2024年5月19日日曜日

説教メッセージ 20240519 ペンテコステ

 忙しい一週間でした。そして実はその前の一週間も。一生懸命に良かれと思ってやっていても、理解されなかったり批判を受けることもあります。誰でもそんなときがありますよね。心も体も重たいとき、思いがけず聞く言葉で元気や慰めをもらう事があります。それを人にも伝えると、もっと元気になりました。心に吹いた風、それは神の息かもしれません。そんな日を過ごし、説教で共有します。礼拝は復活教会、洗礼式もあります、Youtubeでの中継もあります。元気にお会いしましょう。


聖書の言葉 

使徒言行録 2: 1~21 (新214) から

2:1五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 2突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 3そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 4すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

5さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、 6この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。 7人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。 8どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。 9わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、 10フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、 11ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」 12人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。 13しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。14すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。 15今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。 16そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。17『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。18わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。


説教「人はこうして生きる者となった…」徳弘浩隆牧師

1、霊が降(くだ)るって?

今日は教会の暦ではペンテコステ、聖霊降臨祭です。ペンテコステという言葉はユダヤ教でもあったお祭りの「50日祭」というお祭りのギリシャ語の言い方です。ユダヤで大麦の収穫を祝う春のお祭りでした。今でもシャブオット(50番目の)というお祭りが大切にされています。ちょうどこのお祭りの日に、各地に散らされていて住んでいたいろんな言葉を話すユダヤ人たちが、エルサレムに集まっていた時にあることが起こりました。イエス様の弟子たち一同が一つになって集まっていると、大きな音がして、炎のような舌が現れて頭の上にとどまり、聖霊に満たされた、という出来事が起こったのです。聖霊が降った、と言われます。

何が起こったのでしょうか?霊が降るというと、ちょっとコワいような感じもしますね。実際周りにいた人たちはびっくりしました。今生きている私たちにどう関係があるのでしょうか?一緒に学んでいきましょう。

2,聖書 

使徒言行録にその日の出来事が記されていますし、今日読まれた福音書には、イエス様が十字架にかかられる前に、このことについてあらかじめお話ししておられたことが書かれています。

使徒言行録によると、霊が降ると、いろんな言葉を語らせました。各地から集まったユダヤ人はびっくりしたのです。しかし、酒に酔っていると思ってバカにする人もいました。そこでペテロは答えました。そうでは無い、と。これは、預言者ヨエルが預言していたことなのだ、と。

終わりの時には、私の霊をすべての人に注ぐ、と。終わりの日というのは、聖書の中では多くの場合、「裁きの日」、そして同時に「救いの日」を表します。問題だらけの世の中に、苦しみや悲しみの罪の世の中に、神様が介入されて終わらせる日。罪深い人は滅ぼされ、信仰ある人は赦され苦しみから解放される日だからです。それが実現したのが、この聖霊降臨祭でした。

神の霊が注がれた結果、弟子たちはいろんな知らないはずの言葉を語りだしました。しかし、それそのものが奇跡ではありません。それがずっと続いたとは聖書にかかれていないからです。弟子たちが他言語話者になったのではありません。その出来事そのものは一時的だったのでしょう。それが意味する役割が大切です。それは、彼らがイエスキリストのご生涯や十字架と復活、その意味を、旧約聖書からひも解いて多くの人がわかるように説明したという事です。

イエス様を失い、復活された後に再開し改心しましたが、天に帰られ、取り残された彼らです。天をずっと見上げていた彼らでした。しかし、約束通りエルサレムにとどまっていると、聖霊が降りました。彼らは、キリストの言葉を体をもって体験し、心が燃やされ、このことを集まった多くの人々に、今までと違って、自信と確信をもって説明したのです。その結果、洗礼を受けてその日のうちに仲間になったのは3000人だったのです。これが大切な事でした。

3,振り返り 

私たちの生き方はどうでしょうか?私たちの生き方と、聖霊が降るという事は、どういう関係があるでしょうか?

私は、忙しくて目が回っていました。良かれと思って一生懸命しているのに批判されたりもして、少々疲れてもいました。そんなある日、神様に「文句」も言いながら歩いていました。用事があって鶴舞公園に行ったときです。きれいなバラ園があってたくさんの人が見たり、写真を撮ったりしていました。広いバラ園ですが、横切ったついでに少しだけ回りました。見ると、いろんな名前の付けられた品種があります。マリア・カラス、ベルサイユのばら、ホワイト・クリスマス…などです。「まあ、よくいろんな名前を付けたもんだなぁ」と独り言を言いながら、一つのバラの前で立ち止まりました。「ティアーモ」と書いてあったからです。カタカナでもアルファベットでも一言で書いていますが、説明を見るとイタリア語で愛の言葉とあります。私がいたブラジルのポルトガル語でも同じように言うので、ピンときました。それは、「Ti amo」(チアーモ)という言葉で、「I love you」の意味です。




神様に文句も言いながら、疲れて歩いていた自分は神の声を聞いたような気がしました。「私はあなたを愛しているよ」と。「文句ばっかり言わなくていい、心配しなくていい」と。心が温かくなりました。写真を撮って、早速この言葉が通じるブラジルの教会学校でお世話していた子たちにメッセージで送りました。すると、少しして、二人から返事が来ました。「Ti amo!」と書かれています。突然神様から「愛しているよ」という言葉を聞いた気がして元気になったので、それを人にも伝えようと送りました。すると、同じ返事が来て、もっと元気になりました。

神様を愛し、人を愛するのが聖書の教えですし、神様の願いです。でも、それができずにいる罪深い私たちを、教え赦し、生まれ変わらせるために、キリストの十字架と復活があり、約束の霊が降ったのです。これによって私たちは、神様によって新しく生まれ変わらせられるのでした。人は本来このようにして造られたと旧約聖書には書かれてありました。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」この神の息は、霊だと考えられています。しかし、その神を裏切り離れ、憎しみや悪事を働く人間は罪びとと言われてしまいます。しかし、「終わりの日」にすべての人に、霊を注ぐと約束された神は、キリストの出来事によって、それを実現されました。

神の愛に気づき、互いに愛し支え合う生き方をする、本当の意味ある命に、生まれ変わることが起こるのです。「こうして人は生きるものとなった」という言葉が、今の私たちに、私に、実現するのでした。

4,勧め 

今日は、復活教会では洗礼式があります。年齢に関係なく、私たちは、この出来事によって、生まれ変わります。ペンテコステの日には、霊が降り、多くの人が洗礼を受けて仲間に入りました。赤い炎を覚えて、伝統的には、赤いバラの花びらをシャワーのようにまく教会もあります。水と霊とによって新しく生まれ変わる、それが洗礼式です。わたしたち一人一も、もう一度、それを見つめましょう。そんな神様との関係を回復して、生きていきましょう。 

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牧師コラム・ フィンランドからお客様

  先週は、フィンランドからお客様が来られました。全国の牧師会が終わって名古屋に帰りついて少しして、彼らを大曽根駅にお迎えに行き、楽しい3日間が過ぎました。



 Kosti Kallio、Sirpa Kallio夫妻は日本に21年いた宣教師で、私も京都で一緒に働きました。楽しいお二人ですが、まじめな先生と、ギターを弾いて歌っておしゃべりをして明るいシルパさん。私がブラジルにいるときは、サンパウロにも会いに来てくれました。宣教師同士、喜びや悲しみも分かる仲間のような気がします。2教会の案内や、高蔵寺では予定が合ったので聖研や交流会もできました。ありがとう!

世界に広がる教会。一緒に宣教や平和実現を。


2024年5月12日日曜日

説教メッセージ 20240512

 聖書の言葉 

ルカ 24:44~53 と 使徒言行録 1: 1~11 (新213)

1:1-2テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。

3イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。 4そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。 5ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」

6さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。 7イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。 8あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

 9こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。 10イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、 11言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」


説教「なぜ天を見上げて立っているのか」徳弘浩隆牧師

1、どこかで聞いたセリフ

今日の使徒言行録の言葉、説教題にも選びましたが、この言葉はどこかで聞き覚えがあるかもしれません。「なぜ○○○○を見ているのか?」という天使の弟子たちへの問いかけです。

これは、そのまま、教会に通っている私たちにも、神の使いが問いかけている言葉にも聞こえてくるから、大切な言葉だと思います。

おぼえておられますか?そう、ルカによる福音書にもありました、キリストが復活されたとき、墓穴の中を見つめているマグダラのマリアたちに、天使が呼びかけました。そして、その言葉に視線を変えるように促されたのです。あの時と同じように、弟子たちは天使たちに問いかけられました。大切なところではなくて、自分たちの心配や思い込みで、別のところを見つめたままの弟子たちに、正しい方向を見るように促したのです。

私たちも、毎日の生活の中で、間違ったところだけを見つめて、あくせくしているかもしれません。どこに視点を転じたらよいのでしょうか?一緒に学んでいきましょう。


2,聖書 

今日の聖書は、ルカによる福音書の最後と、使徒言行録の最初から選ばれています。今日は主に、使徒言行録の方を見ながら、神様の声を聴いていきたいと思います。

説教は福音書の言葉から神の声を聴くべきではないかと、そう思われることがあるかもしれません。ある面もっともなことです。福音書こそ、キリストのご生涯と教えがまとめられて伝えられているからです。しかし、今日の福音書と使徒言行録は特別です。使徒言行録の冒頭に、テオフィロという人に宛てた言葉が書かれています。その中で、「先に第一巻を書いた」と言及されているのが、ルカによる福音書と考えられています。

つまり、これらは実は続きものだと考えられているのです。ですから、ここ2年程、教会の聖書研究会ではルカによる福音書を駆け足で学び、その次は使徒言行録を学びました。そこでは一貫した流れを学ぶことができました。キリストの出来事から最初のキリスト教会と宣教の歴史、そして、ユダヤ人たちへの教えではなくて異邦人にキリストが伝えられたいきさつです。そして次にはエフェソ書を学びましたが、エフェソという異邦人の町の教会にあてた手紙を読みながら、日本という別の文化や宗教で生きる私たちが「異国の宗教」であるキリスト教を信じるにあたっての間違いや問題とそれへの教えを参考にしたいと思っての事でした。

さて、今日は昇天主日です。これは、今日のルカによる福音書と、その続きの使徒言行録が伝えているキリストが天に昇って行かれるという出来事です。

興味深いことに、5節では使徒たちは、つまり主要な弟子たちはまだ的外れな質問をしています。キリストは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを数多くの証拠を持って示し、40日間にわたって彼らに現れて、神の国について話されたとルカは振り返りながら説明し、続くキリストの言葉を伝えます。それは「エルサレムにい続けなさい。約束されたものを待ちなさい。聖霊による洗礼を授けられるからだ」と。それに対して使徒たちは、「イスラエルのために国を再建されるのはこの時ですか?」と尋ねたのです。

まだ、彼らの思い込みと期待による、イスラエルという地上の国の再建をしてくれる王様としてのメシアを期待していました。それがいよいよかと、問うたのでした。それに対してキリストは、「そのときは父が決めることである。聖霊が降ると力を受ける。そしてエルサレムばかりではなく、地の果てに至るまで、私の証人となる。」と「つまり、私の言葉と出来事を伝えていくのだよ」と言われました。そしてキリストは祝福をしながら天にあげられたのです。


3,振り返り 

さて、大切なのは、それに対する使徒たちの姿です。あっけにとられて天を見上げました。そして、そのままだったのです。天を見上げていたまま。

そこに冒頭に考えた天使の言葉です。「どうして天を見上げたまま立っているのか?」それは今の私たちにも問いかけられていると考えてきたとおりです。

最後まで神様の御心を理解できず、いよいよその時が来たのか?と自分の願いだけを考えて的外れな期待をします。キリストに教えられ諭されても、まだ、いなくなったキリストの方を見ているだけなのです。

自分の願い事だけを祈り、それがかなうのはいつか、今かと、神様に問い続け、神様のもっと大きな恵みや、自分の使命に気が付かないのでした。そして、私たちも、自分のことや目の前のことだけに心を奪われ、迷ったり、立ち止まったり、衝突したり、です。キリストは何も解決せずに、天に帰って行かれたよ、と見上げていただけだったのかもしれません。

天使は、そんな彼らに、そして、そんな私たちに呼びかけています。またおいでになる、と。神の霊が注がれ、その力に満たされ、自分自身が変えられてゆくことを思い出さされるのでした。


4,勧め 

祈りは大切です。しかし、自分の願いをかなえてもらうためだけではいけません。そして、すべてがうまくゆくような解決を待つだけでもいけないのでしょう。神の霊に満たされて、変えられてゆく自分が、神様の計画を実現しお助けする側になること、それによって願うだけではなくて、それを実現するものにされてゆくことを考えてゆくことも大切です。

今日のキリストのまとめの言葉と、天使の呼びかけの言葉は、そのように私の心に届きました。

見上げて立っているだけではなくて、足元を見て、神の願いを自ら生きるものになりましょう。 

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 牧師コラム・ 今日の写真 I Love YOU!

  先日公園に行きました。春には、桜がきれいで沢山の人たちが桜を楽しんでいました。そのときは、車を停めるにも長い行列でなかなか駐車場に入れませんでした。入ると、多くの人が、そして沢山の外国人の人たちもあちらこちらに座って、桜を楽しんでいました。

 先日行ったときは、とてもきれいなバラが咲き乱れていました。バラ園がきれいに整備され、沢山の品種の桜が裂き比べているようでした。

 いろんな名前のバラがあるんだなぁ、と思いながら少しだけ回りました。そこで見つけたのがこのバラ。その名は「ティアーモ」とカタカナで書かれています。横にはアルファベットでも書かれていますがこんな具合です。




「Tiamo」。ブラジルにいた私はすぐにピンときました。その写真を撮って、ブラジルにいたときにお世話をしていたこども達数人に送りました。すると、翌日数人から返事がきました。「Ti amo!」と。

 このバラは、ドイツの品種ですが名前はイタリア語。意味は「I Love YOU!」で、ポルトガル語でも同じように言います。もう5年もあっていないけれど、何度もメッセージや写真をやり取りしているブラジルの子どもたちに送ったメッセージはその意味が分かって、同じ言葉で返事を送ってくれたのでした。バラのきれいな花と一緒に、とっても嬉しくなりました。

 さてこのバラの名前と、その意味、その赤い花びら、続きのお話は来週のペンテコステの説教でお話ししましょう。

お楽しみに。


2024年5月9日木曜日

説教メッセージ 20240505

 聖書の言葉 ヨハネ 15: 9~17 (新198)

15:9父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。 10わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

11これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。 12わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。 13友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 14わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 15もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 16あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。 17互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」


説教「友のためになにができるか?」  徳弘浩隆牧師

1、クリスチャンという言葉

私たちは自分たちのことを、「クリスチャン」と呼ぶことがありますが、そもそもどういう意味でしょうか?

いくつかの説がありますが、一般的に考えられていることはこうです。聖書の中では使徒言行録11章の25-26節に「それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。」と初めて登場します。ユダヤ人中心のエルサレム教会に対して、北部のアンティオキアは非ユダヤ人非ユダヤ教出身のいわゆる異邦人の教会でした。そこで、「キリスト者と呼ばれるようになった」と訳されているのは、ギリシャ語聖書では「Χριστιανούς(クリスティアノス)」、ラテン語聖書では「christiani(クリスチアーニ)」となっていて、英語のクリスチャンになっていきました。そのもともとの意味は、「キリストの奴隷」「キリスト党員」「小さなキリスト」などの意味があり、やや揶揄された呼び方だったという説もあります。ちなみに16世紀の日本ではクリスチャンは「耶蘇(やそ)」、神父さんは「バテレン」と呼ばれますが、これはポルトガルやスペインの宣教師が紹介した「イエス」が「耶蘇」と書かれ、神父を意味する「Padre(パードレ)が伴天連(バテレン)と漢字で書かれたのがもとで、人々からやはり揶揄されるように呼ばれました。

聖書の中ではこのように、「キリストの奴隷」ともいえる呼び方ですし、パウロも自分のことを「奴隷」という言葉を使って書いているところもありますが、一般的に「キリストのしもべ」と訳されています。

さてしかし、今日の聖書はキリストは私たちのことを、奴隷でも、僕(しもべ)でもない、「友」と呼んでくれています。私たちとキリストとの関係を聖書から学んでいきましょう。

2,聖書 

今日の聖書日課は、先週と同じで、ヨハネの福音書の中の13章から16章までの、いわゆる「決別説教」「告別説教」と言われる長いお話の中からです。最後の晩餐があり、弟子の足を洗い、新しい掟の話をし、羊やブドウのたとえ話があり、今日は「友」という言葉が一つのキーワードでしょう。

神がキリストを愛されたように、キリストも弟子たちを愛してきた、と言われます。そして、その愛にとどまっていなさいと。それは、キリストが言われる掟を守るなら、愛にとどまっていることになるのだと、続けられました。

そして、その大切な掟、命令は、「キリストが弟子たちを愛したように、弟子たちも互いに愛し合いなさい」という事でした。そして、僕は主人が何をしているかわからないでいるが、弟子たちはもうわかっているので、僕ではなくて、「友と呼ぶ」という話になっていきました。

奴隷は主人の所有物であり、言われるままの仕事や生き方をしなければなりません。奴隷は主人の考えを知る由もなく、ただ従うという事でした。しかし、いまや、キリストと弟子たちは、「主人と奴隷」ではなく、その考えがすべてわかり、それを行う事になるので、「友と友」という関係になるのだというのです。

その「友である」ということのカギが、「互いに愛し合うべき」という事でした。

3,振り返り 

キリストは弟子たちのことを、「友」と呼ばれました。私たちクリスチャンも、クリスチャンという言葉はもともと「キリストの奴隷」ともいう意味でしたが「友」とされています。でも、その「友」である根拠は、キリストの愛にとどまっていること、そして、互いに愛し合う事、それが必須でした。

私たちにできているでしょうか?讃美歌でも、「慈しみ深き、友なるイェスは」という歌もあります。やさしくしてくださるイエス様のことを思い、この讃美歌が好きだという方も多いでしょう。

イエス様は私たちのことを「友」と呼んでくれたけれど、罪深い自分にその価値があるのかと、それほどの愛で他者を愛しているかと問われると、私はまだキリストの友とはなれていない自分を見つけざるを得ません。

どうしたらよいでしょうか?矛盾や不安や不満がたくさんある社会です。人がゆるせない、自分も赦せない。人を愛せない、自分も愛せない。そんなときもあるかもしれません。間違いや不正をそのまま許すこと、是認することを聖書は求めていません。罪を認め、悔い改めてキリストを信じる者の罪をゆるすと、礼拝でも罪の告白とゆるしの宣言でも説明しています。しかし、それでも自分は他者を許せない愛せないことがあるかもしれません。どうしたらよいのでしょうか?

4,勧め 

それは今日のキリストの言葉に答えがあります。努力して努力して、やっと、キリストの友とされるところに到達するのではありません。キリストが神の知恵・み言葉を教えてくれ、友と呼んでくれ、その友のために命さえを投げ出してくれたこと、それほどの大きな愛が神の愛だと、教えてくれたのです。「友のために命を捨てること、それほど大きな愛はない」とキリストがこれから向かう十字架の道を見据えながら、本当の神の愛の在り方を教えられたのでした。

その出来事を、感謝して受け入れることです。そして、自分も少しずつ、そのような愛で生きることを促されています。キリストの奴隷ともいえるクリスチャンであるわけですが、それはすべてこの方に従って生きていくという、信仰告白的な意味では「奴隷」でもよいでしょう。しかし、いつまでも「奴隷」ではなくて、キリストによる神の知恵とみ言葉を知り、そうされたように自分も人を赦し愛する生き方をするときに、本当の「友」と呼ばれるにふさわしくなります。それを、キリストは願い、自分を投げ出し、招いておられるのです。自分も傷つきながら、痛みを覚えながら、他者を赦し、そのために生きる、それが、キリスト者の生き方です。そんな生き方を格闘しながらでも、したいと思わされます。安心して、一緒に生きていきましょう。教会の仲間は、そんな生き方を、失敗もしながら生きている仲間、兄弟姉妹、家族なのです。

 

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牧師コラム・  久々の出会い、新しい出会い

  4月29日は「わいわいワーク」に行ってきました。天候も適度な「くもりに恵まれ」、暑すぎず、雨でもなく、話題の「パンダ羊」にも会えました。

  私は草刈り機持参で草刈りをしましたが、格闘の相手は地面の雑草ではなくて、フェンスに絡まる蔦でした。こういう時いつも思い出す歌は、「蔦の~絡まるチャペルで、祈りをさ~さげた日~♪」という歌。素敵な情景を思い出す歌ですが、私は穏やかな気持ちではありません。教会の草刈りや掃除をするときにいつも思うのはこうです。「蔦の絡まるチャペルは教会の素敵なイメージで良いけど、牧師や教会員は大変なんだよぉ」と。今回もそう思いながら、一緒に作業をする他教会の方とおしゃべり。「すごいですねぇ。ここまでフェンスに絡まって、しっかりとしがみ付いますねぇ」。しかし、「そういえば、昨日の聖書も、ブドウの木につながっていなさいというブドウの枝の話でしたねぇ」と、聖書に話が弾み、考えさせられました。一生懸命にしがみ付く努力そのものはキリストは求めておられないかもしれないけれど、このくらいガッシリと(フェンスにではなく)キリストにつながっていたいものだと思わされたのです。

  私の担当教会の愛知県二教会から牧師夫妻を入れて10名、そして浜名教会からは福祉会職員の方も参加しておられたし、他教会の多くの方々と交流もできました。私と一緒に参加した方々には、ブラジルで開拓伝道もし、ご高齢者の健康体操普及プロジェクトを30年前に始めて大きな組織に育て上げた聖公会の女性執事(終身補助司祭のような方)とベトナム、ブラジル、スリランカの外国メンバーも一緒でした。スリランカ・メンバーは今年教会に来始めてくれた新人さんですが、だいぶ日本語も上手になり、打ち解けて、一緒に頑張り、喜んでくれていました。帰りにはこひつじ診療所の通訳さんのブラジル野菜農園も訪ね、マンジョッカ(タロイモ)の話や各国での呼び方や食べ方の違いでも盛り上がりました。言葉や国籍を超えてみんなで笑い、天国を垣間見た気がしました。 早朝から夜の帰宅まで、体力は使いましたが、教会も言葉も、教派も超えたメンバーの出会いと再会で、うれしく楽しい日でした。キリストから託された大切な私たちの働きとこの輪を、一緒に広げてゆきたいと思います。

 5/25には、「グリーンズ・フェア」もあります!




説教メッセージ 20250330

聖書の言葉 ルカ15: 1~ 3,11b~32 (新138) 15: 1徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 3そこで、イエスは次のたとえを...