2024年5月12日日曜日

説教メッセージ 20240512

 聖書の言葉 

ルカ 24:44~53 と 使徒言行録 1: 1~11 (新213)

1:1-2テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。

3イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。 4そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。 5ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」

6さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。 7イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。 8あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

 9こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。 10イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、 11言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」


説教「なぜ天を見上げて立っているのか」徳弘浩隆牧師

1、どこかで聞いたセリフ

今日の使徒言行録の言葉、説教題にも選びましたが、この言葉はどこかで聞き覚えがあるかもしれません。「なぜ○○○○を見ているのか?」という天使の弟子たちへの問いかけです。

これは、そのまま、教会に通っている私たちにも、神の使いが問いかけている言葉にも聞こえてくるから、大切な言葉だと思います。

おぼえておられますか?そう、ルカによる福音書にもありました、キリストが復活されたとき、墓穴の中を見つめているマグダラのマリアたちに、天使が呼びかけました。そして、その言葉に視線を変えるように促されたのです。あの時と同じように、弟子たちは天使たちに問いかけられました。大切なところではなくて、自分たちの心配や思い込みで、別のところを見つめたままの弟子たちに、正しい方向を見るように促したのです。

私たちも、毎日の生活の中で、間違ったところだけを見つめて、あくせくしているかもしれません。どこに視点を転じたらよいのでしょうか?一緒に学んでいきましょう。


2,聖書 

今日の聖書は、ルカによる福音書の最後と、使徒言行録の最初から選ばれています。今日は主に、使徒言行録の方を見ながら、神様の声を聴いていきたいと思います。

説教は福音書の言葉から神の声を聴くべきではないかと、そう思われることがあるかもしれません。ある面もっともなことです。福音書こそ、キリストのご生涯と教えがまとめられて伝えられているからです。しかし、今日の福音書と使徒言行録は特別です。使徒言行録の冒頭に、テオフィロという人に宛てた言葉が書かれています。その中で、「先に第一巻を書いた」と言及されているのが、ルカによる福音書と考えられています。

つまり、これらは実は続きものだと考えられているのです。ですから、ここ2年程、教会の聖書研究会ではルカによる福音書を駆け足で学び、その次は使徒言行録を学びました。そこでは一貫した流れを学ぶことができました。キリストの出来事から最初のキリスト教会と宣教の歴史、そして、ユダヤ人たちへの教えではなくて異邦人にキリストが伝えられたいきさつです。そして次にはエフェソ書を学びましたが、エフェソという異邦人の町の教会にあてた手紙を読みながら、日本という別の文化や宗教で生きる私たちが「異国の宗教」であるキリスト教を信じるにあたっての間違いや問題とそれへの教えを参考にしたいと思っての事でした。

さて、今日は昇天主日です。これは、今日のルカによる福音書と、その続きの使徒言行録が伝えているキリストが天に昇って行かれるという出来事です。

興味深いことに、5節では使徒たちは、つまり主要な弟子たちはまだ的外れな質問をしています。キリストは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを数多くの証拠を持って示し、40日間にわたって彼らに現れて、神の国について話されたとルカは振り返りながら説明し、続くキリストの言葉を伝えます。それは「エルサレムにい続けなさい。約束されたものを待ちなさい。聖霊による洗礼を授けられるからだ」と。それに対して使徒たちは、「イスラエルのために国を再建されるのはこの時ですか?」と尋ねたのです。

まだ、彼らの思い込みと期待による、イスラエルという地上の国の再建をしてくれる王様としてのメシアを期待していました。それがいよいよかと、問うたのでした。それに対してキリストは、「そのときは父が決めることである。聖霊が降ると力を受ける。そしてエルサレムばかりではなく、地の果てに至るまで、私の証人となる。」と「つまり、私の言葉と出来事を伝えていくのだよ」と言われました。そしてキリストは祝福をしながら天にあげられたのです。


3,振り返り 

さて、大切なのは、それに対する使徒たちの姿です。あっけにとられて天を見上げました。そして、そのままだったのです。天を見上げていたまま。

そこに冒頭に考えた天使の言葉です。「どうして天を見上げたまま立っているのか?」それは今の私たちにも問いかけられていると考えてきたとおりです。

最後まで神様の御心を理解できず、いよいよその時が来たのか?と自分の願いだけを考えて的外れな期待をします。キリストに教えられ諭されても、まだ、いなくなったキリストの方を見ているだけなのです。

自分の願い事だけを祈り、それがかなうのはいつか、今かと、神様に問い続け、神様のもっと大きな恵みや、自分の使命に気が付かないのでした。そして、私たちも、自分のことや目の前のことだけに心を奪われ、迷ったり、立ち止まったり、衝突したり、です。キリストは何も解決せずに、天に帰って行かれたよ、と見上げていただけだったのかもしれません。

天使は、そんな彼らに、そして、そんな私たちに呼びかけています。またおいでになる、と。神の霊が注がれ、その力に満たされ、自分自身が変えられてゆくことを思い出さされるのでした。


4,勧め 

祈りは大切です。しかし、自分の願いをかなえてもらうためだけではいけません。そして、すべてがうまくゆくような解決を待つだけでもいけないのでしょう。神の霊に満たされて、変えられてゆく自分が、神様の計画を実現しお助けする側になること、それによって願うだけではなくて、それを実現するものにされてゆくことを考えてゆくことも大切です。

今日のキリストのまとめの言葉と、天使の呼びかけの言葉は、そのように私の心に届きました。

見上げて立っているだけではなくて、足元を見て、神の願いを自ら生きるものになりましょう。 

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 牧師コラム・ 今日の写真 I Love YOU!

  先日公園に行きました。春には、桜がきれいで沢山の人たちが桜を楽しんでいました。そのときは、車を停めるにも長い行列でなかなか駐車場に入れませんでした。入ると、多くの人が、そして沢山の外国人の人たちもあちらこちらに座って、桜を楽しんでいました。

 先日行ったときは、とてもきれいなバラが咲き乱れていました。バラ園がきれいに整備され、沢山の品種の桜が裂き比べているようでした。

 いろんな名前のバラがあるんだなぁ、と思いながら少しだけ回りました。そこで見つけたのがこのバラ。その名は「ティアーモ」とカタカナで書かれています。横にはアルファベットでも書かれていますがこんな具合です。




「Tiamo」。ブラジルにいた私はすぐにピンときました。その写真を撮って、ブラジルにいたときにお世話をしていたこども達数人に送りました。すると、翌日数人から返事がきました。「Ti amo!」と。

 このバラは、ドイツの品種ですが名前はイタリア語。意味は「I Love YOU!」で、ポルトガル語でも同じように言います。もう5年もあっていないけれど、何度もメッセージや写真をやり取りしているブラジルの子どもたちに送ったメッセージはその意味が分かって、同じ言葉で返事を送ってくれたのでした。バラのきれいな花と一緒に、とっても嬉しくなりました。

 さてこのバラの名前と、その意味、その赤い花びら、続きのお話は来週のペンテコステの説教でお話ししましょう。

お楽しみに。


2024年5月9日木曜日

説教メッセージ 20240505

 聖書の言葉 ヨハネ 15: 9~17 (新198)

15:9父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。 10わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

11これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。 12わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。 13友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 14わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 15もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 16あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。 17互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」


説教「友のためになにができるか?」  徳弘浩隆牧師

1、クリスチャンという言葉

私たちは自分たちのことを、「クリスチャン」と呼ぶことがありますが、そもそもどういう意味でしょうか?

いくつかの説がありますが、一般的に考えられていることはこうです。聖書の中では使徒言行録11章の25-26節に「それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。」と初めて登場します。ユダヤ人中心のエルサレム教会に対して、北部のアンティオキアは非ユダヤ人非ユダヤ教出身のいわゆる異邦人の教会でした。そこで、「キリスト者と呼ばれるようになった」と訳されているのは、ギリシャ語聖書では「Χριστιανούς(クリスティアノス)」、ラテン語聖書では「christiani(クリスチアーニ)」となっていて、英語のクリスチャンになっていきました。そのもともとの意味は、「キリストの奴隷」「キリスト党員」「小さなキリスト」などの意味があり、やや揶揄された呼び方だったという説もあります。ちなみに16世紀の日本ではクリスチャンは「耶蘇(やそ)」、神父さんは「バテレン」と呼ばれますが、これはポルトガルやスペインの宣教師が紹介した「イエス」が「耶蘇」と書かれ、神父を意味する「Padre(パードレ)が伴天連(バテレン)と漢字で書かれたのがもとで、人々からやはり揶揄されるように呼ばれました。

聖書の中ではこのように、「キリストの奴隷」ともいえる呼び方ですし、パウロも自分のことを「奴隷」という言葉を使って書いているところもありますが、一般的に「キリストのしもべ」と訳されています。

さてしかし、今日の聖書はキリストは私たちのことを、奴隷でも、僕(しもべ)でもない、「友」と呼んでくれています。私たちとキリストとの関係を聖書から学んでいきましょう。

2,聖書 

今日の聖書日課は、先週と同じで、ヨハネの福音書の中の13章から16章までの、いわゆる「決別説教」「告別説教」と言われる長いお話の中からです。最後の晩餐があり、弟子の足を洗い、新しい掟の話をし、羊やブドウのたとえ話があり、今日は「友」という言葉が一つのキーワードでしょう。

神がキリストを愛されたように、キリストも弟子たちを愛してきた、と言われます。そして、その愛にとどまっていなさいと。それは、キリストが言われる掟を守るなら、愛にとどまっていることになるのだと、続けられました。

そして、その大切な掟、命令は、「キリストが弟子たちを愛したように、弟子たちも互いに愛し合いなさい」という事でした。そして、僕は主人が何をしているかわからないでいるが、弟子たちはもうわかっているので、僕ではなくて、「友と呼ぶ」という話になっていきました。

奴隷は主人の所有物であり、言われるままの仕事や生き方をしなければなりません。奴隷は主人の考えを知る由もなく、ただ従うという事でした。しかし、いまや、キリストと弟子たちは、「主人と奴隷」ではなく、その考えがすべてわかり、それを行う事になるので、「友と友」という関係になるのだというのです。

その「友である」ということのカギが、「互いに愛し合うべき」という事でした。

3,振り返り 

キリストは弟子たちのことを、「友」と呼ばれました。私たちクリスチャンも、クリスチャンという言葉はもともと「キリストの奴隷」ともいう意味でしたが「友」とされています。でも、その「友」である根拠は、キリストの愛にとどまっていること、そして、互いに愛し合う事、それが必須でした。

私たちにできているでしょうか?讃美歌でも、「慈しみ深き、友なるイェスは」という歌もあります。やさしくしてくださるイエス様のことを思い、この讃美歌が好きだという方も多いでしょう。

イエス様は私たちのことを「友」と呼んでくれたけれど、罪深い自分にその価値があるのかと、それほどの愛で他者を愛しているかと問われると、私はまだキリストの友とはなれていない自分を見つけざるを得ません。

どうしたらよいでしょうか?矛盾や不安や不満がたくさんある社会です。人がゆるせない、自分も赦せない。人を愛せない、自分も愛せない。そんなときもあるかもしれません。間違いや不正をそのまま許すこと、是認することを聖書は求めていません。罪を認め、悔い改めてキリストを信じる者の罪をゆるすと、礼拝でも罪の告白とゆるしの宣言でも説明しています。しかし、それでも自分は他者を許せない愛せないことがあるかもしれません。どうしたらよいのでしょうか?

4,勧め 

それは今日のキリストの言葉に答えがあります。努力して努力して、やっと、キリストの友とされるところに到達するのではありません。キリストが神の知恵・み言葉を教えてくれ、友と呼んでくれ、その友のために命さえを投げ出してくれたこと、それほどの大きな愛が神の愛だと、教えてくれたのです。「友のために命を捨てること、それほど大きな愛はない」とキリストがこれから向かう十字架の道を見据えながら、本当の神の愛の在り方を教えられたのでした。

その出来事を、感謝して受け入れることです。そして、自分も少しずつ、そのような愛で生きることを促されています。キリストの奴隷ともいえるクリスチャンであるわけですが、それはすべてこの方に従って生きていくという、信仰告白的な意味では「奴隷」でもよいでしょう。しかし、いつまでも「奴隷」ではなくて、キリストによる神の知恵とみ言葉を知り、そうされたように自分も人を赦し愛する生き方をするときに、本当の「友」と呼ばれるにふさわしくなります。それを、キリストは願い、自分を投げ出し、招いておられるのです。自分も傷つきながら、痛みを覚えながら、他者を赦し、そのために生きる、それが、キリスト者の生き方です。そんな生き方を格闘しながらでも、したいと思わされます。安心して、一緒に生きていきましょう。教会の仲間は、そんな生き方を、失敗もしながら生きている仲間、兄弟姉妹、家族なのです。

 

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牧師コラム・  久々の出会い、新しい出会い

  4月29日は「わいわいワーク」に行ってきました。天候も適度な「くもりに恵まれ」、暑すぎず、雨でもなく、話題の「パンダ羊」にも会えました。

  私は草刈り機持参で草刈りをしましたが、格闘の相手は地面の雑草ではなくて、フェンスに絡まる蔦でした。こういう時いつも思い出す歌は、「蔦の~絡まるチャペルで、祈りをさ~さげた日~♪」という歌。素敵な情景を思い出す歌ですが、私は穏やかな気持ちではありません。教会の草刈りや掃除をするときにいつも思うのはこうです。「蔦の絡まるチャペルは教会の素敵なイメージで良いけど、牧師や教会員は大変なんだよぉ」と。今回もそう思いながら、一緒に作業をする他教会の方とおしゃべり。「すごいですねぇ。ここまでフェンスに絡まって、しっかりとしがみ付いますねぇ」。しかし、「そういえば、昨日の聖書も、ブドウの木につながっていなさいというブドウの枝の話でしたねぇ」と、聖書に話が弾み、考えさせられました。一生懸命にしがみ付く努力そのものはキリストは求めておられないかもしれないけれど、このくらいガッシリと(フェンスにではなく)キリストにつながっていたいものだと思わされたのです。

  私の担当教会の愛知県二教会から牧師夫妻を入れて10名、そして浜名教会からは福祉会職員の方も参加しておられたし、他教会の多くの方々と交流もできました。私と一緒に参加した方々には、ブラジルで開拓伝道もし、ご高齢者の健康体操普及プロジェクトを30年前に始めて大きな組織に育て上げた聖公会の女性執事(終身補助司祭のような方)とベトナム、ブラジル、スリランカの外国メンバーも一緒でした。スリランカ・メンバーは今年教会に来始めてくれた新人さんですが、だいぶ日本語も上手になり、打ち解けて、一緒に頑張り、喜んでくれていました。帰りにはこひつじ診療所の通訳さんのブラジル野菜農園も訪ね、マンジョッカ(タロイモ)の話や各国での呼び方や食べ方の違いでも盛り上がりました。言葉や国籍を超えてみんなで笑い、天国を垣間見た気がしました。 早朝から夜の帰宅まで、体力は使いましたが、教会も言葉も、教派も超えたメンバーの出会いと再会で、うれしく楽しい日でした。キリストから託された大切な私たちの働きとこの輪を、一緒に広げてゆきたいと思います。

 5/25には、「グリーンズ・フェア」もあります!




2024年4月28日日曜日

説教メッセージ 20240428

久しぶりの方と再会しました。ブラジルという「異国」で共に働き、いろいろなことを共有した同労者、ブラジル聖公会の執事の姉妹です。バスに乗って遠い街に行き、教会で子どもたちにお話をし、教会員の方と交流し、弓場農場を一緒に訪ね、超教派の研修会をしたりもしました。懐かしいことをいろいろ話し、あっという間に時間が経ちました。大笑いしながら、反省させられたり、驚いたり、新しいアイデアも色々頂きました。そして、神様を中心にしてつながっているということの大切さも痛感しました。今日の聖書も、「つながっていなさい」というのがキリストの言葉です。一緒に私たちの生き方を、考えてみましょう。私は今日の礼拝は高蔵寺教会の担当です。YouTubeで浜名教会の方々にも中継を通して一緒に礼拝をします。お待ちしています!

聖書の言葉 ヨハネ 15: 1~ 8 (新198)

15:1「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。 2わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。 3わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。

 4わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。 5わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。 6わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。 7あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。 8あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。



説教「キリストにつながる フォロウとシエアとリンクの違い」」

徳弘浩隆牧師

1、インターネットの時代、つながるとは?

便利な世の中で、手のひらで調べ物をしたり、友人と連絡をとったりできるようになりました。近況報告は年賀状という時代もありましたが、今では、年に一度の力作に頼らなくても、日常から、近すぎず、遠すぎず、互いの近況を知ることができます。

教会でもそうです。1995年ころそれを感じました。パソコンも高価なMacを買わなくてもWindowsが使いやすくなり、パソコン通信からインターネットへ移行する時期でした。日曜日に会って挨拶する言葉は、「おはようございます。一週間お元気でしたか?」という言葉ではなくり、「おはようございます。先日は大変そうでしたねぇ。あれからどうなりましたか?」に変わったのです。主に若い世代で、教会で会う日曜日以外でもネット上で互いの状況を知ることができるようになった頃でした。そんな挨拶をしながら、自分でも驚いたのを覚えています。

しかしそれも今は昔の話。世代を超えてこれはもう、当たり前になってきました。私たちは以前にも増して、お互いに「つながっている」ということが普通で、簡単になってきました。

今日の聖書で、キリストは「私につながっていなさい」と言われます。人間同士、そして神様との関係では、どんな具合でしょうか?神様は、私たちにどんな生き方を願っておられるでしょうか?一緒に学んで神様の声を聴きましょう。

2,聖書 

聖書の中には、神様と人との関係をたとえているいろいろなモチーフがあると先週考えたばかりですが、先週の「羊」のたとえと同じように何度も出てくる「ブドウの木」のたとえの中の一つです。キリストの復活後に読まれるのですが、十字架にかかられるもっと前の話です。なぜ復活後にこの箇所が伝統的に読まれるかというと、ヨハネの福音書の中の13章から16章までの、いわゆる「決別説教」の中の話で、最後の晩餐の折に弟子たちに語られたお別れの大切な話の中にあるからです。もう一度、キリストの告別の大切な話を復活節に思い出して生きていこうという流れになるからです。

さて、ブドウは旧約聖書からたびたび、神と人との関係を伝える譬えに使われています。まことのブドウの木につながっていながら実を結ばない枝は、農夫である父なる神が取り除かれると、裁きを伝えます。旧約聖書のエゼキエル書15章にも、「役に立たぬブドウの木」と小見出しが付けられている箇所は辛辣です。「森の木々の中で何の役にも立たない。役に立つものを作る木材にもならず、器物をかける釘にもならない」と、神につながっていない人の命の無意味さを皮肉と嘆きを持って語るのです。

そんなブドウの木のたとえをさらに進めて、「私こそ、まことのブドウの木なのだ」とキリストは言われました。この方につながっているなら、そのみ言葉によってきよめられ、実を結ぶことになる、と。

3,振り返り 

私たちがここで注意して、努力するべき点はどこでしょうか。それは、「私たちは枝である」ということです。枝は自分の努力で水分や養分を土から吸収したり、太陽の光で栄養を作り出すことはできません。それは、根の役割であり、葉の役割です。枝はただきちんとつながっているということが大切です。枝や茎には導管と師管という動脈と静脈のような二種類の管があってそれらを循環させていると、中学のころ教わったのを思い出します。

私たちは、枝として、キリストという本当のぶどうの木につながっているだけで、自分の行いによらず、豊かな実を結ぶことができるのです。ブドウの木が、枝に養分や水分を注ぎ込んでくれます。私たちも、必死にしがみついてつながっていて、それら養分や水分を必死に吸い採る努力をすることが求められているのではありません。大切なのは、つながり、とどまっていることです。そうすれば、キリストの真理と愛と命が注ぎ込まれるのです。簡単と思うかもしれません。しかしそれが危ぶまれる状況でした。最後の晩餐の席で、キリストが文字通り、「命がけで」弟子たちに最後に伝えたかった言葉だったからです。このことが再現される聖餐式でも、このキリストの言葉を味わい、とどまり、キリストの体と血をいただきながら、つながり生かされ続けることを、確認していきたいと思います。

4,勧め 

さて、今日の謝意所は、「つながること」が以前にもまして簡単になった世の中のことを考えました。

今では普通になり、役所の提出物広報もSNSが使われています。いろんなニュースや出来事も共有されます。私たちも、活用し、楽しみ、便利に生きてもいるでしょう。友人知人に限らず、いつも面白いこと、ためになることを発信する人を見つけたら、「フォロウ」ボタンを押して逃さずに見ようとします。納得したら「いいね」ボタンを押して参道の意思表示もします。そして「これは自分の知り合いにも伝えなきゃ」と思ったら「シェア」ボタンを押したりもします。今はそんな生き方が普通になってきました。

では、私たちの神様との関係はどうでしょうか?「私に従え」と言われたキリストに従うのは、文字通り「フォロウ」でしょう。聖書を読んで説教を聞き、祈りを共にするときに「本当にそうだなぁ!」と思いいう言葉は「いいね」ではなくて教会では「アーメン、その通りです」となります。こんないいお話は、人にも伝えないともったいないと思って「シェア」するのは「伝道」や「宣教」ということになるでしょう。

でも大切なのは、スマホのボタンを押すだけのような生き方ではいけないということです。私たちの生き様やいのちがかかっている出来事は、 キリストにしっかりとつながってそのように生きることです。それは、ただ「フォロウ」や「いいね」や「シェア」を座りながら押すことではありません。私たちの生き方が問われています。キリストと本当につながり、そのように生きること、そのボタンを押せばキリストが見え、キリストにつながっていくこと、それは「リンク」のボタンではないかとも思います。

今日はブラジルという異国で一緒に生きて、宣教をした姉妹が礼拝に出てくれています。キリストのもとで私たちも同労者、家族のようにつながっていました。数年ぶりに日本で再会し、遠慮なくいろんなことを話しあい、昨夜も時間があっという間に過ぎました。失敗や、恵みや、笑い話を互いにしながら、しかし、すべてを計画し導いておられる神様を一緒に見上げることができました。

そんな同労者、キリストにある家族のような群れを、私たちも作り上げ、広げてゆくこと、キリストに動かされて自分も変えられていくこと、それが豊かに実を結んでいくことなのだと、実感させられました。一緒に生きていきましょう。神様と。

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牧師コラム・ 今日の写真 こんなところに! 


 教会の階段、急いで駆け上がろうとしたらなんと、花が咲いています。こんなところに!

むかし、アスファルトで舗装された道にたくましく育った大根が有名になりました。「ど根性大根」と。調べると2005年、兵庫県の相生市でした。相生市のマスコットのゆるキャラとしても、「ど根性大根 大ちゃん」として健在だそうです。

この教会の階段に自生した花は、ど根性というより、りりしく、きれいに花を咲かせ、教会に来る人を歓迎している優しさやHospitalityを感じます。私たち一人一人も、教会に来る人を笑顔で迎え、ほっとさせてあげられる、そんな一人一人になりたいですね。それぞれの教会でも、せっせと、草刈りや雑草抜き、お花の世話をしてくださる方々に感謝しています。そんなお一人お一人も、こんな花のような存在です。ありがとうございます。


説教メッセージ 20240512

 聖書の言葉  ルカ 24:44~53 と 使徒言行録 1: 1~11 (新213) 1:1-2テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。...