2025年1月25日土曜日

説教メッセージ 20250126

少し早いですが、明日の礼拝のメッセージ投稿します。

明日は名古屋にあるルーテル復活教会で礼拝担当ですが、FacebookとYouTubeチャンネルででも中継します。お待ちしています。

https://youtube.com/@pastorhirotakagabrieltokuh983?feature=shared 

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聖書の言葉 

ルカ4:14~21 (新107) 

4:14イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。 15イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。

16イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。 17預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。

18「主の霊がわたしの上におられる。

貧しい人に福音を告げ知らせるために、

主がわたしに油を注がれたからである。

主がわたしを遣わされたのは、

捕らわれている人に解放を、

目の見えない人に視力の回復を告げ、

圧迫されている人を自由にし、

19主の恵みの年を告げるためである。」

20イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。 21そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。


説教「神の言葉の実現」徳弘浩隆牧師

1、 開けばイザヤ書

実は、先週の聖餐式の時にこんなことがありました。いつも、聖卓の聖書を一度丁寧に脇において、聖餐式をして、そのあと開いてもう一度真ん中に戻すという所作をしているのですが、その日はイザヤ書が開きました。よく詩篇くらいが開くのですが、その日はイザヤ書だったので、今日の聖書の個所を思い出しながら、実は一人でニヤリとしてしまいました。

今日の聖書では、イエス様が安息日に会堂に行って、聖書朗読をしようとされると、渡された巻物がイザヤ書だったという話を読んでいたからです。

こんな具合だったのかな?と思って、礼拝を続けたのですが、当時との違いはこうです。

安息日、つまり土曜日の会堂は、私たちは今日曜日に教会で礼拝をしているという事が一つ。そして、今は旧約と新約がそろって聖書ですが、当時は旧約だけが聖書。そして、印刷した分厚い書物ではなくて、巻物だったという事ですね。

東京でも、サンパウロでも、ユダヤ教のシナゴーグに見学に行った時に見せてもらったことがあります。

今日の聖書の話では、何が起こったのでしょうか?

私たちの生き方への呼びかけを聞いていきましょう。

2,聖書 

クリスマス以降学んできた聖書を、少し振り返るとこんな具合です。洗礼を受けられてキリストとしての「公生涯」が始まった。最初の「しるし」はカナの婚礼の出来事で、律法のきよめの石の水がめにイエス様の言われるとおりに水を入れるとワインに変わったということで、律法から福音そして十字架の血をも指し示す出来事でした。

全体の流れからすると、それに続いての出来事が今日の話になります。イエス様は悪魔の誘惑を退け、「”霊”の力に満ちて」ガリラヤに帰ります。次第に、イエス様の評判が周りの地方一帯に広がりました。諸会堂で教え皆から尊敬を受けるようになったようです。

その後、育った故郷のナザレにきました。安息日に、同じように会堂に入ります。聖書を朗読しようとお立ちになり、渡された巻物を開くと、それはイザヤ書で、開いたところにはイザヤによるキリストの預言が書かれてあったのです。それを聞き、人々はイエス様に注目していました。今評判のこの人が、そのイザヤの預言の通りの人なのかと思ったのでしょう。そこで、イエス様は言われます。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」と。人々のキリスト待望の期待と願いを、肯定した形に聞こえます。

3,振り返り 

さてこの言葉は、今日聖書を読んでいる私たちには、どんな意味を持って呼びかけとなっているでしょうか?

ナザレの人々の驚きと期待、そしてそれに対する反応は様々で、実は来週の聖書日課で続いて読むことになっているので、来週に譲ることにして、今日はこの言葉の呼びかけが何を意味し、私たちはどうこたえるか?という事を考えましょう。

今日、その預言が実現したといわれた聖書の個所は、イザヤ書の61章1-2節です。人々の不信仰で国は分裂し、神の裁きとして北も南も他国に侵略支配され国は滅び、異国に連れ去られました。しかしその後、人々の懲らしめは終わり、神に立ち戻り、人々も自国に戻ることができて国を再建する日が来るという神の約束をイザヤが語っているところです。その時、油注がれた王/または救世主が現れ、神の支配が実現するので貧しいものや虐げられているもの、そして病気の物もその解決をるのだと、続きます。「そんな日が来た!」と、「そんな神の言葉が実現したのだ!」というのがちょうどイエス様が読まれた聖書の言葉であり、その時、実現したのです。

そのことを私たち一人ひとりの人生でも、確認することが大切です。「ただ、カレンダーが巡ってきて、クリスマスを迎え、キリストがお生まれになったのだな」、という事だけではなくて、不信仰と懲らしめと、悔い改めと、新しい意味のある人生の回復が、いま、自分にも起こっているのだ、という自分のこととしての理解と、生き方の変革が大切です。それが今日の神からの問いかけと、メッセージです。

さて、それとともに、この呼びかけの中で、「主の恵みの年」という言葉に注目せねばなりません。これは、旧約聖書の規定の中で決められている「ヨベルの年」という事だからです。

一週間では安息日は7日目ですべて休む時。そして、7年が7回過ぎたときには、49年経って翌年の50年目をヨベルの年とすると神は旧約聖書のレビ記で規定しています。この年は、借金が免除され、借金のために奴隷になったものは自由が与えられ、貧しいものが土地を取り戻す機会が与えられる、大恩赦ともいえる年なのです。これは、旧約聖書の時代において、貧富の格差を是正し、社会の公平を保つこととして定められ機能していました。

いまや、キリストが来られて、または、それを自分のこととして受け入れるならば、このヨベルの年のような神の恵みの時が到来したのだ、という事になります。

今の社会や世界は、憎しみの憎悪、貧富の格差の拡大と固定化、移民難民の排除、自分たちがまず大切という風潮が大国でもあり、心痛い日々を過ごしています。

そんな中で、私たちは、わたしは、何をしなければならないでしょうか?これが、今日の私たちへの神様の問いかけという事になります。

4,勧め 

ところで、先週実は私は、教会の近くの年金事務所に行ってきました。急に関係のない話になったかと思われるかもしれません。しかし、「定年退職する」というのはスペイン語やブラジルのポルトガル語では「ヨベルの年を迎えた」という言い方をするので、今日の聖書を読みながら、私もしみじみと「ヨベルの年」を思い返しました。「引退=解放、喜びの節目」という意味合いが、「ヨベルの年という言葉とぴったりだったのかもしれません。

同じ言葉から派生した英語の「ジュビリー」という言葉は、今はただのお祭りとか50周年という事になっています。しかし、本来は「負債の帳消し、奴隷の解放、土地の返還、神の救済、社会の問題のリセット」という意味だという事を思い出しましょう。

そうなると、私たちと神様の関係には、引退はありません。むしろ、「神の救済、社会の問題のリセット」を実現するために、私たち一人ひとりが、この教会を通して神様の働きが始まり、広げられるようになりたいと思います。

今はちょうど教会の年次総会の時期ですが、そんな神の言葉が、社会に対しても実現するよう、教会の働きを整えていけるようになるよう祈りましょう。



牧師コラム ペテロとパウロの日

 カトリックの教会の時代からの伝統では、1月18日がペトロの日、1月25日がパウロの(回心の)日となっています。ルーテル教会の教会手帳にも記入されています。 特に日付への根拠はないようですが、5-6世紀の頃定められていったそうです。

1月18日から25日は「キリスト教一致祈祷週間 (Week of Prayer for Christian Unity)」とされ、1月18日から1月25日までの間にエキュメニカル(教派間の一致を目指す)な祈りが各地域や団体間で行われることも多くあります。

東京の神学校でも、網のフェンス越しに隣接する東京神学大学がありますが、この週間は特にフェンスを行き来して、合同プログラムがあったのも思い出します。

そして、ブラジルにはサンパウロという都市がありますが、1月25日がサンパウロ市では休日になっています。昔、ポルトガルの宣教師たちが上陸し、その地に新しい都市を作るとミサをした日という事です。だからこのパウロの日にちなんで、サン・パウロ(聖パウロ)と名付けられました。今年で471年だそうです。

都市の名前と言えば、もう一方のペトロですね。これは有名どころでは、サンクト・ペテルブルグがありますね、ロシアに。これは、聖・ペテロの街という意味ですね。これはこの街を設立したのがピョートル大帝だったから、その守護聖人の名をとったからというのがいわれだそうです。「ピョートル/Пётр」は実は「ペトロ」のロシア語読みで、誕生日は関係ないけれど、聖ペテロを守護聖人として命名されたということのようですね。そんなことを考えさせられた一週間でした。



都市の名前と言えば、もう一方のペトロですね。これは有名どころでは、サンクト・ペテルブルグがありますね、ロシアに。これは、聖・ペテロの街という意味ですね。これはこの街を設立したのがピョートル大帝だったから、その守護聖人の名をとったからというのがいわれだそうです。「ピョートル/Пётр」は実は「ペトロ」のロシア語読みで、誕生日は関係ないけれど、聖ペテロを守護聖人として命名されたということのようですね。そんなことを考えさせられた一週間でした。


2025年1月12日日曜日

説教メッセージ 20250112

 聖書の言葉 

イザヤ43: 1~ 7 (旧1130)より

恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。 2水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず 炎はあなたに燃えつかない。// 4わたしの目にあなたは価高く、貴くわたしはあなたを愛し あなたの身代わりとして人を与え 国々をあなたの魂の代わりとする。

参考 

イザヤ41:10 10恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助けわたしの救いの右の手であなたを支える。

イザヤ59:1-4 主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。2むしろお前たちの悪が神とお前たちとの間を隔てお前たちの罪が神の御顔を隠させお前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。

ルカ3:15~17,21~22 (新106)

3:15民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。 16そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 17そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

3:21民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、 22聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。




説教「神の心に適うもの」徳弘浩隆牧師

1、 メシア始動 !? イエス様の「公生涯」の始まり

クリスマス以降、年末はイエス様の12歳の時の話、そして先週はクリスマスに戻って3人の博士の訪問の話でしたが、今日はイエス様が30歳になられたころのはなしにもどります。クリスマス関連の出来事はその日付から動かすことができないからということでご了解ください。

今日からイエス様のご生涯を、今年はルカの福音書を中心にして一年かけてたどりながら、一緒に私たちもそこに立ち会って信仰生活をしていくことになります。

その中でも特にペンテコステまではイエス様のご幼少からの出来事、そしてイースターからペンテコステのころはイエス様のご生涯の最後の部分を一緒に呼んでいきます。ペンテコステ以降はもう一度、今年はルカによる福音書から読み飛ばした大切な教えや出来事を拾いながら読んでいく年度の後半を過ごすという流れになっています。

さて、そんなことで、今日はイエス様が洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになり、神の声を聴き、メシア・キリストとしてのご生涯・「公生涯」が始まった日の出来事が読まれました。今日の聖書から、その出来事の意味と、私たちの生き方への呼びかけを聞いていきましょう。

2,聖書 

洗礼者ヨハネは、人々に洗礼を授けていました。メシアに会うための準備をするためです。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。」と自分は準備であり、あとから来られるメシアは別の洗礼をお授けになると伝えました。人々はヨハネの厳しい罪の糾弾に対する説教を聞き、洗礼を受けるために集まりました。その行列の中にイエス様もおられました。ルカではヨハネとイエス様のやり取りではなくて、その時の出来事が記されています。イエス様も洗礼を受けて祈っておられると、点が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に下ってきた。「イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、 22聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」という具合です。

ここで、イエス様の「特別さ」が明らかになります。聖霊が下り、「神の愛する子、神の心に適うもの」という、いわばお墨付を一緒に聞いたからです。

3,振り返り 

さてここで、私たちへの今日の聖書の呼びかけは、どうでしょうか。「この方、イエス様に安心してこの一年従って生きていきましょう」、という気持ちになります。

でもそこで、ただ漫然とイエス様の言葉を学んで生活していけばいいのかと、問いかけられてもいます。それは、ヨハネの罪の糾弾の厳しい言葉も聞いたからです。罪深く、イエス様についていく資格もないのかとも思わされます。これをどう聞いていけばよいでしょうか?

その答えは、今日選ばれているイザヤ書、そしてイザヤ書の別の個所から読み解いていくことができます。

イザヤは、紀元前8世紀の預言者と考えられています。イエス様が来られる700年ほど前です。栄華を極めたイスラエルの国が二つに分裂し、北のイスラエルは滅亡していきます。南のユダの国も危機的状況でした。イザヤはこのユダの国で神の言葉を王や人々に語り続けました。偶像礼拝や社会的不正をぎびしく批判し、他国からの侵略の脅威は、神が他国を用いて国を裁いているのだと説き、悔い改めを迫ったのです。「やがて徹底的に滅ぼされるけれど、神はメシアを送る」との約束を告げ、後半では「やがて全世界を神様は治め守り、人々はその民になる」と約束を語りました。そしてそれがクリスマスに実現し、今日の洗礼を受けられたときにメシアの働きが始動したと考えてよいでしょう。

4,勧め 

さて、神様の今日の勧めの言葉は何でしょうか?

それは、今日のイザヤ書と共に、二か所を参考に引用したいと思います。

イザヤの43章では「恐れなくてもいい。あなたは私のもの。あなたの名を呼びあなたは私の目に貴いのだ」と。

そしてその少し前の41章では「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助けわたしの救いの右の手であなたを支える。」神は言われます。

しかし、「神様がいつも支え助けてくれるにしては、歴史は、そして私の人生は、支えられず不安定で、悩みや苦しみもあり、思うようにいかず、世界は争いや戦争が絶えない」と合点がいきません。

でも、59章を見ると答えが書かれています。「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。2むしろお前たちの悪が神とお前たちとの間を隔てお前たちの罪が神の御顔を隠させお前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。」というのです。

神はその手で私を支え助けたい、神の目には貴いはずの人類なのに、罪を犯し誤った生き方を続けているから、神との間に隔てができていて、その祈りが届かないのだ、ということでした。

ですから、今日の勧めは、ただイエス様の言葉を学んで一年生きていくのではなくて、イザヤが、ヨハネが訴えるように、「悔い改め」を勧められているのです。

悔い改めは、お詫びして祈ることではなくて、私たちの生き方を、その方向を変えていくことだと、何度も学びました。方向転換です。

「神の言葉を聞き大切にし、その言葉のように人を愛して生きていくこと」この二つが旧約聖書の一番大切なポイントだと、イエス様ものちに言われます。

神を大切にすること、そして、それぞれ違った多様性がある私たちが互いを尊重し、時に赦し赦され、賜物を分かち合い生かしあい、一緒に笑い一緒に泣く、そんな生き方が、悔い改めをした私たちキリスト者の生き方です。さあ、一緒にそんな生き方をしましょう。



牧師コラム 「クリスマスプレゼントは1月6日⁉」

 先週1月5日はクリスマスの三人の博士たちがイエス様のところに供え物をもってやってきた顕現主日、その翌日月曜日が1月6日の顕現の日でしたね。

月曜日の夕刻買い物に出かけました。妻と一緒に車で聞くラジオはたいてい頭の体操と懐かしさで、スペインやブラジルのFMラジオ局です。インターネット経由で車に流すことができるので、外国にいるような気持ちで運転も飽きません。この日聞いていたのはスペインMalagaのラジオ。こどもが電話で出てきてインタビューする番組が始まりました。女性のアナウンサーは上手に話しかけて、どの町から電話してきたか、何歳なのかなどを聞き出しながら、楽しいかわいい会話が続きます。そして必ず、「3人の博士の日おめでとう!(Feliz dia de Reyes!)」とあいさつを交わします。ぼんやり聞いていた私たちは「そうだ、今日は顕現日だ!」と再認識させられます。インタビューの続きは、「ねえ、きみは博士たちに何をもらったの?」。すると、「プレゼントはパパとママももらってたよ。パパはねぇ、新しい自転車だった。私はお人形さん」みたいな会話が続きます。スペインの有名な百貨店でも挿絵のような具合に、「もう博士は来た?君には何を持ってきたかな?」と宣伝します。



サンタクロースがクリスマスプレゼントを持ってくるというのは別の伝統ですが、昔からのカトリック国のスペインは1月6日がプレゼントをもらう日でした。良い子にしていたらプレゼント、悪い子だったら箱を開けたら炭の燃えカスだった、という話もあって、クリスマスマーケットでは「黒い炭のデザインの置物」も売られていました。同じキリスト教でも違う文化、違う風習があるのは興味深いことですね。

自分の信仰や今までの教会の姿だけを絶対視しないで、もっと開かれた目で、人々と一緒に集まり、礼拝し、広がりができる教会になれたらいいなと思わされました。


2025年1月5日日曜日

礼拝メッセージ 20250105

聖書の言葉 

イザヤ 60: 1~ 6 (旧1159)

2見よ、闇は地を覆い暗黒が国々を包んでいる。

しかし、あなたの上には主が輝き出で 主の栄光があなたの上に現れる。3国々はあなたを照らす光に向かい 

王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。4目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る。息子たちは遠くから娘たちは抱かれて、進んで来る。5そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き おののきつつも心は晴れやかになる。海からの宝があなたに送られ国々の富はあなたのもとに集まる。6らくだの大群 ミディアンとエファの若いらくだが あなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。

マタイ 2: 1~12 (新2)

2:1イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、 2言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」 3これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。 4王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。 5彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。

6『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」

7そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。 8そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。 9彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。 10学者たちはその星を見て喜びにあふれた。 11家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。 12ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。



説教「東の国から西の国へ」 徳弘浩隆牧師

1、 今日までクリスマス…

新しい年を迎えました。今年もよろしくお願いします。

さて街ではクリスマスが終わるとお正月に様変わりして、クリスマスの飾りもとっくに片付けられていますが、教会のカレンダーでは今日までがクリスマスといえます。

キリスト教がヨーロッパに定着した後、冬至のお祭りに合わせてクリスマスが祝われるようになり、12月25日となりました。また、これらの関連で、東方の3人の博士が来たというのは1月6日となっていています。

そういうわけで今日はその、東方の3博士がイエス様を拝みに来たと聖書に残されている出来事を読む日曜日になっています。

クリスマスの劇では、天使とマリアにヨセフ、羊飼いとイエス様のお誕生、そして3人の博士が次々に登場しますが、教会のカレンダーで言うと少し間が空き、3人の博士の登場をもってクリスマスシーズンが一区切りするということになっています。

さて、この3人の博士の出来事は今日の私たちに何を呼びかけているでしょうか?一緒に聞いていきましょう。


2,聖書 

博士と言われますが、聖書では占星術の学者たちと訳されています。これはギリシャ語の聖書では「マゴイ」と書かれていて、占星術やゾロアスター教という東の国の宗教の偉い人たちを呼んでいた言葉でもあります。それら異国の宗教家や占星術師と理解され翻訳されています。マゴイは、マジックの語源にもなっています。旧約聖書から預言され待たれていたユダヤの王、メシアの誕生を、不思議なしるしを見つけて異国の宗教家たちも礼拝に来たということになります。

今日のイザヤ書でも預言されていたことが成就したと、マタイは記しているのです。3人の博士とよく言われますが、その人数についてはマタイは触れていないのですが、黄金、没薬、乳香という贈り物を持ってきたということから3人と言われるようになりました。そしてミディアン、エファ、シェバという地名も出ましたが、これらはアラビア半島の北西部からシナイ半島、アラビア半島北部、アラビア半島南部を指し、ラクダに乗ったキャラバンと言われる商業活動をする人々が盛んに行き来していましたし、シェバは昔ソロモン王を訪ねて多くの贈り物をささげたというシェバの女王を思い出させます。乳香や没薬の産地でもありました。

さてこれらの預言とその成就から、キリストはユダヤ教で待たれていた救い主であるということとともに、それを超えて、他宗教や他文化の人々も礼拝に来るような全世界の救い主であるということが今日の大きなメッセージです。ですから、エピファニー・公現祭と言われています。不思議なことに彼らが持ってきた贈り物はそれぞれ、黄金は王様の象徴、乳香は神としての象徴、没薬は人間としての苦しみと死をあらわす象徴というものでもあり、イエスキリストの存在とその地上での生涯をあらわす物でもありました。


3,振り返り 

そんな嬉しく、不思議で、深い意味を持ち合わせた出来事でしたが、当のユダヤの人々はどうだったかということも考え、自分の生き方を振り返らねばなりません。

ヘロデ王は不安を抱き、エルサレムの人々も同様だったとあるからです。神様の出来事を喜び、救い主の誕生を一緒に拝みに行くのではなくて、厄介者扱いをし、排除しようとしたのです。

これは、私たちの心にある、善と悪のせめぎあい、神様や他者のことを思う愛と自分の自尊心や思いやり益を思うエゴイズムのせめぎあいでもあるのです。

クリスマスを一緒に祝い、そこに立ち会った私たちですが、これから始まる一年がどうであるかを問いかけています。

「それはそれ、これはこれ」の日常がまた始まるのか、「神様を大切にし、人を愛し共に生きていく」新し生き方が始まるのかです。

東の国からはるばるやってきた3人の博士に対して、当事者の自分はどう生きるかを問いかけています。


4,勧め 

さて昨夜は突然インドネシアの牧師から電話があり一時間くらい話しをしました。彼女はインドネシアのドイツ系のルーテル教会の牧師でディアコニアの責任者をしていた方です。要件は、日本にいるインドネシア人のケアや伝道をする可能性を探しているということと、私の周りに外国メンバーがいてその中にインドネシア人の熱心なメンバーもいると聞いたから今後の可能性を話し合いたいということでした。

私も人づてに彼女のことを知り、メールを送ったりしていましたが、なかなか返事が来ませんでした。そこで、彼女の携帯に外国人が良く使うアプリを使ってメッセージを送ると、昨日ようやく返事が来て、電話が来たのでした。残念ながらその姉妹は今月インドネシア日本帰国することになったけれど、たくさんのアジア人が日本で勉強したり働いたりしてくれているので、国籍や言葉を超えて教会はお世話をし、また伝道もしたいと、意気投合しました。イエス様を拝みに来た人たちには、2000年前のクリスマスの当日から、東の国も西の国も違いはないのです。

今日私たちはちょうど、その姉妹・レリアナさんの送別会も予定しています。5年前に出会って、教会で日本語教室を続け、仲間も増え、一緒に信仰生活や教会での奉仕もしてきました。別れは寂しくて残念なことですが、日本の西の国から来てくれて出会ったこの姉妹を、今度は東の国から西の国に送り出す気持ちで、派遣する気持ちで、お送りしたいと思います。神様が新しい計画を持ち、何かを始めようとされているのかもしれません。

私たち一人一人も、神様の不思議な計画で、西や東、北や南、いろんなところでいろんな人と出会い、神様の愛を伝えていきましょう。外国に行くことだけではありません。地域の昔からの人々との出会い、あるいは外国から自分たちのそばに来てくれている人たちとの出会いもあるかもしれません。

そんな教会の働きに今年も一緒に参加しましょう。新しい人と出会わせてくれて、神を愛し、人を愛し、安心と平和の生活を広めていきましょう。


説教メッセージ 20250330

聖書の言葉 ルカ15: 1~ 3,11b~32 (新138) 15: 1徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 3そこで、イエスは次のたとえを...