2025年3月29日土曜日

説教メッセージ 20250330

聖書の言葉 ルカ15: 1~ 3,11b~32 (新138)

15: 1徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 3そこで、イエスは次のたとえを話された。

11b 「ある人に息子が二人いた。 12弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。 13何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。 14何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。 15それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。 16彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。 17そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。 18ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 19もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』 20そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。 21息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』 22しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。 23それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。 24この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。

25ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。 26そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。 27僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』 28兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。 29しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。 30ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』 31すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。 32だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」



説教「探し物₋Lost and Found」徳弘浩隆牧師

1、 通りすがりの良いひと…

先週は私の母の具合が悪くなり、福岡に行ってきました。幸い、入院先でだいぶん持ち直したようにあるので、手続きと見舞いだけで名古屋に帰ってきました。

途中こんなことがありました。電車に乗っていると、隣に座っていたおじさんが眠ってしまって小銭を落としてしまいました。居合わせた人数人が転がりもした小銭を拾ってあげて、渡しました。しばらくするともう一度。遠くに転がった小銭を若者が拾ってきて、渡そうとしますがまだ眠ってる様子で困惑していました。そこで私が「おじさん、また落としましたよ、はい」と言って肩を軽くたたいて渡すのを手伝いました。

二つ目はこんなことです。カーシェアの車を借りて、病院や施設を行き来しているとき、小さなお子さんを連れた若いママさんが、その子を抱っこして歩きだしたのですが、お子さんの帽子が落ちてしまいました。私は車の窓を開けて、手を振って大声で教えてあげました。「おかぁさん!落ちたよ。帽子が!」と。すると、「あー、すみませんー」と言いながら帽子を拾ってお子さんにかぶせてあげて、会釈をしながら歩いていきました。

「失ったものを見つけ出す」という今日の聖書の個所を読んでいた私は、「神様は、ちょうどこんな体験をさせてくれたんだな」と祈りました。通りすがりに、小さな人助けもできて、すがすがしい気持ちにもなりました。

しかし3つ目の出来事も待っていました。それは、帰りの飛行機で座席前のポケットにちょっと入れておいた老眼鏡を忘れて降りてしまいました。降りた後にスマホを見る時に気づきましたが、「時すでに遅し」でした。「あー、通りすがりの良い人は良かったけど、自分が落し物・忘れ物をしてしまった」ともう取り返せない忘れものにがっかりもしました。

今日の聖書の中の「無くしたものを見出す」というたとえ話で、イエス様は私たちに何を語っておられるでしょうか?聖書から一緒に聞いていきましょう。

2,聖書 

「放蕩息子」と小見出しも付くところで、聖書の有名なたとえ話の一つです。あらすじはお分かりの通りです。

ある人に2人の息子がいた

財産を分けてもらった弟は遠い国に出かけ、放蕩のあげくに惨めな豚飼いにまで落ちぶれた

しかし、改心して父のもとに帰り許しを乞うた

父は彼を迎え入れ祝宴を開く

忠実に父の言う仕事をしていた兄は怒った。

しかし父は、その兄を諫める

という具合ですね。この放蕩息子が父にもう一度受け入れられるのは、彼の気づきと改心の言葉が大切でした。「わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました」という告白です。そして父のもとに行くという行動も伴っていました。遠方からお金を無心するのではなくて、今までの意地やプライドも捨てて、父のもとに帰ったのです。

このたとえ話では、父は神様を、兄は神のそばにいてその言いつけを守っていたファリサイ派や律法学者、そして放蕩をした弟は神から遠く離れ罪深い生き方をしていた人々のことです。実際、「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄ってきた」というところから、今日の出来事が始まっているからです。

3,振り返り 

私たちの生き方はどうでしょうか?誰も、それほど大きく神様を裏切ってはいないと思うかもしれません。それほど放蕩の限りを尽くしているとは思わないかもしれません。しかし、信頼すべき父なる神から遠く離れて、自分を頼りにして生きてきたかことはあるでしょう。または、自分の考えが一番だと自信を持つあまりに、他者を押しのけてしまうような生き方をしたこともあるでしょう。それが、大きくなっていけば、いさかいや戦争にもなるのです。

この四旬節の期間、自分を見つめて、罪びとであるという自覚をもつことが大切です。そのために、神は苦しいことを通過させられることもあるかもしれません。その時、私たちは、自分の無力さを思い知らされます。うまくやれていると思っていても、ひどい仕打ちを受けた時に、相手の、そして自分にもある「罪深さ」を思い知らされるのです。先週学んだ、50歩100歩という状況です。

その時、次の1歩は、今日の放蕩息子のように次ことがらです。1)罪への気づきと、改心の覚悟、2)そして、神のもとに帰る、具体的な行動、です。

4, 勧め 

最初の話に戻ると、落し物を見つけて返してあげた、教えてあげたことを話しました。しかし、自分は落とし物をしたまま。そんな通りがかりの良い人を気取っていた自分は、父親のそばにいるけれども、本当の改心や新し生き方をしていない自分なのかもしれません。

空港や駅にある「遺失物窓口」は英語では「Lost And Found」といわれますが、聖書の今日の場所からとられているそうです。「彼は失われていたが見いだされた」という言葉からです。

またこの言葉は、無条件の神の愛によって救われる罪深い人間の救いを表すメタファーとなり、奴隷貿易の商人から転じて牧師となったジョン・ニュートン作詞の賛美歌アメイジング・グレイスにも使われています。I once was lost, but now I am foundというところです。こんな罪深い生活をして、見失われていた自分が神によって探し出された、そんな自分には不釣り合いな「驚くべき恵み」を感謝して歌う歌が、Amazing Graceです。 私たちもまず、失われていた本当の自分を見つめ、神のもとに帰って、他者をも見出してあげるお手伝いをいたしましょう。


牧師コラム Lost and FoundといえばAmazing Graceの讃美歌

Amazing grace! How sweet the sound!

That saved a wretch like me!

I once was lost, but now I am found;

Was blind, but now I see.

'Twas grace that taught my heart to fear,

And grace my fears relieved;

How precious did that grace appear!

The hour I first believed.

Through many dangers, toils, and snares,

I have already come;

'Tis grace hath brought me safe thus far,

And grace will lead me home.

Amazing grace! how sweet the sound

That saved a wretch like me

I once was lost, but now I am found

Was blind, but now I see. 

 

右下のQRコードから聞いてみませんか? 



2025年3月24日月曜日

説教メッセージ 20250323

 聖書の言葉 ルカ13: 1~ 9 (新134)

13: 1ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。 2イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。 3決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。 4また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。 5決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」

6そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。 7そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』 8園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。 9そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」



説教「50歩 100歩」徳弘浩隆牧師 

1、 ドライアイとドライソケット…

実は私はこの二週間ほど、歯科医に通っています。右下の奥歯の痛みがありましたが、その原因はその隣の「親知らず」が斜めに生えていて、歯磨きをしても磨ききれずにいるということでした。やむなくその歯は治療をして、神経を抜いて痛みを治めましたが、この親知らずも抜いたほうがいいですよ、とのことでした。そこで、2月の出張から帰ったら抜こうと予約をしていて、抜いてもらいましたが、そのあとが予想外に痛みが続いて苦労しました。原因は、親知らずを抜いた後の場所から出血して、それが固まり蓋となり、そのあとに肉がついてくるとの説明だったのですが、それが進まず、歯の下の神経や血管が通っている骨が露出していて、乾いているからだと、説明がありました。これを、「ドライソケット」というそうです。医師によると、時々、そうなる人がいて、気の毒としか言いようがないといわれ、二週間ほど痛みをこらえながら、やわらかいモノだけを食べて、病院通いが続きました。

行くたびに、「長引きますねぇ、血が出てこないですねぇ」といわれます。

そういえば、眼科にも通っていますが、緑内障とドライアイで、目薬をささねばなりません。

ドライアイは涙が出ないからで、今回のドライソケットは血が出なくて歯茎が乾いたソケットのようだという説明です。「どうしてこんなに、苦労や災難が続くんだろう」と、私は痛みをこらえながら、考えていました。しかし、「これは何かのバチが当たったのか」と思うよりも、原因がはっきり理解できて、すっきりしました。「なんと自分は、血も涙もないのか」とがっかりして冗談を言いますと、「涙も血も枯れるくらい苦労してきたんでしょ」といってくれる人がいて、これも救われる気もしました。

私たちは何か悪いことやひどいことが起こると、「あの人は何かのバチが当たっているんだ」とか、「何かの償いをさせられているのよ」と考えることがあります。そしてその時、「自分はまだいい方だ」と、自分と災難にあった人を比較して思うこともあります。今日の聖書には、そんな会話が出てきます。イエス様はそれに対して、どんな説明をされたのでしょうか?聖書から一緒に聞いていきましょう。

2,聖書 

この会話の二つの出来事は、具体的なことはわからないとされていますが、最初はこうです。

過ぎ越しの祭りの犠牲をささげる時と同じ時期に、何らかの理由でガリラヤ人がピラトの命令で殺されたのだろうと考えられているその出来事があったようです。それをイエス様に伝えました。

そして次は、それを聞いてイエス様がほかの悲劇の出来事を持ち出されます。エルサレムの神殿の地下の水道の出口にある池を守るのがシロアムの塔と考えられますが、それが倒れて18人の犠牲者が出たという、当時皆が話題にしていた惨事を引き合いに出して語られます。

そのうえで、その時のイエス様の結論はこうでした。皆が良く考えがちな直接的な因果関係うんぬんというよりも、これら二つの出来事に対して、「誰が誰よりも罪深いからこうなったんだというのではなくて、あなた方も悔い改めなければ、皆同じように滅びるのだよ」ということでした。

3,振り返り 

最初に考えたように、私たちは苦労したり苦しみに会うと原因を知りたいものです。わかりやすいことなら解決策がありますが、どうにもならないこと、あまりにも理不尽なこと、または思いがけない病気や痛み、そんなものに出会うと、もっと苦しみます。たいてい、原因がわからないからです。

その時、原因探しをしても答えが見つからないと、比較が始まります。「あれよりいいだろう。あの人よりまだましだから」と何か安心したいのだろうと思います。

しかし、イエス様の今日の言葉は、私たちに厳しく迫ります。神様から見て、あの人の方が罪深いとか、自分の方がまだ罪深くないとか、そんなことは関係ないようです。「悔い改めなければ、みな滅びる」というのです。

そこで今日の説教題の「50歩 100歩」という言葉を思い出すのです。これは中国の故事で、自分の身が危なくなった時に100歩逃げた人を50歩逃げた人が笑ったということからきているそうです。「50歩逃げた人は100歩逃げた人を笑えないよ、あなたも逃げたのには変わりないじゃないか」というわけです。

私たちの、神を愛せない、人を愛せないという人間の心の根底にある、自己中心の罪の心は、いろいろな失敗をし、人を傷つけることがあります。そしてそれはもう、程度は問えない、誰もが同じ「罪びと」なのだという事です。

ではどうしたらいいのでしょうか?それは、「悔い改め」です。「悔い改めなければ、どんな人でも同じ、滅びるのだ」というのがイエス様の言葉ですが、逆に言うと、「悔い改めるならば、滅びなくて済む。救われるのだよ」ということになるからです。

この悔い改めのために勇気を出して踏み出す第1歩は、先ほどの50歩とも100歩とも違う、大きな意味を持っています。この「1歩」は誰にでも平等に与えられているやり直しのチャンスです。この「1」は「100」よりも「50」よりも大きいのです。

4, 勧め 

でも、自分にそんな新しい生き方ができるだろうかと、私たちは不安になります。もう手遅れかもしれない。今まで何度もやり直そうとしてきたけど駄目だった、と思うこともあるかもしれません。

それは、一人ではできないものです。誰もがそこで立ち止まり、やめ、引き返し、同じ穴の狢に戻るのが、人間の罪の歴史です。いさかいや、争いは、戦争にいつも発展するのです。

これを変える唯一の方法は、「切り倒すのを思いとどまって、もう少し待ってあげてください。私が、手入れをしますから」と言ってくれた園丁がいましたが、これが、父なる神様に「とりなし」をしてくれるイエス様の姿です。そして、この方は、期間延長をお願いするだけではなく、とりなしをして手入れをしてくれるだけではなくて、滅びるべき罪びとの代わりに、十字架で死んでくれた方だということを、私たちは知っています。

だから、十字架を見上げるのです。自分の不完全さ、罪深さを思い出し、お詫びをし、新しい生き方に目覚めていく、そんな期間が、紫色の四旬節となっています。

教会に来るこどもたちにも説明をしました。紫色は、「かみさま、ごめんなさい。ゆるしてくれてありがとう」の色です。神様に対して、人間同士でも、これを言えれば、そして、自己中心の罪の心から解放されて互いを認め赦し愛することができれば、多くのいさかいは解決します。

私たちの心の中を静かに見つめましょう。そして、自分たちから変わっていきましょう。平和活動や反戦運動も大切ですけれど、まず、自分が悔い改め、変えられていくこと、そこから「神の国」は始まると、イエス様は活動の最初、開口一番言われていました。

100歩も逃げてしまったと自分をさげすむより、50歩で自分の方がまだいいと他者をさげすむより、変革の第1歩をキリスト共に歩み出しましょう。教会の仲間と一緒に、ともに歩んでいきましょう。


牧師コラム 四旬節は紫。じゃほかの色は?

 教会の聖壇や牧師が着る祭服のストールの色は、「典礼色」と言って、基本的には4色です。

こどもの礼拝で、私は聖卓に牧師の使う4色のストールを並べてお話をしました。

「紫色は悔い改めの色」、「神様、ごめんなさい、そして赦してくれてありがとう」の意味。それに続くイースターは神様の栄光の「白」、それから聖霊が降ってくるペンテコステは「赤」、そのあとはぐんぐん伸びる草木のように成長の「緑」と、一年の中で変わっていく典礼色の説明をできるだけわかりやすくしました。

私たち大人も、これらどれが欠けても駄目で、悔い改め、神様の栄光、炎のような聖霊を受けて、成長していける信仰生活を送っていきたいものだと、教えられます。


2025年3月16日日曜日

説教メッセージ 20250316

 聖書 ルカ13:31~35 (新136)

13: 31ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」 32イエスは言われた。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。 33だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。 34エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。 35見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」


説教「自分の道を進むキリスト」 徳弘浩隆牧師

1. 導入

(ア) 今日は四旬節第2主日 

キリストの十字架を思い、悔い改めをする季節が始まりました。

昨日の教会学校子どもの礼拝では、この紫色の意味を考えました。

これは、「かみさま、ごめんなさい。そしてありがとう」という意味と。

そしてイースターの白、ペンテコステの赤、そして成長していく緑に代わっていきます。

(イ) 今日の聖書は、十字架へ向かっていくキリストの覚悟とその姿。

私の心に浮かんだ二つの言葉はこれらでした

1. 君子危うきに近づかず

2. Going My Way.わが道を行く

これらと、イエスキリストの生き方は、何が同じで、何が違うのか

それは、今日生きている私に何を呼びかけているのか

それを聖書から聞いていきましょう。



2. 聖書

(ア) 先週から四旬節に入り、先週はキリストが悪魔の誘惑を受けてそれらを退けられた話でした

(イ) 今日は、13章までとんで、十字架に向かう覚悟を口にされるところです。

(ウ) ファリサイ派の人たちがイエスのところに来ました。

(エ) ファリサイ派は、聖書のおきて・律法を詳しく学びその通りに生きる厳格な人たちで、そうでない一般の人々を馬鹿にしてさえいるグループでした。

(オ) イエス様に、ここを立ち去ってください、と言います。ヘロデが殺そうとしているからです、とのことです。

(カ) 本当に身の危険を案じているのか、ほかの意図があったのかは意見の分かれるところですが、洗礼者ヨハネを殺すことになったヘロデは、次の人気があるユダヤ教指導者のイエス様を疎んじていたのは確かでしょう。

それを聞いて、イエス様は、私はそんなことに怖気づかないでこれからも同じように奇跡や癒しをする。そして三日目にすべてを終える、と伝えなさい、と不思議なことを言います。

そして、危険があっても、私は、今日も明日も自分の道を進む。預言者はエルサレムで死ぬとも。

エルサレムのみんなを何度も集めようとしたのに、応じなかったから捨てられる、とも言われました。

(キ) これらは、明らかに、のちに来るイエス様の苦難と十字架の死、そして三日目の復活を予言した言葉だと考えていいでしょう。

(ク) 四旬節第二主日の今日は、そんな、イエス様の覚悟を聞くことになりました。



3. 振り返り

(ア) 私たちはどうでしょうか?

(イ) 君子危うきに近寄らずだから、危険なところからは逃げているでしょうか?危険でも、いやでも、何かに立ち向かっているでしょうか?

(ウ) 危険なことには近づかない知恵も勇気も必要でしょう。

(エ) しかし、一番大切な、自分自身を見つめることから逃げてはいけません。

(オ) 見てみないふりをしたいもの。それは、自分自身の不完全さです。醜さです。心の狭さです。

(カ) ファリサイ派は、聖書の教えに忠実であると努力しているがゆえに、他者を批判し、さげすんでいました。それは、実は聖書の教えとは反対の、愛のない姿でした。

(キ) そんな聖書の教えを振りかざして他者を追い込んで批判することから、イエス様は人々を守りました。そちらの側に立たれました。

(ク) 私はどこに立っているでしょうか?そのことを振り返らねばなりません。

(ケ) この四旬節の40日間、一番近寄りたくない、罪深い自分自身に近づいて、良く見つめ、そんな自分とよく対話をしていきましょう。

(コ) 自分の自己中心や、傲慢さや、愛のなさ、信仰のなさを謙虚に見つめたなら、この紫色を見ながら「神様ごめんなさい」と謙虚に詫びることが大切です。

(サ) その時に、神の本当の許しと新しい命が始まります。


4. 勧め

(ア) そして、わたしは自分の道を進まなければならないと、わが道を行く宣言をされます。ここで、Going My Wayという言葉を思い出します。

(イ) しかし気をつけねばならないのは、私たちが普段考える、「自分の信念に従って、自分だけのことを考えて、人の批判も気にせず、わが道を行く」という姿ではないことです。

(ウ) イエス様のGoing My Wayは、「神の正しさと愛のために、それを信念として、自分を犠牲にしてでも、わが道を行く」のです。そして、その「わが道」は、「神の道」ですし、イエス様こそが、「道であり真理でありいのちである」とご自身で言われるように、神に至る唯一の道なのでした。

(エ) 自分勝手なGoing My Wayではなくて、神の道を行くイエス様のGoing My Wayについていきましょう。


2025年2月6日木曜日

礼拝メッセージ 20250202

 

聖書の言葉 

ルカ4:21~30 (新108)

4:21そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。 22皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」 23イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」 24そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。 25確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、 26エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。 27また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」 28これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、 29総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。 30しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

ナザレで拒絶されたイエス


使徒言行録6章1節-7節

ステファノたち七人の選出

1そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。 2そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。 3それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。 4わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」 5一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、 6使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。

7こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。


説教「驚きと、疑い」徳弘浩隆牧師

1、 表裏一体

今日の聖書の言葉は大変興味深い言葉があります。ルカの4章22節-23節です。素晴らしいイエス様の教えの言葉ではなくて、人々の反応を伝えた言葉です。それはこうでした。「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか。』」というものです。

人々はイエス様の姿、教えに驚きました。その次が大切なところです。「だから、彼らはすべてを捨てて従った。みんな一つになって教会はますます成長していった」と続かないのです。もちろん、この段階では「教会」というのはありませんが、今の私たちの姿にも当てはめながら読み、考えると、そんな流れではなかった、ということが印象的です。

実際、「人々はイエス様の姿、教えに驚きました。」の続きはどうだったのでしょうか?その続きはこんな具合でした。「なんだ、この人はヨセフの子ではないか!どうしてこんなことが起こるんだ。話は立派で素晴らしいけれど、この人についていく気はしないねぇ。だって、昔から知っているヨセフの子だもん」という具合でした。その続きは、「すべてを捨ててこの人に従い、そのグループはますます成長し広がっていきました」という、即ハッピーエンドではなかったのです。

「問題発生→格闘や疑い→素晴らしい解決策→解決」という公式ではなくて、「問題発生→格闘や疑い→拒否→問題継続」ということでした。

毎回ハッピーエンドで解決する続き物の刑事ドラマとかヒーローものに慣れてきた私たちは、戸惑います。そういえば、私たちの人生も、いつもハッピーエンドの物語の続き物でもありません。ハッピーなこともいくつもありますが、なかなか解決しない事、厄介なこと、同じ考えの仲間でもなかなか理解しあえない事、むつかしいことも抱えながら生きています。

今日の聖書から、私たちは何を学び、聞き取ることが必要でしょうか?見ていきましょう。

2,聖書 

実は先週の聖書日課と、今日の聖書日課は一部分が重なっています。それは4章21節。「そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』」です。

先週学んだように、イザヤの預言が実現し、いよいよ、救い主、メシア、キリストが世に送られるという、神の言葉が実現したのです。神様は、約束を果たされました。しかし、そのあとが大切です。それは、それを見た、聞いた、私たちの、反応や生き方が問題なのです。

今日の彼らは、「すべてを捨てて従い、人々は一つになって助け合い、その群れは大きくなっていた」ではないからです。人々は、キリスト到来を予感し喜びましたが、彼らの目はイエスという人に過ぎなかったのです。それは、神の言葉を聞いて喜び感心しながらも、人間の目で自分や人や現実問題を見続ける自分と同じかもしれません。その時、そこには、キリストの救いと解決の技は起こりません。

先週も学んだように、神の呼びかけを聞き、悔い改めで神に立ち戻り、自分の生き方を変えていくことが大切なのでした。今日の聖書は、イエス様の故郷では神の言葉や働きが受け入れられず、拒否迫害され、そこでは実が実りませんでした。そして早速他の地方、そして異邦人に広がっていくことになっていきました。

3,振り返り 

さてこの言葉は、今日聖書を読んでいる私たちには、どんな意味を持って呼びかけているでしょうか?

特に今日は高蔵寺教会では今日会総会です。浜名教会は先々週、復活教会では先週でした。

神の言葉を聞き驚きをもって感心している私たちですが、その続きのストーリーはどうなっているでしょうか?それを確認し、感謝し、また悔い改めもして、軌道修正する、新しい計画を立てる、それが、教会の総会の役割でもあります。

今年の教会としての主題成句と主題は、使徒言行録6章から選ばれ提案され、二教会では承認されました。少しそこに、今日の答えのもう一つを探していきましょう。

初代教会は迫害にもめげず、人々はキリストに従い、共同生活さえしていました。そこでは素晴らしい共同体ができて、ますます神の言葉が広がっていきましたが、問題がくすぶり、表面化しました。そんな場所がこの使徒言行録6章です。

多くのユダヤ人が待っていたメシアとしてイエス様を受け入れ、従いました。しかし、ユダヤ人は各地に散らされていたので、この共同体には、ヘブライ語を話すユダヤ人だけでなくて、ギリシャ語を話すユダヤ人たちもいました。彼らは、それぞれ、待ち望んでいた人、ヘブライ語ではメシア、ギリシャ語ではキリストに出会い、喜んで文字通りすべてを捨てて従い、共同生活をしていたのです。

しかしそこで起こった問題は、いかにも現実的な生活の出来事でした。彼らは話す言葉が違い、多少生活様式や文化も違っていたでしょう。小さないざこざや、衝突もあったのです。そして、共同生活の中での食料などの配給が違うと、もめ始めてしまいます。そこで、使徒たちはそれら現実的な事柄に調整や事務仕事に時間を割くのはよくないとして、それにあたる人を選びました。「例と知恵に満ちた評判の良い人」を7人選んだのです。彼らに手を置いて祈り、この共同体は新しい在り方で物事にあたっていくことになりました。使徒たちは、神の言葉の働きに集中していきました。すると、問題は解決し、この時点でのハッピーエンドに近づいていきました。「そうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。」のです。

4,勧め 

今日の福音書の出来事、そして数年後の使徒言行録の出来事は、今の私たちの教会の出来事でもあります。

素晴らしい神の言葉に驚きましたが従っていけなかった「人間の目」だけを持っていた故郷の人々。しかし、イエス様の働きと十字架と復活の後、不思議な形で本当に神の言葉が実現し、キリストは人々に受け入れられました。迫害の中でもすべてを捨てて従ったのです。しかしそこでも起きた問題。それを解決するために、使徒と執事、今でいえば、牧師と信徒役員の働きが整えられていく、つまり、教会が教会として整えられ、成長させられていく様を見ることになりました。

私たちの教会も、いろんな文化や考えの違いもある人間の集まりです。使徒言行録のように、言葉さえ違う外国人の方も一緒に教会に集まり、教会形成をする時代に日本もなっています。そこで、自分の意見や過去からの考えだけに固執し、他の考えを理解せず、対立分裂してはなりません。神の言葉にもう一度立ち返り、相互理解と、神様が示す解決と成長のための新しい道を、仕組みを、見つけ出し実行に移していくことが大切なのです。

今までの古い革袋にではなく、私たち自身が新しい革袋にされ、神の言葉に従い、人々に神の言葉を伝え、奉仕、伝道していく教会であり続けましょう。

それこそが、今の社会に、この地に必要な神様の働きなのです。一緒に歩いていきましょう。


2025年1月25日土曜日

説教メッセージ 20250126

少し早いですが、明日の礼拝のメッセージ投稿します。

明日は名古屋にあるルーテル復活教会で礼拝担当ですが、FacebookとYouTubeチャンネルででも中継します。お待ちしています。

https://youtube.com/@pastorhirotakagabrieltokuh983?feature=shared 

-++-----------------

聖書の言葉 

ルカ4:14~21 (新107) 

4:14イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。 15イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。

16イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。 17預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。

18「主の霊がわたしの上におられる。

貧しい人に福音を告げ知らせるために、

主がわたしに油を注がれたからである。

主がわたしを遣わされたのは、

捕らわれている人に解放を、

目の見えない人に視力の回復を告げ、

圧迫されている人を自由にし、

19主の恵みの年を告げるためである。」

20イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。 21そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。


説教「神の言葉の実現」徳弘浩隆牧師

1、 開けばイザヤ書

実は、先週の聖餐式の時にこんなことがありました。いつも、聖卓の聖書を一度丁寧に脇において、聖餐式をして、そのあと開いてもう一度真ん中に戻すという所作をしているのですが、その日はイザヤ書が開きました。よく詩篇くらいが開くのですが、その日はイザヤ書だったので、今日の聖書の個所を思い出しながら、実は一人でニヤリとしてしまいました。

今日の聖書では、イエス様が安息日に会堂に行って、聖書朗読をしようとされると、渡された巻物がイザヤ書だったという話を読んでいたからです。

こんな具合だったのかな?と思って、礼拝を続けたのですが、当時との違いはこうです。

安息日、つまり土曜日の会堂は、私たちは今日曜日に教会で礼拝をしているという事が一つ。そして、今は旧約と新約がそろって聖書ですが、当時は旧約だけが聖書。そして、印刷した分厚い書物ではなくて、巻物だったという事ですね。

東京でも、サンパウロでも、ユダヤ教のシナゴーグに見学に行った時に見せてもらったことがあります。

今日の聖書の話では、何が起こったのでしょうか?

私たちの生き方への呼びかけを聞いていきましょう。

2,聖書 

クリスマス以降学んできた聖書を、少し振り返るとこんな具合です。洗礼を受けられてキリストとしての「公生涯」が始まった。最初の「しるし」はカナの婚礼の出来事で、律法のきよめの石の水がめにイエス様の言われるとおりに水を入れるとワインに変わったということで、律法から福音そして十字架の血をも指し示す出来事でした。

全体の流れからすると、それに続いての出来事が今日の話になります。イエス様は悪魔の誘惑を退け、「”霊”の力に満ちて」ガリラヤに帰ります。次第に、イエス様の評判が周りの地方一帯に広がりました。諸会堂で教え皆から尊敬を受けるようになったようです。

その後、育った故郷のナザレにきました。安息日に、同じように会堂に入ります。聖書を朗読しようとお立ちになり、渡された巻物を開くと、それはイザヤ書で、開いたところにはイザヤによるキリストの預言が書かれてあったのです。それを聞き、人々はイエス様に注目していました。今評判のこの人が、そのイザヤの預言の通りの人なのかと思ったのでしょう。そこで、イエス様は言われます。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」と。人々のキリスト待望の期待と願いを、肯定した形に聞こえます。

3,振り返り 

さてこの言葉は、今日聖書を読んでいる私たちには、どんな意味を持って呼びかけとなっているでしょうか?

ナザレの人々の驚きと期待、そしてそれに対する反応は様々で、実は来週の聖書日課で続いて読むことになっているので、来週に譲ることにして、今日はこの言葉の呼びかけが何を意味し、私たちはどうこたえるか?という事を考えましょう。

今日、その預言が実現したといわれた聖書の個所は、イザヤ書の61章1-2節です。人々の不信仰で国は分裂し、神の裁きとして北も南も他国に侵略支配され国は滅び、異国に連れ去られました。しかしその後、人々の懲らしめは終わり、神に立ち戻り、人々も自国に戻ることができて国を再建する日が来るという神の約束をイザヤが語っているところです。その時、油注がれた王/または救世主が現れ、神の支配が実現するので貧しいものや虐げられているもの、そして病気の物もその解決をるのだと、続きます。「そんな日が来た!」と、「そんな神の言葉が実現したのだ!」というのがちょうどイエス様が読まれた聖書の言葉であり、その時、実現したのです。

そのことを私たち一人ひとりの人生でも、確認することが大切です。「ただ、カレンダーが巡ってきて、クリスマスを迎え、キリストがお生まれになったのだな」、という事だけではなくて、不信仰と懲らしめと、悔い改めと、新しい意味のある人生の回復が、いま、自分にも起こっているのだ、という自分のこととしての理解と、生き方の変革が大切です。それが今日の神からの問いかけと、メッセージです。

さて、それとともに、この呼びかけの中で、「主の恵みの年」という言葉に注目せねばなりません。これは、旧約聖書の規定の中で決められている「ヨベルの年」という事だからです。

一週間では安息日は7日目ですべて休む時。そして、7年が7回過ぎたときには、49年経って翌年の50年目をヨベルの年とすると神は旧約聖書のレビ記で規定しています。この年は、借金が免除され、借金のために奴隷になったものは自由が与えられ、貧しいものが土地を取り戻す機会が与えられる、大恩赦ともいえる年なのです。これは、旧約聖書の時代において、貧富の格差を是正し、社会の公平を保つこととして定められ機能していました。

いまや、キリストが来られて、または、それを自分のこととして受け入れるならば、このヨベルの年のような神の恵みの時が到来したのだ、という事になります。

今の社会や世界は、憎しみの憎悪、貧富の格差の拡大と固定化、移民難民の排除、自分たちがまず大切という風潮が大国でもあり、心痛い日々を過ごしています。

そんな中で、私たちは、わたしは、何をしなければならないでしょうか?これが、今日の私たちへの神様の問いかけという事になります。

4,勧め 

ところで、先週実は私は、教会の近くの年金事務所に行ってきました。急に関係のない話になったかと思われるかもしれません。しかし、「定年退職する」というのはスペイン語やブラジルのポルトガル語では「ヨベルの年を迎えた」という言い方をするので、今日の聖書を読みながら、私もしみじみと「ヨベルの年」を思い返しました。「引退=解放、喜びの節目」という意味合いが、「ヨベルの年という言葉とぴったりだったのかもしれません。

同じ言葉から派生した英語の「ジュビリー」という言葉は、今はただのお祭りとか50周年という事になっています。しかし、本来は「負債の帳消し、奴隷の解放、土地の返還、神の救済、社会の問題のリセット」という意味だという事を思い出しましょう。

そうなると、私たちと神様の関係には、引退はありません。むしろ、「神の救済、社会の問題のリセット」を実現するために、私たち一人ひとりが、この教会を通して神様の働きが始まり、広げられるようになりたいと思います。

今はちょうど教会の年次総会の時期ですが、そんな神の言葉が、社会に対しても実現するよう、教会の働きを整えていけるようになるよう祈りましょう。



牧師コラム ペテロとパウロの日

 カトリックの教会の時代からの伝統では、1月18日がペトロの日、1月25日がパウロの(回心の)日となっています。ルーテル教会の教会手帳にも記入されています。 特に日付への根拠はないようですが、5-6世紀の頃定められていったそうです。

1月18日から25日は「キリスト教一致祈祷週間 (Week of Prayer for Christian Unity)」とされ、1月18日から1月25日までの間にエキュメニカル(教派間の一致を目指す)な祈りが各地域や団体間で行われることも多くあります。

東京の神学校でも、網のフェンス越しに隣接する東京神学大学がありますが、この週間は特にフェンスを行き来して、合同プログラムがあったのも思い出します。

そして、ブラジルにはサンパウロという都市がありますが、1月25日がサンパウロ市では休日になっています。昔、ポルトガルの宣教師たちが上陸し、その地に新しい都市を作るとミサをした日という事です。だからこのパウロの日にちなんで、サン・パウロ(聖パウロ)と名付けられました。今年で471年だそうです。

都市の名前と言えば、もう一方のペトロですね。これは有名どころでは、サンクト・ペテルブルグがありますね、ロシアに。これは、聖・ペテロの街という意味ですね。これはこの街を設立したのがピョートル大帝だったから、その守護聖人の名をとったからというのがいわれだそうです。「ピョートル/Пётр」は実は「ペトロ」のロシア語読みで、誕生日は関係ないけれど、聖ペテロを守護聖人として命名されたということのようですね。そんなことを考えさせられた一週間でした。



都市の名前と言えば、もう一方のペトロですね。これは有名どころでは、サンクト・ペテルブルグがありますね、ロシアに。これは、聖・ペテロの街という意味ですね。これはこの街を設立したのがピョートル大帝だったから、その守護聖人の名をとったからというのがいわれだそうです。「ピョートル/Пётр」は実は「ペトロ」のロシア語読みで、誕生日は関係ないけれど、聖ペテロを守護聖人として命名されたということのようですね。そんなことを考えさせられた一週間でした。


2025年1月12日日曜日

説教メッセージ 20250112

 聖書の言葉 

イザヤ43: 1~ 7 (旧1130)より

恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。 2水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず 炎はあなたに燃えつかない。// 4わたしの目にあなたは価高く、貴くわたしはあなたを愛し あなたの身代わりとして人を与え 国々をあなたの魂の代わりとする。

参考 

イザヤ41:10 10恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助けわたしの救いの右の手であなたを支える。

イザヤ59:1-4 主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。2むしろお前たちの悪が神とお前たちとの間を隔てお前たちの罪が神の御顔を隠させお前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。

ルカ3:15~17,21~22 (新106)

3:15民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。 16そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 17そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

3:21民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、 22聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。




説教「神の心に適うもの」徳弘浩隆牧師

1、 メシア始動 !? イエス様の「公生涯」の始まり

クリスマス以降、年末はイエス様の12歳の時の話、そして先週はクリスマスに戻って3人の博士の訪問の話でしたが、今日はイエス様が30歳になられたころのはなしにもどります。クリスマス関連の出来事はその日付から動かすことができないからということでご了解ください。

今日からイエス様のご生涯を、今年はルカの福音書を中心にして一年かけてたどりながら、一緒に私たちもそこに立ち会って信仰生活をしていくことになります。

その中でも特にペンテコステまではイエス様のご幼少からの出来事、そしてイースターからペンテコステのころはイエス様のご生涯の最後の部分を一緒に呼んでいきます。ペンテコステ以降はもう一度、今年はルカによる福音書から読み飛ばした大切な教えや出来事を拾いながら読んでいく年度の後半を過ごすという流れになっています。

さて、そんなことで、今日はイエス様が洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになり、神の声を聴き、メシア・キリストとしてのご生涯・「公生涯」が始まった日の出来事が読まれました。今日の聖書から、その出来事の意味と、私たちの生き方への呼びかけを聞いていきましょう。

2,聖書 

洗礼者ヨハネは、人々に洗礼を授けていました。メシアに会うための準備をするためです。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。」と自分は準備であり、あとから来られるメシアは別の洗礼をお授けになると伝えました。人々はヨハネの厳しい罪の糾弾に対する説教を聞き、洗礼を受けるために集まりました。その行列の中にイエス様もおられました。ルカではヨハネとイエス様のやり取りではなくて、その時の出来事が記されています。イエス様も洗礼を受けて祈っておられると、点が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に下ってきた。「イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、 22聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」という具合です。

ここで、イエス様の「特別さ」が明らかになります。聖霊が下り、「神の愛する子、神の心に適うもの」という、いわばお墨付を一緒に聞いたからです。

3,振り返り 

さてここで、私たちへの今日の聖書の呼びかけは、どうでしょうか。「この方、イエス様に安心してこの一年従って生きていきましょう」、という気持ちになります。

でもそこで、ただ漫然とイエス様の言葉を学んで生活していけばいいのかと、問いかけられてもいます。それは、ヨハネの罪の糾弾の厳しい言葉も聞いたからです。罪深く、イエス様についていく資格もないのかとも思わされます。これをどう聞いていけばよいでしょうか?

その答えは、今日選ばれているイザヤ書、そしてイザヤ書の別の個所から読み解いていくことができます。

イザヤは、紀元前8世紀の預言者と考えられています。イエス様が来られる700年ほど前です。栄華を極めたイスラエルの国が二つに分裂し、北のイスラエルは滅亡していきます。南のユダの国も危機的状況でした。イザヤはこのユダの国で神の言葉を王や人々に語り続けました。偶像礼拝や社会的不正をぎびしく批判し、他国からの侵略の脅威は、神が他国を用いて国を裁いているのだと説き、悔い改めを迫ったのです。「やがて徹底的に滅ぼされるけれど、神はメシアを送る」との約束を告げ、後半では「やがて全世界を神様は治め守り、人々はその民になる」と約束を語りました。そしてそれがクリスマスに実現し、今日の洗礼を受けられたときにメシアの働きが始動したと考えてよいでしょう。

4,勧め 

さて、神様の今日の勧めの言葉は何でしょうか?

それは、今日のイザヤ書と共に、二か所を参考に引用したいと思います。

イザヤの43章では「恐れなくてもいい。あなたは私のもの。あなたの名を呼びあなたは私の目に貴いのだ」と。

そしてその少し前の41章では「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助けわたしの救いの右の手であなたを支える。」神は言われます。

しかし、「神様がいつも支え助けてくれるにしては、歴史は、そして私の人生は、支えられず不安定で、悩みや苦しみもあり、思うようにいかず、世界は争いや戦争が絶えない」と合点がいきません。

でも、59章を見ると答えが書かれています。「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。2むしろお前たちの悪が神とお前たちとの間を隔てお前たちの罪が神の御顔を隠させお前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。」というのです。

神はその手で私を支え助けたい、神の目には貴いはずの人類なのに、罪を犯し誤った生き方を続けているから、神との間に隔てができていて、その祈りが届かないのだ、ということでした。

ですから、今日の勧めは、ただイエス様の言葉を学んで一年生きていくのではなくて、イザヤが、ヨハネが訴えるように、「悔い改め」を勧められているのです。

悔い改めは、お詫びして祈ることではなくて、私たちの生き方を、その方向を変えていくことだと、何度も学びました。方向転換です。

「神の言葉を聞き大切にし、その言葉のように人を愛して生きていくこと」この二つが旧約聖書の一番大切なポイントだと、イエス様ものちに言われます。

神を大切にすること、そして、それぞれ違った多様性がある私たちが互いを尊重し、時に赦し赦され、賜物を分かち合い生かしあい、一緒に笑い一緒に泣く、そんな生き方が、悔い改めをした私たちキリスト者の生き方です。さあ、一緒にそんな生き方をしましょう。



牧師コラム 「クリスマスプレゼントは1月6日⁉」

 先週1月5日はクリスマスの三人の博士たちがイエス様のところに供え物をもってやってきた顕現主日、その翌日月曜日が1月6日の顕現の日でしたね。

月曜日の夕刻買い物に出かけました。妻と一緒に車で聞くラジオはたいてい頭の体操と懐かしさで、スペインやブラジルのFMラジオ局です。インターネット経由で車に流すことができるので、外国にいるような気持ちで運転も飽きません。この日聞いていたのはスペインMalagaのラジオ。こどもが電話で出てきてインタビューする番組が始まりました。女性のアナウンサーは上手に話しかけて、どの町から電話してきたか、何歳なのかなどを聞き出しながら、楽しいかわいい会話が続きます。そして必ず、「3人の博士の日おめでとう!(Feliz dia de Reyes!)」とあいさつを交わします。ぼんやり聞いていた私たちは「そうだ、今日は顕現日だ!」と再認識させられます。インタビューの続きは、「ねえ、きみは博士たちに何をもらったの?」。すると、「プレゼントはパパとママももらってたよ。パパはねぇ、新しい自転車だった。私はお人形さん」みたいな会話が続きます。スペインの有名な百貨店でも挿絵のような具合に、「もう博士は来た?君には何を持ってきたかな?」と宣伝します。



サンタクロースがクリスマスプレゼントを持ってくるというのは別の伝統ですが、昔からのカトリック国のスペインは1月6日がプレゼントをもらう日でした。良い子にしていたらプレゼント、悪い子だったら箱を開けたら炭の燃えカスだった、という話もあって、クリスマスマーケットでは「黒い炭のデザインの置物」も売られていました。同じキリスト教でも違う文化、違う風習があるのは興味深いことですね。

自分の信仰や今までの教会の姿だけを絶対視しないで、もっと開かれた目で、人々と一緒に集まり、礼拝し、広がりができる教会になれたらいいなと思わされました。


2025年1月5日日曜日

礼拝メッセージ 20250105

聖書の言葉 

イザヤ 60: 1~ 6 (旧1159)

2見よ、闇は地を覆い暗黒が国々を包んでいる。

しかし、あなたの上には主が輝き出で 主の栄光があなたの上に現れる。3国々はあなたを照らす光に向かい 

王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。4目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る。息子たちは遠くから娘たちは抱かれて、進んで来る。5そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き おののきつつも心は晴れやかになる。海からの宝があなたに送られ国々の富はあなたのもとに集まる。6らくだの大群 ミディアンとエファの若いらくだが あなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。

マタイ 2: 1~12 (新2)

2:1イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、 2言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」 3これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。 4王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。 5彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。

6『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」

7そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。 8そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。 9彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。 10学者たちはその星を見て喜びにあふれた。 11家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。 12ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。



説教「東の国から西の国へ」 徳弘浩隆牧師

1、 今日までクリスマス…

新しい年を迎えました。今年もよろしくお願いします。

さて街ではクリスマスが終わるとお正月に様変わりして、クリスマスの飾りもとっくに片付けられていますが、教会のカレンダーでは今日までがクリスマスといえます。

キリスト教がヨーロッパに定着した後、冬至のお祭りに合わせてクリスマスが祝われるようになり、12月25日となりました。また、これらの関連で、東方の3人の博士が来たというのは1月6日となっていています。

そういうわけで今日はその、東方の3博士がイエス様を拝みに来たと聖書に残されている出来事を読む日曜日になっています。

クリスマスの劇では、天使とマリアにヨセフ、羊飼いとイエス様のお誕生、そして3人の博士が次々に登場しますが、教会のカレンダーで言うと少し間が空き、3人の博士の登場をもってクリスマスシーズンが一区切りするということになっています。

さて、この3人の博士の出来事は今日の私たちに何を呼びかけているでしょうか?一緒に聞いていきましょう。


2,聖書 

博士と言われますが、聖書では占星術の学者たちと訳されています。これはギリシャ語の聖書では「マゴイ」と書かれていて、占星術やゾロアスター教という東の国の宗教の偉い人たちを呼んでいた言葉でもあります。それら異国の宗教家や占星術師と理解され翻訳されています。マゴイは、マジックの語源にもなっています。旧約聖書から預言され待たれていたユダヤの王、メシアの誕生を、不思議なしるしを見つけて異国の宗教家たちも礼拝に来たということになります。

今日のイザヤ書でも預言されていたことが成就したと、マタイは記しているのです。3人の博士とよく言われますが、その人数についてはマタイは触れていないのですが、黄金、没薬、乳香という贈り物を持ってきたということから3人と言われるようになりました。そしてミディアン、エファ、シェバという地名も出ましたが、これらはアラビア半島の北西部からシナイ半島、アラビア半島北部、アラビア半島南部を指し、ラクダに乗ったキャラバンと言われる商業活動をする人々が盛んに行き来していましたし、シェバは昔ソロモン王を訪ねて多くの贈り物をささげたというシェバの女王を思い出させます。乳香や没薬の産地でもありました。

さてこれらの預言とその成就から、キリストはユダヤ教で待たれていた救い主であるということとともに、それを超えて、他宗教や他文化の人々も礼拝に来るような全世界の救い主であるということが今日の大きなメッセージです。ですから、エピファニー・公現祭と言われています。不思議なことに彼らが持ってきた贈り物はそれぞれ、黄金は王様の象徴、乳香は神としての象徴、没薬は人間としての苦しみと死をあらわす象徴というものでもあり、イエスキリストの存在とその地上での生涯をあらわす物でもありました。


3,振り返り 

そんな嬉しく、不思議で、深い意味を持ち合わせた出来事でしたが、当のユダヤの人々はどうだったかということも考え、自分の生き方を振り返らねばなりません。

ヘロデ王は不安を抱き、エルサレムの人々も同様だったとあるからです。神様の出来事を喜び、救い主の誕生を一緒に拝みに行くのではなくて、厄介者扱いをし、排除しようとしたのです。

これは、私たちの心にある、善と悪のせめぎあい、神様や他者のことを思う愛と自分の自尊心や思いやり益を思うエゴイズムのせめぎあいでもあるのです。

クリスマスを一緒に祝い、そこに立ち会った私たちですが、これから始まる一年がどうであるかを問いかけています。

「それはそれ、これはこれ」の日常がまた始まるのか、「神様を大切にし、人を愛し共に生きていく」新し生き方が始まるのかです。

東の国からはるばるやってきた3人の博士に対して、当事者の自分はどう生きるかを問いかけています。


4,勧め 

さて昨夜は突然インドネシアの牧師から電話があり一時間くらい話しをしました。彼女はインドネシアのドイツ系のルーテル教会の牧師でディアコニアの責任者をしていた方です。要件は、日本にいるインドネシア人のケアや伝道をする可能性を探しているということと、私の周りに外国メンバーがいてその中にインドネシア人の熱心なメンバーもいると聞いたから今後の可能性を話し合いたいということでした。

私も人づてに彼女のことを知り、メールを送ったりしていましたが、なかなか返事が来ませんでした。そこで、彼女の携帯に外国人が良く使うアプリを使ってメッセージを送ると、昨日ようやく返事が来て、電話が来たのでした。残念ながらその姉妹は今月インドネシア日本帰国することになったけれど、たくさんのアジア人が日本で勉強したり働いたりしてくれているので、国籍や言葉を超えて教会はお世話をし、また伝道もしたいと、意気投合しました。イエス様を拝みに来た人たちには、2000年前のクリスマスの当日から、東の国も西の国も違いはないのです。

今日私たちはちょうど、その姉妹・レリアナさんの送別会も予定しています。5年前に出会って、教会で日本語教室を続け、仲間も増え、一緒に信仰生活や教会での奉仕もしてきました。別れは寂しくて残念なことですが、日本の西の国から来てくれて出会ったこの姉妹を、今度は東の国から西の国に送り出す気持ちで、派遣する気持ちで、お送りしたいと思います。神様が新しい計画を持ち、何かを始めようとされているのかもしれません。

私たち一人一人も、神様の不思議な計画で、西や東、北や南、いろんなところでいろんな人と出会い、神様の愛を伝えていきましょう。外国に行くことだけではありません。地域の昔からの人々との出会い、あるいは外国から自分たちのそばに来てくれている人たちとの出会いもあるかもしれません。

そんな教会の働きに今年も一緒に参加しましょう。新しい人と出会わせてくれて、神を愛し、人を愛し、安心と平和の生活を広めていきましょう。


説教メッセージ 20250330

聖書の言葉 ルカ15: 1~ 3,11b~32 (新138) 15: 1徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 3そこで、イエスは次のたとえを...