2024年4月28日日曜日

説教メッセージ 20240428

久しぶりの方と再会しました。ブラジルという「異国」で共に働き、いろいろなことを共有した同労者、ブラジル聖公会の執事の姉妹です。バスに乗って遠い街に行き、教会で子どもたちにお話をし、教会員の方と交流し、弓場農場を一緒に訪ね、超教派の研修会をしたりもしました。懐かしいことをいろいろ話し、あっという間に時間が経ちました。大笑いしながら、反省させられたり、驚いたり、新しいアイデアも色々頂きました。そして、神様を中心にしてつながっているということの大切さも痛感しました。今日の聖書も、「つながっていなさい」というのがキリストの言葉です。一緒に私たちの生き方を、考えてみましょう。私は今日の礼拝は高蔵寺教会の担当です。YouTubeで浜名教会の方々にも中継を通して一緒に礼拝をします。お待ちしています!

聖書の言葉 ヨハネ 15: 1~ 8 (新198)

15:1「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。 2わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。 3わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。

 4わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。 5わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。 6わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。 7あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。 8あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。



説教「キリストにつながる フォロウとシエアとリンクの違い」」

徳弘浩隆牧師

1、インターネットの時代、つながるとは?

便利な世の中で、手のひらで調べ物をしたり、友人と連絡をとったりできるようになりました。近況報告は年賀状という時代もありましたが、今では、年に一度の力作に頼らなくても、日常から、近すぎず、遠すぎず、互いの近況を知ることができます。

教会でもそうです。1995年ころそれを感じました。パソコンも高価なMacを買わなくてもWindowsが使いやすくなり、パソコン通信からインターネットへ移行する時期でした。日曜日に会って挨拶する言葉は、「おはようございます。一週間お元気でしたか?」という言葉ではなくり、「おはようございます。先日は大変そうでしたねぇ。あれからどうなりましたか?」に変わったのです。主に若い世代で、教会で会う日曜日以外でもネット上で互いの状況を知ることができるようになった頃でした。そんな挨拶をしながら、自分でも驚いたのを覚えています。

しかしそれも今は昔の話。世代を超えてこれはもう、当たり前になってきました。私たちは以前にも増して、お互いに「つながっている」ということが普通で、簡単になってきました。

今日の聖書で、キリストは「私につながっていなさい」と言われます。人間同士、そして神様との関係では、どんな具合でしょうか?神様は、私たちにどんな生き方を願っておられるでしょうか?一緒に学んで神様の声を聴きましょう。

2,聖書 

聖書の中には、神様と人との関係をたとえているいろいろなモチーフがあると先週考えたばかりですが、先週の「羊」のたとえと同じように何度も出てくる「ブドウの木」のたとえの中の一つです。キリストの復活後に読まれるのですが、十字架にかかられるもっと前の話です。なぜ復活後にこの箇所が伝統的に読まれるかというと、ヨハネの福音書の中の13章から16章までの、いわゆる「決別説教」の中の話で、最後の晩餐の折に弟子たちに語られたお別れの大切な話の中にあるからです。もう一度、キリストの告別の大切な話を復活節に思い出して生きていこうという流れになるからです。

さて、ブドウは旧約聖書からたびたび、神と人との関係を伝える譬えに使われています。まことのブドウの木につながっていながら実を結ばない枝は、農夫である父なる神が取り除かれると、裁きを伝えます。旧約聖書のエゼキエル書15章にも、「役に立たぬブドウの木」と小見出しが付けられている箇所は辛辣です。「森の木々の中で何の役にも立たない。役に立つものを作る木材にもならず、器物をかける釘にもならない」と、神につながっていない人の命の無意味さを皮肉と嘆きを持って語るのです。

そんなブドウの木のたとえをさらに進めて、「私こそ、まことのブドウの木なのだ」とキリストは言われました。この方につながっているなら、そのみ言葉によってきよめられ、実を結ぶことになる、と。

3,振り返り 

私たちがここで注意して、努力するべき点はどこでしょうか。それは、「私たちは枝である」ということです。枝は自分の努力で水分や養分を土から吸収したり、太陽の光で栄養を作り出すことはできません。それは、根の役割であり、葉の役割です。枝はただきちんとつながっているということが大切です。枝や茎には導管と師管という動脈と静脈のような二種類の管があってそれらを循環させていると、中学のころ教わったのを思い出します。

私たちは、枝として、キリストという本当のぶどうの木につながっているだけで、自分の行いによらず、豊かな実を結ぶことができるのです。ブドウの木が、枝に養分や水分を注ぎ込んでくれます。私たちも、必死にしがみついてつながっていて、それら養分や水分を必死に吸い採る努力をすることが求められているのではありません。大切なのは、つながり、とどまっていることです。そうすれば、キリストの真理と愛と命が注ぎ込まれるのです。簡単と思うかもしれません。しかしそれが危ぶまれる状況でした。最後の晩餐の席で、キリストが文字通り、「命がけで」弟子たちに最後に伝えたかった言葉だったからです。このことが再現される聖餐式でも、このキリストの言葉を味わい、とどまり、キリストの体と血をいただきながら、つながり生かされ続けることを、確認していきたいと思います。

4,勧め 

さて、今日の謝意所は、「つながること」が以前にもまして簡単になった世の中のことを考えました。

今では普通になり、役所の提出物広報もSNSが使われています。いろんなニュースや出来事も共有されます。私たちも、活用し、楽しみ、便利に生きてもいるでしょう。友人知人に限らず、いつも面白いこと、ためになることを発信する人を見つけたら、「フォロウ」ボタンを押して逃さずに見ようとします。納得したら「いいね」ボタンを押して参道の意思表示もします。そして「これは自分の知り合いにも伝えなきゃ」と思ったら「シェア」ボタンを押したりもします。今はそんな生き方が普通になってきました。

では、私たちの神様との関係はどうでしょうか?「私に従え」と言われたキリストに従うのは、文字通り「フォロウ」でしょう。聖書を読んで説教を聞き、祈りを共にするときに「本当にそうだなぁ!」と思いいう言葉は「いいね」ではなくて教会では「アーメン、その通りです」となります。こんないいお話は、人にも伝えないともったいないと思って「シェア」するのは「伝道」や「宣教」ということになるでしょう。

でも大切なのは、スマホのボタンを押すだけのような生き方ではいけないということです。私たちの生き様やいのちがかかっている出来事は、 キリストにしっかりとつながってそのように生きることです。それは、ただ「フォロウ」や「いいね」や「シェア」を座りながら押すことではありません。私たちの生き方が問われています。キリストと本当につながり、そのように生きること、そのボタンを押せばキリストが見え、キリストにつながっていくこと、それは「リンク」のボタンではないかとも思います。

今日はブラジルという異国で一緒に生きて、宣教をした姉妹が礼拝に出てくれています。キリストのもとで私たちも同労者、家族のようにつながっていました。数年ぶりに日本で再会し、遠慮なくいろんなことを話しあい、昨夜も時間があっという間に過ぎました。失敗や、恵みや、笑い話を互いにしながら、しかし、すべてを計画し導いておられる神様を一緒に見上げることができました。

そんな同労者、キリストにある家族のような群れを、私たちも作り上げ、広げてゆくこと、キリストに動かされて自分も変えられていくこと、それが豊かに実を結んでいくことなのだと、実感させられました。一緒に生きていきましょう。神様と。

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牧師コラム・ 今日の写真 こんなところに! 


 教会の階段、急いで駆け上がろうとしたらなんと、花が咲いています。こんなところに!

むかし、アスファルトで舗装された道にたくましく育った大根が有名になりました。「ど根性大根」と。調べると2005年、兵庫県の相生市でした。相生市のマスコットのゆるキャラとしても、「ど根性大根 大ちゃん」として健在だそうです。

この教会の階段に自生した花は、ど根性というより、りりしく、きれいに花を咲かせ、教会に来る人を歓迎している優しさやHospitalityを感じます。私たち一人一人も、教会に来る人を笑顔で迎え、ほっとさせてあげられる、そんな一人一人になりたいですね。それぞれの教会でも、せっせと、草刈りや雑草抜き、お花の世話をしてくださる方々に感謝しています。そんなお一人お一人も、こんな花のような存在です。ありがとうございます。


2024年3月23日土曜日

説教メッセージ 20240323

Semana Santa(セマナ・サンタ)、受難週(聖週間)が始まりますね。サンタというと、サンタクロースを思い出しますね。クリスマスの楽しい出来事。頂いたり、交換し合ったりするプレゼント。でも、この季節のサンタは悲しく苦しい出来事を思い出させます。同じサンタ(聖なる)ものでも、神様から頂くものと、取り上げられて苦しい思いをするという正反対の出来事。その原因は人間の罪の心です。自己中心で他者を排除したり、何かに固執したり。愛せなかったりゆるせなかったり。そんなことがキリストを十字架に追いやっていきます。今日も一緒に聖書を学び祈りましょう。お待ちしています。

聖書の言葉 ヨハネ12:12~16 (新192)

12その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、 13なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。

「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」

14イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。

15「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って。」

16弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。


説教「群衆の声、私の声」 徳弘浩隆牧師

1、みんな持ってるから、私も欲しい!

こどものころ、欲しいものがあるときに、親を説得する殺し文句ともいえる言葉はこうだったかもしれません。私は気が弱かったので、あまり言ったことがありませんけれど。それは、「みんな持ってるんだよ!自分だけ違う。だからほしい!」。

そういわれると、親にもスイッチが入って、「負けてはおられない」とか、「うちの子だけ持っていないとかわいそうだし、いじめられてもいけないから」と、ついつい買ってあげてしまうかもしれません。

でも、冷静になってよく聞いてみると、そこでいう「みんな」は「みんな」ではなかった、ということは良くある話です。その「みんな」は、学校のみんなでもないし、クラス40人みんなでもないし、友達グループのみんなでもないこともあります。「仲良しの誰かと誰か」、くらいのことかもしれません。それが、その子のその時の、心の中の「みんな」なのです。

きょうの聖書の話では、「群衆の声」が出てきます。「『みんな』の声」です。その中の一人である、「私の声」はどうでしょうか?神様と自分の関係の中で、みんなの声と、自分の声は、同じでしょうか?違うでしょうか?どうあるべきでしょうか?一緒に考えていきましょう。

2,聖書 

今日の聖書は、ヨハネによる福音書の12章12節からですから、実は先週読んだ場所の一つ前の話になります。過ぎ越しの祭りのころでたくさんの人がエルサレムに来ているときに、イエス様の一行もエルサレムに来られた時のお話です。その直後に、神殿で商売をしている人たちを追い出されたという出来事がありましたが、そこは順序を逆にして先週読んだということになります。

今日読まれたところは、エルサレムに入ってこられるところですが、その日からの一週間でいろんな出来事があり、最後の晩餐、キリストの逮捕、十字架へという出来事が起こっていくという一週間になるので、その週の初めはここを読むのがしきたりになっています。

その日、ユダヤ教の大切なお祭り・過ぎ越し祭を祝うためにエルサレムにいた群衆は、イエスが入ってこられるのを見ました。各地で権威ある教えを話し、いろいろな奇蹟のうわさも聞き、有名なユダヤ教の指導者として関心は高かったのでしょう。それ以上に、聖書が預言している救世主・メシアではないかといううわさもあり、期待して歓迎した人たちが多かったのでしょう。

人々は、ナツメヤシの枝を持って迎えたのです。これは、王様を迎える時のしぐさだったともいわれています。いまでも、挿絵の写真のように、カトリックの国々では「おみこし」のようなものを担いで棕櫚の葉を振ってお迎えするというお祭りが、各地で催されます。

群衆は、このイエスという男を歓迎しました。もろ手を挙げ、棕櫚の葉を振って、聖書の言葉を引用して叫び続けたのです。

しかし、私たちは知っています。その後の出来事を。王様を迎えるように歓迎した群衆の声は、「その男を十字架につけろ」に代わりました。それを振って歓迎した棕櫚の葉は、鞭を打つ縄に代わったのを、です。ユダに裏切られ、他の弟子たちも逃げ隠れしていきます。そして、キリストは一人、十字架にかけられ、群衆や神からさえ見捨てられたような形になっていきます。その最初の出来事を読にながら、自分の生き方を考えましょう。

3,振り返り 

わたしたちの生き方はどうでしょうか?

既にこの話の続きを知っています。十字架に行かれたイエス様の出来事を。しかし、その後絶望の先にイエス様が復活され、弟子たちと再会することも。「だからハッピーエンド、私はそのキリスト教会に通っているから大丈夫!」ということでしょうか?

今日の聖書は、群衆の声の中で、揺れる私の声を考えさせます。「群衆がYesといえば私もYes. 群衆がNoと言い出せば私もNo」でしょうか?

良い状況の中で群衆とともにYesを言うのは簡単です。しかし、状況が変わり、危うくなったとき、希望が消えかけるとき、私の心の中の声はどうでしょうか?

教会に通っていても、信仰が薄くなる時があります。人を愛したり赦したりするのがむつかしくなる時もあります。愛と赦しで間違ったことも是認するのではありません。謝罪して和解するべきですが、それが出来ない時もあります。群衆の期待や裏切る声に振り回されるのではなくて、「私の声」が「群衆の声」ではなくて、「神の声」をきちんと聴いているかどうかが、大切なところです。

「みんながそうだから」ではなくて、「『みんながそうでも』私はこう思い信じている、希望を持って歩いて行ける。人を赦し、また謝罪もできる」。そんな、迷った末の答えでも、そんな生き方をすることが、信仰生活ということになるのでしょう。

4,勧め 

今日は、枝の主日、または棕櫚主日とも呼ばれる日曜日です。棕櫚の葉はPalmと言います。ですから、Palm Sundayとも言います。このPalmは興味深いことに「手のひら」の意味でもあります。形が似ているからだということです。しかし、私たちは、この手を使って、祈り、握手をし、歓迎し、支え、助けることもできますが、反対のこともできます。拒否し、殴り、放り出し、排除し、殺すこともできるのです。「手のひらを反す」という言葉の通り、反対のこともできます。

お寺の掲示板の言葉にこんなものがありました。「墓参り、合掌した手で、蚊を殺す」です。私たちのそんな生き方を気づかせてくれる、皮肉を込めた一句に苦笑いさせられます。殺生を禁じた仏教ならではの蚊を殺すという言葉と、墓参りや掃除に行くころ飛び回って厄介な蚊に悩まされ、祈るために合わせた手で、たたいてしまう行動から、人の心を風刺しています。

群衆の声に合わせるように、私たちも会衆の声に合わせて共に歌い、祈ることは大切です。しかし、その群衆、会衆が神の声を聞いて神の心につながっているかどうかがもっと大切です。今日も賛美歌を歌い、祈りを共に捧げる時間もありますが、そのことを大切に取り組んでみましょう。そして、毎日の生活で、人に、あるいは自分の中にいる自己中心な罪の心に振り回されずに、神様を見上げてゆきましょう。特にこの一週間、群衆の声と、自分の声、神様の声を聞き分けて生きていきましょう。神様がともにいてくださいますように。

 

牧師コラム・ おしえてAI: 聖週間について説明して  

聖週間、またはスペイン語でセマナ・サンタとも称されるのは、キリスト教において最も重要な期間の一つで、イエス・キリストの受難、死、そして復活を記念します。この期間は、主にカトリック教会、東方正教会、プロテスタントの一部で観察され、復活祭の前の最後の一週間にあたります。聖週間は日曜日から始まり、次の日曜日の復活祭で終わります。以下に、各日に行われる主な行事や出来事を説明します。

主日(枝の主日)

・枝の主日(Palm Sunday): 聖週間の始まりを告げる日。イエス・キリストがエルサレムに入城したことを記念して、信者たちはパーム(棕櫚)の枝やオリーブの枝を持って行列を行います。この日のミサでは、イエスのエルサレム入城を再現するため、教会の外で祝福された枝を持つ信者たちが教会内に入っていく儀式が行われます。

聖週間の平日 (牧師注:出来事は他の組み合わせもあります)

・聖月曜日(Holy Monday): イエスがエルサレムの神殿を浄化したとされる出来事を記念します。(牧師注:宮きよめ)

・聖火曜日(Holy Tuesday): イエスが最後の審判について語ったとされる日です。

・聖水曜日(Holy Wednesday): イスカリオテのユダがイエスを裏切るために高僧たちと密約を交わした日とされています。

三日間(聖木曜日から聖土曜日)

・聖木曜日(Maundy Thursday): 最後の晩餐を記念します。イエスが自らの死を前にして最後の晩餐で弟子たちと共に過ごした夜。足を洗う儀式が行われることもあります。この日の夜から、祭壇の飾りが取り払われ、静寂が保たれます。

・聖金曜日(Good Friday): イエス・キリストの受難と死を悼む日。この日は断食と瞑想の日とされ、多くの教会でイエスの受難に関する読み物や瞑想が行われます。十字架の道行き(Via Crucis)という行事も行われることがあります。

・聖土曜日(Holy Saturday): イエスが墓に置かれていた日。この日は沈黙と待機の日とされます。しかし、夜にはイースター・ヴィジル(復活祭の前夜祭)が始まり、キリストの復活を待ち望む儀式が行われます。

・復活祭(Easter Sunday)

復活祭: イエス・キリストの復活を祝う日。この日はキリスト教において最も喜ばしい日とされ、教会は華やかに飾られ、讃美歌が歌われます。復活の喜びを分かち合うため、多くの教会で特別な礼拝が行われます。


2024年3月16日土曜日

こどもの礼拝

今日も子供の礼拝が、はじまりましたよ。
聖書はマタイ16章15節から19節
牧師先生のお話:「てんごくのカギ!あいかぎはありませんか?」

讃美歌をうたって、聖書を読んで、絵本を読んでもらって、牧師先生のお話でした。
卒園生や、教会メンバーの家族だけじゃなくて、誰でも来ていいんだよ。
一度来てみませんか?





 

説教メッセージ 20240428

久しぶりの方と再会しました。ブラジルという「異国」で共に働き、いろいろなことを共有した同労者、ブラジル聖公会の執事の姉妹です。バスに乗って遠い街に行き、教会で子どもたちにお話をし、教会員の方と交流し、弓場農場を一緒に訪ね、超教派の研修会をしたりもしました。懐かしいことをいろいろ話...