猛暑が続いたこの夏、9月の終わりでもまだ続いています。連日ニュースでは、「適切に冷房を使って、水を飲みましょう」と言われ続けました。「一杯の水」の大切さを連呼された形ですが、今日の聖書もそれを言っています。でも少し違った意味で。どんなこと?一緒に学んでいきましょう。今日は高蔵寺教会で礼拝担当をします。Youtubeでも中継します。お待ちしています。
聖書の言葉
民数記11: 4~6,10~16,24~29
26宿営に残っていた人が二人あった。一人はエルダド、もう一人はメダドといい、長老の中に加えられていたが、まだ幕屋には出かけていなかった。霊が彼らの上にもとどまり、彼らは宿営で預言状態になった。 27一人の若者がモーセのもとに走って行き、エルダドとメダドが宿営で預言状態になっていると告げた。 28若いころからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアは、「わが主モーセよ、やめさせてください」と言った。 29モーセは彼に言った。「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」
マルコ9:38~50 (新80)
9: 38ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」 39イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。 40わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。 41はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」
42「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。 43もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。 44† 45もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。 46† 47もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。 48地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。 49人は皆、火で塩味を付けられる。 50塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」
説教「小ささの 大きさ」徳弘浩隆牧師
1、 「一杯の水」…
一杯の水の話は聖書では有名です。そして、それは、「たとえわずかなことでも人に施しをする、優しい愛のある行いをすることの大切さを説いている」と、一般的に感じていると思います。「だから私たちも、小さなことでも、人にしてあげよう」と思わされますし、キリストの愛の教えと考えられます。
それはとても大切なことで、私たちに愛のある生き方を促してくれます。先月の朝の聖書の学びで、女性会連盟の聖書研究テキストでも学び、とても有意義な学びや振り返り、そして勧めを与えてくれました。もちろんそれは大切なことです。
しかし、今日の聖書は、全体を読んでいくと、そして、伝統的にセットで読まれる旧約聖書を読んでいくと、違ったポイントが聞こえてきます。ちょっと不審に思われるかもしれませんが、一緒に聞いていきましょう。
2,聖書
聖書のマルコによる福音書の9章41節が有名な言葉です。「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」
この言葉に既に、一杯の水を飲ませるということの理由について、限定的に説明されています。それは、「キリストの弟子だという理由で」ということです。ここには、「私があなたたちを愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」という「愛の勧め」はありません。
もう一つは、このことばを語られたいきさつが大切です。それは、弟子のヨハネが「イエス様の名前を使って悪霊を追い出しているものがいたので、やめさせようとした」ということ言うことを報告したことに対してのイエス様の言葉だということです。「やめさせてはならない」ということと、「逆らわないものは味方だ」と言いながら、「どんなものであれ、キリストの弟子だという理由で大切にしなさい」という流れになったのです。
3,振り返り
今日の聖書を読んで、私たちは自分の生き方をどのように振り返るべきでしょうか?私は、正直に言うと、今年は今までの愛の勧めという要素を強調しすぎていた受け取り方からすると、ずいぶん違う神の声を聞いた気がしました。
一般論としての愛の勧めではなくて、キリストに従うものを大切にすること、たとえそれがどんなまがい品のような出来事であっても、キリストの名によってされていることならば大切にしなさい、と明確に聞こえてくるからです。そこで、「その人に、その理由で、たった一杯の水でも飲ませるならば」という話につながったのでした。
これは、今日の聖書の旧約の聖書の言葉からも実は明確です。モーセの時代に、神はモーセに与えた霊を少しとってほかの者にも分け与えた、という興味深い話が出てきました。それは、不安や不満を持つ人々を教え支えるために、モーセ一人ではなくて他の70人にも預言をし指導をする力を与えたというのです。そのときちょうど神の天幕にいなかった二人の人にも神の霊が降ったのを見て、ヨシュアがモーセにやめさせるよう言いました。しかし、それをモーセはやめさせず、こういいました。「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」
これらのことを総合して読んでいくと、聞こえてくる神の声があります。ポイントはこの二つということになります。それは実は、今日の集いの祈りからも明確に聞こえてくるのです。今日は二つの祈りが決められています。
1)一つは、「あなたの霊を分け与え、御名を証しできるように」という祈りです。
2)もう一つは、今日祈らなかった文章を紹介しましょう。「愛(あい)なる神(かみ)さま。あなたは一(ひと)人(り)の滅(ほろ)びをもお望(のぞ)みではありません。私(わたし)たちが、互(たが)いに支(ささ)え合(あ)い、ゆるし合(あ)いながら、御(み)心(こころ)にかなう群(む)れでありますように助(たす)けてください。」とあります。つまり、ねたみや嫉みや、競争や分裂ではなく、互いに愛し合い、ゆるしあいながら、御心に適う群れになることを、祈ることになっています。
これはまさに、私たちの教会の在り方への使信、私たちのクリスチャンとしての生き方への勧めでもあります。
4,勧め
一般的な勧めとして、神にある愛の行いの勧めとして聞いてもいいでしょう。困った人がいたら、一杯の水でも差しだす、そんな愛の勇気をいただき、生きていきましょう。
そして、本来的には、神の名によって、神のために働くクリスチャン同士、どんな小さな人でも、大切にして、一つの群れとして、教会が大きく成長していく、そんな生き方をしていきましょう。
個人の生き方、そして、今の社会を生きる中で格闘もしながら将来を考えていくべき、教会の在り方、そこでも私たち一人一人の生き方も、教えられているのでした。さあ、いっしょに神様の道を生きていきましょう。教会の中の誰も、おろそかにされてはなりません。そして、教会の外の誰も、おろそかにされてはなりません。
そんなキリストにある小さな人を大切にすることの意味の大きさを、いっしょに生きていきましょう。教会内にある愛の一致と、教会の外に向けての愛の奉仕と伝道、そこに私たちは招かれ、押し出されて行きましょう。
牧師コラム 「一杯の水」の映画!
今日の聖書を読んで一週間、祈り考えながら過ごしました。今日の説教を書き上げる結論に導かれる中で、思い出した映画のシーンがありました。
見ず知らずの人から一杯の水をもらって、死にそうだった自分が、命をつないでいった出来事。そしてやがて、自分が不遇な生活から脱出した時に出会った死にそうになっている人に一杯の水を差しだしたときに、その人はなんと、かつて自分に一杯の水を差しだしてくれた人だったと気づかされるのです。そしてその人は、十字架にかかりに行く、鞭うたれ転びながら歩いているキリストだと気づいていくのでした。
そう、1959年の「ベン・ハー」という有名な映画ですね。もちろん聖書の物語ではなくて、あの時代の出来事と重ねながら壮大なスケールで描いたフィクションです。しかし、とても大切な気づきを与えてくれる映画です。
こどものころ、母に勧められて兄と3人でTVで見たこの映画を思い出しました。もう一度見てみたいですね。どうですか?教会で一緒に見ましょうか?