暑い日々、夏休み真っ盛りですね。今日はネットで見かけた俳句を見ながら、この季節、そして子どもの頃の夏休みの出来事を思い出し、懐かしみました。そして、戦争と平和についても、考えさせられました。今日は特に、戦争の悲劇と、平和への責任を考えさせられる日ですね。聖書にはどう書いてあるでしょうか?一緒に見ていきましょう。今日は高蔵寺教会で礼拝担当します。Youtubeでも中継し、Facebookででもお知らせします。暑い中ですが、「ミストシャワー」と「かき氷」を準備します!お待ちしています。
聖書の言葉
ヨハネ 15: 9~12 (新198)
15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。 10わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
11これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。 12わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
説教 「平和を作るには」徳弘浩隆牧師
1, 「八月や…」
今日は8月の6日ですね。中学生のころ夏休みなのに、この日は特別の登校日で、「平和学習」があったのを覚えています。しかし、その日私は普通の登校日じゃないのでと、サボったのも覚えています。学校帰りに仲良しの友人二人が家に来てくれて、門のところで話し込みました。
牧師コラムに書きましたので少し重複しますが、最近、こんな俳句が今の私の心に刺さりました。「八月や…」で始まる俳句です。私なら、「八月や 朝顔 プール なつやすみ」でしょうか。小学生のころ、いとこのお姉ちゃんが都会の横浜から福岡に来て、一緒に小学校のプールに行ったあの風景が鮮やかに思い出されます。しかし、こんなのどかな風景ではなく、大切な出来事を思い出させるのは、この俳句です。「八月や 六日 九日 十五日(むいか、ここのか、じゅうごにち)。単純に「ひにち」を羅列しただけですが、私たちにはこんなにも大きいインパクトとメッセージを持っています。戦争、原爆、終戦です。
そんなことを思い起こしながら、また、今起こっている戦争の地の人々を思いながら、どうしたら平和が作れるのか、聖書に聞いていきましょう。
2,聖書
平和主日のために選ばれた今年の聖書の言葉は、ヨハネによる福音書15章からです。有名な「私はブドウの木」の話の後半です。キリストは、「自分につながっていなさい」、と身近なブドウの木の話を持ち出して、弟子たちにつながっていることを勧めます。そして、本当につながっているなら、「良い実を結ぶ」と続けられます。
そして、父なる神がキリストを愛されたように、キリストも私たちを愛する、と言われます。そして、キリストが父なる神の言葉を守り、その愛にとどまっているように、弟子たちもキリストの言葉を守るなら、キリストの愛にとどまることになる、というのです。
さて、その言葉、聖書では掟とありますが、それは何でしょうか?それを守り生きるなら、平和を作り出すことができる、というわけで、京子の言葉が聖書から選ばれているのです。 それはこうです。「私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい」という言葉でした。
3,振り返り
なんだ、簡単だなと思うかもしれません。どうでしょうか?神様が、キリストが、私たちを愛したように、私たちも、互いに愛し合って、つまり、仲良く生きればいいんだな、というわけです。
しかし、その簡単な言葉通りに生きることができないので、諍いや争い、戦争まで起こっているということを、考えねばなりません。
好きな人を愛するのは簡単でしょう。話や趣味が合う人を愛するのも、簡単でうれしいことでもあります。自分が調子が良くて、何をやっても順調な時なら、人を愛することも、少し意見が違う人でも、余裕をもって付き合い、何とか過ごすことができるかもしれません。しかし、そうでないときが問題なのです。
ただの愛と、キリストが示し教えた愛は、どこが違うのでしょうか?それは、この絵の示す通りです。
この二つの絵はどこが違うでしょうか?よく、芸能人がコンサートで集まってくれた人にこんなハンドサインをすることがあるでしょう。両手を使って、ハートのサインを造るのです。「みんなありがとう、愛しているよ!」というメッセージです。みんなも、写真を撮ったり、それをSNSで載せたり、メッセージを送ったりするときに、このハンドサインを使うこともあるでしょう。
しかし、この二つの違いが、今日の聖書の大切なメッセージです。父なる神がキリストを愛されたように、キリストも神の愛をもって私たちを愛してくれたのです。「いつも、そばにいてくれて、話を聞いてくれて、慰めたり、たしなめたり、励ましてもくれるんだな」、と思うでしょう。しかし、それは、キリストが生き、示された神の愛の一部といっていいでしょう。
コンサートに集まってくれたファンに向かってハートマークのハンドサインを作るのは簡単かもしれません。しかし、自分のことをだまし、否定し、裏切ってきたひとに、「愛してるよ~」とこのハンドサインを作って微笑みかけることができるでしょうか?
先程の写真に戻りますと、その違いは、ハートの中に、十字架があるかどうかです。つまり、ただの愛ではなくて、十字架の愛、自分を犠牲にしてでもその人をゆるし大切にするのが、神の愛・キリストの愛ということになるのです。
聖書という分厚い本には、このように、神様の愛が一貫して書かれ伝えられています。神を愛し、人を愛することが、神様の掟であり、平和を作る鍵です。そして、その愛はキリストが十字架で示されたのです。私たちもそこにとどまるということは、この写真のように、みんなで、多少意見が違い、考えが違う人でも、一緒に神のもとに集まり、その手で十字架を作り生きていくということです。一人では、平和は実現しないからです。
4,勧め
最後の写真はこれです。来週の青年会と外国メンバーの修養会では、最後にみんなで、あの十字架と、こんなハートを作って写真を撮ろうと、計画しています。
牧師コラム 「八月や ○○ ○○ ○〇○」
八月や…とはじまる俳句、あなたならどう続けますか?
私がすぐ思いつくのは、「八月や 朝顔 プール なつやすみ」かな。子どものころ、いとこのお姉ちゃんと一緒に小学校のプールに行ったあの風景が鮮やかに思い出されます。しかし、こんなのどかな風景ではなく、大切な出来事を思い出させるのは、この写真の俳句ですね。「八月や 六日 九日 十五日(むいか、ここのか、じゅうごにち)。これを見るだけで、戦争の悲劇と、平和の大切さを思い起こさせます。単純に「ひにち」を羅列しただけですが、私たちにはこんなにも大きいインパクトとメッセージを持っています。
平和について聖書はどうでしょう。今日読まれたミカ書4章3節にはこうあります。「主は多くの民の争いを裁き はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。」これは、イザヤ書2章4節にもほぼ同じ言葉がありますが、イザヤ書の言葉がニューヨークの国連本部の広場の壁に刻まれ、「イザヤの壁」とも呼ばれています。この二人の預言者は同時期の同じ神の言葉を伝え残しました。ミカの方が庶民的な予言者でしたし、「ブドウの木やイチジクの木の下で、みんな安心して座っていることができる」と続き、「すべての国々の民は、おのおの自分の神の名によって歩む」と続き、解釈次第では、宗教間の尊重と共存の平和の世界とも取れます。あるいは呼び名は違っても、同じ天地創造の同じ神様だったと、気づかされる宗教多元化の時代にも平和をもたらすことができる可能性を読み取ることもできるかもしれません。そして、これらは旧約聖書の預言者の言葉ですから、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の国々は、この言葉を共有しています。「しかし、…」ですね。平和は愛の心が実現するもので、それは神の愛、キリストの十字架の愛から来ます。キリストの十字架の愛は、「神を愛し、人を愛した愛」です。私たちの心にも宿りますように。そしてそのように生きていけますように。
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