金曜日はお手伝いしている幼稚園の「夏のゆうすずみかい」には120人ほどのこどもたちが来てくれて教職員の方に大感謝。土曜日は高蔵寺教会のCS(子どもの礼拝)の一日キャンプで「武器を捨てて平和を作る」ことを一緒に学び、ゲームやスイカ割りで楽しみました。スタッフの皆さんに助けられながら忙しい充実した日々を過ごせて感謝です。さて日曜日は名古屋の復活教会で礼拝担当、高蔵寺教会では私より祈りと熱のこもった信徒の方が私の説教原稿を代読して礼拝を持ってくれます。YouTubeの中継もします。どうぞ、教会へおいでください。
今週の聖書の言葉
ヨハネ6:56~69 (新176)
6: 56わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。 57生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。 58これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」 59これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。
60ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」 61イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。 62それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。 63命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。 64しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。 65そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
66このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。 67そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。 68シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。 69あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
説教「QUO VADIS? 主よどこへ?」 徳弘浩隆牧師
1、 パンの話も今日で一区切り…
暫くパンの話が続きました。来週からマルコの福音書に戻るので、今日で一区切りと言えるかもしれません。
先週は、旧約聖書の箴言の言葉も選ばれていましたから、そこで「知恵」とたとえられた神の言葉からの呼びかけを通して、イエス様のパンの話を聞きました。
つまり、「私のパンを食べなさい」というのは、旧約聖書の言葉を意識しながら、その続き、いや完成形としてのイエスキリストに従って生きていくことを呼びかけていました。そしてそれは、今の教会では、説教と聖礼典という二つの形として継承されているといえます。ルターは、聖礼典、特に洗礼と聖餐を「見える言葉」として説明し、聖書の朗読と説教を「見えない言葉」として説明しました。
このように「霊の糧」としての食べ物と、私たちが生物として生きていくうえで必要な食事を「肉の糧」と言ったりもします。イエス様は霊の食べ物を言われたのです。
これを食べるものは、かつての天から降ったマナや、普通に食べるパンとは違って、永遠に生きることができると説明されました。つまり神様との本来の関係の中に立ち戻り、とどまり続けることができると言われ、呼びかけられたのです。
今日はその続きで、これを聞いた弟子たちの中で不安と不信が生まれます。弟子たちはどうなっていったのでしょうか?聖書から今日の言葉を、聞いていきましょう。
2,聖書
今日の福音書とともに選ばれて私たちに告げられているのは、旧約聖書からはヨシュア記です。それと重ねて読むときに、今日の福音書のポイントが、そしてイエス様の呼びかけが本当の意味で聞こえてくることになります。
ヨシュアはモーセの後継者で、出エジプトをしたユダの人々を導いてモーセがなせなかったカナンへの帰還を果たします。それを目前にして全部族を集め、ユダの人々に問いかけています。「私たちを解放してエジプトの地から救い出してくれた主なる神に従いなさい。もしそれを願わないなら、一緒に渡ってきた川の向こう側や今滞在しているこの地の異教の神々に従うか、今日自分で選びなさい」と。
そして今日の福音書のイエス様と弟子たちの出来事は、それを思い出させる出来事が起こっているのです。イエス様が命のパンの話をしても理解できず、「実にひどい話だ。誰がこんな話を聞いていられようか」と弟子たちはつぶやきだしたのです。これは群衆ではなくて、弟子たちと書かれてありますから、ある程度覚悟を決めてイエス様にしたがっていた人々の事です。その結果、「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスとともに歩まなくなった」と言われる事態になりました。
そこで、イエス様は残った12人に尋ねます。「あなたがたも離れていきたいか」と。しかし、ペトロは力強く答えました。「主よ、私たちは誰のところへ行きましょうか」と。「あなたは永遠の命の言葉を持った神の聖者であると信じ、知っています」と信仰を告白するのでした。
3,振り返り
私たちも今日、神の問いかけを聞いています。
ヨシュアがユダの民に、「本当の神様に従って生きていくか、ほかの何かを頼りにして生きていくのか、今日、自分で、選びなさい」と。
そしてイエス様の時もそうでした。神様の言葉やご計画が理解できずに、大勢の人が離れ去った後、「あなたがたも離れていきたいか?」と。
私たちの信仰生活も、神様の計画や神様の「時」が理解できないこともあります。一生懸命祈って努力していても、願いがかなわないこともあります。問題や、病気や、人との関係、教会の中でさえさざ波が立って自分の信仰に自信が持てなくなる時もあるでしょう。
そんなとき、今日の言葉を思い出しましょう。「神と神でないものの、どちらにつくのですか?」「人々は去ったけれど、あなたも去りたいのか?」と。
そんなとき、ペトロのように立派な信仰を持ちたいものだと思わされます。しかし、それが結論ではありません。そののちのペトロのことも私達は知っているからです。彼は、イエス様が逮捕されていったとき、「私はあの人の仲間ではない」と言ってキリストの弟子であったことを三度も否定するのでした。
そして、どうしても思い出すのが今日の説教題です。これは、キリスト教会の中の伝説ともいえることで聖書には記されていませんが、「主よ、どこに行かれるのですか?」とペトロがイエス様に問いかける言葉です。この言葉のラテン語、「クオ・バディス」という映画も昔あったので、覚えておられる方もおられるでしょう。
ペトロがローマで宣教をしていた時、迫害が激しくなり、彼はローマから逃げ去ろうとします。しかしその道で何とイエス様に出会うのです。ペトロはとっさに問いかけたのです。すると、「あなたが逃げようとするから、私はもう一度十字架にかかるために、あのローマに行くのだ」と。その伝説の場所がローマのアッピア街道沿いにあり、今そこに小さな教会が建てられています。
4,勧め
悔い改めて神に立ち返り、信じても、心を決めても、続かないのが私たち罪びとです。人を赦し、和解し、愛しても、続かないのが私達です。しかし、そんな私たちのために、十字架にかかってくれたのがイエス様です。
「あなたも去るのか?」と聞かれ、「そんなことはありません」、と答えたペトロでしたが、自分が窮地に立つときに逃げ出し、出くわしたイエス様に「どこへ行かれるのですか?」と逆に問いかけることになってしまいました。
しかし、そんな弱い私たちをよく知っているのもイエス様です。決断を迫る神は厳しい方ですが、弱くて倒れ逃げ出すものをも赦し、何度でも、現れ、寄り添い、代わりに苦しみを背負ってくださり、守ってくださる方だという事を、今日学んでいきたいと思います。
神様に信頼して一緒に生きていきましょう。