2023年5月27日土曜日

説教メッセージ20230528 ペンテコステ

 人生は何があるかわかりません。でも、頭を抱えるトラブルや困難も、後から考えると、神様の導きだったと感じることもあるかもしれません。そんなことを思い出す週でした。聖霊降臨祭の日、高蔵寺教会で礼拝を担当します。洗礼式もあります。Youtubeでの礼拝中継もFacebookでもお知らせします。おまちしています。


聖書の言葉 

使徒言行録 2: 1~21(新214)

1五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 2突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 3そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 4すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

ヨハネ 7:37~39(新179)

37祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。 38わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」 39イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。



説教 「神の霊、風が吹くとき」徳弘浩隆牧師

1,天に上り、天から降る…

先週はイエスキリストが天に上って行かれた話が聖書から読まれました。そして今日は、約束の通り、別のものが天から降ってきました。それは、聖霊でした。ギリシャ語でペンテコステというユダヤ人のお祭りの日の出来事だったので、この聖霊降臨祭をペンテコステとも言います。

この「ペンテコステ」という言葉は50日目という意味で、もともとユダヤ教のシャブオットというお祭りで、出エジプトの時紅海を渡ってファラオを退けてから50日目にシナイ山に神様が現れたことを記念していましたが、大麦の収穫のお祭りとも重なり、ユダヤ教では、過ぎ越し際、仮庵祭とともに3巡礼祭の一つとされています。

この出エジプトと、モーセを通して神様の掟が与えられ、奴隷のみから解放されて約束の地へと帰っていった出来事と同じ時期に、イエス様の十字架と復活、そして聖霊降臨という出来事がおこりました。これは、旧約聖書を通して人々を導き育て、準備させ、約束されていたメシア(キリスト)による救いが、イエス様のご生涯のこれらの出来事で、上書きされるように起こり、罪と悪の奴隷となっていたすべての人が新しく生まれ変わる道のりを開かれたことになります。

この五十節の日に、何が起こったのでしょうか。そしてそれは、今の私たちにどういう関係と意味があるのでしょうか。

2,聖書

 今日の聖書はこうです。福音書ではヨハネの福音書から、イエス様が聖霊が与えられる約束を、それを水に例えながら話をされています。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」と。

 そして、それが実現した出来事が、ルカによる福音書の続編とされる使徒言行録に記されています。

 「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」とです。

 聖霊、それは神様の霊の働きと説明もされますが、この日に初めてそれがあったわけではありません。厳密にいえば言葉遣いや伝承でいろいろな説明が加えられるかもしれませんが、わかりやすく考えるとこんなことが出てきます。天地創造の時に「神の霊が水の面を動いていた」と記されています。そして、マリアは聖霊によって宿った子を産み、それがイエスさまだという天使の説明がヨセフにありました。イエス様が洗礼者ヨハネに洗礼を受けたときにも天から鳩のようなものが降ってきたという記述もあります。

 このように、神様は霊としてこの世に降り、人類の救いにかかわってこられました。しかし、その一人子イエス様を送り、この方のご生涯と十字架による死と復活を通して神様の新しい救いの道が開かれた後に、信じるすべての人にこの神の霊が豊かに降り注がれ、働かれるようになったのが、今日の聖霊降臨の出来事と考えてよいでしょう。

3,振り返り 

 では、その聖霊の働きがあるとき、私たちの人生はどうなるのでしょうか。

 私は今日の週報や教会だよりを作るときに、鳩の写真を探しながら思い出した出来事がありました。

 それは、ボリビアに行った時のことです。チチカカ湖のある町から首都のラパスに行きました。その時、途中で湖を小さなフェリーで渡った時に、沢山の鳥がついてきて、みんなでびっくり、喜びました。それが、今日の教会だよりに乗せた写真です。実は鳩ではなくて、カモメの群れだったと思います。手を出せば寄ってくるし、船を追ってずっと何度も何度もおりてきて、ついてきてくれました。その時の写真をインターネットに載せたら、友人の牧師たちが「聖霊降臨やイエス様の洗礼の時に鳩がおりてきたという季節に教会の印刷物に使ったよ」と言ってくれ、喜んでくれていました。

 でもその時の出来事には、とても大切な思い出もあります。それはこうです。ペルーから飛行機を乗り換えて、ボリビアのラパスに行き、それからバスでチチカカ湖のある街に行きました。しかし、ラパスにカバンが届かず、荷物がなくなってしまったのです。調べてもらうと乗り換えの空港から別の飛行機に乗せられて今別のところにあるとのこと。「遅れて旅先のホテルに届けます」とのことでしたが、チチカカ湖のホテルには結局間に合いそうにないので、次の旅先のラパスのホテルに送ってもらうことにしました。富士山より標高が高い高地にある湖がチチカカ湖です。息が切れるから薬を買って飲みましたが、そこに滞在する数日は手荷物のリュックだけで不便に過ごしました。時々旅行にはあることなので仕方がないかとも思いながら、どうしてこんなことが起こるんでしょうか?と、神様に文句を言いながら祈ったりもしていました。しかし、その町からラパスに帰る長距離バスでその不満は、感謝に変わりました。それは、原住民の人たちの政府に対する抗議運動が理由で、バスが通れない区間があって、途中バスを降りて1時間以上歩くという予想外の出来事が待っていたのです。その道中、重い荷物をゴロゴロと押したり、背負ったりして歩くいろいろな国の外国人を見ながら、私たち二人はリュックひとつずつ。それも富士山くらいの標高の道路をぞろぞろと歩くのでした。私たちは、その時、「ああ、神様はこの時のために、荷物を送らないで、次の旅先で受け取れるようにしてくれていたんだろうか」と、勝手に解釈して喜んだのでした。途中、車が壊れて困っている人を助けてあげたりもする気持ちの余裕もありました。その道中の最後に、小さな湖を渡るときに、船の後を何度も何度もおりてきながらついてくる鳥の一群に出会ったのです。鳩ではないけれど、神様の聖霊の働きも、私たちを上から見て、何度も何度もおりてきながら、しつこいくらいについてきてくれるんだなと、しみじみと思いました。




4,勧め 

 モーセとともに奴隷状態から脱出して、荒野を放浪しながら神に会い、神様の掟をもらい、約束の自由の地への道を歩くユダヤ人たち。そして、それを思い起こすかのように、過ぎ越し祭の週に十字架にかけられ、三日目に復活し、40日間弟子たちに現れ、天に上り、過ぎ越し祭から50日目に聖霊が下ってきました。そんなイエス様の出来事を通して、洗礼を受けることによって、罪深い自分が死に、新しく生まれ変わる道を、備えてくださいました。

 例えば荷物が届かないで不満を神様にぶつけたように、うまくいかないこと、いやなことが起こることもあります。しかし、神様には、その人生の道のりを歩きやすくするために、先回りして起こしてくれたこともあるかもしれません。しつこいくらいに降ってきて、ついてきてくれる聖霊の働きを感じながら、神様と一緒に生きていきましょう。 


牧師コラム 鳥の一群と出会ったボリビアとは… 

ボリビアは、スペインの植民地から南米諸国を独立・解放してくれたシモン・ボリバルという人の名前からなづけられた国。海がない国なのに海軍があるのは標高3810mのチチカカ湖があり、他国と接しているから。首都のラパスは、「平和」という意味。国の面積は日本の3.3倍。日本人移民もその子孫も住んでいる市があります。そこに住んでいた教会員に聞くと、日本人集落には「回覧板」もあったそうです。豊かな天然資源のある国だが、ラテンアメリカ貧国の一つ。


2023年5月21日日曜日

説教メッセージ 20230521

 暑い日、そして雨と肌寒さを感じる日。いろいろ繰り返しますね。体調を壊された方も多いと思います。私も風邪気味でしたが、薬を飲んで、時間を見つけては横になり、何とか仕事をこなしました。日よけを作ろうと、ゴーヤやトウモロコシ、トマトにキュウリを植えました。太陽と雨の恵み、暑さと収穫の喜びを期待しています。さっそく、ツルが支柱やネットをつかみ始めました。天まで昇れ!と応援しています。今日は名古屋の復活教会で礼拝をします。高蔵寺は代読で礼拝が持たれます。YouTubeで中継しFacebookでもご案内します。教会か、ネットでお会いしましょう。今日は、昇天主日。天に上るか、地に降るか、傲慢か愛か、そんなことを考えます。日本にはいろんな国の首脳が来ていますね。ブラジルからも。どうぞ、平和を作り出すことができますように。お待ちしています。


 聖書の言葉 ルカ 24:44~53

44イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」 45そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、 46言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、 48あなたがたはこれらのことの証人となる。 49わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

50イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。 51そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。 52彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、 53絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。


説教 「天に上るキリスト」徳弘浩隆牧師

1,天と地…

「天にも昇る嬉しさ」という表現があります。天に昇るのは、この上もない喜びということを表しています。「天と地の違いがある」という言い方もあります。天は素晴らしく、地は素晴らしくないもの。「評判が地に落ちる」という言葉もあり、それは、まさにこれより下はないという最下位の状態を表しています。このように、「天と地」という言葉を私たちはよく使います。高層ビルもない時代、地面から見上げる高い建物や山は、手が届かない、神々(こうごう)しい方のおられるところでした。

聖書で言う「天」という表現も、高度何千メートルより上とか、大気圏のさらに上とか、そういう意味ではなくて、人知を超えた神様の、聖なる領域というように考えてよいでしょう。

先週末ニュースで見た映像は、世界各国から広島に国の指導者たちが降り立ち、世界平和と協調について話し合うためで、突如ウクライナからも大統領が来ることになり、この上もない平和を模索し作り出す機会にもなればと期待されるところでしょう。

しかし、その広島には、昔、争いのために飛行機が飛び交い、ついには、歴史上最悪の核兵器が天から降ってきて、多くの命が奪われたところでもあります。

人間は、神の言葉を破り、エデンを追放されました。善と悪を自分で決め、生きるようになったので、その自己中心のそれぞれの基準や利害が衝突するときに、いさかいや争い、戦争が起こるようになり、まだ、解決できない歴史を続けています。

もはや、この人類にとっては、天という神様の聖なる神々しい領域はなくなってしまったのでしょうか。

しかし、クリスマスには「どうぞ、天から降(くだ)ってください」と神の助けを祈ったわたしたちです。そしてそのように神でありながら人間としても生き、人々に教え、癒し、寄り添ったイエス・キリストが、この地上でのお役目を終えて、天に昇って行かれました。そんな日を、私たちは記念しながら、今日の礼拝で聖書を読んでいます。

2,聖書

 今日の聖書はこうです。十字架と復活の後、いよいよイエス様との最後のお別れで、今までのこととこれからのことを説明されます。旧約聖書の預言に従って、メシアは苦しみを受け、三日目に復活することになっていたこと。そして、それによって、罪のゆるしを得させる悔い改めが、その名によって、ここエルサレムからあらゆる国々の人に延べ伝えられる、と神様のご計画を説明されたのです。

 そして、あなた方はこれらのことの証人になるということ、高いところからの力に覆われるまでは、都エルサレムにとどまっていなさい、と命令されました。

 ベタニアのあたりまで弟子たちを連れてゆき、手を挙げて祝福され、そのまま天に上げられた、という出来事が伝えられています。

 今日の聖書の日課の使徒言行録の問答も注意深く読まなければなりません。使徒言行録は、今日の朗読の冒頭にもあったように、テオフィロという人に対してイエスキリストの出来事を整理して書き記して献呈しています。それは、ルカによる福音書の続編として書かれていると理解されています。

 今日朗読された福音書はルカの最後、そして最初に読まれた第一朗読がその続きとなっています。少し重なりがありますが、この二つをのりしろに沿ってつなげるような気持ちで読んでみなければなりません。

 イエス様は、復活後、40日間にわたって、彼らに現れ、神の国ついて話をされました。食事の時にこういわれます。「エルサレムにとどまっていなさい。父の約束されたものを待ちなさい」と。すると、何が起こるのだろうかと思った使徒たちは集まってイエス様に訪ねます。「主よ、イスラエルのために国を立て直してくださるのは、この時ですか」と。

 神様から特別な力をいただいて、いよいよ、自分たちの支配者や神の言葉を受け入れない人々に、「目にものを見せてやる」ときでも来ると期待したのかもしれません。しかし、イエス様はそのまま、彼らが見ているうちに天にあげられ、見えなくなってしまったのです。何とも、不思議であっけない、あるいみ期待外れのイエスさまとのお別れになってしまいました。

3,振り返り 

 死を滅ぼし、復活されたキリスト、そして、天に昇って行かれたキリストは、すべての勝利者だと、私たちはよく教会で聞きます。

 しかし、私たちは、勘違いしてはいけません。この言葉を聞いて、私たちはどう思うでしょうか。

わたしたちも、この勝利者キリストに選ばれ、救われたものだから、私たちも価値があるものとされ、天にも上げられる素晴らしいものになったと、そんな風に思うことはないでしょうか。それは、ある意味正しくて、ある意味間違っているともいえるでしょう。

 上の絵を見てみてください。子供向けの昇天主日の教材です。塗り絵ができるようになっています。そして、上下二つの絵は、間違い探しにもなっています。

しばらく見てみてください。そこに実は、今日のメッセージの大切なことがあると思うからです。小さな字ですが、「6つの違いがあるよ」と書かれています。一つはイエス様の手首、そしてあと3つは弟子たちの数です。栄光の勝利者で天に上る力にあふれた王様ではなくて、十字架で釘打たれた跡があるかないか。そして弟子の数や小さな子がいるかどうかです。

 それは、信仰を持っていけば何もかも成功し、苦労はなくて、自分をいじめる人や、目の前の苦労が全部なくなって、勝ち誇れると思ったら大きな間違いだということ。手にも足にもわき腹にも傷を負い、それは裏切られ捨てられた苦難の跡です。それでも人を愛し赦しておられた方だというところに、神様の愛を見つけ、多くの人を悔い改めに導かれたのです。弟子の数は、小さな子どもがその中にいるかどうかは、見ていたはずの自分が逃げていないか、何もできないちっぽけな自分も、その中にいるかどうかということを、問いかけられているようにも思えるのです。

4,勧め 

 敵を、自分を苦しめるものを、より大きな力でねじ伏せることではなくて、愛し、許してあげ、自分がボロボロになってでもそれを貫くなら、本当の回心と和解が起こり、平和が実現するはずだというイエス様のメッセージです。

 そいう言意味では、「力による勝利者」で、天に上る、上昇志向の教えてはなくて、天から降り、裏切られ、命さえ奪われたけれども、最後まで愛と信仰を捨てなかった、「愛と信仰による勝利者」だったということを、学びましょう。それを受け入れてキリストに従って生きていくということが、洗礼ということです。

わたしたちもその通りに生きることは、現実問題としてはむつかしいこともあります。しかし、天を見上げ、祈り、進んでいきましょう。 


牧師コラム 

「昇天」と「召天」のちがいは…、あれ「被昇天」もあるけど… 同じ発音なので混同したり、変換ミスもすることがありますね。イエス様が天に昇られたのは「昇天」、私たちが死んで天に召されるのが「召天」と書きますね。カトリック教会ではマリアが天に挙げられたということで、「被昇天」と使い分けますね。教会では、死は、体が滅びても、たましいが神様のもとに帰ると考えます。


2023年5月14日日曜日

説教メッセージ 20230514

 聖書の言葉 ヨハネ 14:15~21

15「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。 16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 

17この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。

18わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。 19しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。 20かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。 21わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」



説教 「『さようなら』と『Good-bye』の違い」 徳弘浩隆牧師

1,突然のお別れ…

今日の聖書は、先週の聖書箇所に続いて、イエス様がお別れについて話されているところです。人生には出会いと別れがあります。予定していたお別れと、そうではない突然のお別れもあります。

私もそれを先週考えさせられました。

一つは、私の父のことです。一昨年母が倒れて、後遺症が残り家での生活がむつかしくなったので老人施設に入りましたが、一人暮らしが続き父も認知症が進み難しいことが増えてきたので入院しています。先日東京で全国総会の折に病棟から電話が何度もあり、父が吐血したけれど今後どうするかという問い合わせがありました。父の意向と、それを理解した私たちの考えで、認知症もさらに進み老衰に近いくらいに弱くなったらもう、延命措置はしないで送ってあげるよう、書類にサインしていました。そんなこともあったので、他の病院で検査入院したり手術をしたりするかこのまま過ごすかという問い合わせでした。私は戸惑いました。もっと先の話なら無理をさせないようにと思っていましたが、こんなに早くそれを判断する日が来るとは、と思ったのです。まだ、入院したばかりだし、孫の結婚も決まりかけているタイミングで、まだ少し待ってほしいと思いました。それで、吐血後一週間近く絶食して点滴だけでしたが、ようやく検査の予約も取れたので、親族の立ち合いと判断がいるからといわれ、急ぎ行ってきました。一日かけた検査の結果、まだ急を要する状態ではないのでと、元の病院に戻ることができました。

もう一つは、教会メンバーの急なお別れです。私が父のもとに新幹線で向かう途中に電話があり、「母が急に倒れてなくなり増した」ということでした。教会の古くからのメンバーで、元気に教会に通い続け、この日曜日もオルガンを弾いてくれる予定でした。先日も教会の片づけを遅くまで手伝ってくれ、「じゃ、また来週ね」と大きな声であいさつをして、別れたばかりの方。あっという間に旅立ってしまい、私も名古屋へ帰った後、そのままご遺族とお話やお祈りをし、また葬儀の最終の打ち合わせをしました。昨日、告別式をして、お別れしてきたところです。

先週私はこれら二つのことに出会い、お別れについてしみじみと考えさせられました。

今日の聖書は、イエス様がやがて来る十字架と、お別れについて弟子たちに話しているところです。どんなことをイエス様は言い残されたのでしょうか?聖書から一緒に聞いていきましょう。

2,聖書

 イエスさまと弟子たちのお別れは、突然のことではなく、前もっていろいろと説明をされていました。しかし、その意味が分かりにくくて、あまりにも彼らの期待とも違っていて、予告されてはいたけれども、戸惑い、理解できないものでもありました。

 私たちはもう知っていますが、それは、人々や弟子たちさえも期待していたように、イエス様が国を立て直すために王様のように君臨していくのではなくて、人々から裏切られ、捕らえられ、十字架に掛けられて死んでいくというものでした。

 苦難の道をイエス様は何度も予言されていましたが、そうあっては欲しくないという気持ちもあってか、弟子たちはそれを理解していませんでした。

 そんな彼らに、イエス様は予告しました。私が行く道をあなた方は知っている。その道によらなければ、あなた方は救われることができないし、神様のもとに行くことができないのだ、と。先週の聖書の個所で、「私は道であり真理であり命である」、と言われたのです。

それに続いて、今日の話では、「お別れになるけれども、決して『みなしご』のようにはしておかない」と、「自分が不在になった後には、神様が聖霊を送ってくださり、いつも守り導いてくれる」と、約束されているのです。

「別の弁護者」、つまり別の助け手を送ることを約束されました。有名なので何度かお聞きになったことがある言葉かもしれませんが、日本語の翻訳は「弁護者」という訳ですが、ギリシャ語はパラクレートスといい、その直訳は「助ける人」という意味です。最近の分かりやすい言葉への翻訳では「助け手」であり、英語では「Helper」とさえになっています。このヘルパーさんは、永遠にあなた方と一緒にいてくれる真理の霊であり、その霊の中にあなたはいるし、あなたの中にこの霊はいてくれるのだ、と約束されました。 

3,振り返り 

 私たちは、お別れの際に、どんな言葉を使うでしょうか?今日の説教題は、「『さようなら』と『Good-bye』の違い」となっていますが、その辺に今日の聖書のメッセージがあると思わされました。

 外国語を勉強するときに、英語ではグッドバイだ、と教えられます。しかしその深い意味はあまり考えません。そもそも、日本語で、「さよなら」の意味も、私たちはあまり考えずにもうそれぞれ、数十年使っています。私も外国語をいくつか学び、日本語を外国の方に教えるようになって気づかされることがたくさんあります。

 「さようなら」の語源はこうです。古い日本語で、「さよう」という言葉があります。そのようにという言う意味ですね。「さよう・なら」というのは、「そのようなことだったら」という意味です。つまり、「別れたくないのだけれど、どうしても行かないといけない。そのようなことだったら、仕方がない。しばしお別れです。お元気でお過ごしくださいね」というような、名残惜しさを何とか受け入れる意味の言葉でした。

 それに対してグッドバイは、いくつかの説があるともいわれますが一番有力で有名な理由はこうです。〔16世紀の終わりに、"God be with you."に当たる"God be with ye."の省略形であるgodbwyeから。〕つまり、神様が一緒にいてくださるように。という言葉でした。

 スペイン語やポルトガル語では、AdiósやAdeusといいますが、これは、aという、~へという言葉と、神様という意味のDiosやDeusが一緒になった言葉です。「神様へ」という意味で、「あなたを神様にお任せしましたよ」という神様の守りや運命にお任せする祈りの言葉から来ているそうです。

 イエス様の弟子たちへのお別れの言葉は、さようならのように名残惜しさを伝えるだけではなく、神様がいつも一緒にいてくれる、神様にすべてをお任せするよ、という意味、それぞれが含まれているように味わうことができるのです。

4,勧め 

 私たちもイエス様のその言葉の意味を味わいましょう。そしてそれは、ただ、味わうだけではなくて、そこに込められた意味を生きることが大切です。

どんなことがあっても、神様がともにいてくださる。神様の御心にお任せする。そして、その真理の霊が助けてくれる、つまり、聖霊が送られることをも意味しています。

私たちは、それらを受け入れ、信じて、神様の霊とともに、神を愛し、人を愛する生き方をしていくことを始めました。それが、洗礼を受けて新しくされるということです。そんな生き方を大切にして、教会で一緒に生きていきましょう。 


牧師コラム 各国語での別れの言葉は…

ついでにいくつか、それぞれのもともとの意味を調べてみませんか?

英語でグッバイ/GoodBye。スペイン語でアディオス/Adiós、ドイツ語でアウフ・ヴィーダーセーエン/Auf Wiedersehen、フランス語でオゥ・ホゥヴァア/Au revoir、イタリア語でアリヴェデルチ/Arrivederci、中国語(北京語)でツァイジェン/再见、アラビア語でマアッサラーマ/مَعَ ٱلسَّلَامَةِ (「平安とともに」という意)、ギリシャ語でヤーサス/ειά σας(「健康に」という意)、ポルトガル語でチャォウ/Tchau、インドネシア語でスラマッ ティンガル/selamat tinggal


2023年5月7日日曜日

説教メッセージ 20230507

コロナがようやく縮小し今までの生活に戻りつつありますね。でももう一つのコロナが始まりました。いえ、Coronationが昨日あったという事です。Coronaは王冠を意味しますから、Coronationは戴冠式の意味ですね。この世の王の新しい道、それと聖書が教えるキリストが「道であり真理であり命である」という言葉が重なって心をめぐります。聖書の教えを一緒に聞いてみませんか? 明日は名古屋の復活教会での奉仕です。Youtubeで中継しますが、Facebookでもご案内します。いずれかの方法でお会いしましょう!お待ちしています。 

聖書の言葉 ヨハネ 14: 1~14

1「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。 2わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。 3行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。 4わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」 5トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」 6イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。 7あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」 8フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、 9イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。 10わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。 11わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。 12はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。 13わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。 14わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

説教 「わたしは道、真理、命」 徳弘牧師 

1,Corona(コロナ)の終わりとはじまり、Coronation(コロネーション)…

長い間のコロナ禍もようやく下火になり、WHOも非常事態宣言を解除しました。日本でも法律的位置づけがもうすぐ変わりますし、色々な制限はすでに解除され始めています。全国総会で東京に行き、東京教会周辺のものすごい人出で驚きました。

「ようやくコロナも終わりか…」と思うところですが、実はもう一つの「コロナ」が昨日始まりました。

というと、少しセンセーショナルですが、Coronationという見出しのニュースが多くありました。それは、病気のコロナではなくて、「戴冠式」の事です。もう、お分かりの通り、5月6日の日本時間の夜、イギリスのチャールズ国王の戴冠式がありました。英国国教会系列の日本聖公会では大変に気にする行事でしょうが、私たちはさほど関係はありません。しかし、この二つの「コロナ」という言葉が心に残りました。Coronationというのは、英語では「戴冠式」という意味なのです。「Coronaする」とでもいう名詞、つまり「王冠をかぶせること・その儀式」という言葉になるでしょう。前にも話しましたが、コロナウイルスは顕微鏡で見たその形が、「王冠」に似ているから名付けられたそうです。

世界を恐怖に落とし込んだコロナウイルス、そして一時世界全域をすら支配しようとした国の新しい王様の王冠、そして、イエス様の教え、それらの違いを、聖書から一緒に聞いていきましょう。

2,聖書

 今日の聖書は「私は道であり、真理であり、いのちである」というキリストの有名の言葉です。キリストが、やがて来るご自分の受難を弟子たちに説明する場面です。簡単に言うと、「しばらくするとお別れになるけれども、心配しなくてもいい」「私がどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と言われると、弟子のトマスは心配で尋ねます。「どこへ行かれるのは私たちにはわかりません」と。それに応えて、キリストが答えられたのです。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」と。

 この道は、輝かしい「栄光の道」でしょうか?弟子たちや多くの群衆はそれを期待しました。「イエスさまこそ、神が送られたメシア・キリストで、文字通り『王様』になって、この国を独立させてくれる。憎きローマ帝国を滅ぼし、自分たちは世界でこの王者とともに自由を得て君臨する」とも。

 しかし、この王・キリストは、この世の人々が期待するような「王様」ではありませんでした。立派な戴冠式をして、きらびやかな衣装に包まれ、君臨し、敵を滅ぼしたのではなく、その「道」は、苦難の道のりだったのです。それは、裏切られ捨てられ、十字架の上で命を落とすという、一見すると敗北者のようでした。その成り行きを見ながら、彼のもとを去った人たちが多くいました。ユダは裏切って、その居所を逮捕したいローマ兵に伝えもしました。

 この方が行かれた道、そして教えられた道は、どういう意味を持っていたのでしょうか。

3,振り返り 

 もう、多くの方がご存じの通り、キリストという言葉は「救世主」と訳され理解されますが、そもそも、「王様」のことを表していました。ギリシャ語で「油を注がれたもの」という意味から来ています。そして、この言葉の元は、おなじみの「メシア」という言葉で、これはヘブライ語で「油を注がれたもの」という意味です。なぜ油を注がれるかというと、旧約聖書の時代は、イスラエルでは王様に「油を注ぐ」という儀式で戴冠式のような任命式・聖別式が行われていたことに由来しています。

 昨日の戴冠式の中継を見ました。英国国教会のサイトではその礼拝の式次第も掲載されていました。印刷してあるので、あとで興味ある方はご覧ください。

 カンタベリー大主教という、宗教改革で独立する前でいえば教皇のような立場の人がその戴冠式を司りました。礼拝では、6世紀に作られたという古い聖書がうやうやしく運ばれ、コロサイ書1.9-17、ルカ4.16-21等が読まれ、説教が始まりました。王様の戴冠式での説教の冒頭はこうでした。「キリストは仕えられるためではなく、仕えるために油注がれたのです」と。「油注がれる」とはまさに、「王にする」という意味でしょう。そして、儀式の中でも心に残る言葉がありました。由緒ある剣が渡される時に「この剣は、裁きではなく正義の、力ではなく慈悲(愛)の象徴です。霊の剣である神の言葉にいつも信頼しなさい。」と。イギリスという国や英国正教会が立派で素晴らしいと言いたいのではありません。儀式は16世紀から同じようだといわれますが、こういうコメントまで同じだったかどうか知りません。しかし、この言葉がとても大切なことだと、心にしみます。

 なぜなら、キリストの教えから遠く離れ、キリスト教会は多くの過ちを犯してきたからです。教会の教えと権威のもとで戴冠式をし、「日の沈まない国」と世界各地を制覇していた、かつてのスペインやポルトガルと、それにとってかわった英国もです。

 結局のところ、この世の王は、権力と財力で、愛ではなく力で支配をし、「布教」という名で他の宗教や民族・文化を滅ぼしても行きました。戴冠式の後、ロンドンの街に馬車で出行くとき、BBCのアナウンサーは「こうして、王としての道が始まります」でした。

 対して、キリストの言われる「道」はどんな道でしょうか。それが今日のポイントです。

 それは、力と財と兵力でイスラエルを独立させ、その後、世界を支配することではありませんでした。「苦難の道のり」でしたし、身代わりの十字架の道でした。しかしそれは「敗北」ではなくて、「この世の悪・罪」に対する「勝利」でした。この、神の本当の愛の犠牲の死を知るときに、彼を死に追いやってしまった弟子たちや兵士、群衆でさえ、人間の恐ろしい罪の心に気付き、回心させられていったからです。

力による抑圧と支配ではなくて、愛と犠牲による「ご支配」だったのです。それが、「道」でしたし、それが神様の「真実」・「真理」であり、私たちの本当の意味がある生き方としての「命」だったのです。

4,勧め 

私たちは、その道を知り、真理に目覚め、本当の意味ある命を生きているでしょうか?

 戴冠式の前の説教の前の大主教の言葉も印象的でした。「キリストの王冠はイバラで出来ていました」と言われました。

 私たちも、名声や権力や財産が欲しいものです。しかし、その全く反対の道を行かれたキリストを見つめ、愛があり、命があるものへと変えられていきましょう。戦争もやめらない罪びとの集まりの世界です。この国の王様にも、神の本当の愛と、道のりが理解され、ますように。私の歩む道のりも、悔い改めと、ゆるしと愛と奉仕の道のりになりますように。そうするなら、私の周りから、神の国が始まるのです。ともに学び、祈り、歩みましょう。 


牧師コラム Coronation 戴冠式を見て思う事…

イギリスの新しい国王の戴冠式。王政廃止のデモもあり、被支配国の苦難の歴史も思い出さされます。しかし、戴冠式の聖書の言葉と、牧師の言葉はふさわしく、素晴らしい面もありました。そのように、愛を持って生きられますように。「キリストは仕えられるためではなく、仕えるために油注がれたのです」「この剣は、裁きではなく正義の、力ではなくて、慈悲(愛)の象徴です。霊の剣である神の言葉にいつも信頼しなさい。」「キリストの王冠はイバラで出来ていました」と。


説教メッセージ 20250330

聖書の言葉 ルカ15: 1~ 3,11b~32 (新138) 15: 1徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 3そこで、イエスは次のたとえを...