2024年9月29日日曜日

礼拝メッセージ 20240929

猛暑が続いたこの夏、9月の終わりでもまだ続いています。連日ニュースでは、「適切に冷房を使って、水を飲みましょう」と言われ続けました。「一杯の水」の大切さを連呼された形ですが、今日の聖書もそれを言っています。でも少し違った意味で。どんなこと?一緒に学んでいきましょう。今日は高蔵寺教会で礼拝担当をします。Youtubeでも中継します。お待ちしています。 

聖書の言葉 

民数記11: 4~6,10~16,24~29

26宿営に残っていた人が二人あった。一人はエルダド、もう一人はメダドといい、長老の中に加えられていたが、まだ幕屋には出かけていなかった。霊が彼らの上にもとどまり、彼らは宿営で預言状態になった。 27一人の若者がモーセのもとに走って行き、エルダドとメダドが宿営で預言状態になっていると告げた。 28若いころからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアは、「わが主モーセよ、やめさせてください」と言った。 29モーセは彼に言った。「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」


マルコ9:38~50 (新80)

9: 38ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」 39イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。 40わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。 41はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

42「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。 43もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。 44† 45もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。 46† 47もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。 48地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。 49人は皆、火で塩味を付けられる。 50塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」



説教「小ささの 大きさ」徳弘浩隆牧師

1、 「一杯の水」…

一杯の水の話は聖書では有名です。そして、それは、「たとえわずかなことでも人に施しをする、優しい愛のある行いをすることの大切さを説いている」と、一般的に感じていると思います。「だから私たちも、小さなことでも、人にしてあげよう」と思わされますし、キリストの愛の教えと考えられます。

それはとても大切なことで、私たちに愛のある生き方を促してくれます。先月の朝の聖書の学びで、女性会連盟の聖書研究テキストでも学び、とても有意義な学びや振り返り、そして勧めを与えてくれました。もちろんそれは大切なことです。

しかし、今日の聖書は、全体を読んでいくと、そして、伝統的にセットで読まれる旧約聖書を読んでいくと、違ったポイントが聞こえてきます。ちょっと不審に思われるかもしれませんが、一緒に聞いていきましょう。


2,聖書 

聖書のマルコによる福音書の9章41節が有名な言葉です。「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

この言葉に既に、一杯の水を飲ませるということの理由について、限定的に説明されています。それは、「キリストの弟子だという理由で」ということです。ここには、「私があなたたちを愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」という「愛の勧め」はありません。

もう一つは、このことばを語られたいきさつが大切です。それは、弟子のヨハネが「イエス様の名前を使って悪霊を追い出しているものがいたので、やめさせようとした」ということ言うことを報告したことに対してのイエス様の言葉だということです。「やめさせてはならない」ということと、「逆らわないものは味方だ」と言いながら、「どんなものであれ、キリストの弟子だという理由で大切にしなさい」という流れになったのです。


3,振り返り 

今日の聖書を読んで、私たちは自分の生き方をどのように振り返るべきでしょうか?私は、正直に言うと、今年は今までの愛の勧めという要素を強調しすぎていた受け取り方からすると、ずいぶん違う神の声を聞いた気がしました。

一般論としての愛の勧めではなくて、キリストに従うものを大切にすること、たとえそれがどんなまがい品のような出来事であっても、キリストの名によってされていることならば大切にしなさい、と明確に聞こえてくるからです。そこで、「その人に、その理由で、たった一杯の水でも飲ませるならば」という話につながったのでした。

これは、今日の聖書の旧約の聖書の言葉からも実は明確です。モーセの時代に、神はモーセに与えた霊を少しとってほかの者にも分け与えた、という興味深い話が出てきました。それは、不安や不満を持つ人々を教え支えるために、モーセ一人ではなくて他の70人にも預言をし指導をする力を与えたというのです。そのときちょうど神の天幕にいなかった二人の人にも神の霊が降ったのを見て、ヨシュアがモーセにやめさせるよう言いました。しかし、それをモーセはやめさせず、こういいました。「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」

これらのことを総合して読んでいくと、聞こえてくる神の声があります。ポイントはこの二つということになります。それは実は、今日の集いの祈りからも明確に聞こえてくるのです。今日は二つの祈りが決められています。

1)一つは、「あなたの霊を分け与え、御名を証しできるように」という祈りです。

2)もう一つは、今日祈らなかった文章を紹介しましょう。「愛(あい)なる神(かみ)さま。あなたは一(ひと)人(り)の滅(ほろ)びをもお望(のぞ)みではありません。私(わたし)たちが、互(たが)いに支(ささ)え合(あ)い、ゆるし合(あ)いながら、御(み)心(こころ)にかなう群(む)れでありますように助(たす)けてください。」とあります。つまり、ねたみや嫉みや、競争や分裂ではなく、互いに愛し合い、ゆるしあいながら、御心に適う群れになることを、祈ることになっています。

これはまさに、私たちの教会の在り方への使信、私たちのクリスチャンとしての生き方への勧めでもあります。


4,勧め 

一般的な勧めとして、神にある愛の行いの勧めとして聞いてもいいでしょう。困った人がいたら、一杯の水でも差しだす、そんな愛の勇気をいただき、生きていきましょう。

そして、本来的には、神の名によって、神のために働くクリスチャン同士、どんな小さな人でも、大切にして、一つの群れとして、教会が大きく成長していく、そんな生き方をしていきましょう。

個人の生き方、そして、今の社会を生きる中で格闘もしながら将来を考えていくべき、教会の在り方、そこでも私たち一人一人の生き方も、教えられているのでした。さあ、いっしょに神様の道を生きていきましょう。教会の中の誰も、おろそかにされてはなりません。そして、教会の外の誰も、おろそかにされてはなりません。

そんなキリストにある小さな人を大切にすることの意味の大きさを、いっしょに生きていきましょう。教会内にある愛の一致と、教会の外に向けての愛の奉仕と伝道、そこに私たちは招かれ、押し出されて行きましょう。


 牧師コラム 「一杯の水」の映画!

今日の聖書を読んで一週間、祈り考えながら過ごしました。今日の説教を書き上げる結論に導かれる中で、思い出した映画のシーンがありました。

見ず知らずの人から一杯の水をもらって、死にそうだった自分が、命をつないでいった出来事。そしてやがて、自分が不遇な生活から脱出した時に出会った死にそうになっている人に一杯の水を差しだしたときに、その人はなんと、かつて自分に一杯の水を差しだしてくれた人だったと気づかされるのです。そしてその人は、十字架にかかりに行く、鞭うたれ転びながら歩いているキリストだと気づいていくのでした。

そう、1959年の「ベン・ハー」という有名な映画ですね。もちろん聖書の物語ではなくて、あの時代の出来事と重ねながら壮大なスケールで描いたフィクションです。しかし、とても大切な気づきを与えてくれる映画です。


こどものころ、母に勧められて兄と3人でTVで見たこの映画を思い出しました。もう一度見てみたいですね。どうですか?教会で一緒に見ましょうか?


2024年9月1日日曜日

礼拝メッセージ 20240901

 台風の行き先を見つめ、その迷走ぶりに振り回され、多くの方の被害もあり心も痛め、心配の一週間でしたね。皆様はご無事にお過ごしですか?担当している3つの教会の役員の方々とそれぞれ連絡を取り合い、愛知県の構造時と復活の2教会は安全を確認して集まる礼拝をすることにし、静岡の浜名教会は集まる形の礼拝はお休みにしました。まだ警報が出ているからです。でもまだまだ、心配ですね。祈り、必要があれば助け合うなど対応をしましょう。そう、今日は防災の日でもありますね。今日も聖書を一緒に読んで、神様の声を聴きましょう。高蔵寺教会で礼拝担当をして、YouTubeでの中継も致します。今日も安全に元気に過ごしましょう。


聖書の言葉 マルコ7: 1~8, 14~15, 21~23 (新74)

7: 1ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。 2そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。 3――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、 4また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。―― 5そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」 6イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。

『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。7人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』 8あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」

14それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。 15外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」 21中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、 22姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、 23これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」」


説教「口は心の門、出口か入口か?」徳弘浩隆牧師

1、 出口と入口…

今から12年ほど前でしょうか、ブラジルに行って3年たった時に初めて一時帰国しました。その時、サンパウロの教会を助け支えてくれていた一人の日系二世の方も一緒に来られました。私より一回り年上の彼女は日本語はだいぶ上手になりましたが、漢字の読み書きは大変苦手でした。妻と3人で各地の教会にも呼んでいただき、報告会や交流会もしていただきました。北海道から九州までいろんなところを一緒に旅をし、教会も訪ね、少しの観光もしました。そんな彼女がある日こう言いました。「出口さんっていう人、結構多いんですね」。「えっ?」と不思議に思い、一緒に見たお店にある表札には「出口」と書かれているのを見て、慌てて説明し、3人で大笑いしたことがあります。彼女はブラジルの日系人の友達で、「出口さん」という人がいて、漢字も覚えていたのですが、日本の街を歩くときにいくつもそれを見たというのでした。

もうみなさんお分かりの通り、彼女が見た「出口」という「表札」のほとんどは、「表札」ではなくて、「入口」「出口」のように表示しているものだったのです。もちろん、本当の表札もあったと思います。「出口」さんという名前は結構おられるそうですしね。調べると、伊勢神宮の関係のお仕事の人に与えられた苗字が多いそうです。

今日の聖書は、「手を洗う」かどうかということが論争になり、そこから「口」から入るものと出るもの、というキリストの言葉が語られています。口の入り口としての働きか、出口としての働きか、なにが神様や人との間で大切かという話になっていきます。 聖書から今日の言葉を、聞いていきましょう。

2,聖書 

聖書はしばらく「生ける神のパンとしてのキリスト」にかかわる話が続き、ひと段落したと思いますが、きょうも食べ物の話でもあります。

ファリサイ派の人々はイエス様の話やなさることに感心していて、エルサレムからわざわざ様子を見に来ていました。しかし、その弟子たちの生きざまにつまずき、批判的になり、イエス様に尋ねました。「あなたの弟子たちは食事の前に手を洗っていないのはなぜですか?」と。それに対してイエス様は、「確かにその通りだ。もっと衛生管理や行儀のよさを教えることにしよう」と素直にお答えになりませんでした。むしろ、旧約聖書の言葉を引いてきて、反論しました。イザヤ書の29章13節にこうあると。「口先では神を敬うが、心は離れている。」という趣旨で、ファリサイ派や律法学者に対して、神の掟を捨てて人間の言い伝えを固く守っていると、批判されたのです。

 そして、こう結論付けます。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」と。

3,振り返り 

この聖書の話をどう私たちは読むべきでしょうか?下手をすると、弟子や子供のぶしつけを批判されて、逆切れしている人に見えなくもありません。イエス様は、なぜそんな風に反論され、相手を批判したのでしょうか?そこが大切なところです。

手を洗わないで食事をするというのは、食前に手を洗うという今の私たちの衛生上の問題を指しているのではありません。ユダヤ教でいう、「神が汚れていないから食べてよい」と許された食物を、神が定める方法で祈り手を清めていただく、という宗教的な掟に沿っていたかどうかということでした。

私が岐阜にいるときに、買い物の行き来の途中で気になっている建物があり、思い切って妻と一緒に訪ねたことがあります。そのあと、皆さんも知っているインドネシアの姉妹もつれて建物の前まで行って、一緒に挨拶もしました。それは、岐阜大学のそばに建てられた綺麗なイスラム教のモスクでした。「誰でも見学できますからお声掛けください」という日本語の掲示もあったので、声かけをして、歓迎して入れてもらい、中を案内していただきました。入口は男性と女性に分かれていて、入ったらすぐに廊下わきに部屋がありました。そこには私たちの見慣れた銭湯の椅子と蛇口のようなものが並んでいました。牧師のような立場のイマームは説明してくれました。「ここで、みんな規定に沿って左右の腕を肘まで、そして手を、それから口や鼻を注ぎます。そのあと、礼拝堂に入っていくんですよ」と。そのときの手や腕の回し方の作法も見せて教えてくれました。お祈りの時間や、メッカの方向、そして教えを簡単に説明してくれ、本もいくつかくださり、感謝してお別れしました。とても良い勉強と交流でしたもちろん、「教会の牧師ですが、入ってもいいものでしょうか?」と最初に挨拶をして、歓迎してもらいました。

さて、ユダヤ教にもこのような掟があり、歴史の中でそれがさらに細かく規定されていたというのが、今日のイエス様の論争のもとにあったということが大切です。

ファリサイ派や律法学者は、本名人たちでした。この神の掟に、歴史の中でくわえられた細かな規定を知り尽くした律法学者、そしてそれを厳格に守っていて守らない人を小ばかにしていたファリサイ派の人たちだったのです。それに対して、口先で神を敬って人々に重荷を押し付けるよりも、神様の本当の気持ちを説明し、人々を自由にしたのがイエス様だったのです。

厳格すぎる掟や作法や、汚れた食べ物とそうでないものという規定で縛られて、口から入るものを気遣うよりも、口から出るもの、つまり言葉を大切にしなさい、ということです。言葉は人を助けもしますが苦しめもします。愛しもしますが、裁きもします。元気づけ生き返らせもしますが、つき放ち命さえ奪います。

私たちはどんな生き方をしているでしょうか?

4,勧め 

決まりごとはなにもかも放棄して思うように生きたらよいということではありません。決まりごとに縛られ、人を裁き、他者を排除し、対話や交流をせず、自分の考えが何よりも絶対的に正しいと、頑張りすぎるときに、対立や戦争も起こります。何よりも大切なのは、神様の愛と、人の不完全さを認め、神を愛し人を愛する、平和な生き方、それを神様も求め願っておられるということです。

出口と入り口は、別々ではなくて、同じ口の反対方向のものです。私たちの用い方で、生き方は変わります。口は食物の入り口でもありますが、口は心の門でもあります。対話と、愛で、多くの人々ともに平和に生きていく社会を作っていきましょう。


礼拝メッセージ 20241117

季節の変わり目、最近分かりにくくなりましたね。心も体も準備も追いつかず、風邪をひいてしまいました。ようやく治りかけと思いましたがぶり返し?のようにもなり、これは2周目?という状態です。時代の変わり目、そして世の終わり?そんなものを見極めるには、どうしたらいいでしょうか?聖書は「世...