今年のクリスマス行事は以下の通りです♪
★クリスマス礼拝:12/22(日)10.30-
★クリスマスイブ礼拝:12/24(火)16.00-
クリスマスイブ礼拝は16時からですので、お間違いありませんようにお待ちしています♪
ルーテル高蔵寺教会は、世界に広がる伝統的なプロテスタント・キリスト教会のひとつ日本福音ルーテル教会に属する教会です。地域や外国人も開かれた教会、誰でも来ていただくことができます。Pastor TOKUHIRO offers Japanese class or assistance for foreigners. Ask anything you need!
今年のクリスマス行事は以下の通りです♪
★クリスマス礼拝:12/22(日)10.30-
★クリスマスイブ礼拝:12/24(火)16.00-
クリスマスイブ礼拝は16時からですので、お間違いありませんようにお待ちしています♪
今週の聖書の言葉
フィリピ4: 4~ 7 (新366)
4: 4主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。 5あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。 6どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。 7そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
ルカ3: 7~18 (新105)
3: 7そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。 8悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。 9斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」 10そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。 11ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。 12徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。 13ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。 14兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。
15民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。 16そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 17そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」 18ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。
説教「キリスト誕生を待つ、希望を待つ」
徳弘浩隆牧師
1、 カイロスの延期…
アドベントの第3主日になりました。待ちに待ったクリスマスも近づいてきます。
そんな折、昨日のニュースを聞いてニヤリとさせられた出来事がありました。皆さんもご存じだと思います。待ちに待っていた、ロケットの打ち上げが延期になったというニュースです。朝早くから打ち上げ場に行って、楽しみに待っていた人たちからは、「あー、残念」と、ため息が聞かれました。記者会見を開いて開発しているスペースワンという会社の役員は「楽しみにして頂いていた沢山の人々に対して申し訳ない」と謝罪しました。
「だけど牧師はそんなニュースをなぜ今日の聖書と関係があるというのか?」と思われるでしょう。それは、このロケットの名前にあるのです。このロケットの名前は「カイロス」。会社によると二つの意味が込められています。一つは、Kii(キイ)-(-)based(ベースド) Advanced(アドバンスド) &(アンド) Instant(インスタント) Rocket(ロケット) System(システム)の略でKAIROS(カイロス)ということ。つまり、「和歌山県の紀伊半島を指していて、紀伊に拠点を持つ会社の、先進的で迅速な打ち上げが可能な固体燃料ロケットのシステム」の英語の略号がKAIROSとなったという事。紀伊半島というのは意外でした。
さて、もう一つこの言葉に込めた意味というのが、私に言わせれば聖書とも関係があるのです。新約聖書のギリシャ語では、「時」というのを表す言葉が二つあり、それらは「クロノス」と「カイロス」です。
クロノスはクロノグラフという言葉のもとでもあり、それはストップウォッチのことでもあります。このように、「クロノス」は線的な時間や、連続的な時間を表します。過去から現在、そして未来へと流れる測定可能な時間を指します。しかし、「カイロス」は質的な時間を指し、何か重要な出来事が起きる「瞬間」や「好機」を意味します。これは、時間の「量」ではなく「質」を表す言葉です。例えば、適切なタイミング、人生を変えるような瞬間を意味しています。
ロケット打ち上げはクロノスの予定時間だったけど、「好機・良いタイミング」としてのカイロスではなかったといえるでしょう。その所で、ニヤリとさせられたのです。
そして、先日から聖書で学んでいるように、オートマチックでクリスマスはカレンダー通りやってくるけれども、本当にキリストをもう一度心にお迎えする「クロノス」、つまり重要な出来事が起こる瞬間やチャンスは、人それぞれ違うのだということにつながるからです。
ロケットは天候を見て、また今日打ち上げをして礼拝のころ成功しているかもしれません。しかし、私たちが、本当の意味でキリストをお迎えするには、どうしたらよいのでしょうか?今日の聖書から見ていきましょう。
2,聖書
ルカの福音書は先週読んだところのすぐあと、続きです。預言者が言っていたように、荒れ野で叫ぶ声がして、それは、洗礼者ヨハネでした。彼は、「もういくつ寝るとお正月」のように、時が来れば自動的にキリストが来るということを言っているのではありませんでした。集まる群衆に「悔い改めにふさわしい実を結べ」と厳しく迫ったのです。キリストの登場を待ち望んでいた人々は、このヨハネがそうかと期待しましたが、ヨハネはあっさりと否定します。そして「私の後から来る方がそれで、私にはその方の履物のひもを解く値打ちもない」といいます。
そして今日は、第二の朗読で読まれた、フィリピの信徒への手紙からも聞きましょう。これは、使徒パウロがとらえられているときに獄中から自分が伝道して設立した異邦人たちの教会に充てて書いた手紙です。ギリシャのフィリピの町の教会でした。何がポイントかというと二つ。一つは、「主においていつも喜び、思い煩わず、感謝の祈りと共に神に打ち明けなさい。キリストは近いのだ」ということ。身の回りに困難があっても、キリストの再臨が近いと、その来臨を待っていたからです。そしてもう一つは、その困難の理由が大切です。異邦人社会での異邦人のキリスト教会はたくさんの迫害もあったでしょうが、この手紙の直前でパウロが問題にしているのは、「教会内の対立や不和」なのです。それぞれ一生懸命助け支えてくれた有力な信徒が、仲たがいをしていると聞き、心を痛め、指導をするためにも、パウロはこの手紙を書きました。
洗礼者ヨハネは、キリストを迎える条件として、ただ時がたてばその日が来るのではなく、「悔い改め」と「それにふさわしい実を結べ」、つまりその行いや生き方を求めています。
時がたってパウロは再臨のキリストの近いことを強調しながらかつて自分がお世話をした教会員に勧めているのは、「キリスト教会の中でも、意見や立場の違いを乗り越えて、和解をして祈りと力を合わせていくこと」だったのです。
3,振り返り
私は、そして、私たちの教会は、そして今の社会・世界は、どのように生きているでしょうか?
クリスマスシーズンというクロノスとしての「時」はもう目の前です。しかし、「悔い改め」とそれにふさわしい「行いや生活」は十分でしょうか?一生懸命教会生活をし、教会を支えもするけれども、立場や意見の違いを乗り越えて和解とキリストにある平和が実現しているでしょうか?これらが実現して、本当の意味でキリストを迎えることができる「時」が、クロノスではなくてカイロスなのです。
Aiに聞くと、こんな説明もあります。
キリスト教では、「クロノス」と「カイロス」の違いを以下のように考えることができます。「クロノス」は、私たちが生きる日常的で測定可能な時間です。「カイロス」は、神が特別な働きをされる「恵みの時」や「救いの時」であり、私たちがそのタイミングを捉えるように求められます。
実生活への適用としては、キリスト教徒は、日々の「クロノス」の中で「カイロス」を見つけるように呼びかけられます。つまり、単なる時間の流れに流されるのではなく、神が与える意味のある瞬間や機会をしっかりと捉え、応答することが求められるのです。
4,勧め
指折り数えてクリスマスを待つのをやめて、その手の指を組んで祈り、悔い改めと感謝、そして生き方を変える時に、本当の意味でキリストを迎えることができそうですね。
神様は、私たち一人一人に、そして教会や社会にも、苦しい難しい問題を与えられますが、それを通して悔い改め、生まれ変われるように、準備をしてくださっているともいえるでしょう。そんな時、迫害や困難があっても「絶えず喜んで」いることができる、そんなパウロのこの時に心境を味わい、生きることができるでしょう。そういう意味では、安心して困難や迫害も受け、神様を見上げましょう。良いクリスマスが迎えられますように。
季節の変わり目、最近分かりにくくなりましたね。心も体も準備も追いつかず、風邪をひいてしまいました。ようやく治りかけと思いましたがぶり返し?のようにもなり、これは2周目?という状態です。時代の変わり目、そして世の終わり?そんなものを見極めるには、どうしたらいいでしょうか?聖書は「世の終わり」についてキリストが語るところです。興味本位に間違えないように、神の呼びかけを聞き取りましょう。今日は、名古屋の復活教会で礼拝担当します。高蔵寺教会では信徒の方が代読して下さり、皆で礼拝をいたします。Youtubeでも礼拝中継をいたします。お待ちしています!
聖書の言葉 1マルコ13: 1~ 8 (新88)
13:1イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」 2イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」
3イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。 4「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」 5イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。 6わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。 7戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。 8民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。
説教「終わりは 何かの始まり」徳弘浩隆牧師
1、 猛烈残暑も終わり…
「暑い暑いといっていたけれど、ずいぶん肌寒くなりましたねぇ」という季節の挨拶が普通でしたけれど、ここ数年はそういう訳でもありません。猛烈な残暑が続いていましたが、急に寒くなり、そしてまた夏日という具合で、心も体も準備ができていない気温の変化が、ある意味普通になってきました。忙しい毎日で衣替えも間に合わず、何を着ようかと迷う事もあります。そして、私は風邪をひいてしまいました。
こんな季節感が怪しくなってきた、地球温暖化と激しい気候変動の時代と同様、世の中の移り変わりも激しく、何がいつ起こるか予測しにくくなっているといえるかもしれません。「もう、世の終わりだ」と従来の地球環境の終わりや、いわゆる「終末」の話を持ち出して、本当に世の中の終わりを主張する人や宗教も多くなります。
そんな中、今日の聖書の言葉も、「世の終わり」という言葉が出てきます。世の混乱や偽キリスト、戦争の噂、そして地震や飢饉についてもキリストは話されました。
これは、なにか隠れた意味のある恐ろしい「予言」なのでしょうか? 一緒に聖書から聞いていきましょう。
2,聖書
聖書は先週の続きです。少し復習のつもりで振り返りましょう。11章でイエス様一行が意を決してエルサレムに入って行かれます。大歓迎を受けます。その後、神殿で商人を追い出します。神の家を商売の家にしてはならないというのです。その大騒ぎの後、キリストは、エルサレムのいろいろな権力者たちと対峙することになります。祭司長、律法学者、長老たち、そしてサドカイ派やファリサイ派という宗教的にも、政治的にも権威がある人たちから、問答を持ち掛けられます。その流れの中で、先週の聖書の個所、やもめの献金になっていきました。大勢のお金持ちがたくさんの献金をするのと対照的に、貧しくつつましく生きている一人の女性が、神殿の賽銭箱に、周りの目も気にせず、「はした金」とも言える一番小さな硬貨を入れている姿でした。キリストは、「彼女は誰よりもたくさん入れたのだ」と称賛しました。神様にすべてをゆだねている生き方をほめたのでした。
そんなことの後、「神殿の境内を出て行かれる時」に今日の聖書の出来事が起こりました。
立派な建物を見て弟子の一人が言いました。「とってもきれいな石の建物ですねぇ!」と。しかしイエス様の応えは驚くような言葉でした。「これらの大きな建物か。これらは全て崩れてしまうだろう」と。そっけない、そして不吉な言葉でした。
それに続いて、いったん神殿から出たのでしょう。今度はエルサレムの城壁の外のオリーブ山から神殿の方を向いて座っているときに、4人の弟子たちは心配になったのでしょう、イエス様に思い切ってひそかに尋ねます。「そんなことはいつ起こるんですか?その時にはどんな兆しがあるんですか?」と。それに対して「偽キリストがたくさん現れ惑わし、戦争の噂を聞くがまだ終わりではない。戦争や地震、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりなのだ」と言われます。いわゆる、終末の預言と言われているいくつかの話の始まりです。
その後、イエス様は捕えられて十字架にかけられていきますが、一年の最後の週が近づく今、その言葉を毎年読むという事になっています。
3,振り返り
さて、私たちは、この聖書を読んで何を学ぶべきでしょうか?今の世の中の動きを見て、「今こそ、その時が来るぞ!」と判断をして人々に呼びかけることでしょうか?ある面そうです。しかし、間違えてはいけないとも言えます。
このイエス様のお話の後、神殿は実際に崩されました。紀元70年の事でした。ユダヤ戦争でローマ帝国軍と同盟軍であったユダヤの王が立てこもるユダヤ人たちを虐殺し、この素晴らしい神殿は破壊されました。その時、「世の終わり」が来たのかというと、そうではありませんでした。
その後もこの神殿の再建はならず、今の姿です。この神殿の後には、黄金の屋根の岩のドームと呼ばれるイスラム教のモスクが建てられ、ユダヤ教でもキリスト教でもない、イスラム教の人たちの場所になりました。私も西暦2000年の9月にここに行きましたが、ちょうどその日にイスラム教とユダヤ教の小競り合いと投石騒ぎからしばらく紛争が続きました。
でも、まだ、いわゆる「世の終わり」は来ていません。今のパレスチナの戦争をみて、いよいよ世の終わりが来たという人もいるでしょう。そんな世の終わりが本当に来るかもしれませんが、それだけを心配して、聖書の暗号のような預言を読み解いて計算して、「いつ世の終わりが来る」と言い出すのは偽キリストともいえる、世を騒がす危険な宗教運動という事になるでしょう。
では、何をここから聞き取ることが必要でしょうか。それは、そこから始まる「産みの苦しみ」という事です。苦しくて、不安で、大変なことになっても、それは、「産みの苦しみだ」とキリストは言います。その苦しみを通して、その向こうに、うれしい新しいいのちが生まれる出来事があるのと同様のことがあるという事です。
それは、こういう事でしょう。私たちの人生にも、苦しみや不安、どうしようもないことが起こって、「もうこれでおしまいだ」とつぶやくときがあっても、それは、今までのものが崩れ去って、新しい自分が生まれ変わるチャンスなのだと。
私たちは、今まで、本当の神を知らずに生きてきました。自分の力や自信、または人の目やお金、権力などを頼りにして生きてきました。自信過剰で人を追いやり、自分の立場を誇示するのが世の人のすることです。しかし、やもめが生活費全てを賽銭箱に入れたように、自分が頼れるものが何もなくなった中で、神様だけに信頼する生き方になること。その財布の中身全部を賽銭箱に入れるという事は、ある意味、自分の頼ってきたものをすべて手放して、神様にすがる生き方になった瞬間でもあるのです。
その時、今まで何かにとりつかれていたように生きていた自分がいったん死んで、背負っていたすべての荷物を肩から降ろして、楽に自由にされたのです。その時が神様の出番。本当に謙虚で、愛のある生き方に変えられます。神を愛し、人を愛し、助け合い支え合う、聖書が一番大切と教える生き方です。
「豪華に作った神殿のきれいな石の建物が何になるんだ。それを誇るよりも、貧しくとも、自分の心に神様と神の愛を宿す、あなたこそが神の神殿なのだよ」、というキリストの言葉を聞き取りましょう。「天変地異が起こる世の終わり」をカウントダウンする事ではなくて、頼るべきものではないものに頼り誇ってきた生き方を終わらせて、本当の神に立ち返って、神を愛し人を愛する生き方が生まれる、そんな「終わりの日と、始まりの日」を見つめることが大切なのです。
4,勧め
人々は、建物や目に見えるものに心を奪われます。私は、「昔ソロモンが建てたというエルサレムの神殿を同じ大きさで再現したというキリスト教会」に行ってみたことがあります。ブラジルのサンパウロの熱狂的なグループの教会が建てて有名になったので、教会メンバーや他の牧師と一緒に夜の礼拝に行ってみました。人々は自信たっぷりで誇らしげに迎え、集まる人も圧倒されています。それもいいことかもしれませんが、私たちは、古い自分が終わって、新しい自分が生まれることに目を向けることが大切です。
エルサレムに残るといわれる、キリストの頃の城壁や石垣、石の階段、があります。しかし、そこに、多くの人が触ってみて祈る石の壁があります。それは、キリストが十字架を背負って歩かされるときに倒れて、手をついたと、伝説で言われる石の壁の一部分です。みんなが触って祈るので、そこだけ黒くなっています。私もそこに立ち、それを触りながら、祈らされました。罪深い自分のために、十字架を背負わされ、代わりに死んでくれた方を思い出して、間違いを悔い改めて、神の愛を知り、人を愛し、正しく生きていける、そんな人に少しずつ変えられる。そんなことを思い起こさせてくれる、黒くなった石の壁の一部分。私たちも、自分の心に手を当てて、悔い改めと、新しい自分の生き方をはじめましょう。
教会のカレンダーでは、来週の日曜日が一年で最後になります。一年の終わりの前に、心の大掃除も致しましょう。
猛暑が続いたこの夏、9月の終わりでもまだ続いています。連日ニュースでは、「適切に冷房を使って、水を飲みましょう」と言われ続けました。「一杯の水」の大切さを連呼された形ですが、今日の聖書もそれを言っています。でも少し違った意味で。どんなこと?一緒に学んでいきましょう。今日は高蔵寺教会で礼拝担当をします。Youtubeでも中継します。お待ちしています。
聖書の言葉
民数記11: 4~6,10~16,24~29
26宿営に残っていた人が二人あった。一人はエルダド、もう一人はメダドといい、長老の中に加えられていたが、まだ幕屋には出かけていなかった。霊が彼らの上にもとどまり、彼らは宿営で預言状態になった。 27一人の若者がモーセのもとに走って行き、エルダドとメダドが宿営で預言状態になっていると告げた。 28若いころからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアは、「わが主モーセよ、やめさせてください」と言った。 29モーセは彼に言った。「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」
マルコ9:38~50 (新80)
9: 38ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」 39イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。 40わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。 41はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」
42「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。 43もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。 44† 45もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。 46† 47もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。 48地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。 49人は皆、火で塩味を付けられる。 50塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」
説教「小ささの 大きさ」徳弘浩隆牧師
1、 「一杯の水」…
一杯の水の話は聖書では有名です。そして、それは、「たとえわずかなことでも人に施しをする、優しい愛のある行いをすることの大切さを説いている」と、一般的に感じていると思います。「だから私たちも、小さなことでも、人にしてあげよう」と思わされますし、キリストの愛の教えと考えられます。
それはとても大切なことで、私たちに愛のある生き方を促してくれます。先月の朝の聖書の学びで、女性会連盟の聖書研究テキストでも学び、とても有意義な学びや振り返り、そして勧めを与えてくれました。もちろんそれは大切なことです。
しかし、今日の聖書は、全体を読んでいくと、そして、伝統的にセットで読まれる旧約聖書を読んでいくと、違ったポイントが聞こえてきます。ちょっと不審に思われるかもしれませんが、一緒に聞いていきましょう。
2,聖書
聖書のマルコによる福音書の9章41節が有名な言葉です。「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」
この言葉に既に、一杯の水を飲ませるということの理由について、限定的に説明されています。それは、「キリストの弟子だという理由で」ということです。ここには、「私があなたたちを愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」という「愛の勧め」はありません。
もう一つは、このことばを語られたいきさつが大切です。それは、弟子のヨハネが「イエス様の名前を使って悪霊を追い出しているものがいたので、やめさせようとした」ということ言うことを報告したことに対してのイエス様の言葉だということです。「やめさせてはならない」ということと、「逆らわないものは味方だ」と言いながら、「どんなものであれ、キリストの弟子だという理由で大切にしなさい」という流れになったのです。
3,振り返り
今日の聖書を読んで、私たちは自分の生き方をどのように振り返るべきでしょうか?私は、正直に言うと、今年は今までの愛の勧めという要素を強調しすぎていた受け取り方からすると、ずいぶん違う神の声を聞いた気がしました。
一般論としての愛の勧めではなくて、キリストに従うものを大切にすること、たとえそれがどんなまがい品のような出来事であっても、キリストの名によってされていることならば大切にしなさい、と明確に聞こえてくるからです。そこで、「その人に、その理由で、たった一杯の水でも飲ませるならば」という話につながったのでした。
これは、今日の聖書の旧約の聖書の言葉からも実は明確です。モーセの時代に、神はモーセに与えた霊を少しとってほかの者にも分け与えた、という興味深い話が出てきました。それは、不安や不満を持つ人々を教え支えるために、モーセ一人ではなくて他の70人にも預言をし指導をする力を与えたというのです。そのときちょうど神の天幕にいなかった二人の人にも神の霊が降ったのを見て、ヨシュアがモーセにやめさせるよう言いました。しかし、それをモーセはやめさせず、こういいました。「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」
これらのことを総合して読んでいくと、聞こえてくる神の声があります。ポイントはこの二つということになります。それは実は、今日の集いの祈りからも明確に聞こえてくるのです。今日は二つの祈りが決められています。
1)一つは、「あなたの霊を分け与え、御名を証しできるように」という祈りです。
2)もう一つは、今日祈らなかった文章を紹介しましょう。「愛(あい)なる神(かみ)さま。あなたは一(ひと)人(り)の滅(ほろ)びをもお望(のぞ)みではありません。私(わたし)たちが、互(たが)いに支(ささ)え合(あ)い、ゆるし合(あ)いながら、御(み)心(こころ)にかなう群(む)れでありますように助(たす)けてください。」とあります。つまり、ねたみや嫉みや、競争や分裂ではなく、互いに愛し合い、ゆるしあいながら、御心に適う群れになることを、祈ることになっています。
これはまさに、私たちの教会の在り方への使信、私たちのクリスチャンとしての生き方への勧めでもあります。
4,勧め
一般的な勧めとして、神にある愛の行いの勧めとして聞いてもいいでしょう。困った人がいたら、一杯の水でも差しだす、そんな愛の勇気をいただき、生きていきましょう。
そして、本来的には、神の名によって、神のために働くクリスチャン同士、どんな小さな人でも、大切にして、一つの群れとして、教会が大きく成長していく、そんな生き方をしていきましょう。
個人の生き方、そして、今の社会を生きる中で格闘もしながら将来を考えていくべき、教会の在り方、そこでも私たち一人一人の生き方も、教えられているのでした。さあ、いっしょに神様の道を生きていきましょう。教会の中の誰も、おろそかにされてはなりません。そして、教会の外の誰も、おろそかにされてはなりません。
そんなキリストにある小さな人を大切にすることの意味の大きさを、いっしょに生きていきましょう。教会内にある愛の一致と、教会の外に向けての愛の奉仕と伝道、そこに私たちは招かれ、押し出されて行きましょう。
牧師コラム 「一杯の水」の映画!
今日の聖書を読んで一週間、祈り考えながら過ごしました。今日の説教を書き上げる結論に導かれる中で、思い出した映画のシーンがありました。
見ず知らずの人から一杯の水をもらって、死にそうだった自分が、命をつないでいった出来事。そしてやがて、自分が不遇な生活から脱出した時に出会った死にそうになっている人に一杯の水を差しだしたときに、その人はなんと、かつて自分に一杯の水を差しだしてくれた人だったと気づかされるのです。そしてその人は、十字架にかかりに行く、鞭うたれ転びながら歩いているキリストだと気づいていくのでした。
そう、1959年の「ベン・ハー」という有名な映画ですね。もちろん聖書の物語ではなくて、あの時代の出来事と重ねながら壮大なスケールで描いたフィクションです。しかし、とても大切な気づきを与えてくれる映画です。
台風の行き先を見つめ、その迷走ぶりに振り回され、多くの方の被害もあり心も痛め、心配の一週間でしたね。皆様はご無事にお過ごしですか?担当している3つの教会の役員の方々とそれぞれ連絡を取り合い、愛知県の構造時と復活の2教会は安全を確認して集まる礼拝をすることにし、静岡の浜名教会は集まる形の礼拝はお休みにしました。まだ警報が出ているからです。でもまだまだ、心配ですね。祈り、必要があれば助け合うなど対応をしましょう。そう、今日は防災の日でもありますね。今日も聖書を一緒に読んで、神様の声を聴きましょう。高蔵寺教会で礼拝担当をして、YouTubeでの中継も致します。今日も安全に元気に過ごしましょう。
聖書の言葉 マルコ7: 1~8, 14~15, 21~23 (新74)
7: 1ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。 2そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。 3――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、 4また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。―― 5そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」 6イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。
『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。7人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』 8あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
14それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。 15外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」 21中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、 22姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、 23これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」」
説教「口は心の門、出口か入口か?」徳弘浩隆牧師
1、 出口と入口…
今から12年ほど前でしょうか、ブラジルに行って3年たった時に初めて一時帰国しました。その時、サンパウロの教会を助け支えてくれていた一人の日系二世の方も一緒に来られました。私より一回り年上の彼女は日本語はだいぶ上手になりましたが、漢字の読み書きは大変苦手でした。妻と3人で各地の教会にも呼んでいただき、報告会や交流会もしていただきました。北海道から九州までいろんなところを一緒に旅をし、教会も訪ね、少しの観光もしました。そんな彼女がある日こう言いました。「出口さんっていう人、結構多いんですね」。「えっ?」と不思議に思い、一緒に見たお店にある表札には「出口」と書かれているのを見て、慌てて説明し、3人で大笑いしたことがあります。彼女はブラジルの日系人の友達で、「出口さん」という人がいて、漢字も覚えていたのですが、日本の街を歩くときにいくつもそれを見たというのでした。
もうみなさんお分かりの通り、彼女が見た「出口」という「表札」のほとんどは、「表札」ではなくて、「入口」「出口」のように表示しているものだったのです。もちろん、本当の表札もあったと思います。「出口」さんという名前は結構おられるそうですしね。調べると、伊勢神宮の関係のお仕事の人に与えられた苗字が多いそうです。
今日の聖書は、「手を洗う」かどうかということが論争になり、そこから「口」から入るものと出るもの、というキリストの言葉が語られています。口の入り口としての働きか、出口としての働きか、なにが神様や人との間で大切かという話になっていきます。 聖書から今日の言葉を、聞いていきましょう。
2,聖書
聖書はしばらく「生ける神のパンとしてのキリスト」にかかわる話が続き、ひと段落したと思いますが、きょうも食べ物の話でもあります。
ファリサイ派の人々はイエス様の話やなさることに感心していて、エルサレムからわざわざ様子を見に来ていました。しかし、その弟子たちの生きざまにつまずき、批判的になり、イエス様に尋ねました。「あなたの弟子たちは食事の前に手を洗っていないのはなぜですか?」と。それに対してイエス様は、「確かにその通りだ。もっと衛生管理や行儀のよさを教えることにしよう」と素直にお答えになりませんでした。むしろ、旧約聖書の言葉を引いてきて、反論しました。イザヤ書の29章13節にこうあると。「口先では神を敬うが、心は離れている。」という趣旨で、ファリサイ派や律法学者に対して、神の掟を捨てて人間の言い伝えを固く守っていると、批判されたのです。
そして、こう結論付けます。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」と。
3,振り返り
この聖書の話をどう私たちは読むべきでしょうか?下手をすると、弟子や子供のぶしつけを批判されて、逆切れしている人に見えなくもありません。イエス様は、なぜそんな風に反論され、相手を批判したのでしょうか?そこが大切なところです。
手を洗わないで食事をするというのは、食前に手を洗うという今の私たちの衛生上の問題を指しているのではありません。ユダヤ教でいう、「神が汚れていないから食べてよい」と許された食物を、神が定める方法で祈り手を清めていただく、という宗教的な掟に沿っていたかどうかということでした。
私が岐阜にいるときに、買い物の行き来の途中で気になっている建物があり、思い切って妻と一緒に訪ねたことがあります。そのあと、皆さんも知っているインドネシアの姉妹もつれて建物の前まで行って、一緒に挨拶もしました。それは、岐阜大学のそばに建てられた綺麗なイスラム教のモスクでした。「誰でも見学できますからお声掛けください」という日本語の掲示もあったので、声かけをして、歓迎して入れてもらい、中を案内していただきました。入口は男性と女性に分かれていて、入ったらすぐに廊下わきに部屋がありました。そこには私たちの見慣れた銭湯の椅子と蛇口のようなものが並んでいました。牧師のような立場のイマームは説明してくれました。「ここで、みんな規定に沿って左右の腕を肘まで、そして手を、それから口や鼻を注ぎます。そのあと、礼拝堂に入っていくんですよ」と。そのときの手や腕の回し方の作法も見せて教えてくれました。お祈りの時間や、メッカの方向、そして教えを簡単に説明してくれ、本もいくつかくださり、感謝してお別れしました。とても良い勉強と交流でしたもちろん、「教会の牧師ですが、入ってもいいものでしょうか?」と最初に挨拶をして、歓迎してもらいました。
さて、ユダヤ教にもこのような掟があり、歴史の中でそれがさらに細かく規定されていたというのが、今日のイエス様の論争のもとにあったということが大切です。
ファリサイ派や律法学者は、本名人たちでした。この神の掟に、歴史の中でくわえられた細かな規定を知り尽くした律法学者、そしてそれを厳格に守っていて守らない人を小ばかにしていたファリサイ派の人たちだったのです。それに対して、口先で神を敬って人々に重荷を押し付けるよりも、神様の本当の気持ちを説明し、人々を自由にしたのがイエス様だったのです。
厳格すぎる掟や作法や、汚れた食べ物とそうでないものという規定で縛られて、口から入るものを気遣うよりも、口から出るもの、つまり言葉を大切にしなさい、ということです。言葉は人を助けもしますが苦しめもします。愛しもしますが、裁きもします。元気づけ生き返らせもしますが、つき放ち命さえ奪います。
私たちはどんな生き方をしているでしょうか?
4,勧め
決まりごとはなにもかも放棄して思うように生きたらよいということではありません。決まりごとに縛られ、人を裁き、他者を排除し、対話や交流をせず、自分の考えが何よりも絶対的に正しいと、頑張りすぎるときに、対立や戦争も起こります。何よりも大切なのは、神様の愛と、人の不完全さを認め、神を愛し人を愛する、平和な生き方、それを神様も求め願っておられるということです。
出口と入り口は、別々ではなくて、同じ口の反対方向のものです。私たちの用い方で、生き方は変わります。口は食物の入り口でもありますが、口は心の門でもあります。対話と、愛で、多くの人々ともに平和に生きていく社会を作っていきましょう。
金曜日はお手伝いしている幼稚園の「夏のゆうすずみかい」には120人ほどのこどもたちが来てくれて教職員の方に大感謝。土曜日は高蔵寺教会のCS(子どもの礼拝)の一日キャンプで「武器を捨てて平和を作る」ことを一緒に学び、ゲームやスイカ割りで楽しみました。スタッフの皆さんに助けられながら忙しい充実した日々を過ごせて感謝です。さて日曜日は名古屋の復活教会で礼拝担当、高蔵寺教会では私より祈りと熱のこもった信徒の方が私の説教原稿を代読して礼拝を持ってくれます。YouTubeの中継もします。どうぞ、教会へおいでください。
今週の聖書の言葉
ヨハネ6:56~69 (新176)
6: 56わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。 57生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。 58これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」 59これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。
60ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」 61イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。 62それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。 63命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。 64しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。 65そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
66このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。 67そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。 68シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。 69あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
説教「QUO VADIS? 主よどこへ?」 徳弘浩隆牧師
1、 パンの話も今日で一区切り…
暫くパンの話が続きました。来週からマルコの福音書に戻るので、今日で一区切りと言えるかもしれません。
先週は、旧約聖書の箴言の言葉も選ばれていましたから、そこで「知恵」とたとえられた神の言葉からの呼びかけを通して、イエス様のパンの話を聞きました。
つまり、「私のパンを食べなさい」というのは、旧約聖書の言葉を意識しながら、その続き、いや完成形としてのイエスキリストに従って生きていくことを呼びかけていました。そしてそれは、今の教会では、説教と聖礼典という二つの形として継承されているといえます。ルターは、聖礼典、特に洗礼と聖餐を「見える言葉」として説明し、聖書の朗読と説教を「見えない言葉」として説明しました。
このように「霊の糧」としての食べ物と、私たちが生物として生きていくうえで必要な食事を「肉の糧」と言ったりもします。イエス様は霊の食べ物を言われたのです。
これを食べるものは、かつての天から降ったマナや、普通に食べるパンとは違って、永遠に生きることができると説明されました。つまり神様との本来の関係の中に立ち戻り、とどまり続けることができると言われ、呼びかけられたのです。
今日はその続きで、これを聞いた弟子たちの中で不安と不信が生まれます。弟子たちはどうなっていったのでしょうか?聖書から今日の言葉を、聞いていきましょう。
2,聖書
今日の福音書とともに選ばれて私たちに告げられているのは、旧約聖書からはヨシュア記です。それと重ねて読むときに、今日の福音書のポイントが、そしてイエス様の呼びかけが本当の意味で聞こえてくることになります。
ヨシュアはモーセの後継者で、出エジプトをしたユダの人々を導いてモーセがなせなかったカナンへの帰還を果たします。それを目前にして全部族を集め、ユダの人々に問いかけています。「私たちを解放してエジプトの地から救い出してくれた主なる神に従いなさい。もしそれを願わないなら、一緒に渡ってきた川の向こう側や今滞在しているこの地の異教の神々に従うか、今日自分で選びなさい」と。
そして今日の福音書のイエス様と弟子たちの出来事は、それを思い出させる出来事が起こっているのです。イエス様が命のパンの話をしても理解できず、「実にひどい話だ。誰がこんな話を聞いていられようか」と弟子たちはつぶやきだしたのです。これは群衆ではなくて、弟子たちと書かれてありますから、ある程度覚悟を決めてイエス様にしたがっていた人々の事です。その結果、「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスとともに歩まなくなった」と言われる事態になりました。
そこで、イエス様は残った12人に尋ねます。「あなたがたも離れていきたいか」と。しかし、ペトロは力強く答えました。「主よ、私たちは誰のところへ行きましょうか」と。「あなたは永遠の命の言葉を持った神の聖者であると信じ、知っています」と信仰を告白するのでした。
3,振り返り
私たちも今日、神の問いかけを聞いています。
ヨシュアがユダの民に、「本当の神様に従って生きていくか、ほかの何かを頼りにして生きていくのか、今日、自分で、選びなさい」と。
そしてイエス様の時もそうでした。神様の言葉やご計画が理解できずに、大勢の人が離れ去った後、「あなたがたも離れていきたいか?」と。
私たちの信仰生活も、神様の計画や神様の「時」が理解できないこともあります。一生懸命祈って努力していても、願いがかなわないこともあります。問題や、病気や、人との関係、教会の中でさえさざ波が立って自分の信仰に自信が持てなくなる時もあるでしょう。
そんなとき、今日の言葉を思い出しましょう。「神と神でないものの、どちらにつくのですか?」「人々は去ったけれど、あなたも去りたいのか?」と。
そんなとき、ペトロのように立派な信仰を持ちたいものだと思わされます。しかし、それが結論ではありません。そののちのペトロのことも私達は知っているからです。彼は、イエス様が逮捕されていったとき、「私はあの人の仲間ではない」と言ってキリストの弟子であったことを三度も否定するのでした。
そして、どうしても思い出すのが今日の説教題です。これは、キリスト教会の中の伝説ともいえることで聖書には記されていませんが、「主よ、どこに行かれるのですか?」とペトロがイエス様に問いかける言葉です。この言葉のラテン語、「クオ・バディス」という映画も昔あったので、覚えておられる方もおられるでしょう。
ペトロがローマで宣教をしていた時、迫害が激しくなり、彼はローマから逃げ去ろうとします。しかしその道で何とイエス様に出会うのです。ペトロはとっさに問いかけたのです。すると、「あなたが逃げようとするから、私はもう一度十字架にかかるために、あのローマに行くのだ」と。その伝説の場所がローマのアッピア街道沿いにあり、今そこに小さな教会が建てられています。
4,勧め
悔い改めて神に立ち返り、信じても、心を決めても、続かないのが私たち罪びとです。人を赦し、和解し、愛しても、続かないのが私達です。しかし、そんな私たちのために、十字架にかかってくれたのがイエス様です。
「あなたも去るのか?」と聞かれ、「そんなことはありません」、と答えたペトロでしたが、自分が窮地に立つときに逃げ出し、出くわしたイエス様に「どこへ行かれるのですか?」と逆に問いかけることになってしまいました。
しかし、そんな弱い私たちをよく知っているのもイエス様です。決断を迫る神は厳しい方ですが、弱くて倒れ逃げ出すものをも赦し、何度でも、現れ、寄り添い、代わりに苦しみを背負ってくださり、守ってくださる方だという事を、今日学んでいきたいと思います。
神様に信頼して一緒に生きていきましょう。
昨日は暑い中、高蔵寺教会に集まって、みんなで素敵なハープの音色を聞きました。ひょんな出会いから、プロの先生をお呼びして、教会学校のこどもたちに、そして大人のみんなや知り合いにも声をおかけしての集会にしました。教会ではいろんな自主グループもできて、音楽クラブや、刺繍クラブやほかにもいろいろアイデアもあります。一緒にいろんなことを楽しみませんか?出会いや、新しいこと、好きなことに熱中することは、元気に楽しく生きるコツかもしれません。教会を利用してください。明日は名古屋の復活教会で説教担当です。YouTUbe中継もあります。お待ちしています!
聖書の言葉 ヨハネ 6: 1~21 (新174)
6: 1その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。 2大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。 3イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。 4ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。 5イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、 6こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。 7フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。 8弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。 9「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」 10イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。 11さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。 12人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。 13集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。 14そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。 15イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。/以下省略/
説教「パンの増える奇蹟の意味すること」徳弘浩隆牧師
1、食事が足りないと困るから…
お客さんを呼んで会食をするときに、気にするのはメニューですね。集まる人の好き嫌いを考えて、今はアレルギーもありますから気を使います。宗教の違いもあると、食べてはいけないとされる物があり尊重せねばなりません。さて、メニューが決まって次に気にするのは、量かもしれません。足りないと迷惑をかけるし格好も悪いし、でも余り過ぎてももったいないし今ではフードロスなんて言う事も気にしなければなりません。
文化や風習が違うと、出されたものをどの順に食べるか、全部食べたほうがいいか残した方がいいかなど、気を遣う事もあります。先日一緒に食事をしたシリア人の青年もイスラム教ですから「アルコールや豚肉はダメだよねぇ」と確認し、お土産をあげたら逆に「日本は今あけてもいいんだっけ?」と聞かれたりします。
ブラジルで気が楽になったのは、こういう文化の違いでもありました。プレゼントはすぐに開けて喜んだ方がいいし、あげた方も「つまらないものですが」とかいわずに、堂々と勧めて、喜ばれたら恐縮せずに一緒に喜ぶという事でした。食事も「足りなくて困るかもしれないけど」と心配はせず、予定外の人が来ても食事に誘います。「足りないと迷惑でしょ」というと、こんな返事をして一緒に笑って、遠慮を吹き飛ばします。「足りなかったら水を入れて増やすから心配ないよ!」と何度も言われました。カレーライスのようなフェジョアーダという豆を煮こんだ料理は確かに、水を入れて少し味の調整をしたら結構増やせるような感じでした。
今日の聖書は有名な「5000人の給食」とよく言われるところです。パン5つと魚2匹だけしかないのに、5000人が満腹したという奇跡です。イエス様は何をされたのでしょうか。水を入れて増やしたのでしょうか?この「奇蹟」は私たちの人生に何を意味するでしょうか。一緒に聖書を見ていきましょう。
2,聖書
今年はマルコの福音書を読んできましたが、ヨハネの福音書にしばらく変わります。そして、パンの話が続きます。今日はその一回目で、パンが増えたのです。
大勢の群衆がイエス様を追い、集まりました。イエス様の病人たちをいやした奇蹟を見たからだという事です。大勢の群衆が来るのを見て、弟子に聞きます。試みるためだったとありますが、弟子のフィリポの信仰を試そうとされたのでしょう。「どこでパンを買おうか」と。するとフィリポは「大金があっても到底足りないでしょう」と言います。アンデレはパン5つと魚2匹を持った少年のことを伝えました。でもそれは解決策ではなくて、「たったこれだけしかないので、到底役に立たないでしょう」というためでした。
しかし、イエス様は人々を座らせ、パンをとり、感謝の祈りを唱えてから、分け与えました。魚も同じようにしました。すると、5000人の群衆は満腹したのです。
3,振り返り
さて、今日の聖書から何を私たちは学びましょう。
どうしてパンが増えたのかと、不信仰で現実的なことを考える人は、私を含めて、色々な方法や理由を考えて信仰と現実を一致させようとします。
しかし今日の聖書が問いかけているのは、その問いではなくて、フィリポに問いかけたイエス様の問いです。「これだけの群衆がいるけれど、どこでパンを買おうか?」という試みの問いかけです。答えはこうでした。どこで買おうかという問いにではなく、そもそも、「足りないでしょう」という決めつけでした。そこに気を利かせたアンデレが口をはさみますが、「少しの食糧があるけれど到底足りないでしょう」といいう決めつけでした。
これらは極めて現実的で正しい判断でしょう。しかし、それを大きく上回っているのが、神様のご計画であり、神様の恵みや愛だという事を、見せつけられることになります。それが今日の福音のポイントです。
実はこれはイエス様の十字架をも指し示していると考えてもいいでしょう。最後の晩餐、つまりその後の聖餐式を思い出す言い回しになっているからです。「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから」弟子たちに分け与えたのです。また、「盃をも同じようにして」ではありませんが、「魚も同じように」されました。わざわざ今日の状況説明で言われていた「過ぎ越し祭が近づいていた」という言葉も、最後の晩餐、あるいはその後の聖餐式への流れを思い起こす出来事になっています。
イエス様が感謝して人々に分け与えるパン。そして命のパンとして来られた方のこの出来事。また、やがて、過ぎ越し祭に最後の晩餐をして十字架に向かわれるイエス様。その過ぎ越し祭は、ユダヤの民を救い出すために、子羊を犠牲にしてその血を戸口に塗った家だけを天使が過ぎ越していったあの出エジプトのことを上書きするかのような、キリストの十字架の出来事へと重なっていく神様の救いの計画でした。イエス様はそのために来られた、十字架を見上げさせられもする奇蹟・つまり「しるし」と呼んでいくことが大切です。
4,勧め
さて、納得して終わりたいところですが、一つ腑に落ちないことが私にはありました。何か違うのです。どう思われますか?
出エジプトをして、荒れ野をさまよう旅で、彼らも同じように不思議な方法で食事を得て飢えることはありませんでした。マナとウズラの出来事です。これを毎日降らせ、生じさせ、空腹は満たされました。しかし、今日のイエス様の出来事は、その時の、また、いつもの神様のやり方とは違うんじゃないか?と思わされます。それは、マナを欲張ってたくさん集めても翌日はダメになっていたという事です。残ったものをたくさん集めてもダメだったのに、今日はどうして12カゴもパンが余ったのか?というところが、「いつもと違うぞ」と思わされるところです。
私たちも、体験します。「困って困って神様に一生懸命祈ったら、神様は与えてくださいました。しかし、ちょうどいいくらいの量で、余るほどはありませんでした。でもそれが神様のなさることなんでしょうね」という体験をしたり、証を聞いたりします。その神様が、です。どうして今日は余っているのでしょうか?水加減を間違えたのでしょうか?
実はそれが、今日の私たちへの勧めです。12かご余ったそのかごは、イエス様を受け入れない12部族のユダヤ民族を表しています。そしてそれはやがて、全ての人のための救いの出来事に広がっていきます。今日ここにいない人のため。そのうち、ここに集められてくる人のため。そのために、今回は、たくさん余るという出来事になっているのでしょう。
わたしたちも、神様の恵みや、肩の荷を下ろして無理せず生きれるようになったこの安心を、まだここに集められていない人のために、有り余るほどいたただき、預かっているのです。独り占めしてはいけません。与えられたものも、安心や優しさや愛も、わかちあって、一緒に神様と生きていきましょう。
牧師コラム・ 肉ソバを頼んだのに
出張の帰り、やっと昼食をとりました。高速のサービスエリアで簡単にと肉そばを注文。しかし、出てきたのは「肉うどん」!さて、一瞬の間にいろいろ頭をめぐります。
みんなならどうするかなと、お店で食べながらFacebookに載せてみました。「肉そばを頼んだのに、肉うどんが来た 良い子のあなたはどうする?」
1、そのまま感謝して食べる
2、カウンターに行って交換してもらう
3、半分まで食べたて気づいたと言って交換してもらう
意外と結構まじめな答えも帰ってきました。「自分の注文を忘れてそのまま食べる」という私と同年代の同僚の高齢者?特有の返事も。あなたはどうですか?
「それで、先生はどうされたんですか?」とも聞かれました。はい、私はこんな悪いことも考えなら、こうでした。
私は、とっさに2、その後3に迷った末、1でした😅 間違えを指摘する律法主義→罪の思いのズルさ→最後は赦しと愛と感謝という形でしたよ。ははは😊。
全世界を襲った?パソコンのシステム障害。空港で群衆は立ち往生。疲れ、座り込み途方に暮れる姿は気の毒でした。今日の聖書でも、殺到する群衆、疲れ、座り込む姿が描かれています。私はこのニュースを見て、私たちの神様や人との関係を象徴もしていると、考えさせられました。一緒に聖書を見てみませんか?今日は高蔵寺教会で礼拝担当をし、Youtubeでも配信します。猛暑でやむなく教会をお休みする方にもお勧めしています。礼拝後は、青年会と外国人メンバーの夏のワークキャンプについても話し合います。お待ちしています。
聖書の言葉
マルコ 6:30~34,53~56 (新72)
6: 30さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。 31イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。 32そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。 33ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。 34イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。
6: 53こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。 54一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、 55その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。 56村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。
説教「飼い主のいない羊、羊のいない飼い主」徳弘浩隆牧師
1、疲れ果て、行列を作る人々
今日の週報やプロジェクターの表紙の画像は、多くの人が集まり、イエス様に会おうとしている挿絵です。イエス様に会おうと、連れてこられた病気の方もいて、こどもを抱えた母親たちの姿もありますが、人々は疲れ果て、座り込む人もいます。
私たちは先週、似た光景を目にしました。TVのニュースで、です。人々は殺到し、行列ができ、子どもたちと一緒に、荷物も抱え、途方に暮れている映像を見ました。それは、世界中で起こっていました。
2,聖書
マルコの福音書の流れはこうです。イエス様がガリラヤ湖のほとりで説教をし、向こう岸にわたり、また戻ったところで会堂長ヤイロの娘を生き返らせる奇蹟がありました。その後、故郷・つまり、ナザレに行かれて宣教をされました。人々は驚いたけれど受け入れられなかったと伝えられています。それで近くの村を回り宣教をされ、つぎには弟子たちを二人ずつペアにして派遣しました。そして今日は、その弟子たちが帰ってきて、イエス様にすべての出来事を報告をしたというところから始まります。イエス様は「あなたたちだけで、人里離れたところで休むがよい」と成果を喜ばれ、休息をとるように勧めました。忙しすぎて食事をする暇もなかったからだということです。しかし、移動先にも群衆は駆け付け、先回りまでしていました。舟から上がったイエス様は、大勢の群衆を見て深く憐れまれ、いろいろと教えました。
その後、実は5000人に食事を与えられた奇蹟の話がありますが、今日はそれを飛ばして、また船で湖を渡って、ゲネサレトという土地に行きましたが、そこでも多くの人に追いかけられ、人々に教え癒されたという話までになっています。
今日の礼拝では飛ばすことになるパンの奇蹟は、この後来週からしばらく、パンの奇蹟の話が続くことになりますので、今日は飛ばして学ぶことになるのでしょう。
3,振り返り
さて、今日の聖書から何を私たちは振り返りましょう。
少し引きずられすぎかもしれませんが、私はどうしても、空港で待ちくたびれて、解決せず、行列を作り、座り込み、途方に暮れる、現代の空港にいる群衆のことを忘れることができません。忙しい仕事や楽しみにしていた旅行ができなくなった方々にはお気の毒ですし、買い物や病院でもトラブルとなって、手術や診察や薬が先延ばしになった方もおれら、これはもっと重大なことで気の毒なことでした。
しかし、この姿に、私たちの姿を見せつけられもしました。トラブルの原因は簡単に言うと、コンピューターのシステム障害ですが、それぞれのパソコンが立ち上がらなくなり青い画面とメッセージのみが出ることになり、データーを蓄積しやり取りをするサーバーともつながらなくなったということが原因で起きたことでした。
私たちの姿はどうでしょうか? 一人一人がうまく生きることが出来なくて、それぞれが機能しなくて、青い顔をして立ち止まり座り込むことがあります。互いの連携も取れなくなり、おおもとの大事な方との関係も途絶えているから、何もできない状態に陥ることがあります。それぞれは大きな価値がある一人一人ですがそれが発揮できず、連携した助け合いや、分かち合うこともできません。すべてを制御し多くの知恵や資源がある神様との関係も切れてしまっています。それで、立ち往生し、ぶつかり合い、戦争までするその姿は、史上最大のパソコンのシステムエラーではなくて、人類が神を離れ、人々の関係が切れ、それぞれの人間もその価値を発揮できずにいる姿そのものに見えて仕方ありません。
そこで立ちすくみ、座り込み、行列を作る姿は、「飼い主のいない羊」のようでもあります。そんな私たちに、帰ってくるようにと呼びかけ続けておられるのが旧約から新約まで一貫して待ち続けている神の姿です。私たちが「飼い主のいない羊」のように憐れだと思いますが、実は、神様の方も悲しみに暮れる「羊がいなくなったか羊飼い」でもあるのです。そこに来られたイエスさまと、イエス様が派遣した弟子たちは、休む暇もないほど忙しく働き、教え、癒してくださったということが今日の福音のポイントだと思わされます。
4,勧め
私も休む暇もないほど忙しい日を送ることもありますが、まだまだともいえるかもしれません。
先週は実は忙しい週でしたが、友人が訪ねてきてくれました。シリア人の青年でイスラム教徒のまじめな青年です。サンパウロの教会で出会い、教会のゲストルームにしばらく滞在し、教会での交流もし、今でもつながっていました。その後、彼はフランスで難民ビザを取って大学を終了し、短期交換留学で東京大学で勉強中でした。もうすぐフランスに帰国なのでと、名古屋まで会いに来てくれました。 7-8年ぶりに彼と会い、英語にポルトガル語と日本語を少し混ぜながらずいぶん久しぶりに話し込みました。キリスト教とイスラム教の違いはありますが、彼は温厚ですがまじめな信仰の持ち主で、意気投合します。
「神を大切にし、人々が愛し合う世界、それが神の願いなのに、それを人類は破ってしまった。だから神はその時々に応じて預言者を送った。神のもとに帰り、人と人が愛し合って平和に生きることができるようにと。イエスさまも偉大な預言者で、私たちも尊敬している。彼がメシアで最後の審判で再度来られるのも信じて待っている。」と力説します。もちろんイスラムの人ですから、こうも言います。「ムハンマドがそれ以降の最後の預言者だし、パウロがキリスト教を神学的に組織化して教会を形成していく中で、神の教えから少しそれたところがあるんじゃないかと自分は思っているんだけれど」と。
神学的な宗教論争はせずに、彼の神様と自分たちの関係の見方や生き方は、本当に尊敬し互いに理解しあえることが大きいと思わされます。イスラムのイマーンになって一緒に仕事をしないかと言ったくらいです。そういえば、サンパウロで彼からポルトガル語版の簡略版クルアーン(コーラン)ももらいました。
私たちはイエス様を通して教えられた神様の出来事をもっと学び、神様との正しい関係、人々の間の正しい関係に戻っていきたいと、思わされます。もっと一緒に聖書を学び、他宗教や歴史も学び、自分の中に正義と平和が訪れ、世界の人と平和に生きていけるように歩みましょう。
牧師コラム・ 急に訪ねてきた友と神様の話
Facebookのメッセンジャーでブラジルの教会員のご婦人からメッセージがありました。「先生、〇×〇×が先生に会いに行くと言っています。よろしくお願いします。」と。前後して、〇×〇×からも英語でメッセージがありました。「先生、来週名古屋に行きます。時間があったら会えたらとてもうれしいです。東京に来ていましたが、大学が忙しくてどこにも旅行できませんでした。」と。忙しいけれど懐かしい友人からの連絡だったので、すぐにOKしました。彼の勘違いで少し日程がずれて高蔵寺訪問は無理でしたが、無事会いました。夜行バスで名古屋まで来た彼と朝会い、徳川園と復活教会を案内。近所の喫茶店でモーニングを食べながらおしゃべり。昼食は和食をと、ちょっと奮発して、カニのおいしいお店でランチ。北海道もたぶん行けないというので。
そして、私が関わっている幼稚園の先生に相談して、夜は一泊保育の花火に飛び入り参加で招待しました。今月の幼稚園の聖書の言葉は「隣人を愛しなさい」ですから、子どもたちにも、先生の大切のお友達を紹介します」といって、「みんなは初めて会う人だけとコワくないよ、仲良くしてね」とお話ししました。何人も花火をしながら声をかけてくれ、日本語でおしゃべり。彼は留学中で日本語も少しわかります。片付けも手伝ってもらった彼に、「もう帰るの?またね!」とあいさつしてくれました。神様と人を愛する一歩でした。
九州から名古屋に戻った翌日に浜松、そして名古屋から浜名、その後名古屋に帰宅という忙しい週でした。でも、健康も何とか守られて感謝します。暑い日が続きますね。熱中症対策をして、休みながら、元気にすごしましょう。「暑い季節は怪談」というのが定番でしたが、最近はどうでしょう?死んだ人が出てきてコワい!という事ですが、なんだか似た話が今日の聖書に出てきます。一緒に読んでみませんか?礼拝は今日は名古屋の復活教会で担当します。高蔵寺教会では代読をしてくださり、浜名教会ではYouTube中継でメッセージを聞いて礼拝をしてくださいます。良い日曜日になりますように!
聖書の言葉 マルコ 6:14~29 (新71)
6: 14イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」 15そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。 16ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。 17実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。 18ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。 19そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。 20なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。 21ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、 22ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、 23更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。 24少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。 25早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。 26王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。 27そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、 28盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。 29ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。
説教「神様の言う平和とは」 徳弘浩隆牧師
1、夏は幽霊屋敷の季節?
毎日が、暑くなってきました。熱中症にも気を付けなければなりません。「暑いときは、外出を控えて、水分をとり、家でもエアコンを適切に使いましょう」とニュースでも何度も呼びかけられています。
しかし、エアコンが一般的ではなかったころは、暑いときは涼しくなるようにと、夏は幽霊の怖い話、つまり怪談が語られたりもしました。夏の映画やTV番組は会談が定番でした。背筋が凍る、ヒヤッとする話という事でした。そして、たいていその場合、死んだ人が生き返る?という話が出てきました。惜しまれた人が生き返ってうれしいというハッピーエンドではなくて、恨みや苦しみ、殺された人が、「化けて出る」というのが定番でした。
今日の聖書は、そんな話でもあるかもしれません。洗礼者ヨハネの物語が説明されています。その死と生き返ったかという噂は何を意味していたのでしょうか?そして、やがて彼らが目にするイエスキリストの死と復活と、どんな違いがあるのでしょうか?一緒に聖書を見ていきましょう。
2,聖書
マルコには「ヘロデ王」と書かれていますが、これは、ヘロデ大王ではなくてその子供の一人でその領地を分割統治することになるヘロデ・アンティパストいう領主のことだと考えられています。彼は、イエス様の活躍されたときのガリラヤやヨルダン川を挟んだ東側のペレアの領主でした。後にイエス様が十字架にかかる前に捕らえられた時に、ちょうどエルサレムに来ていたこのヘロデに尋問されることになると、出てきます。
このヘロデは、洗礼者ヨハネを捉えて処刑してしまいますが、後にイエス様が十字架にかけられる前に、このイエスという男の出身地ガリラヤの領主だという事でそこに送りつけられ、イエス様を尋問するということになり、ヨハネとイエス様両方の生死にかかわってしまう事になったのです。
今日の福音書は、イエス様が登場しません。その奇跡やみ言葉もありません。ここからどんな神の声を聴こうかと、悩み苦しむところですが、このヘロデの心の内を覗き込みながら、私たちの生き方への神様の声を聴いていきたいと思います。
ルカの福音書では、弟子たちを派遣した後で、彼らが帰ってくるまでの間に、この話が挿入されています。故郷では受け入れられなかったイエス様ですが、その地の領主ヘロデのもとにもそのうわさが聞こえ、彼が恐ろしくなったという事です。
どうしてヘロデはそれを恐れたのでしょうか?それは、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と思ったからです。まるで日本の怪談噺の定番のようです。殺してしまう前に彼はヨハネのことをこう思っていました。「ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた」のです。自分の罪を指摘され、身を守るためにヨハネを捉えていましたが、ヨハネの正しさに気づき、気にしていたのです。しかし、ヨハネを恨んでいた妻へロディアの策略で、後に引くことができなくなり、ヨハネを殺してしまいました。ヘロデの心は、ヨハネの正しさを理解し魅かれながらも、ヨハネの正しさゆえに責められる自分の罪や不正からくる恐れのはざまで苦しんでいたのでしょう。結果的にそのヨハネを亡き者にしてしまったので、恐れは無くなりました。「しかし」です。イエス様の活躍の話を聞き、あのヨハネが生き返ったのかと、もっと恐ろしくなったのでした。今日の聖書は、そのようにヘロデが思い、恐ろしくなった理由として、彼がヨハネを殺してしまった話が説明として語られています。ですから、その殺された出来事ではなくて、それを思い出して、さいなまれるヘロデの心を見つめることが大切かと思わされます。
3,振り返り
今日の聖書から何を私たちは振り返りましょう。このヘロデが、目の前の問題を解決して一度は心に平和を得たけれども、実はそれは本当の解決ではなかったということです。正しいことをいう人で惹かれてもいるけれども、その正しさは自分の罪深さをも指摘するので邪魔でもある。そこでその人を排除したけれども、本当の解決ではなくて、自分の罪深さをさらに際立たせ、イエス様の姿にヨハネの残像を見、今まで以上に恐ろしくなるという状態でした。
私たちの生き方はどうでしょうか?神の声を聴き、神を愛し人を愛すようにという正しい生き方を知りましたが、そうできていない自分もいます。神の正しい声をかき消してしまえば一時的な心の平和はありますが、それは長続きする本当の平和ではありません。
殺すべきは正しいことを言う預言者でも、イエスさまでも無くて、自分の心にある罪の心だという事を考えさせられます。しかし、わかっていてもそうできない罪人の私達です。そのために、イエス様は十字架に代わりにかかり死んでくださいました。
私たちも、この方の十字架とともに、今までの罪深い心を十字架にかけて滅ぼしてしまうのです。そして、よみがえれらたイエス様とともに、悔い改めと本当の生き方を知り、新しく生きることを始めさせていただくのが、洗礼を受けてキリスト者として生きていくという事になります。
4,勧め
洗礼者ヨハネを殺し、イエス様を尋問し追い返したヘロデは、私たちの姿かもしれません。正しさに気づき、魅かれながらも、そのように生ききれない自分の姿かもしれません。
今日の詩篇の言葉はこう告げます。詩編85編9節です。「わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます。御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に彼らが愚かなふるまいに戻らないように。」
愚かな振る舞いに戻らないように、神様の宣言される本当の平和の中を生きていきましょう。安心と、平安が待っています。そんな一緒に教会生活をしていきましょう。
牧師コラム・ 猛暑対策、スマホで自宅礼拝!
教会でも、猛暑対策で夏の聖書研究会を8月はお休みにしたりします。礼拝にも多くの方に集まっていただきたいところですが、無理をしてもいけません。
暑い中、電車やバスを乗り継いで教会に来るだけでももうぐったりという事も分かります。どうぞ、ご無理されませんように。では礼拝出席はどうしたらいいですか?
コロナ蔓延の時の対策をしていた頃は過ぎ去りましたが、教会に集まれないときのためにと、試行錯誤しました。そのころから、礼拝を中継して、各自家で礼拝を守れるようにもしました。それから、今では、ご事情があって教会に来られない方や、ご病気で来られない方も、この礼拝中継を見て「礼拝参加」してくださっている方もおられます。また、牧師が担当する教会が増えて、行き来できないときには、この礼拝中継を遠くの教会で活用するという事もしています。司式は現地の教会で信徒の方にしていただき、讃美歌や祈り、聖書朗読を皆でして、ちょうど時間を合わせて、時々少し調整して、牧師の説教のところをスクリーンに映して、メッセージを聞き、その後はまた信徒の方の司式で、献金や教会の祈りへと続けられ、礼拝にあずかることができています。これを猛暑対策でも、各自で、利用してみませんか?週報や教会だよりのQRコードをスマホで開いて、そこから礼拝の中継を自宅のスマホからでも見ていただけるようにしています。ご利用ください。不具合があれば、調整します。見てみてください。
(QRコードは徳弘牧師YouTubeチャンネルです)
季節の変わり目ですね。私は、多忙の睡眠不足もあってか、風邪をこじらせて一週間、人と会う仕事以外は寝たり起きたりとなっていました。忙しいときは「ずっと寝ていたい」と思いますが、病気で寝込むと「早く起きたい!」と身勝手なのが人間ですね。今日の聖書はイエス様が「起きなさい!」と言われている言葉を読みます。どんな意味があるのでしょうか?一緒に聖書を読みませんか?礼拝は明日は名古屋の復活教会で担当します。それをYouTubeで配信もします。お会いしましょう。YouTubeチャンネル登録はここから→Pastor Hirotaka Gabriel TOKUHIRO - YouTube
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聖書の言葉 マルコ5:21~43 (新70)
5:21イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。 22会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、 23しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」 24そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。
大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。 25さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。 26多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。 27イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。 28「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。 29すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。 30イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。 31そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」 32しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。 33女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。 34イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
35イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」 36イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。 37そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。 38一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、 39家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」 40人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。 41そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。 42少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。 43イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。
説教「あなたに言う。起きなさい」徳弘浩隆牧師
1、ゆっくり、寝ていたいのに…
「おきなさい!」という言葉は、だれでも聞き覚えがある言葉だと思います。特に思い出すのは、もっと寝ていたい時に親から言われる言葉です。「ちょっと、何時だと思ってるの?」「学校に遅れますよ」「オキナサイ!」と、だんだんとその口調が強くなるこの言葉、だれでも言われた事があるでしょう。または、言ったことがあるでしょう。
「ああ、もう、うるさいなぁ」「分かってるよ。もう少しだけ!」という自分の心の叫びも、だれでも覚えがあるでしょう。
今日の聖書は、イエス様と、二人の女性が出てきます。今日はこの二人目の方の女性の出来事に目を向けて、一緒に神様の呼びかけを聞いていきたいと思います。この女性は「起きなさい」と呼びかけられたからです。何が起こったのでしょうか?イエス様のその呼びかけは、それ以上にどんな意味を持っていたのでしょうか?一緒に見ていきましょう。
2,聖書
今日は先週の続きの、その次の出来事です。もう一度ガリラヤの側へ舟で戻られると、大勢の群衆がまた集まってきました。湖のほとりにおられると、ヤイロという会堂長の一人が来て、イエス様に願い出ました。「娘が重体なので来て祈ってほしい、きっと娘は助かり、生きるでしょう」と。
イエス様はそれに応じて一緒に出掛けました。しかし、そこに思わぬ出来事が起こります。別の女性の登場です。この女性も不思議な出来事とやり取りの末に癒されるのですが、そうしている間に、ヤイロの娘の死が知らされることになります。
何という事でしょう。ヤイロとしては、イエス様が向こう岸から帰ってこられ、お会いできて、お願いしてみたらイエス様が一緒に歩きだしてくれた。もう大丈夫だ、と彼は思ったでしょう。しかし、それが、思わぬ番狂わせで、その人には良かったけれども、自分の娘はそのせいで間に合わなかった、「亡くなりました」という知らせを受けたのです。「信仰深い」ヤイロの使いや、おそらくヤイロ自身も、これ以上イエス様を煩わせてはいけないと思いました。しかしそれは、「信仰深いことではありません」でした。そこが今日の大切なところだと心にとまります。
イエス様は「恐れることはない、ただ信じなさい」と言われたのです。もう、「手遅れの状況」なのにです。しかし、イエス様は家まで行かれ、「眠っているだけなのだ」と言われ、その娘の部屋へ行き、「起きなさい」と言われました。すると、その娘はすぐに起き上って歩き出したのです。
3,振り返り
今日は、「信仰深い」会堂長ヤイロやその使いのものが、死を受け入れてイエス様をこれ以上煩わせてはいけないと引き下がったことが信仰深いことではなかったという、皮肉な逆転がとても心に残ります。
「そのままを受け入れるのではなくて、まだ大丈夫、まだあなたと一緒に歩いていって、あなたの人生を解決してあげるのに」というイエス様のお気持ちを見ていなかったヤイロたちの謙虚さは、信仰深いではなくて不信仰だったという事から、神様の側の、人間の常識や思いを超えた計画を信じていくことへと促されています。
それが、「寝ているだけのヤイロの娘」に、そして、「信仰がまだ寝ているヤイロたちに」さえも、「さあ、起きなさい」と聞こえてくるのだと学ばされます。
それを学ぶために、今日の旧約聖書をもう一度見てみましょう。聖書の中の哀歌という珍しいところから選ばれています。哀歌の哀は、愛情の愛ではなくて、哀悼の哀です。これは、紀元前586年に起きたエルサレム陥落と神殿の破壊を嘆く歌で、バビロン捕囚の時代にかかれたと考えられ、預言者エレミヤの哀歌ともいわれています。
繁栄を極めたイスラエルという国も不信仰で、府には分裂し、その後、順にそれらの国が滅び、預言者の言葉通りにエルサレムの神殿も破壊され、人々はバビロンに強制連行されたというバビロン捕囚を経て、国を失い、流浪の民となったユダヤ民族の嘆きと哀しみを歌った歌です。
しかし、それは嘆きの言葉で終わってはいません。「主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く 懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても それが御心なのではない。」と今日のところも結ばれています。
ヤイロも、イエス様のお力を信じ、お願いしてきてもらっているのに、目の前の状況が悪くなるとあきらめてしまいました。自暴自棄になったり、神を呪ったりはしませんでしたが、「信仰深い」彼は、イエス様にこれ以上来ていただくことは申し訳ないと、自分の判断で神様の介入を断り、止めてしまっていたのです。
しかし、イエス様は、それ以降も、それ以上の道のりも、一緒に歩いてくれて、解決をしてくれました。
4,勧め
私たちの人生にも、そんなことがあるでしょう。自分の不信仰ならまだしも、信仰があると思うからこその決断や行いが、神様のお働きを妨げているかもしれません。
「さあ、起きなさい」という言葉を、もう一度一緒に、新しい気持ちで聞いていきましょう。私の人生に、新しいことが起こるはずです。一緒に教会生活をしていきましょう。
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牧師コラム・ ずーっと寝ていたい!
私は最近、いそがしくて忙しくて、こう思っていました。「あー、もっとゆっくり寝ていたい」「仕事が山を越えたら、飽きるくらい寝てやる!」と。
すると神様はそれをかなえて(?)くれました。なんと、風邪をこじらせてしまって、起きられなくなってしまったのです。急いで食べれるだけ食べて、薬を飲んで、横になるとすぐ眠れます。熱があって汗をびっしょりかいて、目が覚めたらまた何かを食べて、寝て…というのを何度も繰り返しました。人と会う仕事の時はシャワーを浴びて少し小奇麗にして、それが終わるとまた倒れこむという日々でした。
そのうちこう思いました。「あー!寝てるのはもうたくさんだ。早く起きて、あれもしたい、あそこにも行かなきゃ」と。最初はゆっくり寝れるのに嬉しくもありましたが、そのうちは寝るのも飽きてきて、体が痛くて眠れなくなり、今度は、それを恨むようになりました。
なんと、人間は自分勝手なのでしょう。いそがしいと、「ずっと寝ていたいものだ」と恨みを言い、病気で寝込み続けることになると、「もうそろそろ、起きなさい!」と言われたいものだと、神様に恨み言を言うのです。
今日のイエス様は、「さあ、起きなさい」といわれました。すなおに、「はい!」と言いたくなりました(笑)
季節の変わり目、皆さんも元気にすごしてくださいね。
聖書の言葉
マルコ4:35~41 (新68)
4:35その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。 36そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。 37激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。 38しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。 39イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。 40イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」 41弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。
説教「人生の荒波、心の荒波」 徳弘浩隆牧師
1、「あなたが言うから、こうしたのに…」
人生には、自分の思い通りにいかないことがあります。それも、自分の強い意志ではなくて、誰かに言われてそうした時、不安や不満はより一層大きなものになります。そんなとき、こういいたくなります。「あなたが言うからこうしたのに、どうしてくれるの?」と。「自分はもともと、反対していたんだ。でも、あなたがそういうからこうしたんだ。ほら、心配したとおりになった。」と。
こどものころから、今まで、それぞれ、そんなことがないでしょうか?今日の聖書のお話は、そんなことを考えさせてくれます。
「あなたが言うからこうしたのに、こんなことになってしまった。どうしてくれるんですか?どうしたらいいんですか?」
親や、家族に、職場の上司に、教会でも?そんな気持ちがわくことがあるかもしれません。そんなとき、どうしたらいいのでしょうか?聖書を読んでいきましょう。
2,聖書
今日の聖書は、こんな状況でした。
群衆が押し寄せて、話をする場所がない。だから、イエス様はガリラヤ湖の漁師の船を借りて、その上から岸辺の群衆に話をしました。大切なお話をされました。みんな喜びました。
さてそれで、日も暮れて、お開きにしたいところです。しかし、群衆はたくさんまだ岸辺にいます。岸に戻ってみんなを解散させて、自分たちも帰るにはまだ時間がかかりそうです。
イエス様は、向こう岸へ行こうといわれました。群衆を岸辺に残して、反対側の岸に行こうと言われるのです。
車を停める気に、こちら側に駐車場がないから、反対側にクルっと回って、反対側の駐車場に止めよう、というのとはわけが違います。反対側の岸はもっともっと遠いからです。もう一つ大きな問題がありました。それは、ガリラヤ湖の東側は、異邦人も多く住む街々があったからです。そんな方へ船をつける。そのために今からこの大きな湖を横断する。それは、結構大変なことでした。
でも、イエス様が言われるなら、と弟子たちは漕ぎ出したのです。そうしたら、激しい突風が起こって、波をかぶり、水浸しになるほどになりました。そういう状況でした。そんな時、イエス様は眠っておられたのでした。弟子たちはイエス様を起こしました。「ちょっとすみません。助けてください、お願いします」ではありませんでした。彼らは殺気立っています。「先生、私たちがおぼれても構わないのですか?」と言ってしまいました。
そこでイエス様は起き上がりました。そして風を叱って、湖に言われました。「黙れ、静まれ」と。
そうすると、すっかり凪になったということでした。それを見て、弟子たちは非常に恐れます。「いったいこの方はどなたなのだろう」と。今まで信じて従ってきたこの方は、自分たちが思っていたよりもそれ以上の方だと、身にしみてわかったのでした。
3,振り返り
今日はこれを聞いて、何を学ぶべきでしょうか?
今日の週報の表紙を見てお気づきの方も多かったかもしれません。今、ここに二つの絵がありますが、これらの、同じところと、違うところを考えなければなりません。
最初の左の絵は、聖書物語もある聖書の情景を描いたものです。私も子供のころ、買ってもらって、読み聞かせもしてもらった子ども向けの聖書の懐かしい挿絵と同じ作風です。
しかし、二つ目の右側の絵はどうでしょう。状況は同じように見えます。しかし違いがあります。それは、ワイシャツやスーツを着た人がいること。そして、アジア系の女性や、アフリカ系の男性の顔も見えます。
そう、この物語は、2000年前のイエス様の時の出来事であると同時に、今の私たちの姿、私たちの状況でもあるということです。
昔話の奇蹟物語ではなくて、今を生きている私の状況でもある。そして、乗り合わせた小舟には、いろんな国の人もいるということ。言葉や、文化も風習も違うかもしれません。しかし、私たちはたまたま呼び集められて、乗り合わせた仲間なのかもしれません。もっというと、これが大きな世界の縮図ともいえます。
私たちの船は大丈夫でしょうか?みな仲良く理解しあって、助け合って載っているでしょうか?湖は荒波ですが、私たちの間に波風はないでしょうか?そして、私の心の中に、波風はないでしょうか?
いや、時々それはある、というのが答えかもしれません。私の心に、私を取り巻く人間関係に、そして、この社会に、世界に。教会の中でも、ということかもしれません。
私たちはどうしたらよいでしょうか?
船に乗っているイエス様を「たたき起こし」て、「私たちがおぼれても構わないんですか?」と言いましょうか?もっと遠慮なく言うなら、「どうしてイエス様は寝ているんですか?」「どうしてあなたは何もしてくれないんですか?」「そう、そもそもの話をすると、イエス様、あなたが言うから私たちはここまで来たんですよ。どういうおつもりなんですか?」と。「そもそも、向こう岸に行くのは私は気が進まなかったんですよ。無事についたところで、あちらは異邦人の街。歓迎されないだろうし、苦労が待っていると思うんですよ」。などなどです。
ここまで遠慮なく言うと、今の自分が思っていること、つぶやいていること、そのままの言葉になっていることに気が付きます。どうしたらこれは解決するでしょうか?
それは、イエス様を「たたき起こし」て悪態をつくことではなくて、この方をもう一度信頼することです。
少し悪態をついて、思いのままに祈ってもいいでしょう。しかし、そこで気づかされるのは、人間の浅はかさです。
イエス様の力を目の当たりにして、自分たちの浅はかさに気づき、「いったいこの方はどういう方なんだろうか!」と、問題が解決した時に思い知らされるのです。今日読まれた旧約聖書のヨブ記は実は、そんな状況で神様がヨブを「叱り付けて」気づかせているところです。その言葉でヨブも目が覚まされました。
4,勧め
私たちが見失っていることは、「この方がいるから大丈夫」という信頼です。そのうえで、みんながバラバラではなく、また一緒になって文句を言うのでもなく、イエス様を信じ、この方に従っていく、ということを教えあい、励ましあい、助け合うことでした。
実は、「大丈夫」という言葉は、仏教用語がもとになっているそうです。こんなことを最近ちょうど学びました。
一般的には、きわめて丈夫であるさま。ひじょうにしっかりしているさま。非常に気強いさま。を指して使われる事の多い言葉です。元来は、身の丈(たけ)、学識人徳の備わった人や最勝者を、漢語で〈丈夫(じょうぶ)〉とほめ讃えました。後にシルクロードより仏教が伝来し、大の美称が付され〈大丈夫〉となり、仏の呼び方の1つとなりました。仏には一般的に10種類の呼び方が存在します。これを〈如来の十号(にょらいのじゅうごう)〉と言います。そのうちの1つに〈調御丈夫(じょうごじょうぶ)〉とあり、「人を導くのに巧みな人」という意味の異名があります。仏教語としての〈調御丈夫〉や〈大丈夫〉は、仏の尊称として用いられる言葉です。
なんと、私たちの考えで言えば、イエス様こそ、大丈夫な方だったのですね。
自分の力や、お金の力で「大丈夫」と安心したり、そうでない時に「大丈夫だろうか」とおろおろするのではなくて、「イエスさまと一緒だから大丈夫」と、そんな生活をいたしましょう。多くの人に、神の愛と安心をお伝えしましょう。
今週も、神様と一緒に生きていきましょう。
牧師コラム・ 今日の写真、そういえば習ったなぁ
久しぶりに出先で、中華系のファミリーレストランで食事をしました。最近あまり見かけないお店ですが、出先で夕食に困り、ちょうど見つけたこのレストラン。
食事を待つ間に、壁の額に目が留まりました。そこにあったのがこの言葉。昔、高校生のころの漢文でしたか?習った言葉でした。
こういう風に生きたいものだなと、今の自分を振り返いました。人の目を気にしたり、焦りや、むつかしさも感じることがあるからです。クリスチャンとしても、あれこれ言わずとも、人が何かを感じて、来てくれるような雰囲気を、私も教会も醸し出せたらと思わされました。
「桃李 もの言わざれども 下 自ら蹊(みち)を成す」
《「史記」李将軍伝賛から》桃やすももは何も言わないが、花や実を慕って人が多く集まるので、その下には自然に道ができる。徳望のある人のもとへは人が自然に集まることのたとえ。
今年も始まりました、暑い日が続きますね。体に気を付けて過ごしましょうね。日よけカーテンのゴーヤは忙しくて植えるのが遅れて、木曜にようやく植えました。ほかのものも植えようとホームセンターに行ってみましたがもうお野菜の苗は終わりで、少ししかありませんでした。ダメもとで、エンドウ豆など種を買って植えてみました。今日の聖書は「からし種のたとえ」です。聖書の話のように、牧師館の菜園もどんどん成長するよう祈るばかりです。今週は、「からし種ってなに?」「今はやりのTVドラマ、アコライトって何?」を掲載。礼拝は明日は名古屋の復活教会で担当し、YouTubeも中継します。お待ちしています。
聖書の言葉 マルコ4:26~34 (新68)
4:26また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。
人が土に種を蒔いて、 27夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。 28土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。 29実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
30更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。 31それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、 32蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
33イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。 34たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。
説教「こんな小さなものでも・・・」 徳弘浩隆牧師
1、山椒は小粒でも…
私は小学生のころ、いつも一番でした。成績が?いや違います。身長の順に並ぶと、一番前だったのです。クラスで一番小さい自分でしたが、ハキハキ、元気な子でいろんな委員長をしました。でも確かに、コンプレックスはありました。中学・高校になってもあまり変わらず、相変わらず、身長は低い方でした。そんなとき、こんなことわざを教えてもらいました。「山椒は小粒でもぴりりと辛い」。そして、「独活(うど)の大木(たいぼく)」という言葉も知りました。
小さくても、とっても辛くて特徴がある山椒の実はすごいと、安心しました。暑いウナギの季節には、山椒が活躍する季節でもあります。そして、大きいだけであんまり役に立たないと、揶揄される独活の大木を知り、「人間は中身なんだ」と言い聞かせたのを思い出します。
今日の聖書のたとえ話は、山椒ではなくて、「からしだね」です。なるほど、イエスさまも似たようなことを言われたのかな?と思うところですが、どうもそうではないようです。
一緒に聖書を読んでいきましょう。
2,聖書
聖書は、いっしょに読んできたマルコの福音書では、しばらく安息日の論争がありました。そして、今年のサイクルでは読みませんでしたが、「種蒔きのたとえ」が続きました。
種は同じでも蒔かれた場所で成長や収穫が違うように、神の言葉を聞いてもどんな聞き方や生き方をするかが大切と学ぶところです。
さてそれに続いて今日の個所は、「成長する種・からし種」の話に移っていきます。
人の世話や努力も大切だが、種そのものに不思議な力があるから成長するように、神様の言葉にこそ力があるのだと教えられました。そして次に、「からし種」を見なさい、と言われました。この譬えを通して、神の国は、そのようなものだと、説明されたのです。どんなものでしょうか?
どんな種よりも小さいと思われていた「からし種」だけれど、成長してどんな野菜よりも大きくなるのだと、言われ、それが神の国と同じようだと教えられたのです。
たしかに、からし種は成長すると、2メートル近い木のようにすらなるそうです。
そしてそれは、立派な大きくなった自分を誇るのではなくて、葉の陰に鳥が巣を作ることさえできる、つまり、他者のために役立っているということも大切なことでしょう。神の国とは、そういうものだと、イエス様は教えられました。
3,振り返り
さて今日はこれを聞いて、何を学ぶべきでしょうか?
私が子供のころ考えたように、山椒は小さいけれど、強い辛さを持っているしなくてはならない香辛料だから、誰にも引けを足らないぞ、という話とはどうも違うようです。
からし種は、種は小さいけれど、小さいままではなく、大きく育つのだ、ということです。
そして、大きく奇のようになったからしは、他者を見下ろして勝ち誇ったままで終わるのかというと、そうでもありません。からしの種も貴重な香辛料ですが、それだけではなくて、鳥が泊まって羽を休めたり、巣を作って鳥が生きる場所にもなるというのです。
神の国の在り方とは、小さいけれど競争に打ち勝って、面目を保ち、優越感に浸る、見下していた人たちを見返してやるような人生ではないのです。
小さなものでも、神の力で大きくされ、大きいだけではなくて、他者の役にさえ立っているところ、それが神の国ありようなのです。
それは、私たち一人一人の生き方や、社会、国の在り方さえ考えさせてくれます。
追いつけ追い越せで上を目指し、競争に打ち勝つだけの人生や社会ではなくて、内外ともに豊かにされ、それを他者のためにも用い、支えあって生きる生き方や社会が実現しているだろうかと、考えさせられます。
「神の国」という言葉は、死んだ後の「天国」の意味ではありません。かといって、革命を起こして今ある国の体制を変えて、神様を信じている人が主導する「国」を作ることでもありません。
聖書の言う「神の国」は、「神様のご支配があるところ」です。金の力や権力や恐怖心で支配するところではなく、本当に愛で支配されるところ、それが「神の国」です。それは、国境があって、ここやあそこにあるものではなく、私の心に実現し、私と他者との間に実現し、社会や世界に広がるものなのです。
4,勧め
今日のまとめは、この二つでしょう。
1) 神の国は、種のように、人の知恵や努力によらず、神様の力によって成長させられるもの。
2) 神の国は、からし種のように、どんなに小さなものでも大きくされる。そしてそれは、自らを誇るのではなくて、他者を助ける場所とされるもの。
と考えてよいでしょう。
今日の旧約聖書も、レバノン杉の話が預言者によって語られました。高いレバノン杉の若枝を追って高くそびえるイスラエルの山の上に移し替え、その木はうっそうとした木となり、あらゆる鳥が羽を休める場所になると。野のすべての木々はそれを見て、つまり、高い木を低くし、低い木を高くし、生き生きとした木を枯らし、枯れた木を茂らせると。つまり、傲慢なものはその弱さを知らされ、弱く小さなものでも大きくされ、他者の役に立つようにされるのです。実はこれは、メシア・キリストのこととしても預言されています。
そんなレバノン杉のような方として来られたのが、イエス・キリストでした。その方が、今度はからし種のたとえ話をして、小さく弱く見える姿から、大きな神様の救いの技を成し遂げていかれる姿も説明しながら、私たちの生き方も教えられたのです。
さて、どんな生き方をしているでしょうか、私は。そして私たちの教会は。小さなからし種のように、大きくされ、豊かにされ、他者から頼られ、役に立てるような人間として、また教会として、生きていきたいですね。あなたの参加をお待ちしています。
一緒に生きていきましょう。神様と、そして教会の仲間たちと。神様の愛と平和を生き、広げていきましょう。
牧師コラム・ こんなTVドラマシリーズが
インターネットで仕事をしていて、時々気になる広告がありました。「アコライト」とあります。そう、教会でも聞く言葉ですね。礼拝の前に、聖卓や聖壇のロウソクに火をつける人のことをアコライトということが多いですから、Lightを連想することが多いですが、この映画の広告のアコライトは、「Acolyte」とあります。気になりますね。
この広告は、今年6月から配信が始まったDisneyの新しいドラマシリーズのようです。ヒットした映画から、その数年後、数十年後の展開だけではなくて、オリジナルの映画からもっとさかのぼって、主人公の幼少期や、その時代が生まれたいきさつを説明するような映画がいくつも出されますね。このアコライトは、スターウォーズから派生したものの一つのようです。
さて、本題のアコライト。そもそもどんな意味でしょうか?Wikipediaによると、こうあります。
侍者(じしゃ)は、特にカトリック教会と聖公会でミサの時、司祭に付き添う奉仕者のこと。正教会の堂役、聖公会のサーバーに相当する。アコライト (acolyte)、侍祭(じさい)ともいう。英語の「アコライト」はギリシャ語で従者を意味するアコルトス (ἀκόλουθος) に由来する。かつては下級聖職の1つであったが、現在は一般信徒に解放されている。具体的な役割としては、サーバー、クロスベアラー(十字架を持つ)、トーチベアラー(トーチを持つ)、サリファー(香炉を持つ、振る)などがある。 その他にも、各教会ごとに独自に儀式の進行を補助する様々な役目を与えられている場合がある。
アコライトとは、神父さんと一緒に登場して十字架を持って入場したり、ローソクに火をつけたり、聖餐式のお手伝いをする人たちのことだったんですね。このDisneyのドラマシリーズは見ていませんが、おそらく、ジェダイの「侍者」たちのドラマなのでしょうかね?
そういえば、ジェダイとは、銀河を司るエネルギー「フォース」と光刃を形成する剣「ライトセーバー」を用いて戦う、銀河の平和と自由と正義の守護者を指す、とあります。「フォースがともに」というよく聞いた映画のセリフは、英語では「May the Force be with you」。つまり、私たちが礼拝で使う式文の「主がともに(the Lord be with you)」をもじっているのは明らかです。私たちも、主とともにあって世界の平和と自由と正義の守護者なのでしょうね。
6月になりましたね。日差しも暑くなりました。草刈りをして、掃除をして、2教会を行き来して、そして久しぶりに夫婦で買い物。といっても格安スーパーで食材の買い出し。でも、気分転換にもなりました。仕事を終えて、一息つくのも大切なことですね。つい多めに買ってきたので、アルバイトで忙しい外国人メンバーにもお裾分け。仕事と、休憩と、仲間たち。みんな大切に生きていきましょう。礼拝は今日は名古屋の復活教会で担当します。YouTubeでも中継します。お待ちしています!
聖書の言葉 マルコ2:23~3:6(新64)
2: 23ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。 24ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。 25イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。 26アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」 27そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 28だから、人の子は安息日の主でもある。」
3: 1イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。 2人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。 3イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。 4そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。 5そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。 6ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。
説教「安息日(休日)に込めた神の思い」 徳弘浩隆牧師
1、24/365の良さと悪さ…
スマートフォンでSNSをみたり、外国のTV番組を見ていると、「24/365」という言い方や書き方を見ることがあります。最初は何のことかと思いましたが、すぐに気が付きました。日本語風に言うと、「24時間365日いつでも・一年中」という事になるでしょう。
お店や、商品を買った後の「サポートやアフターケアはいつでもどうぞ、心配ありませんよ!」というときによく使われるようですね。
今となっては当たり前で、驚かないこのフレーズですが、むかしは違いました。そして今、もう一度見直されようともしているかもしれません。「働き方改革」という言葉もよく聞きます。
ルーテル教会は、宗教改革の教会ですが、それは、宗教というよりも、私たちの生き方そのものの改革を説いているとも言えます。しかし、同時に、教会員や牧師の在り方も、考えなければならない時代にもなってきたと言えるかもしれません。
今日の聖書の話は、イエス様が安息日について語っているところです。語っているというよりもむしろ、非難をされ、それに対して論争になったような出来事です。
私たちのいのちや、生き方を一緒に考えてみましょう。
2,聖書
ある安息日に、麦畑を通っていたイエス様たちの一行です。その時、弟子たちが、歩きながら麦の穂を摘み始めたのです。すると、ファリサイ派の人たちが批判しました。ファリサイ派は先週の日曜日にも出てきた、聖書の教えをよく学び、その通りにそれを守り生きている熱心な人たちでした。ですから、いい加減に生きている人たちを批判したり、馬鹿にしたりもし、「自分たちは彼らとは違う生き方をしている」と、分離しているという意味の「ファリサイ」という言い方が定着したそうです。
さて、そんな、まるで「風紀委員」のような人たちが厳しく批判します。イエス様の弟子たちが、人の家の畑から勝手に麦の穂をとっているからだと思ったら、実は大違いでした。問題はそこではありませんでした。
なんと、「安息日に労働をしているから」というのが彼らの論点だったのです。
安息日は、天地創造の物語にまでさかのぼって確認せねばなりません。神は6日間で順々にいろいろなものを造られたと記されています。そのたびに「良かった」と言われます。そして、6日目に人を造り、全てを見て、「本当に良くできた!」と喜ばれます。7日目は休息の日でした。後にモーセが神様から十戒といわれる10の掟をいただいたときにも、その中に、「神様を大切にして、神様が休まれたこの7日目を安息の日として、大切にして守りなさい」と言われているのです。
だから、「そんな大切な日に、彼らは、『収穫』という労働をしている。それは、神の掟を破っている、律法違反だ」という訳です。
その批判に対して、イエス様は反論されます。弟子を守りたくて無理やり弁明しているのではなくて、「安息日の掟の意味そのもの」を説きながら教えられたのです。みんなが知っていて尊敬している伝説の偉大な王様、ダビデの話を持ち出して説明します。そして、その安息日に込められた神様の思いを、説明されたのです。つまり、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と。そしてそのまま、会堂に入り、困った人を癒してあげました。安息日にです。我慢ならないファリサイ派の人たちにたいして、イエス様は今度はこう切り込みます。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」と。これには反論できず、イエス様をどのようにして殺そうかと思ったというほどになりました。
もちろんイエス様は挑発するためにこんなことをされたのではないでしょう。ファリサイ派の人たちは、この言葉を聞いて、神様の思いを素直に知ることができればよかったのですが、ますます、自分たちの考えで頑なになり、神様から遠のいてしまう事になってしまったのです。
3,振り返り
私たちは大丈夫でしょうか?神様の思いとは、どんなものだったのでしょうか?
今日の論争を学ぶためには、聖書の歴史の中での「常識」を知らねばなりません。
実は、聖書の教えでは、人の家の畑でも自由に収穫して空腹を満たしてもよいという掟があったのです。もちろんたくさん収穫して転売してお金儲けをしてはいけないでしょうが、ユダヤ共同体の中ではそんな他者への思いやりもある、寛容な社会、寛容な教えがあったのです。実際、落穂ひろいというミレーの絵を見た方も多いと思いますが、そのモチーフのもともとの聖書の話は、収穫をする際には、いわゆる未亡人や生活困窮の中にある人のために、また、寄留して住む外国人のために、穂を全部収穫してしまうのではなくて、必ず残しておくように、という掟まであったのでした。
なんと、旧約聖書の神様の教えは厳しいものだとばかり思う傾向のある私たちはびっくりさせられる、「愛の神」の姿を見ることになります。
十戒の書かれている申命記の5章を見てみましょう。こうあります。「12安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。 13六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、 14七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。」 ここまで読むと、家族も奴隷も、それだけではなくて牛やロバも休め、という事で生活ががんじがらめにさせられている窮屈さを感じます。神の厳しさも感じます。しかし、その続きを忘れてはいけません。こう続いています。「そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。」
ここに、神様の愛があるのです。「あなたが休むのは、あなたのためだけではない、使用人も、家畜もそれによって気兼ねなく休息をとることができるためなんだよ」、という思いやりの気持ちからだったのです。
掟の奥にある、神様の愛の思いを見逃してはいけません。
4,勧め
こどもが寝ないときに「早く寝なさい!」と大声で怒ってしまうときに、たとえば、「ちゃんと寝ないと、明日大変だよ。明日は遠足で大切な日でしょ」という親の愛の気持ちも添えられているかどうかですね。こどもの側では、いつもうるさい、怖い親と思うかもしれませんが、その奥の気持ちに気づくのは、自分が親になったときや、親を見送る時だったと、気付かされます。神様の素朴な、本当の愛の気持ちに触れて、一緒に生きていきましょう。
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牧師コラム・ おすすめ映画
安息日を守っているだろうか。ちゃんと休めているかな?と自分の忙しさを思い、何とかしたいと、おもいます。しかし、私以上に、いそがしく、多くの場合、もっと条件の悪い状況で、一生懸命働いている人のことも思わされます。もちろん、それぞれの夢や、人生設計の一時期でもあるでしょう。私たちも、そんな下積みの時代もあって今がある、という人生を送っているかもしれません。
「私たちが休んだら、寄留している外国人の方も休めるから」という聖書の言葉と違って、私たちが休みたいから、あの人たちに働いてもらおう」と安易に思っているかもしれない。いや、それにも気づかず、もっと安いものを買って、もっと便利な社会で行きたいと思う「ふつう」の気持ちのために、大きな負担を負ってくれている人たちがいる、と気付かされました。
「縁の下のイミグレ」という映画、とても勉強になり、考えさせられ、泣かされ、頭を抱えて悩むだけじゃない、ちょっとした出口も見える、不思議な映画でした。もっと、他者を愛し、認め合って、支え合って、生きていきたいと思わされます。世界はすぐには変えられなくても、今の自分にできること、私もそんなことに取り組んでいます。一緒に何かしませんか?この映画も見てみませんか?
忙しい一週間でした。そして実はその前の一週間も。一生懸命に良かれと思ってやっていても、理解されなかったり批判を受けることもあります。誰でもそんなときがありますよね。心も体も重たいとき、思いがけず聞く言葉で元気や慰めをもらう事があります。それを人にも伝えると、もっと元気になりました。心に吹いた風、それは神の息かもしれません。そんな日を過ごし、説教で共有します。礼拝は復活教会、洗礼式もあります、Youtubeでの中継もあります。元気にお会いしましょう。
聖書の言葉
使徒言行録 2: 1~21 (新214) から
2:1五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 2突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 3そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 4すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
5さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、 6この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。 7人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。 8どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。 9わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、 10フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、 11ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」 12人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。 13しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。14すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。 15今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。 16そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。17『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。18わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。
説教「人はこうして生きる者となった…」徳弘浩隆牧師
1、霊が降(くだ)るって?
今日は教会の暦ではペンテコステ、聖霊降臨祭です。ペンテコステという言葉はユダヤ教でもあったお祭りの「50日祭」というお祭りのギリシャ語の言い方です。ユダヤで大麦の収穫を祝う春のお祭りでした。今でもシャブオット(50番目の)というお祭りが大切にされています。ちょうどこのお祭りの日に、各地に散らされていて住んでいたいろんな言葉を話すユダヤ人たちが、エルサレムに集まっていた時にあることが起こりました。イエス様の弟子たち一同が一つになって集まっていると、大きな音がして、炎のような舌が現れて頭の上にとどまり、聖霊に満たされた、という出来事が起こったのです。聖霊が降った、と言われます。
何が起こったのでしょうか?霊が降るというと、ちょっとコワいような感じもしますね。実際周りにいた人たちはびっくりしました。今生きている私たちにどう関係があるのでしょうか?一緒に学んでいきましょう。
2,聖書
使徒言行録にその日の出来事が記されていますし、今日読まれた福音書には、イエス様が十字架にかかられる前に、このことについてあらかじめお話ししておられたことが書かれています。
使徒言行録によると、霊が降ると、いろんな言葉を語らせました。各地から集まったユダヤ人はびっくりしたのです。しかし、酒に酔っていると思ってバカにする人もいました。そこでペテロは答えました。そうでは無い、と。これは、預言者ヨエルが預言していたことなのだ、と。
終わりの時には、私の霊をすべての人に注ぐ、と。終わりの日というのは、聖書の中では多くの場合、「裁きの日」、そして同時に「救いの日」を表します。問題だらけの世の中に、苦しみや悲しみの罪の世の中に、神様が介入されて終わらせる日。罪深い人は滅ぼされ、信仰ある人は赦され苦しみから解放される日だからです。それが実現したのが、この聖霊降臨祭でした。
神の霊が注がれた結果、弟子たちはいろんな知らないはずの言葉を語りだしました。しかし、それそのものが奇跡ではありません。それがずっと続いたとは聖書にかかれていないからです。弟子たちが他言語話者になったのではありません。その出来事そのものは一時的だったのでしょう。それが意味する役割が大切です。それは、彼らがイエスキリストのご生涯や十字架と復活、その意味を、旧約聖書からひも解いて多くの人がわかるように説明したという事です。
イエス様を失い、復活された後に再開し改心しましたが、天に帰られ、取り残された彼らです。天をずっと見上げていた彼らでした。しかし、約束通りエルサレムにとどまっていると、聖霊が降りました。彼らは、キリストの言葉を体をもって体験し、心が燃やされ、このことを集まった多くの人々に、今までと違って、自信と確信をもって説明したのです。その結果、洗礼を受けてその日のうちに仲間になったのは3000人だったのです。これが大切な事でした。
3,振り返り
私たちの生き方はどうでしょうか?私たちの生き方と、聖霊が降るという事は、どういう関係があるでしょうか?
私は、忙しくて目が回っていました。良かれと思って一生懸命しているのに批判されたりもして、少々疲れてもいました。そんなある日、神様に「文句」も言いながら歩いていました。用事があって鶴舞公園に行ったときです。きれいなバラ園があってたくさんの人が見たり、写真を撮ったりしていました。広いバラ園ですが、横切ったついでに少しだけ回りました。見ると、いろんな名前の付けられた品種があります。マリア・カラス、ベルサイユのばら、ホワイト・クリスマス…などです。「まあ、よくいろんな名前を付けたもんだなぁ」と独り言を言いながら、一つのバラの前で立ち止まりました。「ティアーモ」と書いてあったからです。カタカナでもアルファベットでも一言で書いていますが、説明を見るとイタリア語で愛の言葉とあります。私がいたブラジルのポルトガル語でも同じように言うので、ピンときました。それは、「Ti amo」(チアーモ)という言葉で、「I love you」の意味です。
神様に文句も言いながら、疲れて歩いていた自分は神の声を聞いたような気がしました。「私はあなたを愛しているよ」と。「文句ばっかり言わなくていい、心配しなくていい」と。心が温かくなりました。写真を撮って、早速この言葉が通じるブラジルの教会学校でお世話していた子たちにメッセージで送りました。すると、少しして、二人から返事が来ました。「Ti amo!」と書かれています。突然神様から「愛しているよ」という言葉を聞いた気がして元気になったので、それを人にも伝えようと送りました。すると、同じ返事が来て、もっと元気になりました。
神様を愛し、人を愛するのが聖書の教えですし、神様の願いです。でも、それができずにいる罪深い私たちを、教え赦し、生まれ変わらせるために、キリストの十字架と復活があり、約束の霊が降ったのです。これによって私たちは、神様によって新しく生まれ変わらせられるのでした。人は本来このようにして造られたと旧約聖書には書かれてありました。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」この神の息は、霊だと考えられています。しかし、その神を裏切り離れ、憎しみや悪事を働く人間は罪びとと言われてしまいます。しかし、「終わりの日」にすべての人に、霊を注ぐと約束された神は、キリストの出来事によって、それを実現されました。
神の愛に気づき、互いに愛し支え合う生き方をする、本当の意味ある命に、生まれ変わることが起こるのです。「こうして人は生きるものとなった」という言葉が、今の私たちに、私に、実現するのでした。
4,勧め
今日は、復活教会では洗礼式があります。年齢に関係なく、私たちは、この出来事によって、生まれ変わります。ペンテコステの日には、霊が降り、多くの人が洗礼を受けて仲間に入りました。赤い炎を覚えて、伝統的には、赤いバラの花びらをシャワーのようにまく教会もあります。水と霊とによって新しく生まれ変わる、それが洗礼式です。わたしたち一人一も、もう一度、それを見つめましょう。そんな神様との関係を回復して、生きていきましょう。
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牧師コラム・ フィンランドからお客様
先週は、フィンランドからお客様が来られました。全国の牧師会が終わって名古屋に帰りついて少しして、彼らを大曽根駅にお迎えに行き、楽しい3日間が過ぎました。
Kosti Kallio、Sirpa Kallio夫妻は日本に21年いた宣教師で、私も京都で一緒に働きました。楽しいお二人ですが、まじめな先生と、ギターを弾いて歌っておしゃべりをして明るいシルパさん。私がブラジルにいるときは、サンパウロにも会いに来てくれました。宣教師同士、喜びや悲しみも分かる仲間のような気がします。2教会の案内や、高蔵寺では予定が合ったので聖研や交流会もできました。ありがとう!
世界に広がる教会。一緒に宣教や平和実現を。
聖書の言葉
ルカ 24:44~53 と 使徒言行録 1: 1~11 (新213)
1:1-2テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。
3イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。 4そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。 5ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」
6さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。 7イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。 8あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
9こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。 10イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、 11言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」
説教「なぜ天を見上げて立っているのか」徳弘浩隆牧師
1、どこかで聞いたセリフ
今日の使徒言行録の言葉、説教題にも選びましたが、この言葉はどこかで聞き覚えがあるかもしれません。「なぜ○○○○を見ているのか?」という天使の弟子たちへの問いかけです。
これは、そのまま、教会に通っている私たちにも、神の使いが問いかけている言葉にも聞こえてくるから、大切な言葉だと思います。
おぼえておられますか?そう、ルカによる福音書にもありました、キリストが復活されたとき、墓穴の中を見つめているマグダラのマリアたちに、天使が呼びかけました。そして、その言葉に視線を変えるように促されたのです。あの時と同じように、弟子たちは天使たちに問いかけられました。大切なところではなくて、自分たちの心配や思い込みで、別のところを見つめたままの弟子たちに、正しい方向を見るように促したのです。
私たちも、毎日の生活の中で、間違ったところだけを見つめて、あくせくしているかもしれません。どこに視点を転じたらよいのでしょうか?一緒に学んでいきましょう。
2,聖書
今日の聖書は、ルカによる福音書の最後と、使徒言行録の最初から選ばれています。今日は主に、使徒言行録の方を見ながら、神様の声を聴いていきたいと思います。
説教は福音書の言葉から神の声を聴くべきではないかと、そう思われることがあるかもしれません。ある面もっともなことです。福音書こそ、キリストのご生涯と教えがまとめられて伝えられているからです。しかし、今日の福音書と使徒言行録は特別です。使徒言行録の冒頭に、テオフィロという人に宛てた言葉が書かれています。その中で、「先に第一巻を書いた」と言及されているのが、ルカによる福音書と考えられています。
つまり、これらは実は続きものだと考えられているのです。ですから、ここ2年程、教会の聖書研究会ではルカによる福音書を駆け足で学び、その次は使徒言行録を学びました。そこでは一貫した流れを学ぶことができました。キリストの出来事から最初のキリスト教会と宣教の歴史、そして、ユダヤ人たちへの教えではなくて異邦人にキリストが伝えられたいきさつです。そして次にはエフェソ書を学びましたが、エフェソという異邦人の町の教会にあてた手紙を読みながら、日本という別の文化や宗教で生きる私たちが「異国の宗教」であるキリスト教を信じるにあたっての間違いや問題とそれへの教えを参考にしたいと思っての事でした。
さて、今日は昇天主日です。これは、今日のルカによる福音書と、その続きの使徒言行録が伝えているキリストが天に昇って行かれるという出来事です。
興味深いことに、5節では使徒たちは、つまり主要な弟子たちはまだ的外れな質問をしています。キリストは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを数多くの証拠を持って示し、40日間にわたって彼らに現れて、神の国について話されたとルカは振り返りながら説明し、続くキリストの言葉を伝えます。それは「エルサレムにい続けなさい。約束されたものを待ちなさい。聖霊による洗礼を授けられるからだ」と。それに対して使徒たちは、「イスラエルのために国を再建されるのはこの時ですか?」と尋ねたのです。
まだ、彼らの思い込みと期待による、イスラエルという地上の国の再建をしてくれる王様としてのメシアを期待していました。それがいよいよかと、問うたのでした。それに対してキリストは、「そのときは父が決めることである。聖霊が降ると力を受ける。そしてエルサレムばかりではなく、地の果てに至るまで、私の証人となる。」と「つまり、私の言葉と出来事を伝えていくのだよ」と言われました。そしてキリストは祝福をしながら天にあげられたのです。
3,振り返り
さて、大切なのは、それに対する使徒たちの姿です。あっけにとられて天を見上げました。そして、そのままだったのです。天を見上げていたまま。
そこに冒頭に考えた天使の言葉です。「どうして天を見上げたまま立っているのか?」それは今の私たちにも問いかけられていると考えてきたとおりです。
最後まで神様の御心を理解できず、いよいよその時が来たのか?と自分の願いだけを考えて的外れな期待をします。キリストに教えられ諭されても、まだ、いなくなったキリストの方を見ているだけなのです。
自分の願い事だけを祈り、それがかなうのはいつか、今かと、神様に問い続け、神様のもっと大きな恵みや、自分の使命に気が付かないのでした。そして、私たちも、自分のことや目の前のことだけに心を奪われ、迷ったり、立ち止まったり、衝突したり、です。キリストは何も解決せずに、天に帰って行かれたよ、と見上げていただけだったのかもしれません。
天使は、そんな彼らに、そして、そんな私たちに呼びかけています。またおいでになる、と。神の霊が注がれ、その力に満たされ、自分自身が変えられてゆくことを思い出さされるのでした。
4,勧め
祈りは大切です。しかし、自分の願いをかなえてもらうためだけではいけません。そして、すべてがうまくゆくような解決を待つだけでもいけないのでしょう。神の霊に満たされて、変えられてゆく自分が、神様の計画を実現しお助けする側になること、それによって願うだけではなくて、それを実現するものにされてゆくことを考えてゆくことも大切です。
今日のキリストのまとめの言葉と、天使の呼びかけの言葉は、そのように私の心に届きました。
見上げて立っているだけではなくて、足元を見て、神の願いを自ら生きるものになりましょう。
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牧師コラム・ 今日の写真 I Love YOU!
先日公園に行きました。春には、桜がきれいで沢山の人たちが桜を楽しんでいました。そのときは、車を停めるにも長い行列でなかなか駐車場に入れませんでした。入ると、多くの人が、そして沢山の外国人の人たちもあちらこちらに座って、桜を楽しんでいました。
先日行ったときは、とてもきれいなバラが咲き乱れていました。バラ園がきれいに整備され、沢山の品種の桜が裂き比べているようでした。
いろんな名前のバラがあるんだなぁ、と思いながら少しだけ回りました。そこで見つけたのがこのバラ。その名は「ティアーモ」とカタカナで書かれています。横にはアルファベットでも書かれていますがこんな具合です。
「Tiamo」。ブラジルにいた私はすぐにピンときました。その写真を撮って、ブラジルにいたときにお世話をしていたこども達数人に送りました。すると、翌日数人から返事がきました。「Ti amo!」と。
このバラは、ドイツの品種ですが名前はイタリア語。意味は「I Love YOU!」で、ポルトガル語でも同じように言います。もう5年もあっていないけれど、何度もメッセージや写真をやり取りしているブラジルの子どもたちに送ったメッセージはその意味が分かって、同じ言葉で返事を送ってくれたのでした。バラのきれいな花と一緒に、とっても嬉しくなりました。
さてこのバラの名前と、その意味、その赤い花びら、続きのお話は来週のペンテコステの説教でお話ししましょう。
お楽しみに。
聖書の言葉 ヨハネ 15: 9~17 (新198)
15:9父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。 10わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
11これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。 12わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。 13友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 14わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 15もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 16あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。 17互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」
説教「友のためになにができるか?」 徳弘浩隆牧師
1、クリスチャンという言葉
私たちは自分たちのことを、「クリスチャン」と呼ぶことがありますが、そもそもどういう意味でしょうか?
いくつかの説がありますが、一般的に考えられていることはこうです。聖書の中では使徒言行録11章の25-26節に「それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。」と初めて登場します。ユダヤ人中心のエルサレム教会に対して、北部のアンティオキアは非ユダヤ人非ユダヤ教出身のいわゆる異邦人の教会でした。そこで、「キリスト者と呼ばれるようになった」と訳されているのは、ギリシャ語聖書では「Χριστιανούς(クリスティアノス)」、ラテン語聖書では「christiani(クリスチアーニ)」となっていて、英語のクリスチャンになっていきました。そのもともとの意味は、「キリストの奴隷」「キリスト党員」「小さなキリスト」などの意味があり、やや揶揄された呼び方だったという説もあります。ちなみに16世紀の日本ではクリスチャンは「耶蘇(やそ)」、神父さんは「バテレン」と呼ばれますが、これはポルトガルやスペインの宣教師が紹介した「イエス」が「耶蘇」と書かれ、神父を意味する「Padre(パードレ)が伴天連(バテレン)と漢字で書かれたのがもとで、人々からやはり揶揄されるように呼ばれました。
聖書の中ではこのように、「キリストの奴隷」ともいえる呼び方ですし、パウロも自分のことを「奴隷」という言葉を使って書いているところもありますが、一般的に「キリストのしもべ」と訳されています。
さてしかし、今日の聖書はキリストは私たちのことを、奴隷でも、僕(しもべ)でもない、「友」と呼んでくれています。私たちとキリストとの関係を聖書から学んでいきましょう。
2,聖書
今日の聖書日課は、先週と同じで、ヨハネの福音書の中の13章から16章までの、いわゆる「決別説教」「告別説教」と言われる長いお話の中からです。最後の晩餐があり、弟子の足を洗い、新しい掟の話をし、羊やブドウのたとえ話があり、今日は「友」という言葉が一つのキーワードでしょう。
神がキリストを愛されたように、キリストも弟子たちを愛してきた、と言われます。そして、その愛にとどまっていなさいと。それは、キリストが言われる掟を守るなら、愛にとどまっていることになるのだと、続けられました。
そして、その大切な掟、命令は、「キリストが弟子たちを愛したように、弟子たちも互いに愛し合いなさい」という事でした。そして、僕は主人が何をしているかわからないでいるが、弟子たちはもうわかっているので、僕ではなくて、「友と呼ぶ」という話になっていきました。
奴隷は主人の所有物であり、言われるままの仕事や生き方をしなければなりません。奴隷は主人の考えを知る由もなく、ただ従うという事でした。しかし、いまや、キリストと弟子たちは、「主人と奴隷」ではなく、その考えがすべてわかり、それを行う事になるので、「友と友」という関係になるのだというのです。
その「友である」ということのカギが、「互いに愛し合うべき」という事でした。
3,振り返り
キリストは弟子たちのことを、「友」と呼ばれました。私たちクリスチャンも、クリスチャンという言葉はもともと「キリストの奴隷」ともいう意味でしたが「友」とされています。でも、その「友」である根拠は、キリストの愛にとどまっていること、そして、互いに愛し合う事、それが必須でした。
私たちにできているでしょうか?讃美歌でも、「慈しみ深き、友なるイェスは」という歌もあります。やさしくしてくださるイエス様のことを思い、この讃美歌が好きだという方も多いでしょう。
イエス様は私たちのことを「友」と呼んでくれたけれど、罪深い自分にその価値があるのかと、それほどの愛で他者を愛しているかと問われると、私はまだキリストの友とはなれていない自分を見つけざるを得ません。
どうしたらよいでしょうか?矛盾や不安や不満がたくさんある社会です。人がゆるせない、自分も赦せない。人を愛せない、自分も愛せない。そんなときもあるかもしれません。間違いや不正をそのまま許すこと、是認することを聖書は求めていません。罪を認め、悔い改めてキリストを信じる者の罪をゆるすと、礼拝でも罪の告白とゆるしの宣言でも説明しています。しかし、それでも自分は他者を許せない愛せないことがあるかもしれません。どうしたらよいのでしょうか?
4,勧め
それは今日のキリストの言葉に答えがあります。努力して努力して、やっと、キリストの友とされるところに到達するのではありません。キリストが神の知恵・み言葉を教えてくれ、友と呼んでくれ、その友のために命さえを投げ出してくれたこと、それほどの大きな愛が神の愛だと、教えてくれたのです。「友のために命を捨てること、それほど大きな愛はない」とキリストがこれから向かう十字架の道を見据えながら、本当の神の愛の在り方を教えられたのでした。
その出来事を、感謝して受け入れることです。そして、自分も少しずつ、そのような愛で生きることを促されています。キリストの奴隷ともいえるクリスチャンであるわけですが、それはすべてこの方に従って生きていくという、信仰告白的な意味では「奴隷」でもよいでしょう。しかし、いつまでも「奴隷」ではなくて、キリストによる神の知恵とみ言葉を知り、そうされたように自分も人を赦し愛する生き方をするときに、本当の「友」と呼ばれるにふさわしくなります。それを、キリストは願い、自分を投げ出し、招いておられるのです。自分も傷つきながら、痛みを覚えながら、他者を赦し、そのために生きる、それが、キリスト者の生き方です。そんな生き方を格闘しながらでも、したいと思わされます。安心して、一緒に生きていきましょう。教会の仲間は、そんな生き方を、失敗もしながら生きている仲間、兄弟姉妹、家族なのです。
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牧師コラム・ 久々の出会い、新しい出会い
4月29日は「わいわいワーク」に行ってきました。天候も適度な「くもりに恵まれ」、暑すぎず、雨でもなく、話題の「パンダ羊」にも会えました。
私は草刈り機持参で草刈りをしましたが、格闘の相手は地面の雑草ではなくて、フェンスに絡まる蔦でした。こういう時いつも思い出す歌は、「蔦の~絡まるチャペルで、祈りをさ~さげた日~♪」という歌。素敵な情景を思い出す歌ですが、私は穏やかな気持ちではありません。教会の草刈りや掃除をするときにいつも思うのはこうです。「蔦の絡まるチャペルは教会の素敵なイメージで良いけど、牧師や教会員は大変なんだよぉ」と。今回もそう思いながら、一緒に作業をする他教会の方とおしゃべり。「すごいですねぇ。ここまでフェンスに絡まって、しっかりとしがみ付いますねぇ」。しかし、「そういえば、昨日の聖書も、ブドウの木につながっていなさいというブドウの枝の話でしたねぇ」と、聖書に話が弾み、考えさせられました。一生懸命にしがみ付く努力そのものはキリストは求めておられないかもしれないけれど、このくらいガッシリと(フェンスにではなく)キリストにつながっていたいものだと思わされたのです。
私の担当教会の愛知県二教会から牧師夫妻を入れて10名、そして浜名教会からは福祉会職員の方も参加しておられたし、他教会の多くの方々と交流もできました。私と一緒に参加した方々には、ブラジルで開拓伝道もし、ご高齢者の健康体操普及プロジェクトを30年前に始めて大きな組織に育て上げた聖公会の女性執事(終身補助司祭のような方)とベトナム、ブラジル、スリランカの外国メンバーも一緒でした。スリランカ・メンバーは今年教会に来始めてくれた新人さんですが、だいぶ日本語も上手になり、打ち解けて、一緒に頑張り、喜んでくれていました。帰りにはこひつじ診療所の通訳さんのブラジル野菜農園も訪ね、マンジョッカ(タロイモ)の話や各国での呼び方や食べ方の違いでも盛り上がりました。言葉や国籍を超えてみんなで笑い、天国を垣間見た気がしました。 早朝から夜の帰宅まで、体力は使いましたが、教会も言葉も、教派も超えたメンバーの出会いと再会で、うれしく楽しい日でした。キリストから託された大切な私たちの働きとこの輪を、一緒に広げてゆきたいと思います。
5/25には、「グリーンズ・フェア」もあります!
久しぶりの方と再会しました。ブラジルという「異国」で共に働き、いろいろなことを共有した同労者、ブラジル聖公会の執事の姉妹です。バスに乗って遠い街に行き、教会で子どもたちにお話をし、教会員の方と交流し、弓場農場を一緒に訪ね、超教派の研修会をしたりもしました。懐かしいことをいろいろ話し、あっという間に時間が経ちました。大笑いしながら、反省させられたり、驚いたり、新しいアイデアも色々頂きました。そして、神様を中心にしてつながっているということの大切さも痛感しました。今日の聖書も、「つながっていなさい」というのがキリストの言葉です。一緒に私たちの生き方を、考えてみましょう。私は今日の礼拝は高蔵寺教会の担当です。YouTubeで浜名教会の方々にも中継を通して一緒に礼拝をします。お待ちしています!
聖書の言葉 ヨハネ 15: 1~ 8 (新198)
15:1「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。 2わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。 3わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
4わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。 5わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。 6わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。 7あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。 8あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。
説教「キリストにつながる フォロウとシエアとリンクの違い」」
徳弘浩隆牧師
1、インターネットの時代、つながるとは?
便利な世の中で、手のひらで調べ物をしたり、友人と連絡をとったりできるようになりました。近況報告は年賀状という時代もありましたが、今では、年に一度の力作に頼らなくても、日常から、近すぎず、遠すぎず、互いの近況を知ることができます。
教会でもそうです。1995年ころそれを感じました。パソコンも高価なMacを買わなくてもWindowsが使いやすくなり、パソコン通信からインターネットへ移行する時期でした。日曜日に会って挨拶する言葉は、「おはようございます。一週間お元気でしたか?」という言葉ではなくり、「おはようございます。先日は大変そうでしたねぇ。あれからどうなりましたか?」に変わったのです。主に若い世代で、教会で会う日曜日以外でもネット上で互いの状況を知ることができるようになった頃でした。そんな挨拶をしながら、自分でも驚いたのを覚えています。
しかしそれも今は昔の話。世代を超えてこれはもう、当たり前になってきました。私たちは以前にも増して、お互いに「つながっている」ということが普通で、簡単になってきました。
今日の聖書で、キリストは「私につながっていなさい」と言われます。人間同士、そして神様との関係では、どんな具合でしょうか?神様は、私たちにどんな生き方を願っておられるでしょうか?一緒に学んで神様の声を聴きましょう。
2,聖書
聖書の中には、神様と人との関係をたとえているいろいろなモチーフがあると先週考えたばかりですが、先週の「羊」のたとえと同じように何度も出てくる「ブドウの木」のたとえの中の一つです。キリストの復活後に読まれるのですが、十字架にかかられるもっと前の話です。なぜ復活後にこの箇所が伝統的に読まれるかというと、ヨハネの福音書の中の13章から16章までの、いわゆる「決別説教」の中の話で、最後の晩餐の折に弟子たちに語られたお別れの大切な話の中にあるからです。もう一度、キリストの告別の大切な話を復活節に思い出して生きていこうという流れになるからです。
さて、ブドウは旧約聖書からたびたび、神と人との関係を伝える譬えに使われています。まことのブドウの木につながっていながら実を結ばない枝は、農夫である父なる神が取り除かれると、裁きを伝えます。旧約聖書のエゼキエル書15章にも、「役に立たぬブドウの木」と小見出しが付けられている箇所は辛辣です。「森の木々の中で何の役にも立たない。役に立つものを作る木材にもならず、器物をかける釘にもならない」と、神につながっていない人の命の無意味さを皮肉と嘆きを持って語るのです。
そんなブドウの木のたとえをさらに進めて、「私こそ、まことのブドウの木なのだ」とキリストは言われました。この方につながっているなら、そのみ言葉によってきよめられ、実を結ぶことになる、と。
3,振り返り
私たちがここで注意して、努力するべき点はどこでしょうか。それは、「私たちは枝である」ということです。枝は自分の努力で水分や養分を土から吸収したり、太陽の光で栄養を作り出すことはできません。それは、根の役割であり、葉の役割です。枝はただきちんとつながっているということが大切です。枝や茎には導管と師管という動脈と静脈のような二種類の管があってそれらを循環させていると、中学のころ教わったのを思い出します。
私たちは、枝として、キリストという本当のぶどうの木につながっているだけで、自分の行いによらず、豊かな実を結ぶことができるのです。ブドウの木が、枝に養分や水分を注ぎ込んでくれます。私たちも、必死にしがみついてつながっていて、それら養分や水分を必死に吸い採る努力をすることが求められているのではありません。大切なのは、つながり、とどまっていることです。そうすれば、キリストの真理と愛と命が注ぎ込まれるのです。簡単と思うかもしれません。しかしそれが危ぶまれる状況でした。最後の晩餐の席で、キリストが文字通り、「命がけで」弟子たちに最後に伝えたかった言葉だったからです。このことが再現される聖餐式でも、このキリストの言葉を味わい、とどまり、キリストの体と血をいただきながら、つながり生かされ続けることを、確認していきたいと思います。
4,勧め
さて、今日の謝意所は、「つながること」が以前にもまして簡単になった世の中のことを考えました。
今では普通になり、役所の提出物広報もSNSが使われています。いろんなニュースや出来事も共有されます。私たちも、活用し、楽しみ、便利に生きてもいるでしょう。友人知人に限らず、いつも面白いこと、ためになることを発信する人を見つけたら、「フォロウ」ボタンを押して逃さずに見ようとします。納得したら「いいね」ボタンを押して参道の意思表示もします。そして「これは自分の知り合いにも伝えなきゃ」と思ったら「シェア」ボタンを押したりもします。今はそんな生き方が普通になってきました。
では、私たちの神様との関係はどうでしょうか?「私に従え」と言われたキリストに従うのは、文字通り「フォロウ」でしょう。聖書を読んで説教を聞き、祈りを共にするときに「本当にそうだなぁ!」と思いいう言葉は「いいね」ではなくて教会では「アーメン、その通りです」となります。こんないいお話は、人にも伝えないともったいないと思って「シェア」するのは「伝道」や「宣教」ということになるでしょう。
でも大切なのは、スマホのボタンを押すだけのような生き方ではいけないということです。私たちの生き様やいのちがかかっている出来事は、 キリストにしっかりとつながってそのように生きることです。それは、ただ「フォロウ」や「いいね」や「シェア」を座りながら押すことではありません。私たちの生き方が問われています。キリストと本当につながり、そのように生きること、そのボタンを押せばキリストが見え、キリストにつながっていくこと、それは「リンク」のボタンではないかとも思います。
今日はブラジルという異国で一緒に生きて、宣教をした姉妹が礼拝に出てくれています。キリストのもとで私たちも同労者、家族のようにつながっていました。数年ぶりに日本で再会し、遠慮なくいろんなことを話しあい、昨夜も時間があっという間に過ぎました。失敗や、恵みや、笑い話を互いにしながら、しかし、すべてを計画し導いておられる神様を一緒に見上げることができました。
そんな同労者、キリストにある家族のような群れを、私たちも作り上げ、広げてゆくこと、キリストに動かされて自分も変えられていくこと、それが豊かに実を結んでいくことなのだと、実感させられました。一緒に生きていきましょう。神様と。
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牧師コラム・ 今日の写真 こんなところに!
むかし、アスファルトで舗装された道にたくましく育った大根が有名になりました。「ど根性大根」と。調べると2005年、兵庫県の相生市でした。相生市のマスコットのゆるキャラとしても、「ど根性大根 大ちゃん」として健在だそうです。
この教会の階段に自生した花は、ど根性というより、りりしく、きれいに花を咲かせ、教会に来る人を歓迎している優しさやHospitalityを感じます。私たち一人一人も、教会に来る人を笑顔で迎え、ほっとさせてあげられる、そんな一人一人になりたいですね。それぞれの教会でも、せっせと、草刈りや雑草抜き、お花の世話をしてくださる方々に感謝しています。そんなお一人お一人も、こんな花のような存在です。ありがとうございます。
聖書の言葉 ルカ15: 1~ 3,11b~32 (新138) 15: 1徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 3そこで、イエスは次のたとえを...