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2022年4月17日日曜日

説教メッセージ 20220417

 今週の聖書の言葉

4月17日 ルカ24: 1~12 (新159)

24: 1そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。 2見ると、石が墓のわきに転がしてあり、 3中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。 4そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。 5婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。 6あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。 7人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」 8そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。 9そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。 10それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、 11使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。 12しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。


説教「探し物と、探す場所」

徳弘浩隆牧師

1.探し物は何ですか?という歌と引越

引越をしました。3年前にブラジルから帰国して岐阜県に引越し。その10年前にブラジルへの引っ越し。たくさんの荷物は、実家や倉庫にあずかってもらいました。ブラジルでは3年の予定でしたが、神様のおかげで教会の人数も増えて7年に、そしてあと3年延長して、合計10年いましたので荷物も増えました。そして今回愛知県に引越。新しい町は世界中どこでも好きですから引越は苦ではありません。出会いと、新しい勉強、そして自分も変えられていくのが楽しいです。しかし、まだ、どの箱に入れたか忘れて、見つからないものがたくさんあります。少々不便です。

「探し物は何ですか?」という古い歌を思い出します。最近でもCMで若い人がカバーして歌っているのを聞きました。この歌は、「探すのをやめたとき見つかることもよくある話」と続きます。

2.聖書

今日の聖書は、十字架で亡くなり、洞窟のお墓に葬られたイエス様に会いに、週の初めの日に朝早くお墓に行った女性たちの話です。金曜日の午後3時に息を引き取られ、日が暮れる前に急いで葬りました。それは、ユダヤ教では、日が暮れると次の日になるという考え方でしたから、土曜日の安息日になる前に葬る必要があったからです。女性たちは香料を持って墓に行きました。

しかし、重い石を転がして洞窟をふさぐ扉になっていたものがわきに転がしてあり、中を見ると、イエス様のご遺体はありません。途方に暮れていると天使のような人が現れ、こう言いました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない」と。それで彼らはイエス様が前に話しておられたことを思い出し、それを信じて他の弟子たちに急いで会いに行きました。弟子たちは最初それを信じませんでしたが、ペトロは走って墓へ行き、それを見て、驚きながら家に帰ったのです。

3.振り返り

私たちの探し物は何ですか?引っ越しの後、TVのリモコンだけが出てこないとか、パソコンとモニターは出てきたけれど、ケーブルが出てこないので教会のパソコンがセットできないのは今の私です。

でも、人生はいろいろなものも探し物の連続です。それは、引っ越しの後や、年を取ってきたから物忘れがひどくなったとか、そういう事だけではありません。

人はみな、何かを探して生きています。希望、安心、仲間、健康、お金、名誉…、いろいろな言葉が思い出されるでしょう。最近のニュースを見ると、感染症から守られる健康、戦争が終わる平和、そんなものも私たちは、探しています。どうしたら、見つかるでしょうか?聖書は、神様は今日、私たちにどう言っておられるでしょうか?

聖書はこう問いかけます。「なぜ生きておられる方を死者の中に探すのか?」と、私たちも、あくせくと探している、なかなか見つからないものは、そもそも、探す場所を間違っているのかもしれません。

人と人の争いは、友達や家族、社会から世界の戦争に至るまで、原因と解決策はそれぞれ違うとふつう思います。それを探して一生懸命になります。しかし聖書は言います。すべての人は罪びとだと。一人の心の中の葛藤・争いも、人間関係の争いも、国と国の戦争も、規模は違うけれど、原因は同じ。私たちが皆、罪びとだからです。自己中心の心です。神を愛し正しく生き、他者を愛することができなくなったと聖書は説きます。自信過剰も自己嫌悪も、他者の喜びを一緒に喜べないことも、人を許し、愛することができないのも、これが原因。心の中の小さな嵐も、人との衝突も、国と国の戦争も、探していた原因は同じでここにあるのです。そして、私たちそれぞれが、自分の罪を認め、謙虚になって、互いを尊重し、愛し助け合うのが、神様の願い。そこに解決の答えがあるのに、違う所を一生懸命探していたのです。探し物はここでした。

4.勧め

神の愛を説き、敵を愛せよといい、上着を取るものには下着をも与えよといわれたイエス様は、そのように生き、自分を裏切る人を赦し、命さえ投げ出されました。神様彼らは何をしているのかわからないのです、赦してあげてくださいと、祈られたのです。

その姿を見て、本当の神の愛を知り、今までの自分を悔いて、私たちの新しい生き方が始まりました。それが聖書の言う信仰です。何かを無理やり信じて、一生懸命行う事ではありません。

肩の力を抜いて、ただそれを受け入れ、新しい人生を一緒に始めましょう。今までの努力は素晴らしかった。しかし、探す場所が違っていたのです。神様の愛を見つけた、いや、神様に見つけてもらった、そんな自分と一緒に生きていきましょう。

あなたにしかできないことがあります。似た苦しみや悲しみを持つ人を助けるために。あなたは、とても貴重な存在です。教会を通して、たくさんの人と出会い、一緒に生きていきましょう。私たちのつないだ手の先に、もっと多くの人の手がつながり、世界に広がるなら、平和な社会は、神の国は、そこにあるのです。


2022年4月15日金曜日

説教メッセージ 20220415 受苦日 Good Friday

 2022/04/15 受苦日礼拝 十字架、その三つの意味

 

1.         導入

(ア) 今日は受苦日、聖金曜日ともいわれます。

(イ) キリストが十字架にかかられた日。

(ウ) 伝統的にいろいろな行事

(エ) スペインではSemana Santa 聖週間。キリスト像やマリヤ像のおみこしのような行列も。

(オ) クリスマスよりも大切ともいえるこの日、何を学ぶべきか

2.         聖書

(ア) 今日読んだ聖書の少し前から振り返りましょう。

(イ) イエス様がとらえられ、

(ウ) ペテロは知らないといって裏切った

(エ) 大祭司のしゅうと、アンナスのところへ連れて行かれた。 大祭司カイアファ「一人が皆のため死ぬのは好都合だ」と助言。尋問。

(オ) 大祭司カイアファのもとへ連れていかれた。

(カ) 次に、イエス様は総督官邸へ連れていかれた。ピラト。イエス様に質問。ユダヤ人の過ぎ越しの祭りの習慣に合わせて、釈放しようと提案したが、十字架にかけよとユダヤ人たちに迫られる。「ローマ皇帝に対する反逆」と脅され裁判をした。祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答え、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。

(キ) ユダヤを支配していたローマ帝国の力を借りて、ローマ皇帝を受け入れずユダヤ教を守っていたのに、「自分たちの王はイエス様ではなくてローマ皇帝のほかにはいません」との詭弁を使ってまで、イエス様を十字架へ追いやった。

  罪状書きはここにあるように、「INRI」ラテン語:IESVS NAZARENVS REX IVDAEORVM。「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」の意味。

(ク) 文化や宗教を否定し武力で支配する帝国と、苦しむユダヤ教の小国。それを解放してもらうのではなく、帝国の力で自分たちの小国の希望の星ともなる人を殺させた。今の戦争を見ていても、とても考えさせられる出来事。

(ケ) しかし、この時のこの出来事には、神様の愛と計画があった。

(コ) この十字架は、本来そんな、自己中心の罪びとたちが滅ぼされなければならないのに、代わりに死んでいくという事で、神様の赦しにあずかることができる道を開くという事だった。身代わりに清算してくれたから、そこにはもう負債がないという考え方。ユダヤ教の「いけにえ」にはそもそもそういう意味があった。

3.         振り返り

(ア) このような不思議な神様のご計画で、人間が負うべき罪を帳消しにして、救い出し、作り替えようとするのが、十字架。

(イ) 暴力や強制、洗脳やマインドコントロールでは解決できない。

(ウ) 奇跡で人間が悪い心を持たない人間に変わったとしたら、それは今までの自分ではない。

(エ) 今までの自分が、自分に向き合い、格闘しながら、改心して、ぶつかり、赦しあいながら、少しずつでも変えていかれるのが、私たちの生き方。信仰。

(オ) キリストの出来事を受け入れ、洗礼を受け、信仰を持ち、教会という新しい家族の共同体の中で、生きていくという事。

(カ) 知識や儀式で変わるのではなく、「聖なる公同の教会」でのかかわりや、社会生活が必要。

(キ) そこには、自分の罪を見せつけられ、赦せない、愛せない人もいれば出来事もある。

(ク) その時、どう生きるかが大切。

4.         問い

(ア) あなたにとって、十字架は、なんですか?

(イ) 教会のシンボル。クリスチャンの証。デザイン、ファッション…

(ウ) 十字架はもともと死刑の道具。お寺の屋根の上に、絞首刑やギロチンのデザインの飾りがあれば驚くでしょう。それと同じくらいの、変わったデザインの、インパクトが本来あったはず。しかし、いつの間にか、素敵なデザインになった。首にかけるファッションにもなった。権力や富の象徴にすらなった。

(エ) あなたにとって、十字架は、なんですか?

①       キリストがかけられ、殺された道具。

②       本当なら自分がかけられなければならなかったもの。

③       そして、一人ひとり、自分が背負う十字架がある

(オ) これが、今日考える、十字架の三つの意味。

①       素敵なシンボルでもデザインでもない、神の愛と赦しの身代わりの死。

②       本当なら自分も、罰せられなければならない罪びと

③       自分も誰かのために、十字架を背負うことが願われている。

(カ) 表紙の十字架は、フォークで作った十字架。その人はフォークでいろいろなものを表現しているアーチスト。マッサージ師の教会メンバーはマッサージ師のデザインを作ってもらった。私の自分で作った十字架はクギを4本合わせたもの。

(キ) 特別な飾りではなくて自分の生活に、十字架を持ち込んで考える。

(ク) 一人ひとり、神様から出会わされた、その人の十字架を背負ってあげる相手がいる。

(ケ) 私は、中高生、幼稚園児、そして外国人。またご高齢者。自分の人生でそんな難しさや、対象に出会い、一緒に泣き笑いしたから。隣人。

(コ) 昨日高蔵寺教会の帰りに、春日井市の国際交流課を訪ねた。ポルトガル語とスペイン語の通訳ボランティアの正式手続き。日本で苦労している外国人、家族の役に立ちたい。神様の愛を伝え奉仕したい、自分も「外人」だったから。

(サ) 「寄留の民を愛せよ、自分もそうだったのいだから」と神様はユダヤ人に命じた。

(シ) あなたが十字架を背負ってあげる隣人は誰ですか?

(ス) 十字架の三つの意味、考え祈りながら、生活しましょう。 

2022年4月10日日曜日

説教メッセージ 20220410 Palm Sunday

 聖書の言葉 4月10日 枝の主日 / 主のエルサレム入城 (紫)

ルカ19:28~40 (新147)

19: 28イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。 29そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、 30言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。 31もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」 32使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。 33ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。 34二人は、「主がお入り用なのです」と言った。 35そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。 36イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。

37イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。38「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。」

39すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。 40イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」


説教「石でも叫ぶ神の愛」徳弘浩隆牧師

1.導入

今日は「枝の主日」です。棕櫚主日とも呼ばれてきましたが、イエス様がエルサレムに入城されるところです。その時人々は、王様を迎えるように、服を道に敷いて絨毯のようにし、他の福音書の伝承では棕櫚の葉などを振って大歓迎したからと言われています。

私たちにはなじみがなくて分かりに風習かもしれませんが、外国から賓客が来られた時にその国の国旗を手にして振りかざしながら、歓迎するというのが似た光景かもしれません。戦争で勝った王様が凱旋帰国するときに、「万歳」を叫びながら国旗を振るというのも分かりやすいですが、戦争の風景は今の私たちには暗く重くのしかかり、考え直さなければいけないと思わされています。決して素晴らしいものではないと思い知らされているからです。

さて、今日の聖書の個所では、どんなことが起こり、イエス様は何を語られたのでしょうか。そしてそれが、今生きている私たち一人一人に、どんな神様からの語り掛けなのでしょうか?一緒に聞いていきましょう。


2.聖書

ルカによる福音書は、全体が大きく三つに分けて考えるとわかりやすいといわれます。1)イエス様の誕生と最初の働き(1章-9a)、2)エルサレムへの旅路とそこでの教え(9b-19a)、3)エルサレムでの最後の週(19b-24)となっています。今日のところは3)の冒頭部分とも言え、受難と十字架の死が待っていることを承知していながらそれに向かっていかれるところです。

イエス様は不思議な方法で馬ではなくロバを調達し、それに乗ってエルサレムに入っていかれます。人々は王様を迎えるかのように服を道に敷き大歓迎、弟子たちは今までの奇跡を思い出しながら大声で神様を賛美します。感極まり、いよいよ、その時が来たと思っていたのかもしれません。

その騒ぎを見て、ファリサイ派のある人たちは敵意を感じたのでしょう、彼らを黙らせるようイエス様に求めました。しかしイエス様は、「弟子たちが黙れば石すらも神の偉大な御業をたたえて叫びだす」と言われたのです。そこには、誰にも止めることができない、黙らせることができない、大きな神様の計画と偉大さがあったからです。


3.振り返り

今日はそこから何を学ぶべきでしょうか?

私たちも、言いたいことを言えないときは、もどかしく、苦しいものです。昔、吉田兼好も「おぼしきことは言わぬは腹ふくるるわざなれば…」と言っています。

しかし、何をやっても分かってもらえず、絶望の淵にいるときには、何も言いたくなくなり、苦しいものです。「私は貝になりたい」という言葉を思い出します。これは、戦争犯罪者を扱った映画やドラマで、実際の出来事を基にしたフィクションですが、上官の命令で捕虜を刺殺した理髪店主が戦後にC級戦犯として逮捕されて処刑されていく物語でした。「けれど、こんど生れかわるならば、いや、私は人間になりたくありません。牛や馬にも生れません、人間にいじめられますから。どうしても生れかわらなければならないのなら、私は貝になりたいと思います。貝ならば海の深い底の岩にヘバリついて何の心配もありません。兵隊にとられることもない。戦争もない。妻や子供を心配することもない。どうしても生まれかわらなければならないのなら、私は貝に生まれるつもりです」という手記を基にしています。「もう、貝になってしまいたい」それは、人間の罪深さや醜さや無力さで追い込まれていき、貝なら、海の底で岩にへばりつき静かに生きていける、また、貝のように口を閉ざして生きていきたいという、あきらめと嘆きの気持ちが伝わってきます。

私たちも今、人類の罪深さを毎日見せつけられています。驚き、憤り、非難もします。しかし、それは私たちもいつか来た道、似た過ちや戦争をしてきた歴史の後を生きています。戦争犯罪を一般化して擁護するわけではありませんが、私たち誰もが心の奥底に持っている罪深さを、見せつけられ、批判するだけではなく、悔い改めさせられます。人類の罪を共に詫び、愛と、平和を求めたいと祈らされます。


4.勧め

では、私たちは何ができるでしょうか。人類の罪に翻弄され、海の底で貝になってしまいたいような気持になっても、神は、神の愛は、皆が黙らせたとしても、石さえも叫びだすほどの確かなものがあると、イエス様は言われたのです。神様は叫びたいのです。事実、預言者を通して、怒り、裁き、しかし、赦し、立ち返ることを呼び求め、叫んできました。そしてそれが、イエスキリストを通してこの世にあらわれ、人々と共に生き、おしえ、仕え、最後の道のりを進んでいかれます。

イエス様は弟子の信仰の告白に対して「あなたをペトロと呼ぼう。その石の上に私は教会をたてよう」と言われ、石は確かな信仰の告白の象徴とも考えられるようになりました。しかしその固い頑固な信仰告白は誤ると他の信仰を否定し、その石を投げつけてクリスチャンの最初の殉教者ステパノは殺されました。

私たちも、石のように確かな信仰を持ちたいものですが、それが自分本位のものではいけません。神の愛を叫ぶような石、そんな信仰告白でなければなりません。そして石さえも叫ぶ神の愛は、私たちの石のような信仰によって、この世に叫ばれ、他者に寄り添い奉仕することによって、実現されていくのです。

今でもイスラエル・パレスチナにはたくさんの遺跡があり、クリスチャンも何十万人が訪問します。ありがたそうに石の柱をさすり祈り、イエス様のころを思います。しかし、去年東海教区で一緒に学び対話したベツレヘムルーテル教会のミトリ・ラヘブ牧師は、こういいます。「何十万人の人々が来て遺跡の石を見てさすっていきます。しかし、本当に見てほしいのは、いける石。ここで生きてきた信仰者たちであり、今生きて紛争の中で苦しんでいる信仰者たちという石を見てほしい」と。

私たちも、神様の愛を叫び、実現するものにされていきましょう。

聖書の学び会・新シリーズ開始します。

 ここ数年、ルカによる福音書でキリストのご生涯、使徒言行録でその続きの教会誕生とその後、エフェソの信徒への手紙で異邦人(非ユダヤ人)の教会の混乱やそこへの勧め、コリントの信徒への手紙で教会内の分派や争いへの戒めや勧めを学びました。 その後、昨年はローマの信徒への手紙で信仰による救...