2024年7月28日日曜日

説教メッセージ 20240728

 昨日は暑い中、高蔵寺教会に集まって、みんなで素敵なハープの音色を聞きました。ひょんな出会いから、プロの先生をお呼びして、教会学校のこどもたちに、そして大人のみんなや知り合いにも声をおかけしての集会にしました。教会ではいろんな自主グループもできて、音楽クラブや、刺繍クラブやほかにもいろいろアイデアもあります。一緒にいろんなことを楽しみませんか?出会いや、新しいこと、好きなことに熱中することは、元気に楽しく生きるコツかもしれません。教会を利用してください。明日は名古屋の復活教会で説教担当です。YouTUbe中継もあります。お待ちしています!

聖書の言葉 ヨハネ 6: 1~21 (新174)

6: 1その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。 2大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。 3イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。 4ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。 5イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、 6こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。 7フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。 8弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。 9「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」 10イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。 11さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。 12人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。 13集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。 14そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。 15イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。/以下省略/



説教「パンの増える奇蹟の意味すること」徳弘浩隆牧師

1、食事が足りないと困るから…

お客さんを呼んで会食をするときに、気にするのはメニューですね。集まる人の好き嫌いを考えて、今はアレルギーもありますから気を使います。宗教の違いもあると、食べてはいけないとされる物があり尊重せねばなりません。さて、メニューが決まって次に気にするのは、量かもしれません。足りないと迷惑をかけるし格好も悪いし、でも余り過ぎてももったいないし今ではフードロスなんて言う事も気にしなければなりません。

文化や風習が違うと、出されたものをどの順に食べるか、全部食べたほうがいいか残した方がいいかなど、気を遣う事もあります。先日一緒に食事をしたシリア人の青年もイスラム教ですから「アルコールや豚肉はダメだよねぇ」と確認し、お土産をあげたら逆に「日本は今あけてもいいんだっけ?」と聞かれたりします。

ブラジルで気が楽になったのは、こういう文化の違いでもありました。プレゼントはすぐに開けて喜んだ方がいいし、あげた方も「つまらないものですが」とかいわずに、堂々と勧めて、喜ばれたら恐縮せずに一緒に喜ぶという事でした。食事も「足りなくて困るかもしれないけど」と心配はせず、予定外の人が来ても食事に誘います。「足りないと迷惑でしょ」というと、こんな返事をして一緒に笑って、遠慮を吹き飛ばします。「足りなかったら水を入れて増やすから心配ないよ!」と何度も言われました。カレーライスのようなフェジョアーダという豆を煮こんだ料理は確かに、水を入れて少し味の調整をしたら結構増やせるような感じでした。

今日の聖書は有名な「5000人の給食」とよく言われるところです。パン5つと魚2匹だけしかないのに、5000人が満腹したという奇跡です。イエス様は何をされたのでしょうか。水を入れて増やしたのでしょうか?この「奇蹟」は私たちの人生に何を意味するでしょうか。一緒に聖書を見ていきましょう。

2,聖書 

今年はマルコの福音書を読んできましたが、ヨハネの福音書にしばらく変わります。そして、パンの話が続きます。今日はその一回目で、パンが増えたのです。

大勢の群衆がイエス様を追い、集まりました。イエス様の病人たちをいやした奇蹟を見たからだという事です。大勢の群衆が来るのを見て、弟子に聞きます。試みるためだったとありますが、弟子のフィリポの信仰を試そうとされたのでしょう。「どこでパンを買おうか」と。するとフィリポは「大金があっても到底足りないでしょう」と言います。アンデレはパン5つと魚2匹を持った少年のことを伝えました。でもそれは解決策ではなくて、「たったこれだけしかないので、到底役に立たないでしょう」というためでした。

しかし、イエス様は人々を座らせ、パンをとり、感謝の祈りを唱えてから、分け与えました。魚も同じようにしました。すると、5000人の群衆は満腹したのです。

3,振り返り 

さて、今日の聖書から何を私たちは学びましょう。

どうしてパンが増えたのかと、不信仰で現実的なことを考える人は、私を含めて、色々な方法や理由を考えて信仰と現実を一致させようとします。

しかし今日の聖書が問いかけているのは、その問いではなくて、フィリポに問いかけたイエス様の問いです。「これだけの群衆がいるけれど、どこでパンを買おうか?」という試みの問いかけです。答えはこうでした。どこで買おうかという問いにではなく、そもそも、「足りないでしょう」という決めつけでした。そこに気を利かせたアンデレが口をはさみますが、「少しの食糧があるけれど到底足りないでしょう」といいう決めつけでした。

これらは極めて現実的で正しい判断でしょう。しかし、それを大きく上回っているのが、神様のご計画であり、神様の恵みや愛だという事を、見せつけられることになります。それが今日の福音のポイントです。

実はこれはイエス様の十字架をも指し示していると考えてもいいでしょう。最後の晩餐、つまりその後の聖餐式を思い出す言い回しになっているからです。「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから」弟子たちに分け与えたのです。また、「盃をも同じようにして」ではありませんが、「魚も同じように」されました。わざわざ今日の状況説明で言われていた「過ぎ越し祭が近づいていた」という言葉も、最後の晩餐、あるいはその後の聖餐式への流れを思い起こす出来事になっています。

イエス様が感謝して人々に分け与えるパン。そして命のパンとして来られた方のこの出来事。また、やがて、過ぎ越し祭に最後の晩餐をして十字架に向かわれるイエス様。その過ぎ越し祭は、ユダヤの民を救い出すために、子羊を犠牲にしてその血を戸口に塗った家だけを天使が過ぎ越していったあの出エジプトのことを上書きするかのような、キリストの十字架の出来事へと重なっていく神様の救いの計画でした。イエス様はそのために来られた、十字架を見上げさせられもする奇蹟・つまり「しるし」と呼んでいくことが大切です。

4,勧め 

さて、納得して終わりたいところですが、一つ腑に落ちないことが私にはありました。何か違うのです。どう思われますか?

出エジプトをして、荒れ野をさまよう旅で、彼らも同じように不思議な方法で食事を得て飢えることはありませんでした。マナとウズラの出来事です。これを毎日降らせ、生じさせ、空腹は満たされました。しかし、今日のイエス様の出来事は、その時の、また、いつもの神様のやり方とは違うんじゃないか?と思わされます。それは、マナを欲張ってたくさん集めても翌日はダメになっていたという事です。残ったものをたくさん集めてもダメだったのに、今日はどうして12カゴもパンが余ったのか?というところが、「いつもと違うぞ」と思わされるところです。

私たちも、体験します。「困って困って神様に一生懸命祈ったら、神様は与えてくださいました。しかし、ちょうどいいくらいの量で、余るほどはありませんでした。でもそれが神様のなさることなんでしょうね」という体験をしたり、証を聞いたりします。その神様が、です。どうして今日は余っているのでしょうか?水加減を間違えたのでしょうか?

実はそれが、今日の私たちへの勧めです。12かご余ったそのかごは、イエス様を受け入れない12部族のユダヤ民族を表しています。そしてそれはやがて、全ての人のための救いの出来事に広がっていきます。今日ここにいない人のため。そのうち、ここに集められてくる人のため。そのために、今回は、たくさん余るという出来事になっているのでしょう。

わたしたちも、神様の恵みや、肩の荷を下ろして無理せず生きれるようになったこの安心を、まだここに集められていない人のために、有り余るほどいたただき、預かっているのです。独り占めしてはいけません。与えられたものも、安心や優しさや愛も、わかちあって、一緒に神様と生きていきましょう。

 

牧師コラム・ 肉ソバを頼んだのに

 出張の帰り、やっと昼食をとりました。高速のサービスエリアで簡単にと肉そばを注文。しかし、出てきたのは「肉うどん」!さて、一瞬の間にいろいろ頭をめぐります。


  みんなならどうするかなと、お店で食べながらFacebookに載せてみました。「肉そばを頼んだのに、肉うどんが来た  良い子のあなたはどうする?」

1、そのまま感謝して食べる

2、カウンターに行って交換してもらう

3、半分まで食べたて気づいたと言って交換してもらう

意外と結構まじめな答えも帰ってきました。「自分の注文を忘れてそのまま食べる」という私と同年代の同僚の高齢者?特有の返事も。あなたはどうですか?

「それで、先生はどうされたんですか?」とも聞かれました。はい、私はこんな悪いことも考えなら、こうでした。

私は、とっさに2、その後3に迷った末、1でした😅 間違えを指摘する律法主義→罪の思いのズルさ→最後は赦しと愛と感謝という形でしたよ。ははは😊。


2024年7月21日日曜日

説教メッセージ 20240721

 全世界を襲った?パソコンのシステム障害。空港で群衆は立ち往生。疲れ、座り込み途方に暮れる姿は気の毒でした。今日の聖書でも、殺到する群衆、疲れ、座り込む姿が描かれています。私はこのニュースを見て、私たちの神様や人との関係を象徴もしていると、考えさせられました。一緒に聖書を見てみませんか?今日は高蔵寺教会で礼拝担当をし、Youtubeでも配信します。猛暑でやむなく教会をお休みする方にもお勧めしています。礼拝後は、青年会と外国人メンバーの夏のワークキャンプについても話し合います。お待ちしています。


聖書の言葉 

マルコ 6:30~34,53~56 (新72)

6: 30さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。 31イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。 32そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。 33ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。 34イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。 

6: 53こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。 54一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、 55その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。 56村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。




説教「飼い主のいない羊、羊のいない飼い主」徳弘浩隆牧師

1、疲れ果て、行列を作る人々

今日の週報やプロジェクターの表紙の画像は、多くの人が集まり、イエス様に会おうとしている挿絵です。イエス様に会おうと、連れてこられた病気の方もいて、こどもを抱えた母親たちの姿もありますが、人々は疲れ果て、座り込む人もいます。

私たちは先週、似た光景を目にしました。TVのニュースで、です。人々は殺到し、行列ができ、子どもたちと一緒に、荷物も抱え、途方に暮れている映像を見ました。それは、世界中で起こっていました。



違うのは、先週見た光景は世界各地の空港。イエス様に会おうという行列ではなくて、カウンターに並ぶ彼らが見つめるのは青い画面のコンピューターだったことです。Facebookでは、彼女が中学生のころから知っている教会のメンバーが、ちょうど旅先のアメリカの空港でこのトラブルに巻き込まれて、乗り換えができず、高いお金を払ってホテルに泊まらないといけないかという嘆きの声でした。お子さん連れの旅行で、気の毒なことでした。状況も時代も全く違いはしますが、何か似たものを感じながら、ニュースを見、また聖書を読む週末でした。一緒に聖書を見ていきましょう。

2,聖書 

マルコの福音書の流れはこうです。イエス様がガリラヤ湖のほとりで説教をし、向こう岸にわたり、また戻ったところで会堂長ヤイロの娘を生き返らせる奇蹟がありました。その後、故郷・つまり、ナザレに行かれて宣教をされました。人々は驚いたけれど受け入れられなかったと伝えられています。それで近くの村を回り宣教をされ、つぎには弟子たちを二人ずつペアにして派遣しました。そして今日は、その弟子たちが帰ってきて、イエス様にすべての出来事を報告をしたというところから始まります。イエス様は「あなたたちだけで、人里離れたところで休むがよい」と成果を喜ばれ、休息をとるように勧めました。忙しすぎて食事をする暇もなかったからだということです。しかし、移動先にも群衆は駆け付け、先回りまでしていました。舟から上がったイエス様は、大勢の群衆を見て深く憐れまれ、いろいろと教えました。

その後、実は5000人に食事を与えられた奇蹟の話がありますが、今日はそれを飛ばして、また船で湖を渡って、ゲネサレトという土地に行きましたが、そこでも多くの人に追いかけられ、人々に教え癒されたという話までになっています。

今日の礼拝では飛ばすことになるパンの奇蹟は、この後来週からしばらく、パンの奇蹟の話が続くことになりますので、今日は飛ばして学ぶことになるのでしょう。

3,振り返り 

さて、今日の聖書から何を私たちは振り返りましょう。

少し引きずられすぎかもしれませんが、私はどうしても、空港で待ちくたびれて、解決せず、行列を作り、座り込み、途方に暮れる、現代の空港にいる群衆のことを忘れることができません。忙しい仕事や楽しみにしていた旅行ができなくなった方々にはお気の毒ですし、買い物や病院でもトラブルとなって、手術や診察や薬が先延ばしになった方もおれら、これはもっと重大なことで気の毒なことでした。

しかし、この姿に、私たちの姿を見せつけられもしました。トラブルの原因は簡単に言うと、コンピューターのシステム障害ですが、それぞれのパソコンが立ち上がらなくなり青い画面とメッセージのみが出ることになり、データーを蓄積しやり取りをするサーバーともつながらなくなったということが原因で起きたことでした。

私たちの姿はどうでしょうか? 一人一人がうまく生きることが出来なくて、それぞれが機能しなくて、青い顔をして立ち止まり座り込むことがあります。互いの連携も取れなくなり、おおもとの大事な方との関係も途絶えているから、何もできない状態に陥ることがあります。それぞれは大きな価値がある一人一人ですがそれが発揮できず、連携した助け合いや、分かち合うこともできません。すべてを制御し多くの知恵や資源がある神様との関係も切れてしまっています。それで、立ち往生し、ぶつかり合い、戦争までするその姿は、史上最大のパソコンのシステムエラーではなくて、人類が神を離れ、人々の関係が切れ、それぞれの人間もその価値を発揮できずにいる姿そのものに見えて仕方ありません。


そこで立ちすくみ、座り込み、行列を作る姿は、「飼い主のいない羊」のようでもあります。そんな私たちに、帰ってくるようにと呼びかけ続けておられるのが旧約から新約まで一貫して待ち続けている神の姿です。私たちが「飼い主のいない羊」のように憐れだと思いますが、実は、神様の方も悲しみに暮れる「羊がいなくなったか羊飼い」でもあるのです。そこに来られたイエスさまと、イエス様が派遣した弟子たちは、休む暇もないほど忙しく働き、教え、癒してくださったということが今日の福音のポイントだと思わされます。

4,勧め 

 私も休む暇もないほど忙しい日を送ることもありますが、まだまだともいえるかもしれません。

先週は実は忙しい週でしたが、友人が訪ねてきてくれました。シリア人の青年でイスラム教徒のまじめな青年です。サンパウロの教会で出会い、教会のゲストルームにしばらく滞在し、教会での交流もし、今でもつながっていました。その後、彼はフランスで難民ビザを取って大学を終了し、短期交換留学で東京大学で勉強中でした。もうすぐフランスに帰国なのでと、名古屋まで会いに来てくれました。 7-8年ぶりに彼と会い、英語にポルトガル語と日本語を少し混ぜながらずいぶん久しぶりに話し込みました。キリスト教とイスラム教の違いはありますが、彼は温厚ですがまじめな信仰の持ち主で、意気投合します。

 「神を大切にし、人々が愛し合う世界、それが神の願いなのに、それを人類は破ってしまった。だから神はその時々に応じて預言者を送った。神のもとに帰り、人と人が愛し合って平和に生きることができるようにと。イエスさまも偉大な預言者で、私たちも尊敬している。彼がメシアで最後の審判で再度来られるのも信じて待っている。」と力説します。もちろんイスラムの人ですから、こうも言います。「ムハンマドがそれ以降の最後の預言者だし、パウロがキリスト教を神学的に組織化して教会を形成していく中で、神の教えから少しそれたところがあるんじゃないかと自分は思っているんだけれど」と。

 神学的な宗教論争はせずに、彼の神様と自分たちの関係の見方や生き方は、本当に尊敬し互いに理解しあえることが大きいと思わされます。イスラムのイマーンになって一緒に仕事をしないかと言ったくらいです。そういえば、サンパウロで彼からポルトガル語版の簡略版クルアーン(コーラン)ももらいました。

私たちはイエス様を通して教えられた神様の出来事をもっと学び、神様との正しい関係、人々の間の正しい関係に戻っていきたいと、思わされます。もっと一緒に聖書を学び、他宗教や歴史も学び、自分の中に正義と平和が訪れ、世界の人と平和に生きていけるように歩みましょう。

 



牧師コラム・ 急に訪ねてきた友と神様の話

  Facebookのメッセンジャーでブラジルの教会員のご婦人からメッセージがありました。「先生、〇×〇×が先生に会いに行くと言っています。よろしくお願いします。」と。前後して、〇×〇×からも英語でメッセージがありました。「先生、来週名古屋に行きます。時間があったら会えたらとてもうれしいです。東京に来ていましたが、大学が忙しくてどこにも旅行できませんでした。」と。忙しいけれど懐かしい友人からの連絡だったので、すぐにOKしました。彼の勘違いで少し日程がずれて高蔵寺訪問は無理でしたが、無事会いました。夜行バスで名古屋まで来た彼と朝会い、徳川園と復活教会を案内。近所の喫茶店でモーニングを食べながらおしゃべり。昼食は和食をと、ちょっと奮発して、カニのおいしいお店でランチ。北海道もたぶん行けないというので。

  そして、私が関わっている幼稚園の先生に相談して、夜は一泊保育の花火に飛び入り参加で招待しました。今月の幼稚園の聖書の言葉は「隣人を愛しなさい」ですから、子どもたちにも、先生の大切のお友達を紹介します」といって、「みんなは初めて会う人だけとコワくないよ、仲良くしてね」とお話ししました。何人も花火をしながら声をかけてくれ、日本語でおしゃべり。彼は留学中で日本語も少しわかります。片付けも手伝ってもらった彼に、「もう帰るの?またね!」とあいさつしてくれました。神様と人を愛する一歩でした。


2024年7月14日日曜日

説教メッセージ 20240714

 九州から名古屋に戻った翌日に浜松、そして名古屋から浜名、その後名古屋に帰宅という忙しい週でした。でも、健康も何とか守られて感謝します。暑い日が続きますね。熱中症対策をして、休みながら、元気にすごしましょう。「暑い季節は怪談」というのが定番でしたが、最近はどうでしょう?死んだ人が出てきてコワい!という事ですが、なんだか似た話が今日の聖書に出てきます。一緒に読んでみませんか?礼拝は今日は名古屋の復活教会で担当します。高蔵寺教会では代読をしてくださり、浜名教会ではYouTube中継でメッセージを聞いて礼拝をしてくださいます。良い日曜日になりますように!

 

聖書の言葉 マルコ 6:14~29 (新71)

6: 14イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」 15そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。 16ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。 17実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。 18ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。 19そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。 20なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。 21ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、 22ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、 23更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。 24少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。 25早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。 26王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。 27そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、 28盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。 29ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。



説教「神様の言う平和とは」 徳弘浩隆牧師

1、夏は幽霊屋敷の季節?

毎日が、暑くなってきました。熱中症にも気を付けなければなりません。「暑いときは、外出を控えて、水分をとり、家でもエアコンを適切に使いましょう」とニュースでも何度も呼びかけられています。

しかし、エアコンが一般的ではなかったころは、暑いときは涼しくなるようにと、夏は幽霊の怖い話、つまり怪談が語られたりもしました。夏の映画やTV番組は会談が定番でした。背筋が凍る、ヒヤッとする話という事でした。そして、たいていその場合、死んだ人が生き返る?という話が出てきました。惜しまれた人が生き返ってうれしいというハッピーエンドではなくて、恨みや苦しみ、殺された人が、「化けて出る」というのが定番でした。

今日の聖書は、そんな話でもあるかもしれません。洗礼者ヨハネの物語が説明されています。その死と生き返ったかという噂は何を意味していたのでしょうか?そして、やがて彼らが目にするイエスキリストの死と復活と、どんな違いがあるのでしょうか?一緒に聖書を見ていきましょう。

2,聖書 

マルコには「ヘロデ王」と書かれていますが、これは、ヘロデ大王ではなくてその子供の一人でその領地を分割統治することになるヘロデ・アンティパストいう領主のことだと考えられています。彼は、イエス様の活躍されたときのガリラヤやヨルダン川を挟んだ東側のペレアの領主でした。後にイエス様が十字架にかかる前に捕らえられた時に、ちょうどエルサレムに来ていたこのヘロデに尋問されることになると、出てきます。

このヘロデは、洗礼者ヨハネを捉えて処刑してしまいますが、後にイエス様が十字架にかけられる前に、このイエスという男の出身地ガリラヤの領主だという事でそこに送りつけられ、イエス様を尋問するということになり、ヨハネとイエス様両方の生死にかかわってしまう事になったのです。

今日の福音書は、イエス様が登場しません。その奇跡やみ言葉もありません。ここからどんな神の声を聴こうかと、悩み苦しむところですが、このヘロデの心の内を覗き込みながら、私たちの生き方への神様の声を聴いていきたいと思います。

ルカの福音書では、弟子たちを派遣した後で、彼らが帰ってくるまでの間に、この話が挿入されています。故郷では受け入れられなかったイエス様ですが、その地の領主ヘロデのもとにもそのうわさが聞こえ、彼が恐ろしくなったという事です。

どうしてヘロデはそれを恐れたのでしょうか?それは、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と思ったからです。まるで日本の怪談噺の定番のようです。殺してしまう前に彼はヨハネのことをこう思っていました。「ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた」のです。自分の罪を指摘され、身を守るためにヨハネを捉えていましたが、ヨハネの正しさに気づき、気にしていたのです。しかし、ヨハネを恨んでいた妻へロディアの策略で、後に引くことができなくなり、ヨハネを殺してしまいました。ヘロデの心は、ヨハネの正しさを理解し魅かれながらも、ヨハネの正しさゆえに責められる自分の罪や不正からくる恐れのはざまで苦しんでいたのでしょう。結果的にそのヨハネを亡き者にしてしまったので、恐れは無くなりました。「しかし」です。イエス様の活躍の話を聞き、あのヨハネが生き返ったのかと、もっと恐ろしくなったのでした。今日の聖書は、そのようにヘロデが思い、恐ろしくなった理由として、彼がヨハネを殺してしまった話が説明として語られています。ですから、その殺された出来事ではなくて、それを思い出して、さいなまれるヘロデの心を見つめることが大切かと思わされます。

3,振り返り 

今日の聖書から何を私たちは振り返りましょう。このヘロデが、目の前の問題を解決して一度は心に平和を得たけれども、実はそれは本当の解決ではなかったということです。正しいことをいう人で惹かれてもいるけれども、その正しさは自分の罪深さをも指摘するので邪魔でもある。そこでその人を排除したけれども、本当の解決ではなくて、自分の罪深さをさらに際立たせ、イエス様の姿にヨハネの残像を見、今まで以上に恐ろしくなるという状態でした。

私たちの生き方はどうでしょうか?神の声を聴き、神を愛し人を愛すようにという正しい生き方を知りましたが、そうできていない自分もいます。神の正しい声をかき消してしまえば一時的な心の平和はありますが、それは長続きする本当の平和ではありません。

殺すべきは正しいことを言う預言者でも、イエスさまでも無くて、自分の心にある罪の心だという事を考えさせられます。しかし、わかっていてもそうできない罪人の私達です。そのために、イエス様は十字架に代わりにかかり死んでくださいました。

私たちも、この方の十字架とともに、今までの罪深い心を十字架にかけて滅ぼしてしまうのです。そして、よみがえれらたイエス様とともに、悔い改めと本当の生き方を知り、新しく生きることを始めさせていただくのが、洗礼を受けてキリスト者として生きていくという事になります。

4,勧め 

 洗礼者ヨハネを殺し、イエス様を尋問し追い返したヘロデは、私たちの姿かもしれません。正しさに気づき、魅かれながらも、そのように生ききれない自分の姿かもしれません。

今日の詩篇の言葉はこう告げます。詩編85編9節です。「わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます。御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に彼らが愚かなふるまいに戻らないように。」

愚かな振る舞いに戻らないように、神様の宣言される本当の平和の中を生きていきましょう。安心と、平安が待っています。そんな一緒に教会生活をしていきましょう。

 

牧師コラム・ 猛暑対策、スマホで自宅礼拝!

  教会でも、猛暑対策で夏の聖書研究会を8月はお休みにしたりします。礼拝にも多くの方に集まっていただきたいところですが、無理をしてもいけません。

  暑い中、電車やバスを乗り継いで教会に来るだけでももうぐったりという事も分かります。どうぞ、ご無理されませんように。では礼拝出席はどうしたらいいですか?

コロナ蔓延の時の対策をしていた頃は過ぎ去りましたが、教会に集まれないときのためにと、試行錯誤しました。そのころから、礼拝を中継して、各自家で礼拝を守れるようにもしました。それから、今では、ご事情があって教会に来られない方や、ご病気で来られない方も、この礼拝中継を見て「礼拝参加」してくださっている方もおられます。また、牧師が担当する教会が増えて、行き来できないときには、この礼拝中継を遠くの教会で活用するという事もしています。司式は現地の教会で信徒の方にしていただき、讃美歌や祈り、聖書朗読を皆でして、ちょうど時間を合わせて、時々少し調整して、牧師の説教のところをスクリーンに映して、メッセージを聞き、その後はまた信徒の方の司式で、献金や教会の祈りへと続けられ、礼拝にあずかることができています。これを猛暑対策でも、各自で、利用してみませんか?週報や教会だよりのQRコードをスマホで開いて、そこから礼拝の中継を自宅のスマホからでも見ていただけるようにしています。ご利用ください。不具合があれば、調整します。見てみてください。



(QRコードは徳弘牧師YouTubeチャンネルです)


説教メッセージ 20250330

聖書の言葉 ルカ15: 1~ 3,11b~32 (新138) 15: 1徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 3そこで、イエスは次のたとえを...