2024年6月29日土曜日

説教メッセージ 20240630

 季節の変わり目ですね。私は、多忙の睡眠不足もあってか、風邪をこじらせて一週間、人と会う仕事以外は寝たり起きたりとなっていました。忙しいときは「ずっと寝ていたい」と思いますが、病気で寝込むと「早く起きたい!」と身勝手なのが人間ですね。今日の聖書はイエス様が「起きなさい!」と言われている言葉を読みます。どんな意味があるのでしょうか?一緒に聖書を読みませんか?礼拝は明日は名古屋の復活教会で担当します。それをYouTubeで配信もします。お会いしましょう。YouTubeチャンネル登録はここから→Pastor Hirotaka Gabriel TOKUHIRO - YouTube

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聖書の言葉 マルコ5:21~43 (新70)

5:21イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。 22会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、 23しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」 24そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。

大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。 25さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。 26多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。 27イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。 28「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。 29すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。 30イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。 31そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」 32しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。 33女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。 34イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

35イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」 36イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。 37そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。 38一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、 39家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」 40人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。 41そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。 42少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。 43イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。


説教「あなたに言う。起きなさい」徳弘浩隆牧師

1、ゆっくり、寝ていたいのに…

「おきなさい!」という言葉は、だれでも聞き覚えがある言葉だと思います。特に思い出すのは、もっと寝ていたい時に親から言われる言葉です。「ちょっと、何時だと思ってるの?」「学校に遅れますよ」「オキナサイ!」と、だんだんとその口調が強くなるこの言葉、だれでも言われた事があるでしょう。または、言ったことがあるでしょう。

「ああ、もう、うるさいなぁ」「分かってるよ。もう少しだけ!」という自分の心の叫びも、だれでも覚えがあるでしょう。

今日の聖書は、イエス様と、二人の女性が出てきます。今日はこの二人目の方の女性の出来事に目を向けて、一緒に神様の呼びかけを聞いていきたいと思います。この女性は「起きなさい」と呼びかけられたからです。何が起こったのでしょうか?イエス様のその呼びかけは、それ以上にどんな意味を持っていたのでしょうか?一緒に見ていきましょう。

2,聖書 

今日は先週の続きの、その次の出来事です。もう一度ガリラヤの側へ舟で戻られると、大勢の群衆がまた集まってきました。湖のほとりにおられると、ヤイロという会堂長の一人が来て、イエス様に願い出ました。「娘が重体なので来て祈ってほしい、きっと娘は助かり、生きるでしょう」と。

イエス様はそれに応じて一緒に出掛けました。しかし、そこに思わぬ出来事が起こります。別の女性の登場です。この女性も不思議な出来事とやり取りの末に癒されるのですが、そうしている間に、ヤイロの娘の死が知らされることになります。

何という事でしょう。ヤイロとしては、イエス様が向こう岸から帰ってこられ、お会いできて、お願いしてみたらイエス様が一緒に歩きだしてくれた。もう大丈夫だ、と彼は思ったでしょう。しかし、それが、思わぬ番狂わせで、その人には良かったけれども、自分の娘はそのせいで間に合わなかった、「亡くなりました」という知らせを受けたのです。「信仰深い」ヤイロの使いや、おそらくヤイロ自身も、これ以上イエス様を煩わせてはいけないと思いました。しかしそれは、「信仰深いことではありません」でした。そこが今日の大切なところだと心にとまります。

イエス様は「恐れることはない、ただ信じなさい」と言われたのです。もう、「手遅れの状況」なのにです。しかし、イエス様は家まで行かれ、「眠っているだけなのだ」と言われ、その娘の部屋へ行き、「起きなさい」と言われました。すると、その娘はすぐに起き上って歩き出したのです。

3,振り返り 

今日は、「信仰深い」会堂長ヤイロやその使いのものが、死を受け入れてイエス様をこれ以上煩わせてはいけないと引き下がったことが信仰深いことではなかったという、皮肉な逆転がとても心に残ります。

「そのままを受け入れるのではなくて、まだ大丈夫、まだあなたと一緒に歩いていって、あなたの人生を解決してあげるのに」というイエス様のお気持ちを見ていなかったヤイロたちの謙虚さは、信仰深いではなくて不信仰だったという事から、神様の側の、人間の常識や思いを超えた計画を信じていくことへと促されています。

それが、「寝ているだけのヤイロの娘」に、そして、「信仰がまだ寝ているヤイロたちに」さえも、「さあ、起きなさい」と聞こえてくるのだと学ばされます。

それを学ぶために、今日の旧約聖書をもう一度見てみましょう。聖書の中の哀歌という珍しいところから選ばれています。哀歌の哀は、愛情の愛ではなくて、哀悼の哀です。これは、紀元前586年に起きたエルサレム陥落と神殿の破壊を嘆く歌で、バビロン捕囚の時代にかかれたと考えられ、預言者エレミヤの哀歌ともいわれています。

繁栄を極めたイスラエルという国も不信仰で、府には分裂し、その後、順にそれらの国が滅び、預言者の言葉通りにエルサレムの神殿も破壊され、人々はバビロンに強制連行されたというバビロン捕囚を経て、国を失い、流浪の民となったユダヤ民族の嘆きと哀しみを歌った歌です。

しかし、それは嘆きの言葉で終わってはいません。「主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く 懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても それが御心なのではない。」と今日のところも結ばれています。

ヤイロも、イエス様のお力を信じ、お願いしてきてもらっているのに、目の前の状況が悪くなるとあきらめてしまいました。自暴自棄になったり、神を呪ったりはしませんでしたが、「信仰深い」彼は、イエス様にこれ以上来ていただくことは申し訳ないと、自分の判断で神様の介入を断り、止めてしまっていたのです。

しかし、イエス様は、それ以降も、それ以上の道のりも、一緒に歩いてくれて、解決をしてくれました。

4,勧め 

私たちの人生にも、そんなことがあるでしょう。自分の不信仰ならまだしも、信仰があると思うからこその決断や行いが、神様のお働きを妨げているかもしれません。

 「さあ、起きなさい」という言葉を、もう一度一緒に、新しい気持ちで聞いていきましょう。私の人生に、新しいことが起こるはずです。一緒に教会生活をしていきましょう。

 

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牧師コラム・ ずーっと寝ていたい!

  私は最近、いそがしくて忙しくて、こう思っていました。「あー、もっとゆっくり寝ていたい」「仕事が山を越えたら、飽きるくらい寝てやる!」と。

すると神様はそれをかなえて(?)くれました。なんと、風邪をこじらせてしまって、起きられなくなってしまったのです。急いで食べれるだけ食べて、薬を飲んで、横になるとすぐ眠れます。熱があって汗をびっしょりかいて、目が覚めたらまた何かを食べて、寝て…というのを何度も繰り返しました。人と会う仕事の時はシャワーを浴びて少し小奇麗にして、それが終わるとまた倒れこむという日々でした。

そのうちこう思いました。「あー!寝てるのはもうたくさんだ。早く起きて、あれもしたい、あそこにも行かなきゃ」と。最初はゆっくり寝れるのに嬉しくもありましたが、そのうちは寝るのも飽きてきて、体が痛くて眠れなくなり、今度は、それを恨むようになりました。

なんと、人間は自分勝手なのでしょう。いそがしいと、「ずっと寝ていたいものだ」と恨みを言い、病気で寝込み続けることになると、「もうそろそろ、起きなさい!」と言われたいものだと、神様に恨み言を言うのです。


今日のイエス様は、「さあ、起きなさい」といわれました。すなおに、「はい!」と言いたくなりました(笑)


季節の変わり目、皆さんも元気にすごしてくださいね。


2024年6月23日日曜日

説教メッセージ 20240623

聖書の言葉 

マルコ4:35~41 (新68)

4:35その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。 36そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。 37激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。 38しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。 39イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。 40イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」 41弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

       


説教「人生の荒波、心の荒波」 徳弘浩隆牧師

1、「あなたが言うから、こうしたのに…」

人生には、自分の思い通りにいかないことがあります。それも、自分の強い意志ではなくて、誰かに言われてそうした時、不安や不満はより一層大きなものになります。そんなとき、こういいたくなります。「あなたが言うからこうしたのに、どうしてくれるの?」と。「自分はもともと、反対していたんだ。でも、あなたがそういうからこうしたんだ。ほら、心配したとおりになった。」と。

こどものころから、今まで、それぞれ、そんなことがないでしょうか?今日の聖書のお話は、そんなことを考えさせてくれます。

「あなたが言うからこうしたのに、こんなことになってしまった。どうしてくれるんですか?どうしたらいいんですか?」

親や、家族に、職場の上司に、教会でも?そんな気持ちがわくことがあるかもしれません。そんなとき、どうしたらいいのでしょうか?聖書を読んでいきましょう。

2,聖書 

今日の聖書は、こんな状況でした。

群衆が押し寄せて、話をする場所がない。だから、イエス様はガリラヤ湖の漁師の船を借りて、その上から岸辺の群衆に話をしました。大切なお話をされました。みんな喜びました。

さてそれで、日も暮れて、お開きにしたいところです。しかし、群衆はたくさんまだ岸辺にいます。岸に戻ってみんなを解散させて、自分たちも帰るにはまだ時間がかかりそうです。

イエス様は、向こう岸へ行こうといわれました。群衆を岸辺に残して、反対側の岸に行こうと言われるのです。

車を停める気に、こちら側に駐車場がないから、反対側にクルっと回って、反対側の駐車場に止めよう、というのとはわけが違います。反対側の岸はもっともっと遠いからです。もう一つ大きな問題がありました。それは、ガリラヤ湖の東側は、異邦人も多く住む街々があったからです。そんな方へ船をつける。そのために今からこの大きな湖を横断する。それは、結構大変なことでした。

でも、イエス様が言われるなら、と弟子たちは漕ぎ出したのです。そうしたら、激しい突風が起こって、波をかぶり、水浸しになるほどになりました。そういう状況でした。そんな時、イエス様は眠っておられたのでした。弟子たちはイエス様を起こしました。「ちょっとすみません。助けてください、お願いします」ではありませんでした。彼らは殺気立っています。「先生、私たちがおぼれても構わないのですか?」と言ってしまいました。

そこでイエス様は起き上がりました。そして風を叱って、湖に言われました。「黙れ、静まれ」と。

そうすると、すっかり凪になったということでした。それを見て、弟子たちは非常に恐れます。「いったいこの方はどなたなのだろう」と。今まで信じて従ってきたこの方は、自分たちが思っていたよりもそれ以上の方だと、身にしみてわかったのでした。

3,振り返り 

今日はこれを聞いて、何を学ぶべきでしょうか?

今日の週報の表紙を見てお気づきの方も多かったかもしれません。今、ここに二つの絵がありますが、これらの、同じところと、違うところを考えなければなりません。

最初の左の絵は、聖書物語もある聖書の情景を描いたものです。私も子供のころ、買ってもらって、読み聞かせもしてもらった子ども向けの聖書の懐かしい挿絵と同じ作風です。

しかし、二つ目の右側の絵はどうでしょう。状況は同じように見えます。しかし違いがあります。それは、ワイシャツやスーツを着た人がいること。そして、アジア系の女性や、アフリカ系の男性の顔も見えます。

そう、この物語は、2000年前のイエス様の時の出来事であると同時に、今の私たちの姿、私たちの状況でもあるということです。

昔話の奇蹟物語ではなくて、今を生きている私の状況でもある。そして、乗り合わせた小舟には、いろんな国の人もいるということ。言葉や、文化も風習も違うかもしれません。しかし、私たちはたまたま呼び集められて、乗り合わせた仲間なのかもしれません。もっというと、これが大きな世界の縮図ともいえます。

私たちの船は大丈夫でしょうか?みな仲良く理解しあって、助け合って載っているでしょうか?湖は荒波ですが、私たちの間に波風はないでしょうか?そして、私の心の中に、波風はないでしょうか?

いや、時々それはある、というのが答えかもしれません。私の心に、私を取り巻く人間関係に、そして、この社会に、世界に。教会の中でも、ということかもしれません。

私たちはどうしたらよいでしょうか?

船に乗っているイエス様を「たたき起こし」て、「私たちがおぼれても構わないんですか?」と言いましょうか?もっと遠慮なく言うなら、「どうしてイエス様は寝ているんですか?」「どうしてあなたは何もしてくれないんですか?」「そう、そもそもの話をすると、イエス様、あなたが言うから私たちはここまで来たんですよ。どういうおつもりなんですか?」と。「そもそも、向こう岸に行くのは私は気が進まなかったんですよ。無事についたところで、あちらは異邦人の街。歓迎されないだろうし、苦労が待っていると思うんですよ」。などなどです。

ここまで遠慮なく言うと、今の自分が思っていること、つぶやいていること、そのままの言葉になっていることに気が付きます。どうしたらこれは解決するでしょうか?

それは、イエス様を「たたき起こし」て悪態をつくことではなくて、この方をもう一度信頼することです。

少し悪態をついて、思いのままに祈ってもいいでしょう。しかし、そこで気づかされるのは、人間の浅はかさです。

イエス様の力を目の当たりにして、自分たちの浅はかさに気づき、「いったいこの方はどういう方なんだろうか!」と、問題が解決した時に思い知らされるのです。今日読まれた旧約聖書のヨブ記は実は、そんな状況で神様がヨブを「叱り付けて」気づかせているところです。その言葉でヨブも目が覚まされました。

4,勧め 

私たちが見失っていることは、「この方がいるから大丈夫」という信頼です。そのうえで、みんながバラバラではなく、また一緒になって文句を言うのでもなく、イエス様を信じ、この方に従っていく、ということを教えあい、励ましあい、助け合うことでした。

実は、「大丈夫」という言葉は、仏教用語がもとになっているそうです。こんなことを最近ちょうど学びました。

一般的には、きわめて丈夫であるさま。ひじょうにしっかりしているさま。非常に気強いさま。を指して使われる事の多い言葉です。元来は、身の丈(たけ)、学識人徳の備わった人や最勝者を、漢語で〈丈夫(じょうぶ)〉とほめ讃えました。後にシルクロードより仏教が伝来し、大の美称が付され〈大丈夫〉となり、仏の呼び方の1つとなりました。仏には一般的に10種類の呼び方が存在します。これを〈如来の十号(にょらいのじゅうごう)〉と言います。そのうちの1つに〈調御丈夫(じょうごじょうぶ)〉とあり、「人を導くのに巧みな人」という意味の異名があります。仏教語としての〈調御丈夫〉や〈大丈夫〉は、仏の尊称として用いられる言葉です。

なんと、私たちの考えで言えば、イエス様こそ、大丈夫な方だったのですね。

自分の力や、お金の力で「大丈夫」と安心したり、そうでない時に「大丈夫だろうか」とおろおろするのではなくて、「イエスさまと一緒だから大丈夫」と、そんな生活をいたしましょう。多くの人に、神の愛と安心をお伝えしましょう。

今週も、神様と一緒に生きていきましょう。

 

牧師コラム・ 今日の写真、そういえば習ったなぁ

 久しぶりに出先で、中華系のファミリーレストランで食事をしました。最近あまり見かけないお店ですが、出先で夕食に困り、ちょうど見つけたこのレストラン。

  食事を待つ間に、壁の額に目が留まりました。そこにあったのがこの言葉。昔、高校生のころの漢文でしたか?習った言葉でした。

こういう風に生きたいものだなと、今の自分を振り返いました。人の目を気にしたり、焦りや、むつかしさも感じることがあるからです。クリスチャンとしても、あれこれ言わずとも、人が何かを感じて、来てくれるような雰囲気を、私も教会も醸し出せたらと思わされました。

「桃李 もの言わざれども 下 自ら蹊(みち)を成す」

《「史記」李将軍伝賛から》桃やすももは何も言わないが、花や実を慕って人が多く集まるので、その下には自然に道ができる。徳望のある人のもとへは人が自然に集まることのたとえ。


2024年6月15日土曜日

説教メッセージ 20240616

今年も始まりました、暑い日が続きますね。体に気を付けて過ごしましょうね。日よけカーテンのゴーヤは忙しくて植えるのが遅れて、木曜にようやく植えました。ほかのものも植えようとホームセンターに行ってみましたがもうお野菜の苗は終わりで、少ししかありませんでした。ダメもとで、エンドウ豆など種を買って植えてみました。今日の聖書は「からし種のたとえ」です。聖書の話のように、牧師館の菜園もどんどん成長するよう祈るばかりです。今週は、「からし種ってなに?」「今はやりのTVドラマ、アコライトって何?」を掲載。礼拝は明日は名古屋の復活教会で担当し、YouTubeも中継します。お待ちしています。


聖書の言葉 マルコ4:26~34 (新68) 

4:26また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。

人が土に種を蒔いて、 27夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。 28土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。 29実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

30更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。 31それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、 32蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

33イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。 34たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。



説教「こんな小さなものでも・・・」 徳弘浩隆牧師

1、山椒は小粒でも…

私は小学生のころ、いつも一番でした。成績が?いや違います。身長の順に並ぶと、一番前だったのです。クラスで一番小さい自分でしたが、ハキハキ、元気な子でいろんな委員長をしました。でも確かに、コンプレックスはありました。中学・高校になってもあまり変わらず、相変わらず、身長は低い方でした。そんなとき、こんなことわざを教えてもらいました。「山椒は小粒でもぴりりと辛い」。そして、「独活(うど)の大木(たいぼく)」という言葉も知りました。

小さくても、とっても辛くて特徴がある山椒の実はすごいと、安心しました。暑いウナギの季節には、山椒が活躍する季節でもあります。そして、大きいだけであんまり役に立たないと、揶揄される独活の大木を知り、「人間は中身なんだ」と言い聞かせたのを思い出します。

今日の聖書のたとえ話は、山椒ではなくて、「からしだね」です。なるほど、イエスさまも似たようなことを言われたのかな?と思うところですが、どうもそうではないようです。

一緒に聖書を読んでいきましょう。

2,聖書 

聖書は、いっしょに読んできたマルコの福音書では、しばらく安息日の論争がありました。そして、今年のサイクルでは読みませんでしたが、「種蒔きのたとえ」が続きました。

種は同じでも蒔かれた場所で成長や収穫が違うように、神の言葉を聞いてもどんな聞き方や生き方をするかが大切と学ぶところです。

さてそれに続いて今日の個所は、「成長する種・からし種」の話に移っていきます。

人の世話や努力も大切だが、種そのものに不思議な力があるから成長するように、神様の言葉にこそ力があるのだと教えられました。そして次に、「からし種」を見なさい、と言われました。この譬えを通して、神の国は、そのようなものだと、説明されたのです。どんなものでしょうか?

どんな種よりも小さいと思われていた「からし種」だけれど、成長してどんな野菜よりも大きくなるのだと、言われ、それが神の国と同じようだと教えられたのです。

たしかに、からし種は成長すると、2メートル近い木のようにすらなるそうです。

そしてそれは、立派な大きくなった自分を誇るのではなくて、葉の陰に鳥が巣を作ることさえできる、つまり、他者のために役立っているということも大切なことでしょう。神の国とは、そういうものだと、イエス様は教えられました。

3,振り返り 

さて今日はこれを聞いて、何を学ぶべきでしょうか?

私が子供のころ考えたように、山椒は小さいけれど、強い辛さを持っているしなくてはならない香辛料だから、誰にも引けを足らないぞ、という話とはどうも違うようです。

からし種は、種は小さいけれど、小さいままではなく、大きく育つのだ、ということです。

そして、大きく奇のようになったからしは、他者を見下ろして勝ち誇ったままで終わるのかというと、そうでもありません。からしの種も貴重な香辛料ですが、それだけではなくて、鳥が泊まって羽を休めたり、巣を作って鳥が生きる場所にもなるというのです。

神の国の在り方とは、小さいけれど競争に打ち勝って、面目を保ち、優越感に浸る、見下していた人たちを見返してやるような人生ではないのです。

小さなものでも、神の力で大きくされ、大きいだけではなくて、他者の役にさえ立っているところ、それが神の国ありようなのです。

それは、私たち一人一人の生き方や、社会、国の在り方さえ考えさせてくれます。

追いつけ追い越せで上を目指し、競争に打ち勝つだけの人生や社会ではなくて、内外ともに豊かにされ、それを他者のためにも用い、支えあって生きる生き方や社会が実現しているだろうかと、考えさせられます。

「神の国」という言葉は、死んだ後の「天国」の意味ではありません。かといって、革命を起こして今ある国の体制を変えて、神様を信じている人が主導する「国」を作ることでもありません。

聖書の言う「神の国」は、「神様のご支配があるところ」です。金の力や権力や恐怖心で支配するところではなく、本当に愛で支配されるところ、それが「神の国」です。それは、国境があって、ここやあそこにあるものではなく、私の心に実現し、私と他者との間に実現し、社会や世界に広がるものなのです。

4,勧め 

今日のまとめは、この二つでしょう。

1) 神の国は、種のように、人の知恵や努力によらず、神様の力によって成長させられるもの。

2) 神の国は、からし種のように、どんなに小さなものでも大きくされる。そしてそれは、自らを誇るのではなくて、他者を助ける場所とされるもの。

 と考えてよいでしょう。

今日の旧約聖書も、レバノン杉の話が預言者によって語られました。高いレバノン杉の若枝を追って高くそびえるイスラエルの山の上に移し替え、その木はうっそうとした木となり、あらゆる鳥が羽を休める場所になると。野のすべての木々はそれを見て、つまり、高い木を低くし、低い木を高くし、生き生きとした木を枯らし、枯れた木を茂らせると。つまり、傲慢なものはその弱さを知らされ、弱く小さなものでも大きくされ、他者の役に立つようにされるのです。実はこれは、メシア・キリストのこととしても預言されています。

 そんなレバノン杉のような方として来られたのが、イエス・キリストでした。その方が、今度はからし種のたとえ話をして、小さく弱く見える姿から、大きな神様の救いの技を成し遂げていかれる姿も説明しながら、私たちの生き方も教えられたのです。

さて、どんな生き方をしているでしょうか、私は。そして私たちの教会は。小さなからし種のように、大きくされ、豊かにされ、他者から頼られ、役に立てるような人間として、また教会として、生きていきたいですね。あなたの参加をお待ちしています。

 一緒に生きていきましょう。神様と、そして教会の仲間たちと。神様の愛と平和を生き、広げていきましょう。

 


牧師コラム・ こんなTVドラマシリーズが

 インターネットで仕事をしていて、時々気になる広告がありました。「アコライト」とあります。そう、教会でも聞く言葉ですね。礼拝の前に、聖卓や聖壇のロウソクに火をつける人のことをアコライトということが多いですから、Lightを連想することが多いですが、この映画の広告のアコライトは、「Acolyte」とあります。気になりますね。


  この広告は、今年6月から配信が始まったDisneyの新しいドラマシリーズのようです。ヒットした映画から、その数年後、数十年後の展開だけではなくて、オリジナルの映画からもっとさかのぼって、主人公の幼少期や、その時代が生まれたいきさつを説明するような映画がいくつも出されますね。このアコライトは、スターウォーズから派生したものの一つのようです。

  さて、本題のアコライト。そもそもどんな意味でしょうか?Wikipediaによると、こうあります。

侍者(じしゃ)は、特にカトリック教会と聖公会でミサの時、司祭に付き添う奉仕者のこと。正教会の堂役、聖公会のサーバーに相当する。アコライト (acolyte)、侍祭(じさい)ともいう。英語の「アコライト」はギリシャ語で従者を意味するアコルトス (ἀκόλουθος) に由来する。かつては下級聖職の1つであったが、現在は一般信徒に解放されている。具体的な役割としては、サーバー、クロスベアラー(十字架を持つ)、トーチベアラー(トーチを持つ)、サリファー(香炉を持つ、振る)などがある。 その他にも、各教会ごとに独自に儀式の進行を補助する様々な役目を与えられている場合がある。

アコライトとは、神父さんと一緒に登場して十字架を持って入場したり、ローソクに火をつけたり、聖餐式のお手伝いをする人たちのことだったんですね。このDisneyのドラマシリーズは見ていませんが、おそらく、ジェダイの「侍者」たちのドラマなのでしょうかね?

そういえば、ジェダイとは、銀河を司るエネルギー「フォース」と光刃を形成する剣「ライトセーバー」を用いて戦う、銀河の平和と自由と正義の守護者を指す、とあります。「フォースがともに」というよく聞いた映画のセリフは、英語では「May the Force be with you」。つまり、私たちが礼拝で使う式文の「主がともに(the Lord be with you)」をもじっているのは明らかです。私たちも、主とともにあって世界の平和と自由と正義の守護者なのでしょうね。


2024年6月2日日曜日

説教メッセージ 20240602

6月になりましたね。日差しも暑くなりました。草刈りをして、掃除をして、2教会を行き来して、そして久しぶりに夫婦で買い物。といっても格安スーパーで食材の買い出し。でも、気分転換にもなりました。仕事を終えて、一息つくのも大切なことですね。つい多めに買ってきたので、アルバイトで忙しい外国人メンバーにもお裾分け。仕事と、休憩と、仲間たち。みんな大切に生きていきましょう。礼拝は今日は名古屋の復活教会で担当します。YouTubeでも中継します。お待ちしています!

聖書の言葉 マルコ2:23~3:6(新64)

2: 23ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。 24ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。 25イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。 26アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」 27そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 28だから、人の子は安息日の主でもある。」

3: 1イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。 2人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。 3イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。 4そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。 5そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。 6ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。



説教「安息日(休日)に込めた神の思い」 徳弘浩隆牧師

1、24/365の良さと悪さ…

スマートフォンでSNSをみたり、外国のTV番組を見ていると、「24/365」という言い方や書き方を見ることがあります。最初は何のことかと思いましたが、すぐに気が付きました。日本語風に言うと、「24時間365日いつでも・一年中」という事になるでしょう。

お店や、商品を買った後の「サポートやアフターケアはいつでもどうぞ、心配ありませんよ!」というときによく使われるようですね。

今となっては当たり前で、驚かないこのフレーズですが、むかしは違いました。そして今、もう一度見直されようともしているかもしれません。「働き方改革」という言葉もよく聞きます。

ルーテル教会は、宗教改革の教会ですが、それは、宗教というよりも、私たちの生き方そのものの改革を説いているとも言えます。しかし、同時に、教会員や牧師の在り方も、考えなければならない時代にもなってきたと言えるかもしれません。

今日の聖書の話は、イエス様が安息日について語っているところです。語っているというよりもむしろ、非難をされ、それに対して論争になったような出来事です。

私たちのいのちや、生き方を一緒に考えてみましょう。

2,聖書 

ある安息日に、麦畑を通っていたイエス様たちの一行です。その時、弟子たちが、歩きながら麦の穂を摘み始めたのです。すると、ファリサイ派の人たちが批判しました。ファリサイ派は先週の日曜日にも出てきた、聖書の教えをよく学び、その通りにそれを守り生きている熱心な人たちでした。ですから、いい加減に生きている人たちを批判したり、馬鹿にしたりもし、「自分たちは彼らとは違う生き方をしている」と、分離しているという意味の「ファリサイ」という言い方が定着したそうです。

さて、そんな、まるで「風紀委員」のような人たちが厳しく批判します。イエス様の弟子たちが、人の家の畑から勝手に麦の穂をとっているからだと思ったら、実は大違いでした。問題はそこではありませんでした。

なんと、「安息日に労働をしているから」というのが彼らの論点だったのです。

安息日は、天地創造の物語にまでさかのぼって確認せねばなりません。神は6日間で順々にいろいろなものを造られたと記されています。そのたびに「良かった」と言われます。そして、6日目に人を造り、全てを見て、「本当に良くできた!」と喜ばれます。7日目は休息の日でした。後にモーセが神様から十戒といわれる10の掟をいただいたときにも、その中に、「神様を大切にして、神様が休まれたこの7日目を安息の日として、大切にして守りなさい」と言われているのです。

だから、「そんな大切な日に、彼らは、『収穫』という労働をしている。それは、神の掟を破っている、律法違反だ」という訳です。

その批判に対して、イエス様は反論されます。弟子を守りたくて無理やり弁明しているのではなくて、「安息日の掟の意味そのもの」を説きながら教えられたのです。みんなが知っていて尊敬している伝説の偉大な王様、ダビデの話を持ち出して説明します。そして、その安息日に込められた神様の思いを、説明されたのです。つまり、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と。そしてそのまま、会堂に入り、困った人を癒してあげました。安息日にです。我慢ならないファリサイ派の人たちにたいして、イエス様は今度はこう切り込みます。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」と。これには反論できず、イエス様をどのようにして殺そうかと思ったというほどになりました。

もちろんイエス様は挑発するためにこんなことをされたのではないでしょう。ファリサイ派の人たちは、この言葉を聞いて、神様の思いを素直に知ることができればよかったのですが、ますます、自分たちの考えで頑なになり、神様から遠のいてしまう事になってしまったのです。

3,振り返り 

私たちは大丈夫でしょうか?神様の思いとは、どんなものだったのでしょうか?

今日の論争を学ぶためには、聖書の歴史の中での「常識」を知らねばなりません。

実は、聖書の教えでは、人の家の畑でも自由に収穫して空腹を満たしてもよいという掟があったのです。もちろんたくさん収穫して転売してお金儲けをしてはいけないでしょうが、ユダヤ共同体の中ではそんな他者への思いやりもある、寛容な社会、寛容な教えがあったのです。実際、落穂ひろいというミレーの絵を見た方も多いと思いますが、そのモチーフのもともとの聖書の話は、収穫をする際には、いわゆる未亡人や生活困窮の中にある人のために、また、寄留して住む外国人のために、穂を全部収穫してしまうのではなくて、必ず残しておくように、という掟まであったのでした。

なんと、旧約聖書の神様の教えは厳しいものだとばかり思う傾向のある私たちはびっくりさせられる、「愛の神」の姿を見ることになります。

十戒の書かれている申命記の5章を見てみましょう。こうあります。「12安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。 13六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、 14七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。」 ここまで読むと、家族も奴隷も、それだけではなくて牛やロバも休め、という事で生活ががんじがらめにさせられている窮屈さを感じます。神の厳しさも感じます。しかし、その続きを忘れてはいけません。こう続いています。「そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。」

ここに、神様の愛があるのです。「あなたが休むのは、あなたのためだけではない、使用人も、家畜もそれによって気兼ねなく休息をとることができるためなんだよ」、という思いやりの気持ちからだったのです。

掟の奥にある、神様の愛の思いを見逃してはいけません。

4,勧め 

こどもが寝ないときに「早く寝なさい!」と大声で怒ってしまうときに、たとえば、「ちゃんと寝ないと、明日大変だよ。明日は遠足で大切な日でしょ」という親の愛の気持ちも添えられているかどうかですね。こどもの側では、いつもうるさい、怖い親と思うかもしれませんが、その奥の気持ちに気づくのは、自分が親になったときや、親を見送る時だったと、気付かされます。神様の素朴な、本当の愛の気持ちに触れて、一緒に生きていきましょう。 


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牧師コラム・ おすすめ映画

  安息日を守っているだろうか。ちゃんと休めているかな?と自分の忙しさを思い、何とかしたいと、おもいます。しかし、私以上に、いそがしく、多くの場合、もっと条件の悪い状況で、一生懸命働いている人のことも思わされます。もちろん、それぞれの夢や、人生設計の一時期でもあるでしょう。私たちも、そんな下積みの時代もあって今がある、という人生を送っているかもしれません。

「私たちが休んだら、寄留している外国人の方も休めるから」という聖書の言葉と違って、私たちが休みたいから、あの人たちに働いてもらおう」と安易に思っているかもしれない。いや、それにも気づかず、もっと安いものを買って、もっと便利な社会で行きたいと思う「ふつう」の気持ちのために、大きな負担を負ってくれている人たちがいる、と気付かされました。 

「縁の下のイミグレ」という映画、とても勉強になり、考えさせられ、泣かされ、頭を抱えて悩むだけじゃない、ちょっとした出口も見える、不思議な映画でした。もっと、他者を愛し、認め合って、支え合って、生きていきたいと思わされます。世界はすぐには変えられなくても、今の自分にできること、私もそんなことに取り組んでいます。一緒に何かしませんか?この映画も見てみませんか?





説教メッセージ 20250330

聖書の言葉 ルカ15: 1~ 3,11b~32 (新138) 15: 1徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 3そこで、イエスは次のたとえを...