2023年8月25日金曜日

8/26はこどもたちの、「夏のデイキャンプ」!まってるよ!

この夏は猛暑ですね。豪雨や台風もありました。でも、夜散歩すると、少しずつ涼しい夜もあります。そして、夏休みももうすぐ終わり… 慌てて宿題やっつけた子供の頃を思い出します。

教会では、「夏のデイキャンプ」というお楽しみ会があります。今年は、東海教区の他の教会からも合流する企画なので、春休みのキャンプで一緒だった懐かしい友達と会えるかも。

テーマは、「愛と平和」です。聖書から、どうしたら仲良く、戦争もない生き方ができるか、学びます。ゲームや楽しい企画も。中高生は、ウルトラクイズ・ディスカッションの時間もあります。アイスやスイカ割りも。熱いから、ミストシャワーもあるよ。

いま、こども29人、大人のスタッフ17人で47人。教会の外国のお兄さんお姉さんも、3か国から来て助けてくれるよ。

けがや病気もないように、お祈りしましょう。待ってます。

2023年8月17日木曜日

8月20日は、特別礼拝と、午後は講演会です!

8月20日は、朝の10.30-11.40の礼拝は特別メッセージ、昼食後13.30から15.30は講演会です。どなたでも、どこからでもおいでいただけます。
講師は、ルーテル教会の社会福祉施設・デンマーク牧場の心療内科の医師・武井陽一先生です。
子どもからご老人まで一人一人の命を大切にする施設で、人々のケアだけでなく全体の運営にもかかわってくださっているドクターです。北欧の宣教師から引き継いだ牧場という自然の中で、命を大切にはぐくみサポートしています。

生きにくさを感じる今の世界、悪いのは自分ではなくて、この社会の在り方だと私たちは考えています。一緒に話を聞いて、新しい生き方を覗いてみませんか?宗教の強制はしません。どうぞ、お気軽においでください。
デンマーク牧場の様子は下のYouTubeで見ることもできます。パンフも以下に置いています。ご覧ください。お問い合わせください。

https://youtu.be/n9IPp7vcAoU






 

2023年8月13日日曜日

礼拝メッセージ 20230913

 昨日は教区の青年と外国メンバーの修養会が、田原市のみのり教会田原集会所もお借りして行われました。礼拝には田原の教会メンバーも一部来てくださり、楽しいひと時でした。そのあと「自己紹介・神様紹介(神様との出会い)」を楽しくしましたが、聞くと、外国出身の方だけではなく、外国で仕事をしていた方などふくめて、なんと8か国に関係のある人たちで話も弾みました。前日準備も含めて、オプションで前泊した外国メンバーとは海にも行き久しぶりに泳ぎました。今日の聖書の話のように「沈みかけ」はしませんでしたが、急に深くなるところもあり、聖書今日の話も思い出させます。人生の危ういとき、どう生きていけばいいでしょうか。今日は復活教会で礼拝担当で、Youtube中継もし、Facebookでも案内します。お待ちしています!

聖書の言葉

マタイ 14:22~33 (新28)

14:22それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。 23群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。 

24ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。 25夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。 26弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。 27イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」 28すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」 29イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。

 30しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。 31イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。 32そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。 33舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。



説教 「足元を見ると」徳弘浩隆牧師

1, 「人の足元を見る…」

日本語では「足元を見られた」という表現があります。これは、「相手の弱点を見つけて漬け込む」という意味ですね。その語源は、こういうことだそうです。昔、街道や宿場で、駕籠かきや馬方がいました。今でいえば、タクシーの運転手という事でしょう。彼らは、お客さんの足元を見ました。それは、どのくらい長旅をしてきて、どれくらいつかれているかを知るためです。そして、本当に疲れ果てている人と見抜くと、普段よりも高い金額を提示します。疲れ果てているお客さんは、それがどんなに法外な値段であっても、ほかに頼る方法や人がいないから、仕方なく払ったという事から来ているそうです。

今日の聖書の話を読むときに、いつもこの言葉を思い出します。しかし大きな違いがあります。それについて、聖書から学び、神様のメッセージを聞いていきましょう。


2,聖書 

今日の聖書個所は、「それからすぐ」という書き出しで始まります。その後の出来事です。何があった直後だったのでしょうか?

それは、有名なイエス様の奇蹟、5000人の給食です。少しの食糧からでも、イエス様が祈り祝福し、皆で分け合うと、5000人が空腹を満たしても余りあるほどだったという出来事です。弟子たちは、「自分たちでこれほどの人々の問題を解決してあげる力はない」と、途方に暮れた中、イエス様の奇蹟を体験したのです。その続きの出来事という事が、ある意味大切な状況です。絶望と苦難、しかしイエス様によってそれが解決され、人々が満足していく姿を体験した直後、彼らは孤独になります。イエス様は無理やり彼らを舟に乗せ向こう岸に行かせたのです。その間に弟子たちをイエス様が解散させたようです。面白いシチュエーションですね。そしてイエス様は一人山に登って祈られたのです。

 そんな状況で、弟子たちは自分たちだけで小舟に乗り湖を渡ろうとします。ところが、逆風に悩まされます。そんな中、イエス様が湖の上を歩いて弟子たちに近づきます。幽霊だと思っておびえた弟子たちに「安心しなさい。私だ。恐れることはない」とイエス様は言われます。ペトロは「主よ、あなたでしたら、私に命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」というと、水の上を歩くことができました。しかし、強い風に恐怖に駆られ、おぼれそうになります。しかし、助けを求めるとイエス様は手を伸ばして捕まえてくれ、助けられました。そんな出来事でした。


3,振り返り 

 キリストが水の上を歩くとか、ペトロも願い出て水の上を少し歩いたとか、それが気になってしまうところです。そんな奇蹟があるのだろうか、と。「牧師になる試験では、少し水の上を歩かないといけないんだよ」とか、教会で子どもたちに言ってみて、ビックリされたり、笑われたりすることもあります。ガリラヤ湖に旅行に行ったら、水の浅いところで下の石を積んで、水の上を歩いているようにして写真を撮ったり、そんなことを若いころ牧師仲間としたこともあります。しかし、聖書の奇蹟が作り話でもなく、そんな奇蹟ができるようになることが神様を証明することでもありません。大切な意味が、その出来事にあることを私たちは聞き取ることができます。

 それはこうです。

1)5000人の給食の奇蹟を体験し、驚き、恵まれ、問題が解決した後すぐに、このことがあったという事。

2)奇跡的な給食の出来事や、指導者が山に登り人々は孤独になる、という事は、モーセの出来事を振り返ることになるという事。

3)そしてそれはやがて、イエス様によって上書きされるような出来事となり、神様との新しい契約が、つまり救いの出来事につながるという事。

4)イエス様がおられなくなり、自分たちだけという状況に取り残された弟子たちが、奇跡的に幽霊のように現れたイエス様に再会したことを思い出させます。今日のところは、十字架と復活の前の出来事ですが、やがて起こる疑うトマスとの出来事を思い出させる出来事でもありました。再会したときに「安心しなさい(平和があるように)」といわれたイエス様と、「十字架の傷跡を触るまで信じない」と違うトマスのように「主よ、あなたでしたら…」と奇跡的再確認を願うペトロの姿勢は重なります。

 これが示し、教えることは、こうです。

私たちは、神様の恵みと養いによって、自分の力を超えた恵みを体験することとがありそれによって生かされてきたという事。しかし、孤独になり、状況が厳しくなるとまたすぐに神を忘れ不安になってしまう不信仰ものだという事です。そんな私たちに再度、不思議な方法で現れ語り掛ける神様ですがそれでもまだ恐れと不信に取りつかれているのが私たちの姿です。神を試そうとさえするのです。しかし、危機の中で手を伸ばしてくれるのがキリストです。もう一度、安心して、「主よ、助けてください」と素直に祈ることが大切です。その時、周りの困難や、自分の足元を見るのではなく、キリストを見上げることが大切です。そして、大きな奇跡や助けられた出来事の直後なのに、手のひらを返したように不信仰になるのではなく、それを心にとどめ、一時的な危うさに飲み込まれないようにしましょう。そのために、大きな奇跡と、孤独と、困難という出来事で、私たちを育てるのが、神様の私たちを信仰的に育てる「いつものやり方」なのだと、気が付くことも大切です。

 

4,勧め 

 旅人の「足元を見て」弱みに付け込むのが私たち罪びとの姿かもしれません。しかし、疲れ果て汚れた足元になるほど苦しみながら生きてきた私たちの姿に気づき、弱みに付け込むのではなくて、足を洗い、食べさせ、背負ってくださる方がキリストです。神様との関係では、自分の足元を見て恥ずかしがったり、疲れと不満ばかりを言うのは私たち自身です。足元を見ないで、手を伸ばしてくれたキリストの手をいつも見上げて生きていきましょう。

 どんなことがあっても、今までの神様の助けと導きを思い出して、水の上のように危うい足元であっても、それを気にせず、キリストと手をつないでしっかりと歩いていきましょう。それが、私たちの信仰生活ですし、それによって私たちは、救われ、育てられます。それによって私たちは、安心できる人生を歩むことができるし、平和な家庭や世界を実現できるはずなのです。一緒に信仰をもって歩いていきましょう。

 

 

牧師コラム ガリラヤ湖の水の上を歩く?

そうそう、ありました、探したら。ガリラヤ湖を船で渡る私の写真、そして水の上を「歩く」私の姿の写真! これは2000年に若い中もな牧師たちと「聖地」ツアーをしたときの写真です。なんとも不謹慎で不信仰ものと怒られそうですが、聖書の出来事を体験して、キリストに近づきたかった若いころの牧師の姿と思って、お許しください。機会があれば、一緒に訪ねてみたいですね。コロナも終わり、世界も変わりましたが、旅行もしやすくなりました。二度目の訪問時は、ベツレヘムにはルーテル教会の知り合いの牧師がメンバーのガイドさんを紹介もしてくれました。


2023年8月5日土曜日

礼拝メッセージ 平和を祈る主日 20230806

 暑い日々、夏休み真っ盛りですね。今日はネットで見かけた俳句を見ながら、この季節、そして子どもの頃の夏休みの出来事を思い出し、懐かしみました。そして、戦争と平和についても、考えさせられました。今日は特に、戦争の悲劇と、平和への責任を考えさせられる日ですね。聖書にはどう書いてあるでしょうか?一緒に見ていきましょう。今日は高蔵寺教会で礼拝担当します。Youtubeでも中継し、Facebookででもお知らせします。暑い中ですが、「ミストシャワー」と「かき氷」を準備します!お待ちしています。

 

聖書の言葉

ヨハネ 15: 9~12 (新198)

15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。 10わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

11これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。 12わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。



説教 「平和を作るには」徳弘浩隆牧師

1, 「八月や…」

今日は8月の6日ですね。中学生のころ夏休みなのに、この日は特別の登校日で、「平和学習」があったのを覚えています。しかし、その日私は普通の登校日じゃないのでと、サボったのも覚えています。学校帰りに仲良しの友人二人が家に来てくれて、門のところで話し込みました。

牧師コラムに書きましたので少し重複しますが、最近、こんな俳句が今の私の心に刺さりました。「八月や…」で始まる俳句です。私なら、「八月や 朝顔 プール なつやすみ」でしょうか。小学生のころ、いとこのお姉ちゃんが都会の横浜から福岡に来て、一緒に小学校のプールに行ったあの風景が鮮やかに思い出されます。しかし、こんなのどかな風景ではなく、大切な出来事を思い出させるのは、この俳句です。「八月や 六日 九日 十五日(むいか、ここのか、じゅうごにち)。単純に「ひにち」を羅列しただけですが、私たちにはこんなにも大きいインパクトとメッセージを持っています。戦争、原爆、終戦です。

そんなことを思い起こしながら、また、今起こっている戦争の地の人々を思いながら、どうしたら平和が作れるのか、聖書に聞いていきましょう。

2,聖書 

 平和主日のために選ばれた今年の聖書の言葉は、ヨハネによる福音書15章からです。有名な「私はブドウの木」の話の後半です。キリストは、「自分につながっていなさい」、と身近なブドウの木の話を持ち出して、弟子たちにつながっていることを勧めます。そして、本当につながっているなら、「良い実を結ぶ」と続けられます。

そして、父なる神がキリストを愛されたように、キリストも私たちを愛する、と言われます。そして、キリストが父なる神の言葉を守り、その愛にとどまっているように、弟子たちもキリストの言葉を守るなら、キリストの愛にとどまることになる、というのです。

さて、その言葉、聖書では掟とありますが、それは何でしょうか?それを守り生きるなら、平和を作り出すことができる、というわけで、京子の言葉が聖書から選ばれているのです。 それはこうです。「私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい」という言葉でした。

3,振り返り 

 なんだ、簡単だなと思うかもしれません。どうでしょうか?神様が、キリストが、私たちを愛したように、私たちも、互いに愛し合って、つまり、仲良く生きればいいんだな、というわけです。

 しかし、その簡単な言葉通りに生きることができないので、諍いや争い、戦争まで起こっているということを、考えねばなりません。

 好きな人を愛するのは簡単でしょう。話や趣味が合う人を愛するのも、簡単でうれしいことでもあります。自分が調子が良くて、何をやっても順調な時なら、人を愛することも、少し意見が違う人でも、余裕をもって付き合い、何とか過ごすことができるかもしれません。しかし、そうでないときが問題なのです。

 ただの愛と、キリストが示し教えた愛は、どこが違うのでしょうか?それは、この絵の示す通りです。

    

 この二つの絵はどこが違うでしょうか?よく、芸能人がコンサートで集まってくれた人にこんなハンドサインをすることがあるでしょう。両手を使って、ハートのサインを造るのです。「みんなありがとう、愛しているよ!」というメッセージです。みんなも、写真を撮ったり、それをSNSで載せたり、メッセージを送ったりするときに、このハンドサインを使うこともあるでしょう。

 しかし、この二つの違いが、今日の聖書の大切なメッセージです。父なる神がキリストを愛されたように、キリストも神の愛をもって私たちを愛してくれたのです。「いつも、そばにいてくれて、話を聞いてくれて、慰めたり、たしなめたり、励ましてもくれるんだな」、と思うでしょう。しかし、それは、キリストが生き、示された神の愛の一部といっていいでしょう。

 コンサートに集まってくれたファンに向かってハートマークのハンドサインを作るのは簡単かもしれません。しかし、自分のことをだまし、否定し、裏切ってきたひとに、「愛してるよ~」とこのハンドサインを作って微笑みかけることができるでしょうか?

 先程の写真に戻りますと、その違いは、ハートの中に、十字架があるかどうかです。つまり、ただの愛ではなくて、十字架の愛、自分を犠牲にしてでもその人をゆるし大切にするのが、神の愛・キリストの愛ということになるのです。  

 聖書という分厚い本には、このように、神様の愛が一貫して書かれ伝えられています。神を愛し、人を愛することが、神様の掟であり、平和を作る鍵です。そして、その愛はキリストが十字架で示されたのです。私たちもそこにとどまるということは、この写真のように、みんなで、多少意見が違い、考えが違う人でも、一緒に神のもとに集まり、その手で十字架を作り生きていくということです。一人では、平和は実現しないからです。



4,勧め 

 最後の写真はこれです。来週の青年会と外国メンバーの修養会では、最後にみんなで、あの十字架と、こんなハートを作って写真を撮ろうと、計画しています。

 誰かが欠けてもきれいなハートになりません。誰かが出しゃばったり、遠慮しても、それはできません。みんなが、手を集め、祈りも集めてできるもの。それが平和なのです。このハートの写真の真ん中には十字架がありませんが、その空間は、自分がいるのではない、自己犠牲の神の愛があるところです。集まって写真を撮っても、撮らなくても、このように生きていきましょう。平和を作りだしましょう。

 

 

牧師コラム 「八月や ○○ ○○ ○〇○」

八月や…とはじまる俳句、あなたならどう続けますか?

私がすぐ思いつくのは、「八月や 朝顔 プール なつやすみ」かな。子どものころ、いとこのお姉ちゃんと一緒に小学校のプールに行ったあの風景が鮮やかに思い出されます。しかし、こんなのどかな風景ではなく、大切な出来事を思い出させるのは、この写真の俳句ですね。「八月や 六日 九日 十五日(むいか、ここのか、じゅうごにち)。これを見るだけで、戦争の悲劇と、平和の大切さを思い起こさせます。単純に「ひにち」を羅列しただけですが、私たちにはこんなにも大きいインパクトとメッセージを持っています。

平和について聖書はどうでしょう。今日読まれたミカ書4章3節にはこうあります。「主は多くの民の争いを裁き はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。」これは、イザヤ書2章4節にもほぼ同じ言葉がありますが、イザヤ書の言葉がニューヨークの国連本部の広場の壁に刻まれ、「イザヤの壁」とも呼ばれています。この二人の預言者は同時期の同じ神の言葉を伝え残しました。ミカの方が庶民的な予言者でしたし、「ブドウの木やイチジクの木の下で、みんな安心して座っていることができる」と続き、「すべての国々の民は、おのおの自分の神の名によって歩む」と続き、解釈次第では、宗教間の尊重と共存の平和の世界とも取れます。あるいは呼び名は違っても、同じ天地創造の同じ神様だったと、気づかされる宗教多元化の時代にも平和をもたらすことができる可能性を読み取ることもできるかもしれません。そして、これらは旧約聖書の預言者の言葉ですから、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の国々は、この言葉を共有しています。「しかし、…」ですね。平和は愛の心が実現するもので、それは神の愛、キリストの十字架の愛から来ます。キリストの十字架の愛は、「神を愛し、人を愛した愛」です。私たちの心にも宿りますように。そしてそのように生きていけますように。


説教メッセージ 20240512

 聖書の言葉  ルカ 24:44~53 と 使徒言行録 1: 1~11 (新213) 1:1-2テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。...