聖書の言葉
イザヤ43: 1~ 7 (旧1130)より
恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。 2水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず 炎はあなたに燃えつかない。// 4わたしの目にあなたは価高く、貴くわたしはあなたを愛し あなたの身代わりとして人を与え 国々をあなたの魂の代わりとする。
参考
イザヤ41:10 10恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助けわたしの救いの右の手であなたを支える。
イザヤ59:1-4 主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。2むしろお前たちの悪が神とお前たちとの間を隔てお前たちの罪が神の御顔を隠させお前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。
ルカ3:15~17,21~22 (新106)
3:15民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。 16そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 17そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
3:21民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、 22聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
説教「神の心に適うもの」徳弘浩隆牧師
1、 メシア始動 !? イエス様の「公生涯」の始まり
クリスマス以降、年末はイエス様の12歳の時の話、そして先週はクリスマスに戻って3人の博士の訪問の話でしたが、今日はイエス様が30歳になられたころのはなしにもどります。クリスマス関連の出来事はその日付から動かすことができないからということでご了解ください。
今日からイエス様のご生涯を、今年はルカの福音書を中心にして一年かけてたどりながら、一緒に私たちもそこに立ち会って信仰生活をしていくことになります。
その中でも特にペンテコステまではイエス様のご幼少からの出来事、そしてイースターからペンテコステのころはイエス様のご生涯の最後の部分を一緒に呼んでいきます。ペンテコステ以降はもう一度、今年はルカによる福音書から読み飛ばした大切な教えや出来事を拾いながら読んでいく年度の後半を過ごすという流れになっています。
さて、そんなことで、今日はイエス様が洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになり、神の声を聴き、メシア・キリストとしてのご生涯・「公生涯」が始まった日の出来事が読まれました。今日の聖書から、その出来事の意味と、私たちの生き方への呼びかけを聞いていきましょう。
2,聖書
洗礼者ヨハネは、人々に洗礼を授けていました。メシアに会うための準備をするためです。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。」と自分は準備であり、あとから来られるメシアは別の洗礼をお授けになると伝えました。人々はヨハネの厳しい罪の糾弾に対する説教を聞き、洗礼を受けるために集まりました。その行列の中にイエス様もおられました。ルカではヨハネとイエス様のやり取りではなくて、その時の出来事が記されています。イエス様も洗礼を受けて祈っておられると、点が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に下ってきた。「イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、 22聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」という具合です。
ここで、イエス様の「特別さ」が明らかになります。聖霊が下り、「神の愛する子、神の心に適うもの」という、いわばお墨付を一緒に聞いたからです。
3,振り返り
さてここで、私たちへの今日の聖書の呼びかけは、どうでしょうか。「この方、イエス様に安心してこの一年従って生きていきましょう」、という気持ちになります。
でもそこで、ただ漫然とイエス様の言葉を学んで生活していけばいいのかと、問いかけられてもいます。それは、ヨハネの罪の糾弾の厳しい言葉も聞いたからです。罪深く、イエス様についていく資格もないのかとも思わされます。これをどう聞いていけばよいでしょうか?
その答えは、今日選ばれているイザヤ書、そしてイザヤ書の別の個所から読み解いていくことができます。
イザヤは、紀元前8世紀の預言者と考えられています。イエス様が来られる700年ほど前です。栄華を極めたイスラエルの国が二つに分裂し、北のイスラエルは滅亡していきます。南のユダの国も危機的状況でした。イザヤはこのユダの国で神の言葉を王や人々に語り続けました。偶像礼拝や社会的不正をぎびしく批判し、他国からの侵略の脅威は、神が他国を用いて国を裁いているのだと説き、悔い改めを迫ったのです。「やがて徹底的に滅ぼされるけれど、神はメシアを送る」との約束を告げ、後半では「やがて全世界を神様は治め守り、人々はその民になる」と約束を語りました。そしてそれがクリスマスに実現し、今日の洗礼を受けられたときにメシアの働きが始動したと考えてよいでしょう。
4,勧め
さて、神様の今日の勧めの言葉は何でしょうか?
それは、今日のイザヤ書と共に、二か所を参考に引用したいと思います。
イザヤの43章では「恐れなくてもいい。あなたは私のもの。あなたの名を呼びあなたは私の目に貴いのだ」と。
そしてその少し前の41章では「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助けわたしの救いの右の手であなたを支える。」神は言われます。
しかし、「神様がいつも支え助けてくれるにしては、歴史は、そして私の人生は、支えられず不安定で、悩みや苦しみもあり、思うようにいかず、世界は争いや戦争が絶えない」と合点がいきません。
でも、59章を見ると答えが書かれています。「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。2むしろお前たちの悪が神とお前たちとの間を隔てお前たちの罪が神の御顔を隠させお前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。」というのです。
神はその手で私を支え助けたい、神の目には貴いはずの人類なのに、罪を犯し誤った生き方を続けているから、神との間に隔てができていて、その祈りが届かないのだ、ということでした。
ですから、今日の勧めは、ただイエス様の言葉を学んで一年生きていくのではなくて、イザヤが、ヨハネが訴えるように、「悔い改め」を勧められているのです。
悔い改めは、お詫びして祈ることではなくて、私たちの生き方を、その方向を変えていくことだと、何度も学びました。方向転換です。
「神の言葉を聞き大切にし、その言葉のように人を愛して生きていくこと」この二つが旧約聖書の一番大切なポイントだと、イエス様ものちに言われます。
神を大切にすること、そして、それぞれ違った多様性がある私たちが互いを尊重し、時に赦し赦され、賜物を分かち合い生かしあい、一緒に笑い一緒に泣く、そんな生き方が、悔い改めをした私たちキリスト者の生き方です。さあ、一緒にそんな生き方をしましょう。
牧師コラム 「クリスマスプレゼントは1月6日⁉」
先週1月5日はクリスマスの三人の博士たちがイエス様のところに供え物をもってやってきた顕現主日、その翌日月曜日が1月6日の顕現の日でしたね。
月曜日の夕刻買い物に出かけました。妻と一緒に車で聞くラジオはたいてい頭の体操と懐かしさで、スペインやブラジルのFMラジオ局です。インターネット経由で車に流すことができるので、外国にいるような気持ちで運転も飽きません。この日聞いていたのはスペインMalagaのラジオ。こどもが電話で出てきてインタビューする番組が始まりました。女性のアナウンサーは上手に話しかけて、どの町から電話してきたか、何歳なのかなどを聞き出しながら、楽しいかわいい会話が続きます。そして必ず、「3人の博士の日おめでとう!(Feliz dia de Reyes!)」とあいさつを交わします。ぼんやり聞いていた私たちは「そうだ、今日は顕現日だ!」と再認識させられます。インタビューの続きは、「ねえ、きみは博士たちに何をもらったの?」。すると、「プレゼントはパパとママももらってたよ。パパはねぇ、新しい自転車だった。私はお人形さん」みたいな会話が続きます。スペインの有名な百貨店でも挿絵のような具合に、「もう博士は来た?君には何を持ってきたかな?」と宣伝します。
サンタクロースがクリスマスプレゼントを持ってくるというのは別の伝統ですが、昔からのカトリック国のスペインは1月6日がプレゼントをもらう日でした。良い子にしていたらプレゼント、悪い子だったら箱を開けたら炭の燃えカスだった、という話もあって、クリスマスマーケットでは「黒い炭のデザインの置物」も売られていました。同じキリスト教でも違う文化、違う風習があるのは興味深いことですね。
自分の信仰や今までの教会の姿だけを絶対視しないで、もっと開かれた目で、人々と一緒に集まり、礼拝し、広がりができる教会になれたらいいなと思わされました。