りに、このように実現した」と書かれてあるからです。今日の最初もそうでした。イエス様がガリラヤに退き、ナザレを離れ、カファルナウムに来て住まわれたということが、「聖書のイザヤ書の預言が実現したのだ」とわざわざイザヤ書の一説を引用しながら説明しています。

 そして宣教をはじめられ、ガリラヤ湖のほとりを歩いているときに漁師たちに会い、「私についてきなさい」と言われて、彼らを弟子にしたというのです。

 ここで、「あれっ?」と思う方もおられるでしょう。先週読んだヨハネによる福音書の弟子たちのついて言ったいきさつとは少し違うからです。ヨハネがイエス様を「世の罪を取り除く神の子羊だ」と紹介した時に、ヨハネの弟子の二人がイエス様についていき、そのうち一人は兄弟を呼んできて彼も従ったと、伝えられているからです。その時のキーワードは、イエス様が「来なさい。そうすれば分かる」と言われた言葉でした。

 いくつかの伝承があったのかもしれませんし、むつかしいことはわかりません。しかし、この時のイエス様の特徴的な呼びかけ、「私についてきなさい」という言葉と、「来なさい、そうすればわかる」という言葉を味わっていきましょう。

それは、多くの一般的な宗教で考えがちな、天の高いところにおられて、階段を一歩一歩上がってゆくことが求められるのとは違うということです。天から下り、私たちと同じ地平に来られ、罪びとの私たちと共に生き、呼びかけられた方がイエス様だったということです。むつかしい神学や、恐怖や力でねじ伏せる方でもありませんでした。知識のやり取りではなく、「来たらわかる」といわれ、漁師には「人を生かして救い出す漁師にしよう」とわかりやすく呼びかけたのでした。

3,振り返り 

私たちはどうでしょうか? そのイエス様の呼びかけがちゃんと心に届いているでしょうか? 私たちはすぐに、反対のことを考えます。

赦してもらうために、神様に出会うために、修行をして、苦労をして、上り詰めないといけないと。

イタリアのローマに「スカラ・サンタ教会」という古い教会があります。説明はこうです。スカラ・サンタとは、十字架にかけられる前のイエス・キリストが登ったと言われる階段で、コンスタンティヌス帝母ヘレナにより、イスラエルにあったピラトの宮殿内からローマに移築された、と伝えられています。主の祈りを唱えながら、跪いてこの28段を上れば、天国が約束されるともいわれていたそうです。マルチン・ルターも収去改革前にローマに行ったときに訪ねて、ローマの街の華やかさやその欺瞞に驚いたと伝えられます。私たちも、昔、行ってみて、どんな具合か体験するために跪いて登ってみましたが、膝が痛くてやめてしまいました。

イエス様は、苦しみながら天の高いところにおられる父なる神に赦してもらうことを教えたのではないのに、と思わされます。そのために、天から下り、私たちのために十字架にかかってくださった、私たちと同じ地平に立って、招いてくださったと、今日思い出すことが大切です。

4,勧め

「私についてきなさい」というイエス様の呼びかけを今日、私たちも聞きました。それは、ただ、ついていくという意思表示をするだけではありません。

最近流行りのFacebookやInstagramでは、「友達になる」とか、「フォロウする」といいますね。かんたんにフォロウするけれど、簡単に無視したり、適当な距離を持つこともあります。しかし、イエス様についていくということは、この類の「フォロウ」ではありません。

それは、「今までの自分にとどまるか、何か変革が起こるか」です。

イエス様についていくことを決めて、教会に通い、洗礼を受け、教会でも奉仕をし、ということを始めたのが私たちです。どんな変革が起こっているでしょうか?そして、どんな失敗をしているでしょうか?

私たちも、苦しい人、悲しい人、困難を抱えて生きていく人、寄留者・外国人とも共に生きる、その同じ地平に立っているでしょうか? 私たちも、苦しい時や失敗をするときもあります。その時は支えられる側にもなります。一緒に笑ったり、泣いたりする生き方に変えられたでしょうか?教会という、神様の大きな家族で生きているでしょうか?

それをマタイと一緒に聖書を読みながらイエス様に学び、生きていくのが今年の一年です。一緒に生きていきましょう。神様の祝福がありますように。


2023年1月14日土曜日

説教メッセージ 20230115

どうして教会には、羊や魚のシンボルや絵画があるのでしょう?昔、NHK教育テレビの英会話番組で説明の誤りを見つけて、メイルで投書したことがあります。丁寧なお返事もいただきました。偉そうに言ったのではなく、牧師として多くの人に教えて差し上げないといけないと思ったからです。 あす、そんな話もします。さて、明日の聖書は「世の罪を取り除く神の子羊」という暗号のような言葉。その意味と、神様からの呼びかけを聞いてみましょう。明日は名古屋の復活教会から礼拝と中継をします。どなたでもおいでください。先週高蔵寺教会でお配りした、み言葉入りしおりとスペインの新年のお菓子ポルボロンもお配りします!


聖書の言葉 ヨハネ1:29~42

29その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。 30『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。 31わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」 32そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。 33わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。 34わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

35その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。 36そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。 37二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。 38イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、 39イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。 40ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。 41彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。 42そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。

説教 「世の罪を取り除くかた」 徳弘浩隆牧師

1,羊や魚の意味は?

今日の聖書は、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」という言葉が、キーワードになっています。実はこの言葉は、聖餐式の中でも歌う言葉ですね。「アグヌス・デイ」と題名がついていますが、これはそのままラテン語で「神の子羊」という意味です。

そう言えば、聖書にはよく羊や羊飼いの話が出てきますし、教会の絵画でも羊の絵やシンボルもあります。それらは、どんな意味を持っているのでしょうか?

そこで私が思い出すのが、10年位前のNHK番組のことです。夜TVをつけていて、何も見たい番組がないので、NHK教育の番組にするとちょうど、ビジネス英会話というのをやっていました。私はぼんやり見ていました。そして、驚いたのです!間違えを見つけたからです。番組の中でスキットという短いドラマがあって、会話を勉強するのですが、その時はオーストラリアに行ったビジネスマンが教会に入っていくというシーンでした。ステンドグラスを見て「きれいですねぇ」というと、現地の人が「そうでしょ。オーストラリアは羊をたくさん飼っている国だし、海に囲まれているから、羊や魚のデザインなんですよ」というからです。大学の先生の講師も、何も言わずそれを見ながら会話の説明をしました。

教会に来ていて長い皆さんなら「あれ?」と思われると思います。そしておそらく、「オーストラリアだからじゃなくて、世界中の教会には、羊や羊飼い、そして魚のシンボルのデザインがあるよ」と思われるでしょう。

私は勇気を出してNHKにメイルで投書をしました。「私はプロテスタントの教会の牧師をしていますが、あの説明は少し設定が間違えていると思います。オーストラリアの特産物を教会がステンドグラスにデザインしたのではなくて、世界中のキリスト教会によく描かれています。それは、聖書の中で、羊や魚が特別の意味を持っているからです。英語を勉強するには、その文化や宗教の背景も知ったほうが良いと思いますから、誤った情報を伝えることになるので、再放送では訂正されることをお勧めします。必要ならメイルのやり取りでもっとご説明します」と書きました。すると数日後返事が来ました。「おっしゃる通り、誤りでした。再放送の際はその部分をカットして放送することになりました。ありがとうございました」とのことでした。

カットして再放送ではなくて、間違えは間違えで説明したほうが良いし、次回テキストで説明すればもっと良いと思いました。再放送を見なくて誤った知識を持った人がたくさんいるし、残念だなと思いましたが、あまりしつこくしてもいけないと思い、それまでにしました。

さて、羊や魚やハトのデザインの意味はそれなりに知っていますが、「世の罪を取り除く神の小羊」について、一緒に学び、神様の呼びかけを聞いていきましょう。

2,聖書

 今年はマタイによる福音書を読み進む年ですが、先週は3章から、イエス様が洗礼を受けられたというところでした。そして今日は、ヨハネによる福音書ですがその後ともいえる話になっています。イエス様の洗礼の記事はありませんが、洗礼者ヨハネとの出会いが記されています。メシア・キリストを迎える準備のために罪の悔い改めの洗礼を授けていたヨハネと、そこに現れたイエス様。ヨハネはこの方を見て、来るべき方が来られたと、紹介します。そして自分のしている洗礼とは違う洗礼を授ける方と証します。その場では群衆に大きなことが起こったとは書かれませんが、「その翌日」にヨハネが弟子といた時にもう一度で会い、「見よ、神の子羊だ」というと、弟子たちのうち二人はヨハネの元を離れイエス様に従いました。ヨハネによれば、その一人アンデレが兄弟を連れて行きそのものもイエス様に従い、それがシモン・ペテロだったという事になります。

 さて、この「神の子羊」という言葉の意味を学ばねば、その深い意味はわかりません。それには三つの意味があると考えられます。

1) 旧約聖書の出エジプトの時の「過越の子羊」です。エジプトで奴隷状態で苦しんでいたユダヤ人たちがモーセを通して脱出し救い出されたときに、それを阻止するエジプト王から逃れるために神様は天使を送りユダヤ人以外の家庭の長男を殺すという事がありました。しかし、神を信じるユダヤの民は、子羊を屠って、その血を家の門柱と鴨居に塗り付け、裁きと滅びから救ってくれたのです。その混乱の中、彼らは脱出しました。

2) イザヤ書の後半に出てくる、「屠り場にひかれて行く子羊」、つまり神が送る救い主なる王は、苦難を受けるという預言で言われる子羊です。

3) そして、レビ記16章などの掟にある、「贖罪の日」にイスラエル人の罪を除くために子羊、雄羊、ヤギなどをささげ、また罪を背負わせて荒野に放つという習慣があったことです。

このようないくつかの意味を持った方が、メシアであるイエス様だと、ヨハネは言ったのです。あるいは、神によってそう言わされたと言えるかもしれません。

3,振り返り 

それを聞いて、ヨハネの弟子たちはどうしたでしょうか?イエス様に従ってきました。それを見てイエス様は問います。「何を求めているのか?」と。何かを教えてもらおうと知識や言葉を求めたのかもしれませんが、イエスアマの答えは、「来なさい、そうすればわかる」と同じ宿に泊まることになったと考えられています。そして、彼らは外観や知識ではない、イエス様に「出会った」のです。そしてアンデレは兄弟シモンを呼びに行き、彼も従う事になったというのが今日の聖書でした。

4,勧め

さて私たちはどうするでしょうか? 何を求めていたでしょうか?何を知ったでしょうか?知らなければ信仰は持てません。ですから、聖書やキリスト教を学ぶことが大切です。しかし、すべてを知って理解したら信仰を持とうとしていたなら、だれも持てません。人間の知恵や知識には限界があり、創造主なる神を「知識としては」完全に理解できないからです。

この方に従い、自分の人生に重ね合わせて祈り学ぶ中で、私たちは知識とは違う「安心」や、「この大きな方にお任せし生きていこう」という事になるのが、信仰だと思わされます。

実際、ここでイエス様に従っていった弟子たちも、失敗したり怒られたりしながら、イエス様と共に歩んでいきます。その方の本当の意味を知ったのは、十字架と復活のあとです。

この方は、イスラエルだけの罪を背負い身代わりに追放され、殺される方としてではなく、世の罪を取り除く方です。私も、あなたも、その中にいるのです。一緒にこの方について、歩いていきましょう。神様は、今日、そう呼び掛けておられます。

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牧師コラム スケープゴート 

羊が犠牲にされたという話を読んで、思い出す言葉は、「スケープゴート」という言葉かもしれません。でも待てよ。ゴートは羊ではなくてヤギですね。漢字で書くと「羊」と「山羊」は似ていますが、性格や特性も違う動物です。ちょっと調べてみました。

「山羊(やぎ)」は、「ウシ科ヤギ亜科ヤギ属」。生態:山羊は山岳地帯など、高所で険しい地形を好みます。人間では容易に登ることのできない崖でも移動することができます。家畜としては最初期は肉を、そして次第に毛皮や乳を求められるようになり、現在に至ったようです。

「羊(ひつじ)」は、「ウシ科ヤギ亜科ヒツジ属」。生態:羊は群れを作りたがる性質があり、群れから離れることを嫌がります。そして群れのリーダーに付き従う傾向がみられます。乳、皮は山羊の方が優れているとされていましたが、羊には山羊には無い脂肪が多く蓄えられいたため、乾燥地域で生活をしていた当時の遊牧民には欠かせない存在になったと考えられています。

スケープゴート(英: scapegoat)は、「身代わり」「生贄(いけにえ)」などの意味合いを持つ聖書由来の用語。「贖罪(しょくざい)の山羊」等と訳される。現在の意味はこの宗教的な意味合いから転じて、不満や憎悪、責任を、直接的原因となるもの及び人に向けるのではなく、他の対象に転嫁することでそれらの解消や収拾を図るといった場合の、その不満、憎悪、責任を転嫁された対象を指す。原義は聖書のレビ記16章において、贖罪の日に人々の苦難や行ってきた罪を負わせて荒野に放した山羊を指した。「贖罪の日」は、ヨム・キプルと呼ばれ現代でもユダヤ教では大切な祭日で、今年は今の私たちの暦で言うと9月25日とのことです。


2023年1月7日土曜日

説教メッセージ 20230108

 今日の礼拝では、おみくじではありませんが、一人ひとり別の聖書の言葉がもらえるようになっています。今年はまず旧約聖書から。聖書個所が書かれてあるだけなので、聖書を開けて自分で書き込んで、今年聖書にはさんで心にとめてください。神様は、どんな言葉をくださるでしょうね?ほかには、おぜんざいと、スペインの甘くはかない焼き菓子・ポルボロンを妻が作ってくれました。この言い伝えや、私たちのいのちや愛の大切さも考えます。どうぞ、おいでください。または、Facebook中継でお会いしましょう。





聖書の言葉 マタイ 3:13~17 (新4)

13そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。 14ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」 15しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。 16イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。 17そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。


説教 「神様は『親バカ』か?」  徳弘浩隆牧師

1,今日はいったい何の日?

昨年末のクリスマスにイエス様のお誕生をお祝いしました。そして、イエス様のお名前が付けられたという出来事を見てきました。そして、1月6日に東方の三博士が来たという話になり、顕現節・エピファニーという日を祝う事になります。しかし、今年はカレンダーの関係で省略され、イエス様が洗礼を受けられたという日につながっていきます。教会の専門の担当者によると、「この二つが重なってしまう場合は、より重要な洗礼の出来事を覚えて礼拝することになる」とのことです。それが例年と少し違う事です。そして世界中の人がニュースをみて「へー」と驚かれたことがあると思うのは、ロシア正教会では1月7日がクリスマスだという事でもあるでしょう。これは、ユリウス暦という暦での12月25日が今の社会のグレゴリオ暦で言うと1月7日になる、という少々ややこしい話になっています。いずれにしても、今日はそれらのことを思いめぐらせながら、神様の言葉を聞いていきましょう。

クリスマスに明るく暖かい光として迎えたイエス・キリストですが、私たちの人生や、社会はどうでしょうか?依然として、罪にまみれた、問題だらけの世界、そして、それを構成している私たちという事を見せつけられています。

今日の聖書では、イエス様が洗礼を受けられた記事になっています。それはなぜでしょうか?イエス様も、罪びとだったのでしょうか?一緒に聖書から神様のメッセージを聞いていきましょう。


2,聖書

 当時、荒野で洗礼者ヨハネが人々に罪の悔い改めを迫る説教をし、人々が集まっていました。そして、ヨルダン川で洗礼を授けていたのです。そこに、イエス様が現れます。ヨハネはこの方が自分以上の方であると知り、思いとどまらせようとしますが、イエス様はヨハネを納得させて洗礼を授けた、という事でした。

 今日の最初のポイントは、この洗礼は、イエス様が十字架と復活の後に弟子たちに命令した「すべての人に福音を伝えて洗礼を授けよ」という洗礼とは違うという事です。ヨハネはメシアを迎える前の罪の悔い改めのための洗礼でしたが、イエス様の命じた洗礼は「罪の自分が死に、キリストの復活とともに新しく生まれ変わる」という事だからです。なぜ罪びとではない神の子であるイエス様はヨハネの洗礼を受けたのか。それは、罪びとの中に生まれ、罪びととともに生きたイエス様は、必要がないのに、私たちと同じ側に立ってくださったという事です。天の上から指図をするのではなく、私たちのただなかに、人の姿で来てくれた方だという事です。

 そして二つ目は、「天が開いて、神の霊が鳩のように下ってきた」ということと、「これは私の愛する子、私の心に適う者」という声が天から聞こえたということです。イエス様は、神の霊に満たされ、父なる神の「愛する子」「心に適う者」だったのです。そんな方が、私たちの中に生まれ、神の愛を伝えてくれるという事が大切です。

3,振り返り

さて、ここで私たちは自分の生き方をも振り返らねばなりません。

イエス様は「神の愛する子」「神の心に適う者」なのですが、私は、私たちはどうでしょうか?

わざわざそう聞こえてくるという事は、私たちは、そうではないという事かもしれません。

では、神様は私たちを愛していないのでしょうか?愛しています。私たちも本来は神様に作られた、神の子だからです。「これは私の愛する子」には違いがありません。では私たちは何が違うのでしょうか?

二つ目の天の声をもう一度聞きましょう。それはこうでした。「わたしの心に適う者」。私たちは、神様の心に適う者でしょうか?いいえ、違います。ここが大切なところです。神様の言葉を捨てて、善悪を勝手に考え、決めて、勝手に生きることを始めたのがアダムとエバの話で伝えられています。それ以降、エゴイズムが勝る私たちは、傷つき、傷つけ合い、生きてきました。そんな「ダメ」な罪びとになってしまったのです。

でも、「『バカ』な子ほどかわいい」という言葉もあるように、親なる神様から見たら、私たち罪びとも、愛する子であり、不憫でならないのかもしれません。

ですから、歴史の中で預言者を建て、奇跡も起こし人々を導いてこられました。それでもどうにもならないので、神ご自身がこの世に来られたともいえる出来事が、クリスマスの出来事だったのです。

ダメな、バカなともいえる私たち罪びとの人類をここまで愛し続ける親なる神は、もっと大きな「親バカ」な親と言えるかもしれません。


4,勧め

ダメダメな、不憫な子かもしれませんが、そこに甘んじていてはいけません。そこから、ゆるし、救い出し、生まれ変わらせるために、イエス様は来られました。

この方に従って生きることを始めるときに、私たちもイエス・キリストが定められた洗礼を受けるときに、変えられるのです。「神様の心に適う者」に。ダメダメだけど不憫で愛する子ではなくて、神様の言葉を守り、神と人を愛し、平和と愛の社会を作り、他者とともに笑い、また、泣く事ができる、神の似姿になっていくのです。

今日は、新年のお菓子で、妻がポルボロンというスペインのお菓子を作ってくれました。私たちの好きな地中海側のアンダルシアの修道院生まれのお菓子だそうです。ほのかな甘さと、柔らかくもろい口当たりのお菓子で、クリスマスや新年によく食べられるそうです。

これと一口で口に入れ、「ポルボロン、ポルボロン、ポルボロン」と3回言う事が出来たら、幸せがやってくるという言い伝えがあります。もちろんそれは迷信の類でしょうが、意味深いものがあります。

なぜなら、ポルボロンというスペイン語は、Polvoという言葉にónという大きなものを表す言葉がついてできています。Polvoは「塵」という意味です。英語ではダスト、日本語ではホコリとも辞書に出てきます。

人ももともと地のホコリから作られ、神の息・聖霊が吹き込まれて生きた人となったと聖書は伝えています。それが大きくなったもの。それは私たちの姿かもしれません。もろくて、大切に扱わないと壊れてしまいます。すごく甘いものではないけれど、ほのかな甘さと、もろさは、人の大切にすべきいのちを思い出させます。

しかし、人は、つぶし合い、殺し合いをしてきた罪の歴史を重ねてきました。今こそ、神様に立ち返り、大切にし合う、生き方を始めましょう。

その時、私たち皆もまた、神の愛する子、神の心に適う者に、されていくのです。

 

牧師コラム クリスマスと新年のお菓子、外国では?

スペインには、ポルボロン( Polvorón)という焼き菓子があります。妻が好きになって時々作ってくれます。

Wikipediaなど、インターネット上には、こんな説明があります。

ポルボロンの名称は、塵を表す「ポルボ」(スペイン語: polvo)に強調語尾の「ロン」(スペイン語: rón)がついたもの。塵のようにホロホロと崩れる口当たりのクッキーに由来する。材料は、小麦粉、ラード、砂糖を主原料としている。アンダルシア地方の修道院で1200年前に誕生した。大航海時代にはスペイン植民地に広まり、フィリピンやキューバなどでも食べられるようになった。

願いが叶う魔法の?クッキー:クッキーを口の中に入れて、崩れてしまう前に「ポルボロン、ポルボロン、ポルボロン」と3回唱えることができたら幸せになる、願いが適うという言い伝えがある。

今日の説教と一緒に、心で、食べながら、味わってみませんか?

最近は、KALDIなどにも似たものが売られているようです。すこしかたいですけどね。もろく、はかなくもある、人のいのちや幸せ、互いに大切に思い合い、生きていきましょう。


説教メッセージ 20240512

 聖書の言葉  ルカ 24:44~53 と 使徒言行録 1: 1~11 (新213) 1:1-2テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。...