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2023年3月25日土曜日

説教メッセージ 20230326

今日は、出張で静岡県の教会で合同礼拝を担当しますので、残念ですが礼拝中継はお休みです。どうぞ、今メッセージを読んで、個人で礼拝を、祈りの時をお持ちください。宜しくお願いします。よい一週間を。


聖書の言葉 ヨハネ 11: 1~45

17さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。 18ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。 19マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。 20マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。 21マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。 22しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」 23イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、 24マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。 25イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 26生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 27マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

28マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。 29マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。 30イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。 31家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。 32マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。 33イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、 34言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。 35イエスは涙を流された。 36ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。 37しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。

38イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。 39イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。 40イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。 41人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。 42わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」 43こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。 44すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

45マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。

説教 「その石を取りのけなさい」徳弘浩隆牧師 

1, マリアとマルタ、そしてラザロ…

今日の聖書には、マリアとマルタが出てきます。イエス様の足元でみ言葉を聞いたマリアと、かいがいしく接待をしていたマルタ、そしてイエス様にマリアにも手伝うよう言ってくださいと苦情を言い、諭されたという有名なエピソードがありました。教会でも聖書の学びで、たびたび、話題になりました。簡単に復習しますと、この姉妹の違いは、伝統的には、マリアが「観想的生活」(vita contemplativa ビタ・コンプラティーバ)、マルタが「活動的生活」(vita activa ビタ・アクティーバ)と言われ、日本語で考えると、瞑想する人生と、アクティヴな人生ということになるでしょう。それぞれの良さや、時と場合の違いや、修道会では観想的生活が比較的良いものとされたり、マルタが苦情を言った段階で諭される原因を作ったなど、色々と解釈されてきました。

さて今日はここに、ラザロが登場します。イエス様はこの兄弟の家族と懇意にしていたと聖書は伝えますが、なんと、彼は死んでしまいました。

たびたび比較されるこのマリアとマルタは、この大きな悲劇の中で、イエス様とどんなやり取りをして、何を見つめていくのでしょうか。それは、私たちの生き方や信仰生活に、何を教えるのでしょうか?一緒に聞いていきましょう。

2,聖書

 今日もやはり、イエス様が来られたと聞いて、真っ先に迎えに出るのはマルタでした。マリアは家の中に座っていたのです。やはり、行動的・活動的なマルタと、静かに思いめぐらしているマリアの違いが見えるようにも思います。

 そこで、兄弟の死という危機的状況、そして、イエス様がすぐに飛んできてくれなかったという状況に対して、この二人のとらえ方はどのように違ったのでしょうか? イエス様の足元でみ言葉を聞いていたマリアの方が、せっせと食事やもてなしの準備をしていたマルタよりも優れていて、イエス様に褒められたでしょうか?

 そう期待したいところですが、どうもそうではないようです。最初に迎えに出たマルタは、こういいました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と。そして、イエス様に呼ばれて急いで出てきたマリアも実は、同じことを言います。イエスの足元にひれ伏していたというのはマルタと違い、み言葉を聞いていた時と同じ様子ですが、こういいます。「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と。

 かつてイエス様の足元に座りみ言葉を聞いていて褒められたようにも見えたマリアも、あわただしく食事の準備をしていて手伝わないマリアのことでイエス様に言いつけをしたマルタも、ここでは同じでした。 彼らはともに、イエス様を、主とあがめ、信じ従っていたようですが、またマルタは口では「メシアであることは信じています」と言いますが、イエス様の言わんとすることは理解していませんでした。

 そんなこの姉妹や、泣いているユダヤ人たちを見てイエス様は憤られたといいます。そしてこういわれます、「その石を取りのけなさい」。洞窟の墓の入口の蓋になっていた石を取りのけるよう言われたのです。それを拒もうとするマルタに、イエス様は言いました。「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と。そして、祈りをささげ、呼びかけるイエス様の声に従って、ラザロは生き返って墓から出てきたのです。

3,振り返り 

 彼らは、イエス様をそれぞれのやり方で信じ従っていましたが、それぞれ、イエス様の言葉を本当に理解はしていなかったのです。

 問題が解決しない状況は私たちにもあります。しかし、大切なことは、イエス様が来てくれたら、一緒にいてくれたら、解決してくださる、または受け止めて生きていける、と信じることです。イエス様があの時いてくれていたなら、こんなことにならずに済んだのにと、イエス様を信じてはいても、今の目の前の現実をみると「遅すぎた」「もうだめだ」と希望も信仰も失っています。私たちもそんな人生を生きていないでしょうか?何が邪魔をしているのでしょうか?

 イエス様は言われました。「その石を取りのけなさい」と。死んだ人と葬る洞窟の墓の穴をふさぐ石。私たちの心にも大きな石の蓋がされていないでしょうか?今までの経験とか、常識とかが、信仰や、希望や、勇気に蓋をしていないでしょうか。

4,勧め

 私たちも、「その石」を取りのけましょう。自信過剰や、自信の無さ、過去の失敗や、苦しい思い出。傲慢も謙虚すぎる姿も、不信仰です。イエス様に出会って、大きな人生の変化が始まったと思ったら、この方に従っていこうかと思ったら、「その石」を取りのけて、この方と一緒に生きていきましょう。

 この方も人々の罪で殺され葬られても、墓石を取りのけながら、復活して出てこられたのです。絶望と、不安と、真っ暗な闇の死の世界から、希望と安心と、明るい本当のいのちに、私たちも引き出されましょう。

 それがこれから向かっていく、イエス様の十字架の出来事と、復活の出来事です。それに、私たちも従い、もう一度、生まれ変わりましょう。

 


牧師コラム 奇蹟で死人が生き返れば、全て解決?

ラザロの話を聞いて、素晴らしいと喜んでいると、ふと思います。悲しみを瞬間に奇跡で回復してくれたらどんなにいいか。大切な人が死んでしまったら、イエス様にお願いして、生き返ったらどんなにいいか。でも、みんながそれをしたら、大変。どうするんだ?と。そんなひねくれた自分がいます。イエス様はどうしてこの奇跡をされたのでしょうか? みんなのお願いを無理やりでも聞いてくれるのでしょうか? 

ヨハネの福音書は奇蹟のことを「しるし」と言います。それは、これは「便利屋さんのマジック」ではなくて、目的があったからです。どんな目的?それは、ヨハネの福音書のここを読むと書かれています。「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。 31これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(20:30-31) 。奇跡に驚き、それを願うだけではなくて、大切なものを知り、見えるようになりましょう。


2023年3月19日日曜日

説教メッセージ 20230319

三寒四温と言いますが、また寒くなりましたね。今から、高蔵寺教会の牧師館へ行って、今日はあちらにとまる日です。実は、お昼も行きました。午後のこどもの礼拝があったからです。その後、買い出しと、名古屋の方の教会の準備をして、今から再度高蔵寺教会行きです。冬の間、毎週数日泊まりに行くときは、誰もいなかった牧師館は、冷え冷えです。家も家庭も、社会も、温かくなるといいですね。

明日は、高蔵寺教会の礼拝。中継もします。お待ちしています。


 聖書の言葉 ヨハネ 9:1~41

1さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。 2弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」 3イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。 4わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。 5わたしは、世にいる間、世の光である。」 6こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。 7そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。 //中略//

35イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。 36彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」 37イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」


説教 「見えない者は見えるように、

        見える者は見えないように」徳弘牧師

1. 見えていると思っていて見えていないこと…

今日の聖書を読んで、生まれつき目の見えない方が見えるようになったという話で、「可哀そうに」とか、「良かったねぇ」とだれもが思うでしょう。

見えなかったことで「可哀そうにねぇ」と思いますし、でもそれが見えるようになったという事で、「ああ、よかったですねぇ。これで私と同じように不便なく生活できますね」、と喜ぶという事です。

しかし、話はそう単純ではないようです。これは誰のせいなのか?という問いから始まり、見えるようになったことと、今まで見えていた人が実は何もわかっていなかった・大切なことが見えていなかったという逆説にも導かれるお話だからです。

私も実は眼科に通うようになりました。緑内障ので検査を何度もしています。視野検査では、医師とともに検査結果の画像をパソコン画面で見ると見えていない領域が数か所あったことを告げられ、自分でもあっけにとられてしまいました。

今日は聖書の言葉から、何を学ぶことができるでしょうか? 一緒に神様の声を聴いていきましょう。

2,聖書

 今日の聖書のお話は長かったですが、その流れを簡単に、一緒に確認していきましょう。

1)一言で言うとこうです。まず今日の話は、人間の不幸の原因は何かという問答から始まります。先祖の祟りや本人のした悪いことなどという因果応報という考えが広くありますが、そうではないという事がまず示されます。かといって答えが出たとも言いにくいところかもしれません。しかし、結果的にこの人の問題解決は、神の栄光を表すことになりました。

 2)流れを追っていくとこうなります。イエス様が通りすがりに生まれつき目の見えない人を見かけ、弟子の質問からそんな問答になったわけですが、その人に唾でこねた土を目に塗り、白阿武野池に言って洗泣いなさいと言われ、そのようにした彼は目が見えるようになり帰ってきました。

 3)皆はおどろき、別人ではないかと疑います。人々はイエス様を探しますがどこに行ったか知りませんという事になりました。

 4)すると、ファリサイ派の人のところに連れていかれ、問いただされます。彼らは癒されたことを不思議に思いますが、安息日に癒しをするとは律法違反だとケチをつけるのです。そして癒された人にその人に詰問します。「あの人のことをどう思うか」と。するとこの人は、自分を癒してくれた人・イエスという人を「預言者」と思うようになり、そう言い表します。

5)しかしそれでもこれを信じないユダヤ人たちは、両親を呼び出して尋問するのです。両親は、あの子は生まれつき目が見えなかったのに今は見えるらしいという事と、もう大人だから本人に聞いてくださいという返事をします。この両親は、悪意のある尋問に対してそのように答えたのでした。

6)するとファリサイ派の人たちはもう一度癒された人を呼び出して、魔術か神様からの人ではない奇蹟だと決めつけようとします。しかし、癒された人は言います。「難しいことはわからない。しかし、見えなかった自分が今は見えるという事はわかる。そして、神様から来た人でなければ、何もおできにならなかったはず」とファリサイ派の人たちをやり込めます。

7)さてその後、この日とは外に追い出されてしまいますが、イエス様にもう一度そこでああって、対話をし、本当にこの方がメシア・キリストであると、本当の意味で「目が開かれた」のでした。

 「メシア・キリスト」と言い現わさず「預言者」といった彼の言葉は、その時点ではまだ十分に理解していなかったとみることもできますが、実は後期ユダヤ教の時代にはゼカリヤ書を根拠に、メシアの時に至るまで預言の時代は過ぎたと考えられていたので、預言者を名乗ることが禁じられていたそうです。となると、彼がイエス様を「預言者」と呼んだのは、メシアに違いないと、そんな風に言ったのだと読み取ることもできます。少なくとも、ひとを「預言者だと思う」と証言する人に対して、「それはメシアだという事か?」と、ファリサイ派の人たちは、認めたくなかったという事になるかもしれません。

3,振り返り 

 先週の聖書の話も、イエス様との対話から考えが高められ、イエス様をメシアと信じた女の話でした。

今日も同様とも言えますが、違いはこうです。先週は、井戸端にいた女はイエス様を信じるようになり、人々に伝えるとやってきて、イエス様にとどまってもらいました。一緒に話を聞いた彼らも信じたのですが、女のいう事を聞いて信じたのではありませんでした。自分たちで話を聞いて信じたのだ、とあります。

さて今日の話での人々は、癒された男の話を聞いても関心を持ちましたが、信じませんでした。親を呼び出し、本人をもう一度呼び出し、厳しく悪意を持って尋問したのです。そしてその結果、それを信じず、男を追い出したのです。

彼らは何を見ていたのでしょうか?見えているのに、何も見えていませんでした。見たくなかったのでしょう。自分たちの知識と経験にたより、自分たちの対面や権威を守りたくて、素直に目の前のものを見ていなかったのかもしれません。

それに引き換え、この生まれつき目の見えなかった男は、見えるようになりました。そして、ただ見えるだけではなくて、出会ったこの人が、神から送られた方、そしてメシアだと、しっかりと見ることができたのです。

私達は、どちらの生き方でしょうか?

4,勧め

 見えているつもりで見えていないこと。それは緑内障になって視野が狭くなって、見えているつもりでも見えていなかった部分があって、うっかり車を角にぶつけてしまったりすることとは大きく違います。一番大切なことを、見たくない。認めたくないという人間の心が、その人を神様に対して、人の道に対して、「盲目」にしてしまうのです。

 学問や知識や経験や権威が無くても、素直にイエス様に出会うときに、この方の本当の価値を見ることができるのです。この方に従って生きていくときに、今まで見えなかったものが見えます。人の冷たさも、しかし人の暖かさも。自分の罪深さと、赦された姿も。そうして、一緒に、神様の愛の中を生きていきましょう。

 

牧師コラム AI(人工知能)はイースターを知っているか?


最近何かと話題の人工知能。「○○の△△な絵を描いて」と入力すると、実際の人間が描いたような絵が描かれて驚いたり、勘違いと思われる絵が出てきて笑ったり。会話や検索のAIとの会話で、ひどい返事が返ってきて慌てたり。感情はないにしても、世界中のネット上の情報を「学習」してスムーズに結果を出す社会に近づいているそうです。

パソコンの画面に新しいボタンが出たのに気づいて、この新しい体験を申し込もうと「順番待ちボタン」を押すと、あっさりサービスを受けられるようになったので、試してみました。「教会メンバーにイースター案内を送る」といれると、しっかりした文章が出ました。「真面目」な案内だけでなく、「面白い」のも出してみると、画面のような楽しいJokeも入りました。今年のイースターが4月16日になっているのは、このAIが学習した文章がロシア正教などの文章をたくさん学習したからかもしれませんね。私たちのイースターは4月9日です。


聖書の学び会・新シリーズ開始します。

 ここ数年、ルカによる福音書でキリストのご生涯、使徒言行録でその続きの教会誕生とその後、エフェソの信徒への手紙で異邦人(非ユダヤ人)の教会の混乱やそこへの勧め、コリントの信徒への手紙で教会内の分派や争いへの戒めや勧めを学びました。 その後、昨年はローマの信徒への手紙で信仰による救...