2023年12月31日日曜日

説教メッセージ 20231231

先週は父の葬儀で礼拝メッセージは録画対応にしたため、掲載できませんでした。そのうちYoutube画像も掲載します。明日は、今年最後の礼拝。復活教会で礼拝担当しYouTubeでの中継も致します。いずれかでお会いしましょう!Youtube見てくださる方は、チャンネル登録していただけると配信しやすくなり、また、ご覧いただきやすくなります。よろしくお願いいたします。


聖書の言葉 

ルカ 2:22~40 (新103)

22さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。 23それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。 24また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。

25そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。 26そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。 27シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。 28シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。

29「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。30わたしはこの目であなたの救いを見たからです。31これは万民のために整えてくださった救いで、32異邦人を照らす啓示の光、

あなたの民イスラエルの誉れです。」

33父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。 34シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 35――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」

36また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、 37夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、 38そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。

39親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。 40幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。



説教「約束の実現を見るとき」徳弘浩隆牧師

1、私の目が黒いうちは…

「私の目が黒いうちは…」という言い回しがあります。目が白くなるというのは、死んでしまった時の状況ですから、「自分が生きている間は…」という事になりますね。

「私の生きている間は、決して○○をさせない。赦さない。」とか、逆に「○○をするから安心しなさい」とか、そういうときに使われるいい方ですね。

逆にこんな言い方もあります。「ああ、なんて幸せなんだ。もう、いつ死んでもいい!」と。

そんな生き方ができればいいなと思います。あるいは、そんな至福の時を迎えることができるなら、どんなにいいだろうと、毎日をあくせく生きているときに思う事があります。

今日の聖書は、そんな気持ちの言葉が残されています。どんな時のどんな気持ちだったのでしょうか?一緒に聖書を見ていきましょう。

2,聖書 

今日はルカによる福音書からです。クリスマスの直後の出来事。イエス様がベツレヘムでお生まれになって、名前が付けられました。そして、今日の聖書によると、聖書の律法の定めに従って、エルサレムに行き神殿に行ったのです。

律法の定めでは、生まれてから8日目に割礼を受けて名前を付けられます。男の子は産婦の清めの期間が過ぎた40日目に捧げ、聖別され、捧げものをすることになっていました。これらはレビ記12章や、出エジプト記13章2節、民数記18章15-16節に記され残されているので、今でも確認することができます。

その時に、神殿にいたシメオンという正しく信仰があつく聖霊がとどまっていたとされる人がいました。「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」とお告げを受けていたというのです。

そのシメオンが、神殿の境内で幼子イエス様を見つけて、腕に抱いて祈ったのです。シメオンの賛歌と言われています。

その時の言葉がまさに「ああ、もういつ死んでもいい」というか、メシアを見るまで死なないといわれていたので、「ああ、これでようやく安心して死ねる」ともいう言葉だったのです。

次に登場するのが女預言者アンナです。彼女も神殿にを離れずに昼も夜も神様に仕えていたのですが、その光景を見て、加わります。

3,振り返り 

さて、私たちの人生はどうでしょうか?

「ああ、もういつ死んでもいい。」という気持ちでしょうか?「いあ、あれもこれもやらないといけない。まだ、やり残したことがある」という事がたくさんあるでしょう。恨み言や、かなわない夢を心に抱いたまま、まだ安心できない日々を過ごすこともあります。

どうして今日の聖書に二人は、安心したのでしょうか?それは、神様の救いの約束を、確かにその目で見たからです。「だから、ほかの事はもうどうでもいい。やり残したことも神様にお任せできる。」「恨みや悲しみや苦しみや、実現していない自分の人生のいろいろな事もあるけれど、神様が救い主をお与えくださったから、もう、全て解決してくださる。「だから、もういい」という安心でした。私たちも実は、先週そんなクリスマスを迎えたはずです。

4,勧め 

さて、この二人がその時何をしたかも大切なことです。シメオンは、神を賛美し、彼らを祝福しました。それがシメオンの賛歌です。この「賛美」と「祝福」は実は同じ「祝福」という意味の言葉だと時折指摘されます。神様を祝福するのは「おこがましい」ので「賛美」となりますが、実は「祝福」しているのです。祝福とは「すばらしいねぇ!」「よかったねぇ!」そして「ずっとそれが続きますように」という気持ちかもしれません。私たちの賛美歌もそんな気持ちで歌うといいかもしれません。

そしてアンナも神を賛美して、救いを待ち望んでいる人々皆にこのことを話した、のです。つまり、神様を賛美しただけではなくて、人々に伝え知らしめたのが大切でしょう。高齢でも年齢は関係ないみたいですね。喜びや、安心を自分だけのものにして去って行ったのではありません。幼子のことを皆に伝えた、つまり、「伝道」をしたのです。

わたしたちも、一年を振り返り、「ああ、ようやくクリスマスを迎えた」ですが、そこでとどまっては残念です。「救い主にあったから、もう安心していい」「何もかも神様にお任せしよう!」という気持ちを確認してかみしめましょう。そして、その次は、「ねえ、イエス様のことを知ってみない?」「この方は、本当の愛とゆるしの神様のことを伝えてくれたよ。だから私も安心して、平和に生きていけているよ!」と伝える人になれたらいいなと思います。

宣教研修をしたDavid神学生も1月11-12日に牧師になる最後の試験があります。かれも、こんなことを経験しながら、伝道者になっていく道を選んだのでしょう。どうぞ、祈ってください。

そして、私たちもそれぞれ、立場や方法は違っても、神様の愛を伝え、もっとたくさんの人と教会に集えるように神様に用いられていきましょう。



牧師コラム・ ヌンク・ディミティス 

ヌンク・ディミティス(ラテン語: Nunc dimittis、「今こそ主よ、僕を去らせたまわん」)、またはシメオンの賛歌、シメオンのカンティクム(ラテン語: Canticum Simeonis)は、キリスト教聖歌のカンティクムの一つ。カトリック教会、聖公会をはじめとする西方教会において、聖務日課の「終課」や「夕の祈り」などの中で歌われる。正教会においては聖抱神者シメオンの祝文と呼ばれ、晩課において必ず詠まれるか歌われる。(Wikipediaより)


シメオンは幼子イエスを胸に抱き、神を讃美していわゆるシメオンの讃歌、ラテン語での初めの二語をとって「ヌンク・ディミティス」と呼ばれる歌を言った。「僕を安らかに去らせてくださいます」というのは、約束が果たされたので、安心してこの世を去ることができるというほどの意味である。幼子イエスの中に救いを見た。それはイスラエルのみでなく、万民のための救いの光である。中世においてこの歌は一日の最後の晩祷で歌われた。そして宗教改革の時に、多くの所で礼拝の最後に歌われるようになった。ルーテル教会の礼拝はその伝統を引き継いでいる。(ルーテル教会 神学校教授 故石居正巳牧師の説明より)


2023年12月16日土曜日

説教メッセージ 20231217

ブラジルにいたころは停電が時々ありましたから、慣れました。みんなも慣れたもので、誰も交通整理をしなくても、お互いに車の流れを見ながら交差点も問題なしでした。でも、 日本では最近あまりないので、信号が消えたりすると大変。電機や明かりのありがたさがわかります。今日の聖書は、「光」についてです。暗闇には光はありがたいもの。クリスマスと関係がある話です。今日は復活教会で礼拝担当をします。YouTube中継もします。お待ちしています!

聖書の言葉

ヨハネ 1: 6~ 8 & 19~28 (新163)

6神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。 7彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 8彼は光ではなく、光について証しをするために来た。  /中略/

19さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、 20彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。 21彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。 22そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」 23ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。

「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」

24遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。 25彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、 26ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。 27その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」 28これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。



説教「まことの光・太陽と月の違い」徳弘浩隆牧師

1、暗闇の体験と、それへの備え…

今の日本では停電はそれほど日常的なことではなくなりました。大きな地震や台風の時に停電が起こり、慌てます。私はブラジルに十年いましたから、あたりが急に真っ暗になるという停電にも慣れました。信号が付いていないなんて言うのもよくあることで、皆慣れています。ブラジルに行った年の11月にブラジルでも例を見ない大規模な停電があり、それも体験しました。9つの州が停電になりました。

私はブラジルでの教会の活動とともに、その生活をインターネット上にブログで紹介していましたから、電気が復旧した時に早速それもレポートしました。すると、日本のYahooのニュースにもCNNやAFPの下の方に「ブラジル・大規模停電! ブログ。ブラジル宣教師便り」と掲載されて、ブログのアクセスは一日で1,000件以上に増えたのを覚えています。


その時から、停電時の対策として、手回しで発電してライトがつき携帯電話に充電することもできる照明を買いました。それと、停電したら自動的に明かりがつくコンセントにさしておく常備灯も買い、住居や教会の避難経路にも設置しました。帰国しても、災害に備えて充電式の常備燈や実はプロパンガス発電機も買って備えています。パエリャを作るコンロの2つのボンベは繋ぎ変えると長持ちする発電機になるのです。教会が防災や復興の拠点になればと思ってのことです。それほど電気や光は大切ですね。

さて、今日の聖書の言葉は、この、私たちにとって大切な「光」について語られます。一緒に神様の声を聞いていきましょう。

2,聖書 

今年はマルコによる福音書を読む年が始まりましたが、今日はヨハネによる福音書です。話の内容は先週のマルコの最初とほぼ同じで、キリストを迎える準備をする洗礼者ヨハネの話です。

ではなぜわざわざ同じエピソードが読まれるのかということが大切です。「クリスマス前によく祈って、悔い改めて、もう一度心にキリストをお迎えしましょう」ということですが、その念押しなのか、いや、違うとしたら、先週のマルコにはなく今日のヨハネにある違いを見ることが大切でしょう。そんな読み方をしてもよいと思います。

そこで出てくるのが、「光」という言葉です。

ヨハネによる福音書はイエス様の誕生物語がありません。その代わりに、旧約聖書の創世記の天地創造を思い出させる書き出しで始まっています。「はじめに言(ことば)があった」というのです。言(ことば)によりすべてのものが創られ、そのうちに命があり、それは夜を照らす光だった、と続けられます。

イエス様がヨセフとマリアという人間の夫婦のもとに生まれたけれど奇跡的な誕生であったというマタイやルカと違って、ヨハネは天地創造にまでさかのぼります。神の言葉によって創られた天地万物、そしてそのことばは夜を照らす光であり、いま、肉となって私たちの間に宿られた、とイエス様の誕生を別の角度から説明しているのです。

そんな、イエスキリストを証しするために、準備するために、荒野で人々に悔い改めを迫っていたのが洗礼者ヨハネでした。その偉大な働きに人々は、このひとこそメシア・キリストかと思い、期待し、そして問いました。しかし彼はそれを否定します。「私はメシアではない、単なる荒野で人々の悔い改めを叫ぶ声なのだ」と。福音書記者ヨハネも、「彼は光ではなく光について証しをするために来た」ものだと、説明しています。

3,振り返り 

私たちは、荒野で、つまり日常の一見幸せな生き方から離れた苦労や苦しみの場所にもいます。命や本当の平和について考えさせられています。そこで、声を聞き取っているでしょうか?それは、「悔い改めよ」という声です。わかりやすく言うと、「今のままの生き方でよいですか?」という声です。「人と人はねたみ、裏切り、うそをつき、争い、戦争がはじまり、命は奪われ、苦しんでいる今のままでいいですか?」という声です。「何かを、やり直そうじゃないか」という声、それが「悔い改めを迫る声」です。毎日の難しい問題ばかり報じるニュースは、私には悔い改めを迫る声とも聞こえます。この声が指し示すのが、暗闇の中にある「光」です。光は、足元を照らし道を示し、人の顔を照らしその気持ちをわからせてくれ、自分の心の闇をも照らして自己中心の自分の罪の心を知らせてくれます。科学が進歩して暗闇が征服された夜も明るい世界でも、常備等や発電機を準備していても、心の中の闇を照らし明るく楽しい生き方を保証してくれることはありません。

神様の本当の光に照らされて、正しい生き方を見つめ、生きていくことを促されています。

荒野での苦しみの中で声を聴き分け、闇に現れた光を見出すこと、それがクリスマスです。

4,勧め 

私たちも、その光を受けて新しい生き方を始めましょう。その時、自分の周りから、本当の神の愛を教えてくれたキリストの愛が始まります。迷いや裏切りや苦しみから解き放たれて、安心と相互の信頼と自信と希望の生活が始まるのです。それが自分から、自分の人間関係から、社会や世界に広がるとき、平和は広がっていくのです。

私は光ではありません。光を証しするもの、せめて、光を反射して世を照らすものにはなれるかもしれません。太陽は自ら光を発しますが、夜道を照らす月はそれを反射しているだけです。ここにも大切な教訓があります。「自分が正しい。あの人は間違っている」と思う時、自分自身が光だと勘違いするとき、世界は、宗教ですら、争いを始めます。

まことの光、本当の命と愛の源である神の光、イエス・キリストについて行くときに、月のように光を反射して周りの人の役に立つ生き方が始められるのです。戦火の中にあるパレスチナのルーテル教会の友人の牧師ミトリ師は、先日のネット上で世界中から700人が参加した集会で、「こんな世に光をともしましょう」と、ろうそくに火をつけて会を始めました。


愛と和解と希望の火をもって、キリストの光を反射させながら生きる生き方を、私たちも始めましょう。

 


牧師コラム・ 今日の写真・クリスマスのイメージ 

昨今話題の人工知能・AIですが、可能性や危険性も知ったうえで共存するために時々試してみています。

しばらく新規ユーザー登録が止まっていましたが、設備の増強が済んだとのことで再開しました。早速別の有料アカウントを取って試してみています。有料プランの方が最新の情報まで学習しているし、絵も描いてくれるというので、いつでも解約できるのでやってみました。

長距離運転中の眠気覚ましのおしゃべり相手にはまだまだでした。調べ物や絵を描くのはだいぶ上手なようです。試しに描いてもらいました。

お題は、「日本人向けのクリスマスポスターを描いて」です。「えー?」という突っ込みどころ満載ですが、面白い絵を描いてくれます。ほかの国向けのもやってみましたが、まずは日本人向けのものは、こんな感じでした。AIも平和利用を願います。


2023年12月10日日曜日

説教メッセージ 20231210

 昨日は教区の青年と外国メンバーのクリスマス会が開かれました。日本の青年に加え、ブラジルと、インドネシア、ベトナム、ボリビア、ナイジェリアの出身や関係のメンバーが集まりました。3人は初めて来てくれた方々で、少ないながらもうれしい集会でした。来週は子供のクリスマス会、そしてその次は教会でみんなのクリスマスを24日に迎える予定です。さて、クリスマスの準備は飾りつけやイベントではありません。何が一番大切なのでしょうか?一緒に聖書の言葉を聞きましょう。今日は高蔵寺教会で礼拝担当をします。YouTubeでも中継します。お待ちしています!

 

聖書 マルコ 1: 1~ 8 (新61)

1神の子イエス・キリストの福音の初め。2預言者イザヤの書にこう書いてある。

「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。3荒れ野で叫ぶ者の声がする。

『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」

そのとおり、 4洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。 5ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。 6ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。 7彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。 8わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

説教「道を備えよ!年度末の道路工事?」徳弘浩隆牧師

1、道路工事の風景…

待降節も第二週になりました。アドベントクランツには2本目のロウソクに火がともり、クリスマスの訪れを告げています。

昨日は、いち早く教区の青年と外国メンバーのクリスマス会が開かれました。昔のように教区の他教会のメンバーはまだ集まるほどの勢いがなく、もう少し時間がかかるようです。しかし、私たちの2教会の関係で、スタッフやお手伝い、そして青年や外国メンバーが集まり、楽しい集会となりました。会場となった高蔵寺教会の皆さんに感謝します。日本の青年に加え、ブラジルと、インドネシア、ベトナム、ボリビア、ナイジェリアの出身や関係のメンバーが集まりました。3人は初めて来てくれた方々で、少ないながらもうれしい集会でした。来週は子供のクリスマス会、そしてその次は教会でみんなのクリスマスを24日に迎える予定です。

今日の聖書は、マルコによる福音書の最初から読まれました。キリストの到来を預言しているイザヤ書の預言と、その実現としての洗礼者ヨハネの活躍についてのところです。

「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」ということがば印象的です。

そこでいつも思い出すのが、年度末の道路工事です。最近はずいぶん減ったそうですが、会計年度の終わりに予算を消化しないと次年度予算が取れないとか、年度内に終了するはずの工事がうまくいかなくて3月ころはあちこちで慌てたように道路工事がある、というのも季節の風物詩とさえなっていました。



しかし、こんな写真もブラジルで有名になりました。陥没後たっての二日間で復旧した福岡の道路工事は世界で驚かれたのです。そして、それと並べて、自嘲的な写真がブラジルのSNSで話題にもなりました。「日本はああなのに、ブラジルのボクの地区はこうだ」という具合です。その写真は、福岡の道路陥没と二日後の復旧の写真、それとともに、1991年の写真と2015年のブラジルの道の写真です。25年ほどたつのに、道路の穴は修理されていないよ、という写真でした。


今どきは、写真の加工や合成もできますから、そのまま信用してはいけませんが、みんなどこかで納得し、苦笑いをする写真でした。その国の良くある課題を表していたからです。

さて、今日の聖書は、私たちに何を呼び掛け、問いかけているのでしょうか?クリスマスの準備、キリストを迎える準備はどのように、いつ、するべきでしょうか?一緒に神様の声を聞いていきましょう。

2,聖書 

今年はマルコによる福音書を読む都市が始まりましたから、今日はその最初の部分が読まれました。そしてそれは、「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉から始まり、まずその予言と、その実現として起こった出来事を伝えています。

教会の新しい一年が、キリストの誕生、つまりクリスマスから始まるわけですが、その日からではなくて、その準備から始まることを意味しています。そして、その預言のとおり「準備をする人」が登場します。それが、洗礼者ヨハネという人だったという具合です。

 預言は、等jの彼らの聖書、つまり旧約聖書のイザヤ書とマラキ書から引用されています。イザヤ書では訳された方が来る前に、「先に使者」がつかわされ、その使命は「道をまっすぐにする」ことでした。そして、その方はどんないでたちで来るかということではマラキ書の預言の通り、ヨハネは「の毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた」と説明します。

 「預言通り、約束されたいたキリストは来られる」ということと、その準備をすべきことを伝えています。さて、その準備とは何でしょうか?それは、ヨハネは何をしていたでしょうか?という問いとその答えで分かります。

 ヨハネは、「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」と書かれています。これが、クリスマス前の今の期間の私たちのすべき準備だということになります。

3,振り返り 

さて、私たちはどうでしょうか?クリスマスの準備をして教会も奇麗になりました。でも、神学校でお世話になった石井正巳先生はこういわれていました。「待降節は、降誕『日』を迎える備えをする時ではない。来臨する『お方」を迎える準備の期間である」と。

「罪の悔い改め」は十分にできているでしょうか?「悔い改める」とは、「ごめんなさい、ごめんなさい」と何度も謝ることではありません。「改める」ことも求められています。旧約聖書のヘブライ語では、「帰ってきなさい」という単純な言葉がそのように訳し分けられています。

わたしたちの現状を見てみましょう。毎日のニュースで知ることは、人間の罪深さです。もちろん、心温まるニュースもありますが、聞いているだけで気が滅入るような話が、次々に出てきます。

犯罪、虐待、争い、強盗、組織犯罪、そして戦争です。だれもが、「神がいるならどうしてこんなことが続くのか!?」と叫びたくなります。しかし神の答えはこうでしょう。「あなたがいるのに、どうしてこれが止められないのか。改められないのか」と。

神の言葉で一瞬にして解決して変えてもらうのではなくて、人は知恵と愛を持って生きるように想像されています。私たちは、それの使い方を間違えてきたのです。それが、人類の罪です。

そこから悔い改めて、新しい生き方をするために、神は奇蹟で一方的にそれを解決するのではなく、人がそれを知り自ら方向を変えることを願い、準備してこられたのです。そこに人間がロボットではない、自由と知恵と愛を持った存在として創造された理由があります。そのように、自分を見つめ、悔い改めるときを持ちましょう。毎日の戦争や犯罪の報道は、それをわたしたちの心に迫っているとも言えます。

4,勧め 

先週案内をした、ベツレヘムのルーテル教会の牧師のインターネット上の平和と連帯のイベントに参加しました。全世界から700人ほどの参加でした。このがれきや、人の苦しみの姿は、人類の罪深さを訴えます。そしてそれは、私の心の中にもある罪深さを思い起こさせます。

憎しみの連鎖ではなく、神を愛し、人を愛し、敵をも愛すことを教え、そのように生き、死なれた方は、本当のゆるしと神の愛を地上に示されました。

この方を思い起こしながら、私たちも、もう一度、悔い改めと、生まれ変わりを経験しなければ、何も変わりません。人類は世代を超えて、この罪と悔い改めの連続を繰り返し、同じ人類の罪と向き合っています。それは、いつかの世代で完全に解決して、その世代以降は問題がすべて解決した理想世界が来るのではなくて、いつもいつも、それを繰り返す必要があり、それが私たち一人一人の人生なのかもしれません。

しかし、神は知恵を愛をくださっていますから、七転八倒しながら、少しずつ社会は変革していく道を歩めるのかもしれません。

そのとき神様は私たちに尋ねるでしょう。「あなたがいるのに、どうしてこれが止められないのか。改められないのか」と。本当の愛とゆるしと和解の生活が、個人の生活で出来ていないなら、世界も変えられません。神様に責任転嫁してはいけません。私たちに、悔い改めと新し生き方を始めさせていただけるよう、祈りながらこの日々を過ごしましょう。 


牧師コラム・ 今日の写真・平和を願う 3 

先週案内した、ベツレヘムのルーテル教会の牧師、ミトリ・ラヘブ牧師の企画したイベントが開かれました。全編英語ですが、世界各地からの連帯のメッセージややり取り、音楽家の音楽が披露されました。日本からも私の知り合いも登場しました。ネットでご覧になれます。

以下のリンクから、YouTubeに誘導され、そのまま見ることができます。どうぞ。




説教メッセージ 20250330

聖書の言葉 ルカ15: 1~ 3,11b~32 (新138) 15: 1徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 3そこで、イエスは次のたとえを...