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2023年10月15日日曜日

説教メッセージ 20231015

 先日用があり東京へ行きました。本籍地のある街の市役所にも生きました。車を停めて脇の入り口から入るとき、懐かしい思いに駆られました。数十年前に結婚式を終えた夜、妻と婚姻届けを出しに来た夜間窓口の脇だったからです。今日の聖書のたとえは、結婚式の出来事です。神の国はこういうものだ、とキリストは言われます。どういうもの?でしょうか。一緒に学びましょう。今日は高蔵寺教会で礼拝担当します。Youtubeでオンライン中継もします(時々日付などを間違えてごめんなさい)。お待ちしています!


マタイ 22: 1~14 (新42)

1イエスは、また、たとえを用いて語られた。 2「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。 3王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。 4そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』 5しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、 6また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。 7そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。 8そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。 9だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』 10そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。 11王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。 12王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、 13王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』 14招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」



説教「突然の招待状」徳弘牧師

1,結婚式のたとえ

先月東京を訪ねたときに懐かしい思いをしました。介護の手続きの関係で戸籍謄本が必要になり、本籍のある西東京市へ行ってきた時のことです。車を停めて市役所に入った入り口は33年前に結婚式当日の夜、婚姻届けを出しに行ったときに入った夜間窓口の脇で、その時のことを懐かしく思い出しました。そして、実は私の姪っ子が先月結婚をし、お祝いやお手紙を送り、昨日電話がかかり挨拶をしたところです。しかし、結婚式の招待状は届きませんでした。コロナ明けでもあるし、結婚式や披露宴はもう少し落ち着いてからということで、私も賛成していたのです。

今日の聖書は、今まで連続したブドウ園の話のたとえ話は終わり、結婚式のたとえになりました。招待された人、集まった人、そこには神様に招かれた私たちの姿を重ねて考える必要があります。一緒に聖書を見ていきましょう。

2,聖書 

今日のたとえも、「天の国は…に似ている」という始まり方で、これは、死後の天国ではなくて、神様との本当の関係がある私たちの生き方のありようをキリストは説明されています。

ブドウ園の出来事ではなく、今日は結婚式です。

王がその子・王子のために祝宴を催したのに、招いておいた人々は来ないのです。そこで、別の家来を送ってすっかり準備ができていますと言わせたのですが、無視して仕事に出かけ、ほかの人々は家来たちに乱暴をし、殺してさえしまったのです。

これは、神様の招きを拒否する人々をたとえています。あらかじめ招いておいた人たちは、ユダヤ教の指導者たちです。一度使者を送りだめだったのでもう一度別の使者を送るというたとえ話が良く出てきますが、これは、イスラエルの歴史の中でのバビロン捕囚の前と後の預言者の出来事を表す定番の言い方だそうです。不信仰で国が亡びると訴えた預言者と、その通りになってしまったバビロン捕囚。しかし時が過ぎて赦され自国に戻ってきてからの預言者の声を彼らが聞いてきたかどうかということを表しています。

今日のたとえでも、ユダヤ民族はそれを聞くことなく、不信仰を続けました。彼らは預言者を殺しさえしたことをキリストはたとえで説明しています。彼らは罰を受け滅ぼされました。

そして、神様の招きは、準備されていた人々ではなく、「街の大通りで見かけた人は誰でも」になり、善人も悪人も集められ、婚宴は人でいっぱいになったというのです。ユダヤ教の「立派な」指導者たちは、宗教的に準備されてきていましたが、キリストを受け入れることができず、多くの「罪びと」がキリストのもとに集まったことを表しているのです。

3,振り返り 

自分のことを振り返りましょう。わたしは、長い間信仰を持ち、正しい生活をしてキリストを待ち望んできたでしょうか?それとも、普通の生き方をしてきていて突然の招待状をもらったように、ふとしたきっかけで神様に出会ったでしょうか?

あるいは、長い間苦労をして生きてきて、自分の信念や自信がありすぎて、キリストの言葉を素直に受け入れられない、いわば婚宴への招待を拒否している人の姿があるかもしれません。拒否した人の中には、畑に行ったり、商売に行くために拒否した人もいます。それらも大切ですが、いざという時の神の呼びかけをないがしろにする姿がそこにあるかもしれません。

では、神の呼びかけに正しく、間違えなく、応えるのには何が必要でしょうか。信仰や努力や献金や人のための功績でしょうか?そうではありません。婚宴に招かれたのは、「街の大通りで見かけた人は誰でも」だからです。神様の呼びかけに、素直に答えることだけ、それが大切なようです。

努力したから救われるのでもなく、信仰が深いから神様に会えるのでもなく、突然の招きを素直に受けるとき、私たちは神様との新しい生き方に招かれているのです。行いによってではなく、素直な信仰によって神様との関係が回復される、それが救いです。

4,勧め 

 では、今までのままの自分でいつまでもいいということでしょうか?そこは少し違います。

救われるためには条件はなく、神様の招きとそれにこたえるだけです。しかし、それで今までの通りの生き方を続けていくのは、ふさわしくありません。

善人も悪人も呼ばれ、婚宴はいっぱいになりましたが、婚宴の服を着ていなかった人がつまみ出されるというのが教のたとえの最後の部分にあります。

これは、教会に招かれ、救われたキリスト者の新しい生き方を表していると考えられます。

今聖書研究会ではエフェソの信徒への手紙を読んでいます。ちょうど先日学んだ5章1-2節にこうありました。「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。」そして、そのときも一緒に考えたのは、「キリストを着る」という言葉です。「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。(ローマ13.14 口語訳)」、「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。(ガラテヤ3.27 新共同訳)」

招かれた後は、今までの生き方を捨てて「キリストを着なさい」と勧められ、洗礼を受けた後は「キリストに結ばれ、キリストを着ている」はずなのです。

それが、神様との本当の関係に立ち戻り、それによって人々も互いに愛し支えあう関係で生きる「天の国」の姿です。死後の世界ではなく、今の出来事です。

生きにくさや、沢山の問題、そして戦争も終えられない社会ですが、神様の招きに応えて安心の日々を着ましょう。そして、愛と平和の世界を広めていきましょう。それが、「神の国」なのです。

 牧師コラム・ 今日の写真 「また、戦争が…」 


   突然の砲撃とがれきの映像に私たちは、驚き、打ちのめされました。それも小競り合いではなく、双方大規模なものでした。パレスチナ自治区ガザを実効支配するハマスによるイスラエル領内への奇襲攻撃と反撃がありました。早速当事者国やいくつかのTVニュースを見てみました。私はヘブライ語、アラビア語中継は時々知っている単語を拾えるくらいで、ほぼ理解できませんが、双方現場レポートや有識者の解説が続きます。国会中継や戦場での戦車の準備映像も映ります。

宗教対立といわれ心が痛いところですが、よく理解しないとなりません。聖書の民、ユダヤ人とパレスチナ人はユダヤ教徒イスラム教がそれぞれ主ですが、宗教的対立というより、西欧諸国の植民地支配と撤退した後の二重外交も大きな要因で土地の奪い合いが火種を残しました。ルーテル教会が加盟するNCC(日本キリスト教協議会)も声明を出し、双方の自制を促しました。それぞれが大切にする旧約聖書の言葉によって。友人のベツレヘムのルーテル教会のパレスチナ人牧師も声明を出しました。ともに祈り、平和を作り出しましょう。

パレスチナとイスラエルの平和を願う声明文

//前半部分省略// 聖書における、イスラエルに、神によって約束されたカナンの地とは、寄留者アブラハムたち、そしてエジプトの地で奴隷という寄留生活を強いられたイスラエルの民に示されたものであることをわたしたちは想起します。同時に、そのような苦難を経た民イスラエルにカナンの地を約束された神は、「あなたは寄留者を虐げてはならない。あなたたちは寄留者の気持ちを知っている。あなたたちは、エジプトの国で寄留者であったからである。」(出エジプト記 23 章 9 節:新共同訳)とも命じているのです。イスラエルとパレスチナ自治政府のたどり着くべき平和への道は、歴史の中でどちらも寄留者としての苦難の道を歩んできた民が、この聖書の指し示す道に立ち帰る以外にはなく、この二つの民の苦難に歴史的に測り知れない責任を負う世界は、政治的利害をこえて、和解と平和への道につながる外交的対話の場を設けるために、国連の仲介を通して全力を尽くすべきです。

わたしたちキリスト者は、そのためにユダヤ教やイスラム教をはじめ、諸宗教の間でこの和解と平和の道の実現のために祈り、また対話を続けることを惜しんではならないのです。

神がノアとの間に立てられた「虹の契約」とはすべてのいのちとの和解と平和のしるしであり、「虹」(ケシェット)とは、戦いを止めた弓の形であることを思い起こしながら、わたしたちはパレスチナとイスラエルの平和を切に祈り続けましょう。 <2023 年 10 月 12 日 日本キリスト教協議会>


2023年10月8日日曜日

説教・メッセージ 20231008

聖書の言葉 

マタイ(Mt.)21: 33~46(新42) 

33「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。 34さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。 35だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。 36また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。 37そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。 38農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』 39そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。 

40さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」 41彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」 42イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』 43だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。 44この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」

45祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、 46イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。

説教「石で砕かれる命、石で砕かれる心」徳弘牧師

1,ブドウ園での惨劇…

先々週、先週に続いて、ブドウ園で話が続きます。ブドウ園は日本ではあまり各地でのなじみはなくピンときませんが、ユダヤの地方では旧約聖書の時代から何度も出てくる、なじみの風景であったようです。日本だと、田んぼでの稲刈りや、寒い地方での麦畑での麦踏という状況のたとえだったとしたら、もうすこしピンとくる風景かもしれません。

先々週はブドウ畑で働く人の給料の話。先週は、ブドウ畑で働くかどうかという二人の兄弟の話でした。そして今日は、とても「血なまぐさい話」で驚かされます。今日の説教題を考えるときに、最初は「葡萄園での惨劇」と書いてみましたが、ショッキングすぎる題名になるので思いとどまりました。これではまるで、TV番組のサスペンス劇場のようでもあります。

キリストは、どうしてそんな血なまぐさい話をされたのでしょうか?今日のイエス様のたとえ話は、どんなメッセージを持っているでしょうか。

2,聖書 

ブドウ園のたとえは、今日の旧約聖書のイザヤ書にも出てきます。「よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。」と、心を込めて準備したのに、期待外れの結果だったことを嘆き、問いかけます。「わたしがぶどう畑のためになすべきことで何か、しなかったことがまだあるというのか。」と。

神は「もういい!」と言わんばかりに、ブドウ園を荒れるままに任せ、雨も降るな!と言い捨てます。

このイザヤ書の神の言葉は、守り導いてきたにもかかわらず、また不信仰に陥り神を裏切っていったユダの民に対する叱責でした。そしてやがてイザヤが預言した通りに、ユダの国はバビロンに滅ぼされ、異国に捕囚として引かれていくことになります。

今日のキリストのたとえは、おそらくもちろんこんな旧約の預言と出来事を下敷きにしながら、わかりやすく人々に教えています。

「もう一つのたとえを聞きなさい」という言葉で始まる今日のお話は、先週読まれた二人の兄弟のたとえのすぐ後に置かれています。

もっとわかりやすいたとえで、主人である神様と、ブドウ園はイスラエルの民、農夫たちはその指導者たちで、そこに送られた僕たちは神様が送った預言者たちでしょう。一度目に送った預言者の言葉は聞かず逆に殺され、二度目に送った預言者の言葉も聞かずもっとひどい仕打ちを受けます。最後に、息子なら敬ってくれると送ったのですが、その息子さえ殺されてしまうのです。それが、神への不信仰と反逆の歴史を繰り返してきたイスラエルの姿と、今起こっていて、これから迎えることになる、キリストご自身の姿を現しています。祭司長やファリサイ派の人たちは、さすがに今回は自分たちのことを非難されているのだと気付きました。それは、ここまでに、「朝から働くように長いこと神様に仕えているのに、罪深い人たちが後からやってきて同じ救いにあずかるのを嫉妬した姿」であり、「はい、おっしゃる通りにします」と言いながら何もしないでいると、たとえで批判された姿そのものが、彼らだったのです。

3,振り返り 

ここで先週の高蔵寺教会の聖書研究会で読んだエフェソ書の解説を思い出します。その部分をさらに簡単にまとめると、こうなります。神様のご計画は聖書では大きく三つに分けて述べられている、とあります。

1) 創世記で、神様が世界を造り人間はその守り手として造られたのに、神の世界を自分のものにし、自分が神になろうとした。それが罪の起源。

2) その直後から旧約聖書の最後まで、神様がアブラハムという人から興した一つの民族・イスラエルを通して、約束を結び、回復していくことでしたが、何度も失敗をしていったこと。

3) 最終的にはイエス・キリストを通して、イスラエル民族・ユダヤ教以外の異邦人も含めて、「新しいイスラエル」が興されて、神との関係、人と人の関係、そして神が造られた世界との関係を回復することになっていく。(まだ途上で課題山積ですが)。という事でした。

今日のキリストのたとえは、こうして振り返る、イスラエルの失敗をブドウ畑のたとえで思い返しながら、目の前の祭司長や律法学者たちも同様に失敗に陥っていることを指摘し、批判したのでした。

しかし、その批判だけで今日のキリストの言葉は終わっていません。「神の独り子は、敬われず、死に追いやられる」というたとえで、キリストがこれから進む十字架の道を預言します。そして、その惨劇ともいえる出来事で、全く新しい、人々の予想外の事が起こり始めていくという事も、示されたのです。

それは、詩篇118編の言葉を引用して「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。」と言われた言葉の意味を知るときに、理解できます。

石で主人の一人息子を殺し、いよいよ、ブドウ園を自分のものにしようとする罪人の企ては、結局は、その石の上に落ちると打ち砕かれ、石が上に落ちれば押しつぶされるという事が起こるとキリストは続けます。

つまり、神の子を殺した罪人たちが、神の世界を自分のものにしようとしたとしても、撃ち殺したつもりの神の子こそ、生ける石で、その石は罪びとを上から押しつぶし、上に落ちれば罪人を砕く事になるのです。

これが、傲慢で、神を神ともしない自己中心で信仰がなく、人を人とも見ない愛のない、罪深い生き方をしていた罪人の姿です。神さえ無視し、殺したつもりでも、逆にそれによって、自分が罪ゆえの呵責と悔い改めに導かれることになり、結局は、消し去ろうとした神の元に立ち返ることになるのです。それが、人の目には不思議な、神に勝ったかと思っていた罪びとが、実は、自分が負けていたという事になるのでした。

4,勧め 

 私の姿はどうでしょうか?思い当たる節がないでしょうか?これを今日私たちは問われています。わたしは、あります。神を無視し、自分で傲慢に生き、または、それができずに自己嫌悪をで生きていた頃もあります。神様から逃げてみても、消し去ろうとしても、結局は、自分の罪深さ、傲慢さ、不完全さに打ちのめされて、神様の前に座り込むこともあります。しかし、その時こそが、救いのチャンスなのです。この頑な心が、打ち砕かれるように、思い切り失敗してもいいかもしれません。キリストはそれを承知で、十字架の道を行かれたのです。

いさかいや、競争を、または落ち込んだり、へこたれたりしているうちは、まだ本当に砕かれたキリスト者になれていないと、何度も打ち砕かれる道を神様は準備されるかもしれません。

素直になって、神様にお任せして、安心して生きていく道を、一緒に歩きましょう。神様とともに。

 


牧師コラム・ 言葉雑学考 「ミイラ取りがミイラに」

 「石で打ち砕いたはずの人が、実はその石で心を打ち砕かれた」というのが、今日の聖書の話でした。思い出すのは、「ミイラ取りがミイラになった」という言葉です。ミイラを取りに行った人が、迷い込んで出られず、自分がミイラになってしまうという、なんとも残念なこと。説得しに行ったのに、逆に説得されたりすることを例えていう言葉ですね。

実はミイラという言葉は、もともとは、「没薬」のコトでした。マタイの福音書ででてくる、イエス様がお生まれになったときに、東方の博士たちが捧げた贈り物の、「黄金、没薬、乳香」の「没薬」です。もとは、使者の体に詰めて、腐らないようにした特別の薬のことでした。死んでも、体は腐敗せず、まるで生きたような姿を保つ薬。そしてそれによって保存された遺体、つまり今でいうミイラのことも表すようになりました。

英語ではMummyでラテン語のmumiaに由来していますが、日本語の「ミイラ」は16-17世紀に渡来したポルトガル人から採り入れた言葉の一つで、ポルトガル語: mirra は元来「没薬」を意味していた、とあります。

ミイラ取りがミイラになったように、神を神とも思わない罪人の犯した大きな罪で、逆に自分が改心させられ、生まれ変わらされ、本当の意味で生きたものにされる。そんなミイラ取りになるのなら、いいのかもしれませんね。


2023年10月1日日曜日

説教メッセージ 20231001

前も似たお話をしましたが、今日の聖書は、私の高校生のころの「口ごたえ」の話を思い出します。「今勉強しないと、あとから後悔するよ。後悔先に立たずって言うでしょ。」と母親に言われると、私は決まって、こう返事をしました。

「後から悔いるから、後悔っていうんだよ。だから、先に立つわけないでしょ。」と。そうすると、「面白いことをいうねぇ。そうだわ」と笑われて、場が和やかになり、怒るほうも気が抜けるのでしょう。まあ、いいか、という具合になりました。

今日の聖書は、後悔してやり直す人の姿がたとえ話で出てきます。後悔することは絶対間違えで失敗というわけではなくて、とても大切なことでもあります。後悔もしないなら、私たちの人生は、いつまでも変わることができません。今日のイエス様のたとえ話は、どんなメッセージを持っているでしょうか。

聖書の言葉 

エゼキエル 18:25~32

聞け、イスラエルの家よ。わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。 26正
しい人がその正しさから離れて不正を行い、そのゆえに死ぬなら、それは彼が行った不正のゆえに死ぬのである。 27しかし、悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。 28彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない。 29それなのにイスラエルの家は、『主の道は正しくない』と言う。イスラエルの家よ、わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。

30それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。 31お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。 32わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。

マタイ 21:23~32 (新41)

 23イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」 24イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。 25ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。 26『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」 27そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」

 28「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。 29兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。 30弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。 31この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。 32なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」


説教 「後で考え直して」 徳弘浩隆牧師

1,後悔先に立たず…

以前も似たお話をしましたが、今日の聖書は、私の高校生のころの「口ごたえ」の話を思い出します。「今勉強しないと、あとから後悔するよ。後悔先に立たずって言うでしょ。」と母親に言われると、私は決まって、こう返事をしました。

「後から悔いるから、後悔っていうんだよ。だから、先に立つわけないでしょ。先に悔いるなら、先悔とでもいうんだよ」と。そうすると、「面白いことをいうねぇ。そうだわ」と笑われて、場が和やかになり、怒るほうも気が抜けるのでしょう。まあ、いいか、という具合になりました。以前にもお話ししましたが、普通の口答えじゃなくて、何か大人が唸るような、ひとひねりした口ごたええを考えるのが好きでした。わたしは、小説などの本を読むのは嫌いで長続きしませんでしたが、広辞苑や英和辞典は持ち歩いて線を引きながら、よく読んでいた変わった子だったと思います。

今日の聖書は、後悔してやり直す人の姿がたとえ話で出てきます。後悔することは絶対間違えで失敗というわけではなくて、とても大切なことでもあります。後悔もしないなら、私たちの人生は、いつまでも変わることができません。今日のイエス様のたとえ話は、どんなメッセージを持っているでしょうか。

2,聖書 

今日の福音書は、ふたつのパートに分けられています。祭司長や長老たちとの問答と、それを受けてのたとえ話です。問答は、イエス様が宮で教えておられるのを見て、何の権威によってそんなことをしているのかと聞いたら、逆にイエス様に問われて困ってしまう彼らでした。そして、たとえ話は、彼らの姿を指摘し批判するための、父の言うことを聞かないといったけれど後から考え直して聞いた兄と、聞くと言うだけで何もしない弟のたとえ話でした。

それは、神様から遠く、神様の言うことを聞かない罪びとたちだったけれど、思い直して聞いた姿が兄でしょう。それに対して、素直にハイという、神さまを知っていて神に近いと思われていたけれども実は神様の御心を知ることができずに、何も行動に移さない弟は祭司長や長老とみることができます。

3,振り返り 

さて私たちは、どうでしょうか。

ヨハネの言う悔い改めも洗礼も恐れ、神の言葉から遠く背いて生きていた罪びとたちでも、後から思い直して、神様に従ったので、赦され救われました。

しかし、神に近いと思っていた「えらい」人たちは、素直に神の言葉を聞くことができずに、口先だけで結局は神から遠い人にとどまってしまったのです。

一度は神に背き、その声掛けを退けても、後悔して、立ち返るなら、救われ赦されるのです。後悔するような大失敗をしていなくても、表面だけで神の言葉を読み知っているつもりで生きていては、結局は神様から遠いままなのです。

穏便に過ごすよりも、大失敗して後悔したほうが、心から改心して神に立ち返ることができるとも言えます。イエス様は、表面的な信仰者をずいぶん嫌われたようです。「後悔先に立たず」ですが、後悔するほど、失敗したり、泣いたり、眠れないほど祈ったり、心配したりする人の方が、幸いなのかもしれません。

4,勧め 

 悔い改めるというのをもう一度考えましょう。

 旧約聖書では、「悔い改めよ」という言葉は、「帰ってきなさい」とも訳される言葉。今日のエゼキエル書にも出てきました。「悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。 彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない」「悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ」と呼びかけます。ここでいう「悔い改めて」という語と「立ち帰れ」は、実はこの同じヘブライ語「 שׁוּב」(シューブ)がつかわれています。涙を流してごめんなさいというのではなくて、帰ることです。

そして、一生懸命それを呼び掛ける神は、ただの怖く、厳しい神ではありません。この続きを読めばこうあります。「どうしてお前たちは死んでよいだろうか。 わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と。人間の罪ゆえの苦労を喜ばないで、帰ってくることを呼びかける愛なる神様なのでした。

神様の愛を知って、その中を、生きていきましょう。「あとで考え直して」出かけるところ、やり直すこと、たぶん私たちみんなが持っていると思います。

神様の呼びかけに答えて、思いっきり後悔して、考え直してみませんか?神様のもとに、いっしょに帰っていきましょう。

そのときに、本当の安心と心の平和が訪れ、人生は神様によって、まっすぐに導かれるのです。 


牧師コラム・今日の写真 「中秋の名月」 Tết Trung Thu(テッ チュン トゥー )   

9月29日は、中秋の名月でした。金曜日は復活教会で聖書研究会が夜にある日ですから、名古屋市の東区で見ることができた満月でした。

写真をFacebookに載せると、いろんな人からメッセージをいただきました。日本やブラジルやフィンランド、そしてベトナムからも。ベトナムに一時帰国しているHop君はベトナム語と日本語でこんなメッセージをくれました。一部紹介させていただきます。

Ý nghĩa của Tết Trung Thu trong Tiếng Nhật:(筆者注:日本語の中秋節の意味): 今日は旧暦によって8月15日です。ベトナムではTết Trung Thu(テッ チュン トゥー )と言います。日本で言うところの「十五夜(満月の夜)」ということです。Tet Trung Thuは毎年各地方でに行われます。月見(つきみ)ともいいます。月を祭る節句です。家族で月見をしながらお菓子を食べたり、カップル👫がデートたり楽しく過ごする文化があります。元々古代において中秋節に月餅をお供え物としていたそうですが、時代が変わり中秋節に贈り物とされるようになったみたいです。親しい人、恋人やお世話になっている人にこれを贈ります。それから月餅🥮以外では、付き合ってるカップルには男性から女性にプレゼント🎁を渡す習慣もあります。皆さん 、楽しくお過ごしてくださいね🥰 

ちなみに、Tết Trung Thu(テッ チュン トゥー )は、ネットで調べると漢字で「節中秋」と書かれていました。なるほど、そう読めるなぁという漢字です。昔はベトナムも漢字文化圏だったので、発音はむつかしいですが、漢字で書かれると「なるほど」と思う言葉が多くあります。「こんにちは」の「シンチャオ」は漢字では「慎謝」と書かれていたし、「ハノイ」は「河内」だったそうです。面白いですね! 

ところで今日は、高蔵寺教会の昼食会は世界食堂。今日のシェフは、ベトナム人のHienさんです。メニューは、Nem rán(揚げ春巻き)とBun Cha(焼肉とビーフン)です。月餅は、Hop君に、お土産に買ってくるようにTV電話で頼んでいました(笑)


聖書の学び会・新シリーズ開始します。

 ここ数年、ルカによる福音書でキリストのご生涯、使徒言行録でその続きの教会誕生とその後、エフェソの信徒への手紙で異邦人(非ユダヤ人)の教会の混乱やそこへの勧め、コリントの信徒への手紙で教会内の分派や争いへの戒めや勧めを学びました。 その後、昨年はローマの信徒への手紙で信仰による救...