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2022年7月31日日曜日

説教メッセージ20220731

暑さが続きますね。セミの声を聴くといつも思い出すのが、「アリとセミ」のはなし。「えっ?アリとキリギリスじゃないの?」いや実は…というお話です。明日、礼拝でお会いしましょう。コロナが身近になってきましたから、礼拝では基本的感染対策とともに、式文は交読、讃美歌は減らす、聖餐式はしばらくお休みとなります。教会か、Facebookのライブでお会いしましょう。

聖書の言葉 ルカ12:13~21 (新131)

12: 13群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」 14イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」 15そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」 16それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。 17金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、 18やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、 19こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』 20しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。 21自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」


説教「本当の豊かさ、財産か神の前にか」徳弘牧師

1.蝉の声で目が覚めて

週に何度かは高蔵寺教会の牧師館で寝泊まりをして、集会の準備や牧師館の修理などをしていますが、この時期、近隣の大木から響いてくる蝉の声で目が覚めます。「今日も暑いぞー」と言わんばかりに、たたき起こされるという感じで、夏を感じます。

そしてその蝉の声を聞きながら思い出すのが、「アリとキリギリス」の物語です。アリとキリギリスは有名なイソップの寓話ですが、「蝉は出てこないのにどうして?」と思われるかもしれません。実は、「アリとキリギリス」の物語は、オリジナルのイソップ寓話集では「キリギリス」ではなくて「蝉」だったという話をブラジルで聞いて驚いたのを覚えているからです。紀元前6世紀の歴史家ヘロドトスの書物に紹介されているアイソーポスという人の寓話集が現在のイソップ寓話集として伝えられてきたもので、メソポタミヤや小アジアの民話も含まれているそうです。そして、このアリとキリギリスはアリとセミだったけれど、蝉は熱帯・亜熱帯、そしてギリシャにはいたのですが、ヨーロッパ北部に伝えられる際になじみがない生き物なので、キリギリスに置き換えて翻訳し、それが世界や日本にも広がっているそうです。実際英語の国では「ありとバッタ」ですが、ブラジルでは「アリとセミ」だったので驚いたのを覚えています。

さて、雑学はそのくらいにして、この寓話が教えるのは、「夏の間せっせと働いて食料を蓄えていたアリと、歌ってばかりいたセミの生き方の対比」でした。もともとは「セミが冬に食べ物が無くてアリに分けてくれるよう頼むのですが、断れられて死んでしまう」というちょっと残酷なものでした。それが伝えられる中で改変されて、もっと憐みの心をもってアリが食べ物を分けてあげたとか、キリギリス(セミ)がお礼に演奏をしたとか、そういう話もあるという事です。

今日の聖書は、やはり、食糧を備蓄した人の話ですが、その人の生き方は、神様の目から見てどうだったのでしょうか?聖書に聞いていきましょう。

2.聖書

今日の聖書の話は、群衆の一人から遺産分けのトラブルを解決してもらおうと、イエス様にお願いに来た人への答えから話が発展して、この世の財産に執着する生き方をする私たちへのイエス様のたとえ話での教えです。

まずイエス様は、神様の話ではなくて、遺産分けのトラブルの仲裁を頼まれたことに驚き、あきれられるのですが、実はユダヤ教の教師にはこの世の問題の調停も仕事の一つでしたから、イエス様がそのように人々に尊敬され期待されていたという風に見ることもできるでしょう。

しかしイエス様は、その願いに応じずに、この言葉をきっかけにして、人間の貪欲そのものについて諭されました。「むさぼり」の罪は十戒でも戒められており、お金や財産を神様以上に求め心を置くことは偶像礼拝と同じであると戒められているので、そのように指摘されます。

それからさらにたとえ話をされました。畑が豊作になったお金持ちの、悩みと、解決策、そして希望と絶望です。これはたとえ話を呼んでその通りです。

どれほどこの世で財産を蓄えても、それは何の安心と助けにもならず、人の命はそれで伸ばすこともできない。自分のために富を積まず、神の前に豊かになることが大切だ、と教えられました。

3.振り返り

さて、どうでしょう。私たちは、何の計画もなく、その日暮らしをすることが良いという簡単な結論を得てはいけません。

事実、旧約聖書では、神様の恵みで王の夢を解いたヨセフは、豊作と飢饉の将来を知り、蔵に蓄えて多くの人々を救いました。飢饉に苦しむ他国の民をも救うことになり、現代風に言えば「食糧難民」としてエジプトに流入した自分の兄弟と再会し、ユダヤ民族を助け、のちの歴史を作ることにもなったのです。

では今日のイエス様の教えはどのように聞くことが正しいのでしょうか。それは、「この金持ちの生き方の中に、神様がいなかった」という事でしょう。

同じ豊作と飢饉でもヨセフの時には神様の計画と導きで人々は救われるという不思議な出来事でした。しかし今日の金持ちは、まず豊作で悩みました。「こんなにたくさんどこに蓄えよう、倉庫は足りないぞ」と。しかし、解決策はありました。今の倉庫を壊して大きなものを作るということでした。これで一安心、これから先何年も生きていける。食べたり飲んだりして楽しもうと、思ったのです。しかしそれはなんと浅はかな計画でした。その命を与え支えてくださる神様のことは、彼の頭にはなかったからです。

 教訓はこれらのことです。

1)「貧乏をしていたらお金が足りないことだけが悩みだけど、お金持ちになったら悩みはお金ではなくなって、悩み事が増える」と先日会いに来てくれたブラジル移民で農業をしてこられた方が言われたのを思い出します。

2)食糧備蓄をして一安心してもよいでしょうが、命を支え守ってくださる神様を何よりも大切にしないと、命が取られたら何にもならないという事。

3)私たちを活かすのは、食糧でも財産でもなく、神様だという事を覚えて、神様とともに生きる豊かさを大切にしましょう。

4.勧め

最後に、少し、アリとセミの話に戻りましょう。実はこの話にはもう一つの、落としどころがあります。わざとかどうかはわかりませんが、考えさせられる事実があるのです。

それは、「そもそも、セミは冬まで生きてはいけない生き物だった」ということです。冬になってセミが、あるいはキリギリスが食料が無くておなかがすいてアリに頼み込むという事が起こる前に、寿命で死ぬものだったという事です。実に衝撃的なことです。

それに気づくときに、私たちが、鳥越苦労をしたり、反対にこれで何十年大丈夫だと安心するのは、命を支配しておられる神様を抜きに考えるならなんと愚かなことかと、考えさせられます。

神様を大切に生き、本当の意味で生かされることをイエス様は教えられます。むなしいものを追いかけたり、むなしいものをため込んで安心するのではなくて、神様を根拠にして安心して生きていきましょう。

人との関係でも悩みや摩擦も多い社会です。しかし、人の評価や人の目ではなくて、神様とともにある自分を生きていきましょう。

私たちが安心して生きていける根拠はどこにあるでしょうか?貯金通帳でしょうか、自分を支持して理解してくれるこの世の友人の数でしょうか?確かにそれらがないと心配で生きていきにくいものです。しかし、もっと大切な、神様と神様の家族の本当の交流を大切にしていきましょう。そのとき、 「生きている」のではなくて、「生かされている」ことに気づかされます。そこに「本当の豊かさ」があるという事です。祝福をお祈りいたします。

 

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教会の風景「十字架のもと」 

先週近所の高校生が研究授業の一環でと、先生たちと復活教会を見学に来られた折に教会内の案内をし、二階の牧師室から十字架の「心柱」をお見せしました。「外から見たあの緑色の十字架の塔のその柱の下に今いるんですよ。ここで仕事をしています」とお話ししながら、「すごいところにいるものだなぁ」と我ながら思いを新たにしました。

ブラジルにも紹介しました。2か月に一度ほど、日本語の礼拝説教をビデオ収録してブラジルの他教派の教会にお送りしています。インターネットのトラブルを避けるために、その日のために彼らのために話しかける説教を収録し、ブラジルでは200人くらいの方が見て一緒に礼拝してくださいます。今回はこの牧師室で収録し、上の柱もご覧に入れました(左写真)。

そんな時、思い出す讃美歌があります。「十字架のもとぞ いとやすけき…」という讃美歌です。十字架こそ、神様の義(正しさ)と愛が交錯するところ。自らを犠牲にして人を赦し愛された、神様を見上げながら、そこで安心して生きていきたいと思わされます。こんな讃美歌です。

1. 十字架のもとぞ いとやすけき、 神の義と愛の あえるところ、 あらしふく時の いわおのかげ、 荒野のなかなる わが隠れ家。

2. 十字架のうえに われはあおぐ、 わがため悩める 神の御子を。 妙にもとうとき かみの愛よ、 底いも知られぬ ひとの罪よ。

3. 十字架のかげに われは立ちて、 み顔のひかりを たえず求めん、 この世のものみな 消ゆるときも、 くすしく輝く そのひかりを。

2022年7月30日土曜日

礼拝やイベント・新型コロナ対策の一時強化につきまして

新型コロナ感染の第7波は大きな勢いで身近に迫っています。日本では統計的に、「10人に一人の感染者がいる」ことになっているということですし、防ぎようがないことですから、互いに批判したり心配しすぎることが無いようにし、一緒に対策をして乗り切りましょう。

メンバーにも地域にも、基礎疾患をお持ちの方や、ご高齢者ケアや同居の方もおられます。一番ご心配の方に合わせての対策が必要と思います。牧師の私もアレルギー体質で気管支喘息持ちで常時薬を持ち歩いていますし、疲れると扁桃腺がすぐ腫れてくるので体調に気遣いながら生活しています。また、マスクは、万一自分が感染して無症状でいる場合でも、他者に移すことを防ぐことが期待できるので、励行しているところです。

そこで今回、急ぎの対策としては、代議員役員の方々と緊急にご相談し、以下の方向で対策したいと思います。宜しくお願いいたします。

1,コロナ感染者も出て身近になっているので、心配な方は無理せずお休みください。

2,礼拝は、式文を交読にし歌わない、讃美歌は1節2節のみにし短縮、牧師のいる日も聖餐式はしばらくお休みにする。

3,消毒、換気、マスク着用を再度徹底する。

4,体力低下を防ぐために、それぞれ無理のない生活を心がける。

5,もし感染してしまったら、保健所などの指示に従い自宅療養に努め、安心のために牧師代議員にも連絡していただく。食料品や生活用品の買い出しなど必要なことがあればなんでも購入配達などのお手伝いをします。

世界の平和と、一人一人の安心と健康のため、ともに祈りましょう。

よろしくお願いいたします。2022/07/30

牧師:徳弘浩隆

2022年7月23日土曜日

説教メッセージ20220724

暑い日が続きますね。教会の看板を触ると熱くて、ヤケドしそうにになりました。心と体、大切に、無理しないで生活しましょう。難しい問題が多い世の中で、祈りたくなることも多いでしょう。でも、どう祈ったらいいのでしょうか?聖書でイエス・キリストが教えています。ちょっと聞いてみませんか?高蔵寺教会か、Facebookの礼拝でお待ちしています。

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 聖書の言葉 ルカ11: 1~13 (新127)

11: 1イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。 2そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。

『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。3わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。4わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を 皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」

5また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。 6旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』 7すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』 8しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。 9そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 10だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。 11あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。 12また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。 13このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」


説教「神様との交渉に秘訣はあるか?」徳弘牧師

1.目を閉じて、手を組んで、神様とお話ししますよ

こどもの礼拝の時、お話の最後でよく言う言葉はこうです。「さいごに、お祈りしましょ。目を閉じて、手を組んで、静かにしましょう。神様とお話ししますよ~」 すると、こどもたちも急に静かになって、同じようにしてくれます。すぐに静かにならないときは、「神様によーく聞こえるように、静かにしますよー」というと、静かなってくれます。

お祈りは、神様とお話しすることだと、こどものころからわかってもらう事は大切だと思います。そしてそれは、にぎやかになっている子どもたちを、静かにするテクニックという訳ではありません。大人になって、騒がしい世の中、騒がしい心から、一人、静かに心を落ち着けてから、神様にお話を聞いてもらう、そんな切り替えの習慣を持つ、とても大切なことだと思います。

今日の聖書は、祈り方についてのイエス・キリストのお話です。旧約聖書にも、アブラハムのものすごいお祈りが出てきました。わたしたちは、どのように祈ればいいのでしょうか。聖書に聞いていきましょう。

2.聖書

私たちも礼拝の中でお祈りする「主の祈り」といわれる祈りが、聖書の中で説明されるところです。これを理解するために、いくつかの大切なことがあるように思います。

1)初めは、「主の祈り」とは、イエス様がそう命名したのではなく、イエス様が教えてくれた祈りの言葉だから、そう呼ばれるようになったという事。「私たちの主、イエス・キリストが教えてくださった祈りを祈りましょう」というと、初めての方でもわかりやすいようです。

2)二つ目は、ルカの説明では、「このように祈るべきだ」と、呪文のようにイエス様のほうから教え、押し付けられたものではなくて、弟子たちの願いに応えて教えて下さったという事です。興味深いことは、弟子たちは、当時のもう一方の新興グループともいえる、洗礼者ヨハネのグループでヨハネが祈り方を教えたから、自分たちも欲しいと願い出たという事です。対抗心のようなものもあったのかもしれません。イエス様はそれをたしなめはせず、教えられました。

3)そして、祈りの文章に続いての説明です。そこには、「執拗に頼むこと」の例を挙げます。しかし、それは、「とにかく一生懸命に頼めば聞いてくれる」という事が結論ではありません。その最後に言われていることが大切です。魚や卵を欲しがるこどもに、蛇やサソリを与える父親がいないように、こどもには良いものを与えるのが親というもので、天の父なる神も同じなのだといわれます。「熱心に頼み続けることよりも、神様はすべてご存じで愛の親だから、もうわかっておられて、準備しておられて、与えてくださるのですよ」という事です。

3.振り返り

私たちも祈り求めることが多くあるでしょう。どんなふうに祈るでしょうか?祈りが聞かれたと思うときもあれば、そうでもないとがっかりするときもあるでしょう。いったい、どう祈ったら聞いてもらえるのかと、考えることもあるでしょう。

神様と「交渉」するには、良い秘訣があるだろうかと、そんなことを思うかもしれません。

ブラジルに宣教師で行った一年目のことを思い出します。4月に着任しましたが、5月から分ったことは、教会に立ち退き話があるという事でした。やることがたくさんあるのし、言葉も交渉事をするほどにはよく分らないのに、大変でした。二階建ての民家を改造した小さな教会・牧師館でしたから、私たちは立ち退きに応じて、うまく交渉して、もっと良い立地で広いところに移転することを選びました。不動産屋を回りサンパウロ中心街の地下鉄の各駅から降りて歩いて物件探しをしました。最後の候補の物件を購入するために日系人の大家さんに何度も会いに行き値下げ交渉をしました。ようやくそちらは決まりました。しかし最後になって、大きなビルを建てるからと立ち退き提案をしてきた業者が難色を示し始めました。隣の家までもう壊し始めているので足元を見られたのかもしれません。買取価格を下げてきたのです。眠れない日が続きました。そこで仲介のブラジル人の不動産業者と話し合いました。彼は英語も話す人だったので、助かりました。彼との打ち合わせで、彼の結論はこうでした。「この価格なら買うはずです。値下げに応じなくていいです。交渉ではそれを貫いてください。折り合いがつかなかったら、『残念だけどこの話は終わりだ。帰ってください』と拒否してもいいです。私は業者と一緒に帰りますが、きっと後から『やはりあなたの言う価格でお願いします』と言ってくるでしょう」というのです。賭けのようなことですが、腹を決めました。そして祈りました。教会にその業者を呼び、話し合いましたが、話は決裂し、帰ってもらいました。ドキドキしました。しかし、その直後、「やはりあなたの言う価格でOKだから売ってください」と連絡があり、無事に売買できました。ブラジル赴任の一年目が終わるころ、サンパウロ教会は日系人の中心地の街の大きなところに移転し、その後活動も人も増えていき、みんなで神様に感謝しました。苦労や試練はありましたが、願っていたより大きなめぐみでした。

今日読んでいただいた旧約聖書の話を、これらの交渉中に私は思い出していました。アブラハムは神様に対して、これではどうですか?じゃこれならどうですか?と食い下がり、交渉をしているのです。私もそれを思い出しながら、神様、これならどうですか?だめですか?と何度も祈りました。しかしこれも、今日の「主の祈り」とともに考えるなら、人間がする交渉のようにテクニックや賭けに出ることではありません。

窮地に立ち、人間の弱さを知り、謙虚になり、神様にお任せするしかないと学ぶ事だったのでしょう。そこが今日の聖書の学びのポイントでいえば、4)番目だと思わされます。

4.勧め

愛の父である神様は、願い出る前から、ご存じで、その人の本当の幸せのために、願う物以上のものをあげようと思っておられるのです。そのために、傲慢を捨て、神様にすべて任せるよう苦労させたり、待たせたり、進路を変更させたり、そんなこともあるから、人間が思うタイミングで願っていることがすぐに実現しないこともあるのです。

一日に一度でも、目を閉じて、手を組んで、静かに神様とお話ししてみましょう。祝福を祈ります。

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 主の祈り Lord’s Prayer 

 ラテン語では祈りの冒頭をとって、Pater Noster(私たちの父よ)とも言います。ラテン系の言葉、ポルトガル語もそうでした。みんなPai Nossoと呼んでいました。英語では日本語と同じ方式でLord’s Prayerと呼ばれますね。

 上の写真は、ブラジルで買ったPai Nossoの壁掛け飾りです。アルファベットが切り抜かれていて素敵ですね。日本語でも作れたらいいなと、パソコンにつなぐレーザーカッターを買おうかと思いましたが、漢字とひらがなではこういう風にうまくはいかないと断念しました。

 私は、父は無神論、母は熱心すぎる?クリスチャンの家に育ちましたが、カレンダーの裏紙に母が手で書いた「主の祈り」をふすまに貼って、寝る前に覚えるように、敷いた布団の横にひざまずかされて、何度も祈ったのを思い出します。ありがたいことです。

 ブラジルでは真面目に教会に通わないような?人たちでもこれを覚えている人が多いのに驚かされました。なにかの発表会の前に手をつないで輪になって成功を祈るようなときに、マリアの祈りと主の祈りを祈ることも多いそうです。生活になじんでいるのでしょう。

私たちも、祈ってみませんか?日本語版は裏のイラストにあります。


聖書の学び会・新シリーズ開始します。

 ここ数年、ルカによる福音書でキリストのご生涯、使徒言行録でその続きの教会誕生とその後、エフェソの信徒への手紙で異邦人(非ユダヤ人)の教会の混乱やそこへの勧め、コリントの信徒への手紙で教会内の分派や争いへの戒めや勧めを学びました。 その後、昨年はローマの信徒への手紙で信仰による救...