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2024年8月25日日曜日

説教メッセージ 20240825

 金曜日はお手伝いしている幼稚園の「夏のゆうすずみかい」には120人ほどのこどもたちが来てくれて教職員の方に大感謝。土曜日は高蔵寺教会のCS(子どもの礼拝)の一日キャンプで「武器を捨てて平和を作る」ことを一緒に学び、ゲームやスイカ割りで楽しみました。スタッフの皆さんに助けられながら忙しい充実した日々を過ごせて感謝です。さて日曜日は名古屋の復活教会で礼拝担当、高蔵寺教会では私より祈りと熱のこもった信徒の方が私の説教原稿を代読して礼拝を持ってくれます。YouTubeの中継もします。どうぞ、教会へおいでください。

 今週の聖書の言葉 

ヨハネ6:56~69 (新176)

6: 56わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。 57生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。 58これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」 59これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。

60ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」 61イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。 62それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。 63命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。 64しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。 65そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」

66このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。 67そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。 68シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。 69あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」


説教「QUO VADIS? 主よどこへ?」 徳弘浩隆牧師

1、 パンの話も今日で一区切り…

暫くパンの話が続きました。来週からマルコの福音書に戻るので、今日で一区切りと言えるかもしれません。

先週は、旧約聖書の箴言の言葉も選ばれていましたから、そこで「知恵」とたとえられた神の言葉からの呼びかけを通して、イエス様のパンの話を聞きました。

つまり、「私のパンを食べなさい」というのは、旧約聖書の言葉を意識しながら、その続き、いや完成形としてのイエスキリストに従って生きていくことを呼びかけていました。そしてそれは、今の教会では、説教と聖礼典という二つの形として継承されているといえます。ルターは、聖礼典、特に洗礼と聖餐を「見える言葉」として説明し、聖書の朗読と説教を「見えない言葉」として説明しました。

このように「霊の糧」としての食べ物と、私たちが生物として生きていくうえで必要な食事を「肉の糧」と言ったりもします。イエス様は霊の食べ物を言われたのです。

これを食べるものは、かつての天から降ったマナや、普通に食べるパンとは違って、永遠に生きることができると説明されました。つまり神様との本来の関係の中に立ち戻り、とどまり続けることができると言われ、呼びかけられたのです。

今日はその続きで、これを聞いた弟子たちの中で不安と不信が生まれます。弟子たちはどうなっていったのでしょうか?聖書から今日の言葉を、聞いていきましょう。

2,聖書 

今日の福音書とともに選ばれて私たちに告げられているのは、旧約聖書からはヨシュア記です。それと重ねて読むときに、今日の福音書のポイントが、そしてイエス様の呼びかけが本当の意味で聞こえてくることになります。

ヨシュアはモーセの後継者で、出エジプトをしたユダの人々を導いてモーセがなせなかったカナンへの帰還を果たします。それを目前にして全部族を集め、ユダの人々に問いかけています。「私たちを解放してエジプトの地から救い出してくれた主なる神に従いなさい。もしそれを願わないなら、一緒に渡ってきた川の向こう側や今滞在しているこの地の異教の神々に従うか、今日自分で選びなさい」と。

そして今日の福音書のイエス様と弟子たちの出来事は、それを思い出させる出来事が起こっているのです。イエス様が命のパンの話をしても理解できず、「実にひどい話だ。誰がこんな話を聞いていられようか」と弟子たちはつぶやきだしたのです。これは群衆ではなくて、弟子たちと書かれてありますから、ある程度覚悟を決めてイエス様にしたがっていた人々の事です。その結果、「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスとともに歩まなくなった」と言われる事態になりました。

そこで、イエス様は残った12人に尋ねます。「あなたがたも離れていきたいか」と。しかし、ペトロは力強く答えました。「主よ、私たちは誰のところへ行きましょうか」と。「あなたは永遠の命の言葉を持った神の聖者であると信じ、知っています」と信仰を告白するのでした。

3,振り返り 

私たちも今日、神の問いかけを聞いています。

ヨシュアがユダの民に、「本当の神様に従って生きていくか、ほかの何かを頼りにして生きていくのか、今日、自分で、選びなさい」と。

そしてイエス様の時もそうでした。神様の言葉やご計画が理解できずに、大勢の人が離れ去った後、「あなたがたも離れていきたいか?」と。

私たちの信仰生活も、神様の計画や神様の「時」が理解できないこともあります。一生懸命祈って努力していても、願いがかなわないこともあります。問題や、病気や、人との関係、教会の中でさえさざ波が立って自分の信仰に自信が持てなくなる時もあるでしょう。

そんなとき、今日の言葉を思い出しましょう。「神と神でないものの、どちらにつくのですか?」「人々は去ったけれど、あなたも去りたいのか?」と。

そんなとき、ペトロのように立派な信仰を持ちたいものだと思わされます。しかし、それが結論ではありません。そののちのペトロのことも私達は知っているからです。彼は、イエス様が逮捕されていったとき、「私はあの人の仲間ではない」と言ってキリストの弟子であったことを三度も否定するのでした。

そして、どうしても思い出すのが今日の説教題です。これは、キリスト教会の中の伝説ともいえることで聖書には記されていませんが、「主よ、どこに行かれるのですか?」とペトロがイエス様に問いかける言葉です。この言葉のラテン語、「クオ・バディス」という映画も昔あったので、覚えておられる方もおられるでしょう。

ペトロがローマで宣教をしていた時、迫害が激しくなり、彼はローマから逃げ去ろうとします。しかしその道で何とイエス様に出会うのです。ペトロはとっさに問いかけたのです。すると、「あなたが逃げようとするから、私はもう一度十字架にかかるために、あのローマに行くのだ」と。その伝説の場所がローマのアッピア街道沿いにあり、今そこに小さな教会が建てられています。

4,勧め 

悔い改めて神に立ち返り、信じても、心を決めても、続かないのが私たち罪びとです。人を赦し、和解し、愛しても、続かないのが私達です。しかし、そんな私たちのために、十字架にかかってくれたのがイエス様です。

「あなたも去るのか?」と聞かれ、「そんなことはありません」、と答えたペトロでしたが、自分が窮地に立つときに逃げ出し、出くわしたイエス様に「どこへ行かれるのですか?」と逆に問いかけることになってしまいました。

しかし、そんな弱い私たちをよく知っているのもイエス様です。決断を迫る神は厳しい方ですが、弱くて倒れ逃げ出すものをも赦し、何度でも、現れ、寄り添い、代わりに苦しみを背負ってくださり、守ってくださる方だという事を、今日学んでいきたいと思います。

神様に信頼して一緒に生きていきましょう。


2024年7月28日日曜日

説教メッセージ 20240728

 昨日は暑い中、高蔵寺教会に集まって、みんなで素敵なハープの音色を聞きました。ひょんな出会いから、プロの先生をお呼びして、教会学校のこどもたちに、そして大人のみんなや知り合いにも声をおかけしての集会にしました。教会ではいろんな自主グループもできて、音楽クラブや、刺繍クラブやほかにもいろいろアイデアもあります。一緒にいろんなことを楽しみませんか?出会いや、新しいこと、好きなことに熱中することは、元気に楽しく生きるコツかもしれません。教会を利用してください。明日は名古屋の復活教会で説教担当です。YouTUbe中継もあります。お待ちしています!

聖書の言葉 ヨハネ 6: 1~21 (新174)

6: 1その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。 2大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。 3イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。 4ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。 5イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、 6こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。 7フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。 8弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。 9「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」 10イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。 11さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。 12人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。 13集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。 14そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。 15イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。/以下省略/



説教「パンの増える奇蹟の意味すること」徳弘浩隆牧師

1、食事が足りないと困るから…

お客さんを呼んで会食をするときに、気にするのはメニューですね。集まる人の好き嫌いを考えて、今はアレルギーもありますから気を使います。宗教の違いもあると、食べてはいけないとされる物があり尊重せねばなりません。さて、メニューが決まって次に気にするのは、量かもしれません。足りないと迷惑をかけるし格好も悪いし、でも余り過ぎてももったいないし今ではフードロスなんて言う事も気にしなければなりません。

文化や風習が違うと、出されたものをどの順に食べるか、全部食べたほうがいいか残した方がいいかなど、気を遣う事もあります。先日一緒に食事をしたシリア人の青年もイスラム教ですから「アルコールや豚肉はダメだよねぇ」と確認し、お土産をあげたら逆に「日本は今あけてもいいんだっけ?」と聞かれたりします。

ブラジルで気が楽になったのは、こういう文化の違いでもありました。プレゼントはすぐに開けて喜んだ方がいいし、あげた方も「つまらないものですが」とかいわずに、堂々と勧めて、喜ばれたら恐縮せずに一緒に喜ぶという事でした。食事も「足りなくて困るかもしれないけど」と心配はせず、予定外の人が来ても食事に誘います。「足りないと迷惑でしょ」というと、こんな返事をして一緒に笑って、遠慮を吹き飛ばします。「足りなかったら水を入れて増やすから心配ないよ!」と何度も言われました。カレーライスのようなフェジョアーダという豆を煮こんだ料理は確かに、水を入れて少し味の調整をしたら結構増やせるような感じでした。

今日の聖書は有名な「5000人の給食」とよく言われるところです。パン5つと魚2匹だけしかないのに、5000人が満腹したという奇跡です。イエス様は何をされたのでしょうか。水を入れて増やしたのでしょうか?この「奇蹟」は私たちの人生に何を意味するでしょうか。一緒に聖書を見ていきましょう。

2,聖書 

今年はマルコの福音書を読んできましたが、ヨハネの福音書にしばらく変わります。そして、パンの話が続きます。今日はその一回目で、パンが増えたのです。

大勢の群衆がイエス様を追い、集まりました。イエス様の病人たちをいやした奇蹟を見たからだという事です。大勢の群衆が来るのを見て、弟子に聞きます。試みるためだったとありますが、弟子のフィリポの信仰を試そうとされたのでしょう。「どこでパンを買おうか」と。するとフィリポは「大金があっても到底足りないでしょう」と言います。アンデレはパン5つと魚2匹を持った少年のことを伝えました。でもそれは解決策ではなくて、「たったこれだけしかないので、到底役に立たないでしょう」というためでした。

しかし、イエス様は人々を座らせ、パンをとり、感謝の祈りを唱えてから、分け与えました。魚も同じようにしました。すると、5000人の群衆は満腹したのです。

3,振り返り 

さて、今日の聖書から何を私たちは学びましょう。

どうしてパンが増えたのかと、不信仰で現実的なことを考える人は、私を含めて、色々な方法や理由を考えて信仰と現実を一致させようとします。

しかし今日の聖書が問いかけているのは、その問いではなくて、フィリポに問いかけたイエス様の問いです。「これだけの群衆がいるけれど、どこでパンを買おうか?」という試みの問いかけです。答えはこうでした。どこで買おうかという問いにではなく、そもそも、「足りないでしょう」という決めつけでした。そこに気を利かせたアンデレが口をはさみますが、「少しの食糧があるけれど到底足りないでしょう」といいう決めつけでした。

これらは極めて現実的で正しい判断でしょう。しかし、それを大きく上回っているのが、神様のご計画であり、神様の恵みや愛だという事を、見せつけられることになります。それが今日の福音のポイントです。

実はこれはイエス様の十字架をも指し示していると考えてもいいでしょう。最後の晩餐、つまりその後の聖餐式を思い出す言い回しになっているからです。「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから」弟子たちに分け与えたのです。また、「盃をも同じようにして」ではありませんが、「魚も同じように」されました。わざわざ今日の状況説明で言われていた「過ぎ越し祭が近づいていた」という言葉も、最後の晩餐、あるいはその後の聖餐式への流れを思い起こす出来事になっています。

イエス様が感謝して人々に分け与えるパン。そして命のパンとして来られた方のこの出来事。また、やがて、過ぎ越し祭に最後の晩餐をして十字架に向かわれるイエス様。その過ぎ越し祭は、ユダヤの民を救い出すために、子羊を犠牲にしてその血を戸口に塗った家だけを天使が過ぎ越していったあの出エジプトのことを上書きするかのような、キリストの十字架の出来事へと重なっていく神様の救いの計画でした。イエス様はそのために来られた、十字架を見上げさせられもする奇蹟・つまり「しるし」と呼んでいくことが大切です。

4,勧め 

さて、納得して終わりたいところですが、一つ腑に落ちないことが私にはありました。何か違うのです。どう思われますか?

出エジプトをして、荒れ野をさまよう旅で、彼らも同じように不思議な方法で食事を得て飢えることはありませんでした。マナとウズラの出来事です。これを毎日降らせ、生じさせ、空腹は満たされました。しかし、今日のイエス様の出来事は、その時の、また、いつもの神様のやり方とは違うんじゃないか?と思わされます。それは、マナを欲張ってたくさん集めても翌日はダメになっていたという事です。残ったものをたくさん集めてもダメだったのに、今日はどうして12カゴもパンが余ったのか?というところが、「いつもと違うぞ」と思わされるところです。

私たちも、体験します。「困って困って神様に一生懸命祈ったら、神様は与えてくださいました。しかし、ちょうどいいくらいの量で、余るほどはありませんでした。でもそれが神様のなさることなんでしょうね」という体験をしたり、証を聞いたりします。その神様が、です。どうして今日は余っているのでしょうか?水加減を間違えたのでしょうか?

実はそれが、今日の私たちへの勧めです。12かご余ったそのかごは、イエス様を受け入れない12部族のユダヤ民族を表しています。そしてそれはやがて、全ての人のための救いの出来事に広がっていきます。今日ここにいない人のため。そのうち、ここに集められてくる人のため。そのために、今回は、たくさん余るという出来事になっているのでしょう。

わたしたちも、神様の恵みや、肩の荷を下ろして無理せず生きれるようになったこの安心を、まだここに集められていない人のために、有り余るほどいたただき、預かっているのです。独り占めしてはいけません。与えられたものも、安心や優しさや愛も、わかちあって、一緒に神様と生きていきましょう。

 

牧師コラム・ 肉ソバを頼んだのに

 出張の帰り、やっと昼食をとりました。高速のサービスエリアで簡単にと肉そばを注文。しかし、出てきたのは「肉うどん」!さて、一瞬の間にいろいろ頭をめぐります。


  みんなならどうするかなと、お店で食べながらFacebookに載せてみました。「肉そばを頼んだのに、肉うどんが来た  良い子のあなたはどうする?」

1、そのまま感謝して食べる

2、カウンターに行って交換してもらう

3、半分まで食べたて気づいたと言って交換してもらう

意外と結構まじめな答えも帰ってきました。「自分の注文を忘れてそのまま食べる」という私と同年代の同僚の高齢者?特有の返事も。あなたはどうですか?

「それで、先生はどうされたんですか?」とも聞かれました。はい、私はこんな悪いことも考えなら、こうでした。

私は、とっさに2、その後3に迷った末、1でした😅 間違えを指摘する律法主義→罪の思いのズルさ→最後は赦しと愛と感謝という形でしたよ。ははは😊。


2024年7月21日日曜日

説教メッセージ 20240721

 全世界を襲った?パソコンのシステム障害。空港で群衆は立ち往生。疲れ、座り込み途方に暮れる姿は気の毒でした。今日の聖書でも、殺到する群衆、疲れ、座り込む姿が描かれています。私はこのニュースを見て、私たちの神様や人との関係を象徴もしていると、考えさせられました。一緒に聖書を見てみませんか?今日は高蔵寺教会で礼拝担当をし、Youtubeでも配信します。猛暑でやむなく教会をお休みする方にもお勧めしています。礼拝後は、青年会と外国人メンバーの夏のワークキャンプについても話し合います。お待ちしています。


聖書の言葉 

マルコ 6:30~34,53~56 (新72)

6: 30さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。 31イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。 32そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。 33ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。 34イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。 

6: 53こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。 54一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、 55その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。 56村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。




説教「飼い主のいない羊、羊のいない飼い主」徳弘浩隆牧師

1、疲れ果て、行列を作る人々

今日の週報やプロジェクターの表紙の画像は、多くの人が集まり、イエス様に会おうとしている挿絵です。イエス様に会おうと、連れてこられた病気の方もいて、こどもを抱えた母親たちの姿もありますが、人々は疲れ果て、座り込む人もいます。

私たちは先週、似た光景を目にしました。TVのニュースで、です。人々は殺到し、行列ができ、子どもたちと一緒に、荷物も抱え、途方に暮れている映像を見ました。それは、世界中で起こっていました。



違うのは、先週見た光景は世界各地の空港。イエス様に会おうという行列ではなくて、カウンターに並ぶ彼らが見つめるのは青い画面のコンピューターだったことです。Facebookでは、彼女が中学生のころから知っている教会のメンバーが、ちょうど旅先のアメリカの空港でこのトラブルに巻き込まれて、乗り換えができず、高いお金を払ってホテルに泊まらないといけないかという嘆きの声でした。お子さん連れの旅行で、気の毒なことでした。状況も時代も全く違いはしますが、何か似たものを感じながら、ニュースを見、また聖書を読む週末でした。一緒に聖書を見ていきましょう。

2,聖書 

マルコの福音書の流れはこうです。イエス様がガリラヤ湖のほとりで説教をし、向こう岸にわたり、また戻ったところで会堂長ヤイロの娘を生き返らせる奇蹟がありました。その後、故郷・つまり、ナザレに行かれて宣教をされました。人々は驚いたけれど受け入れられなかったと伝えられています。それで近くの村を回り宣教をされ、つぎには弟子たちを二人ずつペアにして派遣しました。そして今日は、その弟子たちが帰ってきて、イエス様にすべての出来事を報告をしたというところから始まります。イエス様は「あなたたちだけで、人里離れたところで休むがよい」と成果を喜ばれ、休息をとるように勧めました。忙しすぎて食事をする暇もなかったからだということです。しかし、移動先にも群衆は駆け付け、先回りまでしていました。舟から上がったイエス様は、大勢の群衆を見て深く憐れまれ、いろいろと教えました。

その後、実は5000人に食事を与えられた奇蹟の話がありますが、今日はそれを飛ばして、また船で湖を渡って、ゲネサレトという土地に行きましたが、そこでも多くの人に追いかけられ、人々に教え癒されたという話までになっています。

今日の礼拝では飛ばすことになるパンの奇蹟は、この後来週からしばらく、パンの奇蹟の話が続くことになりますので、今日は飛ばして学ぶことになるのでしょう。

3,振り返り 

さて、今日の聖書から何を私たちは振り返りましょう。

少し引きずられすぎかもしれませんが、私はどうしても、空港で待ちくたびれて、解決せず、行列を作り、座り込み、途方に暮れる、現代の空港にいる群衆のことを忘れることができません。忙しい仕事や楽しみにしていた旅行ができなくなった方々にはお気の毒ですし、買い物や病院でもトラブルとなって、手術や診察や薬が先延ばしになった方もおれら、これはもっと重大なことで気の毒なことでした。

しかし、この姿に、私たちの姿を見せつけられもしました。トラブルの原因は簡単に言うと、コンピューターのシステム障害ですが、それぞれのパソコンが立ち上がらなくなり青い画面とメッセージのみが出ることになり、データーを蓄積しやり取りをするサーバーともつながらなくなったということが原因で起きたことでした。

私たちの姿はどうでしょうか? 一人一人がうまく生きることが出来なくて、それぞれが機能しなくて、青い顔をして立ち止まり座り込むことがあります。互いの連携も取れなくなり、おおもとの大事な方との関係も途絶えているから、何もできない状態に陥ることがあります。それぞれは大きな価値がある一人一人ですがそれが発揮できず、連携した助け合いや、分かち合うこともできません。すべてを制御し多くの知恵や資源がある神様との関係も切れてしまっています。それで、立ち往生し、ぶつかり合い、戦争までするその姿は、史上最大のパソコンのシステムエラーではなくて、人類が神を離れ、人々の関係が切れ、それぞれの人間もその価値を発揮できずにいる姿そのものに見えて仕方ありません。


そこで立ちすくみ、座り込み、行列を作る姿は、「飼い主のいない羊」のようでもあります。そんな私たちに、帰ってくるようにと呼びかけ続けておられるのが旧約から新約まで一貫して待ち続けている神の姿です。私たちが「飼い主のいない羊」のように憐れだと思いますが、実は、神様の方も悲しみに暮れる「羊がいなくなったか羊飼い」でもあるのです。そこに来られたイエスさまと、イエス様が派遣した弟子たちは、休む暇もないほど忙しく働き、教え、癒してくださったということが今日の福音のポイントだと思わされます。

4,勧め 

 私も休む暇もないほど忙しい日を送ることもありますが、まだまだともいえるかもしれません。

先週は実は忙しい週でしたが、友人が訪ねてきてくれました。シリア人の青年でイスラム教徒のまじめな青年です。サンパウロの教会で出会い、教会のゲストルームにしばらく滞在し、教会での交流もし、今でもつながっていました。その後、彼はフランスで難民ビザを取って大学を終了し、短期交換留学で東京大学で勉強中でした。もうすぐフランスに帰国なのでと、名古屋まで会いに来てくれました。 7-8年ぶりに彼と会い、英語にポルトガル語と日本語を少し混ぜながらずいぶん久しぶりに話し込みました。キリスト教とイスラム教の違いはありますが、彼は温厚ですがまじめな信仰の持ち主で、意気投合します。

 「神を大切にし、人々が愛し合う世界、それが神の願いなのに、それを人類は破ってしまった。だから神はその時々に応じて預言者を送った。神のもとに帰り、人と人が愛し合って平和に生きることができるようにと。イエスさまも偉大な預言者で、私たちも尊敬している。彼がメシアで最後の審判で再度来られるのも信じて待っている。」と力説します。もちろんイスラムの人ですから、こうも言います。「ムハンマドがそれ以降の最後の預言者だし、パウロがキリスト教を神学的に組織化して教会を形成していく中で、神の教えから少しそれたところがあるんじゃないかと自分は思っているんだけれど」と。

 神学的な宗教論争はせずに、彼の神様と自分たちの関係の見方や生き方は、本当に尊敬し互いに理解しあえることが大きいと思わされます。イスラムのイマーンになって一緒に仕事をしないかと言ったくらいです。そういえば、サンパウロで彼からポルトガル語版の簡略版クルアーン(コーラン)ももらいました。

私たちはイエス様を通して教えられた神様の出来事をもっと学び、神様との正しい関係、人々の間の正しい関係に戻っていきたいと、思わされます。もっと一緒に聖書を学び、他宗教や歴史も学び、自分の中に正義と平和が訪れ、世界の人と平和に生きていけるように歩みましょう。

 



牧師コラム・ 急に訪ねてきた友と神様の話

  Facebookのメッセンジャーでブラジルの教会員のご婦人からメッセージがありました。「先生、〇×〇×が先生に会いに行くと言っています。よろしくお願いします。」と。前後して、〇×〇×からも英語でメッセージがありました。「先生、来週名古屋に行きます。時間があったら会えたらとてもうれしいです。東京に来ていましたが、大学が忙しくてどこにも旅行できませんでした。」と。忙しいけれど懐かしい友人からの連絡だったので、すぐにOKしました。彼の勘違いで少し日程がずれて高蔵寺訪問は無理でしたが、無事会いました。夜行バスで名古屋まで来た彼と朝会い、徳川園と復活教会を案内。近所の喫茶店でモーニングを食べながらおしゃべり。昼食は和食をと、ちょっと奮発して、カニのおいしいお店でランチ。北海道もたぶん行けないというので。

  そして、私が関わっている幼稚園の先生に相談して、夜は一泊保育の花火に飛び入り参加で招待しました。今月の幼稚園の聖書の言葉は「隣人を愛しなさい」ですから、子どもたちにも、先生の大切のお友達を紹介します」といって、「みんなは初めて会う人だけとコワくないよ、仲良くしてね」とお話ししました。何人も花火をしながら声をかけてくれ、日本語でおしゃべり。彼は留学中で日本語も少しわかります。片付けも手伝ってもらった彼に、「もう帰るの?またね!」とあいさつしてくれました。神様と人を愛する一歩でした。


聖書の学び会・新シリーズ開始します。

 ここ数年、ルカによる福音書でキリストのご生涯、使徒言行録でその続きの教会誕生とその後、エフェソの信徒への手紙で異邦人(非ユダヤ人)の教会の混乱やそこへの勧め、コリントの信徒への手紙で教会内の分派や争いへの戒めや勧めを学びました。 その後、昨年はローマの信徒への手紙で信仰による救...