昨日は暑い中、高蔵寺教会に集まって、みんなで素敵なハープの音色を聞きました。ひょんな出会いから、プロの先生をお呼びして、教会学校のこどもたちに、そして大人のみんなや知り合いにも声をおかけしての集会にしました。教会ではいろんな自主グループもできて、音楽クラブや、刺繍クラブやほかにもいろいろアイデアもあります。一緒にいろんなことを楽しみませんか?出会いや、新しいこと、好きなことに熱中することは、元気に楽しく生きるコツかもしれません。教会を利用してください。明日は名古屋の復活教会で説教担当です。YouTUbe中継もあります。お待ちしています!
聖書の言葉 ヨハネ 6: 1~21 (新174)
6: 1その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。 2大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。 3イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。 4ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。 5イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、 6こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。 7フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。 8弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。 9「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」 10イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。 11さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。 12人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。 13集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。 14そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。 15イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。/以下省略/
説教「パンの増える奇蹟の意味すること」徳弘浩隆牧師
1、食事が足りないと困るから…
お客さんを呼んで会食をするときに、気にするのはメニューですね。集まる人の好き嫌いを考えて、今はアレルギーもありますから気を使います。宗教の違いもあると、食べてはいけないとされる物があり尊重せねばなりません。さて、メニューが決まって次に気にするのは、量かもしれません。足りないと迷惑をかけるし格好も悪いし、でも余り過ぎてももったいないし今ではフードロスなんて言う事も気にしなければなりません。
文化や風習が違うと、出されたものをどの順に食べるか、全部食べたほうがいいか残した方がいいかなど、気を遣う事もあります。先日一緒に食事をしたシリア人の青年もイスラム教ですから「アルコールや豚肉はダメだよねぇ」と確認し、お土産をあげたら逆に「日本は今あけてもいいんだっけ?」と聞かれたりします。
ブラジルで気が楽になったのは、こういう文化の違いでもありました。プレゼントはすぐに開けて喜んだ方がいいし、あげた方も「つまらないものですが」とかいわずに、堂々と勧めて、喜ばれたら恐縮せずに一緒に喜ぶという事でした。食事も「足りなくて困るかもしれないけど」と心配はせず、予定外の人が来ても食事に誘います。「足りないと迷惑でしょ」というと、こんな返事をして一緒に笑って、遠慮を吹き飛ばします。「足りなかったら水を入れて増やすから心配ないよ!」と何度も言われました。カレーライスのようなフェジョアーダという豆を煮こんだ料理は確かに、水を入れて少し味の調整をしたら結構増やせるような感じでした。
今日の聖書は有名な「5000人の給食」とよく言われるところです。パン5つと魚2匹だけしかないのに、5000人が満腹したという奇跡です。イエス様は何をされたのでしょうか。水を入れて増やしたのでしょうか?この「奇蹟」は私たちの人生に何を意味するでしょうか。一緒に聖書を見ていきましょう。
2,聖書
今年はマルコの福音書を読んできましたが、ヨハネの福音書にしばらく変わります。そして、パンの話が続きます。今日はその一回目で、パンが増えたのです。
大勢の群衆がイエス様を追い、集まりました。イエス様の病人たちをいやした奇蹟を見たからだという事です。大勢の群衆が来るのを見て、弟子に聞きます。試みるためだったとありますが、弟子のフィリポの信仰を試そうとされたのでしょう。「どこでパンを買おうか」と。するとフィリポは「大金があっても到底足りないでしょう」と言います。アンデレはパン5つと魚2匹を持った少年のことを伝えました。でもそれは解決策ではなくて、「たったこれだけしかないので、到底役に立たないでしょう」というためでした。
しかし、イエス様は人々を座らせ、パンをとり、感謝の祈りを唱えてから、分け与えました。魚も同じようにしました。すると、5000人の群衆は満腹したのです。
3,振り返り
さて、今日の聖書から何を私たちは学びましょう。
どうしてパンが増えたのかと、不信仰で現実的なことを考える人は、私を含めて、色々な方法や理由を考えて信仰と現実を一致させようとします。
しかし今日の聖書が問いかけているのは、その問いではなくて、フィリポに問いかけたイエス様の問いです。「これだけの群衆がいるけれど、どこでパンを買おうか?」という試みの問いかけです。答えはこうでした。どこで買おうかという問いにではなく、そもそも、「足りないでしょう」という決めつけでした。そこに気を利かせたアンデレが口をはさみますが、「少しの食糧があるけれど到底足りないでしょう」といいう決めつけでした。
これらは極めて現実的で正しい判断でしょう。しかし、それを大きく上回っているのが、神様のご計画であり、神様の恵みや愛だという事を、見せつけられることになります。それが今日の福音のポイントです。
実はこれはイエス様の十字架をも指し示していると考えてもいいでしょう。最後の晩餐、つまりその後の聖餐式を思い出す言い回しになっているからです。「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから」弟子たちに分け与えたのです。また、「盃をも同じようにして」ではありませんが、「魚も同じように」されました。わざわざ今日の状況説明で言われていた「過ぎ越し祭が近づいていた」という言葉も、最後の晩餐、あるいはその後の聖餐式への流れを思い起こす出来事になっています。
イエス様が感謝して人々に分け与えるパン。そして命のパンとして来られた方のこの出来事。また、やがて、過ぎ越し祭に最後の晩餐をして十字架に向かわれるイエス様。その過ぎ越し祭は、ユダヤの民を救い出すために、子羊を犠牲にしてその血を戸口に塗った家だけを天使が過ぎ越していったあの出エジプトのことを上書きするかのような、キリストの十字架の出来事へと重なっていく神様の救いの計画でした。イエス様はそのために来られた、十字架を見上げさせられもする奇蹟・つまり「しるし」と呼んでいくことが大切です。
4,勧め
さて、納得して終わりたいところですが、一つ腑に落ちないことが私にはありました。何か違うのです。どう思われますか?
出エジプトをして、荒れ野をさまよう旅で、彼らも同じように不思議な方法で食事を得て飢えることはありませんでした。マナとウズラの出来事です。これを毎日降らせ、生じさせ、空腹は満たされました。しかし、今日のイエス様の出来事は、その時の、また、いつもの神様のやり方とは違うんじゃないか?と思わされます。それは、マナを欲張ってたくさん集めても翌日はダメになっていたという事です。残ったものをたくさん集めてもダメだったのに、今日はどうして12カゴもパンが余ったのか?というところが、「いつもと違うぞ」と思わされるところです。
私たちも、体験します。「困って困って神様に一生懸命祈ったら、神様は与えてくださいました。しかし、ちょうどいいくらいの量で、余るほどはありませんでした。でもそれが神様のなさることなんでしょうね」という体験をしたり、証を聞いたりします。その神様が、です。どうして今日は余っているのでしょうか?水加減を間違えたのでしょうか?
実はそれが、今日の私たちへの勧めです。12かご余ったそのかごは、イエス様を受け入れない12部族のユダヤ民族を表しています。そしてそれはやがて、全ての人のための救いの出来事に広がっていきます。今日ここにいない人のため。そのうち、ここに集められてくる人のため。そのために、今回は、たくさん余るという出来事になっているのでしょう。
わたしたちも、神様の恵みや、肩の荷を下ろして無理せず生きれるようになったこの安心を、まだここに集められていない人のために、有り余るほどいたただき、預かっているのです。独り占めしてはいけません。与えられたものも、安心や優しさや愛も、わかちあって、一緒に神様と生きていきましょう。
牧師コラム・ 肉ソバを頼んだのに
出張の帰り、やっと昼食をとりました。高速のサービスエリアで簡単にと肉そばを注文。しかし、出てきたのは「肉うどん」!さて、一瞬の間にいろいろ頭をめぐります。
みんなならどうするかなと、お店で食べながらFacebookに載せてみました。「肉そばを頼んだのに、肉うどんが来た 良い子のあなたはどうする?」
1、そのまま感謝して食べる
2、カウンターに行って交換してもらう
3、半分まで食べたて気づいたと言って交換してもらう
意外と結構まじめな答えも帰ってきました。「自分の注文を忘れてそのまま食べる」という私と同年代の同僚の高齢者?特有の返事も。あなたはどうですか?
「それで、先生はどうされたんですか?」とも聞かれました。はい、私はこんな悪いことも考えなら、こうでした。
私は、とっさに2、その後3に迷った末、1でした😅 間違えを指摘する律法主義→罪の思いのズルさ→最後は赦しと愛と感謝という形でしたよ。ははは😊。