今年も始まりました、暑い日が続きますね。体に気を付けて過ごしましょうね。日よけカーテンのゴーヤは忙しくて植えるのが遅れて、木曜にようやく植えました。ほかのものも植えようとホームセンターに行ってみましたがもうお野菜の苗は終わりで、少ししかありませんでした。ダメもとで、エンドウ豆など種を買って植えてみました。今日の聖書は「からし種のたとえ」です。聖書の話のように、牧師館の菜園もどんどん成長するよう祈るばかりです。今週は、「からし種ってなに?」「今はやりのTVドラマ、アコライトって何?」を掲載。礼拝は明日は名古屋の復活教会で担当し、YouTubeも中継します。お待ちしています。
聖書の言葉 マルコ4:26~34 (新68)
4:26また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。
人が土に種を蒔いて、 27夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。 28土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。 29実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
30更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。 31それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、 32蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
33イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。 34たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。
説教「こんな小さなものでも・・・」 徳弘浩隆牧師
1、山椒は小粒でも…
私は小学生のころ、いつも一番でした。成績が?いや違います。身長の順に並ぶと、一番前だったのです。クラスで一番小さい自分でしたが、ハキハキ、元気な子でいろんな委員長をしました。でも確かに、コンプレックスはありました。中学・高校になってもあまり変わらず、相変わらず、身長は低い方でした。そんなとき、こんなことわざを教えてもらいました。「山椒は小粒でもぴりりと辛い」。そして、「独活(うど)の大木(たいぼく)」という言葉も知りました。
小さくても、とっても辛くて特徴がある山椒の実はすごいと、安心しました。暑いウナギの季節には、山椒が活躍する季節でもあります。そして、大きいだけであんまり役に立たないと、揶揄される独活の大木を知り、「人間は中身なんだ」と言い聞かせたのを思い出します。
今日の聖書のたとえ話は、山椒ではなくて、「からしだね」です。なるほど、イエスさまも似たようなことを言われたのかな?と思うところですが、どうもそうではないようです。
一緒に聖書を読んでいきましょう。
2,聖書
聖書は、いっしょに読んできたマルコの福音書では、しばらく安息日の論争がありました。そして、今年のサイクルでは読みませんでしたが、「種蒔きのたとえ」が続きました。
種は同じでも蒔かれた場所で成長や収穫が違うように、神の言葉を聞いてもどんな聞き方や生き方をするかが大切と学ぶところです。
さてそれに続いて今日の個所は、「成長する種・からし種」の話に移っていきます。
人の世話や努力も大切だが、種そのものに不思議な力があるから成長するように、神様の言葉にこそ力があるのだと教えられました。そして次に、「からし種」を見なさい、と言われました。この譬えを通して、神の国は、そのようなものだと、説明されたのです。どんなものでしょうか?
どんな種よりも小さいと思われていた「からし種」だけれど、成長してどんな野菜よりも大きくなるのだと、言われ、それが神の国と同じようだと教えられたのです。
たしかに、からし種は成長すると、2メートル近い木のようにすらなるそうです。
そしてそれは、立派な大きくなった自分を誇るのではなくて、葉の陰に鳥が巣を作ることさえできる、つまり、他者のために役立っているということも大切なことでしょう。神の国とは、そういうものだと、イエス様は教えられました。
3,振り返り
さて今日はこれを聞いて、何を学ぶべきでしょうか?
私が子供のころ考えたように、山椒は小さいけれど、強い辛さを持っているしなくてはならない香辛料だから、誰にも引けを足らないぞ、という話とはどうも違うようです。
からし種は、種は小さいけれど、小さいままではなく、大きく育つのだ、ということです。
そして、大きく奇のようになったからしは、他者を見下ろして勝ち誇ったままで終わるのかというと、そうでもありません。からしの種も貴重な香辛料ですが、それだけではなくて、鳥が泊まって羽を休めたり、巣を作って鳥が生きる場所にもなるというのです。
神の国の在り方とは、小さいけれど競争に打ち勝って、面目を保ち、優越感に浸る、見下していた人たちを見返してやるような人生ではないのです。
小さなものでも、神の力で大きくされ、大きいだけではなくて、他者の役にさえ立っているところ、それが神の国ありようなのです。
それは、私たち一人一人の生き方や、社会、国の在り方さえ考えさせてくれます。
追いつけ追い越せで上を目指し、競争に打ち勝つだけの人生や社会ではなくて、内外ともに豊かにされ、それを他者のためにも用い、支えあって生きる生き方や社会が実現しているだろうかと、考えさせられます。
「神の国」という言葉は、死んだ後の「天国」の意味ではありません。かといって、革命を起こして今ある国の体制を変えて、神様を信じている人が主導する「国」を作ることでもありません。
聖書の言う「神の国」は、「神様のご支配があるところ」です。金の力や権力や恐怖心で支配するところではなく、本当に愛で支配されるところ、それが「神の国」です。それは、国境があって、ここやあそこにあるものではなく、私の心に実現し、私と他者との間に実現し、社会や世界に広がるものなのです。
4,勧め
今日のまとめは、この二つでしょう。
1) 神の国は、種のように、人の知恵や努力によらず、神様の力によって成長させられるもの。
2) 神の国は、からし種のように、どんなに小さなものでも大きくされる。そしてそれは、自らを誇るのではなくて、他者を助ける場所とされるもの。
と考えてよいでしょう。
今日の旧約聖書も、レバノン杉の話が預言者によって語られました。高いレバノン杉の若枝を追って高くそびえるイスラエルの山の上に移し替え、その木はうっそうとした木となり、あらゆる鳥が羽を休める場所になると。野のすべての木々はそれを見て、つまり、高い木を低くし、低い木を高くし、生き生きとした木を枯らし、枯れた木を茂らせると。つまり、傲慢なものはその弱さを知らされ、弱く小さなものでも大きくされ、他者の役に立つようにされるのです。実はこれは、メシア・キリストのこととしても預言されています。
そんなレバノン杉のような方として来られたのが、イエス・キリストでした。その方が、今度はからし種のたとえ話をして、小さく弱く見える姿から、大きな神様の救いの技を成し遂げていかれる姿も説明しながら、私たちの生き方も教えられたのです。
さて、どんな生き方をしているでしょうか、私は。そして私たちの教会は。小さなからし種のように、大きくされ、豊かにされ、他者から頼られ、役に立てるような人間として、また教会として、生きていきたいですね。あなたの参加をお待ちしています。
一緒に生きていきましょう。神様と、そして教会の仲間たちと。神様の愛と平和を生き、広げていきましょう。
牧師コラム・ こんなTVドラマシリーズが
インターネットで仕事をしていて、時々気になる広告がありました。「アコライト」とあります。そう、教会でも聞く言葉ですね。礼拝の前に、聖卓や聖壇のロウソクに火をつける人のことをアコライトということが多いですから、Lightを連想することが多いですが、この映画の広告のアコライトは、「Acolyte」とあります。気になりますね。
この広告は、今年6月から配信が始まったDisneyの新しいドラマシリーズのようです。ヒットした映画から、その数年後、数十年後の展開だけではなくて、オリジナルの映画からもっとさかのぼって、主人公の幼少期や、その時代が生まれたいきさつを説明するような映画がいくつも出されますね。このアコライトは、スターウォーズから派生したものの一つのようです。
さて、本題のアコライト。そもそもどんな意味でしょうか?Wikipediaによると、こうあります。
侍者(じしゃ)は、特にカトリック教会と聖公会でミサの時、司祭に付き添う奉仕者のこと。正教会の堂役、聖公会のサーバーに相当する。アコライト (acolyte)、侍祭(じさい)ともいう。英語の「アコライト」はギリシャ語で従者を意味するアコルトス (ἀκόλουθος) に由来する。かつては下級聖職の1つであったが、現在は一般信徒に解放されている。具体的な役割としては、サーバー、クロスベアラー(十字架を持つ)、トーチベアラー(トーチを持つ)、サリファー(香炉を持つ、振る)などがある。 その他にも、各教会ごとに独自に儀式の進行を補助する様々な役目を与えられている場合がある。
アコライトとは、神父さんと一緒に登場して十字架を持って入場したり、ローソクに火をつけたり、聖餐式のお手伝いをする人たちのことだったんですね。このDisneyのドラマシリーズは見ていませんが、おそらく、ジェダイの「侍者」たちのドラマなのでしょうかね?
そういえば、ジェダイとは、銀河を司るエネルギー「フォース」と光刃を形成する剣「ライトセーバー」を用いて戦う、銀河の平和と自由と正義の守護者を指す、とあります。「フォースがともに」というよく聞いた映画のセリフは、英語では「May the Force be with you」。つまり、私たちが礼拝で使う式文の「主がともに(the Lord be with you)」をもじっているのは明らかです。私たちも、主とともにあって世界の平和と自由と正義の守護者なのでしょうね。
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