2022年11月27日日曜日

礼拝案内20221127

 今日は、アドベント第一主日ですね。クリスマスの心備えをしましょう。

礼拝の説教は、今日はDavid神学生です。そして、こども祝福式もあります。

礼拝は、徳弘牧師のFacebookで中継をいたします。徳弘 浩隆 | Facebook

どうぞ、お待ちしています。

2022年11月20日日曜日

説教メッセージ 20221120

 今日は、一年の最後の日。教会のカレンダーでは、来週から新しい一年が始まります。どんな年でしたか? 今日も一緒に神様の声を聴きましょう。今日は、名古屋の復活教会で礼拝を担当します。高蔵寺教会では、私の説教を信徒の方が代読してくださり、礼拝を共にします。Facebookで中継の予定です。今日も、よろしくお願いします。

説教 「今日わたしと一緒に楽園にいる」 徳弘浩隆牧師

1,「 一緒に楽園にいる…」

今日は、いよいよ、教会のカレンダーでは一年の最後の日になりました。週報をご覧になってお分かりのように、「聖霊降臨後最終主日」となっています。また、「永遠の王キリスト」を祝う主日でもあり、そのことも記されています。今日の説教題でもある「私と一緒に楽園にいる」という言葉が心に残ります。

少し不謹慎ですが、私は二つのことを思い出します。一つは大学生の時大阪の豊中市に住んでいた時のことです。阪急電車に乗ってアパートのある駅から大学のある駅に行くとき、「三国(みくに)」という駅を通りました。私はここを通るときにいつも、主の祈りを思い出しました。「御国(みくに)が来ますように」という祈りの言葉です。もちろん漢字も意味も違いますが、苦笑いしながら、主の祈りを祈ったものです。ちなみに、そのまま地下鉄に乗り換えると、谷町四丁目駅では、「鐘の鳴るチャペルのあるホテル、ホテル・ザ・ルーテルは次でお降りください」という宣伝のアナウンスを聞いていました。そのころはまだルーテル教会には通っていませんでした。

さて、次は「楽園にいる」というイエス様の言葉です。ブラジルにいる頃の話ですが、ポルトガル語で楽園はParaiso(パライゾ)といいます。英語で言えばパラダイスのことです。実は、日系ルーテル教会の隣の地下鉄駅がこの、パライゾという駅でした。いつもここを通るときに、イエス様の今日の言葉を思い出しました。ポルトガル語の聖書は「あなたは今日私と一緒にパライゾにいる」となっていて、イエス様とパライゾ駅で待ち合わせしているようにも、読めるからです。苦笑いをしながら、「キリスト共に、パライゾ駅でも、楽園にでも、いることができたらいいなぁ」と思いました。

さて、この聖書の言葉は、イエス様が十字架上で息を引き取られる直前の出来事です。これは、3月頃のレント(四旬節)のころ読まれる場所でもあります。ですから、少し季節外れの感もあるかもしれません。

しかし、いかにも、今日のために大切な場所ともいえるでしょう。どんな意味と、今生きている私に、どんなメッセージがあるのでしょうか?一緒に聞いていきましょう。

2,聖書

キーワードは次の二つで、それを見るとわかります。

1) ひとつは、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」ということば。

2) そしてもう一つは、一緒に十字架にかかっていた犯罪者二人の言葉と、イエス様のお応え、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」  という事になるでしょう。

イエス様が裏切られ、人々と罪を背負って十字架にかかられたときの問答です。

ユダヤの人々はメシア、つまり油注がれた、王様ともいえる「救い主」を待っていました。それを信じてイエス様に従った人々が増えてきました。しかしその中には、力と権威、武力すらある力強い「王様」を期待し、抑圧するローマ帝国からの独立も願う人々もいました。しかし、イエス様の教えは、力と財力をもって、敵対勢力を武力で打ち負かして君臨する王ではありませんでした。反対に、弱い者や貧しいもの、絶望するものに寄り添ったからです。力による屈服の王様ではなくて、愛とゆるし、敵さえも愛するという事によって、自分の罪深さを思い知らされ、謙虚になるという、この世の常識とは全く逆の王様の姿だったのです。

今日取り上げた聖書からの一つ目の言葉は、ユダヤの議員たちが、その神の教えを理解できずに、期待外れだったことで、あざ笑う気持ちで、言った言葉でした。「お前が王うなら、自分を救え」と。しかし、「イエス様は、王でした」というのが今日の「永遠の王キリスト」を祝う主日の一つのテーマでもあるのです。それは、力による屈服と支配ではなくて、神の愛による悔い改めを通して自主的に従ってきて、他者にも愛で仕える人々が占める国、そんな天の楽園・神の国の王様なのだという事です。去年の今頃のアドベントから始まった一年で、イエス様のご生涯や言葉を学びながら一年を過ごして、その最後の日に、神様の救いのご計画が実現して、脅しと力によるこの世に国や王様ではなくて、本当の神の愛による国と王様の出来事が達成したという、一年の締めくくりでもあります。

さて、どうしたら、そのゆるしと救いをいただいて、神の国に入れていただくことができるのでしょうか? それが、今日取り上げた二つ目の言葉に至るやり取りから学ぶことができる、今日のメッセージです。

人々の罪を背負って十字架にかけられるイエス様の右と左に、二人の犯罪者が十字架につけられていました。彼らの言葉はこうでした。一人は、同じように、「お前はメシアなら、自分自身と、我々を救ってみろ」というのです。先ほどの議員たちのあざけりは、「自分を救ってみろ」でしたが、この犯罪者はそれに「この自分をも救ってくれよ」と付け足しています。しかし、もう一人の犯罪者は違いました。「何を言っているんだ」という具合に、「この人は何も悪いことをしていないんだ。」とたしなめ、イエス様に対して「あなたの御国においでになるときに、私を思い出してください」と言ったのです。

ここに、死ぬ間際の、ぎりぎりの時に、神様のみこころを知り、自分の罪の当然の報いの自分の十字架の死を受け入れ、イエス様にあわれみを願った一人の人の、救われていく出来事が起こったのでした。

3,振り返り 

一年ももう終わります。家庭で、社会で、それぞれ一年過ごしてきました。また、教会では、一年のサイクルで一緒に神様と過ごしてきた私たちです。どんな終わり方をしているでしょうか?

最後まで、不満だらけですか?「神様に期待し、祈ってきた。奉仕もそれなりにやってきた。でも、思いどおりじゃなかった」と期待外れや、自分がうまくやれなかったという後悔などもあるかもしれません。

でも、まだ今週一週間あります。自分の罪のゆえに十字架につけられた人が、イエス様を責めます。しかし、もう一人は、それをたしなめてイエス様に憐みを請いました。最後の瞬間でした。私は、どちらでしょうか?

神様を、または、運命を恨み、それのせいにして、不満ばかり言っている自分がいるかもしれません。思い通りにいかなくて、失敗に疲れて、元気がなくて、何ももう言わない自分がいるかもしれません。

でも、今日の聖書は伝えています。人生の最後の瞬間にでも、キリストを受け入れて、赦し救われて、神の御国、楽園に入れていただく恵みのチャンスを神様は約束されているという事を。

 4,勧め

 大阪の三国(みくに)と、サンパウロのパライゾという駅の名前で、苦笑いをし、ふと、祈らされていたという私の話から始まりましたが、神様は、「御国」に、そして「楽園」に、ともにいることを約束されていました。

それには、この世の権力や力という事ではなくて、私も、愛とゆるしの気持ちに立つときに、約束されている出来事なのです。それを、十字架の死をもって現わしてくださった方がイエス・キリストでした。そのとき、安心と平安が来ます。私の心に、神の国が始まるのです。一緒に生きていきましょう。そんな神様とともに。


2022年11月6日日曜日

礼拝説教・メッセージ

教会では昇天者記念礼拝の季節です。高蔵寺教会では先週致しましたが、今日は復活教会で昇天者記念礼拝と通常の礼拝を合わせた形で行います。また、復活教会は登録文化財指定されている歴史的建築物ですから名古屋市東区主催の「歩こう文化のみち」イベントにも参加していますので、教会の建物についても少し考えましょう。Facebookでのライブ中継はWi-Fi次第ですが、もしできない場合は、夜にはYoutubeに掲載してこのブログにも掲載します。よろしくお願いします。

聖書の言葉  ルカ20:27~38 (新150)

20: 27さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。 28「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。 29ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。 30次男、 31三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。 32最後にその女も死にました。 33すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」 

34イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、 35次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。 36この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。 37死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。 38神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」




説教 「神の子として生きる」 徳弘浩隆牧師

1,今日はなんの日? 

今日は、聖霊降臨後第22主日です。キリスト教の教会の独自のカレンダーでは今年は今日を入れてあと3回の日曜日で終わっていきます。それにあった聖書の個所を、高蔵寺教会と復活教会で読んでいきます。また、復活教会では、昇天者記念礼拝として先に亡くなった愛する兄弟姉妹を記念する礼拝でもあります。そして名古屋市東区主催の「歩こう文化のみち」という歴史的建造物を訪問して回るなかでの教会の建築や歴史の中におけるキリスト教会の意味などを一緒に考える礼拝になりました。

聖書では、死後の世界と今の人生についてのイエスキリストへの問いかけと問答が選ばれていて、今日のためにふさわしい場所になっています。つまり、一年の終わり、人生の終わりと人生の意味、死後のこと、それらすべてを守り導かれる神様、その方との出会う場所としての礼拝とその場所としての教会について考えさせられます。そしてそれらを一緒に学び考えながら、今を生きる私たちへの神様のメッセージを一緒に聞いていきたいと思います。

2,聖書

今日の聖書は、むつかしい問答になっています。しかしこれは、ふつう起こりそうにない無理な状況を持ち出してイエス様に質問をして困られてやろうという意図から始まっています。

なぜかというと、今年一緒に見てきましたが、ルカによる福音書は大きく3つのパートに分けられ、19章の途中から第3幕ともいえるクライマックスに入ります。それは、1)導入とイエス様の働き、2)エルサレムへの旅路、3)エルサレムでの最後の週となっています。

ここでは、有名な宗教指導者と目され弟子もたくさんになったイエス様がいよいよ、政治と宗教の中心地・エルサレムに入ってこられました。そのような時の権力者たちはイエスキリストの評判が気に食わないので失脚させようと早速、問答を始めました。20章1節で祭司長や学者たちは権威について問いかけ、20節では自分たちを支配抑圧するローマ皇帝への税金や献金について質問して罠にかけようともしました。しかし、イエスキリストの知恵あるお答えで、この策略はうまく行きませんでした。そこで、今日のサドカイ派の登場となります。

この、サドカイ派の人々は大祭司や役人たちなどユダヤ社会の最上の階級に属するグループでもありました。エルサレムの神殿はサドカイ派などで、各地方のシナゴーグは主にファリサイ派が指導していたとも考えられています。サドカイ派は宗教的にはモーセ5書、つまり旧約聖書の最初の5つの部分しか神の言葉として受け入れ、その後の伝承や細かな規定は受け入れませんでした。モーセ5書には死者の復活についての言及がないので、それを信じず、もし復活があるなら、再婚した人たちは復活後の世界でだれの妻になるのかと、むつかしい質問をしたのでした。それは、復活を否定すればファリサイ派などを否定することにもなる、答えの出しにくい問いでした。

しかし、イエス様のお答えは明快。一言で言えば、「この世とは違う、めとったりとついだりしない、もはや死もない、天使に等しいもので、神の子なのだ」という事でした。そして、使者の復活に対してはサドカイ派の人にわかりやすいように、彼らが大切にするモーセの場面を引用しながら、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼んでいるとして、地上を生きているときに導き守る方、死せる者も生ける者もすべてその手に収めておられる方、として「すべてのものは神によって生きている」とお答えになりました。

3,振り返り 教会の形と墓地について

さて、教会を見てみましょう。そこにはいろいろな信仰的な考え方を根拠にした様式があります。

古くから教会は、上から見ると十字架の形に作られる様式が多くありました。ヨーロッパの有名な教会などはGoogle Mapで衛星写真に切り替えるとくっきりと十字架が見えてきます。見てみると面白いですよ。私たちの教会は、十字架型ではなくて長方形ですが、これは後の時代の一般的な教会の形になってきました。

そして、教会の聖壇の向こう側や脇に墓地を配置することも多くありました。それは、正面の祭壇やキリストの最後の晩餐の食卓をも意味する聖卓を挟んで、こちら側に生きている私たちが、そして反対側には先に召された人々が足をこちらに向け埋葬されているのです。十字架を挟んで生きた人と死んだ人が向き合う格好になっています。それはつまり、終わりの日にキリストがもう一度来られて、死者も復活したときに、信仰をもって召された者たちが墓から復活して起き上がれば、十字架を見上げることができる構図なのです。

4,勧め

 今日は、どんな気持ちでここにお集まりでしょうか? 昔のように広い場所に町の中心として建てることができなくなった今、教会の聖卓の向こう側に墓地を配置することは難しくなっていますが、この十字架を見上げるときに、その向こう側に、先に天に召された愛する家族や先人たちがいることを思い起こしながら、礼拝をしていきましょう。

そして、「神の子」として生きるときに、生も死も実は関係ないのだという事です。この世の難しい問題や人生の悩みも、神様を見上げて、お任せすること。そして、人と人が互いにゆるし愛し合うときに、神様の世界は始まっているのだという事も思い起こしましょう。死後の世界で天国に行けるかどうか?の問よりも、今生きている中で、安心の平和な人生が送れるかどうか、そこに注目したいと思います。キリスト教会は、立派な正しい人の集まりではなくて、罪をゆるされた不完全な罪びとの集まりです。そして、キリストの十字架によって「神の子」とされたものです。そんな安心の人生を一緒に始めませんか?

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牧師コラム・ちょっと宣伝 ルーテル復活教会では名古屋市東区の行事「歩こう文化のみち」にも参加した諸イベントを開催中です。ルーテル高蔵寺教会では「るうてるフェスタ」として世界の料理も楽しめるバザーふうのお祭りをします。どちらもどうぞ、お誘いあわせの上、お出かけください。


説教メッセージ 20250330

聖書の言葉 ルカ15: 1~ 3,11b~32 (新138) 15: 1徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 3そこで、イエスは次のたとえを...