聖書の言葉 ルカ13: 1~ 9 (新134)
13: 1ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。 2イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。 3決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。 4また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。 5決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
6そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。 7そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』 8園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。 9そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
説教「50歩 100歩」徳弘浩隆牧師
1、 ドライアイとドライソケット…
実は私はこの二週間ほど、歯科医に通っています。右下の奥歯の痛みがありましたが、その原因はその隣の「親知らず」が斜めに生えていて、歯磨きをしても磨ききれずにいるということでした。やむなくその歯は治療をして、神経を抜いて痛みを治めましたが、この親知らずも抜いたほうがいいですよ、とのことでした。そこで、2月の出張から帰ったら抜こうと予約をしていて、抜いてもらいましたが、そのあとが予想外に痛みが続いて苦労しました。原因は、親知らずを抜いた後の場所から出血して、それが固まり蓋となり、そのあとに肉がついてくるとの説明だったのですが、それが進まず、歯の下の神経や血管が通っている骨が露出していて、乾いているからだと、説明がありました。これを、「ドライソケット」というそうです。医師によると、時々、そうなる人がいて、気の毒としか言いようがないといわれ、二週間ほど痛みをこらえながら、やわらかいモノだけを食べて、病院通いが続きました。
行くたびに、「長引きますねぇ、血が出てこないですねぇ」といわれます。
そういえば、眼科にも通っていますが、緑内障とドライアイで、目薬をささねばなりません。
ドライアイは涙が出ないからで、今回のドライソケットは血が出なくて歯茎が乾いたソケットのようだという説明です。「どうしてこんなに、苦労や災難が続くんだろう」と、私は痛みをこらえながら、考えていました。しかし、「これは何かのバチが当たったのか」と思うよりも、原因がはっきり理解できて、すっきりしました。「なんと自分は、血も涙もないのか」とがっかりして冗談を言いますと、「涙も血も枯れるくらい苦労してきたんでしょ」といってくれる人がいて、これも救われる気もしました。
私たちは何か悪いことやひどいことが起こると、「あの人は何かのバチが当たっているんだ」とか、「何かの償いをさせられているのよ」と考えることがあります。そしてその時、「自分はまだいい方だ」と、自分と災難にあった人を比較して思うこともあります。今日の聖書には、そんな会話が出てきます。イエス様はそれに対して、どんな説明をされたのでしょうか?聖書から一緒に聞いていきましょう。
2,聖書
この会話の二つの出来事は、具体的なことはわからないとされていますが、最初はこうです。
過ぎ越しの祭りの犠牲をささげる時と同じ時期に、何らかの理由でガリラヤ人がピラトの命令で殺されたのだろうと考えられているその出来事があったようです。それをイエス様に伝えました。
そして次は、それを聞いてイエス様がほかの悲劇の出来事を持ち出されます。エルサレムの神殿の地下の水道の出口にある池を守るのがシロアムの塔と考えられますが、それが倒れて18人の犠牲者が出たという、当時皆が話題にしていた惨事を引き合いに出して語られます。
そのうえで、その時のイエス様の結論はこうでした。皆が良く考えがちな直接的な因果関係うんぬんというよりも、これら二つの出来事に対して、「誰が誰よりも罪深いからこうなったんだというのではなくて、あなた方も悔い改めなければ、皆同じように滅びるのだよ」ということでした。
3,振り返り
最初に考えたように、私たちは苦労したり苦しみに会うと原因を知りたいものです。わかりやすいことなら解決策がありますが、どうにもならないこと、あまりにも理不尽なこと、または思いがけない病気や痛み、そんなものに出会うと、もっと苦しみます。たいてい、原因がわからないからです。
その時、原因探しをしても答えが見つからないと、比較が始まります。「あれよりいいだろう。あの人よりまだましだから」と何か安心したいのだろうと思います。
しかし、イエス様の今日の言葉は、私たちに厳しく迫ります。神様から見て、あの人の方が罪深いとか、自分の方がまだ罪深くないとか、そんなことは関係ないようです。「悔い改めなければ、みな滅びる」というのです。
そこで今日の説教題の「50歩 100歩」という言葉を思い出すのです。これは中国の故事で、自分の身が危なくなった時に100歩逃げた人を50歩逃げた人が笑ったということからきているそうです。「50歩逃げた人は100歩逃げた人を笑えないよ、あなたも逃げたのには変わりないじゃないか」というわけです。
私たちの、神を愛せない、人を愛せないという人間の心の根底にある、自己中心の罪の心は、いろいろな失敗をし、人を傷つけることがあります。そしてそれはもう、程度は問えない、誰もが同じ「罪びと」なのだという事です。
ではどうしたらいいのでしょうか?それは、「悔い改め」です。「悔い改めなければ、どんな人でも同じ、滅びるのだ」というのがイエス様の言葉ですが、逆に言うと、「悔い改めるならば、滅びなくて済む。救われるのだよ」ということになるからです。
この悔い改めのために勇気を出して踏み出す第1歩は、先ほどの50歩とも100歩とも違う、大きな意味を持っています。この「1歩」は誰にでも平等に与えられているやり直しのチャンスです。この「1」は「100」よりも「50」よりも大きいのです。
4, 勧め
でも、自分にそんな新しい生き方ができるだろうかと、私たちは不安になります。もう手遅れかもしれない。今まで何度もやり直そうとしてきたけど駄目だった、と思うこともあるかもしれません。
それは、一人ではできないものです。誰もがそこで立ち止まり、やめ、引き返し、同じ穴の狢に戻るのが、人間の罪の歴史です。いさかいや、争いは、戦争にいつも発展するのです。
これを変える唯一の方法は、「切り倒すのを思いとどまって、もう少し待ってあげてください。私が、手入れをしますから」と言ってくれた園丁がいましたが、これが、父なる神様に「とりなし」をしてくれるイエス様の姿です。そして、この方は、期間延長をお願いするだけではなく、とりなしをして手入れをしてくれるだけではなくて、滅びるべき罪びとの代わりに、十字架で死んでくれた方だということを、私たちは知っています。
だから、十字架を見上げるのです。自分の不完全さ、罪深さを思い出し、お詫びをし、新しい生き方に目覚めていく、そんな期間が、紫色の四旬節となっています。
教会に来るこどもたちにも説明をしました。紫色は、「かみさま、ごめんなさい。ゆるしてくれてありがとう」の色です。神様に対して、人間同士でも、これを言えれば、そして、自己中心の罪の心から解放されて互いを認め赦し愛することができれば、多くのいさかいは解決します。
私たちの心の中を静かに見つめましょう。そして、自分たちから変わっていきましょう。平和活動や反戦運動も大切ですけれど、まず、自分が悔い改め、変えられていくこと、そこから「神の国」は始まると、イエス様は活動の最初、開口一番言われていました。
100歩も逃げてしまったと自分をさげすむより、50歩で自分の方がまだいいと他者をさげすむより、変革の第1歩をキリスト共に歩み出しましょう。教会の仲間と一緒に、ともに歩んでいきましょう。
牧師コラム 四旬節は紫。じゃほかの色は?
教会の聖壇や牧師が着る祭服のストールの色は、「典礼色」と言って、基本的には4色です。
こどもの礼拝で、私は聖卓に牧師の使う4色のストールを並べてお話をしました。
「紫色は悔い改めの色」、「神様、ごめんなさい、そして赦してくれてありがとう」の意味。それに続くイースターは神様の栄光の「白」、それから聖霊が降ってくるペンテコステは「赤」、そのあとはぐんぐん伸びる草木のように成長の「緑」と、一年の中で変わっていく典礼色の説明をできるだけわかりやすくしました。
私たち大人も、これらどれが欠けても駄目で、悔い改め、神様の栄光、炎のような聖霊を受けて、成長していける信仰生活を送っていきたいものだと、教えられます。
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