2022年7月31日日曜日

説教メッセージ20220731

暑さが続きますね。セミの声を聴くといつも思い出すのが、「アリとセミ」のはなし。「えっ?アリとキリギリスじゃないの?」いや実は…というお話です。明日、礼拝でお会いしましょう。コロナが身近になってきましたから、礼拝では基本的感染対策とともに、式文は交読、讃美歌は減らす、聖餐式はしばらくお休みとなります。教会か、Facebookのライブでお会いしましょう。

聖書の言葉 ルカ12:13~21 (新131)

12: 13群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」 14イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」 15そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」 16それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。 17金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、 18やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、 19こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』 20しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。 21自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」


説教「本当の豊かさ、財産か神の前にか」徳弘牧師

1.蝉の声で目が覚めて

週に何度かは高蔵寺教会の牧師館で寝泊まりをして、集会の準備や牧師館の修理などをしていますが、この時期、近隣の大木から響いてくる蝉の声で目が覚めます。「今日も暑いぞー」と言わんばかりに、たたき起こされるという感じで、夏を感じます。

そしてその蝉の声を聞きながら思い出すのが、「アリとキリギリス」の物語です。アリとキリギリスは有名なイソップの寓話ですが、「蝉は出てこないのにどうして?」と思われるかもしれません。実は、「アリとキリギリス」の物語は、オリジナルのイソップ寓話集では「キリギリス」ではなくて「蝉」だったという話をブラジルで聞いて驚いたのを覚えているからです。紀元前6世紀の歴史家ヘロドトスの書物に紹介されているアイソーポスという人の寓話集が現在のイソップ寓話集として伝えられてきたもので、メソポタミヤや小アジアの民話も含まれているそうです。そして、このアリとキリギリスはアリとセミだったけれど、蝉は熱帯・亜熱帯、そしてギリシャにはいたのですが、ヨーロッパ北部に伝えられる際になじみがない生き物なので、キリギリスに置き換えて翻訳し、それが世界や日本にも広がっているそうです。実際英語の国では「ありとバッタ」ですが、ブラジルでは「アリとセミ」だったので驚いたのを覚えています。

さて、雑学はそのくらいにして、この寓話が教えるのは、「夏の間せっせと働いて食料を蓄えていたアリと、歌ってばかりいたセミの生き方の対比」でした。もともとは「セミが冬に食べ物が無くてアリに分けてくれるよう頼むのですが、断れられて死んでしまう」というちょっと残酷なものでした。それが伝えられる中で改変されて、もっと憐みの心をもってアリが食べ物を分けてあげたとか、キリギリス(セミ)がお礼に演奏をしたとか、そういう話もあるという事です。

今日の聖書は、やはり、食糧を備蓄した人の話ですが、その人の生き方は、神様の目から見てどうだったのでしょうか?聖書に聞いていきましょう。

2.聖書

今日の聖書の話は、群衆の一人から遺産分けのトラブルを解決してもらおうと、イエス様にお願いに来た人への答えから話が発展して、この世の財産に執着する生き方をする私たちへのイエス様のたとえ話での教えです。

まずイエス様は、神様の話ではなくて、遺産分けのトラブルの仲裁を頼まれたことに驚き、あきれられるのですが、実はユダヤ教の教師にはこの世の問題の調停も仕事の一つでしたから、イエス様がそのように人々に尊敬され期待されていたという風に見ることもできるでしょう。

しかしイエス様は、その願いに応じずに、この言葉をきっかけにして、人間の貪欲そのものについて諭されました。「むさぼり」の罪は十戒でも戒められており、お金や財産を神様以上に求め心を置くことは偶像礼拝と同じであると戒められているので、そのように指摘されます。

それからさらにたとえ話をされました。畑が豊作になったお金持ちの、悩みと、解決策、そして希望と絶望です。これはたとえ話を呼んでその通りです。

どれほどこの世で財産を蓄えても、それは何の安心と助けにもならず、人の命はそれで伸ばすこともできない。自分のために富を積まず、神の前に豊かになることが大切だ、と教えられました。

3.振り返り

さて、どうでしょう。私たちは、何の計画もなく、その日暮らしをすることが良いという簡単な結論を得てはいけません。

事実、旧約聖書では、神様の恵みで王の夢を解いたヨセフは、豊作と飢饉の将来を知り、蔵に蓄えて多くの人々を救いました。飢饉に苦しむ他国の民をも救うことになり、現代風に言えば「食糧難民」としてエジプトに流入した自分の兄弟と再会し、ユダヤ民族を助け、のちの歴史を作ることにもなったのです。

では今日のイエス様の教えはどのように聞くことが正しいのでしょうか。それは、「この金持ちの生き方の中に、神様がいなかった」という事でしょう。

同じ豊作と飢饉でもヨセフの時には神様の計画と導きで人々は救われるという不思議な出来事でした。しかし今日の金持ちは、まず豊作で悩みました。「こんなにたくさんどこに蓄えよう、倉庫は足りないぞ」と。しかし、解決策はありました。今の倉庫を壊して大きなものを作るということでした。これで一安心、これから先何年も生きていける。食べたり飲んだりして楽しもうと、思ったのです。しかしそれはなんと浅はかな計画でした。その命を与え支えてくださる神様のことは、彼の頭にはなかったからです。

 教訓はこれらのことです。

1)「貧乏をしていたらお金が足りないことだけが悩みだけど、お金持ちになったら悩みはお金ではなくなって、悩み事が増える」と先日会いに来てくれたブラジル移民で農業をしてこられた方が言われたのを思い出します。

2)食糧備蓄をして一安心してもよいでしょうが、命を支え守ってくださる神様を何よりも大切にしないと、命が取られたら何にもならないという事。

3)私たちを活かすのは、食糧でも財産でもなく、神様だという事を覚えて、神様とともに生きる豊かさを大切にしましょう。

4.勧め

最後に、少し、アリとセミの話に戻りましょう。実はこの話にはもう一つの、落としどころがあります。わざとかどうかはわかりませんが、考えさせられる事実があるのです。

それは、「そもそも、セミは冬まで生きてはいけない生き物だった」ということです。冬になってセミが、あるいはキリギリスが食料が無くておなかがすいてアリに頼み込むという事が起こる前に、寿命で死ぬものだったという事です。実に衝撃的なことです。

それに気づくときに、私たちが、鳥越苦労をしたり、反対にこれで何十年大丈夫だと安心するのは、命を支配しておられる神様を抜きに考えるならなんと愚かなことかと、考えさせられます。

神様を大切に生き、本当の意味で生かされることをイエス様は教えられます。むなしいものを追いかけたり、むなしいものをため込んで安心するのではなくて、神様を根拠にして安心して生きていきましょう。

人との関係でも悩みや摩擦も多い社会です。しかし、人の評価や人の目ではなくて、神様とともにある自分を生きていきましょう。

私たちが安心して生きていける根拠はどこにあるでしょうか?貯金通帳でしょうか、自分を支持して理解してくれるこの世の友人の数でしょうか?確かにそれらがないと心配で生きていきにくいものです。しかし、もっと大切な、神様と神様の家族の本当の交流を大切にしていきましょう。そのとき、 「生きている」のではなくて、「生かされている」ことに気づかされます。そこに「本当の豊かさ」があるという事です。祝福をお祈りいたします。

 

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教会の風景「十字架のもと」 

先週近所の高校生が研究授業の一環でと、先生たちと復活教会を見学に来られた折に教会内の案内をし、二階の牧師室から十字架の「心柱」をお見せしました。「外から見たあの緑色の十字架の塔のその柱の下に今いるんですよ。ここで仕事をしています」とお話ししながら、「すごいところにいるものだなぁ」と我ながら思いを新たにしました。

ブラジルにも紹介しました。2か月に一度ほど、日本語の礼拝説教をビデオ収録してブラジルの他教派の教会にお送りしています。インターネットのトラブルを避けるために、その日のために彼らのために話しかける説教を収録し、ブラジルでは200人くらいの方が見て一緒に礼拝してくださいます。今回はこの牧師室で収録し、上の柱もご覧に入れました(左写真)。

そんな時、思い出す讃美歌があります。「十字架のもとぞ いとやすけき…」という讃美歌です。十字架こそ、神様の義(正しさ)と愛が交錯するところ。自らを犠牲にして人を赦し愛された、神様を見上げながら、そこで安心して生きていきたいと思わされます。こんな讃美歌です。

1. 十字架のもとぞ いとやすけき、 神の義と愛の あえるところ、 あらしふく時の いわおのかげ、 荒野のなかなる わが隠れ家。

2. 十字架のうえに われはあおぐ、 わがため悩める 神の御子を。 妙にもとうとき かみの愛よ、 底いも知られぬ ひとの罪よ。

3. 十字架のかげに われは立ちて、 み顔のひかりを たえず求めん、 この世のものみな 消ゆるときも、 くすしく輝く そのひかりを。

2022年7月30日土曜日

礼拝やイベント・新型コロナ対策の一時強化につきまして

新型コロナ感染の第7波は大きな勢いで身近に迫っています。日本では統計的に、「10人に一人の感染者がいる」ことになっているということですし、防ぎようがないことですから、互いに批判したり心配しすぎることが無いようにし、一緒に対策をして乗り切りましょう。

メンバーにも地域にも、基礎疾患をお持ちの方や、ご高齢者ケアや同居の方もおられます。一番ご心配の方に合わせての対策が必要と思います。牧師の私もアレルギー体質で気管支喘息持ちで常時薬を持ち歩いていますし、疲れると扁桃腺がすぐ腫れてくるので体調に気遣いながら生活しています。また、マスクは、万一自分が感染して無症状でいる場合でも、他者に移すことを防ぐことが期待できるので、励行しているところです。

そこで今回、急ぎの対策としては、代議員役員の方々と緊急にご相談し、以下の方向で対策したいと思います。宜しくお願いいたします。

1,コロナ感染者も出て身近になっているので、心配な方は無理せずお休みください。

2,礼拝は、式文を交読にし歌わない、讃美歌は1節2節のみにし短縮、牧師のいる日も聖餐式はしばらくお休みにする。

3,消毒、換気、マスク着用を再度徹底する。

4,体力低下を防ぐために、それぞれ無理のない生活を心がける。

5,もし感染してしまったら、保健所などの指示に従い自宅療養に努め、安心のために牧師代議員にも連絡していただく。食料品や生活用品の買い出しなど必要なことがあればなんでも購入配達などのお手伝いをします。

世界の平和と、一人一人の安心と健康のため、ともに祈りましょう。

よろしくお願いいたします。2022/07/30

牧師:徳弘浩隆

2022年7月23日土曜日

説教メッセージ20220724

暑い日が続きますね。教会の看板を触ると熱くて、ヤケドしそうにになりました。心と体、大切に、無理しないで生活しましょう。難しい問題が多い世の中で、祈りたくなることも多いでしょう。でも、どう祈ったらいいのでしょうか?聖書でイエス・キリストが教えています。ちょっと聞いてみませんか?高蔵寺教会か、Facebookの礼拝でお待ちしています。

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 聖書の言葉 ルカ11: 1~13 (新127)

11: 1イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。 2そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。

『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。3わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。4わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を 皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」

5また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。 6旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』 7すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』 8しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。 9そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 10だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。 11あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。 12また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。 13このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」


説教「神様との交渉に秘訣はあるか?」徳弘牧師

1.目を閉じて、手を組んで、神様とお話ししますよ

こどもの礼拝の時、お話の最後でよく言う言葉はこうです。「さいごに、お祈りしましょ。目を閉じて、手を組んで、静かにしましょう。神様とお話ししますよ~」 すると、こどもたちも急に静かになって、同じようにしてくれます。すぐに静かにならないときは、「神様によーく聞こえるように、静かにしますよー」というと、静かなってくれます。

お祈りは、神様とお話しすることだと、こどものころからわかってもらう事は大切だと思います。そしてそれは、にぎやかになっている子どもたちを、静かにするテクニックという訳ではありません。大人になって、騒がしい世の中、騒がしい心から、一人、静かに心を落ち着けてから、神様にお話を聞いてもらう、そんな切り替えの習慣を持つ、とても大切なことだと思います。

今日の聖書は、祈り方についてのイエス・キリストのお話です。旧約聖書にも、アブラハムのものすごいお祈りが出てきました。わたしたちは、どのように祈ればいいのでしょうか。聖書に聞いていきましょう。

2.聖書

私たちも礼拝の中でお祈りする「主の祈り」といわれる祈りが、聖書の中で説明されるところです。これを理解するために、いくつかの大切なことがあるように思います。

1)初めは、「主の祈り」とは、イエス様がそう命名したのではなく、イエス様が教えてくれた祈りの言葉だから、そう呼ばれるようになったという事。「私たちの主、イエス・キリストが教えてくださった祈りを祈りましょう」というと、初めての方でもわかりやすいようです。

2)二つ目は、ルカの説明では、「このように祈るべきだ」と、呪文のようにイエス様のほうから教え、押し付けられたものではなくて、弟子たちの願いに応えて教えて下さったという事です。興味深いことは、弟子たちは、当時のもう一方の新興グループともいえる、洗礼者ヨハネのグループでヨハネが祈り方を教えたから、自分たちも欲しいと願い出たという事です。対抗心のようなものもあったのかもしれません。イエス様はそれをたしなめはせず、教えられました。

3)そして、祈りの文章に続いての説明です。そこには、「執拗に頼むこと」の例を挙げます。しかし、それは、「とにかく一生懸命に頼めば聞いてくれる」という事が結論ではありません。その最後に言われていることが大切です。魚や卵を欲しがるこどもに、蛇やサソリを与える父親がいないように、こどもには良いものを与えるのが親というもので、天の父なる神も同じなのだといわれます。「熱心に頼み続けることよりも、神様はすべてご存じで愛の親だから、もうわかっておられて、準備しておられて、与えてくださるのですよ」という事です。

3.振り返り

私たちも祈り求めることが多くあるでしょう。どんなふうに祈るでしょうか?祈りが聞かれたと思うときもあれば、そうでもないとがっかりするときもあるでしょう。いったい、どう祈ったら聞いてもらえるのかと、考えることもあるでしょう。

神様と「交渉」するには、良い秘訣があるだろうかと、そんなことを思うかもしれません。

ブラジルに宣教師で行った一年目のことを思い出します。4月に着任しましたが、5月から分ったことは、教会に立ち退き話があるという事でした。やることがたくさんあるのし、言葉も交渉事をするほどにはよく分らないのに、大変でした。二階建ての民家を改造した小さな教会・牧師館でしたから、私たちは立ち退きに応じて、うまく交渉して、もっと良い立地で広いところに移転することを選びました。不動産屋を回りサンパウロ中心街の地下鉄の各駅から降りて歩いて物件探しをしました。最後の候補の物件を購入するために日系人の大家さんに何度も会いに行き値下げ交渉をしました。ようやくそちらは決まりました。しかし最後になって、大きなビルを建てるからと立ち退き提案をしてきた業者が難色を示し始めました。隣の家までもう壊し始めているので足元を見られたのかもしれません。買取価格を下げてきたのです。眠れない日が続きました。そこで仲介のブラジル人の不動産業者と話し合いました。彼は英語も話す人だったので、助かりました。彼との打ち合わせで、彼の結論はこうでした。「この価格なら買うはずです。値下げに応じなくていいです。交渉ではそれを貫いてください。折り合いがつかなかったら、『残念だけどこの話は終わりだ。帰ってください』と拒否してもいいです。私は業者と一緒に帰りますが、きっと後から『やはりあなたの言う価格でお願いします』と言ってくるでしょう」というのです。賭けのようなことですが、腹を決めました。そして祈りました。教会にその業者を呼び、話し合いましたが、話は決裂し、帰ってもらいました。ドキドキしました。しかし、その直後、「やはりあなたの言う価格でOKだから売ってください」と連絡があり、無事に売買できました。ブラジル赴任の一年目が終わるころ、サンパウロ教会は日系人の中心地の街の大きなところに移転し、その後活動も人も増えていき、みんなで神様に感謝しました。苦労や試練はありましたが、願っていたより大きなめぐみでした。

今日読んでいただいた旧約聖書の話を、これらの交渉中に私は思い出していました。アブラハムは神様に対して、これではどうですか?じゃこれならどうですか?と食い下がり、交渉をしているのです。私もそれを思い出しながら、神様、これならどうですか?だめですか?と何度も祈りました。しかしこれも、今日の「主の祈り」とともに考えるなら、人間がする交渉のようにテクニックや賭けに出ることではありません。

窮地に立ち、人間の弱さを知り、謙虚になり、神様にお任せするしかないと学ぶ事だったのでしょう。そこが今日の聖書の学びのポイントでいえば、4)番目だと思わされます。

4.勧め

愛の父である神様は、願い出る前から、ご存じで、その人の本当の幸せのために、願う物以上のものをあげようと思っておられるのです。そのために、傲慢を捨て、神様にすべて任せるよう苦労させたり、待たせたり、進路を変更させたり、そんなこともあるから、人間が思うタイミングで願っていることがすぐに実現しないこともあるのです。

一日に一度でも、目を閉じて、手を組んで、静かに神様とお話ししてみましょう。祝福を祈ります。

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 主の祈り Lord’s Prayer 

 ラテン語では祈りの冒頭をとって、Pater Noster(私たちの父よ)とも言います。ラテン系の言葉、ポルトガル語もそうでした。みんなPai Nossoと呼んでいました。英語では日本語と同じ方式でLord’s Prayerと呼ばれますね。

 上の写真は、ブラジルで買ったPai Nossoの壁掛け飾りです。アルファベットが切り抜かれていて素敵ですね。日本語でも作れたらいいなと、パソコンにつなぐレーザーカッターを買おうかと思いましたが、漢字とひらがなではこういう風にうまくはいかないと断念しました。

 私は、父は無神論、母は熱心すぎる?クリスチャンの家に育ちましたが、カレンダーの裏紙に母が手で書いた「主の祈り」をふすまに貼って、寝る前に覚えるように、敷いた布団の横にひざまずかされて、何度も祈ったのを思い出します。ありがたいことです。

 ブラジルでは真面目に教会に通わないような?人たちでもこれを覚えている人が多いのに驚かされました。なにかの発表会の前に手をつないで輪になって成功を祈るようなときに、マリアの祈りと主の祈りを祈ることも多いそうです。生活になじんでいるのでしょう。

私たちも、祈ってみませんか?日本語版は裏のイラストにあります。


2022年7月17日日曜日

説教・メッセージ 20220717

聖書の言葉 

ルカ10:38~42 (新127)

10: 38一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。 39彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。 40マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」 41主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 42しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

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説教「難しい世の中、ただ一つ必要なこと」 徳弘浩隆牧師

1.ああ!やることがいっぱい!

やるべきことが山ほどあって、何から手を付けていいかわからない時があります。締め切りに追われ、目の前の行事の準備もしないといけない。それは、私だけではなくて、誰にもあることでしょう。サラリーマンも、主婦も、学生も、こどもだって、忙しい世の中です。

忙しい中仕事を片付けないといけない時、まず机の上を片付けないと取り掛かれないので、机の上の片づけからとりかかり、ついでにもっときれいにしようと部屋の片づけを始めてしまう友人がいます。「ずいぶんきれいに片付いたと満足するときはもう時間がたってしまい、肝心の締め切り前の仕事がもっと遅くなった」とぼやいています。一番大切なものはわかっているのに、心のどこかで逃げていたのかもしれませんね。

やるべきことがいっぱいある今の世の中、いやそれに加えて、病気や戦争や悲しい事件が続き、心乱れることが多い世の中です。何が今一番大切か、今まで以上に考えないといけない時代になりました。聖書に聞いていきましょう。

2.聖書

今日の出来事は、先週の「良きサマリヤ人のたとえ」に続いて聖書にしるされています。何が大切な教えかという質問と、「神を愛し隣人を愛する」という模範解答を出した律法の専門家でしたが、知っているだけで何もしていないということと、「隣人」をえり好みしていたということを悔い改めさせられました。律法の専門家とサマリア人が対照的でした。

今日はマルタと、イエス様の足元に座り込んで教えを聞いているマリアの対照的な姿があります。

つまり、神の言葉を学んでいるけれど何もしない律法の専門家と旅人のもてなしをせず座って学んでいるだけのマリア、宗教的には亜流で正しい教えを知らないとされるけれど善い行いをしたサマリア人とイエス様を甲斐甲斐しくもてなし食事の準備をするマルタは似たもののように見えます。イエス様は今日のところでは、よく奉仕し働く側ではなくて、何もせずに学んでいる人を褒めたように見えます。それでは、先週褒めた人と、今週褒める人が真逆だということになりかねません。イエス様の真意はどこにあったのでしょうか?

困っている人を助ける奉仕の働きと、旅人をもてなすということは相通じる大切な教えでした。それを実行していたマルタでした。ですから、それは問題がなく、称賛されるべきことだったのです。しかし、そこに、今何が一番大切か、その行動をする心の中心に何があったかということを考えてみましょう。

「せわしく立ち働いていた」と訳されている言葉が初めのヒントでしょう。これは、「まわりを掘り返す」という言葉から来ているそうです。そこから比喩で「注意をそらす」「本来の中心から引き離されて、気が散っている」という状態を表します。つまり、たいせつな働き、旅人をもてなし、人に奉仕する行動をしていても、愛の行動ではなくて、周辺的なことで気が散っているということかもしれません。それでは、意味がないということになります。

そんな状態であり、「マリアに何とか言ってやってくださいよ」とイエス様に申し立ててくるマルタに、親しげに二度もその名を呼び掛けて「たしなめる」のがイエス様でした。そして指摘されます。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」と。そのうえで、「必要なことはただ一つであり、マリアはそれを選んだのだから、取り上げてはならない」と、言われたのです。

み言葉を大切に学ぶ姿勢と、それに基づいて人に奉仕をする姿勢、その両方が大切であり、片方が抜け落ちていたり形式的であったなら、それはいけないと、イエス様の声を聴くことができます。

ある意味、良きサマリア人のたとえの後にこの話が出てくるルカによる福音書は、バランスを取り、その両方が大切と私たちに教え、問いかけているのです。

3.振り返り

私たちそれぞれの生き方はどうでしょうか?家庭や社会、そして教会での生き方はどうでしょうか?

学びに集中すること、活動に出かけること両方あるでしょう。神を愛することと、人を愛することは旧約聖書から教えられていました。その両方が大切であり、バランスも大切でした。’「神の言葉を大切に学ぶことと、人のためにと行動をすること」も、「神を愛することと、人を愛すること」の両面につながる事柄でしょう。

自分の生き方はどうでしょうか?どちらでしょうか?自分はその二つの中で、こちら側に重きを置いているというそれぞれの立場や、ありようがあるかもしれません。教会では、それぞれ両方の立場に互いに尊敬を払い、バランスをとることも大切でしょう。そして自分自身の中でも、それらの二つの側面のバランスをとることが大切でしょう。そして何よりも、神を愛してみ言葉を学ぶだけや、社会や人のために奉仕や活動をするけれど正義感や怒りだけでやるようになって、大切な愛の心を見失ってはいけません。

4.勧め

さて、今日の週報でも案内していますが、8月には教区の青年会の集まりがあります。昔よりメンバーが減ってきて寂しいところですが、後輩の牧師先生が地道に集まりを続けてきてくれています。私がお世話している日本に住む外国人メンバーも教会に通い、Zoomの青年会にも参加してくれています。8月の集会のポスターを作るのは私の係でした。前作ったポスターが素敵だったとほめられ、うまい具合に?私に依頼されたのです。ようやく金曜日に作って教区内の教会にお届けしました。コロナもあり、ワークキャンプでどこかの教会のペンキ塗りとか草刈とかいう奉仕も、その後のバーベキューもあきらめ、サンドイッチ・パーティーとなったそうです。ポスターを作る構想を練りながら思いました。「人生もサンドイッチか?」と。いろいろなものの板挟みで疲れてしまう事があるからです。仕事、人間づきあい、家族、感染症対策、戦争のニュース、そして教会の行事に奉仕…、時には疲れて倒れるときもあるかもしれません。でも、見方を変えると、自分の人生は、神様とこの社会を結ぶその真ん中にはさまれていて、いい意味でのサンドイッチになればいいんじゃないかなと。片方の手を神様に、そしてもう片方を誰かに繋いでいるなら、ジレンマではなくて、ミッションになります。神様とだけ繋いでもいけませんし、人とだけ繋いでいてもいけません。サンドイッチを作っていただきながら、そんなことを伝えようと、思いました。

さて、私たちも今日の聖書の話で、マリアかマルタかと迷ったりするのではなくて、「神様のサンドイッチ」の生き方始めましょう。心騒がせ、心を痛めることがたくさんある世の中ですが、神様と共にいきましょう。祝福を祈ります。

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教会と社会の未来のために

 教会は日曜の礼拝以外にも、いくつかの集会があります。世代も老若男女様々です。お互いに、自分の仕事や地域の付き合いだけでは会わないような方にも出会い、学びや刺激もあります。戦後若者が教会に殺到し、大きな山はそのまま現在ご高齢の方が多い傾向はあります。

どの世代も大切ですが、子供や若者は将来の教会だけではなく、社会や世界を考えてもそのケアや育成は大切です。

 教会では子供へのメッセージや教会学校、青年会などもあります。全国の教会でもTNG(The Next Generations)プロジェクトという次世代育成の教材や企画があります。教区や全国での小学校高学年のこどもキャンプ、中高生のTeens Camp、メルマガ、青年会、青年の海外でのボランティア・ワークキャンプはアメリカやインド、カンボジアでやってきました。実は徳弘牧師夫妻はこのTNG立ち上げや海外ワークキャンプ企画作りも参加してきました。そして今は日本在住の外国人労働者への企画もしていますし、そこでのボランティアもあります。ルーテル教会は世界にチャンネルがありますし、国内には教会に加えて、保育園・幼稚園から学校、養護施設、老人施設や墓地もあり、まさに「ゆりかごから墓場まで」(いや、天国まで)人生のすべてを支え、応援するのが教会ともいえます。どうぞ、ご活用ください。教区の夏の青年会のDay Campも8月です。お声掛けください。



2022年7月16日土曜日

教会学校(こどもの礼拝)がありました

 今日は月に一度の、土曜日の教会学校です。

5月から土曜日に再開して3度目。いままで、アダムとイブ、ノアの箱舟を読んできましたが、今日はヨセフの物語。そして8月は一日キャンプでモーセとエジプト脱出!の予定です。

そんな事情もあって(笑)、今日は、アブラハム・イサク・ヤコブという3代と、その子のヨセフの話で、少し長くなってしまいました。

でも、ヨセフの話は兄弟げんかと、何十年かけた後の仲直りでした。

弟をいじめてひどいことをしたけど、もう一人の弟の代わりに自分が犠牲になるからとお願いする、お兄さんたちの話。ヨセフはそれを聞く前からお兄さんたちをもう赦していました。

そして、いろんな苦しいことがあっても、神様のご計画があってのことだったんだから、もう何も心配しなくていいよと、そんなことを学びました。

ボク達もケンカすることもあるけど、やさしい心で、仲直りしましょう。大人も、そうですね。戦争もやめて、みんなで仲良しの世界ができるように、一緒に祈って、生きていきましょう。

8月は、モーセと一緒に大冒険です!

こどもたちを取り巻く環境もむつかしいことばかりです。教会で、正しい心、やさしい心を一緒に育みましょう。大人も謙虚に、優しく生きていきましょう。

教会へ来てみませんか?おまちしています。


2022年7月9日土曜日

説教メッセージ・教会だより20220710

今週の聖書の言葉 ルカ10:25~37 (新126)

10: 25すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」 26イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、 27彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」 28イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」 29しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。 30イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。 31ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 32同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 33ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、 34近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。 35そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』 36さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」 37律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」


説教「隣人であると、隣人になるの違い」 徳弘浩隆牧師

1.シェマ・イスラエル

今私たちの教会の聖書研究会では、聖書やその難しい言葉ばかりでなくて、YouTubeやVideoドラマも少し見ながら学んでいます。聖書やその言語の解説も大切で、それがあってこその聖書理解が深まるわけですが、私は全体像や周辺の歴史や今の生き方につながる学びが好きで、ここ数年そのように進めています。映像の力も借りてイメージを膨らませて、イスラエルの今のホームドラマを見てユダヤ人やユダヤ教の生活やあり方をもっと身近に垣間見ることもできますし、それが私たちの今の信仰を見つめる良い機会にもなると思っています。

そんななか、Six13というアメリカのユダヤ教青年たちの歌やビデオも見てみました。きれいな歌声ととともに、面白くわかりやすく替え歌を作り、こどもも分かるようなビデオクリップを作ってユダヤ教を学ぶこともできて、とても印象深いグループです。このSix13というグループ名も、613という事ですから、聖書の律法が613あるといわれますので、そんな意味も込めているのでしょう。先日聞いた歌は「シェマ・イスラエル」という歌でした。申命記6章4節のユダヤ人が暗唱し、私たちクリスチャンで言えば、主の祈りや使徒信条のようなもので、朝夕の祈りの時に唱える大切な言葉です。礼拝では一緒に聞いてみようと思いますが、Youtubeでは次のところや右のQRコードから聴くことができます。https://youtu.be/F9y2jmH9DtI

「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」という言葉です。これが今日の聖書朗読では、その繰り返しともいえる申命記30章に、そして福音書での問答にも出てきました。イエス様と律法の専門家の問答から私たちがどう生きるべきかを、一緒に聞いていきましょう。

2.聖書

今日の出来事は、先週の続きの場所です。弟子の72人を二人の組にして派遣し、帰ってきて報告を聞きます。先々週と違って今回はイエス様の名を出すだけで悪霊たちが屈服したと、弟子たちは喜んで帰ってきました。イエス様は、自分たちの力だと思いあがって喜ばないようにと諭し、神様の力によるものだし、救われて天に名前が記されていることを喜ぶように、教えられました。

その続きで、イエス様は律法の専門家からいじわるで難しい質問を受けます。律法をよく知っている彼らからすれば、イエス様の弟子たちは元・漁師や徴税人、政治活動家などで「何も知らない」人たちです。「律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った」とあります。

難しい質問はこうでした。「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」 。弟子たちの名が天に記されている」という事を聞いて、「どうしたらそれを得ることができるか?」という質問ととることができます。それに対してイエス様は聞き返します。「律法には何と書いてあるか」と。律法の専門家なら、知っているはずだがあなたの考えはどうか?と聞き返されたのです。すると、彼は律法から2つの個所を引用して、模範解答をします。

一つは先ほどのシェマ・イスラエルの祈りの言葉。申命記6章4節でした。そして、それだけではなく、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉も忘れずに付け加えています。これは、レビ記の19章18節からです。この言葉です。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」

「神を敬い愛し、人を愛すること」を持ち出した模範回答でした。それに対してイエス様は、「正しい答えだ。それを実行しなさい」と言われますが、そんなことはしていますとばかりに、隣人の定義についてイエス様に切り返して質問します。それに対しての説明でたとえ話をされたのが、今日の「よきサマリア人のたとえ」でした。

これは、わかりやすいたとえ話で、その通りです。一人の強盗に襲われて道に倒れる人と、通りかかった3人のそれぞれの対応についてです。3人とは、祭司、レビ人、そしてサマリア人でした。祭司は宗教指導者で私たちでは神父や牧師といえるでしょう。レビ人はユダヤ教では祭司職になれる家柄として選ばれた家系の人です。彼らはそれぞれもっともらしい理由があり、無視して通り過ぎました。しかし、3人目のサマリア人は手厚い看護をしたというのです。

イエス様は、律法に詳しい彼に問いました。「この3人の中で誰が隣人になったと思うか?」と。彼は答えます。「助けた人です」と。それに対して「いって、あなたも同じようにしなさい」とイエス様はお答えになり問答は終わりました。

3.振り返り

有名な「よきサマリヤ人のたとえ」ですし、いまでもその名前を付けた福祉施設が世界中にたくさんあります。イエス様の教えをその通りに生きようとしているのです。しかし、文化の違う私たちが見落としてはならないことがあります。「サマリヤ人は宗教的に良い人ではない」という前提があったという事です。イスラエルが南北に分裂して北イスラエルはエルサレムとは別に神殿を勝手に建て、その後はアッシリアに占領され民族も宗教も混合していました。ユダヤ教の「亜流」で、軽蔑されていたのです。宗教的にはさげすまれ、悪い人たちと思われていたのがサマリア人。だから、「良き」サマリア人という言葉に、大きな矛盾が含まれているのです。「人助けをした殺人犯」とか「お金をあげた泥棒」とでもいえる、相反する2つのものが同居している言葉であり、そこにこそ、予想外であり、また律法を知り守っていると傲慢になっていた律法の専門家の鼻をくじき、悔い改めさせるたとえ話だったのです。

4.勧め

隣人であるという事と、隣人になる、という事は違います。隣人であるというのは、隣にいる、近所の人という物理的な関係かもしれません。しかし、イエス様の問われた「誰が隣人になったと思うか?」は、物理的なことでも、知的なことでもなく、理解とそれに基づく行動が問われています。

さて、私はどうでしょうか?誰の助けになっているだろうか?誰に助けてもらっただろうかを、考えましょう。

聖書を読み、どう生きるか、それが大切です。病気や戦争、悲しい殺人事件、頭も心も追いつかないことがたくさん起こる社会ですが、変わらないイエスの愛と教えを、心において生きていきましょう。そこから、平和と愛の人生、社会、世界が始まるのです。祝福を祈ります。 

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 ルーテル教会のイベント紹介

 教会は聖書を学んで祈るところですが、社会のための奉仕や文化活動なども行っています。むつかしいことの多い世の中、安心して集まって、おしゃべりできるところでもあります。ふたつの教会のイベントを紹介します。

高蔵寺教会では、スマホ・PCサロンを月に2回始めます。スマホやパソコンで便利になった世の中ですが、自分はついていけない、家族やこどもに聞いてもなんだか迷惑みたいで。いろいろ始めるクラスの中で、まず「スマホ・PCサロン」を始めます。気軽に学んで、楽しい仲間も増やすことができます。どうぞ、ご相談ください。

復活教会ではウクライナ支援チャリティーコンサートに賛同して会場提供します。ご参加ください。



スマホ・PCサロン、始めます!

教会は、聖書を読んで祈るところ。はい、そうです。でも、むつかしいことの多い世の中、安心して集まって、おしゃべりできるところでもあります。スマホやパソコンで便利になった世の中ですが、自分はついていけない、家族やこどもに聞いてもなんだか迷惑みたいで。いろいろ始めるクラスの中で、まず「スマホ・PCサロン」を始めます。気軽に学んで、楽しい仲間も増やすことができます。どうぞ、ご相談ください。

 

2022年7月3日日曜日

説教メッセージ 20220703

 今週の聖書の言葉 ルカ10: 1~11,16~20

10: 1その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。 2そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。 3行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。 <中略>

17七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」 18イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。 19蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。 20しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」

説教「一喜一憂ではなく、喜ぶべきこと」徳弘浩隆牧師

1.収穫は多いが…

岐阜にいるころから、家庭菜園を始めました。「自然に親しみたいので畑仕事」、というわけではありません。どんどん出てくる雑草の草刈りをしてもまた2週間後に元の木阿弥でまた草刈り、その繰り返しが嫌になったからです。どうせ汗をかいて草と格闘するなら、家庭菜園をしてみたら収穫もあって、一石二鳥と思いました。そしてあまりの暑さにエアコンの電気代もばかにならず、大きな日よけシートやすだれを買ってくるよりも、5月ころにゴーヤを植えれば、日陰になるし、7月からは収穫もあるし、一石3鳥です。

ゴーヤ、キュウリにミニトマトはうまくいきました。ピーマンとナスとスイカはだめでした。害虫対策などがむつかしいですね。今年はトウモロコシも植えてみたら甘くおいしいものができて、オオバとともに少しバラエティーが増えて、夏野菜の買い物が減り、地球環境と家計にも優しいと、喜んでいます。ミニトマトは岐阜にいるころの教会食堂のワンプレート・ランチ用にもして、ほとんどトマトを買わずに済みました。実ができ始めたころは毎回写真を撮って喜びましたが、ゴーヤやキュウリは二人暮らしには多すぎるくらいできて、妻がいろんなゴーヤ料理を試したり、キュウリは漬物にもしたり、近所に配ったりもしました。

今日の聖書は、「収穫」という言葉で何を表わしているのでしょうか?多い、少ないで一喜一憂しますが、そうではなくて、どうも違うことをイエス様は言われています。一緒に聖書のお話を聞いていきましょう。


2.聖書

今日の出来事は、先週の続きの場所です。先週は、「イエスさまの最後の時が近づいたのを悟って、エルサレムへの旅を始め、その時に弟子をあらかじめ派遣した」というところでした。サマリヤで受け入れられなかったのですがそれは異教色が強いところで仕方ないかもしれません。それの続きで今日は、「その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」と話は進んでいきます。

イエス様は、弟子たちには行った先でのふるまい方を教えます。「この家に平和があるように」とあいさつをし、受け入れてくれるならそこにとどまり、食事や宿泊も世話になり、癒しと神の国を延べ伝えるよう、指示されます。もし、受け入れられなかったら、受けたものは足についた埃もすべて返して、ただ、「神の国が近づいたことを知れ」と広場で伝えなさいと言われました。そして「かの日」、つまり「主の日」には大きな裁きを受けることを説明されます。

そして、先週は受け入れられずに弟子たちが激怒したのですが、その続きの出来事では弟子たちはよろこんで帰ってきます。大きな収穫があったのでしょう。「お名前を使うと、悪霊さえも私たちに屈服します」と報告しています。それを聞いてイエス様はこう答えます。「敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、私はあなた方に授けた」からだと。そしてこう話を結ばれます。「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」と。

先週と今週で、イエス様の働きや福音を受け入れない人たちを責め・裁こうとする弟子を戒め、イエス様の名前を言うだけで屈服し受け入れた人々を見て喜ぶ弟子たちをも諭されました。受け入れないとしても、主の日に裁かれるから自分たちがそれをするのではない。受け入れてくれたとしても、自分の力ではなく神様からの力なのだし、喜んだり傲慢になったりしないで、むしろ、自分の名が天に記されることを喜びなさい、と言われました。


3.振り返り

わたしたちはどうですか?うれしいことが起こると、とても喜びます。しかし、思い通りにいかないと、怒ったり、人を責め裁こうとします。一喜一憂という言葉の通りです。

先週ブラジルから家族の介護もあって里帰りしていたサンパウロ教会のメンバーが私たちを訪ねてきてくれて、高蔵寺教会の牧師館のゲストルームに泊まり、礼拝にも参加されました。懐かしくて夜遅くまでおしゃべりし、久々に聖餐式もご一緒し、日本の教会員の方ともおしゃべりして交流できて、みんなにとってとてもうれしい日となりました。

それから日曜の午後は、牧師館の日よけ代わりのゴーヤを収穫し、トウモロコシの出来具合を見定めてもらって一つ採ってくれました。彼女は20代でブラジルに移民し、その後50年以上農業をされました。ブラジル人の労働者も雇って大きな農場をし、サンパウロで一番有名なラーメン店にも野菜を卸して顔のきく方でした。そんな方が、「先生、たくさん実が実ってきて、上手に畑をされていますねぇ」と褒めてくださいました。私はうれしくて、ちょっといい気になりました。しかしそのあと、こうも言われました。「今は、種や苗もよくできていて、誰が植えても奇麗に実ができるんですよねぇ」と。それをきいて、私は頭をかきました。「そうだそうだ、これは自分の力じゃないんだ」と思わされました。もっと言えば、この自然を作られ、雨を降らせ、日を照らせてくださる神様がおられてこその、収穫なのでした。なんと、人間は傲慢なのでしょう、と思い知らされました。

逆に、物事がうまくいかなくて落ち込むこともあります。しかしそれもまた、人間が傲慢な証拠ともいえるでしょう。何もかもできると思い、自然や生命までコントロールできると思ってしまう人間は、そうならない時に必要以上に落ち込むのです。人間の罪のゆえに、自ら互いに憎みあったり、愛のない自然開発で環境破壊のつけに苦しめられることがありますが、これは聖書の言葉を学び、本当の生き方に立ち戻っていかねばなりません。


4.勧め

本当に喜ぶべきことを教えられます。目の前の出来事で一喜一憂するのではなくて、神様の大きな恵みと、そのゆるしの中を生きているということです。一喜一憂するときに、神様の見ておられる視線を思い出しましょう。

そしてもうひとつ、私たちも、誰かに出会い、助け、神様を伝えるために、「派遣」されていることも忘れずに生活をしましょう。神様の祝福がありますように。 

 

 

キリスト教ワンポイント講座

 暑いですねぇ。日陰を作るとうごまの話は?

暑さ除けのためにもと、ゴーヤでグリーンカーテンができたら、ヨナと「とうごま」の日よけの話を思い出します。ちょっと思い出してみましょう。

ヨナは旧約聖書の列王記に出てくる預言者で、「ヨナ書」で詳しくその働きが伝えられています。悪に満ちたニネヴェの町へ行って、神の裁きを伝えるようにと命じられました。しかし、彼はそれが嫌で、反対方向の船に乗ります。すると嵐が来て大しけになり、「この船に神に逆らうものがいるに違いない」と人々はくじを引き、引き当ててしまったヨナは海に放り出されます。大きな魚に飲み込まれてしまい、三日三晩閉じ込められます。そこでヨナは悔い改めたところ、魚から吐き出されたところがニネベでした。神様に背いて反対方向の船に乗ったという予言者がいたというのに驚かされますが、魚に呑みこまれた話は、ピノキオの話にもあるエピソードのもとにもなっているといわれます。

さて、ニネヴェで神の裁きを大胆に伝えると、驚くことに人々は悔い改め、神様は滅ぼすことをやめられます。これで一緒に喜べばいいのですが、ヨナは自分の立場がなくなったとばかりに、へそを曲げてしまいます。そんなヨナを教え諭すような出来事が起こります。街を見下ろしていたヨナは暑さで死にそうになりますが、神様はとうごまの木を一日のうちに生え出でさせ、日陰でヨナを守ってあげます。ヨナは大喜びです。しかし、その翌日神様は木を枯れさせ、ヨナはまた猛暑の中に放り出されます。ヨナはまた怒り、神様に不平を言います。「もう死んだほうがましです」と。

そんなヨナに神様は言います。「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。ましてわたしは12万あまりの、右左をわきまえない人々と、多くの家畜とのいるこの大きな町ニネヴェを、惜しまないでいられようか」と。

暑さの中、日陰で休むときに、人間の身勝手さと神様の惜しみない愛を思い出しましょう。でも、熱中症にならないよう、水分補給をして無理もされませんように。


2022年7月2日土曜日

タラント・ショップ今日も盛況!

 タラントショップ、今日もありがとう。お疲れさまでした。

僕らはようやく終わり頃行ったのですが、新しい方も気軽に入ってきてくだだって、おしゃべりも弾んだそうです。来月もよろしく!

 あ、今月は木曜日午後に「スマホ・PC サロン (コーヒー付)」というパソコンスマホ講座も始めますよ!後日告知します。よろしく〜






説教メッセージ 20240512

 聖書の言葉  ルカ 24:44~53 と 使徒言行録 1: 1~11 (新213) 1:1-2テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。...