2023年10月29日日曜日

説教メッセージ 20231029

 「経済が一丁目一番地!」という総理大臣の所信表明演説と解説のニュースを何度も見ました。「これが一番大切!」と強調するときに、「一丁目一番地!」と言いますね。では、「聖書の教えの一丁目一番地は何ですか?」というのが、実は今日のイエスさまへの質問でした。さて、何でしょうか?一緒に学びましょう。今日の礼拝は高蔵寺教会で担当します。Youtubeでの配信もします。礼拝へおいでください。お待ちしています!


聖書の言葉 マタイ 22:34~46 (新44)

34ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。 35そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。 36「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」

 37イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 38これが最も重要な第一の掟である。 39第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 40律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

41ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった。 42「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」彼らが、「ダビデの子です」と言うと、 43イエスは言われた。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。

44『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、わたしがあなたの敵を あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』

45このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」 46これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった。


説教「1にも2にも大切なことは」徳弘牧師

1, 一丁目一番地…

先日のニュースで総理大臣の所信表明演説やその解説が流されていました。増税や物価高騰の中の国民の経済的な負担を減らそうという対策案の中で、家計の中の食費の占める割合を指す「エンゲル係数」という言葉とともに、「経済が一丁目一番地だ」という言葉が何度か出ました。

二つのことを思い出しました。一つは、子育てにかかる費用の割合を「エンジェル係数」という時があるし、高齢化して病院通いが増えると医療費の割合が増えるのでこれを「病んでる係数」というんだと友人から教えられ笑ったことです。

そしてもう一つは、ルーテル教会の東京の本部は市ヶ谷の一丁目一番地だったなぁということです。

それから今日の聖書です。「いろいろある聖書の掟の中で、何が一番大事なのか?」というやり取り。1丁目1番地、そして、1にも2にも大事なことは何でしょうか? 

2,聖書 

ファリサイ派とヘロデ派に続いて、サドカイ派の人たちもイエスに言い込められて、もう一度ファリサイ派の人たちが集まって、されなる無理難題の質問を持ってきました。先週読んだ聖書の個所に次には、「復活がない」と信じているユダヤ教の一派で、祭司層を中心にした裕福な上層階級のサドカイ派の人たちがやり込められた話があったのでした。

入れ替わり立ち代わり、イエス様をやり込めようという流れが続いています。

今日の質問は、律法の専門家です。当時のユダヤ教の聖典は「旧約聖書」とは言われていませんでしたが、今でいうそれに該当し、「律法、預言、諸書」の3つからなりますが、より大切なものを挙げた呼び方として「律法と預言」とも言われていました。

そのさらに一番大切なものは「律法」、つまり、神様からいただいた十戒を中心にして、沢山の規定が定められた掟でした。研究者によると、613もの掟や規定が書かれているといわれます。中には、一見矛盾しているような、時代感覚からするとどうかなというのもあったかもしれません。今私たちが読むと、そういう印象を受けるからです。そして、彼らは、その中から、どれが一番大切か?とイエス様の問うたのでした。

まさに、「聖典の中の、神の教えの中の、1丁目1番地は何か?」と問い詰めたのでした。

イエスの返答は明快でした。しかし、一つではありませんでした。1丁目1番地ではなくて、1にも2にも大切なもの二つと言えるでしょう。それは今の社会や世界を生きる私たちの心にも響く、大切なものだと、今日は確かに聞き取っていきたいと思います。

一つは、申命記6章5節を引用して、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 38これが最も重要な第一の掟である。

もう一つは、レビ記19章18節を引用して、「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」とまとめられたのです。

3,振り返り 

わたしたちの生活はどうでしょうか? 「愛する」という言葉が、日本語ではピンときにくいといわれます。聖書を最初に日本語にした宣教師たちは、「大切にする」という言葉を選んだそうです。そうなると、こう問われています。「私は、神を大切にし、人を大切にしているでしょうか?」と。

そして、それらは、一丁目一番地であり、1にも2にも大切なこと。これら二つは分けることができないというのが、旧約聖書の教え、そしてイエス様が一言で言った大切なことでした。

 こんなことはないでしょうか?

1)神を大切にするけれども、人を大切にしていない。

2)人を大切にするけれども、神を大切にしていない。

3)神を大切にせず、人も大切にしていない。大切なのは自分だけ。

考えてみれば、これが、自分の心の中から、家庭、職場、社会、世界でも、いさかいや衝突の原因です。それは、教会の中でも起こりますし、世界では戦争にもなります。自分の考えを絶対化し、それに神を後ろ盾にすらして正当化し、他者を排除するときに宗教的な戦争も起こります。その気持ちが、人間の罪なのです。善悪の基準や判断の基準を、それぞれの自分がではなく、より高次な神に求め、意見が違っても人とも尊重しあい、共存していくことができずにいるから、今の戦争も起こっています。

613もあるという律法を、つまり神の戒めをすべて守らなくても、すべて覚えていなくても、この二つを心に刻むと大丈夫なのです。

4,勧め 

 これは、去年の教会学校の夏のキャンプで作っていただいた、教材です。十戒の石板に見立てて、10の戒めを子どもたちと一緒に張り付けて、覚えました。そして、週報の表紙は、十戒の石板に見立てたものに、これら二つだけが書かれています。613なくても、10なくても、2つだけ。


 戦争を見て驚き、非難するだけでなく、自分の心をまず、見つめましょう。そこに、この二つの大切な戒めに反しているところがあれば、それぞれ、悔い改めましょう。そして、キリストがなさったことを見つめましょう。それは、「人を愛する」だけにとどまらず、「敵をも愛する」ということでした。

 そんな十字架を見つめながら、十戒を石板に刻むにとどまらず、十字架上の敵を愛する愛を心に刻み、生きていきましょう。そのとき、自分の心にも、自分の人間関係にも、そして世界でも、平和が実現するのです。神様の祝福をお祈りしましょう。


 


牧師コラム・ 「LineでのQ&A」 -2  

イスラエルとパレスチナの間で戦争が始まり混迷を深めています。どうしてこの地の紛争が絶えないのか。今日も先週の続きで、Lineでの教会メンバーからの質問とお答えを掲載します。一緒に考えてみませんか?


Q:平和の声をあげると、キング牧師やアウンサンスーチンさんとか、主イエスも、敵になるんですね。対話で、平和への解決は難しいことを、すごく感じました!

A:そうですねぇ。誰の心にもある自分を大切にする心が、方向を間違えたり、他者が見えなくなると排除しあいつぶしあいになりますね。向上心も含めて、生存のための本能で大切ですが、大切なものを見失うと、マトを外すと罪深い自分を見ることになりますね。

それを超えるのが、自己犠牲の愛だと思います。みんながそれをすると社会が無秩序で成り立たなくなりますが、それをした人に心打たれて改心したら、人を許したり愛したりできるように少しずつできるようにされることを体験します。それがキリスト教の生き方で、信仰とか宗教というのと違う、生き方だと思います。

そんな人が増えると「地の塩」として社会に少しでも良い影響をもたらすという、遅々たる歩みで小さな存在かもしれませんが、それが大切と思わされるのが我々の集まり・教会だと思います。勉強や知識や対話ではなくて、生き方であり、そんな一緒に泣いたり笑ったりして支え合って生きることが、大切で、自分もそこで生かされ、生きていていいんだと思わされます。


Q:最近、周りの人とイスラエルの話しをする事があり徳弘先生から頂いたお返事を参考にさせて頂いてます。過去の歴史にさかのぼると、いろんな出来事がすべて繋がっていて絡み合って根深い問題になってるなと思いました。やっぱり、謙虚になることは大切だし必要だなとあらためて、この問題を考えるようになって思いました。両者が、謙虚になれれば、争いなんて、なくなると思います。そぉ言う私も謙虚には、なかなかなれないですが(笑)

連日、イスラエルのニュースばかりですが、テレビ、新聞、ネットetc いろんな媒体がある中で私たちはおそらくテレビから知ることが1番多く、それを鵜呑みにしてしまうと思います。正しい事が報道されているのですか?

A:そうですね。良い視点だと思います。TVや新聞の報道も、その会社の立場や方針で各社伝え方が違います。また、そもそも、外信で入ってくるニュースにもすでに偏りやフィルターがあることも知っておくべきですね。

そんな報道やインターネットの情報を、正しく読み込んで、取捨選択する能力、Fake newsも検証して見極める力が各個人に必要です。これを、「読み書きの能力」という意味の「リテラシー」という言葉を使って、「インターネット・リテラシー」が必要だ、などと言われます。インターネットで見た記事や主張を鵜呑みにしないで、独自に検証する力という意味でしょう。

そのためには、これらが大切と思わされます。1,基礎知識:日本の義務教育ではある程度の広い基礎知識が付けられるでしょう。詰め込みという方法や、戦争や歴史観には避けていたり不十分なところもある、という課題もありますが。2、冷静な目と独自調査や検証する努力。裏付けを取ることや反証にも目を通すということ。人間関係でも、反対論者の意見も真っ向否定せず、謙虚に耳を傾ける。などが必要なこととして上げられるでしょう。

広い目と謙虚な探求心が大切ですね。(続)


2023年10月21日土曜日

説教メッセージ 20231022

 最近知り合いができたトルコの国や歴史に関心が大きくなり、調べ物とともに、Netflixでトルコのドラマを見始めました。その国のTV番組や歴史や暮らしぶりを、ドラマ越しですが看ることができます。他にも、米英とロシアや中東が絡むスパイドラマなど、週に一度の息抜きと異文化体験で見ています。国の歴史と紛争、そして民族と宗教の絡み合いがどこにもあり、考えさせられます。スパイドラマの中で各国の情報組織が面談して情報交換するときに、自己紹介と握手をしていました。「私はロシア担当」「私は中東担当です」というとアメリカの大使とともにいた補佐官は「私の担当は全世界です」と言って、みんなで笑いながら握手をするというシーンがありました。私は、聖書の言葉を思い出しながら一緒に笑いました。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」というキリストの言葉を読んで、「私は誰のものだろう?」「私の社会や世界へのかかわりは、どんなことだろう?」と思いめぐらしていただからです。キリストの今日の言葉と、その意味を一緒に聞きましょう。


聖書の言葉 マタイ 22:15~22 (新43)

15それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。 16そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。 17ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」 18イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。 19税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、 20イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。 21彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」 22彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。


説教「あなたは誰のもの?」徳弘牧師

1, 私の担当は…

最近知り合いができたトルコの国や歴史に関心が大きくなりました。何も知らない自分に気づいて、もっと知らねばと思ったのです。そこで、色々調べ物はしますが、Netflixでトルコのドラマを見始めました。音声は現地語で、字幕を日本語になどと選ぶことができるので、その国のTV番組や歴史や暮らしぶりを、ドラマ越しですが看ることができます。他にも、米英とロシアや中東が絡むスパイドラマなど、週に一度の息抜きと異文化体験で見ています。国の歴史と紛争、そして民族と宗教の絡み合いがどこにもあり、考えさせられます。

そのなかのスパイドラマの中で各国の情報組織が面談して情報交換するときに、自己紹介と握手をしていました。「私はロシア担当」「私は中東担当です」というとアメリカの大使とともにいた補佐官は「私の担当は全世界です」と言って、みんなで笑いながら握手をするというシーンがありました。

今日の聖書を読んで日曜日の準備をしていた私は、聖書の言葉を思い出しながら一緒に笑いました。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」というキリストの言葉を読んで、「私は誰のものだろう?」「私の社会や世界へのかかわりは、どんなことだろう?」と思いめぐらしていただからです。キリストの今日の言葉と、その意味を一緒に聞きましょう。

2,聖書 

今日のできごとは、イエスを罠にかけるために言葉尻をとらえようとしたファリサイ派の人々がヘロデ派の人々と共にやってきて質問したときの出来事です。ファリサイ派はユダヤ教の律法を厳格に守り、ヘロデ派はユダの国を占領支配するローマ帝国にすり寄る政治的なグループですから、この二つは本当は対立する関係です。しかし、イエスという共通の敵のために力を合わせたという、興味深い出来事です。それほど、イエスの教えやグループは影響が大きかったとも言えます。難しい質問をして、どのように答えても、ファリサイ派かヘロデ派のどちらかが怒る、という難しい質問で、イエスを陥れようとしたのです。

慇懃無礼(いんぎんぶれい)な呼びかけの後、彼らはイエスに問います。「ローマ皇帝に税金を納めるのはユダヤ教の律法に適っているか?」というのです。

Yesと答えればファリサイ派がイエスを罪に問える、Noと答えればヘロデ派が罪に問えるのです。

これに対してのキリストの答えは、いつもの通り見事でした。税金を納める通貨はローマのものですから、「その銀貨に誰の肖像と銘があるか?」と問い返したのです。それは皇帝の肖像でした。そこで、ならば、「皇帝に返しなさい」と言われました。

皇帝に捧げなさいとは言われなかったことは、律法に違反するかどうかを避けるお答えでもありました。そして、それでお返事は終わりません。「神のものは神に返しなさい」とも続けられたのです。これを聞いて彼らは驚き、立ち去るしかありませんでした。

3,振り返り 

これを読んで私たちは思うかもしれません。「この世のコト、つまり社会や世界のルールやあり方もそのまま肯定するしかないか」と。社会の支配者や政府をそのまま肯定し、私たちは、信仰を持っているから私たちだけで内向きの秘密結社のように教会の中だけで信仰を守り抜き、使い分けをしてもいいのか、ということです。それは、気を付けなければならない誤りだと思います。この世のことと、信仰のことを二つに分けるべきで、使い分けてもいいと、キリストは言っておられないのです。

キリストは誰の肖像があるか?とローマの銀貨について問われました。そこには、ローマ皇帝の像がありました。ローマ皇帝の姿にかたどられた肖像があったのです。ユダヤ人はその支配の中で、その銀貨を使っていました。しかし、ユダヤの神殿では異国の神ともされる皇帝の肖像をかたどった銀貨は使うことできません。ユダヤ教の律法がゆるさないのです。だから、神殿には「両替商」がいました。両替商は、献金をするときに、大きな金額の硬貨しかないから小さく両替してもらって少しだけ献金するための両替ではありません。ローマの銀貨をユダヤの硬貨に両替してから神殿に献金する必要があったのです。

4,勧め 

さて、最初の私の問いに戻りましょう。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返す」というキリストの言葉から「私は誰のものか?」という問でした。

この世の出来事は、キリストを知らない人が多く指導している政府や国です。しかし、それ以上に、そもそもの話として、私たちのいのちや、この世の国の秩序も含めてすべては、神によるもので、神様のもののはずです。神を知り、生き方を変えられたこの私も、神のものです。ですから、神を愛し人を愛する生き方を生かされています。

そこから見たときに、この世の在り方をそのまま肯定するのでもなく、分離した生活をするのでも無く、社会や国や世界にも、神を愛し人を愛する生き方をして、関わっていくことが大切です。

いさかいや差別、戦争や不平等の出来事を知り、心を痛めます。これは自己絶対化や自己中心の心、聖書が言う「罪」によるものです。私たちは、神に似せて、神にかたどられて造られたのに、いつの間にか、この世の神というローマ皇帝をかたどった銀貨に心を費やし、神以外のものにかたどられてしまっていました。そんな私たちを、キリストは十字架により本来の姿に創り替えてくれたのです。私は神様のもの、この世界もすべて、本当は神様のもの。その気持ちで生きていきましょう。過ちを悔い改め、それを正し、生き方を変えるのです。その時、心の平安と、和解、社会や世界の平和も訪れるはずなのです。

 


牧師コラム・ 今日の写真 「LineでのQ&A」    


 イスラエルとパレスチナの間で戦争が始まってしまいました。混迷を極めるニュースを見る中、どうしてこの地の紛争が絶えないのか。イスラエルとパレスチナ、ユダヤ教とイスラム教とキリスト教についての質問を受けることが多くあります。先日もLineで教会メンバーから質問があり、新幹線の中で取り急ぎお返事をしました。雑駁で不完全ですが、一緒に考えてみませんか?

Q:徳弘先生、突然ですが、イスラエルとガザの争いは、なぜ起きているのですか?イスラエルはキリストの聖地なのに、主イエスが残したものは何だったのですか? 何を争っているんですか?唐突にすみません。

A:イスラエル(主にユダヤ教)のエルサレムなどはキリスト教の聖地と考えられると共に、イスラム教やユダヤ教でも聖地です。パレスチナ人は主にイスラム教です。 

歴史的にはこうです。キリスト以後392年にキリスト教を国教化したローマ帝国ですが、その後東西分裂し、後に東はイスラムの国になります。西のキリスト教国は十字軍戦争で「聖地奪還」を試みましたが適わず、今のイスラエルの地はキリスト教でもユダヤ教でもないイスラムの国が続きます。戦争で教会も疲弊し権力や金に依存する教会になってしまい、16世紀にそれに疑問を提出したのがドイツの修道士・神学教授のマルチンルターですね。以後プロテスタントが次々に出来てキリスト教内の戦争も続きましたが、昨今はようやく共同し世界に尽くすと言う風潮が出来ました。しかし、東欧ではキリスト教の名も出して戦争が続いていることに心を痛めます。ユダヤ教やイスラム教の中にも排他的な原理主義者もおり、宗教も絡んだ紛争・戦争を起こしています。また、キリスト教内にも原理主義者グループやカルトがあることも忘れずに気をつけねばなりません。ハマスはパレスチナ全体の代表ではなくガザ地区を実効支配する原理主義者達の自治政権です。ヨルダン川西岸のパレスチナ政権はイスラエルとの共存も目指しています。

Q:ヒトラーがユダヤ人を迫害したのは、なぜですか?イスラエル建国は大戦後なんですよね?大戦前は、全部パレスチナだったんですか?

A:第一次大戦で敗戦し多額の賠償金を要求されたドイツは貧しくなりました。そんな中、人気を得たのがヒトラーでした。国が困難に陥ると国内の外国人やその子孫を排除することはどこでも起こる悲しい人間の罪深さですね。彼は国粋主義の風潮で首相になりました。標的は商売や金融で成功もしていたユダヤ人達で財産も没収しました。キリストを十字架にかけたという憎悪もありました。エジプトがやがて寄留者のユダヤ人を奴隷同様にしたのも、国内の他国出身者を差別する人間の罪深さですね。

イスラエル建国前のパレスチナは現トルコを中心とする広大なオスマン帝国の一部でした。この国は第一次大戦でドイツと共に戦い、敗戦します。その時、イギリスが3枚舌外交をし戦争を有利に進めました。戦勝時に味方国フランス・ロシアとの分割案と共にパレスチナ人にもユダヤ人にも戦後独立を支援すると。これが今のイスラエル建国とその後の中東戦争の発端の一つにもなります。イスラエルは第二次対戦後1948年にそれまでパレスチナ人が住んでいた場所に「帰国」して建国。これを助けたのは、大戦中のヨーロッパでのユダヤ人虐殺の「罪滅ぼし」の心情も強かった「キリスト教」諸国でした。当初共存していたユダヤ人はパレスチナ人を追い出し、紛争のたびに占領地を拡大して今の形になりました。追い込まれたパレスチナ人は「ヨルダン川西岸地区」と「ガザ」の二ヶ所に「イスラエルという国の中の自治区」となりましたが依然イスラエルの中の閉鎖された被差別地域の様相です。それはキリストの時代のローマ帝国とそれが占領支配するユダヤ人のイスラエル(ユダの国)のような状況です。帝国主義に抑圧された被害者の国民が、他民族や宗教を抑圧する新しい帝国主義になってしまっています。(続)


2023年10月15日日曜日

インスタ始めました❣️

 教会メンバーがいInstagramを始めてくれましたよ!

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よろしく〜👍❤️

るうてるフェスタ おいでください❤️

 


説教メッセージ 20231015

 先日用があり東京へ行きました。本籍地のある街の市役所にも生きました。車を停めて脇の入り口から入るとき、懐かしい思いに駆られました。数十年前に結婚式を終えた夜、妻と婚姻届けを出しに来た夜間窓口の脇だったからです。今日の聖書のたとえは、結婚式の出来事です。神の国はこういうものだ、とキリストは言われます。どういうもの?でしょうか。一緒に学びましょう。今日は高蔵寺教会で礼拝担当します。Youtubeでオンライン中継もします(時々日付などを間違えてごめんなさい)。お待ちしています!


マタイ 22: 1~14 (新42)

1イエスは、また、たとえを用いて語られた。 2「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。 3王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。 4そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』 5しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、 6また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。 7そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。 8そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。 9だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』 10そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。 11王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。 12王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、 13王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』 14招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」



説教「突然の招待状」徳弘牧師

1,結婚式のたとえ

先月東京を訪ねたときに懐かしい思いをしました。介護の手続きの関係で戸籍謄本が必要になり、本籍のある西東京市へ行ってきた時のことです。車を停めて市役所に入った入り口は33年前に結婚式当日の夜、婚姻届けを出しに行ったときに入った夜間窓口の脇で、その時のことを懐かしく思い出しました。そして、実は私の姪っ子が先月結婚をし、お祝いやお手紙を送り、昨日電話がかかり挨拶をしたところです。しかし、結婚式の招待状は届きませんでした。コロナ明けでもあるし、結婚式や披露宴はもう少し落ち着いてからということで、私も賛成していたのです。

今日の聖書は、今まで連続したブドウ園の話のたとえ話は終わり、結婚式のたとえになりました。招待された人、集まった人、そこには神様に招かれた私たちの姿を重ねて考える必要があります。一緒に聖書を見ていきましょう。

2,聖書 

今日のたとえも、「天の国は…に似ている」という始まり方で、これは、死後の天国ではなくて、神様との本当の関係がある私たちの生き方のありようをキリストは説明されています。

ブドウ園の出来事ではなく、今日は結婚式です。

王がその子・王子のために祝宴を催したのに、招いておいた人々は来ないのです。そこで、別の家来を送ってすっかり準備ができていますと言わせたのですが、無視して仕事に出かけ、ほかの人々は家来たちに乱暴をし、殺してさえしまったのです。

これは、神様の招きを拒否する人々をたとえています。あらかじめ招いておいた人たちは、ユダヤ教の指導者たちです。一度使者を送りだめだったのでもう一度別の使者を送るというたとえ話が良く出てきますが、これは、イスラエルの歴史の中でのバビロン捕囚の前と後の預言者の出来事を表す定番の言い方だそうです。不信仰で国が亡びると訴えた預言者と、その通りになってしまったバビロン捕囚。しかし時が過ぎて赦され自国に戻ってきてからの預言者の声を彼らが聞いてきたかどうかということを表しています。

今日のたとえでも、ユダヤ民族はそれを聞くことなく、不信仰を続けました。彼らは預言者を殺しさえしたことをキリストはたとえで説明しています。彼らは罰を受け滅ぼされました。

そして、神様の招きは、準備されていた人々ではなく、「街の大通りで見かけた人は誰でも」になり、善人も悪人も集められ、婚宴は人でいっぱいになったというのです。ユダヤ教の「立派な」指導者たちは、宗教的に準備されてきていましたが、キリストを受け入れることができず、多くの「罪びと」がキリストのもとに集まったことを表しているのです。

3,振り返り 

自分のことを振り返りましょう。わたしは、長い間信仰を持ち、正しい生活をしてキリストを待ち望んできたでしょうか?それとも、普通の生き方をしてきていて突然の招待状をもらったように、ふとしたきっかけで神様に出会ったでしょうか?

あるいは、長い間苦労をして生きてきて、自分の信念や自信がありすぎて、キリストの言葉を素直に受け入れられない、いわば婚宴への招待を拒否している人の姿があるかもしれません。拒否した人の中には、畑に行ったり、商売に行くために拒否した人もいます。それらも大切ですが、いざという時の神の呼びかけをないがしろにする姿がそこにあるかもしれません。

では、神の呼びかけに正しく、間違えなく、応えるのには何が必要でしょうか。信仰や努力や献金や人のための功績でしょうか?そうではありません。婚宴に招かれたのは、「街の大通りで見かけた人は誰でも」だからです。神様の呼びかけに、素直に答えることだけ、それが大切なようです。

努力したから救われるのでもなく、信仰が深いから神様に会えるのでもなく、突然の招きを素直に受けるとき、私たちは神様との新しい生き方に招かれているのです。行いによってではなく、素直な信仰によって神様との関係が回復される、それが救いです。

4,勧め 

 では、今までのままの自分でいつまでもいいということでしょうか?そこは少し違います。

救われるためには条件はなく、神様の招きとそれにこたえるだけです。しかし、それで今までの通りの生き方を続けていくのは、ふさわしくありません。

善人も悪人も呼ばれ、婚宴はいっぱいになりましたが、婚宴の服を着ていなかった人がつまみ出されるというのが教のたとえの最後の部分にあります。

これは、教会に招かれ、救われたキリスト者の新しい生き方を表していると考えられます。

今聖書研究会ではエフェソの信徒への手紙を読んでいます。ちょうど先日学んだ5章1-2節にこうありました。「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。」そして、そのときも一緒に考えたのは、「キリストを着る」という言葉です。「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。(ローマ13.14 口語訳)」、「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。(ガラテヤ3.27 新共同訳)」

招かれた後は、今までの生き方を捨てて「キリストを着なさい」と勧められ、洗礼を受けた後は「キリストに結ばれ、キリストを着ている」はずなのです。

それが、神様との本当の関係に立ち戻り、それによって人々も互いに愛し支えあう関係で生きる「天の国」の姿です。死後の世界ではなく、今の出来事です。

生きにくさや、沢山の問題、そして戦争も終えられない社会ですが、神様の招きに応えて安心の日々を着ましょう。そして、愛と平和の世界を広めていきましょう。それが、「神の国」なのです。

 牧師コラム・ 今日の写真 「また、戦争が…」 


   突然の砲撃とがれきの映像に私たちは、驚き、打ちのめされました。それも小競り合いではなく、双方大規模なものでした。パレスチナ自治区ガザを実効支配するハマスによるイスラエル領内への奇襲攻撃と反撃がありました。早速当事者国やいくつかのTVニュースを見てみました。私はヘブライ語、アラビア語中継は時々知っている単語を拾えるくらいで、ほぼ理解できませんが、双方現場レポートや有識者の解説が続きます。国会中継や戦場での戦車の準備映像も映ります。

宗教対立といわれ心が痛いところですが、よく理解しないとなりません。聖書の民、ユダヤ人とパレスチナ人はユダヤ教徒イスラム教がそれぞれ主ですが、宗教的対立というより、西欧諸国の植民地支配と撤退した後の二重外交も大きな要因で土地の奪い合いが火種を残しました。ルーテル教会が加盟するNCC(日本キリスト教協議会)も声明を出し、双方の自制を促しました。それぞれが大切にする旧約聖書の言葉によって。友人のベツレヘムのルーテル教会のパレスチナ人牧師も声明を出しました。ともに祈り、平和を作り出しましょう。

パレスチナとイスラエルの平和を願う声明文

//前半部分省略// 聖書における、イスラエルに、神によって約束されたカナンの地とは、寄留者アブラハムたち、そしてエジプトの地で奴隷という寄留生活を強いられたイスラエルの民に示されたものであることをわたしたちは想起します。同時に、そのような苦難を経た民イスラエルにカナンの地を約束された神は、「あなたは寄留者を虐げてはならない。あなたたちは寄留者の気持ちを知っている。あなたたちは、エジプトの国で寄留者であったからである。」(出エジプト記 23 章 9 節:新共同訳)とも命じているのです。イスラエルとパレスチナ自治政府のたどり着くべき平和への道は、歴史の中でどちらも寄留者としての苦難の道を歩んできた民が、この聖書の指し示す道に立ち帰る以外にはなく、この二つの民の苦難に歴史的に測り知れない責任を負う世界は、政治的利害をこえて、和解と平和への道につながる外交的対話の場を設けるために、国連の仲介を通して全力を尽くすべきです。

わたしたちキリスト者は、そのためにユダヤ教やイスラム教をはじめ、諸宗教の間でこの和解と平和の道の実現のために祈り、また対話を続けることを惜しんではならないのです。

神がノアとの間に立てられた「虹の契約」とはすべてのいのちとの和解と平和のしるしであり、「虹」(ケシェット)とは、戦いを止めた弓の形であることを思い起こしながら、わたしたちはパレスチナとイスラエルの平和を切に祈り続けましょう。 <2023 年 10 月 12 日 日本キリスト教協議会>


2023年10月8日日曜日

説教・メッセージ 20231008

聖書の言葉 

マタイ(Mt.)21: 33~46(新42) 

33「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。 34さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。 35だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。 36また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。 37そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。 38農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』 39そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。 

40さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」 41彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」 42イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』 43だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。 44この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」

45祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、 46イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。

説教「石で砕かれる命、石で砕かれる心」徳弘牧師

1,ブドウ園での惨劇…

先々週、先週に続いて、ブドウ園で話が続きます。ブドウ園は日本ではあまり各地でのなじみはなくピンときませんが、ユダヤの地方では旧約聖書の時代から何度も出てくる、なじみの風景であったようです。日本だと、田んぼでの稲刈りや、寒い地方での麦畑での麦踏という状況のたとえだったとしたら、もうすこしピンとくる風景かもしれません。

先々週はブドウ畑で働く人の給料の話。先週は、ブドウ畑で働くかどうかという二人の兄弟の話でした。そして今日は、とても「血なまぐさい話」で驚かされます。今日の説教題を考えるときに、最初は「葡萄園での惨劇」と書いてみましたが、ショッキングすぎる題名になるので思いとどまりました。これではまるで、TV番組のサスペンス劇場のようでもあります。

キリストは、どうしてそんな血なまぐさい話をされたのでしょうか?今日のイエス様のたとえ話は、どんなメッセージを持っているでしょうか。

2,聖書 

ブドウ園のたとえは、今日の旧約聖書のイザヤ書にも出てきます。「よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。」と、心を込めて準備したのに、期待外れの結果だったことを嘆き、問いかけます。「わたしがぶどう畑のためになすべきことで何か、しなかったことがまだあるというのか。」と。

神は「もういい!」と言わんばかりに、ブドウ園を荒れるままに任せ、雨も降るな!と言い捨てます。

このイザヤ書の神の言葉は、守り導いてきたにもかかわらず、また不信仰に陥り神を裏切っていったユダの民に対する叱責でした。そしてやがてイザヤが預言した通りに、ユダの国はバビロンに滅ぼされ、異国に捕囚として引かれていくことになります。

今日のキリストのたとえは、おそらくもちろんこんな旧約の預言と出来事を下敷きにしながら、わかりやすく人々に教えています。

「もう一つのたとえを聞きなさい」という言葉で始まる今日のお話は、先週読まれた二人の兄弟のたとえのすぐ後に置かれています。

もっとわかりやすいたとえで、主人である神様と、ブドウ園はイスラエルの民、農夫たちはその指導者たちで、そこに送られた僕たちは神様が送った預言者たちでしょう。一度目に送った預言者の言葉は聞かず逆に殺され、二度目に送った預言者の言葉も聞かずもっとひどい仕打ちを受けます。最後に、息子なら敬ってくれると送ったのですが、その息子さえ殺されてしまうのです。それが、神への不信仰と反逆の歴史を繰り返してきたイスラエルの姿と、今起こっていて、これから迎えることになる、キリストご自身の姿を現しています。祭司長やファリサイ派の人たちは、さすがに今回は自分たちのことを非難されているのだと気付きました。それは、ここまでに、「朝から働くように長いこと神様に仕えているのに、罪深い人たちが後からやってきて同じ救いにあずかるのを嫉妬した姿」であり、「はい、おっしゃる通りにします」と言いながら何もしないでいると、たとえで批判された姿そのものが、彼らだったのです。

3,振り返り 

ここで先週の高蔵寺教会の聖書研究会で読んだエフェソ書の解説を思い出します。その部分をさらに簡単にまとめると、こうなります。神様のご計画は聖書では大きく三つに分けて述べられている、とあります。

1) 創世記で、神様が世界を造り人間はその守り手として造られたのに、神の世界を自分のものにし、自分が神になろうとした。それが罪の起源。

2) その直後から旧約聖書の最後まで、神様がアブラハムという人から興した一つの民族・イスラエルを通して、約束を結び、回復していくことでしたが、何度も失敗をしていったこと。

3) 最終的にはイエス・キリストを通して、イスラエル民族・ユダヤ教以外の異邦人も含めて、「新しいイスラエル」が興されて、神との関係、人と人の関係、そして神が造られた世界との関係を回復することになっていく。(まだ途上で課題山積ですが)。という事でした。

今日のキリストのたとえは、こうして振り返る、イスラエルの失敗をブドウ畑のたとえで思い返しながら、目の前の祭司長や律法学者たちも同様に失敗に陥っていることを指摘し、批判したのでした。

しかし、その批判だけで今日のキリストの言葉は終わっていません。「神の独り子は、敬われず、死に追いやられる」というたとえで、キリストがこれから進む十字架の道を預言します。そして、その惨劇ともいえる出来事で、全く新しい、人々の予想外の事が起こり始めていくという事も、示されたのです。

それは、詩篇118編の言葉を引用して「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。」と言われた言葉の意味を知るときに、理解できます。

石で主人の一人息子を殺し、いよいよ、ブドウ園を自分のものにしようとする罪人の企ては、結局は、その石の上に落ちると打ち砕かれ、石が上に落ちれば押しつぶされるという事が起こるとキリストは続けます。

つまり、神の子を殺した罪人たちが、神の世界を自分のものにしようとしたとしても、撃ち殺したつもりの神の子こそ、生ける石で、その石は罪びとを上から押しつぶし、上に落ちれば罪人を砕く事になるのです。

これが、傲慢で、神を神ともしない自己中心で信仰がなく、人を人とも見ない愛のない、罪深い生き方をしていた罪人の姿です。神さえ無視し、殺したつもりでも、逆にそれによって、自分が罪ゆえの呵責と悔い改めに導かれることになり、結局は、消し去ろうとした神の元に立ち返ることになるのです。それが、人の目には不思議な、神に勝ったかと思っていた罪びとが、実は、自分が負けていたという事になるのでした。

4,勧め 

 私の姿はどうでしょうか?思い当たる節がないでしょうか?これを今日私たちは問われています。わたしは、あります。神を無視し、自分で傲慢に生き、または、それができずに自己嫌悪をで生きていた頃もあります。神様から逃げてみても、消し去ろうとしても、結局は、自分の罪深さ、傲慢さ、不完全さに打ちのめされて、神様の前に座り込むこともあります。しかし、その時こそが、救いのチャンスなのです。この頑な心が、打ち砕かれるように、思い切り失敗してもいいかもしれません。キリストはそれを承知で、十字架の道を行かれたのです。

いさかいや、競争を、または落ち込んだり、へこたれたりしているうちは、まだ本当に砕かれたキリスト者になれていないと、何度も打ち砕かれる道を神様は準備されるかもしれません。

素直になって、神様にお任せして、安心して生きていく道を、一緒に歩きましょう。神様とともに。

 


牧師コラム・ 言葉雑学考 「ミイラ取りがミイラに」

 「石で打ち砕いたはずの人が、実はその石で心を打ち砕かれた」というのが、今日の聖書の話でした。思い出すのは、「ミイラ取りがミイラになった」という言葉です。ミイラを取りに行った人が、迷い込んで出られず、自分がミイラになってしまうという、なんとも残念なこと。説得しに行ったのに、逆に説得されたりすることを例えていう言葉ですね。

実はミイラという言葉は、もともとは、「没薬」のコトでした。マタイの福音書ででてくる、イエス様がお生まれになったときに、東方の博士たちが捧げた贈り物の、「黄金、没薬、乳香」の「没薬」です。もとは、使者の体に詰めて、腐らないようにした特別の薬のことでした。死んでも、体は腐敗せず、まるで生きたような姿を保つ薬。そしてそれによって保存された遺体、つまり今でいうミイラのことも表すようになりました。

英語ではMummyでラテン語のmumiaに由来していますが、日本語の「ミイラ」は16-17世紀に渡来したポルトガル人から採り入れた言葉の一つで、ポルトガル語: mirra は元来「没薬」を意味していた、とあります。

ミイラ取りがミイラになったように、神を神とも思わない罪人の犯した大きな罪で、逆に自分が改心させられ、生まれ変わらされ、本当の意味で生きたものにされる。そんなミイラ取りになるのなら、いいのかもしれませんね。


2023年10月1日日曜日

説教メッセージ 20231001

前も似たお話をしましたが、今日の聖書は、私の高校生のころの「口ごたえ」の話を思い出します。「今勉強しないと、あとから後悔するよ。後悔先に立たずって言うでしょ。」と母親に言われると、私は決まって、こう返事をしました。

「後から悔いるから、後悔っていうんだよ。だから、先に立つわけないでしょ。」と。そうすると、「面白いことをいうねぇ。そうだわ」と笑われて、場が和やかになり、怒るほうも気が抜けるのでしょう。まあ、いいか、という具合になりました。

今日の聖書は、後悔してやり直す人の姿がたとえ話で出てきます。後悔することは絶対間違えで失敗というわけではなくて、とても大切なことでもあります。後悔もしないなら、私たちの人生は、いつまでも変わることができません。今日のイエス様のたとえ話は、どんなメッセージを持っているでしょうか。

聖書の言葉 

エゼキエル 18:25~32

聞け、イスラエルの家よ。わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。 26正
しい人がその正しさから離れて不正を行い、そのゆえに死ぬなら、それは彼が行った不正のゆえに死ぬのである。 27しかし、悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。 28彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない。 29それなのにイスラエルの家は、『主の道は正しくない』と言う。イスラエルの家よ、わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。

30それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。 31お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。 32わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。

マタイ 21:23~32 (新41)

 23イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」 24イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。 25ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。 26『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」 27そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」

 28「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。 29兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。 30弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。 31この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。 32なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」


説教 「後で考え直して」 徳弘浩隆牧師

1,後悔先に立たず…

以前も似たお話をしましたが、今日の聖書は、私の高校生のころの「口ごたえ」の話を思い出します。「今勉強しないと、あとから後悔するよ。後悔先に立たずって言うでしょ。」と母親に言われると、私は決まって、こう返事をしました。

「後から悔いるから、後悔っていうんだよ。だから、先に立つわけないでしょ。先に悔いるなら、先悔とでもいうんだよ」と。そうすると、「面白いことをいうねぇ。そうだわ」と笑われて、場が和やかになり、怒るほうも気が抜けるのでしょう。まあ、いいか、という具合になりました。以前にもお話ししましたが、普通の口答えじゃなくて、何か大人が唸るような、ひとひねりした口ごたええを考えるのが好きでした。わたしは、小説などの本を読むのは嫌いで長続きしませんでしたが、広辞苑や英和辞典は持ち歩いて線を引きながら、よく読んでいた変わった子だったと思います。

今日の聖書は、後悔してやり直す人の姿がたとえ話で出てきます。後悔することは絶対間違えで失敗というわけではなくて、とても大切なことでもあります。後悔もしないなら、私たちの人生は、いつまでも変わることができません。今日のイエス様のたとえ話は、どんなメッセージを持っているでしょうか。

2,聖書 

今日の福音書は、ふたつのパートに分けられています。祭司長や長老たちとの問答と、それを受けてのたとえ話です。問答は、イエス様が宮で教えておられるのを見て、何の権威によってそんなことをしているのかと聞いたら、逆にイエス様に問われて困ってしまう彼らでした。そして、たとえ話は、彼らの姿を指摘し批判するための、父の言うことを聞かないといったけれど後から考え直して聞いた兄と、聞くと言うだけで何もしない弟のたとえ話でした。

それは、神様から遠く、神様の言うことを聞かない罪びとたちだったけれど、思い直して聞いた姿が兄でしょう。それに対して、素直にハイという、神さまを知っていて神に近いと思われていたけれども実は神様の御心を知ることができずに、何も行動に移さない弟は祭司長や長老とみることができます。

3,振り返り 

さて私たちは、どうでしょうか。

ヨハネの言う悔い改めも洗礼も恐れ、神の言葉から遠く背いて生きていた罪びとたちでも、後から思い直して、神様に従ったので、赦され救われました。

しかし、神に近いと思っていた「えらい」人たちは、素直に神の言葉を聞くことができずに、口先だけで結局は神から遠い人にとどまってしまったのです。

一度は神に背き、その声掛けを退けても、後悔して、立ち返るなら、救われ赦されるのです。後悔するような大失敗をしていなくても、表面だけで神の言葉を読み知っているつもりで生きていては、結局は神様から遠いままなのです。

穏便に過ごすよりも、大失敗して後悔したほうが、心から改心して神に立ち返ることができるとも言えます。イエス様は、表面的な信仰者をずいぶん嫌われたようです。「後悔先に立たず」ですが、後悔するほど、失敗したり、泣いたり、眠れないほど祈ったり、心配したりする人の方が、幸いなのかもしれません。

4,勧め 

 悔い改めるというのをもう一度考えましょう。

 旧約聖書では、「悔い改めよ」という言葉は、「帰ってきなさい」とも訳される言葉。今日のエゼキエル書にも出てきました。「悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。 彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない」「悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ」と呼びかけます。ここでいう「悔い改めて」という語と「立ち帰れ」は、実はこの同じヘブライ語「 שׁוּב」(シューブ)がつかわれています。涙を流してごめんなさいというのではなくて、帰ることです。

そして、一生懸命それを呼び掛ける神は、ただの怖く、厳しい神ではありません。この続きを読めばこうあります。「どうしてお前たちは死んでよいだろうか。 わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と。人間の罪ゆえの苦労を喜ばないで、帰ってくることを呼びかける愛なる神様なのでした。

神様の愛を知って、その中を、生きていきましょう。「あとで考え直して」出かけるところ、やり直すこと、たぶん私たちみんなが持っていると思います。

神様の呼びかけに答えて、思いっきり後悔して、考え直してみませんか?神様のもとに、いっしょに帰っていきましょう。

そのときに、本当の安心と心の平和が訪れ、人生は神様によって、まっすぐに導かれるのです。 


牧師コラム・今日の写真 「中秋の名月」 Tết Trung Thu(テッ チュン トゥー )   

9月29日は、中秋の名月でした。金曜日は復活教会で聖書研究会が夜にある日ですから、名古屋市の東区で見ることができた満月でした。

写真をFacebookに載せると、いろんな人からメッセージをいただきました。日本やブラジルやフィンランド、そしてベトナムからも。ベトナムに一時帰国しているHop君はベトナム語と日本語でこんなメッセージをくれました。一部紹介させていただきます。

Ý nghĩa của Tết Trung Thu trong Tiếng Nhật:(筆者注:日本語の中秋節の意味): 今日は旧暦によって8月15日です。ベトナムではTết Trung Thu(テッ チュン トゥー )と言います。日本で言うところの「十五夜(満月の夜)」ということです。Tet Trung Thuは毎年各地方でに行われます。月見(つきみ)ともいいます。月を祭る節句です。家族で月見をしながらお菓子を食べたり、カップル👫がデートたり楽しく過ごする文化があります。元々古代において中秋節に月餅をお供え物としていたそうですが、時代が変わり中秋節に贈り物とされるようになったみたいです。親しい人、恋人やお世話になっている人にこれを贈ります。それから月餅🥮以外では、付き合ってるカップルには男性から女性にプレゼント🎁を渡す習慣もあります。皆さん 、楽しくお過ごしてくださいね🥰 

ちなみに、Tết Trung Thu(テッ チュン トゥー )は、ネットで調べると漢字で「節中秋」と書かれていました。なるほど、そう読めるなぁという漢字です。昔はベトナムも漢字文化圏だったので、発音はむつかしいですが、漢字で書かれると「なるほど」と思う言葉が多くあります。「こんにちは」の「シンチャオ」は漢字では「慎謝」と書かれていたし、「ハノイ」は「河内」だったそうです。面白いですね! 

ところで今日は、高蔵寺教会の昼食会は世界食堂。今日のシェフは、ベトナム人のHienさんです。メニューは、Nem rán(揚げ春巻き)とBun Cha(焼肉とビーフン)です。月餅は、Hop君に、お土産に買ってくるようにTV電話で頼んでいました(笑)


説教メッセージ 20240512

 聖書の言葉  ルカ 24:44~53 と 使徒言行録 1: 1~11 (新213) 1:1-2テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。...